理沙は階段から落ちて頭を打ったこともあり、大事をとって数日間学校を欠席していた。
 そして、今日は久々に登校する。なにがなんでも俺が彼女を守らねば。しかし、悲しいことに俺との記憶だけ失ってしまった。
 だから彼女は、俺が毎日公園で待ってることなんて知らない。でも、それで良い。生きていてくれただけで十分だ。
 彼女が休んでいた数日間で、俺はようやくそう思えるようになった。

 いつもと同じ朝を過ごし、同じ時間に家を出る。そして同じように彼女を待つ。彼女が近づいてきて、俺が笑顔で挨拶をする。ここまでは変わらない。問題はその後から。

「おはよう、理沙」
「おはようございます。……誰かと待ち合わせですか?」

 あぁ、やっぱり記憶は戻ってないか。

 どうしても淡い期待を拭いきれない自分が愚かだ。
 そんな俺を、彼女は不思議そうな顔で見つめて首を傾げる。そして取り繕うように笑顔で話した。

「いつも理沙と登校してたから、つい癖で待ってたんだ。俺、昔から『理沙』って呼んでるんだけど、嫌かな? 石田さんの方が良い?」
「そうだったんですね。待たせちゃってごめんなさい……。理沙で大丈夫ですよ。私は、舞ちゃんのお兄さんのこと、何て呼んでたんですか?」

 「舞ちゃんのお兄さん」かぁ。そうなんだけどさ、切ないよ。

 切なさを押し殺し、笑顔で答える。
 
「……山井大佑だから、ずっと『大ちゃん』って呼んでた。もし呼びにくければ、山井でも大佑でも良いから」

 彼女は顎に手を当て、少し考えていた。そして、閃いたようにニコッと笑って言う。

「じゃあ山井くんって呼びます」

 はい、大ちゃんから山井くんに格下げ。俺、もう泣きそうだ。

「……うん、じゃあ同い年だし、せめてタメ口で話して! 敬語で話されると、ちょっと悲しい」
「敬語だと悲しいですか? じゃあ、タメ口で話しますね」
「うん、まだ敬語だけどね」
「ごめんなさい。いきなりタメ口って難しくて」
「無理しなくて良いよ。少しずつで」
「ありがとうございます」

 戻れるなら、俺を忘れる前に戻りたい。でも、そんなこと言ったって無駄だろ? 
 それなら好きになってもらうしかない。今度は幼なじみとしてではなく、異性として。

 理沙と並んで歩きながら学校へと向かう。
 小さい彼女の歩幅に合わせて歩く。進行方向から自転車が来たら、チャンス。守るフリして理沙に近づけるから。
 こんな下心ありありの自分が嫌になるわ。

 期待と悲哀と自己嫌悪で、俺の胸は埋め尽くされる。
 いつもより長く感じた通学路だった。でも俺は、どうしても彼女とのつながりがほしくて、別々の方向へと歩き出す前に言った。

「あのさ、明日も今日と同じ公園で待ってても良いかな……?」

 かなり勇気を振り絞って言った。彼女は少しうつむき、恥ずかしそうに答える。

「じゃあ……、明日はお待たせしないように頑張ります!」

 彼女とのつながりを作れてホッとした。そして、俺達は別れて教室へと歩き出した。

 つながりはできたが、課題は山積みだ。
 大きなため息をつきながら、自分の席に着いた。すると、尚人が近くに寄ってきた。

「委員長、そんなでっかいため息ついてどうした? 例の彼女のことかい?」

 そうだ、尚人には好きな人がバレてるんだった。俺は全てを話し始めた。

「うわぁ、悲惨。五年片思いしても両思いになれず、挙げ句の果てに自分だけ忘れ去られるなんて……。俺なら、これを機にその子をキッパリ諦めるね。知ってる? 大ちゃん。女の子って、ごまんといるんだよ」

 こいつのように潔く諦められたら楽なのかなぁ。何で理沙なんだろう……?

「お前は良いよなぁ……」

 俺の心の声が漏れた。

「えっ、秀才が俺を羨ましいって? そうだろ、そうだろ。実はバイト先に可愛い子が居てさぁ、今度一緒にご飯行くんだけど、大ちゃんも行かない?」
「行かない」
「冷たい! さっき羨ましいって言ったのに」
「いや、一言も言ってないけど」

 俺は淡々と話しながら、あることを思った。相澤より尚人の方がよっぽど女たらしかも知れない……と。

「山井くん、委員会のことで話があるんだけど、良いかな?」
「あぁ」
「おっ、瑠美ちゃん、今日も可愛いね」

 尚人のテンションに困惑し、塩対応の遠野。

 委員会の話って何だ?

 俺達は教室を出て、渡り廊下に来た。遠野は窓の外から中庭を眺めて黙っている。そこで俺が彼女に問いかける。
 
「委員会の話って何?」
「ん? 無いよ」
「えっ?」
「だから、話なんてないの。森田くんが鬱陶しいみたいだったから」
「あぁ、それはどうも」

 遠野は、心配そうな表情で言った。

「ねぇ、さっきの話、聞いちゃったんだけど……。理沙ちゃん、山井くんのこと忘れちゃったの?」
「あれね。うん、本当」
「そうなんだ……。森田くんみたいに諦められたら良いけど、そんな簡単には無理でしょ?」
「そうだなぁ」

 俺も遠野の横に立ち、窓から中庭を眺める。ポカポカと暖かい太陽が、優しく包み込むように俺達を照らす。遠野が突然、ある提案をしてきた。

「私、協力する! 理沙ちゃんが山井くんのことを思い出せるように。と言っても、小学校の頃しか関わりないけどさ……。でも何か役に立てるかも!」
「うーん、まぁそうかもな」

 そうして俺と遠野は、理沙の記憶を取り戻すために思いがけず手を組むことになった。

「まずは私が昔のことを話してみるね。懐かしいって気持ちから、山井くんのことを何か思い出すかも!」
「そんなに上手くいくかな?」
「やってみないとわからないよ」
「お前、何か楽しんでないか?」
「うふふ、楽しんでるよ。だって、記憶喪失なんてドラマみたいじゃん。私が二人の仲を取り持って、記憶を取り戻した男女が結ばれる、なんて素敵な話じゃん」

 珍しく笑顔の遠野を見て、弄ばれているような気持ちになった。
 でも今は藁にもすがる思いだ。結局俺は、今の理沙を受け入れられていないのだ、と痛感した。