今日は、久々に舞ちゃんと会う約束をしている。
ここ数ヶ月、受験とかがあって会えない日々が続いていたため、私は浮かれていた。
ドキドキ、ワクワク。何着て行こうかなぁ。
妹の居ない私にとって、舞ちゃんは本当の妹のように可愛くて愛おしい存在だ。
春らしい薄手の桜色リブニットに白のスカーチョ、足元は歩きやすいようにスニーカーで。美味しいごパフェに、髪の毛が入るといけないから、ポニーテールにしておこうかな。そしてちょっとだけ、お化粧もしてみよう。
最後に鏡の前でくるりと回り、全身をチェックする。
よし! せっかくオシャレしたから、大ちゃんにも見てほしいな。そんな淡い期待を抱いていた時、インターホンが鳴った。
きっと舞ちゃんだ! 早く行かなきゃ。
バッグにお財布やスマホなどを入れ、急いで階段を降りる。数段ほど駆け降りた時、スカーチョの裾に脚が引っかかり、バランスを崩した。
危ない!
私はとっさに目を閉じた。数秒ぐらい目を閉じていたはずだが、驚くことに階段から落ちた衝撃がない。
恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
何の音も聞こえない、暑いか寒いかも分からない、そんな暗闇の中に私は居た。分かるのは、小さな無数の眩い光だけ。
その星のようなもの達は、すごいスピードで私に迫ってくる。しかし、決してぶつかることはなく通り過ぎていく。
神秘的であり、少し淋しさも感じる。まるで宇宙空間を一人で彷徨っているような、感覚に陥った。
……私、死んじゃった? ここはどこだろう? このキラキラしたものは、一体何?
容量の少ない頭をフルに使って、考えた。考えても考えても、やっぱり分からず、答えを求めて歩き始めた。
すると、周りのものよりも更に明るく光るものが、いくつも押し寄せては消えていくことに気がついた。
何故だか、その光を触れてみようと思った。手を伸ばすと、眩しい光に吸い込まれていく感覚に陥った。あまりの眩しさに思わず目を閉じた。
次に目を開けた時には、一面灰色でカラカラに乾いた砂の上に立っていた。肌がチクチクと痛むほどの強い日差しだ。風はなく、暑さと虚しさだけを感じる場所。その地獄のような場所から抜け出したくて、歩き始めた。
すると今度は、急に心地よい恵みの雨が降り始め、瞬く間に池でき、池の周りだけ緑豊かとなった。
私はその池へと向かって歩き始め、暑さから逃れるように水の中でプカプカと浮かんだ。ゆらゆらと、ゆりかごに揺られるような感覚で、とても気持ち良かった。
しばらくの間、そこで過ごしたような気がする。
そろそろ、ここから出なきゃ。
そう思った時、また急に暑くなって池の水が一気に干上がった。
そして底なし沼に呑み込まれていくように地下に落ちていく。
嫌だ。怖い。狭くて痛い。息ができなくて苦しい。私、これで本当に死ぬんだ。
死を感じるほどの苦痛は初めてで、自分でも驚くほど大きな声で泣いた。
眩しい光が私を照らし、柔らかいもので包み込まれる感じがした。甘い香りがして、私は喉を潤すようにそのクリーム色の液体を口に運んだ。香り通り、味も甘くて美味しい。まるでお菓子を食べているようだった。
美味しいなぁ。デザートみたい。
……デザート? 私、大事なことを忘れている気が……。
「理沙ちゃん! 理沙ちゃん、起きて!」
「理沙! 理沙!」
誰かの声が聞こえる。あー、舞ちゃんだ。男の人の声も聞こえる。二人とも何だか慌ててるみたい。どうしたんだろ?
……私、舞ちゃんと約束してたんだ!
パッと目を開け、飛び起きた。頭痛と頭重感があり、バランスを崩した。そんな私を男の人が支えてくれた。
「すみません、ありがとうございます」
「理沙、大丈夫か?」
男の人が心配そうに、私の顔を覗き込んで言った。
誰だろう? ピエロのお面をつけているのに、不思議と表情は読み取れる。
何だかホッとする声。この柑橘系の香りも懐かしい気がする。
固まっている私に舞ちゃんが言った。
「理沙ちゃん、階段から落ちたんだよ。どこか痛くない?」
「あー、そうなんだ。ちょっと頭痛いかな」
そう言って頭を撫でると、一部にたんこぶができていた。
そして、リビングから慌てた様子で母が出てきて、私に飛びついた。
「あー、理沙。大丈夫? 一応、病院行こう」
「お母さん、病院なんて大袈裟だよ」
「いや……、行った方が良い」
ピエロのお面をつけた男の人が、真剣な表情で私達に言った。
そして、私に顔を近づけて質問してきた。
「俺が誰だか分かるか?」
「何言ってるの、お兄ちゃん? 理沙ちゃんがお兄ちゃんのこと分からないわけないじゃん」
「そうよ、大佑くん。そんなことをあり得ないわよ。ねぇ、理沙?」
舞ちゃんが笑いながらその男の子の腕を軽く叩いて言った。母も苦笑いしながら彼の言うことを否定した。それでも彼は変わらず真剣な表情で言うのだった。
「いつもの理沙と違う。敬語で話すし、俺の名前も呼ばない」
「……」
「嘘だよね? 理沙ちゃん」
「理沙、そうなの?」
誰もが固唾を飲んで見守っているのが伝わってきた。
私は重い口を開く。
「私……、あなたが誰だか分からない。ピエロのお面をつけてるように見える。でも、不思議と表情は分かるの」
そう話すと、母は膝から崩れ落ち、舞ちゃんは驚きを隠せない表情で、両手で口を塞いだ。
彼は、うつむき私に背を向けた。その背中からは、やるせない気持ちを感じ取れた。
その日、舞ちゃんと出かける約束は果たせなかった。
私は母と共に急いで病院を受診し、諸々検査を受けた。しかし、脳に異常はなく、彼の記憶だけが無くなった原因は不明、とだけ言われて帰宅したのだった。
母はアルバムを出してきて、眺め始めた。私は肩を落とす母の横に座り、アルバムを眺めた。そこには私の幼い頃の写真がたくさん挟まれていた。
そして、あのピエロの彼も笑顔で写っている。母は写真を見ながら微笑み、ゆっくりと話し始めた。
「大佑くんとは長い付き合いよね。幼稚園の頃からずっと一緒だもの。理沙と同い年なのに、お兄ちゃんみたいにしっかり者で、理沙のこと可愛がってくれて。理沙もそんな大佑くんのことが好きで、毎日のように彼の話をしてた」
私の写真には、だいたい彼も写っていた。相当仲が良かったのだろう。
アルバムを眺めていると、気になる写真を見つけた。うつむく彼の肩に手を当て、苦笑いする姉の写真があった。私はそれを指差して母に聞いた。
「これは?」
「懐かしいわね。これは大佑くんが出場するテニスの大会を見に行った時のものよ。彼ね『優勝したら、理沙に告白する!』ってすごい意気込んでたんだから」
「それで……、結果は?」
「それがねぇ、準優勝だったのよ。十分すごいことなんだけど、大佑くんは男泣きしてたわ。それで、お姉ちゃんが慰めてたってわけ」
「そうなんだ……」
「理沙も応援に行ってたけど、そんな事情があったなんて知らないでしょ?」
母の問いかけに私は小さく頷いた。
「そうよね。大佑くんが『絶対に言わないで』って言ってたから、お姉ちゃんが隠してたもの」
「そう……」
「大佑くんとの記憶が全部無いから、他人事のように感じると思うけど……。本当に理沙のことを大切に思ってくれてるわよ。昔の記憶がないなら、新しく思い出を作っていくのもありだと思う」
「……うん」
何で私は、彼のことだけを忘れてしまったのだろう……?
ただただ心苦しく思って、独りベッドの中で涙を流すのだった。