蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~

『はいはい、こちら捜査一課の内田(うちだ)っすけど。どうしました?』

 金島が電話をかけた相手は、刑事部捜査一課の内田だった。

 若手のキャリアでありながら、金島と出会って最前線で事件を追い続けている捜査員の一人である。ほとんど休日も取れない職場でも、しっかり睡眠と食事、間食のおやつと風呂を欠かさないという、ベテラン以上に器の大きい若手だ。

「内田。お前、今、組織犯罪対策課にいたな」
『そうです、そうです。つか、そっちに片足を突っ込んでいるだけで、最近はほとんど薬物取締捜査に加担してるんすけどね』

 あ、これって言っちゃ怒られるタイプのやつでしたっけ、と内田が抑揚のない声色で続けた。口が軽いと注意されるのを、彼は日頃から聞き流すくらい図太く気楽に過ごしている。

「いや、構わん。ちょうどタイミングがいい」
『あれ? 逆に褒められたんで、なんかちょっと怖いんすけど。何かありました?』
「今、麻薬や覚せい剤が出回っているだろう。爆発的に広がる前に、きちんと取り締まっておかなくてはいけないと思ってな」
『さすがっすね。ちょうど、今年入って検挙者が最悪な数字一歩手前ってところっす。ただ、今回はちょっと気になるものが』

 内田が言いかけた時、金島のオフィスにある固定電話機が鳴った。同じタイミングで、受話器越しに内田が『いてっ』と誰かに頭を小突かれたような声を上げる。

毅梨(きなし)課長、従順な部下に対する暴力反対ぃ。つか、課長になったのにまだ手先が荒っぽいのもどうかと思いますけど』
『やかましい! お前、また本部長に向かって軽い口を叩きやがって――』
『あ~、金島さん。俺の方でちょっと調べておくんで、また後で連絡します』
「宜しく頼む」

 金島は聞き慣れた男の声を聞き流し、内田にそう答えてから携帯電話をしまった。そして、そのまま固定電話へと持ち替えてナンバー1から追って指示を受けた後――


 金島は「4」の数字を持つ彼と、初めて言葉を交わすことになったのだった。
 翌朝、雪弥は多くの生徒同様に白鷗学園の正門をくぐっていた。

 時刻は朝の八時を回っている。教室にはたくさんの生徒が溢れるいつもの光景が広がり、そこに修一と暁也の姿もあった。

 暁也の姿があることが珍しいとも思わず、雪弥は、「たった一人のおじさんが未青年の中に入る」ことの緊張を押し殺して、自分のクラスである三年四組の教室に踏み込んだ。女子生徒たちの視線はしばらく雪弥を追ったが、その先で暁也を目に留めると離れていった。

 雪弥が近づくと、修一が振り返って「おはよう」と陽気に言い、暁也が「おっす」とぶっきらぼうに言った。

 昨日電話で話しをした男、暁也の父である金島一郎を思い出してしまい、雪弥はぎこちなく笑って二人の少年に「やあ」と声を掛けてから、昨日から自分の席となっている場所に腰かけた。

 修一と暁也は、まるで付き合いの長い親友というような関係であった。教室では特に会話もなく、それぞれがスポーツ誌を読みふける。どちらかが話を切り出せば会話が成立し、短い単語でお互いのやりとりがきちんと出来た。

 暁也が「次の」と言えば修一は新しい雑誌を渡し、「それ、くれ」とくれば引き出しにしまってあるパンを分ける。暁也は修一が「なぁなぁ」と言えば無言で振り返って話を聞き、時には「俺の意見が聞きたいのか、一般論が知りたいのか分かりゃしねぇ」と愚痴ったが、顰められた顔には嫌悪感はなかった。

 雪弥は後ろから、そんな二人の様子をしばらく眺めていた。自分を「本田雪弥」として認識した生徒たちは、物珍しそうな視線も突拍子もない質問攻めもしては来なかった。談笑は少数で、ほとんどが友だち同士で問題集を広げあっている。

 そういえば、皆受験生だったな。

 他人事のように考え、雪弥は教科書やノートを引き出しにしまった。進学先を決めかね、各大学のパンフレットを広げている生徒の姿もある。

 教室はすっかり受験の雰囲気が浸透していたが、雪弥の前に広がる二つの席ばかりが別世界だった。参考書の一つさえ持っていない二人の少年が、悠々とした様子でパンをつまみながら雑誌を眺めているのだ。

 二人もこれからのことを考えた方がいいのに、と思わず心で呟いた雪弥の前で、暁也と修一がほぼ同時に雑誌のページをめくった。高校三年生の立場を考えると悩ましい光景だが、雪弥は教師任せにすることで気を楽にした。開いた窓へと視線を滑らせると、空に灰色の雲が薄く広がっている。

 今日は、町へ行ってみるか。

 そう考えて、雪弥は体力温存だと言わんばかりに仮眠を取る体勢に入った。数分でも睡眠がきちんと取れるのは、ほとんどのエージェントが持つ特技の一つだ。訓練によって誰でも習得でき、ときには丸三日寝ない状態で戦闘態勢に入ることも珍しくはない。

 四年前のゲリラ戦において、三日で場を鎮圧したエージェントたちも七十二時間動き回っていた。状況に応じて睡眠を取ることは、エージェントの基本である。

 それに任せて惰眠を貪っている今の状況はおかしいが、雪弥は考えるのも面倒だったので授業の合間に仮眠を挟んだ。こうして午前中の授業は、特に変わりもなく流れていった。

             ※※※

 昨日と違っていることは、今日が五時間授業という点だ。昨日より一つ分授業が少なく、そしてが最後の授業は、雪弥にとって白鴎学園に来て初めての体育であった。
 着なれない高校の体育着に着替えた雪弥は、運動場で騒ぐ男子生徒たちの中で「おじさんに見えないかな、いや、やっぱりおじさんだろう」という自問自答からなかなか抜けられずにいた。

 白鴎学園高等部の正門から広がる運動場には、三組と四組の男子生徒たちがおり、合計二十四人の男子高校生たちが集まっていた。そのはしゃぎようは半端ではなく、飛んだり跳ねたり取っ組み合いを始めたりと、まるでまとまりなく騒いでいる。

 タンクトップのいかつい男性教師が、運動場の中央に立って、収拾のつかない生徒たちの群れを見つめていた。薄い唇は引き攣り、こめかみには青筋が浮かび上がっている。


「さっきも言ったように……はしゃぐな馬鹿野郎! お前らは中学生か!」


 男性教師が、息を吸い込んで声を張り上げた。雪弥は「小学生か、のほうがいいと思うんだけど」と心の中で呟いてしまった。

 男子生徒たちが「はーい」と答えて、気楽に会話を交わしながら中央へと向かい始め、ゆっくりとした歩調で雪弥はその後尾に続いた。少年たちに溶け込めているのかと彼は心配していたが、誰も不審そうに振り返る生徒がいないことを確認して息をついた。

 そんな雪弥に、ふと声を掛ける生徒があった。

「うちの学校少人数制だろ? サッカーとかの場合はさ、合同で授業すんだ。女子はバレーらしいぜ」

 雪弥の隣にやってきた生徒は、修一だった。彼は、待ちきれない様子でランニング姿勢を取っている。若い子は元気だなぁと思った雪弥の隣に、不服そうに体育着をきこなす暁也が並んだ。

 暁也はじろりと雪弥を見やり、小さく口を動かした。

「お前、スポーツ出来んのか?」
「まぁ人並みに」

 雪弥はそう答えて、肩をすくめて見せた。暁也は鼻を鳴らしたが、雪弥を挟んだ隣にいた修一は楽しそうにこう言う。

「なぁ暁也、まず俺が稲妻シュートを決めるからさ、サポート宜しくな!」
「ふん、相手は現役サッカー部多数の三組だぜ? やり損ねたら、ジュース一本だからな」
「ふっふっふ、どうせ他は俺の敵じゃないぜ。西田(にしだ)にも負けないし」

 修一が不敵な笑みを浮かべ、ある方向へちらりと視線を寄こす。

 そこには彼と同じ背丈をした少年がいて、目が合った途端に「俺だって負けねぇし!」と言い返してきた。茶色く焼けた肌が印象の、逆立った頭髪が太陽で赤く見える男子生徒だ。彼は現役サッカー部、キャプテンの西田である。

「俺のクラスが買ったら、お前らがいつも買い占めてる貴重なそばパンを譲ってもらおう!」

 西田は吠えて、体育教師の元へと踵を返した。「あいつ、絶対ぇ負かす」と暁也が真剣な面持ちで言い、修一が珍しく真顔で「そばパンは譲れねぇ」とぼやいた。

 その様子を見ていた雪弥は、仲がいいなぁとぼんやり思った。暁也が仏頂面で短く答えても、修一は彼の心情を読み取って感情豊かに返すのだ。実に良いコンビだと、雪弥は二人の少年たちを微笑ましくも思った。
 白鴎学園高等部では、余った焼きそばをパンに挟んで提供する「食堂のおばちゃん」がいる。個数はいつも二、三個で、生徒たちにとっては貴重なメニューだ。鳥の唐揚げと焼きそばが美味いと評判で、パンを持参して焼きそばを挟む生徒もいた。

 いつも飛ぶように現れて焼きそばパンを買い占める修一と暁也を見て、悔しがる三年生も多かったのである。彼らが焼きそばパンを購入しない日だけ、他の生徒たちは「おばちゃん特性の」それを食することができた。


 最後の授業が体育であるせいか、どの男子生徒も陽気な笑顔を浮かべていた。体育教師のもとへ集った三組と四組の生徒は、クラス関係なく談笑しあう。

 受験生であることを忘れたような笑みは十八歳よりも幼く、教師は「これから合同授業、サッカーを始めるが」と生徒たちに負けず大きな声を張り上げて、ルールを説明し始めた。

 サッカーの簡単なルールを一通り説明した後、教師は生徒たちに二色のゼッケンを配った。三組が黄色、四組が赤で色分けされていた。

 雪弥は、自分のクラスである四組の赤いゼッケンを、見よう見まねで着用しながら、サッカーのルールを頭の片隅で思い出していた。手で触ったら駄目で、足でボールを運んでゴールコートに入れる、といったことを口の中で二、三度繰り返す。

「おいおい。お前、もしかしてサッカーしたことないのか?」

 雪弥の呟きを拾った暁也が、呆れ顔で片眉を引き上げた。「そんなんで大丈夫かよ」と続ける彼の隣で、修一は予想外の現実を受け入れられないといった表情だ。

 正確にいえば、雪弥はサッカーという言葉を小耳に挟み、テレビでちらりと見たことしかなかった。小・中学校の授業で体育はあったのだが、勉学以外に全く興味がなかった彼は、ほとんど参加しなかったのだ。

 飛び込みで参加する部活は、ほとんど武術関係であった。高校生になっても彼の目はスポーツに向くことがなく、バイト三昧の生活に体育と美術、音楽の授業を必ずすっぽかす問題児でもあったのである。

「いや、知っているとも。うん、でも進学校だったからサッカーの授業はなくて、筆記だけだったというか……」

 後半の早口を雪弥が口ごもったとき、体育教師がホイッスルを慣らした。「始めるぞ、配置につけ」という言葉が上がり、それぞれの生徒たちがポジションを決めながらグラウンドに広がった。

 四組は雪弥の転入によって一人分人数が多かったのだが、今日は一人欠席していたためメンバー数はちょうどだった。出来れば見学に回りたい雪弥だったが、風邪で休んだ生徒に「出席しろ」と思うわけにもいかず、修一と暁也に促されて渋々グラウンドに入る。

 教師のベルの合図で試合が始まると、ボールを運び出した西田から、すかさず修一がボールを取り上げた。「あっ」という彼の言葉も聞かずに、修一はクラスメイトである四組の男子生徒にボールを回す。

 それを受け取った眼鏡の男子生徒が、迷わず「暁也!」と叫んで細い足でボールを蹴り上げた。
「ナイス、委員長!」

 にやり顔で、暁也がボールを胸でキャッチした。「今年は委員長じゃないよ!」と言い返す男子生徒の脇から、黄色いゼッケンを来た三組の生徒が飛び出す。彼らと同じ速さで駆け抜けてきたのは、修一を含んだ四組の生徒たちだ。

 足にボールが着くと同時に、暁也が動き出した。「奴を止めろ!」と西田が叫んで三人の生徒と共に彼を取り囲むが、前に走り出ていた修一にパスが回ると、ボールはそんな四人の生徒たちの包囲網をあっさりと抜けた。

 ちらりと目をやった修一のゼッケンがふわりと揺れ、西田の前髪が浮き上がる。

 修一がにぃっと八重歯を覗かせて、対する西田が口の端を引き攣らせ見つめ合ったのは、ほんの僅かな時間だった。弾くように走り出した二人を見て、場はわっと盛り上がり、騒ぐ生徒たちにも目を止めずに試合は進む。

「待て、修一ぃ!」
「待ってたまるかっての」

 歌うように答えた後、修一の足が素早く動いた。一瞬消えたボールを見失った生徒たちに、三組のゴールキーパーである長身の男子生徒、柔道部の円藤(えんどう)が叫ぶ。

「馬鹿ッ、早く暁也をマークしろ!」

 西田が真っ先に空いたスペースへと目を向けたが、そのとき、既にボールを足で止めていた暁也の目は、真っ直ぐゴールコートに向いていた。

 声変わりをしていない生徒が「奴はシュート率百パーだぞ」と叫び、西田が駆け寄りながら「くそっ、サッカー部だったらキャプテン並みだぜ!」と愚痴りながら走る。その後ろから坊主頭の生徒が続きながら、少々間が抜けた顔でぼやいた。

「つか、四組って大半帰宅部なのにチームプレーがすげぇんだよなぁ、なんでだろ?」
「俺が知るか!」

 西田が野球部の佐野(さの)に怒鳴り返したとき、暁也が思いきりボールを蹴り飛ばした。

 真っ直ぐに飛んだボールが西田と佐野、後ろから駆け寄っていた黄色いゼッケンの生徒たちを通り過ぎる。慌てて振り返った西田は、そのボールがゴールコートをそれることに気付いて安堵したが、ただ一人、四組のゴールコート辺りでそれを傍観していた雪弥は「あ」と声を上げた。

「もーらいっ!」

 楽しげな声が上がった瞬間、悪戯っ子の笑みを浮かべた修一が飛び出していた。

 あっと叫ぶ三組の面々に構わず、迷うことなくボールを蹴る。円藤が素早く反応して動いたが、威力のあるボールは彼の大きな手をすり抜けて、ゴールコートを突き上げた。

 途端に四組が歓声の声で湧いた。三組である黄色いゼッケンの少年たちが「あぁぁぁ」と落胆と絶望の声を上げ、西田が「チクショー、先に一点取られたッ」と歯噛みして呻いた。


 四組のゴールキーパー、三学年一の身長と体重を持った相撲取り候補・森重が「本田君……」と囁く声にも気付かず、雪弥は修一と暁也のコンビプレーに悠長な口笛を一つした。

 クラス全体を見渡して「仲がいいんだなぁ」とのんびり呟く雪弥の後ろで、「まぁね……」と答える森重は神妙な面持ちである。
 スポーツ試合が再開すると、いつもは謙遜されている暁也もすっかりクラスに溶け込む。

 四組は修一と暁也が中心で動き、三組は西田と佐野が走り回った。特に声を上げていたのは、三組の西田と円藤で、四組はどこか遊び楽しんでいるような笑顔と会話が飛び交っていた。

「委員長、パス!」
「だから暁也君、何度も言ってるけど、俺は委員長じゃなくて佐久間(さくま)だよ!」
「つか委員長! 暁也じゃなくて俺にプリーズ!」
「君もか、君もなのか修一君!?」
「こら委員長! 大人しく俺にボールを渡せ! この西田(にしだ)俊成(としなり)、恩は必ず返す男だ!」
「君は三組でしょうが! しかもッ、僕が委員長だったのは二年であって、今は委員長じゃないんだってば!」

 四組の黄色いゼッケンを着た眼鏡の男子生徒、佐久間(さくま)誠(まこと)は、双方のクラスから委員長と連呼されて突っ込みが絶えない。

 生徒たちがグラウンドの中盤で騒ぎたてるのを、雪弥は欠伸一つ構えて眺めていた。体育教師から注意を受けた彼は、現在、ゴールコートから三メートルの距離にずれただけの場所にいた。それ以上進む様子も見られないので、四組の生徒たちは、雪弥にゴールコートの守りを任せて敵コートへと乗り出している。

「うん、なんかファインプレーって感じだね」
「…………本田君」

 声を掛ける森重の表情は、やはり複雑だ。雪弥は先程から、こちらに生徒が駆けて来ると、さりげなく動いている振りをして端に寄っているのだ。

 四組のゴールキーパー森重は優秀だった。大きな身体からは想像も出来ないほど、俊敏な動きでボールを受け止める。彼が三組のゴールキーパーのような警戒の声を上げたら加勢しよう、と雪弥は考えていたのだが、森重は悠々とした様子でシュートする男子生徒の正面に構えてくれる。


「……お前、ゴールコート守る気あんの?」


 前半戦が終わったとき、汗だくの暁也が涼しげな雪弥に尋ねた。雪弥は「勿論だよ」と答えて頷く。

「でもほら、森重君がばんばん防いでいくから」
「アホか。あいつにも苦手なシュート打つ奴がいるんだよ」

 暁也が告げると同時に、試合がスタートする合図が上がった。その際、遠くにいた西田が、自信たっぷりの笑顔でこちらを振り返ってきて「この俺とかな!」と主張した。

 その声を聞いた雪弥は、この距離でよく聞こえたな、と感心してしまう。

 こちらの会話をちゃっかり拾っていたらしい彼に対して、暁也はわざとらしく耳をかいて「雑音がするな」と言って踵を返した。グラウンドの中盤でショックを受ける西田を慰めたのは、野球部一闘争心がない佐野であった。

「ま、どんまい?」
「…………ひどすぎるよ」

 あいつは二年のときからそうだった、とぼやく西田の台詞は弱々しい。対する佐野は、視線を泳がしながら「元クラスメイトでも容赦ないしなぁ」と独り言を呟いた。
 西田と佐野は、二年生の頃に暁也と同じクラスだった。少人数制のため、クラス関係なく仲が良いことも白鴎学園高等部の特徴だ。

 大半の生徒が暁也の編入についてきた「暴力事件」に恐れを抱いているが、修一のようなタイプの生徒も少なからずはいた。西田は鼻から信じておらず、佐野は「どっちでもいいんじゃね?」という具合だったのである。


 四組が優勢得点で後半戦が始まり、試合は白熱のまま続いた。「そばパンを守れぇ!」という三組の怒号に、修一と暁也が声を揃えて「やらねぇよ!」と答えるのは決まり文句になっていた。

 必死に動き回る四組のクラスメイトである佐久間たちが、「二人とも、少しくらい分けてもいいじゃないの……」と小さく指摘する声は、修一と暁也の耳には届かないようだった。


 試合もそろそろ終盤を迎える頃、四組は三組のゴールキーパー円藤に、シュートの嵐を食らわせていた。それを四組のゴールコートから眺めていたのは、雪弥と森重の二人である。

 しばらく動いていない森重は、時々大きな身体を揺らしながらクラスメイトたちの頑張りを見守っていた。雪弥は五度目の欠伸をして、後ろにある校舎の時計を振り返る。

 あと数分もない授業に対して「早く終わらないかなぁ」と内心ぼやく彼を見て、それを表情から読み取った森重が再び「本田君……」と呟いたとき、歓声と怒号交じりの一際大きな声が飛び交った。

「くそッ! 抜かれた!」

 そう悪態を吐き、忌々しげに振り返った暁也の前には、ボールを横取りした西田が得意げな顔をして走り出す姿があった。三組のゴールコート前に集まっていた生徒たちが、ようやく一斉に雪弥と森重のいる方向を振り返る。

「本田君、止めるっす!」

 森重が、試合で初めて緊迫した声を上げた。

 出遅れて駆けて来る生徒たちの目先で、雪弥と森重を真っ直ぐ見つめる西田の顔がにやりと笑む。すぐ後ろから暁也と修一が追うが、グラウンドの中盤を過ぎても中々距離が縮まらない。

 森重は身体を強張らせ、肉付きのよい顔に、初めて敵を睨みつける表情を浮かべた。両足を落として身構え、緊張で渇いた喉を唾で潤す。

「同じサッカー部に負けるかぁ!」

 修一がそう吼え、土埃を上げて全速力で駆けた。西田も見事にボールを運びながら速度を上げる。

 突進する姿勢で彼の後ろを追う暁也は、先程西田にボールを奪われていたので「ぶっ殺す!」と殺意を剥き出しにしていた。土埃に交じって、禍々しい空気が彼の背を覆っている。

「そんなこと言っている場合じゃあないでしょ!」

 状況を一番冷静に捕えていた眼鏡の男子生徒、通称「委員長」の佐久間が遠くなる三人の少年に一喝したところで、はっとしたように雪弥を見た。

「本田君、ボールをシュートさせないで! 修一たちの言い分は置いといても、西田が調子に乗りそうで嫌だから!」
「お前も結構ひどいよな」

 彼に並んだ三組の低温野球少年、佐野が、間髪入れず小さく口を挟んだ。
 近づいてくる少年たちの騒ぎっぷりを見ながら、雪弥はゆっくりとした歩調で動き出した。気が乗らないように頭をかき「しょうがないか……」と呟く彼の脳裏には、サッカーの基本ルール二つが流れている。

 ゴールコートに迫った西田が、森重の前から歩き出す雪弥を見て不敵に笑った。「相手は優等生、こりゃ楽勝だぜ!」と叫んだが、不意に、その足元からボールが消えて目を丸くする。

 視界からボールが消失し、西田は何が起こったかも分からずに動きを止めた。「やれやれ」といった様子で歩み寄った雪弥が、通り過ぎようとした彼から軽い足さばきでボールを奪い取ったのだと遅れて理解し、唖然とする。

「え……?」

 西田が、一瞬でボールを奪われた事が信じられない、という顔で振り返る。

 そのとき既に、雪弥は口笛を吹くような表情で、ボールを膝で小さくバウンドさせていた。彼の頭上へ力なく舞い上がったボールが、ふわりと上昇を止めて、ゆるやかに落下を始める。

 その直後、雪弥が左足を軸に右足を振り上げ、そのボールに軽く弾むような回し蹴りを入れて弾き飛ばしていた。おっとりとしたように見える仕草以上の力を加えられたボールが、軋むように円形を凹ませて宙に跳ね上がる。

 対戦相手である三組の円藤が守る、ゴールコート付近まで飛んだボールを追い掛けた修一が、歯を食いしばって強靭なヘディングをかまし「暁也!」と視点の定まらない様子で叫んだ。

 想定外の事態に数秒反応が遅れた生徒たちを尻目に、暁也も修一と同様、一番に敵陣地へと駆けこんでいた。彼は西田の制止の叫びも聞かず、胸でボールをチャッチしてすぐ、斜め方向から強烈なシュートをゴールコートに放った。

 円藤が咄嗟に守りに出たが間に合わず、見事にゴールが決まった。途端にわっと四組の生徒が湧き、授業終了のチャイムと同時に、教師のホイッスルがグラウンドに鳴り響いた。

 西田が崩れ落ちる様子を見ていた雪弥は、「本田君、すごいっす!」と森重に言われて、ぎこちない笑みで応えた。手で触らず、足で蹴ればいいスポーツと浅い認識で行ったことなど、騒ぎ立てる双方の生徒たちは気付かないままだった。


「お前すげぇじゃん!」


 走り回っていた心地よい疲労の余韻を残したまま、生徒たちが各教室へ戻っていった後、修一は教室で着替えを済ませてからも、興奮が冷めない様子だった。教室に入って来る担任の矢部にも目を向けず、彼は後ろの席にいる雪弥を見つめる。

 体育の授業で唯一汗をかかなかった雪弥は、先程からのらりくらりと言葉を避わしていた。彼の机の上には体育着のみが詰め込まれた鞄があり、すでに帰る準備は整っていた。

「マジですげぇよ、あんな強烈なパスは初めてだぜ! 抜かれた西田のあの顔、見たか? めっちゃびっくりしてたなぁ」
「たまたまタイミングがあっただけだよ。僕は頭脳派だからね」

 そう答える雪弥の鞄に、学習道具の一つさえ入っていないことを見ていた暁也が「ホントかよ」と言いたげな視線を向けた。何故なら、暁也の鞄には、筆記用具くらいは入っていたからだ。
「……ま、いいセンスしてると思うけどな」
「俺もそう思う!」

 視線をそらせて暁也が言い、修一がすかさず同意の声を上げた。それに対する雪弥は、「大人が子供に勝っても嬉しくないんだけどな」とぎこちない表情である。

「お前、このあと暇? カラオケ行こうぜ」

 修一は嘘偽りもない真顔で、見事に受験放棄を宣言した。「あ、それいいな」と暁也が便乗したとき、教壇に立っていた矢部が「お前らは居残りだぞ」とぼそぼそと告げ、教室が笑いに包まれてその会話は終了となった。


 帰りの会とやらが始まる中、雪弥は「カラオケ」という単語を頭の中で繰り返していた。彼は今まで、一度もカラオケ店に入ったことがない。

 母である紗奈恵がまだ元気だった頃、映画館とボーリングに行ったことが数回ある程度だ。歌うことが好きだった紗奈恵は、「今度連れていってあげるからね」という言葉を最後に、入院生活を強いられた。


 そんな母との思い出が脳裏を過ぎり、雪弥はふっと表情をなくした。

 一つの波紋すらなくなった心持ちで、締められた窓の向こうへと視線を滑らせる。矢部のぼそぼそと呟く声が時々耳に入ったが、言葉として認識することは出来なかった。

 体育の授業では少し晴れ間を覗かせていた空は、再び灰色の薄い雲に覆われていた。雨を含んだ低い雲が重なり合うように流れ、厚みを増していくようだった。重々しい夜を引き連れた曇天を思い起こさせる風景は、雪弥の中から、母が亡くなったときの空を引き出した。

 そういえば、父さんはどうしてるかな。

 ふと、雪弥は蒼緋蔵家当主を思い起こした。彼が顔を上げて黒板へと視線を戻すと、矢部が生徒に「聞こえません」と注意されながら話しを進めていた。夏休みに入る前に、両親を招いた三者面談をもう一度行うという内容だった。

 父さん、お願いだから僕の仕事が終わるまで耐えて。

 そんな教室の様子に目を留めながら、雪弥は今置かれている環境とは全く関係のない、むしろ矢部が語る「高校三年生にとって重要」な事に一ミリも関心を向けないまま、完全なプライベート問題を思って、心の底からそう願った。

 長男、蒼慶は一度言い出したら聞かない性質である。しかし、今はまだ次期当主という立場だ。他の蒼緋蔵家親族が意見に賛同していても、さすがに現当主が首を振らなければ議論は持ち越しになるだろう。

 とはいえ、その後の蒼慶の行動を予測することは、当主でさえ不可能だ。蒼慶は時に、現当主の頭脳を遥かに越えた大胆な結論と行動に出ることがある。雪弥に出来ることは早々に仕事を終わらせ、十分な時間を取って家で起こっているらしい問題を解決することだ。

「君たちは受験生です……問題を起こすことのないよう……して、勉強したらすみやかに帰宅…………」

 話しの後半になって矢部の声は口ごもり、更に聞こえ難くなった。その様子を見つめていた雪弥は無性に喉の渇きを感じ、ある飲み物を連想して口をつぐむ。

 BARのカクテルが飲みたい。

 随分お預けになっている西大都市のBAR「ホワイトパール」を想い、雪弥はとうとう深い息をついた。