蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~

 雪弥は「これから、そうだと思ってもらうようにしていけばいいか」と気楽に考えて二人に向き直った。自分の仕事をこなすためでもあるが、多くの少年少女に溢れて落ち着かない中で息抜き場所の確保も最優先だと考えて、まずはさりげなく言葉を切り出す。

「君たちは、いつもここに来ているの?」
「うん、そう」
「僕も、これからお邪魔してもいいかな」
「大歓迎さ。な、いいだろ? 暁也」

 修一が問い掛けると、オニギリを食べ進めていた暁也が「好きにしろ」と短く言った。

 情報収集も必要だが、怪しまれないことがまずは大切である。すぐに情報収集を始めても怪しまれるだろうし、雪弥は先程の話の流れを思い返して、話しかけ易い修一に声を掛けた。

「受験生だけど、進学の件はまだ決めていないの?」
「うん? 俺? 進学とか全然考えてないなぁ。就職でもしようかなって思ってんだけど……ほら、俺頭悪いし」
「転入して来たばっかで、こいつがそれ、分かるわけねぇだろ」

 当然なことを口にした暁也に、雪弥は「その通りだね」と本心から口にして苦笑いを浮かべた。世代も違う見知らぬ少年ではあったが、なぜだが修一が放っておけず自然と言葉を続ける。

「でも、進学って大切なものだと僕は思うよ。将来なりたいものとかないの?」
「う~ん、特にないんだよなぁ、これが。部活一筋で来たのに突然、将来について考えろって言われてもなぁ…………」

 修一は言葉も見つからない、といった様子に視線を泳がせた。数十秒ほど考えるような仕草をしたが、すぐに考えることを諦めて別の話題を暁也へと振る。

「そういえば、お前はどうすんの? 俺、そういうの聞いたことないんだけど」

 こいつ全部放り投げたな、と暁也は勘ぐった顔をしたが「言ったことなかったからな」と話を合わせた。

「親父は、俺にキャリアの警察になって欲しいみたいだぜ? 東大法学部に行って国家公務員Ⅰ種取って、採用されたあと警察大学校……ちッ、奴がいっつも小言みたいに言うから、すっかり覚えちまったな。考えるだけでも疲れる」
「なんだか、いろいろと難しくてよく分かんねぇけど、すごいのなぁ。お前なら絶対出来そう」

 そう言った修一は、大半の言葉を理解していない。頭上の青空をゆっくりと泳ぐ雲へと視線を逃がした彼の表情は、「あの雲、美味しそうな形しているなぁ」と語っていた。

 警察キャリアは狭き道である。国家公務員Ⅰ種試験合格者の中から毎年数十人しか採用はなく、採用後には小刻みの日程で研修が入る。幹部になる者に対して知識や技能、指導能力や管理能力を修得させるために警察大学校はあり、訓練を受けられるのは、その資格を持った幹部警察官だけとなっている。

 キャリアだと確かに昇任のスピードは速く、警部補から始まって本庁配属約二年で警部になれる。それから四年ほどで警視へと就けるが、その間に各警察署や海外勤務もあり大変だ。実績や功績も残さなければならず、学力や知識だけでなく武術も秀でている方が望ましい。

 暁也は虫けらを見つめるような目を修一に向けていたが、ぐっと堪えて視線をそらした。

「親父が自分の理想を、俺に押し付けようとしてるってだけさ。俺は親父のコピーでも何でもねぇのに、聞いて呆れるぜ」

 暁也は、吐き捨てた勢いに任せてオニギリにがっついた。
 これまで出会った刑事達を思い浮かべると、どんなタイプの人間がそれに向いている職業である、というくくりもないように感じる。それに、本人は不良だと口にしているが、そんなに悪い子じゃなさそうだけど、と思って雪弥は彼に声を掛けた。

「確かにいろいろと大変そうだけど、すごく格好良い職業だと思うよ」
「どうだか。不正を金と権力で黙らせる職業だろ」

 純粋に熱血なだけの警察もいるけど、とは実経験になるので言えず、雪弥は口をつぐんだ。暁也の言葉を聞いて脳裏にナンバー1の顔が浮かび上がり、少年組から顔をそらして口元にだけ薄ら笑みを浮かべる。

 すると、修一がくるりとこちらに顔を向けてきた。

「お前はどうなの?」

 鮭オニギリを手にした修一の口調は、明日の天気を尋ねるように軽い。ここでうまく話を盛り込めば、修一という生徒を媒体に、本田雪弥の生徒像が学園内によりよく定着できるかもしれない。

 そう考えた雪弥は、自分の設定を軌道に乗せるため、さりげなくその情報を入れることにした。一つ頷いて「うん、それが」と少し神妙な空気感で話しを切り出す。

「国立の医学部に行きたくて頑張っていたんだけど、勉強がうまくいかなくてさ……。ドイツ語と英語だけでは難しいから、ちょっと考えているところなんだ…………」
「……なんだか悪い事聞いちまったな、ごめん」

 言葉を濁すように台詞を切ると、修一が同情と謝罪が交じったような目を向けてきた。

 その視線が直視できず、雪弥は思わず目を泳がせた。仕事だと言い聞かせてようやく顔を向けるが、そこに浮かべた愛想笑いもぎこちない。しかし、それが返って信憑性を上げていた。


「勉強なら、今からでも全然間にあうだろ。諦めんなよ」


 その様子をじっと見つめていた暁也が、視線をそらした後で、どこか気遣うような声でそう言った。口調はぶっきらぼうだが、照れ隠しとも思えるような仏頂面でもある。
 
 珍しいな、といわんばかりに振り返った修一は、オニギリにかぶりついたまま暁也を見た。そのころころと変わる表情はひどく豊かで、思わず「若い子の特権だよなぁ」と思った自分に、雪弥はまたしても打撃を受けた。

 そっと視線をそらしたものの、気になってちらりと暁也を盗み見る。意外だったと感じたのは、雪弥も同じだ。

 父親の期待に反発して不良を装っているだけで、根は良い子だなと感じるものがあった。この年頃の子は、反抗期や思春期といった難しさがあり、真っ直ぐな親の言葉に反感を持ってしまうこともあると聞く。とげとげしさをまとう外見よりも、不器用な暖かさを持った子供らしさが、雪弥にはなんだか新鮮だった。

「まぁ、その、頑張ってはみるけど……うん、ありがとう…………」
「そっか、確かに今からでも間に合う、か」
「お前の場合は、まず将来を考えろ」
「暁也もだろ?」

 修一がそう言って、食べかけのオニギリを手に頬を膨らませた。雪弥は居心地の良さを感じ、ぎこちないながら、後ろめたさのない苦笑を浮かべていた。なんか、こういうのもいいな、と普通の高校生たちを見つめながら思う。

 オニギリに向き直っていた修一が、暁也へと話題を振ったのは、そのすぐ後のことだった。


「そういえば、また土地神様の祟りに遭ったやつが出たって噂、聞いたか?」


 好奇心たっぷりの声色でその台詞が聞こえた時、雪弥の中で、任務に関わる事だという勘が働いた。
 土地神様――そう切り出した修一の瞳は、好奇心でいっぱいだった。堪え切れない笑みからは片方の八重歯が覗き、内緒話をするような声色は弾んでいる。

 土地神様の祟りと話題が振られた瞬間、暁也はそれと対象の温度を見せた。

「お前、そんな噂信じてんのかよ」

 くだらない、といわんばかりに暁也が答えた。彼はオニギリを食べ終わり、缶ジュースを持ち上げた手を止めて胡散臭そうな表情を浮かべている。

 修一は、残りのオニギリをすばやく胃に詰め込むと、「だってチェンメ回ってたじゃん。見てないの」とせがんだ。そこに、雪弥はほぼ反射的に口を挟んでいた。

「それ、詳しく知りたいな」
「あれ、お前そういうの好きなのか?」

 疑う様子もなく、修一が活気に満ちた瞳で雪弥を覗きこんだ。冒険心が強そうな瞳と距離を置きつつも、雪弥は話を合わせるように頷いた。

「うん、前の学校では、いろいろと都市伝説とか集めていたよ」
「へぇ! そうなんだ、俺もそういう話し大好きでさぁ」

 気が合うなぁ、と続ける修一の横で、暁也はジュースを口にしながら、面白くもなさそうにパンの袋を引き寄せた。

 暁也にとって、修一という少年は、遠足や旅行先で歩き回るようなタイプで、好奇心の強さに底が見えない友人だった。単純思考だが行動力は強く、良く言えば、いつも自分の気持ちに素直な少年だ。

 非現実的な事柄にも興味を持っており、修一が「未確認飛行物体を探そうぜ」「畑に歩く薬草ってのがあるらしいから捕まえて飼おう」「森の精霊がいるんなら、きっと畑道にも何かいるかもしれない」そう提案するたびに、暁也は付き合わされていた。

 外を歩き回るのはまだいい、一番厄介なのは、修一が存在もしない物事を信じていることだ。そこだけが唯一、話が合わないところである。

 現実主義の暁也は、ありもしない作り話を延々と聞かされる事は好きではなかった。「クリスマスは早く眠らないとサンタさんが来ない」と聞かされるくらいうんざりしてしまう。

「うちの学校ってさ、夜の九時に一回鐘が鳴ったら、翌朝の六時まで鳴らねぇの。で、夜最後の鐘が鳴ったあと学校に入ると、土地神様に呪われるって話なんだ」
「祟りなんかあるわけねぇだろ。くだらねぇ」
「あるんだってば」

 口を挟んだ暁也にそう言ってから、修一は雪弥に聞かせるべく話しを再開した。

「最近一番有名な怪談なんだけどさ、この白鷗学園は昔、家も畑も作れない聖地だったらしいんだ。強い神様がいたから、ここに学校を建てるとき、坊さんがその土地神様と約束を交わしてさ。『子供たちの学びのためにこの場所をお借りしますが、夜の九時にはお返しします』っていうもので……」

 修一は怖い話を聞かせるように声を潜めたが、その声色は弾んでいた。

「その合図は、夜九時に鳴る最後のチャイムなんだ。俺たちの学校がその土地神様の領地に戻ったあと、敷地内にいたり、侵入しようとすると祟られるって噂だぜ? 肝試しで学校に入ろうとした二年生が、怪異に遭ったって大騒ぎになったらしくてさ、そのあとチェンメが回ったんだ」
「へぇ……」

 怪談話ねぇ、と喉元に出かけた言葉を曖昧に濁し、雪弥は頭をかいた。
「それ、元々この学校にあった噂なの?」

 雪弥が尋ねると、修一はジュースで喉を潤しながら首を振った。

「昔からある話だって聞いてるけど、俺はつい最近知ったな。他の奴らも初耳だって言ってた。でもさ、山神様の話は昔からあるし、そういうのもあるんだろうなって――」

 旧帆堀町の頃からあるという、地域の祭りを修一は話し出したが、雪弥は引っかかりを感じて考え込んでいた。

 学校の七不思議は有名であるが、幽霊を一向に信じない雪弥にとって「そんな噂を流して何が楽しいのか」というのが正直な感想だった。しかし、ふと、そこに別の目的があるとしたらという疑問を覚えて考え直した。

「噂が回ったのは、いつ頃なのか訊いてもいい?」
「新学期が始まった頃だっけ」

 話しを中断した修一が、そばパンを食べている暁也に問い掛けた。彼は大袈裟に顔を歪めながら食べ物を噛み砕き、数十秒の間を置いて「五月に入った頃だったろ」とぶっきらぼうに答える。

 麻薬の卸し業者が発見されたのは五月である。雪弥は「そうなんだ」と心もなく応答して、斜め上へと視線をそらした。修一が「確かにそれが起こったんだから、噂は本当だったんだよ」と楽しげな声を上げた。

「二年生が肝試しやったって話しただろ? 噂が出回ったとき、じゃあ確かめようってなったらしいぜ。正門越えた時、何か聞こえるって騒ぎ出した女の子がいて、そのとき学校にぼんやりと浮かび上がる白いものを皆で目撃したって聞いたな。それから一気に噂が広まったんだと思う」

 思い出すような顔で、修一が言葉を続ける。

「声が聞こえるって騒いでた女の子が学校に来なくなって、土地神様って件名の送り先不明のチェンメが出回って、うちは大騒ぎさ。学校に来なくなったその子が、連絡途絶える前に『土地神様が』って同級生に相談してるし、大学生も先生たちも気味悪がって早く帰るようになったらしいぜ? う~む、こりゃあまさしく怪談!」

 修一は満足そうに締めくくると、手を止めていたアンパンを食べ始めた。

 東京で起こっている事件と、タイミングは合っている。まさかなと思いながらも、勘が嫌な方向に働いて雪弥は強い苺味を喉に流し込んだ。しばらく間を置いたあと、途切れた会話を繋げるように言葉を投げかける。

「……その女の子って、どんな子なのか知ってる?」
「おう、吹奏楽部にいた大人しい感じの可愛い子って聞いてるぜ?」

 修一がそう答えた矢先、暁也が間髪入れず鼻を鳴らした。どうしたのさ、と振り返る修一に、彼は馬鹿を見るような目を向ける。

「途中で世遊びに走って退部したらしいぜ? 五月くらいから深夜徘徊の常連メンバーだった。バイクで走っている時によく町で見かけたけど、ケバイ格好とか半端なかったし、見掛けるたび男と一緒だった」
「うっそ! マジで?」
「おう、マジだ。やばい感じの男だったぜ。ありゃあ、もう退学になっても文句はいえねぇだろうな。本人も学校に来る気はないみてぇだし」

 飛び上がる修一の横で、暁也は他人事だった。積み上げられた食糧を物色している。
 対する雪弥は、神妙な表情で沈黙していた。彼の中では、暁也が語った「やばいの感じの男」と二年生の女子生徒についての関係が、なんとなくの単純なイメージ一つであっけなく繋がり始めていた。


 白鷗学園にヘロインと覚せい剤を持ちこんだ外部関係者と、覚せい剤常用者の構想がぼんやりと浮かび上がる。

 怪談話は、夜の学園に人を近づけないためにでっち上げたものだとすると、これから大きな取引きを行うというのも、あながちガセでもなさそうだ。二つを関連付けると、どこか予防線を張っているようにも感じる。


 もしこの高校生も共犯者となっているのなら、やはりナンバー1が言っていたように、推測通り高校生も覚せい剤に手を出していないとは言い切れなくなる。厄介なヘロインが動いていないという保証もなかったが、覚せい剤については、内部で配っている者がいて、確実に出回っていることを雪弥は思った。

 覚せい剤は、興奮と覚醒の薬物である。摂取によって脳が強制的に覚醒するため、効果が出ている間は全く眠気を感じず、記憶力も高いままが持続する。

 日本で多く乱用されているのはメタンフェタミンだが、それは主に吸引型だ。合成されたものには手軽に口内摂取できる種類もあり、気軽に始められるとして、今でも社会人だけでなく学生の間でも多く出回っている。

 ヘロインは強烈な快楽を及ぼし、直接脳内で強く作用させるため、静脈注射や筋肉注射が主だった。値段も麻薬の中で一番高価であり、規制が厳しいので簡単には手に入らない。

 注射器を使う事への謙遜もあって、ヘロインが学生内で出回る事はほとんどなかった。協力者が覚せい剤に手を出していない可能性も捨てられないので、その女子学生の現状については、薬物によって欲が剥き出しになっているとも推測できる。

「大人しい子だったって聞いたけどなぁ」

 ややあって、修一が一人呟いた。

 暁也が空になったパンの袋をくしゃくしゃにしながら「どうせ聞いただけの話だろ。俺は今年に入ってからのあいつしか知らねぇ」と、刺のある言葉を返す。

「お前が言う祟りとか呪いとかだってんなら、そのせいですっかり人が変わっちまったっていう事になるんだろうな」
「むぅ、なんか厳しい発言だ……もしかして、怒ってんの? 確かに暁也、そういう話とか好きじゃないだろうけどさ」

 でも幽霊も怪談も、きっと本当にあるんだぜと修一が唇を尖らせた。そこに非難の感情はなく、好きでもない話を聞かせて気分を悪くしてしまったのなら申し訳ない、という本音が滲んでいた。

 そんなちょっとした気分の沈みを察知して、暁也がフォローするようにこう言った。

「別にそんなんじゃねぇよ。ただ、本当はそういう奴だったのかも知れないって話さ。人間、どんなに取り繕っても、根本的な芯みたいなやつは簡単に変われるようなものじゃないだろ。いい奴はどんなに悪党ぶっても悪い奴にはなりきれねぇし、悪党はどんなに善人ぶっても、結局は悪党のまんまなんだ」

 暁也は言葉を切ると、食べ物が空になった袋をくしゃくしゃにした。彼を見つめている修一は、よく分からないといった表情で首を傾げる。


――どんなに善でいようとしても、結局のところは〔悪〕なのだ。


 思考を続けていた雪弥は、暁也の台詞に引きずられるように、そんな見えない言葉の羅列がすっと自身の身体を突き通すのを感じた。
 ついと顔を上げて彼を見つめたものの、一瞬さざ波を立てたはずの心にはすでに静寂が戻り、彼の中では無意識に情報整理と推測が再開されていた。自分が何かを感じて、何かを想ったはずだが、どうしてか覚えていない。

 暁也の言葉を聞いた時、雪弥は何かを思い出していたはずだった。しかし、再び静まり返った頭の中では「高校生の中にも覚せい剤を配っている者がいる」と推測された事項ばかりが上がっていた。

 多分、気のせいなんだろう。

 個人的な心情を置き去りにし、雪弥は仕事へ意識を戻す。

 滅多に開閉されなくなった旧地下倉庫に、大量のヘロインがあるらしいという事に関しては、恐らく事件の内部関係者の手引があっての事だろうと容易に推測される。そして、それなりに大学側で地位を持っている者でないと難しい。

 入手した情報が次から次へと推測を重ね、頭が重くなると同時に耳鳴りがした。

 雪弥は視覚で映し出される風景の向こうに、脳裏を流れていく映像や思考をぼんやりと眺めた。高校生に混ざってのんきに過ぎしている間に、蒼緋蔵家はどうなっているだろうか、と、ふと思ってしまう。


 休みがあれば、大ごとになる前に、蒼緋蔵家の問題もあっさり片づけられるはずであった。話し合いをする時間があれば、少なくとも心に余裕は生まれる。

 仕事の合間だとゆっくり考えられる時間もなく、父から連絡があったとしても、どちらかと言えばほとんどのらりくらりと言葉を交わしていただけだった。思えば、これまでおろそかにしていた事が、今になって一気に来ているような気もする。


 曖昧になっていた蒼緋蔵家との関係を、はじめから妥協の余地もなく断ちきってしまっていたら、どうだったのか。

 唯一の家族の繋がりのようにも思えて、母が愛していた『蒼緋蔵』の名字はそのままにしていた。権利関係から一切離れる法律上の手続きは行ったが、父達の意見もあって、その際にわざわざ名字だけは残す方法を取った。

 特殊機関の雪弥は、部下やそのとき使う人間には妥協したりしない。「家族でしょう?」と声を震わせる亜希子や父に構わず、蒼緋蔵の名を突き返して「家族とは紙一枚の関係ではないでしょう」と断言し、どこの誰でもないただの『雪弥』となっていれば、こんな面倒な事に巻き込まれなかったのだろうか?

 雪弥は不意に、過去の記憶を思い起こした。小学生の頃母が倒れて入院し、一軒家でたった一人になってしまった日の事だ。

 あの日は、ひどい雨が降っていた事を、今でもはっきりと覚えている。雪弥は訪ねて来た父に「縁を切ってください」と、専門の手続き書類を突き付けた事があった。彼はその時、「私の息子でいてくれ」と膝を折って抱きしめてきた父を、拒むことが出来なかったのだ。


「おい、雪弥? お前、なんか怖い顔してるけど――」


 その一声に、雪弥の思考は現実へと引き戻された。

 視界に近づく何かを見て彼が反射的に掴むと、「いてっ」と幼い声が上がった。そこでようやく、修一が自分に手を伸ばしていた事に気付いた雪弥は、慌てて力を緩めてその手を放した。

「ご、ごめん。考え事してて……その、驚いたというか」
「驚かしてごめんな。というか、お前って意外に力あるなぁ」
「あ、うん……」

 そうだね、と雪弥は小さく続けた。ひやりと感じた悪寒を隠そうと、笑みを浮かべるものの、今にも引き攣りそうになる感じがあるのを拒めなかった。
 それまでの思考が一気に吹き飛んだ脳裏に横切っていたのは、昔国家特殊機動部隊総本部で行われた戦闘実験である。視界を塞がれた状態、両手を拘束された状態など様々なパターンで何十何百と検査が繰り返されたものだ。

 その結果、雪弥の身体はハンデや五感のどれを塞がれようとも、常に外敵に対して敏感に反応し対処すると分かった。己の反射行動より、もし冷静な思考回路の反応が遅れていたとしたら、雪弥は一瞬にして修一の腕を壊したあと、完全にねじ伏せていただろう。

 内心血の気を引かせる雪弥に気付くこともなく、修一は思い出したように表情を輝かせ「そういえば昨日ストリートバスケの」と話しを切り出した。彼は話しを進めながら、三人の中央に置かれて残っていた最後のオニギリを手に取る。

 よく食べる子だなぁ、と雪弥は思い掛けて苦笑した。


 実をいうと雪弥は、昔から満腹を感じたことがなく、出された分だけすべて平らげてしまうという底なしの胃袋を持っていたのだ。

 そんな自分が言えるような台詞でもないだろうと考え直し、取り繕うようにぎこちない作り笑いを浮かべて、話題があっちへこっちへと飛んで行く修一の話しに付き合う事にした。

 暁也は、そんな雪弥の様子をじっと観察していたのだが、抱いた違和感が強い殺気だと気付けなかった。しばらくすると唐突に話を振って来る修一のペースに巻き込まれ、目と表情で語っていたそれを「馬鹿かお前は」と、二度も口にする事になったのだった。

          ※※※

 白鷗学園高等部に転入した初日、雪弥が「内気で進学に悩みを抱える本田雪弥」としてようやく落ち着きだしたのは、放課後の事である。友人の幅が広い修一によって、昼休みに仕入れられた情報が生徒たちの間に行き渡ったためだった。

 その間、雪弥も情報を流すことを怠らなかった。午後の授業でクラスメイトに話し掛けられた際、「一人になりたくて、マンションの一室を借りている」と答えた台詞も、少年少女の好奇心をくすぐった。

 会話にさりげなく自身の設定を折りこんだため、クラスメイトたちは放課後になる頃には、すっかり転入生の事を知った気になっていた。「医者の息子らしい」「東京にその病院があるみたいだぜ」「母親は美容会社の社長だって聞いた」と、しばらく生徒たちの話題は収まらなかった。

 尋ねる事がなくなれば、生徒たちはもう質問を投げかけてこないだろう。わざと自分から情報を流した雪弥の思惑と推測は、たった二人を除いて的を射る結果となった。

 昼休み以降、修一と暁也が予想以上に世話役を発揮してきたのだ。

 何かと絡んでくる彼らは、放課後になってすぐ、校内を案内するとして強引に話が決まりそうになった。本日の学生任務を終了する前に少し調べたい事があった雪弥は、「勘弁してくれ、仕事させて……」とうっかり本音がこぼれそうになった。

 その矢先、弱々しい独特の咳払いが聞こえて、修一と暁也が揃って動きを止めた。

「修一君、暁也君、先生とお話ししましょうか…………」

 ぼそぼそとか細い声が上がった瞬間、二人の少年は後ろ襟首を掴まれていた。

 そこに立っていたのは担任の矢部で、「今日は逃がしません」ともごもごと言ったかと思うと、彼らを進路指導室に連れて行ってしまったのだ。それを見送った雪弥は、今日初めて爽やかな笑顔を見せた。
 修一と暁也を見送ったあと、雪弥は教室を出て校内を散策するように歩いた。声を掛けて来る生徒に「転入生で、少し校内を見て回っているんだ」と答える彼の足取りに迷いがないのは、彼の頭に白鷗学園の見取り図が入っているためだ。
 
 途中擦れ違った三学年の女英語教師は、「うちの造りは複雑じゃないけど、迷子になりそうだったら誰かに声を掛けるのよ」と心配したが、雪弥は曖昧に言葉を濁してその場をやりすごした。


 白鷗学園は、高等部側と大学側に敷地を二分しており、高等部は北東から西南にかけて校舎を広く建築していた。少人数制で四クラス分の教室を一列に構えているが、多種多様に機能できる部屋をいくつも設けて生徒たちに開放している。

 生徒たちの教室は一階から三階までの北側に位置しており、中央に職員室と事務室を設けた一階フロア上部に、移動教室用の部屋が続いた。

 学年全員が収まる広々とした視聴覚室と小さな放送室を三階に置き、南側には他に、図書室や音楽室、美術室や工作室を挟んでたくさんの教室がある。「第二」「予備」と各教科の専門用具が取り揃えられた部屋の他、申請があればいつでも使用することが出来る空き教室も複数あった。

 雪弥が向かったのは、南側の三階端に設けられた第二音楽室だった。

 第二音楽室は、声楽や勉強を主とする第一音楽室とは違い、多くの楽器が取り揃えられた倉庫を持っていた。楽器に関連した授業以外は、備えられている椅子と机は教室の奥に下げるのが定位置だ。学園創立時から部員の少ない吹奏楽部がそこで活動しており、隣接する第一音楽室はコーラス部が拠点を構えていた。

 修一から聞いた二年生の女子生徒の話を聞くため、雪弥は今回、第二音楽室へと足を運んだのだ。広い室内は木目調の柄が床一面を覆い、白が強調された肌色の壁には、音楽誌に残る偉人たちの写真が並ぶ。

 六月の生温い外気温に対して、その音楽教室には、肌寒さを感じるほどの冷房がかけられていた。室内には一年生から三年生までの女子生徒が七人おり、立てられた譜面を前にトランペットやトロンボーンなどの金管楽器を演奏していた。

 部活動が始まったばかりのようで人数は少なく、部員達はそれぞれ自分の音を奏でていた。

 基本的な音階を上下へと練習している生徒もいれば、よく耳にする簡単な曲調の音を奏でている者もあった。マウスピスに口を押しあてる女子生徒たちの顔は真剣そのもので、赤くなった顔に浮かぶ汗を拭うこともなく息を吹き込んでいる。

 雪弥は音楽室のガラス扉を開けて、飛び交う音の中から「線路は続くよ」の曲を奏でるトランペット音をしばらく聞いていた。一人の少女が一息つくように楽器から口を離したとき、ふと目があって口を開く。

「あの、すみません。ちょっといいですか?」

 雪弥の声は大きな楽器音にかき消されたが、気付いた少女の合図によって全員が音を止めた。「誰だろう」というように雪弥を見つめる女子生徒たちの唇は、腫れるようにして少し赤い。
 小さな疑問の言葉が細々と上がったが、その中で一人の少女がトランペットを置いて雪弥のもとへとやってきた。膝上の青いスカートが少女の歩みに合わせて揺れて、腿下の白を覗かせる。

 雪弥の前に立った女子生徒は、小柄な体躯をしていた。丸みを帯びた少し長めのショートカットに、花弁のように膨らんだ小さな唇と大きな瞳が印象的だった。すっと伸びた細い手足は白く、少し困惑するように微笑んだ顔は、清楚な美少女を思わせた。

「あの、何かご用ですか?」

 フルートの旋律に似た澄んだ声が、遠慮がちにそう尋ねてきた。

 細い眉を吊り上げた別の女子生徒が立ち上がる様子を視界の端に捕えながら、雪弥は、どう切り出そうかと考えて口を開いた。

「少し前に退部した二年生の子、いたよね。少し彼女の話を聞きたいなぁと思って……」
「えっと、理香ちゃんの、ですか?」

 呟いた女子生徒の顔に、神妙な表情が浮かんだ。彼女はすまなさそうに一度視線をそらし、伏し目がちに「あの、申し訳ないのですが」と続けた。

「理香ちゃんは、先月の五月に部活を辞めてしまって、それから私も部員の子たちも会っていないので……」

 雪弥は質問のため口を開きかけたが、困ったような女子生徒の様子を前に、出かけた言葉を飲み込んだ。

 どうしようかなぁと迷っていると、やって来た別の女子生徒がその少女の肩に手を触れて「先輩」と声を掛けた。「私に任せて下さい」と目で伝えるように頷いたかと思うと、彼女が雪弥の前に立った。

 天然パーマの入った髪を、高い位置で一つにまとめている少女だった。背丈は初めに声を掛けてきた女子生徒と同じくらいだが、その体躯はしっかりとしていた。

 腿辺りで揺れるスカートからは筋肉の付いた足が覗き、あどけなさが残る顔には薄化粧がされている。つり上がった瞳は憮然とした様子で雪弥を見上げ、その女子生徒は仁王立ちで腕を組んだ。

「二年二組の、新城香奈枝(しんじょうかなえ)です」

 ぶっきらぼうに言葉が吐かれ、雪弥は数秒遅れて「三年の本田です」と答えた。戸惑う彼に、香奈枝と名乗った女子生徒はこう続けた。

「先輩も、理香に遊ばれたんですか?」
「は。え、遊ばれた……?」

 マスウピスの形が残る薄い唇から出た言葉は、直球だった。雪弥は思わず、一体誰が誰に遊ばれたというのだろうか、と呆気に取られた。

 その様子を「先輩」と呼ばれていた三年生の女子生徒が見ていたが、小首を傾げた後、何かに気付いたように「あ」と唇を開きかけた。しかし彼女よりも早く、唇を尖らせた香奈枝の方が先に発言した。

「今年に入ってから何人もこうして来られましたけど、うちに来ても何の解決にもなりませんからね。理香は惚れやすくて飽きやすいみたいで、顔が良い人には誰にでも声を掛けていたんですよ」

 香奈枝の斜め後方にいた女子生徒同様、雪弥も疑問の声を上げようとしたが、やはり彼女の方が次の言葉を紡ぐのが早かった。苛立ったように早口で話したかと思うと、短い息を吸い込んですぐにマシンガントークを再開したのだ。