蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~

 なるほど、どうやら優等生らしく正しく英文を和訳できたらしい。

 雪弥はそれ以上何も言わず、口元に微笑をたたえて意味もなく手の中のシャーペンをもて遊んだ。しばらくそうしていると、二人の少年が「気のせいだったのかな」という顔で目配せをして、正面に向き直っていった。


 その時、重々しいチャイムが鳴り響いた。心臓を震わせる音色に、すべての生徒が魔法にかかったように動きを止める様子に目を向けて、雪弥は回していたシャーペンを止めた。


 ああ、懺悔の鐘か。

 聞いてすぐ、エージェントだった尾崎が設置したのだろうと察した。それは特殊機関本部を含めたすべての支部に定期的に流れる音色であり、罪を犯してはならない、犯した罪を忘れてはいけない。それでいて同じ過ちを繰り返してはならない、という意味があった。

 自分たちに寄越される依頼は、ほぼ処分決定が下ったものがほとんどだ。生きて返さず、命を取る事で任務が終了する。

 皮肉なものだ、といったナンバー1の言葉が雪弥の脳裏に横切った。お前は人が子孫を残す遺伝子レベル同様に、命を奪うこと、殺すという行為を本能的に知っているのかもしれない、と言って彼はらしくないほど悲しげに笑った。

 雪弥は十七歳の頃、彼に「だからこそ、命が消えるという重みを理解し難いのだ」と言われた。なぜかその言葉が鋭く突き刺さったのを、今でもはっきりと覚えている。

 その思い出に引きずられるように、殺すために生きているのだろう、とどこかのエージェントに一方的に非難された出来事が蘇った。サポートにあたっていた同僚たちが嘔吐する中で、サポートリーダーだった男がこう喚いたのだ。


――なぜッ、なぜ必要もなく『標的』共をバラバラにしたんだ! チクショーお前は、血も涙もない化け物だ! 俺はッ、俺は……! 

――お前とだけは一緒に仕事をしたくない!


 怨念のような呪いの声のすぐあと、ナンバー1がよく口にしていた「それでもお前は人間なんだ」という言葉が記憶の向こうから聞こえた気がした。別に気にしていないというのに、どうしてか彼は、そう言われて非難されるたび茶化しもしないで、雪弥が人間である事を勝手に肯定してくる。

 命は大事だ。僕はそれを知っている。

 生きている者は、壊れないように優しく扱わなければいけない。

 脳裏に焼き付いて離れない様々な声を、自分の言葉で塗り潰し、雪弥は授業終了を告げるその音を聞きながら、祈るように目を閉じた。
 何故そうなったのか、雪弥自身分からなかった。

 必要最低限の情報を与えたはずだと気を許した午前最後の授業後、彼は突然集まった女子生徒たちに、めまぐるしい質問攻めをされた。血液型、正座、好きな子がいるのか、可愛いと思う女優やモデルは誰か、どんなお菓子が好きなのか……

 思わず空いた口が塞がらないといった他の男子生徒たちの中で、修一が冷静に対応して雪弥をそこから連れ出した。

 授業終了直後、もう一つあった驚きは、暁也がまるで脱兎の如く教室を飛び出していった事だろうか。雪弥は彼の行方を知らなかったが、どこからか朝聞いたぼそぼそ声が「あ~き~や~く~ん~」と無気力に低く響き渡ったのを聞いた。

 なるほど。生徒指導か何かであるらしい。

 そう察して聞こえない振りをしたのは、雪弥以外の少年少女も同じだった。


 修一は雪弥を連れて売店を案内がてら食糧を確保した後、教室から連れ出したさい耳打ちした「ゆっくり出来る最高の場所」へ向かった。


 三年一組の教室前を過ぎた先にある階段は、普段使用されていない。窓も電気もないばかりか、中腹の折れ目から階段は人が二人並んで歩ける幅しかなく、換気の行き届かない湿気臭さが残っている。

 慣れたようにその階段を上がった修一は、「立ち入り禁止」の看板がかかった屋上扉の前で立ち止まった。

 白鴎学園は、高等部も大学校舎も屋上への出入りが禁止されている。まだ比較的新しい校舎とはいえ、ほとんど開閉のされていない扉は、先に二十年ほど時を過ごしたように所々錆かかっている。しかし、修一は掛かっている鍵も「立ち入り禁止」の看板も構わず、ポケットから小さな物を取り出してドアノブへと近づいた。

 まさか、と雪弥が思っているそばから、数秒もかからずにカチっという金属音が上がった。片手に食糧を持ったまま、修一がドアノブに伸ばした手を右へ左へと動かし、数十秒もしないうちに扉の鍵を開けてしまったのである。

「へっへーん、こんなのちょろいぜ」

 修一は扉を押し開けながら、卒業した先輩から教えてもらったのだ、と自慢げに語った。雪弥は呆れて物も言えなかったが、ドアノブごと素手で切り落とす自分よりはマシかと思い直し、大人として注意することもなく屋上へと足を踏み入れた。

「暁也が来るから、鍵は開けたままにしておくぜ」

 こちらへの説明とも、楽しげな独り言ともつかない修一の声を聞いて、雪弥は「はぁ」と間の抜けたような返事をした。

 修一が先に屋上の中央部分で腰を下ろし、売店で買った紙パックのジュースとパンを広げ始めた。授業風景を見て思っていたが、二人は昼食を共にするくらい仲がいいのだろうか、と一人悩む雪弥を脇に、ふと空を見上げて「あの雲、俺が買ったメロンパンみたいじゃね?」と楽しそうに言う。

 白鴎学園高等部の屋上は、外壁や内装の色とは違い、灰色に近い白をしていた。

 高等部正門に対して後方となる西側には、白い壁で造られた大学校舎が見える。こちらからは双校舎の間にある中庭は確認できないが、二メートルの金網フェンスを覗きこめば見下ろすことが出来るだろう。

 雪弥は思っただけで、行動に移すことはしなかった。国立の大学や名門大学に比べると敷地はやや小さい、研究所や分館に似た印象を受ける大学校舎を静かに眺める。
「立派なもんだろ?」

 じっとそちらを見つめていると、先に腰を降ろしていた修一がそう言った。座ることを忘れていた雪弥は、うっかりしていたとは表情に出さず「そうだね」と答えて、彼の向かい側に腰を下ろす。

 陽差しはあるのだが、地面はひんやりとして冷たかった。風も時々強く吹き、排気ガスにも汚れていない新鮮な空気が心地よく身体を包みこむ。白鴎学園の規模についての感想は胸にとどめ、雪弥は修一の意見を肯定するように頷いて見せた。

「あれは、大学だったよね? パンフレットに載っていたのを見たよ」

 何気ない雪弥の切り出しに、パンの袋を開けていた修一が声を弾ませた。

「おう。教員免許が取れる付属の大学さ。うちで教師目指してるやつらの大半は、あっちに進学希望を出してるぜ。設備は良いし就職にも強くてさ。それに、地元に住んでいれば学費も安いんだ」
「ふうん、でも廊下歩いているときちらりと見たんだけど、ほとんどの生徒は教室で受験勉強していたね」

 そうなんだよな、と修一は手元に視線を戻して相槌を打つ。

「まぁ付属の高校って言っても、一般入試とかは他校の受験生と変わんないと思うし、進学がかかっていることにかわりはねぇじゃん? 就職サポートもしっかりしてるし、入学金免除で授業料も破格。金銭面で進学を諦めていた奴らも絶対合格するって勢いだし、県内にある他の大学とか、県外の大きい所に進学希望している奴らもいるから、俺らの学年だけぴりぴりしてんのよ」

 袋からチョコパンを取り出した修一は、そういえば、という顔をして手を止めた。

「そうそう、うちの高校はさ、付属の大学じゃなくてもいろいろと手助けしてくれる制度があるんだよな。試験会場までの交通費支給とか、試験代が免除とか、小難しい名前の……なんとか支援ってのがあるわけよ。確か、えぇっと、県か市のやつだったかな?」

 難しい部分をすっ飛ばし、修一はパンにかぶりついた。

 雪弥は「それ、尾崎理事、もとい尾崎校長が個人で建てた財団だよ」とは言えずに口をつぐんだ。返す言葉も思いつかず紙パックの苺牛乳にストローを差した時、もう一度パンにかぶりつこうと、口を大きく開いた修一が、思い出したように声を掛けてきた。

「考えたらさ、お前いい時期に転入してきたな。皆進学の事で頭がいっぱいだから、転入生騒ぎも数日続かないと思うぜ」
「それは嬉しいな」

 パンにかぶりつく修一を前に、雪弥は乾いた笑みを浮かべた。これ以上若い子が思いつくような話題を続けられるねような言葉も見つからずに、自分もパンの袋を開ける。

 言葉使いを不審がられても困るので、必要以上に話すことは避けたい。そう思いながら口にしたメロンパンは生地が硬く、表面にたっぷりとつけられた砂糖がぼろぼろと落ちて風に飛んでいった。
 雪弥はパンをゆっくりと噛みしめながら、なんだか少し悲しい気持ちになった。

 今回の任務内容を知ったとき「絶対無理だよ」と思ったそれが、今見事に成功しているのだ。疑う生徒や教師がいないばかりではなく、自分はすっかり架空の高校生「本田雪弥」として白鴎学園高等部に溶け込んでいる。


 とはいえ、全く心は落ち着かない。学生の中におじさんが一人混ざっているなんて、くつろげるものではない。


 十代だった頃は地元の学生を装うことも平気だったが、すっかり大人となった今では、コスプレで町のド真ん中を歩いている心境であった。「せめて教師の設定にして欲しかった……」と彼は思わずにはいられない。しかし、教師に変装した場合、なんだかその方が返って怪しまれそうな気もする。

 雪弥は、胃がきりきりと痛むような居心地の悪さを堪えた。味も分からぬまま、ゆっくりとメロンパンを食べ進める。

 素性がばれるような財布や携帯は、ナンバー1の指示通りマンションに置いてきた。現在ポケットに入っているのは、小銭と札を一緒に入れるタイプの小さな財布と、『グレイ』だけが登録された替わりの携帯電話だけである。

 現在の潜入状況だと、言動と行動に気をつければ「二十四歳になるおっさん」だとばれる可能性はないだろう。念のため、同じ大人である教師との対話は避けた方がいいかも……と、雪弥は苺牛乳で渇いた喉を潤した。

「なぁ、雪弥」
「え? ああ、何?」

 腕時計も置いてきたし大丈夫だろう、と自分を落ちつかせていた雪弥は、コンマ数秒遅れで返事をした。修一は顔をこちらに向けたまま、オレンジジュースの紙パックから伸びているストローをくわえている。

「やっぱり新しい学校だと、落ちつかないだろ」
「え、うん、そうだね。落ちつかないな」

 雪弥は、答えながら視線をそらした。無線で代わりに話してくれる部下がいればいいのに、と心の中で呟きながら次の言葉を探す。

 そんな彼の思考を中断したのは、陽気な少年の声であった。

「大丈夫! すぐに慣れるさ」

 そう言った修一は、無邪気な笑みを覗かせて新しいパンへと手を伸ばした。次は大きめのクリームパンである。顔いっぱいに笑みを浮かべたその表情は幼く、体格が大人に近いとはいえまだまだ子供だ。

 雪弥はすぐに「そうだね」と答えたかったのだが、慣れるという言葉には頷けず、ぎこちない笑みで沈黙を取り繕った。それは無理だろ、と言いかけた口を素早く別の言葉に置き換える。

「えっと、そうだね。僕は内気で人見知りだから、君がいてくれて心強いよ」
「お? そうか?」

 修一はまんざらでもなさそうに言って、クリームパンの入った袋を景気良く開けた。先程食べたチョコパンの袋は、風で飛ばないように腿の下に挟まれている。

 雪弥は半分になったメロンパンを持ったまま、中央に広げられている食糧へと視線を落とした。

 焼きそばパンが三つ、チョコチップメロンパン、カメの形をしたクリームパン、アンパン、梅オニギリが二つ、鮭オニギリが三つ、野菜と卵のサンドイッチお菓子のポッキーとジャガリコが一つ……

「それ、全部食べるつもり?」
 目で数えるのをやめて尋ねてみると、修一はクリームパンにかぶりついたまま「当然」と答えた。

 成長期か、なるほど……つい二十四歳目線からの感想が浮かんだ雪弥は、世代間を感じる独白をした自分にダメージを受けた。意識次から次へと若い子との差暴露しそうな予感にかられて、自己判断で思考をとめる。


 しばらくすると、屋上の扉が開いて暁也が姿を現わした。

 彼は乱暴に扉を締めると鍵を掛け、苛立ったような足取りでやって来た。眉間に刻まれた深い皺は、傍から見てもわかるほど彼の気持ちを見事に物語っている。


「やあ。その、さっきぶり……」
「おう」

 雪弥に短く答え返し、暁也は二人の間にどかっと腰を降ろした。「荒れてんなぁ」と修一がクリームパンを頬張りながら述べると、彼は思い出したように険悪な表情で舌打ちした。

「指導教員の樋口(ひぐち)の野郎が、性懲りもなくまた俺を呼び出しやがってよ……つか、矢部の野郎もしつこい!」

 暁也はもう一度舌打ちし、持ってきた缶ジュースを開けた。

 進路調査表すら出していない暁也は、今日も生活態度を含めた事について、三学年の生徒指導を担当している樋口に呼び出されていた。樋口は科学を担当している教師で、病気がちで今にも死にそうな弱々しい口調で説教をする、という変わった男である。

 呼び出しに素直に応じない生徒を、体力もない樋口のもとへと連行するのはいつも矢部の役目だった。彼もまた不健康そうな男なのだが、片足が悪いという事情を上回る教育熱意を秘めているようだ。

「先生たちだって、逃げるから追って来るんだぜ? 素直に話し聞けばいいじゃん。暁也頭いいのに勿体ねぇって。ちゃんと進学する大学決めとけよ」

 お前ならどこでも行けるじゃん、と修一はクリームパンの最後の欠片を口に放り込んだ。そんな彼を横目に見つめる暁也の顔には、怪訝そうな表情が浮かんでいる。

「ふん、お前のことも探してたぜ?」
「俺は矢部先生の話も、樋口先生の話もちゃんと聞いてるぜ? まぁ毎回同じことばっかりだけど。もう少し成績上げないと、どこにも行けないんだってさ」

 他人事のようにあっさり述べた修一は、口元を引き攣らせる暁也にも気付かずにジュースを口にした。雪弥はそんな少年たちのやりとりを聞きながら、口に残ったメロンパンを苺牛乳で流して一息ついた。

 会話が途切れた三人の間に、強い風が吹き抜けた。日差しで熱を持った髪の中が冷えていく心地良さに、雪弥は自然と頭上の空を仰いで目を細めた。

 穏やかな時間の流れをぼんやりと思い、苺牛乳を足の間に置いて両手を後ろにつく。体勢を少し崩しただけなのに、朝から緊張し続けていた身体が休まるのを感じた。

 暁也が修一から梅オニギリを受け取り、ふと怪訝そうな顔を雪弥へと向けた。

「何か話せよ」

 唐突な要求である。雪弥は視線を戻すと、「突然言われてもなぁ」と小さく苦笑した。

 その様子を見ていた修一が、満足そうに腹をさすりながら口を開く。

「無理言うなよ、暁也。雪弥は、内気で人見知りらしいから」
「へぇ、そうかい」

 聞き入れた様子もなく答え、暁也はオニギリを食べ始めた。修一の言葉に一つの信憑性も感じていない顔である。
 雪弥は「これから、そうだと思ってもらうようにしていけばいいか」と気楽に考えて二人に向き直った。自分の仕事をこなすためでもあるが、多くの少年少女に溢れて落ち着かない中で息抜き場所の確保も最優先だと考えて、まずはさりげなく言葉を切り出す。

「君たちは、いつもここに来ているの?」
「うん、そう」
「僕も、これからお邪魔してもいいかな」
「大歓迎さ。な、いいだろ? 暁也」

 修一が問い掛けると、オニギリを食べ進めていた暁也が「好きにしろ」と短く言った。

 情報収集も必要だが、怪しまれないことがまずは大切である。すぐに情報収集を始めても怪しまれるだろうし、雪弥は先程の話の流れを思い返して、話しかけ易い修一に声を掛けた。

「受験生だけど、進学の件はまだ決めていないの?」
「うん? 俺? 進学とか全然考えてないなぁ。就職でもしようかなって思ってんだけど……ほら、俺頭悪いし」
「転入して来たばっかで、こいつがそれ、分かるわけねぇだろ」

 当然なことを口にした暁也に、雪弥は「その通りだね」と本心から口にして苦笑いを浮かべた。世代も違う見知らぬ少年ではあったが、なぜだが修一が放っておけず自然と言葉を続ける。

「でも、進学って大切なものだと僕は思うよ。将来なりたいものとかないの?」
「う~ん、特にないんだよなぁ、これが。部活一筋で来たのに突然、将来について考えろって言われてもなぁ…………」

 修一は言葉も見つからない、といった様子に視線を泳がせた。数十秒ほど考えるような仕草をしたが、すぐに考えることを諦めて別の話題を暁也へと振る。

「そういえば、お前はどうすんの? 俺、そういうの聞いたことないんだけど」

 こいつ全部放り投げたな、と暁也は勘ぐった顔をしたが「言ったことなかったからな」と話を合わせた。

「親父は、俺にキャリアの警察になって欲しいみたいだぜ? 東大法学部に行って国家公務員Ⅰ種取って、採用されたあと警察大学校……ちッ、奴がいっつも小言みたいに言うから、すっかり覚えちまったな。考えるだけでも疲れる」
「なんだか、いろいろと難しくてよく分かんねぇけど、すごいのなぁ。お前なら絶対出来そう」

 そう言った修一は、大半の言葉を理解していない。頭上の青空をゆっくりと泳ぐ雲へと視線を逃がした彼の表情は、「あの雲、美味しそうな形しているなぁ」と語っていた。

 警察キャリアは狭き道である。国家公務員Ⅰ種試験合格者の中から毎年数十人しか採用はなく、採用後には小刻みの日程で研修が入る。幹部になる者に対して知識や技能、指導能力や管理能力を修得させるために警察大学校はあり、訓練を受けられるのは、その資格を持った幹部警察官だけとなっている。

 キャリアだと確かに昇任のスピードは速く、警部補から始まって本庁配属約二年で警部になれる。それから四年ほどで警視へと就けるが、その間に各警察署や海外勤務もあり大変だ。実績や功績も残さなければならず、学力や知識だけでなく武術も秀でている方が望ましい。

 暁也は虫けらを見つめるような目を修一に向けていたが、ぐっと堪えて視線をそらした。

「親父が自分の理想を、俺に押し付けようとしてるってだけさ。俺は親父のコピーでも何でもねぇのに、聞いて呆れるぜ」

 暁也は、吐き捨てた勢いに任せてオニギリにがっついた。
 これまで出会った刑事達を思い浮かべると、どんなタイプの人間がそれに向いている職業である、というくくりもないように感じる。それに、本人は不良だと口にしているが、そんなに悪い子じゃなさそうだけど、と思って雪弥は彼に声を掛けた。

「確かにいろいろと大変そうだけど、すごく格好良い職業だと思うよ」
「どうだか。不正を金と権力で黙らせる職業だろ」

 純粋に熱血なだけの警察もいるけど、とは実経験になるので言えず、雪弥は口をつぐんだ。暁也の言葉を聞いて脳裏にナンバー1の顔が浮かび上がり、少年組から顔をそらして口元にだけ薄ら笑みを浮かべる。

 すると、修一がくるりとこちらに顔を向けてきた。

「お前はどうなの?」

 鮭オニギリを手にした修一の口調は、明日の天気を尋ねるように軽い。ここでうまく話を盛り込めば、修一という生徒を媒体に、本田雪弥の生徒像が学園内によりよく定着できるかもしれない。

 そう考えた雪弥は、自分の設定を軌道に乗せるため、さりげなくその情報を入れることにした。一つ頷いて「うん、それが」と少し神妙な空気感で話しを切り出す。

「国立の医学部に行きたくて頑張っていたんだけど、勉強がうまくいかなくてさ……。ドイツ語と英語だけでは難しいから、ちょっと考えているところなんだ…………」
「……なんだか悪い事聞いちまったな、ごめん」

 言葉を濁すように台詞を切ると、修一が同情と謝罪が交じったような目を向けてきた。

 その視線が直視できず、雪弥は思わず目を泳がせた。仕事だと言い聞かせてようやく顔を向けるが、そこに浮かべた愛想笑いもぎこちない。しかし、それが返って信憑性を上げていた。


「勉強なら、今からでも全然間にあうだろ。諦めんなよ」


 その様子をじっと見つめていた暁也が、視線をそらした後で、どこか気遣うような声でそう言った。口調はぶっきらぼうだが、照れ隠しとも思えるような仏頂面でもある。
 
 珍しいな、といわんばかりに振り返った修一は、オニギリにかぶりついたまま暁也を見た。そのころころと変わる表情はひどく豊かで、思わず「若い子の特権だよなぁ」と思った自分に、雪弥はまたしても打撃を受けた。

 そっと視線をそらしたものの、気になってちらりと暁也を盗み見る。意外だったと感じたのは、雪弥も同じだ。

 父親の期待に反発して不良を装っているだけで、根は良い子だなと感じるものがあった。この年頃の子は、反抗期や思春期といった難しさがあり、真っ直ぐな親の言葉に反感を持ってしまうこともあると聞く。とげとげしさをまとう外見よりも、不器用な暖かさを持った子供らしさが、雪弥にはなんだか新鮮だった。

「まぁ、その、頑張ってはみるけど……うん、ありがとう…………」
「そっか、確かに今からでも間に合う、か」
「お前の場合は、まず将来を考えろ」
「暁也もだろ?」

 修一がそう言って、食べかけのオニギリを手に頬を膨らませた。雪弥は居心地の良さを感じ、ぎこちないながら、後ろめたさのない苦笑を浮かべていた。なんか、こういうのもいいな、と普通の高校生たちを見つめながら思う。

 オニギリに向き直っていた修一が、暁也へと話題を振ったのは、そのすぐ後のことだった。


「そういえば、また土地神様の祟りに遭ったやつが出たって噂、聞いたか?」


 好奇心たっぷりの声色でその台詞が聞こえた時、雪弥の中で、任務に関わる事だという勘が働いた。
 土地神様――そう切り出した修一の瞳は、好奇心でいっぱいだった。堪え切れない笑みからは片方の八重歯が覗き、内緒話をするような声色は弾んでいる。

 土地神様の祟りと話題が振られた瞬間、暁也はそれと対象の温度を見せた。

「お前、そんな噂信じてんのかよ」

 くだらない、といわんばかりに暁也が答えた。彼はオニギリを食べ終わり、缶ジュースを持ち上げた手を止めて胡散臭そうな表情を浮かべている。

 修一は、残りのオニギリをすばやく胃に詰め込むと、「だってチェンメ回ってたじゃん。見てないの」とせがんだ。そこに、雪弥はほぼ反射的に口を挟んでいた。

「それ、詳しく知りたいな」
「あれ、お前そういうの好きなのか?」

 疑う様子もなく、修一が活気に満ちた瞳で雪弥を覗きこんだ。冒険心が強そうな瞳と距離を置きつつも、雪弥は話を合わせるように頷いた。

「うん、前の学校では、いろいろと都市伝説とか集めていたよ」
「へぇ! そうなんだ、俺もそういう話し大好きでさぁ」

 気が合うなぁ、と続ける修一の横で、暁也はジュースを口にしながら、面白くもなさそうにパンの袋を引き寄せた。

 暁也にとって、修一という少年は、遠足や旅行先で歩き回るようなタイプで、好奇心の強さに底が見えない友人だった。単純思考だが行動力は強く、良く言えば、いつも自分の気持ちに素直な少年だ。

 非現実的な事柄にも興味を持っており、修一が「未確認飛行物体を探そうぜ」「畑に歩く薬草ってのがあるらしいから捕まえて飼おう」「森の精霊がいるんなら、きっと畑道にも何かいるかもしれない」そう提案するたびに、暁也は付き合わされていた。

 外を歩き回るのはまだいい、一番厄介なのは、修一が存在もしない物事を信じていることだ。そこだけが唯一、話が合わないところである。

 現実主義の暁也は、ありもしない作り話を延々と聞かされる事は好きではなかった。「クリスマスは早く眠らないとサンタさんが来ない」と聞かされるくらいうんざりしてしまう。

「うちの学校ってさ、夜の九時に一回鐘が鳴ったら、翌朝の六時まで鳴らねぇの。で、夜最後の鐘が鳴ったあと学校に入ると、土地神様に呪われるって話なんだ」
「祟りなんかあるわけねぇだろ。くだらねぇ」
「あるんだってば」

 口を挟んだ暁也にそう言ってから、修一は雪弥に聞かせるべく話しを再開した。

「最近一番有名な怪談なんだけどさ、この白鷗学園は昔、家も畑も作れない聖地だったらしいんだ。強い神様がいたから、ここに学校を建てるとき、坊さんがその土地神様と約束を交わしてさ。『子供たちの学びのためにこの場所をお借りしますが、夜の九時にはお返しします』っていうもので……」

 修一は怖い話を聞かせるように声を潜めたが、その声色は弾んでいた。

「その合図は、夜九時に鳴る最後のチャイムなんだ。俺たちの学校がその土地神様の領地に戻ったあと、敷地内にいたり、侵入しようとすると祟られるって噂だぜ? 肝試しで学校に入ろうとした二年生が、怪異に遭ったって大騒ぎになったらしくてさ、そのあとチェンメが回ったんだ」
「へぇ……」

 怪談話ねぇ、と喉元に出かけた言葉を曖昧に濁し、雪弥は頭をかいた。
「それ、元々この学校にあった噂なの?」

 雪弥が尋ねると、修一はジュースで喉を潤しながら首を振った。

「昔からある話だって聞いてるけど、俺はつい最近知ったな。他の奴らも初耳だって言ってた。でもさ、山神様の話は昔からあるし、そういうのもあるんだろうなって――」

 旧帆堀町の頃からあるという、地域の祭りを修一は話し出したが、雪弥は引っかかりを感じて考え込んでいた。

 学校の七不思議は有名であるが、幽霊を一向に信じない雪弥にとって「そんな噂を流して何が楽しいのか」というのが正直な感想だった。しかし、ふと、そこに別の目的があるとしたらという疑問を覚えて考え直した。

「噂が回ったのは、いつ頃なのか訊いてもいい?」
「新学期が始まった頃だっけ」

 話しを中断した修一が、そばパンを食べている暁也に問い掛けた。彼は大袈裟に顔を歪めながら食べ物を噛み砕き、数十秒の間を置いて「五月に入った頃だったろ」とぶっきらぼうに答える。

 麻薬の卸し業者が発見されたのは五月である。雪弥は「そうなんだ」と心もなく応答して、斜め上へと視線をそらした。修一が「確かにそれが起こったんだから、噂は本当だったんだよ」と楽しげな声を上げた。

「二年生が肝試しやったって話しただろ? 噂が出回ったとき、じゃあ確かめようってなったらしいぜ。正門越えた時、何か聞こえるって騒ぎ出した女の子がいて、そのとき学校にぼんやりと浮かび上がる白いものを皆で目撃したって聞いたな。それから一気に噂が広まったんだと思う」

 思い出すような顔で、修一が言葉を続ける。

「声が聞こえるって騒いでた女の子が学校に来なくなって、土地神様って件名の送り先不明のチェンメが出回って、うちは大騒ぎさ。学校に来なくなったその子が、連絡途絶える前に『土地神様が』って同級生に相談してるし、大学生も先生たちも気味悪がって早く帰るようになったらしいぜ? う~む、こりゃあまさしく怪談!」

 修一は満足そうに締めくくると、手を止めていたアンパンを食べ始めた。

 東京で起こっている事件と、タイミングは合っている。まさかなと思いながらも、勘が嫌な方向に働いて雪弥は強い苺味を喉に流し込んだ。しばらく間を置いたあと、途切れた会話を繋げるように言葉を投げかける。

「……その女の子って、どんな子なのか知ってる?」
「おう、吹奏楽部にいた大人しい感じの可愛い子って聞いてるぜ?」

 修一がそう答えた矢先、暁也が間髪入れず鼻を鳴らした。どうしたのさ、と振り返る修一に、彼は馬鹿を見るような目を向ける。

「途中で世遊びに走って退部したらしいぜ? 五月くらいから深夜徘徊の常連メンバーだった。バイクで走っている時によく町で見かけたけど、ケバイ格好とか半端なかったし、見掛けるたび男と一緒だった」
「うっそ! マジで?」
「おう、マジだ。やばい感じの男だったぜ。ありゃあ、もう退学になっても文句はいえねぇだろうな。本人も学校に来る気はないみてぇだし」

 飛び上がる修一の横で、暁也は他人事だった。積み上げられた食糧を物色している。