蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~

 自分の意見を押し通す蒼慶が、部下や親族たち全員を驚かせた事が大学生時代にもあった。大学在学中に突然スポーツに励み出し、勉強の合間をぬって身体をこれまで以上に鍛え始めたのである。

 蒼緋蔵家の人間はもともと一通りの護身術や武道を学ぶことを義務づけられていたが、スポーツは別物だった。尋ねた大人たちに「これからの体力と精神力を鍛えるためだ」と宣言した話は有名で、実際、その話を渡米したばかりの現地で聞いた雪弥は「あの人、一体何やってるんだ?」と驚いた。運動派ではなかった長男が、義務付けられてもいない事で自ら動いて汗を流す姿など、想像もつかなかったからである。

 蒼慶は、父のクローンのような男でもあった。常に眉間に皺が寄った仏頂面に、有無を言わせない圧倒的な威厳と威圧感を漂わせていた。雪弥があの家から距離を置き始めた頃から、それが一層ひどくなったと嘆くのは母である亜希子ばかりではない。

 時々彼から電話が来るたび、雪弥は厳しい口調で刺々しい言葉を浴びせられていた。蒼慶はいつも不機嫌そうな声色で一方的に話しをすると、雪弥の言葉も聞かずに勝手に電話を切るのだ。

 嫌われているのかと考えるが、思い当る節もなく雪弥は悩んでいた。蒼慶は幼い頃から仏頂面ではあったが、彼らと過ごした短い時間の中で、嫌われるようなことをした覚えが一つもなかったのだ。

「父さん、蒼慶兄さんがどうかしたの?」

 雪弥が咳払いのあとに尋ねると、父がひどく重々しそうに言葉を返した。

『…………蒼慶が来月中に、私のあとを継ぐ事に決まった』
「そっか、良かったじゃない。無事に決まったんだね」

 雪弥は、心の底からほっとした。蒼慶が自分を嫌いに思っているのは、きっと跡取り問題があったからだろうと考えていたからだ。父もこの件で忙しく動いていたので、ようやく肩の荷が下りるだろうとも思った。

 喜ぶ雪弥とは正反対で、父の声は重く沈んでいた。

『秘書の席には、緋菜(ひな)が就くことになった。結婚するまではうちが持っている会社でも、十分に社会経験が詰めるだろうと蒼慶が意見してな』
「へぇ、兄さんが緋菜を?」
『大学を出て大手企業の秘書をやっているが、見合い話の多さに亜希子が心配してな。蒼慶も緋菜の器量の良さを認めていて、外で秘書をさせるより自分の元にいるほうが能力も伸びるだろうといっている。私たちも、十分にその役職が務まるだろうと判断して推薦した』
「うん、そうだね。緋菜はしっかりした良い子だから」

 雪弥は、妹が蒼緋蔵家の役職に就く驚きよりも、正直な感想を述べて肯いた。

 家名の「緋」の文字を与えられた一つ年下の妹、緋菜は小、中、高、大学をトップ成績で卒業した、兄に継ぐ優秀な頭脳を持った和風美人だった。

 雪弥は成人式以来彼女に会っていなかったが、美しい黒髪を背中に流したその姿を容易に想像できた。「着物が良く似合うわね」と紗奈恵に言われてから、緋菜は癖のないロングヘアスタイルを変えた事がなかったのである。

 今年彼女が大学を卒業した際は、蒼緋蔵家や別の財閥が会場に入っていたので、雪弥は祝いの言葉をつけた花束とプレゼントを送っただけで、顔を出す事はしなかった。毎年家族の誕生日やお祝い事には、欠かさず花やプレゼントを送っている。
 最後に家族と顔を合わせたのは、二年前に仕事の途中抜け出して会いに行った、緋菜の成人式会場だ。

 大手企業で緋菜は社長秘書をして三か月も経っていないが、雪弥に不安はなかった。厳しい蒼慶であっても、実の妹には優しい事を知っていたからである。亜希子や父の次に緋菜を良く知っている蒼慶は、うまく彼女の良さを伸ばせるだろうと雪弥は思った。

「ほんと良かったよ。あとは補佐をする副当主と……副当主って、確か蒼緋蔵グループの副社長の役職だったよね? で、各支店の代表と、それから兄さんの執事――はもう決まってたね、強烈な人が…………で、ええっと『選定』と『経理』と『記録』と……よく覚えてないけど、そういう役職を埋めるだけだね」

 委員会とかいろいろと面倒なことも多いみたいだけど、と続けて雪弥は肩をすくめた。

「僕は蒼緋蔵のことはよく知らないけど、あとは兄さんが決めるんだから問題はないでしょう。父さんも気楽に構えていいと思うよ。副業でやっている小説家の方にさ、これからは力を入れてもいいんじゃないかな。ほら、ゆっくりそうやって暮らしたいって言っていたでしょう? 地下に大きな書斎室と図書室まで作ってあるんだしさ」
『確かにな』

 鼻で笑うような口調だったが、強張った父の声色から力が抜けたような気がした。ほっと安堵の息をつくと、不思議な事にはっきりとした空腹を感じた。

 雪弥は、柵に背を持たれて夜空を見上げた。話を終わらせようと言葉を切り出す。

「就任式とかやるんだったら、日取りが決まり次第連絡してよ。僕は立場上正式に参加することは出来ないけど、当日に間に合うように、匿名でメッセージを添えて花くらいは送るから」
『雪弥、それが少しまずいことになっていてな……』

 緊張を含んだように、父の声色が低く沈んだ。一体何が父さんを困らせているんだろう、と雪弥は小首を傾げて尋ねる。

「経営はすごく順調だよね? 役職だって、いろいろとすごい人がいるって前に聞いたし……他に何かあったの?」
『実はな、蒼慶が右腕となる役職に、お前を置くといって聞かんのだよ……』

 父の言葉を理解するのに、数十秒を要した。

 一瞬止まり掛けた思考をフル回転させ、雪弥は事態を飲み込み絶句した。右腕の座とは、つまり当主の補佐役であり、または会社の副社長の地位なのである。

「父さん、ちょっと待って、僕を『当主の右腕』に? それってつまり副当主――というか、兄さんどうしちゃったのさ? そんなんじゃ反対されて、そこで話が止まって他の役職なんか決まるわけがないでしょう!」
『それがな、他の者も全員一致でそれに賛成で――』
「はっ? 皆兄さんに口で負けたってこと?」

 雪弥は柵に頭をもたれたまま、左手で顔を覆った。

 愛人の子供をそばに置くなんて、普通に考えても危険である。特に、蒼緋蔵家のような歴史を持つ大きな家にとってはそうだ。雪弥にその気がなくとも、周りは黙っていない。

 そのはずなのに、今回は雪弥たちを毛嫌いしていた者たちもそれに賛成しているというのだ。もはや驚愕である。一体、本家の方で何が起こっているのだろうか?
 雪弥は鈍痛と眩暈を覚えた。嫌な憶測が次々に脳裏を横切り、思わず「嘘だろ」とぼやく。その言葉が聞こえた父が、『まずは話を聞きなさい』といって続けた。

『雪弥、事情は少し複雑なのだ。皆、お前がその席に就くべきだろうという意見も上がりだして――』
「冗談じゃない、僕は兄さんたちの足を引っ張る存在になるなんて、真っ平ごめんだ!」

 雪弥は本心からそう叫び、思わず父の言葉を遮った。

 母が倒れてしばらく過ぎたあの日、自分は断腸の想いで形上彼らとの縁を切った。家族でありながら自由に会いにも行けず、気を遣って会いに行く事を遠慮していたら、すっかり足も遠のいてしまった。

 それに面倒事に巻き込まれるのは嫌だった。複雑でねちねちとした蒼緋蔵のど真ん中は、彼にとって一番避けたい場所だったのだ。


 もしかしたら、蒼緋蔵家の異分子を完全に叩くため、蒼緋蔵家親族たちは自分を呼ぼうとしているのではないか?


 叫んだあと、雪弥の脳裏に嫌な憶測ばかりが浮かんだ。

 蒼慶のことを彼らはとても慕っている。蒼慶の次に、当主の座に近い雪弥が実際副当主の役職に就いたとき、「ほら見ろ、愛人の子に蒼緋蔵家の役職など務まるはずがないのだ」と証明し罵倒することが目的ではないのか。

 考えたらきりがなかった。蒼緋蔵家親族たちと同じように、雪弥も彼らのことが嫌いだった。高価なスーツと宝石で身を飾り、地位と権力に酔いしれながら一般人を蔑むように見やる彼らに、反吐が出そうなほど嫌悪感を抱いていた。

「とにかく、僕は絶対に嫌だからね! 他に相応しい人がたくさんいるでしょう? 分家に、議員とか弁護士とかいるし」
『しかしな、雪弥。これは本当に複雑で――』

 雪弥は、そんな父の台詞を遮った。

「父さん、僕は今の仕事を辞める気はないよ。こっちの方が僕には合っているし、副社長とか副当主とか柄じゃないことは出来ない。そっちに行っても、きっといい事は何も起こらないよ。僕が近くにいたら、父さんたちに迷惑がいってしまうだろうし……というか、時々電話してくる兄さんも、一方的にストレスぶちまけてくるみたいな感じで疲れるんだけど」

 そう思い出して、雪弥は夜空を見上げた。彼の黒いコンタクトレンズが入った瞳が、淡く水色に光り瞳孔が開く。

「ねぇ父さん、買収した衛星で時々僕のこと覗くの、やめてって兄さんに伝えてくれない? これ、絶対法に触れると思うんだよね。プライベートの侵害ってやつで」
『雪弥、いいから聞きなさい。蒼緋蔵家は血筋が――』
「はいはい。でも、僕には関係ないよ。蒼緋蔵家の籍にも入っていない身だし、とにかく、父さんは兄さんの暴走を止めてあげて。うん、きっと父さん以外に止められる人はいないと思う」

 呼び止める声も聞かず、雪弥は通話を切った。

 携帯電話を胸ポケットにしまい、深い溜息と共に肩を落とす。無茶ぶりを請求された新しい仕事と、突拍子もなく上がった家の問題には頭が痛くなった。

 休みがあれば、すっきり片付けられると思うんだけど……と、ここ最近休みもくれない上司を思い浮かべた。もう一度深く息をついて頭上を仰ぎ、誰に言うわけでもなく吐息交じりに言葉を吐き出す。


「ぼく、絶縁しているんだけどなぁ、なんで分家の人も今更……。というか、高校生になりきるなんて、まず無理だよ」


 煙草やってなくてよかった、と雪弥は力なく続けた。酒は好きだが、行った先の冷蔵庫に缶ビールを詰め込んでおけば問題はない。あとは仕事の間、居酒屋やBARを我慢すればいいだけである。

「あーあ、何日もつことやら」

 囁く声が、静まり返った夜に溶けて消えていった。
 薄暗い客間に、高級スーツを身に付けた六人の男たちが、アンティークの革ソファーに腰かけていた。換気が行き渡った部屋は、静かに立ち上る葉巻の煙も気にならない。

 ランプのような弱々しい光ばかりが灯った室内で、男たちがそれぞれ押し黙ったまま見つめ合っていた。


「――蒼緋蔵家の長男が、予想通り当主の席に就く事になったな」


 長い沈黙を破ったのは、急かすような早い口調の声だった。狭まった喉から出すような高く掠れた声色は、静寂の中いびつに響き渡る。

 発言者の隣にいた小太りの男が、グラスに入った赤ワインを持ち上げた。金色に光る歯を見せながら不敵な笑みを浮かべ、バイオリンの調子外れな音に似た声を上げる。

「家名の字をあてがわれた男、だったか」
「娘のほうは、とても美しい女に育ったと聞いておるぞ」
「どんな美女なのか、拝んでみたいものだよ」

 最後の笑いを含んだ心地よいアルトの声に対して、沈黙を破った男が気の短さを露出するようにテーブルに手を置いた。

「蒼緋蔵家にある番犬の役職が、今世代に正式に復活するかもしれないと小耳に挟んだ。番犬といえば、あの方が懸念しておられた存在だろう。蒼緋蔵家先代当主にもいたと聞いたが、あれは『蒼緋蔵家の番犬』ではなくただの副当主だったらしい――……あの方がようやく動き出せている今のタイミングで、あの一族が『番犬』に対する動きに出ているのが気掛かりだ」

 何か聞いているか、と問う苛立ちを含んだその声に、室内がまた静寂に包まれた。

 小太りの男が、飛び出た唇の奥に金の歯をしまいながら、喋り方が異様に早い隣の人間を眺めた。面白くもなさそうに視線をそらすとワインを口にし、味も分からぬ癖に美味いという顔をしてそれをテーブルの上に戻す。風船のように膨らみ上がった彼の短い指には、銀色の結婚指輪と巨大な翡翠の指輪がはめられていた。

「まぁ、少し落ち着きたまえ」

 向かい合うソファを正面に眺める、質の違う革椅子に腰かけた男が場を制した。

 それは四十代半ばを越えた長身の男であった。顎が突き出たような面長の顔は堀が深く、少しつり上がった細い瞳は奥二重で凛々しい。目の輝きは無垢な子供のそれにも近いものがあったが、威圧感を漂わせた瞳は冷たい鋭利さを秘めていた。

 静かなその声色に含まれた気迫に気圧され、男はテーブルに置いた手を反射的に下げて「軽率だったな」と早口に言った。灰皿に乗せていた葉巻を急くように口にくわえて、ニ、三度吹かせる。

榎林(えのはやし)さんは、その件についてあのお方から何か聞いておるのか」

 整えられた白髪と、白い髭をたくわえた痩せ細った男が、そう言って垂れた瞳を持ち上げた。

 肉が削げ落ちた頬の上が膨れ、不健康そうなほど青白い肌をした老人だった。目尻にかかるようにして大きなホクロがあり、濁った双眼にかかる長い白眉は問うように上がっている。

「小耳に挟んだと報告したが、そのときは何もおっしゃらなかった」

 短い一呼吸の間に素早く言葉を並べ、榎林は落ち着かないように葉巻を二度口にして短く吐き出した。薄くなった頭部の髪が、浮いた脂汗に濡れて額に張り付いている。
 今まで口を閉じていた大男が、テーブルに固定していた細い瞳を上げた。薄い唇に対して口が大きく、垂れ下がった小さな二つの眼がある小麦色の顔には生気がない。

「俺は『あのお方』に会った事がないんだが、時々蒼緋蔵家の名は耳にする。あなたたちがいう、その一族の番犬とは一体なんだ?」

 口の中でこもる、抑揚のない低い呟きを発したその男は、口も顔も大きく、存在感のある体格も目を引いた。

 二メートルはあろうその背丈が、同じように座っていながら一同の頭一つ分出ているのを見やった榎林が「朴馬(ほくば)さんはまだ来て浅かったな」といって口から葉巻を離す。

「蒼緋蔵家ではたびたび、副当主の役職名がそう変わるときがあるらしい。もともと蒼緋蔵は戦闘に優れた一族で、当主の次に優秀な頭脳と一番の戦闘能力を持った者がなるようだが、あの方の話を聞いていると別に理由があるようだ。――というのも、もともとも蒼緋蔵家もまた特殊筋の家系で、あのお方が三大大家の中でも一番気に掛けておられるのが『番犬』というキーワードなのだ」
「特殊筋は、現代にもひっそりと息づいているからねぇ」

 歌うようなアルトで言い、六人の中で一番若作りの男が優雅に足を組み変えた。ウェーブの入った栗色の長髪は小奇麗にセットされ、微笑み一つで女性を虜にしそうなほど美男である。

「特殊筋はいろいろとあるけれど、朴馬さんも、夜蜘羅(よるくら)さんのそれを見た事があるだろう? まぁ、あのお方も僕もその血族だけど、それぞれが全く違うんだよね。簡単に見せてあげられるようなものじゃないから、機会があれば朴馬さんも見られると思うよ。僕たちも計画以外の詳しい事は聞かされていないけど、蒼緋蔵家の番犬とやらがもし、あのお方の計画を脅かすような力を持った特殊筋だったら、どうしようかっていう話さ」

 夜蜘羅という名前が出て、話す男を除いた一同の視線が移動した。

 双方の長椅子に挟まれた位置に席を構えていた男、――夜蜘羅が鋭い眼光に面白みを含んだ笑みを浮かべた。

門舞(かどまい)君のいう通りだ。計画に差し支えなければ、特にこちらが動く必要もない。数少ない特殊筋の人間だし、才能がありそうなら引き抜こうと私は考えているんだけどね」
「蒼緋蔵家は、表十三家に仕えていた三大大家の一つですぞ。そんなことは不可能ではありませんか」

 恐怖しながらも鋭い声を上げた老人に、夜蜘羅が「頭が硬すぎるよ、尾野坂(おのざか)君。それは大昔の話だろう」と楽しそうに言いながらワイングラスを持ち上げた。細身の老人、尾野坂は硬い表情のままテーブルへと視線を戻す。

 しばらく会話はなかった。小野坂の隣で、門舞が背伸びを一つしてソファに背をもたれた。その向かいにいた短身の榎林が、そわそわしたように灰皿に短くなった葉巻を置く。長身の朴馬の間に座っていた男は榎林と全く同じ背丈にも関わらず、手足の長い門舞の仕草を意識したように足を組んだ。
「蒼緋蔵の先代に、番犬と呼ばれていた副当主がいたらしいが、何か知っているか、榎林さん」
「私より小野坂さんのほうが詳しいぞ、爬寺利(はじり)さん。彼が若い頃にその席が埋まっていたらしいからな」

 視線も合わさずぶっきらぼうに述べた榎林に何も言わず、爬寺利は分厚い唇の隙間から金の歯を覗かせて、尾野坂へと視線を向けた。

 尾野坂老人は、あきらかに怪訝そうな表情を浮かべたが、白く垂れ下がった眉の間から視線を返した。榎林と朴馬の間にいる、その爬寺利のサイズが小さいゴールド交じりのスーツからは、身体を覆っている厚い脂肪が浮き上がっているように見える。

 先日門舞が食事会に着ていた、身体のラインが際立つスーツに似ている事を思いながら、尾野坂は忌々しげに目を細めた。知らない振りをした門舞が今にも笑い出しそうな隣で、咳払いを一つして口を開く。

「私がまだ学生時代だった頃の話だ、よくは知らん。急激な経済成長の中で競争や争論の絶えない忙しい時代、若くして早死にしたと聞いただけで、特に目を引くような情報もないぞ」
「一つだけためになる情報と言えば、これまでの『蒼緋蔵家の番犬』同様に早死にしたというくらいかな」

 ワイングラスを下げた夜蜘羅がそう口を挟み、一同の視線を集めた。門舞と朴馬以外の三人は、緊張と恐怖に身をすくめ、静まり返った室内で男の話を待つ。

 夜蜘羅は肘掛けに置いた手に頬を乗せ、面白そうに一同を見回した。

「蒼緋蔵家は他の特殊筋一族と同様、血筋で決まる。本家の男子は家名の蒼、女子は緋の文字が名前に込められる。当主は決まって蒼の名を持った男子だが、副当主は一族の中で一番の腕を持った人間なら誰でもいいらしい。――とはいえ『蒼緋蔵家の番犬』は別だ、それもまた蒼の字を持った男子がその席についた。今回蒼緋蔵家の本家には、男子と女子が一人ずつで、副当主に就くのは分家の誰かだろう……と思っていたのだけれど」

 違っていたみたいだね、と夜蜘羅は、ゆっくりとした動きで榎林を見やった。その瞳には、ぞっとするほど無垢な笑みが浮かんでいる。

 榎林は緊張し、報告のために持ってきた新たな情報を、早口に切り出した。

「そうです、蒼緋蔵本家にはもう一人男子がいます。蒼緋蔵の当主が愛人に産ませた男子らしく、雪弥、というそうです。名前に蒼の文字も入っておらず……」
「あらゆる手段で調べたが、それ以上の情報が全く見つからないそうだ」

 言葉に詰まった榎林に続き、尾野坂が若輩者を助けるべく口を挟んだ。

 数秒の沈黙の後に、門舞が「どうします?」といって、ようやくソファから身を起こした。彼の顔は、夜蜘羅の愉快そうな表情とどこか似た雰囲気がある。尋ねているのは上辺だけで、すでに答えを知っているかのような落ち着きだった。

「勿論、それは私がやるよ。あの方は計画に差し支えなければいいわけだし、私は蒼緋蔵家の特殊筋に興味がある。あの方は、友人である私にも多くを語らないからねぇ……ようはその愛人の子が、番犬の座につかなければいいんだろう?」

 とはいえ私としては、こちらに害がなければどっちでもいいと思うんだけどねぇ……と少々面倒くさそうに夜蜘羅は肩をすくめた。
「まぁ、君たちはそれぞれの仕事をすすめたまえ。彼が表十三家や三大大家の動きに敏感なのはもともとだし、今は新しい手駒を増やす事に興味を持っている。特に、榎林君は蒼緋蔵の事よりも自分の事に専念したほうがいい。最近、少し荒が出始めているからね」
「それは、儲けに眩んだバイヤーが、勝手に…………」

 口ごもったが、榎林はそれ以上言い訳を続けなかった。「確かに、最近管理が甘かった」と認めて、代わりに自分がどれだけ有能なのかをアピールするように夜蜘羅に主張した。

「手駒を入れ変え、新しい卸し場も確保できた。それに、実験も順調に進んで十分あのお方の役に立てている。あなたが、あのお方のために紹介してくださった李(り)という方も、少々癖があるが今までの連中と違って非常にいい腕をしていて……私が任された計画は、二段階目に突入している」

 滞りなくスムーズだ、と榎林が言うなり、門舞が美麗な顔でにっこりとした。

「僕が言った通り、前もって足手まといになる業者を潰しておいて正解だっただろう? さすがにあそこまで派手にやったら、ルール違反だよ。まぁ新しい場所を探して自分で動くっていうんだから、ミスはしないようにね」

 これ以上フォローは出来ないよ、と門舞は悠々と続けて、頭の後ろで腕を組んでソファに身を沈めた。彼と夜蜘羅以外の顔には笑顔はなく、沈黙を合図にそれぞれが部屋を出ていった。


 最後に爬寺利が、門舞に視線を送って出ていったあと、彼は「ねぇ、夜蜘羅さん」と楽しげに声を掛けた。


「言わなくて良かったのかい? そろそろ、榎林さんのところが危ないってこと。夜蜘羅さんが手下を入りこませている大きい組織が、動き出しそうなんだろう?」
「まぁね」

 夜蜘羅は含み笑いをした。量が少なくなったワイングラスを口元で傾け、喉の奥に流し込む。

「本当はあの方の計画よりも、自分の楽しみを優先にしているだけなのにねぇ」
「門舞君もそうだろう? 君だって、面白い物見たさにここにいる。つまらない日常や世間よりも、隠された存在や秘密に翻弄されるのが好きでたまらないんだ」

 どうでしょうねぇ、と微笑をたたえて門舞は目を閉じた。

「僕は楽しければどっちでもいいんですよ」

 そう続ける彼に、夜蜘羅がワイングラスを下ろしながら「私もだよ」と低く言って、空になったグラスを手で握り割った。

 大きな手に押し潰されたワイングラスは、砕け散る音を静寂に響かせて落ちていった。バラバラとそれがテーブルの上に広がるようにこぼれ落ちて、もとの器よりも壊れた方が美しいと、二つ分の楽しそうな笑みが上がった。
 四国の南側に位置する高知県は、四国山地に囲まれた県である。晴れの日が続くことが多く、雨が降る時は一気に降り注ぐといった気候であった。水量豊富な河川が多くあり、海沿いの山地ではあるが国内有数の清流を持っている。

 囲まれた山地から海沿いに下ると少ない平地が続き、帆堀町と伊野川村が合併して新設された茉莉海市があった。旧帆堀町に新しい学校が建てられた事によって、地域の発展を促そうと都市計画を県が立ち上げたのだ。

 大型船が荷物を運搬する港を残し、防波堤から山地へと続く荒ら地を県が急ピッチで開拓。高知県の路面電車と四国電車の線がこの土地まで伸びたのは、学校を建てた男が、莫大な私財を県と市町村に投資したからだといわれている。

 区画整理がなされた新しい都市は、これまで農村地帯にはなかった多くの企業が入った。学園を中心に住宅街が広がり、大通りには、これまで都会にしかなかった店が多く集まった。

 圧倒的に飲食店が多いのは、地元住民のニーズに業者が対応したためである。パチンコやカラオケなどの娯楽は一つずつしかなく、幅広い年齢客が求める品を取り揃えたショッピングセンターが人気だった。

 荒ら地の間にぽつりぽつりとあった農家は、県の支援を得て新たな農地を与えられていた。地元産の果物や野菜は茉莉海市では安く販売され、業者や他の市町村へは右肩上がりで流れている。交通機関が整備されたことによって、物資の運搬が円滑になっているためだ。学生たちのデザインを取り入れた茉莉海市役所は、農地と町の境にあり、常に地元民と身近にあり続ける活動を積極的に行っている。


 六月の十七日、雪弥は質素なシャツとスポーツウェアの軽装で電車に乗り込んだ。途中から路面電車へと乗り換え、最後はバスに乗って茉莉海市へとやってきた。
 

 高知県警察本部のヘリポートを使えば便利だったのだが、怪しまれずに学園で潜入しなければならなかったので、彼らと接触はしなかった。学生という偽造身分を携え、車やバイク、またクレジットカードも無しにやって来たので、到着したときは午後二時を回っていた。

 雪弥が務める機関が確保していたのは、茉莉海市にまだ三件しか建っていない高層マンションだった。東京や特殊機関本部がある西大都市に比べるとやや低めだが、学園に近い住宅街に建てられたそれは、単身用の小さな間取りの部屋と一世帯用の二種類の部屋が備え付けられていた。彼が持っていた鍵は、1LDKの最上階にある部屋の物だ。

 つい先程まで誰かがいたように、最上階の部屋は換気がされていた。学園の制服が、ボリュームのある一人用ベッドに置かれている。その隣には拳銃が二丁と替え用の弾、そして隠しナイフが十本並べられてあった。

 あとは若者向けの服が埋め込み収納棚に詰められているだけで他の家具はなく、代わりに本部から送られてきた荷物がダンボールのまま置かれていた。
 普段何気なく使っているバイクや車の有り難さを思いながら、雪弥はベッドから物を下ろした。約七年前着た以来の学生服やその他の荷物に、精神的な疲労を感じてそのままベッドに横になった。

              ※※※

 翌日の土曜日、雪弥は早朝一番に風呂を澄ませると、こっそりと送らせていた缶ビールを冷蔵庫に入れた。

 持ってきた食品は、すべて常温でも大丈夫なものばかりである。空いている戸棚スペースは多くあったものの、短い間世話になる場所でいちいち仕分けする事もなく、彼は非常食やお菓子をまとめて、キッチンの一番下にある大きな引き出しにしまった。

 冷蔵庫には缶ビールのみが並び、結局使用されたのは一つの引き出しと冷蔵庫のみだった。面倒だった雪弥は、他の引き出しや戸棚すら開けないまま飲食の収納を終えた。


 ここまで大雑把なナンバーズ・エージェントは、彼くらいなものである。他のエージェントは短い間の寝泊まり場所とはいえ、冷蔵庫やキッチンには最低限の物をきちんと分け入れている――というより、本来そういった全ての事まで整えてもらうものだ。

 上位ナンバーのエージェントは、下の者に全てやってもらうことが普通だった。しかし、雪弥は前もって準備された部屋を宛がわれた際、「なんかどこに何があるのかも探さなくちゃいけなかったし、次からはダンボールのまま置いといて下さい」といってナンバー1を驚かせたという、異例の上位ナンバーエージェントとしても知られていた。


 雪弥はベッドの脇に腰かけると、残りのダンボール箱を開けた。学園必需品の靴や指定鞄を含めた物をすぐそばにまとめて置き、組み立て式台に機関から送られてきたノートパソコンと盗聴防止機具を設置する。

 小型電源にチャンネル帯の違う三台の無線機をセットして調整をすませ、そのそばに用意されていた武器を、今一度確認しながら並べた。隠しナイフを磨き直したあと、素早く銃をバラして整備しあっという間に組み立てた。

 すべて片付いたところで、雪弥は久々の休日を部屋で満喫するため、冷蔵庫から冷えた缶ビールを取った。

 今日食べる分の非常食とお菓子を部屋の中央に置き、テーブルがないことに違和感もないまま缶ビールを開けて口にした。ようやくそれに気付いたのは、口からそれを離したときである。

 このままだと、床にビールを置く事になる。

「全く、テーブルもないんだもんなぁ」

 ちゃっかり機材の分だけは用意するくせに、と雪弥は愚痴ったが、それも彼自身が招いた事である。「どうせ寝るくらいしか用がないし、テーブルとか要らなくないですか? というか、僕は男なのに、なんで部屋に化粧台とか設置しているわけ?」という事を、彼がナンバー1とリザに言ったことが原因だった。

 二回目に口元で缶ビールを傾けた後、雪弥は開いた窓から見える空を見やった。生温いではあるが吹き込む風は心地よく、時々清々しいほどの晴天を感じさせる突風が起こってカーテンを打つ。

 さすが最上階だ、と雪弥は感心しながら部屋の中央に腰を下ろした。

 無造作に手に取ったのは、一緒に送られてきた今回の任務に関わる書類である。これから入学する事になるのは、私立白鴎学園高等部だった。この地域ばかりではなく、高知県が誇る進学校ともなっている。