蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~

 しばらくもしないうちに彼の呼吸が少し落ち着いて、顔色に生気が戻ったことを確認してから、雪弥はゆっくりと立ち上がった。

「さて、どうしたものかなぁ」

 そう独り言を呟き、部下の一人が残していった荷物へ視線を滑らせる。入口に立て掛けられたその黒いスーツケースを手に取ったところで、雪弥はふっと思い出して「暁也」と名を呼んで振り返った。

 暁也は反射的に身を強張らせてしまい、そうやってしまったあとに後悔した。こちらを気遣ったのだろうと察して、雪弥は困ったような笑みを浮かべた。

「ここは、これから戦場になる。この部屋の外には『さっきまで君たちと話していた生徒』の死体があって……今以上のものを見せないためにも、二人には屋上へ避難してもらう。いいね?」

 殺してしたのは自分であり、すぐそこに死体もある。そうきちんと伝えたうえで、雪弥は言い聞かせるようにそう告げた。

 暁也は、精いっぱいの強がりで怪訝そうな顔を作ったが、握りしめた拳は無意識に震えていた。知らない世界に放りだされたような自分の恐怖感が煩わしく、しっかりしろよと叱責するように舌打ちした後、「わけ分かんねぇよ」と喉から絞り出した。

「……お前、高校生には見えねぇし」
「今年で二十四になるよ」

 即答され、暁也はまじまじと雪弥を見た。修一がよろりと立ち上がり、廊下に広がる赤から目をそらすように口元を拭う中、彼は続けて問い掛ける。

「…………一体、何が起こってんのか俺たちに説明してくれねぇか。常盤が取引のことを言ってた。それに……お前は、俺たちの知っている雪弥なのか?」
「名字は違うけれど、僕は確かに、君たちと五日間を過ごした雪弥だよ」

 雪弥は、それだけ答えて口を閉ざした。高校生だという事も年齢も何もかも嘘で、そのうえ彼らの同級生を殺したのだ。取り繕うような言葉も、言い訳も必要ないだろうと判断していた。

 生きる世界が違う。

 彼らもそれを知って、きっとここでお別れしてくれるだろう。

 そう考えて、元々自分には必要のないスーツケースに目を落としたとき、「雪弥は雪弥じゃん」と修一が頬に涙の痕を残したままそう言った。

「俺、何が起こったか分からないけどさ……困ったように笑う顔も、優しいとこも雪弥のまんまだって思う。お前は俺の友だちの、雪弥のまんまだよな?」

 そのままの、僕――

 問われて、雪弥はふっと唇を開きかけた。しかし、彼はどんな言葉が出てこようとしていたのかも分からずに、よく分からなくなって沈黙した。

 そのとき、ようやく雪弥の碧眼に気付いた修一が、緊張をすっ飛ばした表情を見せた。いつもの空気を読まないのんびりとした様子で、「あれ? なんでブルー」と言い掛けた彼の口を、暁也が素早く塞いだ。
 どうやら修一のおかげで、暁也は普段の気力と調子を取り戻しつつあるようだ。話をややこしくしないためだろうと察して、雪弥は賢くて強い子だと、わずかに頬を緩めた。修一からも、必死に問題と向き合おうとしている姿勢が窺える。

 悠長にしている時間はないのも確かだ。

 既に学園は封鎖されてしまったのだから、『檻』の存在に気付いた敵も動き出してくる。雪弥は思案しながら、少年たちに向き直った。

「白鴎学園は完全に封鎖された。何者も終わるまで敷地内から出ることは許されない。君たちが入ってしまったのは計算外だけど、僕は集まった犯罪者を一掃するために、ここにいる」

 常盤もその一人だった、と雪弥は声を控えめに続けた。

 次々と思い浮かぶ疑問を口にしようとしていた少年組は、一掃、という言葉の意味を半ば悟ったかのように口をつぐんだ。しばし暁也と見つめ合った後、修一が恐る恐る「それって、常盤みたいに……?」と尋ねてきたので、雪弥は頷き返してみせた。

「詳細を教えることはできないけれど、警察とは違う『専門機関』がこの事件を受け持った。僕はその機関から寄越されて、学生の振りをしていた――。君たちには酷かもしれないけど、でも今度はちゃんと従って欲しい。ここは戦場になる。きっと一番安全なのは屋上だから、大人しくそこで待っていて」

 語り聞かせる雪弥の顔は、どこか幼い子供に諭すようでもあった。

 でも、と修一がうろたえた。思わず言葉が途切れた彼に視線を寄越されて、暁也が前に進み出て代わりに口を開いた。

「つまり、ここで犯罪的な取引が行われようとしているのは事実で、それは親父たちの手にも負えない事件ってことか?」
「そうだね。ここで放っておくと、もっとたくさんの民間人が被害に遭う危険性がある」
「…………というか、お前もしかして、俺たちが立ち聞きしてたの知ってたのか?」

 暁也は、事件についてはこれ以上追及するのを聡くやめ、質問しても問題なさそうだと判断した話題を放り込んだ。思い出すと若干苛立ちも込み上げて、不服そうに腕を組む。

「俺、おかげで二階の窓から脱走したんだけど?」

 自分の家なのに泥棒になった気分だった、と暁也は不満だった。
 それを聞いた修一が、思い出したように「あっ、俺も!」といつもの調子で手を挙げてこう言った。

「家に刑事が来てさ、玄関に立って外に出られなくなったから、下とその下の階のベランダ伝って脱出した」
「お前すげぇな、それって三階からってことだろ?」
「割と簡単だぜ。前までちょくちょくやってたし」

 すっかり自分たちの話しを始めた二人を見て、雪弥は困ったように微笑んだ。 

「うん、ごめんね」

 それ以外の言葉は出て来なかった。刑事を使ってまで家から出すなとは命令していないが、夜狐伝えで、暁也と修一が家にとどまってくれるよう金島本部長に指示したのは確かだ。目の前で常盤を殺してしまったこともあり、雪弥はもう一度「ごめんね」と謝った。

 暁也は「謝んなよ」と視線をそらしかけて、ギクリとした。視界の片隅に映り込んだ廊下に、赤黒い色が浮かんでいる。

 雪弥以外を見ないようにしている修一を見習うように、暁也はすぐ視線を戻した。真っ黒の瞳だった時には違和感を覚えていたが、碧眼だと髪色に対しても不自然さがないなと、改めてまじまじと見つめてしまう。

 そこでようやく、二人が血生臭い現場を見ないようにしているのだと気付いて、雪弥は済まなそうな顔をした。早く場所を移動してもらう方がいいと判断し、スーツケースを開いて見せながら話しを切り出す。

「僕は耳に小型無線マイクをはめている、君たちにトランシーバーを渡しておくから、何かあればこれでやりとりしよう」

 スーツケースには、トランシーバーの他にノートパソコンも入っていた。しかし、暁也と修一はそこに一緒に入っていた黒い装飾銃を見付けて、つい顔を強張らせてしまった。

 二人からやりきれない想いを察知した雪弥は、「やれやれ」と息をついた。護身用にと初心者でも扱える銃を用意したつもりだったが、自衛させるのは難しいらしいと判断する。

 ならば、もしもの場合を考えて、自分が同時に彼らの安全を把握し守れるような線でいこう。雪弥は数秒で考えをまとめると、彼らが素直に従ってくれそうな提案内容に切り替えた。

「――じゃあ、少しだけ僕に協力してもらおうかな。君たちは、敵の位置情報を屋上から伝えるんだ」
 現在、白鴎学園上空には特殊機関の偵察機が待機していた。現場に入ったエージェントに標的の数と居場所を鮮明に伝え、学園を取り囲む暗殺部隊が封鎖された内部の現状を把握することに役立っている。


 雪弥は元々、生きている者の気配を敏感に追えるので、こういった機材はほぼ必要としていなかった。スーツケースに用意されたコレは、自分たちのいる屋上に敵が迫ったら教えて、と暁也と修一に防衛一点で渡すつもりだったものだ。

 彼らの今の様子からすると、何かしら気をそらすような目的や作業を与えて、常に連絡出来る環境であるほうが精神的にも安定しそうだ。だから雪弥は、『敵の位置情報を伝える』がいかにもメインであるように、これらの道具を使うことを説明する形を取る事にしたのである。


 小型のノートパソコンは開くと自動で電源が入り、黒い背景に立体化された白鴎学園見取図が緑の線で描かれた画面が浮かび上がった。そこには、動く赤い人型が映し出されている。

「これは、熱探知機のモニター映像だよ。タッチパネル式になってるから、触れれば画面内部の視聴角度を変えられる」

 乗り気がしないのは、高度な熱探知機であるため人の姿形をしていることだ。鮮明に温度を映し出す偵察機は、廊下に集まる雪弥たちの姿もはっきりと捉えている。

 雪弥は数秒ほど考え、画像の解析度を出来るだけ下げることにした。視覚野が広がった映像は学園全体までカメラ位置が上がり、赤く浮かぶ人の形はずいぶんと小さくなった。四肢に動きはあるものの、ほぼマスコットサイズほどに縮んだこともあって、生々しさは半減されている。

 暁也と修一は、物珍しそうにノートパソコンを覗きこんだ。ぼんやりとした黄色い人影があることに気付いて、「赤色じゃないのがある」と修一が目を留めて疑問を口にする。

「僕のコートにはちょっとした仕掛けがあって、標的と識別出来るようになっているんだ」

 雪弥がそう教えると、彼らは「「なるほどなぁ」」と声を揃えた。
 怖くないといったら嘘になるが、暁也と修一の不安や恐怖は、不思議と少しだけ身を潜めていた。芽生えた小さな勇気は、少年たちを元気づけた。

「いい? 僕のことよりも、常に自分たちのことを考えるんだよ。屋上に近づく人影があれば、自分たちの身を守ることを最優先に考えて僕に教えて欲しい。派手に暴れるからこちらに注意は引けるだろうと思うけど――もしものときのために、それだけは念頭に置いていて」

 真面目に頷いた暁也の隣で、修一はノートパソコンに興味津々だった。彼は「人が動いてるのが分かる」と陽気に言ったが、暁也に「ゲームじゃねぇんだぜ」と咎められて口をつぐむ。

 雪弥は小さく苦笑し、こう言った。

「――これはゲームじゃない。でも、そうだね。君たちにはゲーム画面だと思ってもらった方が楽かもしれない。嫌だったら、途中で無線を切って、画面を閉じてしまっても全然かまわないから」

 少年たちは顔を見合わせたが、肯定や否定といった明確な態度は示さなかった。

             ※※※

 その場で腰を降ろしてざっと使い方の説明を受けたあと、修一がスーツケースを閉じる隣で、ようやく暁也が仏頂面を雪弥へと向けた。おもむろに「おい」と言葉を吐き出して立ち上がつたかと思うと、彼は苛立ったようにして顎を持ち上げる。

「俺の適応能力なめんなよ。あとでいろいろと聞きだしてやるからな」

 この役目はきっちり果たしてやる、と暁也の眼差しは語っていた。

 自分の今の判断に一抹の不安を覚えていた雪弥は、想定外の言葉に不意を突かれた。スーツケースを持って立ち上がった修一も、曖昧に笑みを濁しつつ八重歯を覗かせてきた。

「俺、頭悪いからよく分かんねぇけど、ようは暁也の親父さんみたいな職に就いてるってことだろ? あとでいろいろ教えてくれよな」

 雪弥はしばし困ったように微笑み、それから場の空気を少しほぐすように「金島本部長に聞くといいよ」と答えた。

 すると、二人の少年たちは、廊下の死体を出来るだけ見ないよう屋上へと駆け出しながら「奴に訊くとかヤなこった」「雪弥のおごりでラーメン食いながらでもいいじゃん」と言葉を残して走り去っていった。


 彼らを見送った雪弥の顔から、ふっと表情が消えた。


 遠くなっていく足音の余韻の中、その碧眼から温度が失われて、これからの標的を定めたかのように煌々とした冷たさを帯びた。
 強力な磁気を誘発させる動力線が、白鴎学園を取り囲むように敷かれたのは午後十一時直前のことであった。

 四方六メートル間隔で設置された一メートルの柱は、電力稼働によって磁気固定すると五メートルまで芯中を伸び上がらせた。黒真珠のように滑らかな側面を持った柱から強固な有刺鉄線が飛び出して張り巡らされ、学園一帯の電力がそこに集ったのが二十三時ちょうどのことだ。

 特殊機関が持つ「鉄壁の檻」は対生物用兵器であり、重要なのは本体の強度ではなく、像一頭を感電死させる放電力だった。外に出ようとする生物の足止めをするためだけに作られた檻である。七年前、ある上位ランクエージェントが暴走し、止めに入った部隊を殺戮した事件を受けてから造られた。

 鉄壁の檻によって囲まれた午後十一時、白鴎学園中庭では、倉庫地下からヘロインが台車一つ分運び出されたところだった。

 突如現れた黒い柱と有刺鉄線に、驚いた藤村が銃弾を叩きこんだが、それは鉄壁の檻に触れることもなく焼け落ちた。一筋の電流が視覚化され、倉庫前にいた富川、尾賀、藤村は五メートルの電気檻であること気付いた。

「一体どうなってやがる!」

 藤村組のリーダー、藤村が銃を所持したまま怒鳴り散らした。睨まれた富川学長は「分からん」と顔の皺を濃くして狼狽する。

 ヘロインを運び出す作業を続けていた三人の男は、肉体強化と精神コントロールをされた尾賀の部下だ。異常事態に反応すらない三人をちらりと見やることもせず、尾賀は短い足を左右に素早く動かせて、富川と藤村に歩み寄った。

「これは何とも嫌な物だね。藤村君は何か知っているかね」
「いえ……」

 藤村は、腰を曲げるようにして小さな尾賀を覗きこんだ。長身大柄の藤村に対して、尾賀が小さすぎるためである。尾賀は黒いローブ――というより特注のポンチョをはおった身体から両手足をちょこんと出し、小さな顔は鼠にそっくりだった。声もきいきいと甲高く耳障りで、藤村はうんざりした顔に顰め面を作っていた。

 尾賀は小さな吊り上がった瞳を細め、「ふむ」と顎に手をやった。「どこかで見たことがあるね」と独り言をして、目の高さにある藤村のベルトを見つめる。

「李を呼びたまえ」

 尾賀はふと、ヘロインを運び出している男にそう指示した。李は運び込んだヘロインの個数をチエックするため、先程倉庫地下に入っていたので、ここにはいなかったのだ。
 命令を受けた部下が、その巨体でのそりと倉庫地下に向かうことも確認しないまま、尾賀は辺りを見回して更に目を細めた。侵入者の気配を空気から察しようとするかのように集中し、鼻に皺を寄せる様子は、まさに鼠である。

「人の気配はまるでないね。一匹か、二匹か……多くても三人くらいだろうとは思うけどれどね」

 尾賀は今回、十五人の部下を連れていた。大学校舎駐車場に頭を突っ込むトラックに顔を向け、待機させていた残りの十二人に顎で合図を出す。

 はち切れんばかりに分厚い筋肉に覆われた男たちが、従順にトラックの荷台から降りてくるのを見て、富川は眉を潜めた。

「全員、ですか」
「今回は私のだけでなく、李の人員も使わせてもらうね。私の予感が当たっていれば、これはプロの殺し屋に違いないね。ここまでデカイ設備は見たことないがね、ロシアであったウルフマンなんとか、だったか――まぁ噂で聞いたところによると、たった数人の殺し屋が標的を殲滅させるために電気の檻が使われた、とかで持ちきりだったね」
「おいおい、殺し屋かよ」

 藤村が口を尖らせると、尾賀が小馬鹿にしたような顔を上げた。彼は「いいかね、藤村君」と鼻を鳴らしてこう続ける。

「私と李の部下は、君の部下より使えるね。特に李の部下は、よく出来た作りをされているね」

 あの化け物じみた野郎共か、と藤村は内心吐き捨てた。

 今まで倉庫にヘロインを運んでいた李の部下たちは、二メートルの長身に膨らんだ上半身を持った猫背の白衣姿の男たちだった。広い肩と面積のある胸部に対して腰回りがひどく細く、棒きれのような長い手足で二十キロのヘロインを軽々と運んだ。

 全員頭髪はなく青白い。身体の至る所にメスで切られたような傷跡が残り、本来目がついている場所には、暗視カメラが直に埋め込まれている。

 いい儲け話だが、本当に気味が悪いぜ。まぁ、味方なら心強いんだけどよ。

 藤村は体勢を戻すと、銃を握り直した。話し続ける尾賀に背中を向け、白鴎学園の塀を飛び越えてそびえ立つ、重々しい亜鉛色の有刺鉄線を見上げる。

「軍や警察が動いているのなら気配で分かるね、だから見事に気配がない今回は、プロの殺し屋に違いないね。ま、殺し屋であればうちで隠ぺい出来る。私が取引きしているお方も中々有名人だからね、こんなことはしょっちゅうある」

 そのときはいつも私の部下が役に立つね、と尾賀は相変わらず独特の東洋鉛が入ったような口調で言い、飛び出た歯を唇に乗せたまま笑んだ。
 富川は安堵し、いつものように後ろに両手を回して面持ちを緩めた。殺し屋という言葉で動揺した心は、今日口座に振り込まれる大金への喜びに戻っていた。こいつらが勝手に動いて私に大金を運んでくれる、とポーカーフェイスで構える。

 有刺鉄線をざっと見回した藤村が、倉庫から取り出されるヘロインを値踏みするように眺めた。その背中へ目を向けながら、尾賀が囁くように富川を呼んだ。内緒話を感じ取った富川は、そろりと自身の耳を尾賀へと傾ける。

「ネズミの駆除は私と李の部下がやるね。今回殺し屋を呼んだ奴は、とある方に頼んで見付けて頂き、後日キレイに処分してもらうから平気ね。君とは長いビジネスになりそうだから、この学園の理事とやらもついでに始末してやるね。何、心配は要らないね。私の後ろについているお方なら、君を理事の地位につけるぐらい容易い。その方が、もっと良い取引きが出来そうじゃないかね?」

 数秒遅れて、富川は「ありがとうございます」とひょこひょこ頭を下げた。怪訝そうに振り返った藤村に背筋を伸ばし、「尾賀さんと李さんがやってくれるから、心配いらんよ」とわざとらしく偉そうな口ぶりで話す。白鴎学園を手に入れるのも遅くはないと実感し、富川は内心笑いが止まらなかった。

 藤村が「俺の仲間だって殺し屋ぐらい」と愚痴りだしたとき、「なんじゃい尾賀!」と雷が落ちるような強い叫びが上がった。

 そこにいたのは、尾賀と同じぐらい小さな背丈をした老人だった。小麦色の肌を真っ赤に染め上げて、荒々しく歩いてくる。

 彼は、今回中国からヘロインを運んできた自称科学者の李だった。いつも狭い肩を怒らせ、白衣に包まれた身体は、脂肪が詰まった腹を突き出している。顔や首、手先は皮膚が垂れて痩せ細った印象はあるが、衣服で隠れた背中も腕も太腿も丸い。

 李は依頼通りの麻薬を配合できる闇の売人である。中国人だった亡き父を尊敬しており、顔も分からない母方の日本人名ではなく「李」を名乗っていた。母親の血筋が強いため、容姿も皮肉を叩く口調もまるで日本人にしか見えない。中国の血が強く出ている尾賀を、なんとなく嫌っている老人である

「お前のせいでこけたぞ! 埃まみれじゃわい!」
「短い足を滑らせただけじゃないかね」
「短足ブサイクのうえ似非中国人のお前に言われたかないわい!」

 李が怒りをぶちまけている間に、藤村が「背中に埃がついてますね」と何食わぬ顔でそれを払い落した。李は悪くもなさそうにちらりと視線を滑らせ、ぶっきらぼうに「謝謝」と言ったあと、勢い良く富川と尾賀を振り返った。
 李は下手(したて)に出る人間が嫌いではない。むしろ、人間は自分を一番に優遇するべきだという考えを抱いていた。それさえ知っていれば扱いやすい。

 藤村は李の感謝の意もこもらない声に「いいえ、別に」と上辺だけで答えた。べらべらとうんざりするほど長話をする尾賀より、李が幾分かマシだと思っていたのだ。

 こっちはいつも働かされてんだから、話し相手はてめぇでやれよ富川。

 藤村の視線の意味にも気付かず、富川は一方的に李の怒号を浴びせられた。

「ネズミがどうした! ヘロインの数量があってるかじゃと? そんな事どうでも良いことじゃわい! その侵入して邪魔しようとしている奴らというのは、わしの実験体共を横取りしようとしているんじゃないだろうな!」
「あの、李さん、落ち着いて下さ――」
「これで落ち着けるか馬鹿者が! あの人間どもは誰にもやらんぞ! あれはわしの物じゃ! 若く健康な実験体は滅多に手に入らんのじゃからな!」

 口を挟んだ富川は、罰が悪いように口をすぼめた。尾賀が「やれやれだね」と呆れ返った様子で口を開く。

「だからこそ、そのネズミを早々に処分しておこうと思っているね。検体を横取りされる可能性も低くはないからね、君のためを思って、私も十二体の駒を出してるね」

 李は、怪訝そうに皺を寄せて尾賀の部下へと目を向けた。二メートルの巨体に、細いサングラスを掛けた男たちは全員唇を強く引き結んでいる。特徴は大きな体格といかつい顔ばかりで、どれも似たり寄ったりの容姿であった。

「ふん、なるほどな」

 李は尾賀のトラックの奥に聞こえるよう「一号!」と叫んだ。彼は今回の取引で、用心棒兼部下を乗せた自分の改造大型トラックを一台だけ持ってきていた。引き取る学生を詰める運搬用として、別に二台のトラックを約束通り尾賀が用意してくれていたものの、その大きさが少々不満で、先程は出会い頭に言い合いの喧嘩になっていた。

 富川から実験体は三十六人だと聞いて、李はいつも以上に気が入り、今回は船に乗せていたすべての部下を引き連れての出動だった。忍者のような服の上から白衣をはおった、異様な容姿の部下たちである。

 トラックの向こうから、李の部下の一人が跳躍するように素早くやってきた。男は大きく広がった胸部からの重さに耐えきれないように背を丸め、頭髪のない頭部に張り付いた耳を李に寄せた。

 李が中国語で短く囁くと、彼がだらしなく口を開いたまま頷く。長いガニ股の足をのそりと動かせたかと思うと、同じように跳躍を繰り返して、トラックの奥へと消えて行った。

「四肢は十分に弄ってある」

 李が誇らしげに言った。藤村は「化け物かよ」と喉元に上がった言葉を押しとどめた。自分に害がないと自負している富川は「心強いですなぁ」と、他人事に傍観を決め込む。