常盤が廊下へと顔を出しているのを見計らい、暁也は一つ頷いて相槌を打った。
「とにかく、分かっている事は。ここでやばい事件が、今、現在進行形で起こっているってことだな」
考えることに疲れた修一が、げんなりとした様子でこうぼやいた。
「覚せい剤に、ヘロイン……乱用パーティーと、えっと取引? そんで先生の中にも共犯者がいて、ヤクザと常盤とトラックがあって俺たちの危機――」
「落ち着け」
暁也は冷静に、混乱に突入しかけた修一の一人思案を遮った。
そのとき、常盤が弾かれるように廊下へと飛び出した。堪え切れない嬉しさに、その瞳を爛々と怪しく輝かせている。
何事だろうと訝った二人は、そっと扉に近づいて耳を澄ませたところで、常盤がうっとりとした様子で「雪弥」と呟くのを聞いた。まさか本当にきたのか、と当の常盤本人に馬鹿正直に尋ねかけた修一の口を、暁也が塞いで室内の奥に引っ張り戻す。
途端、常盤がくるりと振り返った。軽い足取りで戻ってきたかと思うと、突然中央で立ち止まって天井を仰いだ。
「ああ、とても最高な夜だ!」
突然、室内に歓喜な叫び声が上がり、暁也と修一は驚いて身を強張らせた。常盤は狭いスペースを落ち着きもなく歩き出し、小さな円を描きながら独り言を続ける。
「俺にこそ相応しい最高の相棒が、今日誕生するんだ! 残虐で悪逆非道! ああ、でも彼は気に入ってくれるかな。いや、きっと気に入るはずさ! そうさ、これからは二人でやっていけるんだ! 俺は独りじゃない!」
奇声を上げて笑い始めた常盤に、暁也と修一は息を呑んだ。自然と身体に力が入り、何度も深い呼吸を繰り返す。狂った瘴気に当てられて、気を抜くとこちらの精神もバランスを崩してしまいそうな光景だった。
不意に常盤の高笑いが止んだ。
廊下の奥から、室内に届くほどの距離感で一つの足音が聞こえ出していた。
薬で聴覚が敏感になっていた常盤は、先程は階段下から聞こえていた足音が近くなっている事に、にんまりと笑みを浮かべた。放送室の出入り口を振り返った彼の瞳はぎらぎらと鋭く見開かれ、歪むように大きく笑う顔には、いびつな皺が寄る。
「早く、早く、雪弥! 早く来て、早く来てよ。君に話したいことがいっぱいあるんだ」
常盤の声を聞きながら、暁也は嫌な予感を覚えた。無意識に、口中で渇いた舌先を動かせる。後ろでは修一が踵をするように後退して、暁也に聞こえるほど大きく唾を呑みこんだ。
※※※
明美は学長室から出たあと、常盤の代わりにしばらく大学生の馬鹿騒ぎを見ていた。尾賀が予定時刻よりも早く学園に入ったと電話で知らされたのは、それから少し経った頃だった。
富川の呼び出しをうけて短く話してすぐ、彼女は急ぎ足で駐車場へと向かった。
時刻は午後十一時前である。
富川が「先にホテルへ行っていろ」と退出を許可した時の、舐め回すような目つきには吐き気がしたが、予定よりも早く、ほぼ同時に尾賀と李が到着したタイミングでのその提案は、明美にとって喜ばしいものだった。
広い駐車場には、四台のトラックが無造作に停められていた。同じ型をした三台のトラックは尾賀の、そして残り一台のかなり大型運搬用である、装甲が頑丈に作り直されたトラックは李が持って来たものだ。
明美はその脇に停められてある、自分の愛車であるワインカラーのムーブに乗り込んだ。脱ぎ捨てた白衣が助手席から滑り落ちるのも構わずに、車を急発進させる。
彼女は、ここから逃げ出したかったのだ。
出来るだけ早く、白鴎学園の敷地内から出たかった。
嫌な予感や、虫の知らせなんて馬鹿馬鹿しいと、信心のない明美は常々思っていた。幼い頃から父親はなく、短期大学を卒業した矢先に母が死んだ。借金を返済したあと違法風俗店を辞めた際、顧客の一人であった尾賀に誘われて企業就職した。
違法売買だけでなく暴力団の影もあったが、金が必要だった明美は、尾賀の仕事を手伝うことにしたのだ。
これまでの人生で追い込まれた状況は多々あり、「嫌な展開があるなら来なさいよ」と憮然と構えるようになっていたせいもあって怖くはなかった。何より、尾賀のところは女同士の抗争や、男たちからの理不尽な暴力もない。
尾賀に気に入られているおかげで愛人のような待遇を受けられたし、仕事にも融通が利いた。一人で必死に頑張っていた時代と違い、自由に出来る時間も多くあり、そこに勤めていることに対しては不満はなかった。
とはいえ、今回だけは違っていた。話を聞いた当初は、簡単な仕事と立ち場であると悠長に思っていたものの、実際に茉莉海市にやってきてから、明美は冷たい闇に飲み込まれるような恐怖を覚えていた。
まるで喉元に鋭い刃物を押し当てられ、手足から生きた心地がすうっと抜け出していくようだった。
今夜は月明かりの強い夜だが、闇の薄れた青白い光にも明美は怯えた。
白鴎学園高等部の保険医として勤めはじめてから、時々、刺すような視線を覚えていた。それは学園、町、自宅、どこにいてもふとした拍子に感じた。慣れない土地に来たからだろうかと思ったが、最近になってそれは殺気のように強くなった。
尾賀の後ろには大きな権力者がいて、だから自分たちに手を出すような者もいないだろうと、これまではずっと考えていた。
けれど先程、電話越しに誰かと話す尾賀を見て、明美は更に怖くなったのだ。
白鴎学園に降り立った尾賀が「万全ね」と、自信を溢れさせて電話する様子が直視出来なかった。「夜蜘羅さん」と聞こえた彼の声のあと、『君には期待しているからね』という声を聞いて戦慄した。
電話からもれた低く穏やかな声色は、ひどく冷たかった。電話の向こうから真っ直ぐ銃口を向けられているようだった。
夜蜘羅という男は、きっとあたしたちの仕事に興味なんて持ってない。
どうしてか、こちらで何か問題が起こっても彼らはあっさりと簡単に尾賀たちを切り捨てて、助けないのではないだろうか、という怖い想像が脳裏を過ぎった。それに加えて、特にここ五日間ずっと、何者かに見られているような錯覚が拭えない。
恐ろしい何かが起こるのではないか、と強迫観念にかられていた。
とにかく、少しでも早く遠くへ、と明美の本能が告げるのだ。
ハンドルを握る手は震えていた。それでも明美は、正確な運転さばきで学園通りから路地へと右折した。近道して大通りへ抜けようと、住宅街路を制限速度も守らずに車を走らせる。
通りは死んだように静まり返り、左右が住宅に囲まれているにもかかわらず、不思議と人の気配がなかった。彼女は更に怖くなって、急いでアクセルを踏み込み、一時停止も無視してハンドルを切った。しかし右折した先にも、車や歩行者の姿はなかった。
午後十一時という時間ではあるが、すぐそこの表通りは都心区であり、ここまでひっそりとして灯りが少ないのも滅多に見ない気がする。そのせいか、月明かりがやけに眩しく目に映った。
どうして誰もいないのよ。
明美は知らず、人の気配を探した。第三住宅街を進むが、見慣れた自動販売機だけが立ち尽くしているばかりだった。電柱脇に立つ街灯は明かりを失い、冷たい鉄の柱だけが月光に照らされている。
思えば妙だ。
どの街灯も光を灯していない。
明美は廃墟のような住宅路が怖くなって、少し広い通りに車を滑り込ませた。白鴎学園から三百メートルは離れていることに安堵し、大通りに隣接するその住宅街を北向けに走行する。
五十キロを越えていたスピードを時速制限の四十キロまで落としたとき、彼女は不意に、感じ慣れた強い視線を覚えて身体を強張らせた。
瞬間、風を切る音が小さく上がった。運転席の窓ガラスに赤が噴き出し、目を開いたままぐらりと明美の身体が崩れる。ハンドルに頭部を倒した彼女の足が、力を失ってアクセルからずれ落ちた。
左前方部の窓に小さな穴を開けた彼女の車は、操縦不能で減速しながら電柱へと突っ込んだ。フロントが凹み、衝突の衝撃で明美の身体が座席へと押しやられる。ぼんやりと浮かび上がる彼女の白い顔の右側が、じわりと血に染まり始めた。
一発の射撃によって、明美は即死していた。
白い面をつけた人間が、一人、二人、三人、とどこからともなく現れて車へと歩み寄る――
※※※
その三百メートル先。
この町でもっとも見晴らしのいい『特等席』からスコープを覗きこんでいた狙撃者が、「やれやれ」と乾いた笑みを浮かべた。癖の入った長い前髪が、スコープから離れる際にさらりと音を立てた。
「逃げられちゃ困るんだよ」
一匹たりとも、と男の唇がその音の形を作った。
白い外壁をした建物でありながら、普段出入り禁止となっているその屋上は、夜間は影を落として目立たないよう一見すると薄い灰色をにも見える特殊な加工をされていた。男は一人、そこに潜んでいた。
少年たちのいる放送室に、その足音が一歩ずつ近づいてくる。
それは濃密な空気を鈍く震わせ、静けさに食われていくようにくぐもった。廊下に差しこむやけに眩しい月明かりが、出迎えるように放送室の入口に立った常磐の白い肌を、ぼんやりと浮きたたせていた。
暁也と修一は、息を殺して身構えていた。廊下の向こうから聞こえていた足音が、やがて放送室の前で止まると、一人の少年が常盤の前に立った。
やってきたのは雪弥だった。彼は常盤に向かい合うと、一度その瞳を伏せるように閉じてすうっと開く。青白い光を逆行に受けたその顔は、恐怖も緊張もなくひどく落ち着いていた。
「こんばんは」
遠慮がちに上がった声は、凛と柔らかく耳についた。息を静めていた常盤が、興奮したように呼吸を荒上げて「やぁ、雪弥。会いたかったよ」と一息で告げる。
暁也と修一は、揃って奇妙な違和感を覚えて、無意識に警戒心を強めてしまった。見知った顔がそこにいるはずなのに、なぜか掛ける言葉が出て来ない。
月明かりのせいか、雪弥の髪は栗色に透けているように見えた。きょとんとした黒い瞳は前髪で少し隠れ、伸縮性の黒いニット服からは身体の細い線が覗いていて、その手には小型の黒いスーツケースがある。
常盤と向きあう雪弥の小奇麗な顔が、不意に、人懐っこい柔かな印象で笑んだ。いつもとは違う独特の雰囲気を感じた暁也は警戒の色を強め、修一は薄暗がりで「どこか変」と呟いて目を凝らす。
「俺が渡した麻薬、使ってみた?」
「使ってみたよ。君の話が聞きたいな」
スーツケースを入口に立て掛けながら、雪弥が自然な仕草でそう尋ねた。
常盤は質量感のある鞄を目で追っていたが、話が聞きたいといった言葉に反応した。思い出したように銃を前に出して、「見てよ」と声を弾ませる。彼はその荷物について訊くタイミングを逃したことも忘れ、雪弥にそれを自慢した。
「すごいだろ、これ本物の銃なんだぜ」
「へえ、君の物なの?」
放送室にいる二人のクラスメイトにも目を向けず、まるで自分にだけ興味があるとばかりにすぐ尋ね返された常盤は、嬉しくなって「そうだよ」と自信たっぷりに頷いた。
「仲間も皆持ってるんだ。あとで雪弥にも一つあげるよ」
「それは嬉しいね。で、撃ったことはあるの?」
「あるよ。まだ人間に試したことはないけどね」
常盤は笑みを歪ませた。向かい合う雪弥は邪気のない表情を浮かべ、彼の手にある銃をしげしげと眺めている。しかし、その横顔は見慣れた物を見下ろすように、どこか冷ややかだった。
「……なんか雪弥、変じゃね?」
修一は、隣の友人に聞こえる声量でこっそり呟いた。二回目となる私服姿の雪弥をまじまじと見て、やはり理由は分からないが違和感がある、というような顔で眉を顰める。親しさの窺える二人の様子を眺めていた暁也も、考えるように間を置いて「俺もそう思う」と小さな声で相槌を打った。
雪弥はこちらも見ず、常盤の意見や考えに賛同するようにも聞こえる言葉を返し、話し続けていた。まるで知らない転入生がそこに立っているようにも感じる。
そもそも、常盤が渡した麻薬を、彼は本当に試したのか?
嘘を吐いているようにも見えないくらい自然体だったから、暁也と修一は、真っ向からそれを否定できず困惑した。この状況が理解出来ない。雪弥自身に問いただそうにも、いつものように話しかけられない疎外感を覚えていた。
「雪弥、俺は残虐非道の悪党になるのが夢なんだ」
右手の銃を持ち上げ、常盤が嬉しそうに切り出した。早口になりかけた語尾を緩め、自身を落ち着かせるように二、三度慌ただしく呼吸を繰り返すと乾いた唇を舐める。
「冷酷で残忍な人間は、残虐な行為を賢く楽しむべきだろ? 押し付けられるルールも法律も、悪行を楽しむ特権を持っている俺たちを止めることなんて出来ないよ。俺は酒も麻薬も女もやってるけど、それだけじゃ物足りない。お前と同じ高みに立ちたいんだ」
何もかもぶち壊すくらいの事をやって、自分の手でも人間を殺めてみたい、と常盤は銃に目を落とした。
そのとき、その隙にとばかりに、雪弥が目だけをちらりと向けてきた。
その眼差しは含みがあるようでもあり、こちらの様子や動きをただチェックしているという感じでもあって、心情や思考といったことを読み取ることは出来なかった。何しろ、彼はずっときょとんとした無害な表情をしていて、常盤と犯罪の話をしていることが不思議なくらい落ち着いていたからだ。
暁也と修一が訝しむ中、雪弥の視線がそのまま常盤へと戻る。
「あの二人は殺さないの?」
唐突に、常盤の話しを遮るように雪弥がそう尋ねた。
他人事のように実にあっさりとした様子で告げられた言葉は、まるでなんでもない内容を語るように軽く、暁也は「は」と唖然と口を開けてしまった。修一も「え」と、鳥が喉を詰まらせたような声を上げて目を丸くする。
いきなり問われた常盤自身も、不意を突かれたような表情を浮かべた。
「えっと、その、暁也は殺すなって言われてるんだ」
「ふうん。じゃあもう一人は?」
せっかく銃を持っているのに、と雪弥は無害な表情で小首を傾げる。
「その銃で殺してみたくないの? 人間に試したこと、ないんでしょう?」
幼い声色にも聞こえるあどけなさで言ってあと、彼が顔をほころばせた。まるでそれを誘うように常盤を覗きこむ瞳は、無垢を感じさせるほどあどけない。
言葉を失う暁也と修一の前で、常盤が全身を震わせた。持っている銃を見下ろすと、口元をにやぁっとつり上げ、それから目の前の彼へと視線を戻して口を開いた。
「……雪弥、お前最高だよ。ははっ、あははははははははは!」
狂った高笑いが静寂を破った。空気が一変し、禍々しい狂気が場に満ちた。
まさか雪弥がそんなひどいことを口にするはずがない、と疑うように観察していた修一が、常盤の絶叫するような笑い声を聞いて飛び上がった。暁也も肌で異常性を感じ取り、思わず反射的に息を止めてしまう。
もはや正気ではないのだと悟らされ、頭の片隅にあった、同級生が人を殺すはずがないという楽観視も吹き飛んだ。どこで狂ってしまったのか。もしかしたら、薬物で頭の中を溶かされたのかもしれないが……説得は不可能だということだけは分かった。
銃や違法薬物を扱い、人を攫うことも平気でやってのける大人たちと行動している。彼らの仲間に加わっているのも常盤自身の意思であり、学園で起こっているらしい大きな事件についても、彼が自分から動いて深いところまで関わってしまっているのかもしれない。
もう、彼は引き返すことが出来ないのだ。
「……そのうち、本当に人を殺すかもしれないな」
暁也は苦々しく呟いた。修一は「俺はバカだからよく分かんないけど……かなりまずい、感じがする……」と唾を呑み込んだ。
常盤はひとしきり笑ったあと、携帯電話で時刻を確認した。肩をすくめると「もう一人の方については、あとで考えるよ」と冷静さを装った。
「実は相手方が早めに到着しているんだ。先に見せてあげるよ。大量のヘロインはきっと壮観だと思う」
そのあとに人間だって取引されるんだ、と常盤は続ける。
そのとき、あるところへ視線を移した修一の表情から、ふっと驚きがかき消えた。小首を傾げ「あれ?」と控えめに出された声は、室内に満ちる重圧をすっかり忘れてしまっている。
「……なぁ、暁也」
常盤がヘロインがしまわれている旧地下倉庫について語る中、修一が服をつまんで引っ張った。調子が狂うようなマイペースさのおかげで、少し呼吸が楽になった暁也は、緊張を漂わせながらも「なんだよ」と答える。
修一は雪弥を凝視したまま、内緒話をするように暁也に頭を近づけた。
「…………雪弥ってさ、もう少し身長なかったっけ?」
「は? お前、いきなり何言って――」
「昼間に雪弥と喋ってんの見た時、常盤って華奢なんだなって思ってたんだけど」
でも俺は常盤をあまり知らないし、と修一は少し自信がなくなったように語尾を弱くした。ひとまず見てくれと促された暁也は、訝って二人の方へ人を戻したところで――それに気付いて息を呑んだ。
一緒に校内を出歩くようになってから、暁也は長身の自分より、雪弥の背丈の方が高いことを知っていた。雪弥は確かに細身であったが、意外と鍛えられたたくましい身体を持っていたのである。
昨年までは同じクラスであったし、校内でたまに見掛けることもあったので、常盤の身長が低いとは把握していた。
それなのに、目の前にいる今の雪弥は、向かい合う常盤とあまり変わらない背丈をしていた。いや、よくよく見てみると、なんだかずいぶんと細く幼い体系をしているような気もする。
改めてその姿の違和感を認めると、いよいよ全くの別人に見えてきた。細い身体は無駄な肉が一つもないほど鍛えられているが、顔から下だけを見ると、放送室にいる三人よりも年下の少年がそこに立っていると錯覚してしまう。
一度その事実に気付いてしまうと、自分たちよりも小さいことは明らかで疑いようがなかった。どうして雪弥の身長が低くなったのか分からないし、逆にいえば、どうして雪弥と同じ顔をしているのか、とまで考えてしまって、暁也と修一は声も出なくなった。
常盤が話しを続ける最中、ふと、目の前の雪弥がこちらへ視線を滑らせてきた。
一体何がどうなっているんだという訴えを察したのか、雪弥が何かを伝えるかのように、ゆっくりとその黒い瞳で視線の先を誘導した。疑問を覚えて彼と同じ方向へ目を向けた暁也と修一は、口から出そうになった叫びを慌てて喉に押しとどめた。
彼らの前にいる雪弥は、金具がついた黒いブーツを履いていた。靴底がひどく分厚い、身長を底上げするタイプの物である。
その手の靴をいくつか知っていた暁也は、呆気に取られた。
どんだけ小さいんだ、とうっかり場違いな感想を抱いてしまう。
すると「雪弥」が、ネタバラしはしたよ、と言わんばかりに笑んで、ゆっくりと唇前に人差し指を運んで「しぃ」という形を作った。その黒い瞳は、どこか残酷でありながら悪戯っ子のように楽しげだ。
「…………厚底でも、あいつより低いッ」
修一がうっかり口に出してしまい、常盤が話しを切って怪訝そうに眉を寄せた。彼は「あいつ何言ってんだろうね」と疑問の声を上げて銃を触り、雪弥がとぼけたように「さぁ」と答える。
「じゃあ、今すぐ二人は殺さないんだね」
先程と同じ口調で雪弥は尋ねた。確認するような口調だとも気付かないまま、常盤が「そうだよ」と言って「雪弥も取引を見たいだろう?」と急かせる。
自分たちが人質扱であるらしいことを改めて自己解釈し、暁也と修一は、一先ず今すぐに殺されるような事はないらしいと互いの目で語り合った。しかし、今は攫われてきた理由についてよりも、新たに発覚した事実に緊張は強まっていくばかりだった。
雪弥の顔をしているこいつは、いったい誰だ?
確かに別人だと考えれば、常盤と犯罪じみたやりとりをして、まるであまり交流がない人間のようにこちらを注目しないのも頷ける――ような気はする。しかし、そもそも、顔を全く同じにするなんて、そんな馬鹿なことはありえないと思うのだ。
「午後十時五十八分」
不意に、雪弥の顔をした少年が耳に手をあてたかと思うと、誰に言う訳でもなく時刻を口にした。疑問を覚えた常盤に微笑みかけたかと思うと、彼は後ろ手で扉を全開にし、そのまま床を蹴って一つ飛びで廊下へと後退した。
そのとき、一組の靴音が廊下の奥から響き渡った。
聞き慣れないその足音は、シューズから発せられるものではなく、固い革靴の底がカツンとあたるものだった。
常盤は、雪弥に対して「どうしたの」と言葉を掛ける余裕もなく、身を強張らせて銃の安全装置を外した。低い声色で「富川学長か? 藤村さんか?」と呟くが、その緊張した面持ちは別の想定に身を構えているようだった。
放送室の中から、廊下に佇んだ「雪弥」が恭しく一礼する様子が見えた。彼は片方の手を胸に当て、頭を下げる。
近づいてきた足音が、放送室前で止まった。
薄暗い視界に溶け込む黒いその人物が、開かれた扉を塞ぐようにゆっくりとこちらを振り返ったとき、室内にいた三人は同時に驚愕した。
そこに立ったのは、一人の青年だった。引き締まった身体にきっちりと黒スーツを着込み、六月という季節感もなく黒のロングコートに身を包んでいる姿が、背に受けている月明かりに照らし出されている。
色素の薄い柔らかな髪は、その月明かりにブルーともグレーとも分からない色を放っていた。小奇麗な顔にかかる髪先から覗く碧眼は、凍えるほど明るく澄んでいて、月明かりの逆光があるせいか、発光して鈍い光を宿しているようにも見えた。
その青年は、三人の少年が知っている「本田雪弥」の顔をしていた。
放送室の出入り口に立った青年の顔を目に留めた瞬間、常盤がわけも分からないといった様子でじりじりと後退した。警戒心から反射的に銃を構えるが、それに対して反応を返す人間はいなかった。
暁也と修一は、異様な空気を纏った雪弥に釘付けになっていた。漆黒に身を包んだ青年は無表情で、銃を向けられても眉一つ動かさないでいる。
革靴がこちらに向かって床を一歩踏みしめたとき、常盤が「お前何なんだよ!」と狼狽した声を上げ、その足がピタリと止まった。死神のような黒に覆われた人間に恐怖を覚えたのか、常盤は助けを求めるように廊下に立つ少年の雪弥を見る。
暁也は、修一を庇うように後ずさった。青年が再び足を動かせたことに気付いて、そこへ視線を戻した常盤が、後ずさりながら上ずった声を発した。
「お前いったいッ――」
「常盤聡史、リスト対象者として処分する」
続く質問を遮るように発せられた青年の声は、彼らが知る雪弥のものだった。処分という単語に慄いた常盤が、恐怖にかられたかのように反射的に銃の引き金を置いた指に力入れる。
室内の奥で暁也たちが「ここで撃つのかよ!」と身を強張らせた瞬間、視線の先で、立っていた残像線をのこして常盤が目の前から消えていた。
発砲音は上がらなかった。何故なら常盤が引き金に指を掛けた瞬間、雪弥はその銃口を素早く左手で切り落としていたからだ。そして、驚異的な速さで彼の顔を右手で掴むと、二人の少年からは見えない放送室扉の横の壁に、容赦なく常盤の後頭部を叩きつけていた。
それは、呆気ないほど一瞬に終わった『処分』だった。
強度の強い壁に打ち付けられ、常盤の頭蓋骨は嫌な音を立てて砕けていた。原型をほとんど失った頭部が、壁と雪弥の白い指先で弾けて、粉砕した骨と噴き出した血肉が薄暗い壁を勢いよく染め上げる。
大量の血を浴びた常盤の身体が、頭部に雪弥の手をめりこませたままぴくぴくと痙攣した。華奢な身体から溢れ続ける潜血は、窓がしめきられた廊下だけでなく、すぐそばの狭い包装室内にもむせるような生温かい匂いを充満させた。
常盤の死亡を直接目撃したわけではないが、開いた扉から見えた血飛沫の一部と、映画で見るような人体が潰れる音、そして独特の死の匂いと、――なにより常盤の声がピタリと聞こえなくなった静けさから、行われたであろう事の一連を想像するのは容易だった。
未だに続く血飛沫の一端を前に、修一が膝をついて、耐えきれず胃液を吐き出した。暁也は呼吸を止めることで嘔吐感を堪え、瞬きもしないで硬直していた。