「エージェントによる『一掃』だと伺っています」
『学園内部は僕一人で片づけるから、大丈夫ですよ。ご存じの通り、この五日間、僕は彼らのクラスメイトでした。暁也と修一のことは知っています。だから、決してあなたが恐れているようなミスは起こらない』
間違っても二人の少年を殺すことはない、とナンバー4は語っているようだ。
澤部の口にくわえられた煙草の先から、伸びた灰がぼろりと崩れ落ちた。「さっきと同じ野郎か?」と静かに続けた澤部に、答える者はいない。たった一人で皆殺しにする気か……と毅梨がつい本音をこぼすと、場が再び緊迫感に包まれた。
『ミスター金島、私が二人を助けることを約束しよう』
途端に、思考を切り替えたように声から抑揚が消えた。
『しかし、任務が遂行するまで、二人を学園から連れ出せないことは頭に入れておいて下さい』
「それはどういう……!?」
てっきり救出されると思っていただけに、金島は動揺した。内田たちも、電話からこぼれた説明を聞いて目を剥く。
「学園は『戦場』になるのではないのですか、それなのに何故ッ――」
『鉄壁の檻は、学園を完全封鎖し、中の人間を出さないため暗殺部隊が包囲網を敷きます。つまり任務の完遂が確認される前に外に出したら、その時点で命令を受けているエージェントたちに殺されてしまう――だから、事が終わるまでは出す事が出来ないんです』
僕が守ります、最後にそう告げて、通信が途絶えた。
しん、と辺りが静まり返った。
六人の部下たちが見つめる中、金島は、携帯電話をゆっくりと耳元から離した。現場に立つと鬼のような形相で悪と立ち向かっていた男は、静かに顔を歪めて、部下たちを見回した。それは一人の父親の顔をしていた。
金島は唇を開きかけ、一度口をつぐんで視線をそらした。それから、眉間に刻んだ皺を濃くして、普段の表情に戻って一同に向きあう。焦燥と言いようのない不安などといった個人的な感情を押し潰したのは、金島の仕事に対する厳しい心持ちだった。
彼は部下たちに、こう宣言した。
「合図が出次第、直ちに藤村組事務所を制圧する。建物内の容疑者を全員確保した後、茉莉海署に委託。我々はその後すぐに白鴎学園へと向かう」
※※※
毅梨を筆頭に、全員が金島に対してしっかり頷く様子を、建物頭上から子狐の面をした暗殺部隊の人間が眺めていた。
耳にはめている無線機から指示を受け、彼はひらりと身を翻すと、いつの間にか後ろに立っていた長身の白い面の人間を振り返った。少年とも青年ともつかない声で、ぺこりと頭を下げて「よろしくお願いします。私はまた戻りますので」と囁きかける。
子狐の面と、両目だけがついた白いだけの面が数秒見つめ合った。互いの役割を確認するように頷きあったところで、子狐の面をした彼が軽やかに駆け出す。
長身の白い面の男の脇を通り過ぎた際、華奢な子狐の面の隊員は、眼鏡の青年へと姿を変えていた。伸縮性の黒いニット服を着た細い身体と、癖の入った髪が月明かりの下に晒され、その手には黒いスーツケースを持っていた。
里久の姿になった「子狐の面の彼」は、二階建ての建物から飛び降りた。隊長「夜狐」が彼に扮していた際に使っていた原付バイクに跨り、何食わぬ顔で白鴎学園へと向かって走り出した。
埃臭い湿った空気に、暁也は鈍い頭痛を覚えながら目を覚ました。
彼が薄暗さに慣れるまで、しばらく時間を要した。どうにか身体を動かそうと身をよじるが、重心が不安定でくらくらとした眩暈のため自由が利かなかった。
ここは、どこだ。
ぼんやりとした月明かりの反射に気付いた頃、ようやく彼の焦点が定まった。室内はひどく狭い。機材が置かれたテーブルと事務椅子、ポスターが立てられたダンボール箱とちぐはぐに物が積まれた鉄の棚。
そこは、白鴎学園高等部の放送室であった。
暁也は家を抜け出した先のショッピングセンターで、修一と落ち合ったことを思い出した。ぐらぐら揺れる頭に舌打ちし、鉛のような上体を無理やり起こす。
狭い室内に目を配ると、ぼんやりと白さが分かる床に、自分以外にもう一人少年の姿があった。背番号の入ったTシャツを着た修一が、力なく横たわっていることに気付いて、暁也は一緒に襲われたのだったと思い出した。
「おい、大丈夫かッ」
起きろよと続けたが、力の入らない喉から出たのは、自分でも驚くほどか細い声だった。暁也はどうにか修一のそばにつくと、彼を起こしにかかりながら記憶を手繰り寄せた。
それぞれ家を抜け出して合流した暁也と修一は、ショッピングセンターから白鴎学園向けの路地を歩いていた。後ろで車が止まる音がし、慌ただしい二つの足音に気付いたとき背中に衝撃が走ったのだ。
倒れ込む直前乱暴に襟首を引き寄せられ、口にハンカチを当てられた。必死に抵抗しながら修一を助けようと視線を向けた暁也は、グレーのスーツを着た男の後ろに常盤の姿を見ていた。彼の記憶は、そこでぷつりと途切れている。
「くそッ」
一体何がどうなってんだよ、と暁也は忌々しげに口ごもった。
鈍くなっていた身体の感覚が戻ってきたので、今度はもっと強く修一の身体を揺すった。すると、修一が重そうに瞼を押し上げた。ぼんやりとした瞳を暁也に向け、寝ぼけた声を上げながら目を凝らす。
「おい、修一。大丈夫か?」
「……大丈夫って……何が…………?」
のそりと上体を起こすと、修一はふと顔を顰めて後頭部に手をやった。「頭痛ぇ、寝過ぎ?」と呟く彼に、暁也は「馬鹿野郎、周り見てみろよ」と声を潜めてそう言った。
修一は、そこでようやく辺りを見回した。遅れて気付いたように、自分たちがいる場所の名を口にする。
「あれ? ここって放送室じゃん……」
「どうやら、俺たち連れ去られたみたいだぜ」
「え、なんで?」
問われた暁也は、腕を組んで口を一文字に引き結んだ。しばらく考え、「お前、俺らを襲った奴を見たか」と尋ね返す。
修一は首を傾げつつ、そういえばという顔をして「スキンヘッドを見たような気がする」と鈍痛が走る頭を抱えた。
「常盤の奴、とんでもないのに手を出してたみたいだな」
「ん~……そうかも…………」
修一は悩ましげに答えたところで、ようやく頭がハッキリしたように目を見開くと、ガバリと頭を上げて暁也を見た。
「……なぁ暁也、俺たちってもしかして、余計なことしたかな?」
「……みたいだな」
暁也は言葉を濁らせた。
「……気になるのは、なんで俺たちが連れて来られたかだな」
暁也は身体の違和感がほとんど抜けていることに気付き、立ち上がるとまずは放送室の扉に手を掛けた。引き戸式のそれを開けようとしたが、どんなに力を入れてもびくともしない。
「放送室って、外鍵か?」
暁也が尋ねると、修一は「俺外から覗いたことあるけど、入ったことないから分かんねぇ」と首を傾けた。
暁也は「俺もさ」と顔をそらし、扉に一つだけの窓がある放送室をぐるりと見渡した。室内灯の電源を見つけてスイッチを押してみたが、うんともすんともいわなかった。
やっぱ、主電源は落ちてんのか。
暁也は難しい顔をして思案した。足に力が入ることを確認した修一が立ち上がり、ひょいと彼を覗きこむ。
「何考えてんの?」
「いや、放送室って点が気になってな……常盤の他に、もしかしたら学校の教師もグルなんじゃないか? もし俺たちを運んだのが大人の連中ってんなら、手引きしてる奴がいないと学園には入れないだろ。鍵が壊されてる形跡もないし」
修一は、ひどく感心したように暁也を見た。「お前『走れ、探偵少年』みたいだなぁ」と顔をほころばせる。呆れて見つめ返した暁也は、「お前が言うやつって全部『走れ』シリーズばっかりだな」と肩を落とした。
修一は「走れ、探偵少年」のことを語ろうと口を開きかけて、ふと思い出したように表情を明らめた。
「そうそう、その主人公、本当お前と似てんだよなぁ。警察の父親がいて、最新シリーズで人質になっちゃってさ――」
言いかけて、不意に修一は言葉を切った。「あれ?」と呟く笑みがぎこちなく引き攣り、対する暁也も表情を強張らせる。
「…………もしかして」
「…………ビンゴかもしれねぇ」
しばらく沈黙を置き、修一が「うそぉ!」と後ずさった。
暁也はどうして父が「家にいろ」といっていたのか思い至って、舌打ちした。
「チクショー、事件が起こっているのは町中じゃなくて、この学校だったのか!」
常盤が雪弥を学校に呼んだとき、なぜ気付かなかったと暁也は苛立った。そばにいた修一が「そんなとんでもない学校じゃなかったはずなのに、一体なんで」と驚愕する顔を振り返り、言葉早く話を切り出す。
「俺の家に集まっていた親父の同僚が、大きな事件を追ってると言っていた。常盤が違法薬物を持っていて、人攫いみたいな行動にまで関わってるところから立てられる推測としては……その一、常盤は俺の親父が県警察本部長の息子だって知ってるから、あのおっさんたちは警察の動きを警戒して、保険のために俺らを人質として捕まえた」
暁也が「1」と言って指を立てるのを、修一は息を呑んで見守る。続いて、二本目の指が立てられた。
「その二、つまり人質を立てなきゃならないようなヤバイことが起こっている。その三、そのおっさん共が常盤に違法薬物を与えている連中だとすると、県警本部が動くくらいだから、他にも関わっている犯罪メンバーがあるとも推測される。その四、校内に自由に出入り出来ているということは、学園にも常盤以外に大人の共犯者がいるってことだろうな。――まぁ、そうすると明美先生のバッグに入っていた注射器、本当に麻薬関係だった可能性も高くなるけどな」
そこで、二人はしばし沈黙した。
「で、でもさ、なんで学校なんだろ?」
「親父が直でこっちに来てるのも気になる。もしかしたら、何らかの取引が――」
そのとき、一瞬薄暗い室内に光が流れて消えていった。
暁也は反射的に振り返ると、小さなガラス窓がはめられた放送室の扉へと駆け寄り、そこから廊下に並ぶ窓の様子を観察した。三階視聴覚室と隣接する放送室は、南側へと続く「第一」「第二」音楽室などの移動授業用教室が並ぶ廊下にある。
すると、高等部の正門と運動場が覗けるその廊下に、外から強い斜光が当たって、流れるように消えていくのが見えた。耳を澄ませてみると、微かに振動音を感じ、暁也は学園内に大型の車が入ってきていることに気付いた。
「暁也、これってトラックか……?」
「だろうな。三階に当たるくらいなら、トラックがハイライトにしないと当たらねぇだろうし……」
三台目の光りが差しこんだ後、最後にやけに重々しい大型トラックの振動音と強い光を走り、それきりぴたりとやってこなくなった。
「トラックが全部で四台…………」
そう呟いて考え込む暁也のそばで、修一がふと「刑事ドラマみたいだな」といって冗談を続けた。
「常盤も持ってたし、暁也の親父さんが動くぐらいだから、トラックに詰め込めるくらい大量の違法薬物とかが関わっている事件だったりして」
え、と暁也は不意を突かれたような顔を向けた。
思い付きで言っただけの修一は、自分に向けられる視線から暁也が言わんとしていることを察し、笑顔を困惑へと移していった。「まさか、そんなの冗談だって」とうろたえてしまったとき――
二人の視界に入っていた扉の窓ガラスから、常盤の顔がにゅっと現れた。
修一が「ぎゃあ」と全身で叫び、暁也がぎょっとして後ずさった。扉の外にいた常盤が大きな声で笑ったかと思うと、鍵が開く音が上がり、続いて扉がスライドする。
「あはははは、驚き過ぎだろ。幽霊とでも思った?」
制服を着たままの常盤は、陽気そうな台詞を並べて室内に入ってきた。ボタンが閉められていないブレザーと、細い腰回りを覆う白いシャツの裾。いつもはきっちりしめられている紺色のネクタイも緩かった。
露骨に警戒する暁也と修一に気付くと、常盤は後ろ手で扉を半分だけ閉めて、わざとらしく肩をすくめた。
「やだなぁ、そんなに睨まないでくれよ」
「やばい事に足突っ込むなんて、利口じゃない奴のやることだぜ」
困惑する修一の前に立ち、暁也は常盤を睨みつけた。常盤は気にもならないように二人を通り過ぎ、放送機材の並べられたテーブルへと腰を降ろす。
常盤は優雅に足を組むと、面白そうに一人笑った。腕を後ろにやって体勢を崩すと、幼い仕草で首を傾ける。
「暇だし、少し話そうよ」
子供っぽい表情と口調で常盤は語りかけた。組んだ足を揺らす彼は、これまでの無口で無愛想な印象とは違って見える。
暁也は非難するように目を細めると、修一にちらりと目配せした。その視線の意図に気づいた修一が「まさか」と言いたげな表情を浮かべる。
眉間に深い皺を刻むと、暁也は侮蔑するように常盤を見据えた。
「お前、薬物やってるだろ」
「ああ、すごくいい気分だよ。暗い視界でも君たちの顔がはっきりと見えるし、絶好調さ」
常盤は満足げに頷いた後、ブレザーのポケットから携帯電話を取り出して、画面を開き見た。
「午後十一時前か……そろそろ雪弥も来るよね、早く来ないかなぁ。いろいろと事が始まっちゃう前に見せてあげたいのに」
瞳孔の開いた瞳が、くすくすと笑って「暇だなぁ」と暁也たちの方へ滑った。彼から放たれる異様な空気に当てられ、身体を強張らせる修一をかばうように暁也が後退する。
常盤はまるで、恋人を待つかのように雪弥の名を口にしている気がした。これまで接点もなかったはずだが、と、だからこそ暁也と修一は、困惑せずにはいられなかった。
常盤はそんな二人を尻目に、前触れもなく無邪気な表情を浮かべて話しを切り出す。
「こう言ったら驚く? この学校に大量のヘロインがあって、それが今日莫大な金になるってこと。それともさ、大学校舎で覚せい剤乱用パーティーが起こってる方が驚くかな――ああ、それとも、銃を持ってる俺の仲間がたくさん集まっているほうが新鮮?」
こんな風に、と常盤は続けた。膨らんだブレザーの下から、重量感を思わせる黒い光沢の銃を取り出す。暁也と修一が息を呑むと、常盤は恍惚の表情を浮かべた。
暁也は忌々しげに奥歯を噛みあわせ、ようやく声を絞り出した。
「……お前、いったい何がしたいんだ?」
「大きな事を。誰もが驚いて恐怖するような、そんなことだよ」
常盤は即答した。床に足を降ろすと、ゆっくりと歩き出す。彼は鼻歌を歌いながら、狭い室内を左右に行ったり来たりした。時々扉から廊下を覗きこんでは、銃を持っていた右手を意味もなく前後に揺らす。
暁也と修一は、一度に大量の情報が入ってきたことによって混乱していた。大量のヘロインと聞いて、すぐ暁也が思い浮かべたことは「取引」である。
ヤクザ紛いの男たちがいて、共犯である教師がいて、学生の常盤でさえ銃が与えられている。そして、学園内に大量のヘロインが保管されている。入ってきたトラックはそのヘロインの買い手か、売り手だろう。
どうやら冗談抜きでヤバイくらいの大ごとらしい。
暁也は、どうにか冷静に思考を巡らせた。スポーツと刑事ドラマ観賞が趣味の修一も、暁也と同じことを思い至ったような表情を浮かべていた。お互い声を合わせたわけでもなく視線を絡め、緊張気味に声を落とす。
「……暁也、俺たちマジでやばいかも」
「……ああ」
暁也は低く答えた。
父が関わっている事件なのだろうか。いや、その前に警察はこのことを知っているのか?
強い動揺が思索を邪魔した。雪弥と常盤の関係性を先に推測するが、全く分からない。修一は「薬物を押し付けただけなのに、なんだか雪弥も仲間みたいな言い方が変だなぁ」と、常盤本人に聞こえないように口ごもった。
常盤が廊下へと顔を出しているのを見計らい、暁也は一つ頷いて相槌を打った。
「とにかく、分かっている事は。ここでやばい事件が、今、現在進行形で起こっているってことだな」
考えることに疲れた修一が、げんなりとした様子でこうぼやいた。
「覚せい剤に、ヘロイン……乱用パーティーと、えっと取引? そんで先生の中にも共犯者がいて、ヤクザと常盤とトラックがあって俺たちの危機――」
「落ち着け」
暁也は冷静に、混乱に突入しかけた修一の一人思案を遮った。
そのとき、常盤が弾かれるように廊下へと飛び出した。堪え切れない嬉しさに、その瞳を爛々と怪しく輝かせている。
何事だろうと訝った二人は、そっと扉に近づいて耳を澄ませたところで、常盤がうっとりとした様子で「雪弥」と呟くのを聞いた。まさか本当にきたのか、と当の常盤本人に馬鹿正直に尋ねかけた修一の口を、暁也が塞いで室内の奥に引っ張り戻す。
途端、常盤がくるりと振り返った。軽い足取りで戻ってきたかと思うと、突然中央で立ち止まって天井を仰いだ。
「ああ、とても最高な夜だ!」
突然、室内に歓喜な叫び声が上がり、暁也と修一は驚いて身を強張らせた。常盤は狭いスペースを落ち着きもなく歩き出し、小さな円を描きながら独り言を続ける。
「俺にこそ相応しい最高の相棒が、今日誕生するんだ! 残虐で悪逆非道! ああ、でも彼は気に入ってくれるかな。いや、きっと気に入るはずさ! そうさ、これからは二人でやっていけるんだ! 俺は独りじゃない!」
奇声を上げて笑い始めた常盤に、暁也と修一は息を呑んだ。自然と身体に力が入り、何度も深い呼吸を繰り返す。狂った瘴気に当てられて、気を抜くとこちらの精神もバランスを崩してしまいそうな光景だった。
不意に常盤の高笑いが止んだ。
廊下の奥から、室内に届くほどの距離感で一つの足音が聞こえ出していた。
薬で聴覚が敏感になっていた常盤は、先程は階段下から聞こえていた足音が近くなっている事に、にんまりと笑みを浮かべた。放送室の出入り口を振り返った彼の瞳はぎらぎらと鋭く見開かれ、歪むように大きく笑う顔には、いびつな皺が寄る。
「早く、早く、雪弥! 早く来て、早く来てよ。君に話したいことがいっぱいあるんだ」
常盤の声を聞きながら、暁也は嫌な予感を覚えた。無意識に、口中で渇いた舌先を動かせる。後ろでは修一が踵をするように後退して、暁也に聞こえるほど大きく唾を呑みこんだ。
※※※
明美は学長室から出たあと、常盤の代わりにしばらく大学生の馬鹿騒ぎを見ていた。尾賀が予定時刻よりも早く学園に入ったと電話で知らされたのは、それから少し経った頃だった。
富川の呼び出しをうけて短く話してすぐ、彼女は急ぎ足で駐車場へと向かった。
時刻は午後十一時前である。
富川が「先にホテルへ行っていろ」と退出を許可した時の、舐め回すような目つきには吐き気がしたが、予定よりも早く、ほぼ同時に尾賀と李が到着したタイミングでのその提案は、明美にとって喜ばしいものだった。
広い駐車場には、四台のトラックが無造作に停められていた。同じ型をした三台のトラックは尾賀の、そして残り一台のかなり大型運搬用である、装甲が頑丈に作り直されたトラックは李が持って来たものだ。
明美はその脇に停められてある、自分の愛車であるワインカラーのムーブに乗り込んだ。脱ぎ捨てた白衣が助手席から滑り落ちるのも構わずに、車を急発進させる。
彼女は、ここから逃げ出したかったのだ。
出来るだけ早く、白鴎学園の敷地内から出たかった。
嫌な予感や、虫の知らせなんて馬鹿馬鹿しいと、信心のない明美は常々思っていた。幼い頃から父親はなく、短期大学を卒業した矢先に母が死んだ。借金を返済したあと違法風俗店を辞めた際、顧客の一人であった尾賀に誘われて企業就職した。
違法売買だけでなく暴力団の影もあったが、金が必要だった明美は、尾賀の仕事を手伝うことにしたのだ。
これまでの人生で追い込まれた状況は多々あり、「嫌な展開があるなら来なさいよ」と憮然と構えるようになっていたせいもあって怖くはなかった。何より、尾賀のところは女同士の抗争や、男たちからの理不尽な暴力もない。
尾賀に気に入られているおかげで愛人のような待遇を受けられたし、仕事にも融通が利いた。一人で必死に頑張っていた時代と違い、自由に出来る時間も多くあり、そこに勤めていることに対しては不満はなかった。
とはいえ、今回だけは違っていた。話を聞いた当初は、簡単な仕事と立ち場であると悠長に思っていたものの、実際に茉莉海市にやってきてから、明美は冷たい闇に飲み込まれるような恐怖を覚えていた。
まるで喉元に鋭い刃物を押し当てられ、手足から生きた心地がすうっと抜け出していくようだった。
今夜は月明かりの強い夜だが、闇の薄れた青白い光にも明美は怯えた。
白鴎学園高等部の保険医として勤めはじめてから、時々、刺すような視線を覚えていた。それは学園、町、自宅、どこにいてもふとした拍子に感じた。慣れない土地に来たからだろうかと思ったが、最近になってそれは殺気のように強くなった。
尾賀の後ろには大きな権力者がいて、だから自分たちに手を出すような者もいないだろうと、これまではずっと考えていた。
けれど先程、電話越しに誰かと話す尾賀を見て、明美は更に怖くなったのだ。
白鴎学園に降り立った尾賀が「万全ね」と、自信を溢れさせて電話する様子が直視出来なかった。「夜蜘羅さん」と聞こえた彼の声のあと、『君には期待しているからね』という声を聞いて戦慄した。
電話からもれた低く穏やかな声色は、ひどく冷たかった。電話の向こうから真っ直ぐ銃口を向けられているようだった。
夜蜘羅という男は、きっとあたしたちの仕事に興味なんて持ってない。
どうしてか、こちらで何か問題が起こっても彼らはあっさりと簡単に尾賀たちを切り捨てて、助けないのではないだろうか、という怖い想像が脳裏を過ぎった。それに加えて、特にここ五日間ずっと、何者かに見られているような錯覚が拭えない。
恐ろしい何かが起こるのではないか、と強迫観念にかられていた。
とにかく、少しでも早く遠くへ、と明美の本能が告げるのだ。
ハンドルを握る手は震えていた。それでも明美は、正確な運転さばきで学園通りから路地へと右折した。近道して大通りへ抜けようと、住宅街路を制限速度も守らずに車を走らせる。
通りは死んだように静まり返り、左右が住宅に囲まれているにもかかわらず、不思議と人の気配がなかった。彼女は更に怖くなって、急いでアクセルを踏み込み、一時停止も無視してハンドルを切った。しかし右折した先にも、車や歩行者の姿はなかった。
午後十一時という時間ではあるが、すぐそこの表通りは都心区であり、ここまでひっそりとして灯りが少ないのも滅多に見ない気がする。そのせいか、月明かりがやけに眩しく目に映った。
どうして誰もいないのよ。
明美は知らず、人の気配を探した。第三住宅街を進むが、見慣れた自動販売機だけが立ち尽くしているばかりだった。電柱脇に立つ街灯は明かりを失い、冷たい鉄の柱だけが月光に照らされている。
思えば妙だ。
どの街灯も光を灯していない。
明美は廃墟のような住宅路が怖くなって、少し広い通りに車を滑り込ませた。白鴎学園から三百メートルは離れていることに安堵し、大通りに隣接するその住宅街を北向けに走行する。
五十キロを越えていたスピードを時速制限の四十キロまで落としたとき、彼女は不意に、感じ慣れた強い視線を覚えて身体を強張らせた。
瞬間、風を切る音が小さく上がった。運転席の窓ガラスに赤が噴き出し、目を開いたままぐらりと明美の身体が崩れる。ハンドルに頭部を倒した彼女の足が、力を失ってアクセルからずれ落ちた。
左前方部の窓に小さな穴を開けた彼女の車は、操縦不能で減速しながら電柱へと突っ込んだ。フロントが凹み、衝突の衝撃で明美の身体が座席へと押しやられる。ぼんやりと浮かび上がる彼女の白い顔の右側が、じわりと血に染まり始めた。
一発の射撃によって、明美は即死していた。
白い面をつけた人間が、一人、二人、三人、とどこからともなく現れて車へと歩み寄る――
※※※
その三百メートル先。
この町でもっとも見晴らしのいい『特等席』からスコープを覗きこんでいた狙撃者が、「やれやれ」と乾いた笑みを浮かべた。癖の入った長い前髪が、スコープから離れる際にさらりと音を立てた。
「逃げられちゃ困るんだよ」
一匹たりとも、と男の唇がその音の形を作った。
白い外壁をした建物でありながら、普段出入り禁止となっているその屋上は、夜間は影を落として目立たないよう一見すると薄い灰色をにも見える特殊な加工をされていた。男は一人、そこに潜んでいた。