蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~

 暁也は考えたが、途中母に呼ばれて思考をそこで止めた。さっと手早く私服に着替えると、急ぎ足で一階へと降りた。


 リビングには、普段と変わらず二人分の食事が広げられていた。母と暁也、二人の食事風景はいつものことだった。父がいないことの方が、暁也には居心地が良い。


 高知市にある高等学校の二年生だった頃、彼は校内で暴力事件を起こした。一年生の女子生徒に手を上げた三年の不良集団が気に食わず、そのまま一人で全員を病院送りにしたのだ。

 遠巻きに見ているだけで、助けもしない学生たちに腹が立った。不良集団と、そこで起こっている悪行に見て見ぬ振りを決め込む教師たちに怒りを覚えた。気付いた時には、女子生徒に手を上げた先輩学生を殴り飛ばしていた。

 ようやく浮き彫りになった校内の風紀乱れと苛めの実態を、学校側は暁也が悪いと主張して自分たちの立場を守った。不良集団リーダーの父親が、県議員だったことが理由だった。

 暁也は権力も不正も嫌いだった。人間関係や縛られる生活よりも、ならばと一人でいることを選んだ。

 しばらく擦れ違いなっていた父と、あの事件を起こしたときまともに顔を合わせた。暁也は校長室で彼に「こんなときに父親面してんじゃねぇよ」と言い掛けて、不意に言葉が詰まった。悪に正面から立ち向かう父の威厳溢れる顔が歪むのを見て、まるで自分のすべてを拒絶されているように感じた。

 どうせ何を言っても、俺の話なんて聞いてくれねぇんだろ?

 中学生までほとんど接したことがなかった父は、暁也にとって「父親」という名の男にすぎなかった。なのに呼び出された校長室で父の顔を見たとき、たった一人の父と子なのだというものを眼差し一つで感じさせられたような気がして、一瞬、呼吸も忘れるほど胸が詰まったのだ。

 理由も分からず怒りが身を潜め、暁也はそれ以降父を避けるようになった。父を見掛ける度に、まるで被害妄想のように、その顔に「恥を知れ」という自分がもっとも見たくない表情が浮かぶのを想像した。

 白鴎学園に編入出来たとき、「コネで入学できたんじゃねぇの」という自分の噂を聞いた。以前の学校で不正で潔白を勝ちとった不良集団リーダーの父親を思い出して、暁也は再び怒りを覚えた。それだけがどうしても許せなくて、入学早々にそう言って絡んできた三年生と喧嘩を起こした。

 正義を掲げる父を遠ざける理由を、嫌悪感だといって自分を納得させると、鬱陶しい想像も浮かばなくなった。その方が、小難しく考えずに済んでひどく楽だった。

 だって俺は「不良」なのだ。

 期待なんかされる方がおかしい。

「もらったジャガイモが大きくて、煮込み切れているか心配だったのよ。どう? アキ」
「ん、普通に美味い」
「そう、良かったわ」

 母は料理上手だ。友人をテラスに呼び、紅茶と手作りの菓子を御馳走するのが日課であった。暁也が何も語らなかったが、母だけが事件後も変わらずに接してくれていた。

 理不尽に高校を追いだされた暁也が、「俺なんて産まれて来なきゃいいって思ってんだろ」と当たり散らしたとき、母は彼を抱きしめてたった一度だけ、その事件の想いを口にした。「そんな悲しいこと言わないで。アキが優しいこと、母さん知っているもの」と彼女は言った切り、以前通っていた高校のことを話題に出さなかった。
 食事が終わった頃、暁也は何食わぬ顔で母に「今日の夜も、ちょっとバイクを走らせて来るから」と告げた。

 いつも父が帰って来る午後九時から午後十時に掛けて家を出ると、母が就寝する十二時前までは一人ツーリングを楽しむことが日課だった。だから暁也にとっては、怪しまれることもない外出理由だったのだ。

 午後十時頃に修一と落ち合うことも知らない母は、明日の土曜日にでも一度バイクの定期検診を受けさせることをすすめただけだった。母もバイクを乗り回していた人間だったので、暁也が夜のドライブを始めた頃も「夜風って気持ちいいし、夜景も最高よね」としか言わなかったのだ。

 暁也は部屋に戻ると、修一に『俺出る口実オーケー、お前は?』とメールを送った。すぐに返ってきた返事は『メシ食ってる、ハンバーグ最高。親どっちも帰り遅くなるから、友だちんとこに宿題写しに行くって書き置き残す』とあった。修一の両親は自営業で食品加工を行っており、途中母親が職場を抜けて夕飯を作っておくことが多かった。

 午後十時前に、改めてショッピングセンター前で待ち合わせすることを確認し合って、暁也は時間を待ちながら持って行くものを揃えた。

 携帯電話と免許証の入った財布をポケットに詰め、バイクの鍵とヘルメットをベッドに並べる。最後に彼が手に取ったのは、火曜日に修一とカケオケ店へ行く前に買った、安物の腕時計だった。

 今まで時間を気にすることはなかったから、腕時計なんて買った経験もなかった。しかし、授業時間外を利用して雪弥に校内を案内するようになってから、ベルト式の細い腕時計は必需品の一つになっていた。

 人に時間を合わせたり、説明することは苦手だったはずなのに、修一と同様に、雪弥に対しても不思議とそんな面倒臭さを覚えなかった。最近はもっぱら、授業も休み時間も常に三人でいることが多く、「おはよう」から「また明日ね」を、修一や雪弥と交わすことも心地良かった。

 暁也は、三学年で一番の遅刻魔である。時間に縛られることが好きではなく、つまらない学校でじっと過ごすことも耐えられなかった。事件の一件以来、教師や生徒も信用できず、そこでは過ぎて行く時間すらひどく遅いと感じた。

 それが今週の月曜日からは、あっという間に流れているような物足りなさを感じていた。家で一人じっとしているときや、バイクで走り回っている方が、暁也は時間がのろのろと時を数えているのではないかと思った。


 時計の針が九時四十分を打った頃、暁也は昨日読みかけになっていた本から目を上げた。まだこんな時間かよ、と悪態をつきながら、ふと常盤への苛立ちを思い出して舌打ちした。


「常盤の野郎、雪弥を巻き込もうとしやがって」

 一発ガツンと言ってやらないと気が済まない、と暁也は本を閉じた。
 月曜日から金曜日までの五日間、暁也は修一と共に雪弥と過ごした。大人しいだけの少年かと思いきや、雪弥は自分のことよりも第三者を考え、時には予想もつかいない行動を起こして暁也たちを驚かせた。

 教室で一人の男子生徒が「この年頃になって母ちゃんと一緒に買い物なんて笑えるよな」と言ったとき、雪弥は「そんなこと言っちゃ駄目だよ、聞いている子を知らずに傷つけることだってあるんだから」と真っ直ぐに主張した。

 普段三組のクラスメイトたちは、「またレッテル貼って」と迷惑そうにその男子生徒を見るだけだったのだが、反論意見が上がるのは初めてのことだった。その男子生徒に「じゃあお前はそうなんだ?」とからかわれる対象になるのが嫌なのである。

 案の定、その時雪弥は「お前まだ母ちゃんと一緒に行動してるマザコンなんだろ」と笑いのタネにされたが、彼は平然と笑ってこう返した。

「両親や家族を大事にすることって大切だと思うよ。その対象が例えば母親だとしたら、僕たちは男で、彼女は女性でしょう? 僕たちは、助けられるときに手を差し伸べて、そして守ってあげるべきじゃないかな」

 家族の繋がりって大事だよ、と雪弥は強調した。

 その男子生徒を含むクラスメイトたちは、何も言い返せなかった。しばらくすると「確かになぁ」と賛同する意見が多数上がり、結局その男子生徒は「そうだよな、その、ごめんな。別に深い意味があったわけじゃないんだ」といって項垂れた。けれどからかわれたにも関わらず、雪弥はその男子生徒にこう続けたのだ。

「自分だけが大事に想っているのかなと思って、そんなことを言っただけだろう? 君は不器用なだけで、本当は優しい子なんだね」

 フォローするような言葉だった。その少年は柔らかく諭され、後味悪くもならずに照れただけで済んだ。クラスメイトの誰も、その少年を嗤ったりしなかった。

 雪弥は口数が少ないと思いきや、饒舌に話しを切り出すことがあった。初めての合同体育の授業の際は、てっきり運動音痴の真面目君かとマークされなかった彼が、一瞬にして点数を奪って盛り上がったときもある。

 折り紙を初めて触ったとクラスメイトたちを驚かせ、野球のルールも知らずに百二十キロ以上の剛球を放ってピッチャーを泣かせた。小食かと思いきや、今日は修一ですら食べられないほどの量を、あっさりと胃袋に課おさめてしまった。

 彼といると退屈しない。合同授業で一緒だった三組の西田たちが、最近よく四組に出没するという騒動も笑みが絶えないものだった。

「ったく、そんな奴に薬物とか、常盤の奴マジで馬鹿だろ」

 色々と思い返して浸ってしまったせいで、暁也は彼らがどうして学校で待ち合わせするのかという疑問をすっかり忘れた。
 時計が午後九時五十分を差したとき、ヘルメットとバイクの鍵を持って部屋を出た。バイクはショッピングセンターの駐輪所に停めとくか、と考えて階段を下り始めたが、ふと一階から少し騒がしい気配がすることに気付いた。


 一階へと差しかかって、暁也はそこにスーツ姿の男たちがいる事に気付いた。懐かしい顔触れは、父の部下たちであった。毅梨、内田、澤部、阿利宮、そして阿利宮といつも一緒にいる三人の若手刑事たちの姿もあった。

 階段から降りた暁也は、振り返った男たち一同に見つめられて「なんだよ?」と思わず顔を顰めた。こうしてきちんと顔を合わせるのは、高知市に住んでいたとき以来だ。

「暁也君、これからバイク……?」

 若手時代から面識のある阿利宮が言い、暁也は怪訝そうに眉を持ち上げて「そうだけど?」と答えた。

 阿利宮は、まるでそれがまずい事でもあるように言葉を詰まらせた。リビング出入り口に向かって内田がけだるそうに「金島さ~ん、息子さんっすよ~」と声をかけると、床を叩くような足音が聞こえてきて、全員の目がそちらへと向いた。

 圧倒的な雰囲気をまとった父が姿を現し、集まっていた男たちが、言葉もなく通路を開けた。

 父から仕事の瞳を向けられることが初めてだった暁也は、思わず息を呑んで彼を見上げた。室内にはどこか緊迫した空気があることに気付き、足元からすうっと萎縮するような緊張感をどうにか堪える。

「ちょっと、バイク飛ばして来る」

 久しぶりに父に投げかけた声は、喉から絞り出してようやくしか出て来なかった。屈強な体格を持った父を今一度確認し、暁也は思わず「こんなに大きい親父だったのか」と思ってしまった。

 すると、目の前に壁のように立つ父――金島本部長がこう言った。

「外出は禁止だ。今日は大人しくしていなさい」

 強い口調に、暁也は反論しかけて口をつぐんだ。リビング奥から出てきた母が、今にも泣きそうな顔で「暁也、お父さんの言うことをちゃんと聞いて」と懇願したのだ。

 暁也はわけが分からず、自分へと視線を向ける男たちを見回した。

「いったい、どうなって――」
「これは命令だ、暁也。今すぐ部屋に戻りなさい」

 父親ぶった物言いだ、暁也はカッとなった。

 こちらを見下ろす父に強い怒りを覚え、階段の柵にヘルメットを打ちつけて睨み上げた。苛立ちは一気に膨れ上がり、彼は不満と憤りで持っていたバイクの鍵を握りしめて叫んだ。

「あんたはそうやって、俺に説教ばっかりだ! こっちの話も聞かない癖に! 一体何がどうなってるのかくらい、話してくれてもいいだろ!」
 そのとき、悲痛に歪みかけた顔をそらすように父が踵を返した。わずかに横顔を暁也に向け、ただ一言「部屋に戻りなさい」と静かに告げて歩き出す。

 そこへ身を割りこませたのは、阿利宮だった。

「大きな事故があってね、容疑者が逃走しているから、今日は大人しくしていて欲しいんだ。いいね?」
「大きな事件が起こってて、安全のため家にいた方がいいってことっすよ」

 毅梨と澤部が父に続いて玄関から出て行くのを目で追い、内田が面倒だと言わんばかりの半眼を暁也に向けた。阿利宮が「この馬鹿ッ」と振り返るが、内田はバリバリと豪快に頭をかいて続ける。

「阿利宮さん、遠まわし過ぎますよ。はっきり言ってやった方がいいんじゃないすか? 俺らは大きな事件の犯人を追っていて、住民は出来るだけ外出を控えてもらうように声掛けてるって」

 内田は言って、阿利宮に垂れた瞳をじろりと投げ寄こした。

 目があった阿利宮は、その視線に含まれる意図に気付いたように顔を上げて、「そ、そうだね」と自身に言い聞かせるように口にして暁也へと向き直った。

「内田さんの言う通りなんだ。犯人確保まで内密なことなんだけど……暁也君のお母さんにも、鍵を掛けておくようにって言ってあるから」

 阿利宮と内田は母に挨拶をすると、すぐ外へと出て行ってしまった。

 玄関に阿利宮の部下二人が残ったことに違和感を覚え、暁也は自分の部屋へと引き返しながら腕時計を見て舌打ちした。「こんなときに何てバッドタイミングだよ」と父が関わっているらしい事件を忌々しく思った。

 本部長の息子だから厳重なのか。

 うちの近くで容疑者確保に向けて作戦が進んでいるせいか。

 その二通りの考えが思い浮かび、雪弥が常盤に会いに行かない可能性も考えてみた。しかし、どう転ぶか分からない状況の中で、自分が理想とするパターンを期待するのはあまりにも愚かで危険なことであり、そわそわと心配して無駄な時間を過ごすよりは、やはり当初の予定通り先手を打って動く方がいいだろうという結論に達した。
 暁也は部屋に戻ると、自宅から抜け出す作戦を立てた。ふと、修一の住居にも外出控えの告知が回っていたらと想像した。

 修一は馬鹿に素直で真面目なところもあるので、素直に外出を控えるかもしれない。


 暁也は「抜け出せ」と提案するつもりで彼に電話をかけた。うちみたいに刑事が玄関先で待機しているわけじゃないだろうし、きっと簡単だろう。とにかく家を出て、外で落ち合うのが最優先だ。それから学校に向かう。

 もし警察が回ってきていたとしても、注意を無視してそのまま家を出ればいいだけの話だと暁也は思った。

         ※※※

 修一の家は、第三住宅街の北側にあった。そこは賃金が安く、高さの低いアパートやマンションが並ぶ一帯である。

 修一が家族と三人で住んでいるアパートは大通りの近くにあり、玄関からは茉莉海市ショッピングセンター、ベランダからは北西向けに白鴎学園の校舎がちらりと見えた。

 三階建てのアパート「エンジェル留美」は、一つの階に四世帯の、合計十二世帯が入居している。こじんまりとした台所と、畳部屋がついた2LDKの三〇二号室が修一の住まいだ。

 真下の階に当たる二〇二号室には、高校二年生まで同じクラスだった幼馴染の武田(たけだ)弘志(ひろし)が父と二人で暮らしている。彼の父は運送会社で帰りが遅く、修一は武田と一緒に過ごすことが多かった。

 暇になればお互いの部屋を行ったり来たりと過ごし、大抵夕飯は修一の部屋で共に食べる。武田の父と修一の両親は仲が良く、プライベードでの付き合いも多々あったからだ。

 修一にとって、ドラマや映画、ニュースの中だけだと思っていた違法薬物を、常盤が持っていたことは大きな驚きだった。この前見たドラマの影響で「保険の先生が麻薬をやってるかも」と勘違いしたときと比べ物にならないほど、本物がやりとりされている現場には緊張した。

 まるで、自分の方が悪いことをしているようにドキドキが止まらなかった。常盤が動いた際、弾かれるようにその場を飛び出したのは、度胸が据わった冷静沈着な暁也も同じである。

 なんというか、直感的に、あれはダメな物だと思った。

 はじめて「明美先生」のことを暁也に相談したとき、修一は「そんな安易な代物じゃないんだぜ」と言われた。常盤が本物の薬物を雪弥に押し付けるのを見て、その言葉の意味がなんとなく分かった。違法薬物は実物を見たこともない修一でも、想像以上に危険な存在感を放っていたからだ。
 覚せい剤や麻薬は身体をボロボロにする、やめさせなきゃ。

 修一は常盤も助けるつもりだった。雪弥が同じように薬物に溺れることは考えられなかったが、暁也が「もしもの事を考えると」といつになく食らいついてきたので、今夜学校へ行くことを決めていた。雪弥が常盤と顔を合わせる前に、暁也と修一で乗り込む作戦である。

「雪弥は頭良いもん。薬で成績上げようとか、絶対思わないって」

 今夜の作戦は、雪弥が夜の学校で常盤に会うことが前提で計画立てられていた。修一には、雪弥がわさわざ薬物の件で夜の学校に忍び込むとも想像できなかったから、そこにはやや不満を覚えていた。


 しかし、もやもやとした嫌な気持ちは、帰宅した際にテーブルに置かれていたハンバーグを見て吹き飛んだ。


 鞄を持ったまま、小さな食卓に駆け寄って本日の夕食メニューを覗きこむ。

 野菜サラダとジャガバター、特大サイズのハンバーグが平皿を三色に彩っていた。置き手紙には「スープは温めて飲むように、冷蔵庫にプリンが入っています」との旨が書かれていた。

「今日は俺の好物ばっかりじゃん!」

 修一は喜んだ。午後六時を過ぎていたので、昼食で膨れていたはずの腹は空腹を覚え始めていた。カラオケ店では飲み物も進まなかったのだから、腹が減るのも当然だ。

 夕飯を作っていった母と、修一は擦れ違いになったようだった。スープもハンバーグもまだ温かかった。野菜たっぷりのスープをどんぶり茶碗に入れ、ご飯は山盛りにしてテーブルに並べた。途中暁也からメールが来たので、返事をして残りを食べ進めた。

 雪弥には友だちとして強い好感を抱いていた。時々見せる年上のような物腰の柔らかさも、穏やかでふわふわとした空気も好きだ。サッカー経験がないことには衝撃を受けたが、彼がふとした時に見せる予想外の騒動も楽しかった。

 なんとなく彼と過ごしたことを振り返り、修一は一人でムフフと笑った。

 体育の授業でサッカーの試合を行ったとき、雪弥にボールを奪われた三組の西田が、今までで一番の間抜け面だったことを思い出す。あの日以来、雪弥がボールを受ける度に、西田が「仕返ししてやる」と走ったが、あっさりとフェイントをかわされ撃沈していた。

 雪弥は面白いやつだ。本人が「内気で人見知り」と語った性格なだけに、彼はクラスメイトと溶け込めないといった様子で静かに席についていることが多い。しかし、修一たちの予想を越える行動力を彼は持っていたのだ。
 ふとした拍子に雪弥が発言する言葉は、キレイに的を射ていることもあった。けれど教師と違って後味が良い。そして、騒ぎを遠ざけるタイプかと思えば、自分から突っ込んでいったりする。

 廊下で遊んでいた三組の男子生徒が足を滑らせた際、雪弥は廊下に面した窓からひょいと身を乗り出して彼の転倒を防いだ。方向を誤ったボール先に生徒たちが気付いたとき、いつの間にかいた雪弥がタイミング良くボールをキャッチし、女子生徒は強打を免れた。

 クラスメイトの男子生徒と女子生徒が口喧嘩をしていると、遠巻きに見る生徒たちに構わず、雪弥はあっという間に仲裁に入って場を丸く収めてしまう。

 雪弥は優しくて、とてもいい奴だ。

 修一は、ますます彼が気に入っていた。来週こそはカラオケに誘おうと考えて、バリバリなロックを歌う彼を想像して思わず声を上げて笑った。

 一緒にカラオケに行くところを思い浮かべると、極端に上手か、有り得ないほど音痴のド下手かのどちからしか考えられなかったのだ。雪弥は普段から修一の予想を越えていたので、そんな推測しか立てられなかった。

 育ちが良い「お坊ちゃん」かと思いきや家事上手、頭脳派かと思えば意外にも行動派であったりする。大人しいと思っていたら、修一たちが絡まれた酔っぱらい男を、微塵も躊躇せず一発で組み伏せて助けてくれた。

 思い出すと、過ごした日々は濃厚だった。

 それでも、雪弥が転入してまだ五日しか経っていないのだ。

 修一はなぜか、とても長く一緒にいるような錯覚を受けた。今では暁也と修一、雪弥の三人で一緒に過ごしていることが当たり前になっている。

 一時間目の授業が始まる前から暁也がいて、修一が授業の合間につまむパンやお菓子を三等分する光景も珍しくない。暁也が机に足もおかず修一と雪弥へ向き、言葉を交わす光景もすっかり教室に馴染んでいた。

 修一はサッカーTシャツとスポーツウェアに着替え、何をするわけでもなく食卓の椅子に腰かけた。

 腹はすっかり満たされていたが、ここ一週間を振り返っていると小腹がすくような、しっくりとこない違和感を覚えた。その正体を探ろうと考え込んでみたものの、まるで宿題をやっているような倦怠感に欠伸が込み上げた。

「…………やべ、俺やっぱ頭脳派じゃないわ」

 途中で思考を放り投げると、修一は何気なくベランダに出た。

 白鴎学園の姿は、夜に埋もれて見えなくなっていた。ぽつりぽつりと建物の明かりが見えたが、今日はやけに明かりの数がない。町は、静けさに包まれた闇に沈んでいるようだった。

 温くもなく冷たくもない、湿気が混じった風が漂っていた。先程まで吹いていた心地よい風が、ぴたりと止んでしまっている。町に人の気配だけを残し、世界がひっそりと息を潜めているようだと修一は思った。
 しばらくベランダから茉莉海市の西側方面を眺め、修一はふと違和感の正体に行き当たった。一人で「あれ?」と首を傾げ、再度ここ一週間の記憶を辿って、ますますおかしいぞと呟く。

 修一は雪弥のことをよく分かっているはずなのに「本田雪弥」のことを何も知らないでいる事に気付いた。

「進学校から来て、英語とスポーツが出来て……」

 家族兄弟、食べ物や趣味の好き嫌い、他の誰よりも彼と話していたはずなのにそれが一つも分からなかった。記憶を辿るほど、修一の中にある「本田雪弥」がおぼろげになっていく。

 思い返してみれば雪弥は話を聞くことが多く、自分のことに関してはほとんど話していないような気もする。

「んー……内気で人見知りって、そういうことなのか?」

 自分のことをなかなか話せないタイプということなのだろうか、と彼はよく分からないまま結論を出した。そういうことにしとこう、と思考を続けることを諦める。

 暁也とは、茉莉海市ショッピングセンター前で待ち合わせをしていた。修一は午後七時から始まったお笑い番組を見たが、ちっとも頭に入らなかった。午後九時からは大好きな刑事ドラマが放送されたが、気が乗らずオープニングと同時に電源を切った。勉強や宿題の代わりに触っているゲーム機も、この時ばかりは時間潰しにもならなかった。

 静まり返った部屋で、修一は一人じっと座っていた。自分でも珍しいと思うほど、時計の秒針が打つだけの静けさを聞いていた。

 ここに暁也と雪弥がいたらなぁ、と考えると少し楽になり、メモ用紙にハンバーグの感想と外出の言い訳を書いて食卓に置いた。


 午後九時五十分を回った頃、修一がどこかに置いたはずの家の鍵を探していたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。


 部屋の奥から耳を澄ませた修一は、続いて急かされるように玄関がノックされて顔を顰めた。「もう、せっかちだなぁ」と立ち上がった拍子に、テーブルに置かれた菓子入れの中に放り投げられていた鍵の存在を思い出し、それをポケットに詰めて玄関へと走った。

 修一は無防備に扉を押し開けて「どちら様ですか」と問いかけた矢先、片眉を引き上げた。比嘉家の玄関先には、スーツ姿のいかつい男が二人立っていたのだ。彼らは手慣れたように警察手帳を開き、「茉莉海警察署の者ですが」と告げた。

 え、警察? つか、スーツってことは刑事か?

 なぜうちを尋ねてきたのだろう、と修一は訝しがった。ドラマの刑事に憧れを抱いていたが、口から飛び出たのは露骨に怪訝そうな言葉だった。