雪弥が小首を傾げると、暁也は「そばパンって気分じゃねぇし」とぶっきらぼうに言い放った。修一は八重歯を覗かせて「今日は普通に焼きそば買おうと思ってさ」と愛想良く答える。
そばパンをゲット出来た三組の西田が、食堂の販売窓口で感動の声を上げたのはその頃であった。そこには珍しく常盤の姿もあり、彼は三組の男子生徒たちをやかましそうに横目で見たあと、弁当を一つ買って中庭へと向かった。
そんな常盤が中庭で偶然、大学三年生の里久と居合わせて話しを始めた頃。
雪弥は二人の少年たちに、今持ちあわせている五千円札を渡して「僕の分と併せて、君たちの好きなのを買ってきてもらってもいいかな」とやったあとで、先に屋上入口に立っていた。
ナンバー1と連絡を取るため、修一と暁也をしばらく自分から引き離したのである。屋上扉には鍵が掛かっていたが、修一が来るまで待つ選択肢はなかった。雪弥は一秒ほど扉を眺め、躊躇なくドアノブに右手を振り降ろした。
わずかに金属音が上がったあと、辺りは静けさに包まれた。
ドアノブから壁にかけて何かがめり込んだような亀裂が入り、虫も殺せない顔で強行突破された鍵は、見事に機能を失って右にも左にもくるくると回るようになった。ドアノブごと切り落としたらさすがに不審がられるだろう、と彼なりに考えての結果だった。
雪弥は屋上へ出ると携帯電話を取り出し、後ろ手でそっと扉を閉めた。雲一つない青空を眩しそうに見やり、携帯電話を耳に当てて歩き出す。
しばらくコール音が続き、前触れもなくぷつりと途切れた。
『今夜の作戦事項がすべて決まった。今、時間はあるか』
低い男の声が響いた。ナンバー1である。雪弥は「大丈夫ですよ、どうぞ」と言いながら歩み続けた。
『先日死亡した榎林を含むメンバー、および里久に関してはすでにエージェントが成り変わって現地に入っている。今日取引に関わる組織は、東京の丸咲金融会社第一支店の尾賀、白鴎学園大学部学長富川、藤村組、そして中国からの密輸業者であり、裏で自称科学者を名乗っている李の四者だ。藤村組に関しては、事務所に残ったメンバーを容疑者としてあげる。他の処分リストはすでに作成済みだ』
雪弥が上空を飛ぶ鳥へと目を向けたとき、ナンバー1は一度言葉を区切った。『ちゃんと聞いているだろうな』と声を掛けられ、雪弥は空を仰ぎながら「いい天気ですよねぇ」とそのままの心境で返した。
電話越しに大きな舌打ちが響き、咳払いのあとナンバー1の説明が再開した。
『二十三時に集まるメンバーはリーダー藤村、富川学長、尾賀、李の四人とその部下だろう。何人集まるかは分からんが、一時間前には大学校舎にてブルードリーム使用者の大学生が全員集まる情報は掴んでいる。我々は、取引の材料に使われるのではないかと踏んでいる』
「自称科学者、というのが気になりますね」
『うむ、実はそれだ。李は中国マフィアの間でも有名な狂人でな、人体実験で殺した人間の総数は不明らしい。彼の歳は不明だが、おおよそ七十前後の老人だと噂されている。腕がいいのか知らんが、確実な原料の仕入れ先と、中国に大量の顧客と友人を持っているようだ。現在出回っているブルードリームの提供者で、人体実験用に若い人間が欲しいのではないか、と推測される』
「ずいぶんな変態野郎みたいですね」
雪弥の口汚い言葉を無視し、上司は『実験体を引き渡すことで、ヘロインを安く買えるという手筈なんだろう』と自身の推測をあっさり口にして、話の先を続けた。
『藤村組は暴力団紛いの小さな詐欺集団だ。富川はただの学長にすぎん。尾賀はこの地域の人間とは一つの接点もなかったようだから、恐らく表社会ではも人脈がある榎林側が、今回の話を持ちかけたのだと思う。李から買い取るときは格安で手に入り、売る時は純粋純白の相場にあった高金額。一夜にして、藤村組と富川は大金を得るわけだ』
ナンバー1が、皮肉気に笑った気配がした。雪弥は屋上の塀に身体を預け、「じゃあ」と疑問を投げかける。
「こっちで新しいタイプのブルードリームを配られていた学生たちは、みんな取引で差し出される用だったんですね。そうとは知らずに、全員が『パーティー』に集まるわけですか」
『作戦が実行されれば、里久に成り変わっているエージェントはそこから退出するがな』
同じ特殊機関の人間であろうと、作戦が始動されたら学園敷地内からの撤退が決められていた。事が終わるまで、彼らは学園敷地外で待機していなければならない。
『今回お前の任務は、学園内に集まったすべての容疑者、共犯者、関係者の抹殺一掃だ。お前の仕事領域は、いつも通り潜入エージェントによって完全封鎖される。開始の合図と共に学園内の標的を抹殺。――その直前には、県警メンバーを連れた金島が茉莉海署を率いて、藤村組事務所を制圧する手筈になっている。ほぼ同時刻に、我々が東京の丸咲金融会社を中心に根付いている組織を潰す』
今夜二十三時、茉莉海市では事件に関わるすべての人間が学園に集結する。雪弥は思い返すように考えた。エージェントによって封鎖された敷地内にいる標的は、すべて処分対象である。
つまり敷地内に集い閉じ込められた者たちは、殺しても構わない人間なのだ。
知らず雪弥の唇がゆっくりと引き上がった。小さな弧を描いた唇が、今にもクスリ、と笑みをこぼしそうなほど上品にほころんで、冷え切った声色が楽しげに囁かれた。
「大人も子供も関係なく、僕が皆殺しにしていいんですよね」
青く澄んだ空が眩しくて、雪弥は柔らかく吹き抜ける風にすら殺意を覚えた。まるで五感が異常なほど研ぎ澄まされたかのように辺りの音や色を拾い、身体の内側が、ざわざわとしてひどく落ち着かない。
目が眩むような光りなんてなければいいのに、と自分のような、そうでないドス黒い怨念のような何者かの声が聞こえる気がした。こんなものがなければ絶望する事もなかった、生きている全てが憎くて恨めしい、この憎しみを決して忘れるものか……ぐるぐると、自分の知らない何かが身体を巡っている。
眼下に広がる運動場や高等部校舎の窓から、子供たちの楽しげな声が溢れていた。晴れ空に包まれた少年少女は、光の世界に満ちる一つ一つの日だまりのようだ。
「修一、この俺がそばパンを分けてやろうかと言ったのだぞ!」
「だから、俺は普通の焼きそば買ったんだってば」
「お前なんでついてきてんの?」
聴覚を研ぎ澄まされば、数キロ内で会話する聞き慣れた声も耳に入ってくる。西田と修一と暁也、今日は珍しく三人で移動しているらしい。
眩しくて、煩わしい。
この怨み忘れるものかと、遠い記憶や血が囁くように雪弥を無意識に引きずり込む。彼は知らず殺気立ったその瞳孔を碧く光らせて、まるで別人のような落ち着いた雰囲気を漂わせて、美麗に笑んで口の中で呟いた。
皆、この『私』が殺してしまえれば良かったのに――……
『何か言ったか?』
しばらく沈黙していたナンバー一が、喉の奥から絞り出すように低く尋ねてきた。その声は、知っていながら正気に戻したいと言わんばかりに苦悩が滲んでいた。
その声を聞いて、雪弥は我に返った。少し前の自分が、一体何を考えていたのか覚えていなかった。彼からの問い掛けが分からなくて「いいえ?」といつもの声の調子に戻って答えたものの、ぼんやりとした名残で目の前に広がる景色を眺める。
ナンバー1は『作戦実行の件だが』と言葉を強くした。
『尾崎からは許可をもらっている。派手にやってくれて構わない。二十三時の作戦開始後、お前は封鎖された学園敷地内にてリストアップされた標的をすべて始末しろ。尾賀、富川、藤村、李の四者と、やつらが連れている部下一向、実験体として取引に使われる学生すべての抹殺だ』
躊躇なくナンバー1は言い切った。
雪弥はそこでようやく、いつの間にか空にいた鳥を見失っていることに気付いた。少し記憶が曖昧だなと首を捻り、「了解」と言葉を返して屋上扉へと目を向けた。
二人の少年組がまだ来ないことを確認し、体勢を戻して塀にもたれた。清々しいほど青い晴れ空と、撫でるような風がそこにはあった。子供たちの賑やかな雰囲気が、声と共に屋上へと上がってくる。
暖かい日差しは少し暑さを増していたが、澄んだ生温い空気はそれを冷ますように吹いていた。一番に昼食を終えた男子生徒たちが運動場へ飛び出したのが見え、雪弥は「元気なのはいいけど、怪我をしないようにね」と思わず小さく呟いてしまった。
その時、電話の向こうからこう声を掛けられた。
『ところで雪弥』
「はい?」
冷静に返したが、雪弥は少し驚いていた。ナンバー1が任務の重要な段取りを告げた後に、真面目な空気を変えるように別の話題を振ることは滅多になかったからだ。
塀から身を起こしてそこに背をもたれ、雪弥は「なんですか」とぶっきらぼうに尋ね返した。その問いには「突然何なんですか」という素っ気なさが含まれていたが、電話越しにいる上司がそれを注意もせず、まるで今任務以上に大真面目な話を切り出すように沈黙を置くのも、かなり珍しいことである。
もしやそれほど真剣な話なのだろうか。
自然とそう身構えた雪弥に、彼は唐突にこう述べた。
『女子高生とは恋愛してみたか? 青春という味わいだ』
「は……? って、こんなときに何言ってんですかあんたは!」
雪弥は一呼吸に言い切った。なんて上司だよ! と思わず振り返った際、勢いで掴んだ塀にひびか入った。
ナンバー1は『よし、いつもの感じに戻ったな』とこちらが理解し難い独り言をすると、まるで、これでイケるとばかりに自信が戻った声色で悠々と続けた。
『とくにお勧めはピュアな一年せ――』
「んな事するわけないでしょうが!」
雪弥は上司の言葉を遮った。言わせてなるものか、と反射的に思ったのだ。
彼の手元から始まった塀のひび割れは、広がるようにその線を伸ばしていた。亀裂が入ったそこからコンクリートが欠け、ぱらりと落ちていく。ナンバー1は途中で火でもついたのか、電話越しに呼吸を荒くし興奮ままならい様子でまくしたててくる。
『こんなときだからこそ出来ることなのだぞ! しかも、お前にしか出来んことなのだ! 私には絶対潜入出来ない場所にいながら、お前という奴は……ッ』
悔しそうに言葉を並べるナンバー1に、雪弥は怒りが込み上げた。
口の端がぴくぴくと痙攣するのを感じ、とりつくろう間もなく表情が強張る。塀を掴んだ手に怒りが伝わり、ばきっと音をたててそこが砕け落ちた。
『まだ間に合うぞ、雪弥!』
「あんた最低だな!」
雪弥が叫んだとき、ナンバー1の声を水音が遮った。コップ一杯分の水が打つような音だった。その現場の様子が目に浮かんだ雪弥は、思わず呆れ返って言葉も探せない。
しばらく、双方が静まり返った。雪弥もナンバー1も発言がないまま、ただお互いの沈黙を聞きあう。ようやく静寂に響いたのは、『失礼致しました、ナンバー1』という冷ややかな女性秘書の声だった。
そこでようやく、上司からわざとらしい咳払いが一つ上がり、雪弥は額を押さえて長い吐息と共に肩を落とした。
『現場指揮はお前に任せる。我々はお前からの作戦開始合図を待つが、合図を忘れてはいないな?』
ナンバー1は上司振る口調だった。
つい今しがたの失態をなかった事にするつもりらしい。恐らくは、先程までリザが席を外していたのだろう。電話を終えたあとの言い訳でも考えているらしいナンバー1の語尾は、胡散臭いほど明らかに上から目線である。
「……はいはい、忘れていませんよ」
夜が降りる、という合図を雪弥は心の中で呟いた。
とはいえ、秘書に水を掛けられて冷静さを取り戻した上司に、それ以上の言葉が出ず黙りこむ。塀からちぎってしまった瓦礫を眺め、指先で遊ばせながらナンバー1からの最後の言葉を待った。
『話は以上だ』
早々に通話が切れた。疲れた溜息をもらし、雪弥は携帯電話をブレザーの胸ポケットにしまった。
持っていた瓦礫を握り潰し、意味もなく指で粉々に砕いて足元へと落とす。乾いた音が平らの灰色かかったコンクリートの地面から上がり、細かい粒子は囁くように吹いた風に流れていった。
「ったく、あの人は……」
愚痴りそうになった矢先、屋上の扉から人の気配がもれた。雪弥は口を閉じると、手から瓦礫の屑を払い落して何事もなかったかのように振り返る。
「なんか怒鳴り声がしたけど、大丈夫か?」
まず屋上に姿を現せたのは、修一だった。両手いっぱいに食料を抱えた彼はそう言って、ふと顔を顰めた。
「そういえばドアが可哀そうなことになってんだけど、お前か?」
雪弥はぎこちなく笑って「まさか」と答えながら歩み寄った。修一の後ろから、「ドアノブがくるくる回るようになってるな」と言って、大量の食糧を抱えて暁也もやって来た。
一同はいつもの場所に円を描くように腰を降ろし、中央に食糧と紙パック飲料を置き広げた。パンやおにぎり、お菓子や総菜類が三人の中央で山を作っている。
「いつもより量が多いような気がするんだけど……」
「ああ、五千円分って結構難しいよな」
修一が悪戯っ子の笑みを覗かせた。
雪弥は、先程手渡した五千円札を思い返し、「なるほどなぁ」と呟いて紙パックのお茶を手に取った。それを見た修一が、途端に慌てたようにポケットを探って数枚の千円札と小銭を取り出した。
「じょ、冗談だって雪弥! ちょっとからかっただけだって気付けよ」
「え? 別にいいよ、駄賃だと思ってもらっておいて構わないから」
雪弥は当然のように述べた。修一は「え、どうしよう」と真剣に困惑した顔を暁也に向ける。
今日でこの食事ともお別れだなと思いながら、雪弥は山になった食糧を眺めていた。暁也が怪訝そうな顔を持ち上げ、修一から雪弥へと視線を移し「お前なぁ」と吐息混じりにこう言った。
「お金は大事にしろよ」
暁也は、まるで良い子の見本のような正論をあっさり言ってのけると、オニギリの袋を開けた。
それを聞いた雪弥は、複雑な心境であった。働いていない子供に駄賃をあげて何がいけないんだろう、と困惑しつつ紙パックにストロートを刺した。やはり、世代が違うと会話は難しいと思いながら、彼は「お金なんてもらえないよ」「これで結構なお菓子が買えるんだぞ」と説得して来る修一から残金を受け取った。
少年たちは、今日も食欲旺盛だった。暁也はパンよりも米が多く、修一はもっぱらパンが主食となっていた。今日は金曜日なので、唐揚げや焼きそばといった総菜を豪勢に購入したのだと修一は胸を張った。
土曜日、日曜日の二日間は食べられないので、普段から金曜日だけはこのような食事メニューを取るのだという。修一は総菜のフタを開けて行きながら、「ここの鳥唐揚げメッチャ美味いんだぜ」と雪弥にすすめた。
唐揚げは雪弥が知っている塩辛さがなく、油分たっぷりで甘かった。暁也はオニギリと一緒に鳥唐揚げをつまみ、修一は菓子パンにそれを挟んで食べる。菓子パンに合うのか、と顔を引き攣らせた雪弥に気付いた暁也が「俺なら食べれねぇな」と素っ気なく言った。
普段と変わらぬ少年組の食事風景を見て、雪弥は「もう顔を合わせることもないだろう」と静かに思った。一番質素な味と触感のバターパンは、相変わらず食べ進める間にもひどく喉の渇きを誘う。
飲み慣れた苺牛乳で喉を潤したあと、けれど雪弥は自然と割り箸を伸ばして、少年たちを見ることもなく「一個もらうね」と学生みたいな事を告げて、鳥唐揚げを口に放り込んだ。それは噛みしめれば噛みしめるほど、甘くて濃厚に思えた。
今日は珍しく、パンとオニギリだけでなくおかずも食べる雪弥を見て、まだ腹をすかせていると思った少年たちが「この苺ジャムパン美味しいぜ?」「これ、初めて買ったシソ昆布オニギリ、結構美味い」と言って食べ物を差し出す。
雪弥は、どんなに食べても満腹しない胃の持ち主だったが、ぎこちなく笑って「ありがとう」と返した。なぜか物寂しくなり、すすめられた食べ物を一つも断わりもせず口に運びながら、今一度、修一と暁也を見つめた。
今日の夜から、自分は二十四歳のエージェントに戻る。それを想い、雪弥は修一からもらった焼きそばへと目を落とした。
僕がここに高校生として戻ることは、もうないだろう。
※※※
学校が終わった午後四時十分、修一と暁也は早い時間だというのに珍しく町中を歩いていた。気晴らしにカラオケへ行くためである。
いつもより人が少ない歩道を鼻歌交じりに進む修一が「そういえばさ」と暁也を振り返ったのは、大通りで一軒しかない大型ショッピングセンターの大看板が見えてきた頃であった。
「雪弥って、結構食うんだなぁ」
その光景を思い出した暁也が、気まずそうに視線をそらせた。
大量に買い込んだ食糧は、「三倍胃袋」と呼ばれている修一の胃にも収まらず、何気ない会話をしている間に雪弥がどんどん口に入れていったのだ。
「……マイペースにがんがん食ってたな。手も口も止まらずって具合に」
思い出すだけで吐きそうである。暁也は、乾いた笑みを浮かべた。
修一は「手も口も止まらずって何?」と疑問の声を上げたが、暁也が答えないと分かると、すぐに別の話題を振った。
「でも、本当、今日はすんなり抜け出せてよかったよなぁ」
二人がこうして、明る過ぎる町中を悠々と歩けたのは、実に一週間ぶりであった。今日は矢部からの呼び出しもなく、逃げ出そうと身構えていた二人は、矢部本人かから「今日は帰っていいぞ」と告げられたのである。
「雪弥も誘えば良かったなぁ」
「気付いたらいなくなってたからな」
答えた暁也は、少し不満そうだった。修一は「来週誘えばいっか」と話を締めくくる。
そのとき、暁也が遠くを見やって目を細めた。
「どうした?」
「……なんか、見慣れたおっさんが通っていったような」
「知り合い?」
「親父関係の」
暁也の父は、高知県警察本部長だった。暁也の転校と共に茉莉海市に引っ越してからは、頻繁に集まっていたメンバーも数えるほどしか金島家を訪れていない。
場所が遠いことも原因の一つではあったが、もっぱら全員ベテランなので仕事が忙しいようだ。中には昇進した者もいるらしい。集まれるときに、県警本部の近くにある居酒屋で飲んでいることを、暁也は母伝えで聞いたことがあった。
それでも暁也の父は、外でほとんど食事を取らず、必ず家に帰って来てから母の手料理を食べている。それは、昔からずっと変わらない習慣だった。
「まぁ似たようなおっさんって結構多いだろ」
俺、先生だと思ってよく別の人に声掛けることあるし、と修一は鞄を持ったまま後頭部に手を回した。歩き出した彼に暁也は続いたが、次に足を止めたのは修一だった。
修一は、こちらから人混みの奥を見つめていた。そこに見知った顔がいたように目を細め、「う~ん」と呻る。暁也は先程の修一と同様「知り合いか?」と、足を止めて声を掛けた。
「うちの校長先生って、どんな顔だっけ?」
修一は思い出そうと頭を抱えた。その様子を横目に見る暁也の目は、冷ややかである。
「お前な、顔も忘れた癖に見掛けたとかいうんじゃないだろうな?」
「なんか、それっぽい人がいたんだよ」
修一は頬を膨らませた。「確かに顔は覚えてないけどさ」と三年間週一に行われている全校集会で必ず舞台に立つ、校長であり学園理事長である尾崎を、自ら見ていないことを宣言して続ける。
「あの人、季節関係なく黒いロングコート着てんだよ。んで、いつでも高価そうな黒い杖持ってるじゃん? 生徒の顔と名前全部覚えてるみたいで、一年の頃『修一君こんばんは』って声掛けられてびっくりした」
「へぇ、そのとき見たわけだ」
尋ねた暁也に、修一は「そう」と肯いた。
「服装か全く変わらないからさ。去年も今年の始めも見たけど、もうあのまんま」
「お金持ってるらしいからな。杖ついてロングコートって、イメージ通りだろ」
「あ~確かに、イギリス映画に出てきそうだもんなぁ。でもさ、久しぶりに早く帰れると、結構知り合いに会うもんだなぁ」
修一は、見掛けた人物が校長であることを前提に言った。暁也は指摘する気にもなれず「そうだな」と返して歩き出す。しかし、また修一が「あ」と声を上げて立ち止まった。
看板が見えているというのにカラオケ店との距離が縮まらない事に、暁也は小さな苛立ちを覚えて「今度はなんだ」と振り返った。次は教師か、保護者か、同級生か、と修一の横顔を怪訝そうに探る。
修一はぽかんと口を開けて、馬鹿に見える間抜け面を晒していた。これまでの反応と大きく違っていることに気付き、暁也は自然と彼の視線の先を辿った。
そこは、ショッピングセンターの大きな交差点だった。見慣れたブルーのブレザーが二つ、行き交う人の波から垣間見えている。
「暁也、あれ、雪弥じゃね?」
暁也が気付くと同時に修一が言った。交差点を横断しているのは雪弥だったのだ。その前を歩く男子生徒に「誰だろ」と修一が首を傾げる隣で、暁也が瞬時に嫌悪感を露わにした。
ブレザー越しにも分かる、貧弱な身体と癖のない長めの髪。目元を隠すように伸びた髪の間からは、日に当たっていない白い肌と濁った瞳が覗いている。
「常盤だ」
暁也は、雪弥を先導している男子生徒の名を口にするなり、足早に歩き出した。修一が「待てよ」と慌ててあとを追う。
「なんで常盤と雪弥が一緒にいんの」
修一が疑問をもらし、暁也は「さぁな」とぶっきらぼうに答えた。
暁也は人の間を少々乱暴に通り抜けながら、「やばい事してそうだから近づくなって言ったのに」と愚痴る。六分後にさしかかった交差点で、しばらく歩道の赤信号が続き、いつも以上に長く感じる信号待ちに、二人の少年はそれぞれ「のんき」と「仏頂面」を構えて立ち尽くした。
道路で普通乗用車や会社のネームを入れた車、農業のバンなどが通ったが、港からやってくる大型トラックは一台も通らなかった。
午後四時八分、常盤は期待と急く想いに落ちつかなかった。
高揚した気分を抑えきれないまま、ショッピングセンター前の大きな交差点にある広場で、何度も視線を動かせて待ち人の姿を探した。一番人の行き交いが多い交差点前に、ブルーのブレザーがないかと目を配る。
ショッピングセンターは相変わらず人の出入りが多く、常盤と同じように建物前で人待ちをする者や、立ち話をする者がちらほらと見られた。金曜日ということもあり、外食をする社会人や家族連れの姿も目立つ。
一際大きな声が聞こえて、常盤は煩わしそうにそちらへと顔を向けた。
寝癖がついた男の後頭部が、人の間から覗いていた。ポロシャツといったラフな格好をしたその男は、「働きもせず家でごろごろしてるおっさんみてぇ」と常盤に思わせた。
男は不健康そうな肌と、顎先にまばらに髭を生やしていた。だらしなく下がった肩から伸びる手は、けだるそうに頭をかいており、覗いた横顔からは気力もない垂れ目が覗いている。
そのとき、群衆から一際飛び出た強い声が上がった。常盤はその声が、男の奥に隠れている人間から発せられている事に気付いた。
「内田ぁ!」
それは煙草を口にくわえた四十代頃の男で、シニア世代の服を着ていた。グレーや肌色といった冴えない色は、男をさらに老けて見せている。
これから飲みにでも行きそうな男たちであると見て取り、常盤は「とっとと行けよな」と顎を引き上げた。ショッピングセンターから出た矢先で立ち止まった二人を、店内に出入りする他の客たちが迷惑そうな顔をして避けて進んでいる。
常盤は、男の強い声色が耳障で苛立った。まるで説教が身に染みてるみたいだ、と横目に睨みつける。しかし、彼はふと歪んだ笑みを浮かべた。
あいつなら、すぐに殺しちゃいそうだな。
残酷な殺害場面を思い出し、常盤の興味は、再び白鴎学園の男子生徒へと戻った。
常盤が少しだけ目に留めていた二人の男たちは、潜入している高知県警刑事部捜査一課の内田と澤部であった。張りこみ待機となっている現場に、購入した食糧を持って行くところだったのだ。ヘビースモーカーの澤部は、ショッピングセンターを出てすぐ煙草を吹かして内田を待っていたのである。
常盤が携帯電話で時刻を確認する横で、内田の個人的な呟きに切れた澤部が「内田ぁ!」と吠えて見事なドロップキックを放った。
かなり目立つうえ、やはり大声が特徴的で煩い。
再び目立つ二人の「おっさん」に再び目を向けた常盤は、「元気良すぎるだろ」と呆れた。交差点前で騒ぎだす男たちに馬鹿らしくなり、携帯電話をしまって辺りを見回す。