「残りは明日のパーティーで配りますから」
「うん、分かった。ありがとう」
お互い声を潜めて会話し、常盤はそのまま里久と別れた。
そういえば、今朝はメールの返事があったとはいえ、火曜日の夜からずっと連絡がなかったのだ。歩き出したところでそう思い出した常盤は、「分からないことがあったら、いつでもすぐメールして――」と言い掛けたところで顔を顰めた。
振り返った先に、里久の姿はなかった。まるで忽然と消えてしまっていた。
常盤は一人小首を傾げたが、ふと、明美に頼まれていたことが脳裏を横切った。彼女の希望通り、彼は暇潰しがてらに町を見て回ろうと考えていたのだ。尾崎には大学校舎へ行かず、藤村組事務所で明日の段取りを組むと連絡も入れてあった。
「そうだな、町の方をちょっとぷらぷらしてくるか」
待ちに待ったはずの取引が明日に迫っていたが、常盤の表情は冴えない。彼は自分でもらしくないほどの大人しさを思いながら、ゆっくりとした歩調で足を進める。
※※※
午後四時半を過ぎた頃。
常盤は都心街ではなく、南方にある旧市街地にいた。
明美の願いをかなえてやろうかと思っていたのに、大通りを見ないままぼんやりと歩き進んでいて、気付いたら藤村組事務所が建つさびれた土地まで来てしまっていたのだ。
もし都合があえば夜にでも町を歩こうと考え直して、通い慣れた三階建ての事務所へと向かう事した。しかし、人の気配もない静まり返った路地をしばらく歩いた頃、藤村事務所まで百メートルの距離で、くぐもった鋭い発砲音に気付いた。
日常ではまず聞こえるはずのないその音を、常盤は聞き逃さなかった。
音沙汰もなかった心が久しぶりに高揚し騒ぎだすのを覚え、発砲音を探してすぐさま駆け出した。
その発砲音は、すぐ近くの旧帆堀町会所方面から聞こえていた。
※※※
――常盤少年が、一発目の発砲音を聞く少し前の事。
榎林は、旧帆堀町会所の開けた一階部分に設置したビデオカメラの横で、短い足を開くようにして立っていた。荒れ果てて古びた廃墟内は、窓ガラスも扉も外されて外の光が差している。
廃墟の中央には直射日光が届かないため、薄暗さと黴(カビ)臭さが健在していた。足で簡単にこの葉やゴミが退かされただけの片隅には、電化製品の紙箱が投げ捨てられ、組み立て式の細い鉄筋台下の冷たさを帯びるコンクリートに、茉莉海市に来る途中購入した黒いスピーカーが置かれている。
「夜蜘羅さん、聞こえますか?」
配線がセットされてすぐ、榎林はふてぶてしい面持ちを階段に向け、スピーカーへと耳を澄ませた。足元にスーツケースを置いた佐々木原は入口に立ち塞り、小さな赤い錠剤の入った小袋を大きな指先で触れている。
室内には、他に六人の男たちがいた。殺風景としたその場で金や赤、黄色や紫といったシャツが目立つ。
だらしなく着こなしたその男たちは、佐々木原の部下である。三十代後半のその面々は、彼が組頭となった頃からのメンバーであり、佐々木原にとって信頼のおける仲間だ。今回は秘密裏に動くこともあり、特に口が硬い人員を選んでいた。
『聞こえているよ。ああ、でもこちらの方で少し調整が必要みたいだ』
スピーカーから野太い声が上がり、ぷつりと途切れた。
上の階からようやく物音が聞こえてくると、そちらを見つめながら榎林が囁いた。
「佐々木原、明美の口止めは出来たんだろうな?」
「明日の取引まで、他言しないようにと伝えましたよ」
社内の様子とは違い、答える佐々木原の顔には殺気を張りつかせた笑みが浮かんでいた。長い鼻筋の下で大きな唇が引き伸び、悪意に歪んだ目を隠すように、黒いサングラスがかけられている。
榎林は夜蜘羅から、李にはすでにこの件を伝えてあると聞かされていた。取引に使う大学生を富川たちは把握していたので、後でこの件は自身の口から尾賀にも伝えておくと夜蜘羅は語った。
富川たちは、ブロッドクロスで進む「強化兵」の計画を知らない。尾賀がそれらしい言い訳を伝えるだろう、と榎林は彼任せにする事に決めた。何せ闇取引こそが、尾賀の本来の領分だからである。
尾賀はもともと、榎林がブロッドクロスに迎え入れられた際に紹介された人物だった。東京に根を降ろす大手闇グループの一つであり、その正体を巧妙に隠すほどの力を持っている。資金調達の目的もあってついでとばかりに闇金業者もやっていたが、会社経営に関しては弱い部分があった。
そこで、経営に関してはずる賢く一流である榎林が、尾賀の表上の立場と資金繰りを引っ張る形で「丸咲金融第一支店」という名ばかりの子会社が誕生したのである。
それはブロッドクロス側が推薦し組ませたものだったが、尾賀は闇活動を、表にもパイプを沢山持った榎林がそれを補いつつ経営をみるという、互いの利害が一致した結果でもあった。
『李が作り直した薬は、私たちが持っている物より質が良さそうだろう? レッドドリームによる『進化』にも耐えられるんじゃないかな、と思ってね』
今回の急な『お願い』は、新しいタイプのブルードリームを摂取した人間にレッドドリームを試したことがないから見てみたい、というものだった。夜蜘羅が成果を見る前に、期待できるんじゃないかな、と褒めることも珍しい。
しかし、榎林はその疑問を認識する前に、『そのまま実験の二段階目に突入出来そうだね』といった言葉を聞いて目が眩んだ。ここで成果を見せることが出来れば、ブロッドクロスで進む「強化兵」計画の第一人者の一人になれるのではないかと欲深く考えた。
ブロッドクロスの特殊筋が欲しているのは、殺意を持った新しい駒である。彼らが抱える、人智を越えた能力と素質を持った人材は稀だ。人間を理想の殺人兵器に改造し、少しでも特殊筋が抱える人間と近い戦士を、意図的に量産出来るようになるのが「強化兵」の目指す理想の形だった。
榎林の指示を受けた佐々木原は、茉莉海市に入る前明美に連絡を取った。はじめに彼は、「そちらは順調に進んでいるか」とさりげなく話題を切り出した。
李に引き渡す学生が服用している薬を覚せい剤だと疑わない明美は、「取引きに支障をきたすような中毒者がいるのなら一人引き取りたいが」と尋ねた佐々木原に、ならばと一人の生徒を提案した。
明美は覚せい剤を使用している中でも、使用日数が長い「鴨津原健」を佐々木原に語った。鴨津原は、火曜日辺りからどうも調子が悪く、友人に会いたいという気持ちすらないのだと、自身が精神不安定であることを明美に相談していた。
話を聞くと、どうやらその大学生は、水曜日にはじっと授業を聞くことも出来ず、今朝には喧嘩を起こして学校を飛び出したのだという。
そしてその直後、彼が騒ぎを起こしたという通報があったのだ。
榎林たちにとっては、なんとも良いタイミングであった。ついでにこちらで引き取ると明美には都合良く伝えて、けれどその件に関しては、尾賀の方から話が出るまで黙っているようにとも指示した。
一般人と警察に暴力をふるって逃走していた鴨津原を、佐々木原の部下が乗った二台の車で追わせた。町外れで見つけたものの、身体能力がある程度向上しているのか、距離はなかなか縮まらなかった。
二台のバンで取引の近くまで追いかけてようやく、そのうちの一台が走る彼に追いついた。車で道を塞ぎ、確保するため佐々木原の部下が車から飛び出したが、冷静を失った鴨津原に投げ飛ばされたのだ。
それは、車体に損傷を与えるほどの威力だった。両サイドを刈り上げた金髪の柿下(かきした)は、同じような過ちを繰り返すものかと、先程の失態を振り返って銃を片手に階段を睨みつける。
「鴨津腹健、そこにいるんだろう? 素直に降りてくれば手荒なことはしない、降りて来い!」
そう早口に告げる柿下の額には、ピクピクと青筋が立っていた。骨ばった細い身体にフィットする彼の黄色いシャツの背中には、数か所に傷が入り血が滲んでいる。
しばらくすると、一組の足音が階段から響いた。
薬で精神状態が不安定とはいえ、相手はたかが大学生である。「ようやく来たか」と顔を上げた榎林は、その矢先、他の面々と同じように顔を顰めた。
「誰だお前は!」
瞬間、柿下が苛立ったように銃を構え、忌々しい鴨津原健とは違うその顔を睨みつけた。
それは、白鴎学園高等部の真新しい制服を着た十七歳前後に見える少年で、佐々木原がサングラスを押し上げながら「可哀そうだが、見られちまったからには処分しなくちゃね」と呟いたのを、榎林だけが聞いていた。
※※※
二階に鴨津原に待っているよう告げた雪弥は、階段の中腹で足を止め、敵の数を改めて視認でも把握しながら「榎林さんはどなたですか?」と一同を眺めた。
すると、スーツの男たちの中で背丈が低い、薄くなった頭部をした年配の男が、驚いたように顔を強張らせて「どこで私の名を聞いた」とうろたえたようにまくしたててきた。
「……なるほど、あなたが榎林さんですか」
雪弥は、一番小さな中肉中背の男を一瞥した。
首の後ろに痺れるような違和感を覚えたかのように、榎林は警戒の表情を浮かべて、階段中腹で足を止める少年を凝視した。太陽の光が反射するだけの室内で、少年の柔らかい髪は、青と灰色が溶け込むような色合いにも見える。
榎林は、ブラッドクロスで聞いていた「蒼緋蔵家の番犬」を、なんとなく思い出してしまった。
似たような特徴を思いながら、まさかとかぶりを振る。当主、副当主、秘書から始まる役席に未青年はつけないのだ。次期当主である本家の長男を除いて、すべての家系でそう定められていた。
「おい、クソガキ。痛い目に遭いたくなかったら、そっちにいる男を呼びな」
柿下は独特の早口でそう言いながら、銃を上下に揺らしてそう言った。榎林を除く男たちが下品な笑みを浮かべる中、サングラスをした佐々木原が、いびつな愛想笑いで「鴨津原健は、君の先輩にあたるのかな」と茶化す。
痛い目に遭わす気満々のくせに、そう心の中で呟きながら雪弥は階段を降り始めた。柿下が「お前じゃねぇんだよ! 上にいる野郎を呼べ!」と、耳障りな早口で喚いたので足を止める。
嫌悪感を冷静に抑え込んだ雪弥の瞳は、そんな柿下にちらりと向いただけで、すぐ榎林に戻った。
「いったい何が目的ですか?」
「具合が悪い彼を助けてあげようと思ってね」
雪弥は腕を組むと蔑むように目を細め、額の汗をぬぐう榎林を見下ろした。ほんの僅かな眼差しの変化で、まとっていた空気が威圧感を帯びたような錯覚を受けて、一同が緊張を覚えたように身体を強張らせる。
榎林は風がぴたりと止んだその一瞬、少年の瞳が碧眼である、という錯覚を覚えた。「落ちつけ、あれは黒い目じゃないか」と自身に言い聞かせるように呟いたが、どうしても「蒼緋蔵家の番犬」の特徴が拭い切れなかった。
少年の目が、まるで夜蜘羅やブロッドクロスの幹部たちに見据えられた瞳と重な。榎林は十代の少年に恐怖を感じて委縮したのを隠すように、表情を引き締めた。
しかし、鋭い眼差しをした雪弥の口から、次の尋問のような言葉が出してそれはあっさりと崩された。
「こちらへ来た目的はなんですか? 持ち込んだレッドドリームと、鴨津原健が無関係ではないような用件なのでしょうか?」
「お前ッ、それをどこで聞いた!?」
榎林は冷静でいられなくなって、弾くように反応した。その怯えの理由を、秘密事項が知られているとあっては自分たちの立場が悪くなる、と受け取った佐々木原が、二人の部下に顎で合図した。
体格の太い二人の男が「了解、ボス」と言って歩き出す。佐々木原の大きく薄い唇が歪み、「いろいろと話を聞きたいねぇ」とその頬を殺気で引き攣らせた。
二人の男が脇を通り過ぎるのを横目に、柿下も慎重に動き出した。しかし、彼は雪弥よりも、未だ姿を見せない大学生の方への怒りが収まらず、階段の上へと銃を構えて「出て来い大学生!」と怒鳴った。
柿下の銃が危なっかしく揺れ動いても、屈強な二人の男が歩み始めていても、それを冷静に見据えている雪弥に気付いて、榎林の顔に緊張が走った。
「……お前、何者だ?」
榎林が低く呟いたとき、全員に少年だと思われている雪弥の口元に笑みが浮かんだ。「ただの高校生ですよ」と述べた彼は、手の届く範囲まで近づいた二人組のうちの一人の男の腕を素早く掴むと、間髪入れず振り降ろしていた。
一秒足らずでコンクリートに叩きつけられた男が、苦痛の声を上げて喚いた。うつ伏せになった彼の右腕は折れ、曲がるはずのない方向へ捻じれている。それを見たもう一人の男が「この野郎!」と拳を突き出したが、威勢ある声が途中で細くなった。
殴りかかってきた拳を、雪弥は右手の指一本で止めた。男が目を見開いて動きを止めた刹那、おもむろに左腕を持ち上げて何気ない仕草で男の腕を払う。
瞬間、バットで打ち払われたように男の腕が弾かれて、鈍い音を立てて折れクの字を作った。彼が痛みを訴える声も許さず、雪弥はその脇腹へと狙いを定め――
そのとき、一発の銃声音がけたたましく鼓膜を打ち、雪弥は右足を地面から浮かせた状態でぴたりと動きを止めた。
放たれた銃弾は、壁に小さな溝を開けてめり込んでいた。発砲先にいたのは怒りに顔を赤らめた柿下で、構えた銃口からは硝煙が上がっている。腕を折られた男は、呼吸にすら痛みを覚えるよう様子で崩れ落ちて身を丸めた。
「動くなよ、動くと上の奴を撃つぜ!」
まさか出てくるとは思っていなかった。
雪弥は小さく吐息をこぼすと、呻き転がる二人の男の前で後ろを振り返った。そこには階段上部から姿を見せていた鴨津原がいた。
怖いもの見たさでもあったのか、鴨津原が階段の上で向けられた銃に身体を強張らせていた。
どうしてじっと待っていられなかったのかと、雪弥は再び浅く溜息をこぼしてしまう。自分がなんとかするから、下が静かになるまで出てきてはいけないと告げたのは先程のことである。
「…………とんでもねぇガキだな」
そんな雪弥の様子を警戒したように見つめていた佐々木原が、ゆっくりとそう口にしながら、下がったサングラスを押し上げて銃を手に持った。その隣では、榎林がみっともないほど震え、蒼白した顔で小さな目を見開いている。
一人口ごもって思案を続ける榎林を無視し、佐々木原が二秒半後に指示を出した。
「あいつらは後で病院だ。谷、那口、お前らは上のガキ連れて来い」
茫然と立ち尽くしていた二人の男が、名を呼ばれて数秒遅れで動き出した。懐から銃を取り出したその二人が階段を登り始め、鴨津原が膝を震わせながら足元おぼつかず奥へと引っ込む。
柿下はすぐ雪弥へと銃口を向け、緊張に表情を歪めてもう一度「動くなよ」と告げた。
「お前、本当に何者だ? 倉市さんたちを一瞬で――」
「薬と俺たちのことを知っていた口ぶりだな、理由を聞かせてもらおうか」
冷静を装った佐々木原が、柿下の言葉を遮るように発言した。
鴨津原が自身で銃弾を避けることが難しいことを考えていた雪弥は、「先輩想いの、ただの高校生ですよ」と返しながら、残った人間に目を走らせた。サングラスの男、銃を向ける男……そして榎林に改めて目を向けたようやく、彼が異様に怯えている様子に気付いた。
榎林が黄色い歯を覗かせて、わなわなと口を開いた。
「……秀でた身体能力、天性の戦闘本能…………お前、特殊筋の者か!」
聞き慣れない言葉を浴びせられ、雪弥は眉を潜めた。
「僕が聞きたいのは、レッドドリームとあなたたちの目的であって」
思わず本音でそう続ける雪弥の言葉も聞かず、榎林が「名字は何だ」と鋭く尋ねてきた。
榎林の意図が分からず、雪弥は探るように彼を見つめ返して「本田ですよ」とぶっきらぼうに思い付くま答えた。すると榎林は「嘘だ!」と過剰に憤り、「特殊筋に本田という名字はない!」と雪弥が知らないことを叫んだ。
「表の奴らがもう嗅ぎ付けたのかッ? 世界対戦が終わってからはろくに機能していなかったはずだろう!」
『落ちつきたまえ、榎林君。一概に決めつけるのは良くない』
機械音を耳にしたところで、雪弥は初めてスピーカーの存在に気付いた。大男が吐き出すような低音は低く鼓膜を叩き、ナンバー1よりも澄んだ声色に、嫌な響きを覚えて身構える。
榎林は「夜蜘羅さん」とうろたえ、緑のランプを小さく灯すビデオカメラを振り返った。
「夜蜘羅さん、しかしッ――」
『楽しいものが見られそうじゃないか。実に興味深いよ』
そのとき、鴨津原の泣き声交じりの悲鳴が聞こえて、雪弥と柿下はほぼ同時に二階上部へと目を向けた。
階段には、鴨津原と、彼を連れて来いと命令された二人の男の姿はなかった。どうやら彼は怯えるまま二階の奥へと逃げてしまい、それを二人の男も追ったようだ。
男たちは、鴨津原を引っ張り出そうとでもしているらしい。「撃たないからって手を出さないわけじゃねぇんだぜ」と苛立った声が聞こえたかと思うと、拳が肉体を叩く音とともに、鴨津原の苦痛の声がこちらまで届いた。
おいおい、ここにきて殴る必要があるのか?
先程の怯えきった様子の鴨津原を思い出す限り、恐らくもう精神面は子供ほどにも抵抗力がない気がする。耳をすませると「嫌だ」「行きたくない」と、どこか語彙力のつたない彼の悲鳴混じりの声も聞こえた。
「鴨津原さ――」
「おっと、動くなよ!」
そんなに離れていない距離から銃を構える音が聞こえて、雪弥は、行動を邪魔された事に強い殺意を覚えた。
柿下を瞬殺して二階へ行こう。そう思って右手を構えようとしたが――不意に、その思考が止まった。同じく異変に気付いた柿下が、にやにやと浮かんでいた笑みを引っ込めて、訝った表情を階段上へと目を向ける。
鴨津原の「嫌だ」と続くみっともない子供みたいな悲鳴を、心地よさそうに聞いていた佐々木原も、ふっと笑みを消して一歩前に踏み出した。どうした、と目配せする榎林を見ず、彼は階段上を凝視したまま警戒したように神経を研ぎ澄ませる。
一同がピタリと動きを止めた一階に、殴りつける音が響き渡っていた。十秒後には血が交じり打つものに変わって、複数の人間が動き回るような気配もないまま、鴨津原青年のくぐもる呻きだけが下へと響いてくる。
ふっと、前触れもなく暴力的な音が止んだ。
二階からは、嗚咽する一人分の気配しか感じなくなった。幽霊屋敷といわれてもおかしくない不気味な空気が、嫌な生温さを孕んで一階へと降りてくる。
階段の三段目と四段目に足を置いていた雪弥は、一呼吸置いて、呼び掛けた。
「鴨津原さん……?」
すると、大人とも少年ともつかない泣き声が小さくなり、ひどい嗚咽が鼻をすする音に変わった。ごとり、と重々しい物を拾い上げる振動音を察して、柿下が警戒したように身構え、佐々木原がゆっくりとサングラスを取って銃を構え直す。
二階から、靴底が鈍くコンクリートを擦る音が上がった。
「俺、やっぱり変だ」
そう鼻にかかる囁きが降りてきたとき、階段の上部にゆらりと姿を現した鴨津原は、肩を落として俯いていた。短髪の下から覗く横顔や、白のタンクトップは浴びたばかりの返り血に染まり、黒い銃を持った手には大量の血液が付着している。
どうして、そう口を開きかけたが、声が出てこなかった。
ああ、二人の男を殴り殺したのかと、雪弥も理解してはいた。
鴨津原が、ふっと顔を上げてこちらを見つめ返してきた。人の気配や呼吸音すら途絶えてしまった階上の静けさを背景に、その泣き顔に引き攣るような笑みを浮かべて、彼の右手の銃がゆっくりと雪弥たちに向けられた。
彼が片手で構える銃は、銃口が定まらないほどぶるぶると震えていた。
「俺、誰も傷つけたくねぇのに、殺したくてたまんねぇんだ」
不安定な声色が途絶えた直後、鴨津原の顔がくしゃりと歪んだ。「助けて」とその口が言い掛けたとき、不意に彼の身体が痙攣するように跳ね上がった。
左手で反射的に口を覆った鴨津原は、そのまま嘔吐するように赤い液体を吐き出した。大量のどす黒い血液がコンクリートへ叩きつけられ、赤い血飛沫を広げながらゆっくりと階段を下る。
雪弥は一瞬、榎林や佐々木原、柿下と同様に動くことを忘れていた。
ひどい夢を見ているんじゃないか、と瞬きも忘れてその光景に見入っているしかなかった。
鴨津原が背を折り曲げて二、三度地面へと吐き出した鮮血は、まるでバケツをひっくり返したような重量感だった。数秒ほどの時間が長さを増し、ゆらりと身体をふらつかせた彼の動きもひどく鈍いように感じてしまう。
再び顔を上げた鴨津原が、口元を赤く染めながら苦痛の表情で雪弥を見た。涙と吐血は止まらず、彼が言葉を紡ぐために開かれた口からは、またしてもねっとりとした赤が溢れる。
「…………雪弥、俺、誰も殺したくない……」
くぐもる言葉のあと、鴨津原の手から銃が滑り落ちた。前触れもなく彼の身体が崩れ、榎林が弾くように「早くレッドドリームを!」と喚く。
「早くレッドドリームを飲ませろ! せっかくの実験体なんだぞ! 早く飲ませて実験を――」
瞬間、榎林の語尾がひしゃげた。
上ずった言葉が行き先を見失い、力なく語尾の「お」の言葉を乗せた呼吸が傾斜して、その声が不自然に潰れる。
頭部がなくなった短身のねじ切れた首根から、勢いよく血液が噴き出していた。宙を浮いたままの榎林の顔が、一瞬の絶命でだらしなく頬肉を垂れ下げる。彼の後ろには瞬間的に回り込んだ雪弥がいて、俯いたまま彼の胴体から捻り取った頭部を左手で掴み上げていた。
ぐらりと榎林の身体が揺れて、司令塔を失った両手足がおぼつかないまま数歩前進した。
首を失った短身の男が、隣にいた佐々木原の腹部から顔に細かい赤を散布させて、ぐしゃりと崩れ落ちた。その際、止まらぬ血飛沫が柿下の顔面から下を染め上げ、この世のものとは思えない光景に、彼の細い喉から甲高い女の悲鳴が上がった。
『素晴らしい!』
スピーカーから、そんな場違いな声がもれた。
僅かな放心状態の直後、驚異的な精神力で恐怖を押し殺した佐々木原が、「くそぉ!」と銃を構えたがもう遅かった。瞬時に銃を取り出した雪弥が、持っていた首をコンクリートへ向けたまま、至近距離から佐々木原の顔に銃口を向けたのだ。
三発の銃弾が佐々木原の顔を抉った矢先、瞬時に銃先が向きを変えて、続いて柿下に向けられて容赦なく残りの銃弾か放たれた。
連続して発砲音が上がったあと、銃のレバーを引き続けていた雪弥の指元から、カチカチカチカチ、としばらく乾いた音が続いた。ようやく弾がなくなったと気付いたように、静まり返った静寂を聞いた彼の手から榎林の首が落ちる。
ごとん、と音を立てて転がった首は、コンクリートに大きな血の印を押しつけた。銃を降ろした雪弥の足が、前触れもなくそれを踏み砕き、弾かれるように目玉と脳を飛び散らせた。
それを見下ろす雪弥の黒いコンタクトレンズが入った瞳は、蒼く色づいて見開かれていた。血だまりに足をねじりこんだ彼の顔には、表情がない。
『そうか、あの学生が呼んだなが正しいとすると――なるほど、君が蒼緋蔵家の雪弥だったわけだ』
スピーカー越しに名を呼ばれ、雪弥はじろりと目を動かせた。
「蒼緋蔵がここで関係ありますか」
問い掛ける声は怒りが滲んで低い。相手からの返答を待つ数秒の沈黙の間に、雪弥はその声の主が「夜蜘羅」と呼ばれていたことを思い出した。
『蒼緋蔵家の番犬、いや、副当主の事となると話は違ってくる、か。また場を改めて――』
その瞬間、スピーカーに弾のなくなった銃がめり込んだ。機器を砕いて貫通した銃が、そのまま壁に突き刺さり、鉄の棒で組み立てられた台が滑り落ちて室内の空気を甲高く震わせた。
衝撃で舞い上がった埃の中で、振動を受けた台から小さなビデオカメラが落ちた。埃と落ち葉に溶け込むように、そのレンズを一階広間へと向けたまま、自動調節機能が働いてジーッという稼働音を立てる。
ここへ来て、蒼緋蔵家か。
雪弥は、踵を返して歩き出した。目にも止まらぬ速さで残酷な殺され方をされた榎林の死に対して、男たちがホラー映画のワンシーンのような、この世のものとは思えない恐怖に頭の整理が追い付かないで見守る中、真っすぐ階段を上る。
最上段に血まみれになった腕を力なく落とした鴨津原が、雪弥の姿に気付いて重々しく目を動かせた。彼はどうにかといった様子で唇を開いたが、血液まみれで言葉は出て来なかった。
その唇が、自分の名を刻んだと知って、雪弥はそばで膝を落とした。
もはや顔の半分まで血まみれになった鴨津原を、けれど躊躇することなくそっと引き寄せて、曲げた足に彼の頭を乗せる。そして、近くから静かな瞳で見つめ返し「鴨津原さん」と囁きかけた。
今や鴨津原は虫の息だった。浅い呼吸が続き、血の匂いと共に湿った空気を吐き出す。涙と血に濡れた彼の顔が、それでも求めるように雪弥を見上げて、近くから視線が合った瞬間、不意に表情を歪めた。
途端、鴨津原が喉の奥から吹き上がる血液に咳き込み、再び激しく吐血して、自身の口と雪弥の膝上に血を湿らせた。
「鴨津原さん、苦しいですか……?」
助ける術などなかった。彼の身体が、どんどん死に向かっているのが分かった。雪弥には、今の彼の苦痛を取り除く方法が一つしか浮かばず、これ以上の問い掛ける言葉もなく口を閉じる。
鴨津原が力なく頭を預けて、「俺、死ぬのか」と潰れた声でぼやいた。涙は止まらず、骨ばった頬を流れ続けている。
雪弥は沈黙を貫いたまま、彼の腹部にゆっくりと触れて、宥めるようにさすった。触れた指先が、ぐしゃり、と内臓が一人でに崩壊する感触を伝えてきて、ただ、お互い言葉もなく見つめ合う。
「――そうか、俺は死ぬのか」
ふと、鴨津原が泣き顔のまま唇を引き上げて、誰の返答を受けたわけでもないのに、正しく悟ったようにそう呟いた。くぐもる音の羅列は、どこか安堵するかのようにも聞こえた。