周囲一体に民家がなく、使われなくなった店のシャッターがおりる先で辿り着いたのは、生い茂った緑と低い木々に囲まれている、旧帆堀町会所だった。
八年前まで稼働していたその廃墟は、今では地元住民に有名な「お化け屋敷」の一つとなっている。雪弥がそこに辿り着いた時、先程見掛けた東京ナンバーの白いBMWが、まるで外から姿を隠すかのように、こちらへと続く細い車道をのろのろと進んでいるのが見えた。
もしかしたら、近くに鴨津原がいるのかもしれない。
ここは隠れるのにはもってこいの場所で、特に地元住民である彼は、それを知っている大学生である。
雪弥はそう考え、車がこれから差しかかるであろう細い車道から見えないよう、廃墟となった旧帆堀町会所敷地内へ踏み込んだ。
ガラスがすべて抜かれた二階建ての建物は、ひびが入った外壁だけを残してそびえ建っていた。一階部分から蔦が張り、荒れたアスファルトには四方を囲う木々の根が盛り上がる。取り壊しが決まっているが未だに着工されておらず、雨によってさびれた看板が、敷地入口で「立ち入り禁止」の文字を薄れさせていた。
旧帆堀町会所敷地内は、隣接する土地に所有者だけを残して、ひどく荒れ果てている状況だった。一階に町政執行の末端機関、二階が町会の事務所と集会所であったが、現在は茉莉海市役場にその事業が完全に移行している。
車が十台ほど停められる地面は、ひどく影って生温い空気が流れていた。雑草と木々の枯れ葉が色を落としていたが、その中央を何者かが駆けた不自然な空白に、雪弥は気付いた。
扉がくりぬかれた入口を越えると、三十六畳分の室内が燦然と広がった。四本の柱が中央の高い天井を支えるようにあり、それ以外はすべて取り壊されたように殺風景だった。
風と小虫が自由に通り抜けられる小窓からは、わずかに陽が入るばかりで薄暗い。地面には木屑や吹き込んだ草葉が目立ち、四方には埃をかぶった蜘蛛の巣があった。
「鴨津原さん、いますか……?」
後ろからやってくる車を気に掛けつつ、雪弥は人影の見えない一階から東側に一つある階段を上った。階段には埃が払われた足跡と、壊された蜘蛛の巣がある。
すると、人の呻く声とわずかな物音が静寂に反響した。
雪弥は足早に二階へと上がった。そこには四本の支柱の奥に隠れるように、鴨津原健がうずくまっていた。
足音に反応してこちらを振り返った彼が、雪弥の姿を認めた矢先、苛立ちと戸惑いを露わにした。突然「どういうことだよ」と震える声を上げたかと思うと、弾くように立ち上がり歩み寄って、雪弥の胸倉をいきなり掴みかかった。
「お前、専門学生っつってただろ! なのに、なんで高校の制服着てんだよ!」
「あ、あの鴨津原さん、その落ち着いて――」
「何なんだよ! お前も俺に嘘ついてたのか! お前も、奴らとグルなのか!?」
高等部の制服のままだったのは、まずかったらしい。しかし雪弥は、取り乱す鴨津原の言葉に眉を顰めて、半ば尋問するように尋ねてしまう。
「それ、どういうこと? グルって、なに?」
途端に、鴨津原が乱暴に胸倉から手を払い、後退しながら首を横に振って「わけ、分かんねぇよ」とぼやいた。
「お前も俺の敵なんだろ……? 嘘ついて近づいて、俺をどうするつもりなんだ?」
「聞いて下さい、僕は――」
歩み出した雪弥を見ると、鴨津原が「黙れ!」と警戒の声を上げた。
雪弥は一旦足を止めて、それからとりつくろうようにぎこちない笑みを浮かべた。大人の身体で幼く怯える彼に向かい、ゆっくりと宥める言葉を切り出す。
「大丈夫、僕は鴨津原さんの敵じゃありません。助けに来たんです」
一体何があったんですか、と雪弥は続けて言葉を切った。
じりじりと後退していた鴨津原は、支柱に背中がつくとようやく立ち止まり、「分かんねぇよ」と今にも泣きそうな声で項垂れた。
「明美先生から電話かかってきて――あの人、よく大学に出入りしてるから付き合いがあったんだ。ちょうど警察をぼこっちまった後で、どこにいるのか聞かれて場所言った矢先に、黒い車の奴らが来て『鴨津原健だな』って」
明美らが、鴨津原を売った? でも、どうして?
そのとき脳裏を過ぎったのは、校長室の話し合いでキッシュから聞かされた報告だった。レッドドリームを所持してこちらに向かったという榎林の件と併せて考えると、嫌な方向へ思考が引き寄せられる。
人体実験。そして、そのために青い覚せい剤が配られている。
まさかと思うような、そんな錯覚を受けた。明美が鴨津原を売った理由についても分からないというのに、まるで今の状況のような事が、明日の取引でも行われるような予感が雪弥の思考を横切った。
「…………鴨津原さん、青い覚せい剤やってますね?」
雪弥が確認するように尋ねると、鴨津原がハッと顔を強張らせた。
外から車が二台止まる音が続き、複数回の強い開閉音が、筒抜けになった小さな小窓から流れ込む。その音や複数の人間の気配すら耳に入っていない様子で、鴨津原が真っ直ぐこちらを見つめ返したまま黙っていた。
「……なぜ、覚せい剤になんて手を出したんですか」
もう一度、問い掛けてみた。けれど雪弥は「ただの覚せい剤じゃないんですよ」という言葉については、胸に秘めるように呑みこんだ。彼が急きょ榎林たちに差し出された経緯は把握しかねるが、そうなると、里久のようにレッドドリームを持っていない可能性の方が強い。
浅はかな考えで覚せい剤に手を出した彼を思って、雪弥は目を細めた。その眼差しに罪悪感を覚えたように、鴨津原が「すぐに止めるつもりだったんだ」と白状するように狼狽した。
「薬が切れると身体中が痛くなって、頭がおかしくなりそうになった。薬が効いてる間は気持ちいいだけだったのに、最近は変なんだ。苛々してるわけでもないないのに、気持ちが落ち着かない、気付くとひでぇことばっかり考えてる。パチンコ店でおっさん殴った時も、内臓を叩き潰して、首をへし折ることを考えてた。警察が来たときも、ぐちゃぐちゃになるまで殴ってやりたかった……」
呟いた彼の顔に、歪んだ笑みが浮かんだ。恐怖する表情の口元が、にやぁっと左右に引き上がる。しかし、数秒後に鴨津原は突然「違う!」と叫んで首を振った。
「俺はそんな事したくない! そんなことッ、考えたくもないんだ!」
そのとき、複数の足音が建物内から上がった。
雪弥は足音と気配から、一階に八人の人間が突入したことを察知した。鴨津原が、そこでようやく第三者の登場に気付いたかのように「なんで俺が追われてんだよ」とうろたえ始める。
一階から「声がした」「上にいるみたいだ」という男たちの声を聞くと、鴨津原は身体を強張らせて唾を飲み込んだ。すると別の男が「準備を先にしよう」と早口に告げて、固い機材でも設置するかのような物音が聞こえてきた。
侵入者が一階に止まる気配を追いながら、雪弥は冷たく澄んだ瞳を声が聞こえてくる階段の方へと向けた。
首謀者である榎林を残し、残す必要もない他の人間は殺してしまおう。
足音からすると、やはり一階にいるのは合計八人の人間だ。六発の銃弾と殺す六人を照らし合わせ、心臓か脳を撃ち抜くこと様子を想像する。しかし、残る一人は銃弾が足りないので、手っ取り早く首を切り離してしまおうかと考えを巡らせたとき――
そばにいた鴨津原が、ふっと口を開いた。
「俺、どうなっちまうんだ? 薬やったから、やばい奴らに殺されるのか……?」
不意に思考が途切れ、雪弥は鈍い反応で鴨津原を振り返った。自分が、何かひどいことを咄嗟に考えていたような気がするが、それがなんであったのかを彼は忘れてしまった。
残す理由がなければ殺してしまいたいという怨念のようにドス黒い、忘れるものかと憎悪するような殺意が、青年の怯えきった様子を認識した途端に雪弥の中から自然と消え失せた。
大学三年生の青年だというのに、その表情はあどけなく幼く見える。
思えば彼はまだ『学生』の身であるのだ。社会に出ているわけではないので、子供みたいに思えてしまうのも仕方がない事なのだろう。
覚せい剤に手を出したとはいえ、鴨津原は今事件の被害者でもある。通常の覚せい剤であったのなら、処罰と更生によって彼は社会に復帰する資格を持ち合わせていた。だから、出来るのなら助けたいと考えていたことを、雪弥は思い出した。
彼がどれほどブルードリームを使用し続けたのかは分からないが、レッドドリームに手を出していなければ助かるのだろう。こうして話している限り、里久のように会話が出来ないほどの異常をきたしているわけでもない。
「僕が殺させません」
雪弥は静かに告げた。怯える青年を落ちつかせるように笑みを浮かべ、自分が彼の敵ではないことを示す。
対する鴨津原が「じゃあ」と、喉の奥から声を絞り出して、こう続けた。
「…………俺は、どうすればいいんだよ……?」
問い掛ける声は震え、激しい感情を殺した瞳は、疑いの色を孕んで雪弥を見つめていた。鴨津原は、突然現れた雪弥を信じてはいないが、そこには小さな希望にもすがる想いがあった。
研究班たちが治療法を早急に見つけることを願いながら、雪弥は嫌な予感を頭の片隅に押しやった。一歩だけ足を進めたものの、彼がギクリと警戒する様子を見て、一旦立ち止まって柔らかくはっきりと言葉を紡いだ。
「僕は、鴨津原さんを守りたいんです」
自分が向かうとナンバー1に告げた時の心境で、雪弥は鴨津原を真っ直ぐ見据えてそう言った。
助けるのが間に合わなかった里久のことを考えていた。自分は、目の前の彼の友人の四肢を切り落としたうえ、最後は人でないまま死を迎えさせた。せめて次こそはと、らしくない情に心が小さく揺れる。
そのとき、階段の下から一つの声が上がった。
「鴨津腹健、そこにいるんだろう? 素直に降りてくれば手荒なことはしない、降りて来い!」
それは、急かすような早口だった。部屋を満たす埃と黴臭い空気が、その怒号するような一方的な主張と共に耳障りに振動した。
※※※
保健室で明美と話した後、十分な睡眠を取った常盤は、午後の授業を終えても気力が残っている状態だった。騒がしい教室に気が散ることもなく最後の授業が終わり、担任である女教師の話を聞いてあと、いつも通りすぐに教室を出た。
木曜日の放課後も、教室の外には相変わらずの光景が広がっていた。
廊下で教師を捕まえて勉強や進路の話しをする者や、他愛ないお喋りを続けながら歩くたくさんの生徒の姿があった。受験生であることを忘れたようにはしゃぐ男子生徒が、駆け出した廊下でクラスメイトや教師に叱られる光景も、すっかり見慣れてしまった光景だ。
常盤は「馬鹿じゃないか」という言葉を覚えたが、いつも以上にゆっくりとした歩調で歩いた。目に映るものを静かに捕え、耳に入る音を無意識に追う。
彼の足が不意に止まったのは、三組の教室から暁也が出てきたときだった。
二年の頃に同じクラスだったが、暁也が彼を嫌うように、常盤も彼の姿が視界に入ると条件反射のように顔を歪める。何故なら、悪党になれそうな奴だと抱いた第一印象を砕かれて以来、常盤は暁也を毛嫌いするようになっていたからだ。
初めて暁也を見たとき、体力と喧嘩に優れ、リーダーに信頼を寄せる悪党になれるだろうと常盤は思った。しかし、暁也は群れることを嫌い、編入当日の喧嘩以来大きな問題も起こさなかった。
学校生活に問題があることは不良らしかったが、学年主席の常盤に二点差の成績を叩きだしていた。しばらく彼を観察した結果、正義感と真っ直ぐな根を持っていると気付いた時の常盤の失望感は大きかった。
一匹狼の不良みたいである癖に、暁也には迷いがないのだと分かった。
彼は自分の中に、確立した正義を持っている少年だったのだ。
昨年町で見掛けた際、信号もない横断歩道をのろのろと歩く老婆が、数組の自動車に迷惑がられている光景に遭遇した事がある。そこに一台のバイクが通りかかって近くで停まり、車のクラクションを鳴らす大人たちを叱り付けて老婆の荷物運びを手伝った。それが、当時高校二年生だった暁也だった。
三学年に上がってからしばらく距離を置いたせいか、常盤は今の暁也を見つめていても、ひどい苛立ちを感じないことに気付いた。
ただ意味のなく騒いではしゃぐような、ガキみたいな馬鹿よりはマシか……。
そう、らしくないことを考えて歩き出したとき、数学教師の矢部と共に、暁也を追って修一が教室から廊下へと出てくるのが見えた。
勉強は出来ないが運動神経抜群で仲間想いの比嘉修一は、常盤の理想とする手下像に近いものを持っていた。信頼と絆を大切にし、考えることをすべてリーダーに任せて、指示に従いそうな人間になりうる可能性がある人材だ。
しかし、彼は落ち込んでいる生徒の話を、飽きずに延々と聞くほどのお人好しなので、悪党になるのは難しいことを常盤は悟っていた。それでも、裏表ない修一は嫌いではなかった。
廊下に出た暁也が、修一のそばにいる担任教師を見て「うげっ」と言い、げんなりとした表情をする。
「今日もかよ、あんたもいちいちしつこいなぁ」
「暁也君が逃げるから……」
四組の担任は、数学教師をしている矢部だ。彼は、校内でも有名なほど口ごもった話し方をする。数学の授業があるたび、常盤はさぼりたくなる衝動を堪えた。つい「矢部先生の声どうにかなんないの」と、彼と面識がない大学の富川学長にもらす事もあった。
そんな矢部と、暁也と修一の組み合わせを前に、常盤は冷静を装いゆっくりと歩いた。片足をかばうようにせかせかと進む矢部に対して、渋々付き合う事にした暁也の隣で、修一が「俺、特に希望する大学も職業もないんだよ先生」と告げる。
矢部は普段は少々背を丸めているものの、歩くときは背筋がぴんと伸びた。長身を誇張するように歩けばいいのに、と小柄な常盤は羨ましく思ってしまう。自分は長身で、威圧感を持った悪党になりたいのだ。
会話を始めた三人組を、常盤は歩調を上げて追い越した。途中暁也が怪訝そうな顔を向けてきたが、彼は気付かない振りで通り過ぎた。そのとき――
「僕は真っ直ぐ帰るから、二人とも頑張ってね」
やけに澄んだ声色を耳にして、常盤は足を止めかけた。しかしすぐに、「ちぇッ、他人事にのんきかましやがってよ」と暁也の声を聞いて先を急ぐ。
聖歌隊とかにいそうな声だったな。
常盤は何気なく思った。しっかりと出来あがった大人の声色に近いが、この葉の囁きのように身に沁み込むような心地よさがある。それは、矢部と正反対のものだと思った。
※※※
「やぁ、常盤君」
学校を出たところで、常盤は里久にそう声を掛けられた。一見すると眼鏡の好青年にしか見えないが、彼も覚せい剤に手を染めている一人である。
正門で待っているなんて珍しいな、と常盤は思ったが、ふと明日のことで今朝にメールで連絡した一件を思い出した。そもそも彼の場合は、先週渡した薬がなくなる頃合いでもあるので、早めに欲しいのだろうかと思って口を開く。
「里久先輩、メールくれれば持っていきましたよ」
下校中の生徒たちの中で、常盤は自然に話しを切り出した。
里久が困ったように笑って「ごめん」と述べた。平均的ではあるが細身の体は、今日は珍しく黒いニットをつけているせいか、普段よりも小柄に見えた。
そういえば、火曜日の夜にゲームセンターに向かう際に見掛けて以来だったから、二日ぶりだなと気付く。最近は使用量も増えているので、彼は薬で痩せたのだろうと常盤は思った。
「明日のことは大丈夫ですか?」
「メールをすぐに返信したあと、うっかり消しちゃったんだよね……」
里久は薬をやる前から優秀な成績を持っていたが、どこか間が抜けたところがある人間だった。
常盤は「やれやれ」と短い息をついただけで、嫌な感情は一つも覚えなかった。彼は里久に対しては明美同様、世話を焼いても不思議と苦にならなかったのである。
付き合いが長いというわけでもなかったが、メールのやりとりをするようになってからは、時々遊びに行く仲にもなっていた。
「場所は前回と同じです。二十二時スタートですからね」
「うん、ありがとう。時間が曖昧だったから助かったよ」
「俺も明日の件で声は掛けてるんですけど、先輩からも他のメンバーに連絡回してもらっていいですか?」
「いいよ。必ず全員参加だよね?」
愛想笑いを浮かべた里久が、はっきりと語尾を区切ってそう尋ねてきた。まるで確認するように「全員参加」を強調し、返事を待つように沈黙する。そこに普段あるような頼りない雰囲気は一切なく、一つの確信を持っているような自信を窺わせた。
常盤は一瞬、なんだか雰囲気が違うな、という奇妙な違和感を覚えた。しかし、作り笑いが出来ない里久が、すぐぎこちない笑みへと表情を崩すのを見て、なぜかひどく安堵した。
「少しだけ、先にもらっていてもいいかな?」
そう続けて問われて、やはり明日まではもちそうになかったのだろう、と思った。常盤は歯切れ悪く催促した里久に歩み寄り、彼がいつも財布を入れている後ろポケットに、明日分までの青い薬を押し込んだ。彼に関しては、料金はいつも後から受け取っている。
「残りは明日のパーティーで配りますから」
「うん、分かった。ありがとう」
お互い声を潜めて会話し、常盤はそのまま里久と別れた。
そういえば、今朝はメールの返事があったとはいえ、火曜日の夜からずっと連絡がなかったのだ。歩き出したところでそう思い出した常盤は、「分からないことがあったら、いつでもすぐメールして――」と言い掛けたところで顔を顰めた。
振り返った先に、里久の姿はなかった。まるで忽然と消えてしまっていた。
常盤は一人小首を傾げたが、ふと、明美に頼まれていたことが脳裏を横切った。彼女の希望通り、彼は暇潰しがてらに町を見て回ろうと考えていたのだ。尾崎には大学校舎へ行かず、藤村組事務所で明日の段取りを組むと連絡も入れてあった。
「そうだな、町の方をちょっとぷらぷらしてくるか」
待ちに待ったはずの取引が明日に迫っていたが、常盤の表情は冴えない。彼は自分でもらしくないほどの大人しさを思いながら、ゆっくりとした歩調で足を進める。
※※※
午後四時半を過ぎた頃。
常盤は都心街ではなく、南方にある旧市街地にいた。
明美の願いをかなえてやろうかと思っていたのに、大通りを見ないままぼんやりと歩き進んでいて、気付いたら藤村組事務所が建つさびれた土地まで来てしまっていたのだ。
もし都合があえば夜にでも町を歩こうと考え直して、通い慣れた三階建ての事務所へと向かう事した。しかし、人の気配もない静まり返った路地をしばらく歩いた頃、藤村事務所まで百メートルの距離で、くぐもった鋭い発砲音に気付いた。
日常ではまず聞こえるはずのないその音を、常盤は聞き逃さなかった。
音沙汰もなかった心が久しぶりに高揚し騒ぎだすのを覚え、発砲音を探してすぐさま駆け出した。
その発砲音は、すぐ近くの旧帆堀町会所方面から聞こえていた。
※※※
――常盤少年が、一発目の発砲音を聞く少し前の事。
榎林は、旧帆堀町会所の開けた一階部分に設置したビデオカメラの横で、短い足を開くようにして立っていた。荒れ果てて古びた廃墟内は、窓ガラスも扉も外されて外の光が差している。
廃墟の中央には直射日光が届かないため、薄暗さと黴(カビ)臭さが健在していた。足で簡単にこの葉やゴミが退かされただけの片隅には、電化製品の紙箱が投げ捨てられ、組み立て式の細い鉄筋台下の冷たさを帯びるコンクリートに、茉莉海市に来る途中購入した黒いスピーカーが置かれている。
「夜蜘羅さん、聞こえますか?」
配線がセットされてすぐ、榎林はふてぶてしい面持ちを階段に向け、スピーカーへと耳を澄ませた。足元にスーツケースを置いた佐々木原は入口に立ち塞り、小さな赤い錠剤の入った小袋を大きな指先で触れている。
室内には、他に六人の男たちがいた。殺風景としたその場で金や赤、黄色や紫といったシャツが目立つ。
だらしなく着こなしたその男たちは、佐々木原の部下である。三十代後半のその面々は、彼が組頭となった頃からのメンバーであり、佐々木原にとって信頼のおける仲間だ。今回は秘密裏に動くこともあり、特に口が硬い人員を選んでいた。
『聞こえているよ。ああ、でもこちらの方で少し調整が必要みたいだ』
スピーカーから野太い声が上がり、ぷつりと途切れた。
上の階からようやく物音が聞こえてくると、そちらを見つめながら榎林が囁いた。
「佐々木原、明美の口止めは出来たんだろうな?」
「明日の取引まで、他言しないようにと伝えましたよ」
社内の様子とは違い、答える佐々木原の顔には殺気を張りつかせた笑みが浮かんでいた。長い鼻筋の下で大きな唇が引き伸び、悪意に歪んだ目を隠すように、黒いサングラスがかけられている。
榎林は夜蜘羅から、李にはすでにこの件を伝えてあると聞かされていた。取引に使う大学生を富川たちは把握していたので、後でこの件は自身の口から尾賀にも伝えておくと夜蜘羅は語った。
富川たちは、ブロッドクロスで進む「強化兵」の計画を知らない。尾賀がそれらしい言い訳を伝えるだろう、と榎林は彼任せにする事に決めた。何せ闇取引こそが、尾賀の本来の領分だからである。
尾賀はもともと、榎林がブロッドクロスに迎え入れられた際に紹介された人物だった。東京に根を降ろす大手闇グループの一つであり、その正体を巧妙に隠すほどの力を持っている。資金調達の目的もあってついでとばかりに闇金業者もやっていたが、会社経営に関しては弱い部分があった。
そこで、経営に関してはずる賢く一流である榎林が、尾賀の表上の立場と資金繰りを引っ張る形で「丸咲金融第一支店」という名ばかりの子会社が誕生したのである。
それはブロッドクロス側が推薦し組ませたものだったが、尾賀は闇活動を、表にもパイプを沢山持った榎林がそれを補いつつ経営をみるという、互いの利害が一致した結果でもあった。
『李が作り直した薬は、私たちが持っている物より質が良さそうだろう? レッドドリームによる『進化』にも耐えられるんじゃないかな、と思ってね』
今回の急な『お願い』は、新しいタイプのブルードリームを摂取した人間にレッドドリームを試したことがないから見てみたい、というものだった。夜蜘羅が成果を見る前に、期待できるんじゃないかな、と褒めることも珍しい。
しかし、榎林はその疑問を認識する前に、『そのまま実験の二段階目に突入出来そうだね』といった言葉を聞いて目が眩んだ。ここで成果を見せることが出来れば、ブロッドクロスで進む「強化兵」計画の第一人者の一人になれるのではないかと欲深く考えた。
ブロッドクロスの特殊筋が欲しているのは、殺意を持った新しい駒である。彼らが抱える、人智を越えた能力と素質を持った人材は稀だ。人間を理想の殺人兵器に改造し、少しでも特殊筋が抱える人間と近い戦士を、意図的に量産出来るようになるのが「強化兵」の目指す理想の形だった。
榎林の指示を受けた佐々木原は、茉莉海市に入る前明美に連絡を取った。はじめに彼は、「そちらは順調に進んでいるか」とさりげなく話題を切り出した。
李に引き渡す学生が服用している薬を覚せい剤だと疑わない明美は、「取引きに支障をきたすような中毒者がいるのなら一人引き取りたいが」と尋ねた佐々木原に、ならばと一人の生徒を提案した。
明美は覚せい剤を使用している中でも、使用日数が長い「鴨津原健」を佐々木原に語った。鴨津原は、火曜日辺りからどうも調子が悪く、友人に会いたいという気持ちすらないのだと、自身が精神不安定であることを明美に相談していた。
話を聞くと、どうやらその大学生は、水曜日にはじっと授業を聞くことも出来ず、今朝には喧嘩を起こして学校を飛び出したのだという。
そしてその直後、彼が騒ぎを起こしたという通報があったのだ。
榎林たちにとっては、なんとも良いタイミングであった。ついでにこちらで引き取ると明美には都合良く伝えて、けれどその件に関しては、尾賀の方から話が出るまで黙っているようにとも指示した。
一般人と警察に暴力をふるって逃走していた鴨津原を、佐々木原の部下が乗った二台の車で追わせた。町外れで見つけたものの、身体能力がある程度向上しているのか、距離はなかなか縮まらなかった。
二台のバンで取引の近くまで追いかけてようやく、そのうちの一台が走る彼に追いついた。車で道を塞ぎ、確保するため佐々木原の部下が車から飛び出したが、冷静を失った鴨津原に投げ飛ばされたのだ。
それは、車体に損傷を与えるほどの威力だった。両サイドを刈り上げた金髪の柿下(かきした)は、同じような過ちを繰り返すものかと、先程の失態を振り返って銃を片手に階段を睨みつける。
「鴨津腹健、そこにいるんだろう? 素直に降りてくれば手荒なことはしない、降りて来い!」
そう早口に告げる柿下の額には、ピクピクと青筋が立っていた。骨ばった細い身体にフィットする彼の黄色いシャツの背中には、数か所に傷が入り血が滲んでいる。
しばらくすると、一組の足音が階段から響いた。
薬で精神状態が不安定とはいえ、相手はたかが大学生である。「ようやく来たか」と顔を上げた榎林は、その矢先、他の面々と同じように顔を顰めた。
「誰だお前は!」
瞬間、柿下が苛立ったように銃を構え、忌々しい鴨津原健とは違うその顔を睨みつけた。
それは、白鴎学園高等部の真新しい制服を着た十七歳前後に見える少年で、佐々木原がサングラスを押し上げながら「可哀そうだが、見られちまったからには処分しなくちゃね」と呟いたのを、榎林だけが聞いていた。
※※※
二階に鴨津原に待っているよう告げた雪弥は、階段の中腹で足を止め、敵の数を改めて視認でも把握しながら「榎林さんはどなたですか?」と一同を眺めた。
すると、スーツの男たちの中で背丈が低い、薄くなった頭部をした年配の男が、驚いたように顔を強張らせて「どこで私の名を聞いた」とうろたえたようにまくしたててきた。