蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~

 常盤は、今や悪に恋をしていた。初めは組を率いる藤村を尊敬していたが、そこに尾賀という東京の組織が現れて、そちらへ目が移った。しかし、彼らは常盤が思い描く「賢く残酷で悪党」とはいかなかった。

 何より、彼の理想が右肩に上がり続けていたのだ。

 常盤は貪欲にも、映画や小説や漫画で見るような、賢くて利口で、そのうえ悪魔のような冷酷さを持った相棒を求め始めるようになっていた。出会ったシマや藤村たちと同様に、自分を引っ張ってくれる、すでに出来あがった悪人へと希望はエスカレートしていたのだ。

「…………外には、仲間に引き込めそうな奴っているかな」

 ふと呟いた常盤を、明美が怪訝そうに見やった。「仲間に引き込んでどうすんのよ」と問われ、常盤は返す言葉が見つからなくなる。

 明美は首筋にかかった髪を払うと、「あたしはね」と乱暴に言葉を吐き出した。

「理香みたいな人材は欲しくないのよ。あんたはシマっていう男の事が気に入ってるみたいだけど、私はすぐに足がつきそうな馬鹿は嫌いよ。薬をやって外を堂々と歩いてるなんて、いつ警察にマークされないかって、はらはらしてるんだから」
「俺が探してるのは、悪行を心の底から楽しむ知能犯だ。冷静沈着で、極悪非道な奴なんだよ」

 常盤は苛立ったように口を挟んだ。明美が事務椅子を軋ませ、「ふぅん」と言って髪先を指でいじる。

 彼女は整った眉を引き上げると、机の上に頬杖をついて常盤を見た。

「そんな都合のいい奴、いるのかしら。いても本当に少ないと思うわよ? まず、そういう奴に限って絶対表に出て来ないんだから、スカウトなんて無理よ。先に別の組織についているか、犯罪歴があって逃げてるかのどっちかでしょ?」
「でも、そいつらだって初めはどこにも所属してないもんだろ? うちの藤村さんもシマさんも、前までは普通に町中で暮らしていて、組に所属するなんて思わなかった頃があったんだぞ」

 常盤は、これは希望的観測論ではないと強く反論するように、明美を睨みつけた。

 短い沈黙のあと、明美が降参したように口を開いた。

「確かに、外にはいるかもしれないわね。でも、こっちでは絶対に見つからないと思うわよ。尾賀が藤村に目をつけたのも、そういった人間が他にいなかったからだもの」

 ここはね、綺麗過ぎるのよ、といって明美は顔を歪めた。

「自分の事を優先に考えないお人好しばっかり。そんなところに、あんたが探しているような人間がいると思う?」

 明美はそこで話しを切ると、カレンダーへ顔を向けて「……事が動くわ。明日集めることになるけど、手筈は整ってる?」と神妙に尋ねて話題を戻した。失敗は絶対に許されない。学生という身で『手助けしているにすぎない』としても、そこには過度な責任が押し付けられていると彼女は知って、彼を見つめる。

 しばし沈黙してしまった常盤は、けれどそこに対しては全く心配していないのだという顔で頷いて、外を警戒しながら低く呟いた。
「名前と人数は確認済みで、パーティーだって言って大学校舎の一部に集まる予定だ。あいつらが勝手に配った人間も、ちゃんと調べて把握してる。まだ知らない奴がいるかもしれないから、念のため声を掛けるつもり」

 常盤は青い覚せい剤を配るとき、親しい素振りで相手の学生と距離感を縮め、頻繁にメールのやりとりをしていた。今のところ全員問題なく過ごしており、時々しか連絡のない大学生に関しては、連絡のほとんどが薬の催促のみだ。

 大学生同士で配りあって連絡先を交換していない生徒も数人いるが、声を掛けた学生とは交流を持っているので、彼らに頼んできちんと明日の覚せい剤パーティーについては伝言させてある。そろそろ薬が切れる頃合いだったせいか、里久からは早朝という珍しい時間にすぐ「楽しみにしてる」と返事がきていた。

「昨日急に聞いたからさ、参加できない奴が出て来ないか俺は心配だよ」
「あんたなら上手く話を乗せられるでしょ。とにかく全員出席させるのよ。しくじったら、今後の取引に大きく関わるんだから」

 常盤は「分かってるよ」と答えたが、湧きだした興奮や意欲はいつもの半分にも満たなかった。こんなときに相棒がいれば、とつい思ってしまったせいだ。

 細腕を組んだ明美は、表情硬く考えに耽っていた。気付いた常盤が顔を上げて「どうしたんだよ」と尋ねても、整った顔を顰めて白い床を睨みつけ、動く様子がない。質問を理解しているようだが、「うん」と答える返答は短く曖昧だった。

「…………順調に進んでるし、あたしだって慎重に行動してる。でも、なんだか嫌な予感がするのよ」
「珍しいな」

 思わず、常盤は疑問の声を発してしまう。
 もともと、尾賀の元で麻薬を扱っていた明美は、元々の強い気性もあったが、それ以上に交渉役や連絡係としても経験が長いため度胸が据わっていた。いつも「尾賀のバックにも黒い物があるんだから、あいつに任せとけばいいのよ」と強気な態度だが、今日はいつになく自分で考えているようだった。

「尾賀は何も言わないけど、事件をもみ消したり報道を抑制しているのは、あいつのバックにいる奴だと思うのよ。でも、なんだか今回はいつもと違う気がして……」

 明美は言葉を切ると、すくっと立ち上がって常盤に向き直った。白衣と栗色の髪がふわりと揺れ、愛嬌溢れる顔に真剣味を帯びて口を開く。

「ねぇ常盤、時間が取れるときでいいから、軽く町中を見てきてもらえないかしら」
「何を調べればいいわけ?」
「堅苦しいことじゃないのよ。ただ、あたしより、あんたの方がこの町のこと知っているじゃない? 変わったことや気付いたことがあったら、あたしにこっそり教えてほしいの」

 常盤は探るように明美を見て、「取引に関係する頼み事か?」と訊いた。

 明美は「そういうことじゃないけど」と視線をそらした。

「あたしの車で移動するときに、ちょっと長めのドライブに付き合ってくれたりとか、そういう時に教えてくれてもいいと思うの……だってあんた、きどってる子供の癖に、すごく頼り甲斐のある大人の顔したりするんだもの…………頼りたくなるのよ……」

 そう口の中で続けられた気弱な、実に彼女らしくないもじもじとした台詞を聞いて、常盤は思わず「は?」と疑問の声を上げた。

 途端に明美が、ハッとした様子でこちらを見て表情を取り繕った。頬にかかった髪を耳に掛け直し、思い出しかけた何かしらの弱みでも振り払うかのように、大げさに踏ん反り返る。

「あんた暇あるでしょ。一番出歩ける立場なんだから、大学で寝るくらいだったらちょっとは動きなさいよ」

 明美の言葉は、八つ当たりともとれる幼い言動だった。こんな女だったか、と常盤は疑問に感じたが「分かったよ」とぶっきらぼうに答えて口をつぐんだ。


 常盤は大人も子供も好きではなかったが、なぜか明美の頼みだけは断れなかった。こうして話していると、年が違うばかりの腐れ縁を感じて、ずいぶん長い間つるんでいた友人のように、明美のそば不思議なほど心地良いのだ。
 自習時間となった四時間目の授業が始まって、二十分後。

 校長室から出た雪弥は、先に図書室に入っていた暁也たちとようやく合流した。ほとんど生徒のいない室内で、二人は「遅い」「遅いよ」と同時に言ってきて、雪弥はぎこちない笑みで言い訳を並べた。

 彼らが通常の読書や勉強をするはずがなく、なぜか修一から「走れサッカー少年」の一巻を押しつけられてしまった。暇潰しのようにページを読み進めていったが、内容は頭に入ってこなかった。

 先程の話し合いの件が、チラチラと脳裏を掠めて離れない。


 レッドドリームによって化け物かしてしまう反応を起こすためには、ブルードリームを一定に摂取する期間が必要である、とキッシュは語っていた。

 ロシアの一件と同様の事件ならば、国を脅かすレベルとしての処置がとられる。学園で出回っているブルードリームの摂取者が、里久のようにレッドドリームも配られる可能性を考えると、――そして、彼と同じ悲惨な末路を辿る可能性が高いとするのなら尚更だ。


 ヘロインを含むすべての違法薬物を押収し、事件に関わった関係者、容疑者全員がその対象である。最優先すべき事項は、危険な薬と組織の一掃だろう。

 雪弥は、気乗りしないまま思案した。修一が読んでいた本について暁也に話しを振り、図書室で自習していた三年生たちが呆れたように視線を寄こしてくる。気付いた暁也が睨みつけると生徒たちは慌てて座り直したが、修一は「走れサッカー少年」ついて熱く語り続けることを止めなかった。

「なぁ、やっぱ主人公がすごいだろ? しかも、結構泣かすんだよ」

 唐突に、修一がこちらを見てそう言った。

 不意打ちで面食らった雪弥が「ああ、そうだね」と視線を泳がせたとき、暁也がすっと立ち上がって「そろそろ授業終わるぜ」とそっけなく告げた。雪弥はそれに便乗するように時計を見やって「本当だ」と、修一との話を打ち切った。

 図書室を出ると、ちょうど授業終了を告げる重々しいチャイムが鳴った。「そばパン」と叫んで弾くように修一が走り出し、それに暁也が続く。

 雪弥は、呆気に取られて、元気のある少年組を見送った。「お前の分のもゲットしてくるからよ~!」という二人の声が、廊下から階段へと流れていったのが聞こえて、思わず苦笑してしまう。

 こうして見ると、やはり普通の高校生だ。自分とは全く違う。

 猛スピードで二人が駆け抜けた二学年の教室から、数秒後に「後に続け!」「今日はあの先輩に負けるなッ」と男子生徒たちが飛び出していった。男性教師が「三年の修一と暁也か」と目頭を押さえ、それから廊下を走る少年たちに「廊下は早歩きまで!」と一喝した。
 雪弥は、二学年で賑わう廊下の方へ足が進まず、図書室の前でしばらく立ち尽くしていた。ここは二人の言葉に甘えて、先に大回りして屋上にでも向かおうか、と呑気に考え直す。

 そのとき、胸ポケットで携帯電話が震えた。

 図書室の前に広がるスペースの取られたフロアへと入り、ベランダもない窓ガラスへと歩み寄りながら携帯電話を取り出したところで、雪弥は相手がナンバー1だと知って、わずかに眉根を寄せた。

 並んだ大窓からは、高等部校舎正門と運動場が一望出来た。雪弥はガラスに映った自分の顔越しにその風景を見下ろしながら、「はい、もしもし」と声を潜めて電話に出た。

『複数の情報源から、取引の時間が次の時刻だと判明した。明日の二十三時、我々は双方の組織及び関係者を一人残らず一掃する。そちらはナンバー4を現場指揮官とし、当現場には県警とエージェントをつける。対象者の処分や人員配置、詳しいことについては追って連絡する』

 雪弥は、心が静まっていくのを感じた。遠くで少年少女の賑やかな声を聞きながら、ガラス窓に額を押しつけて力なく唇を開く。しかし、言葉が出て来ずに一度口をつぐんだ。

 しばらく間を置いてから、ようやくといった様子で囁き返した。

「了解、現場指揮として、当日の県警の介入を許可。現場待機を指示、こちらは追って連絡を待つ」
『了解した。指揮権についてはこちらに一時委託を確認』

 ナンバー1は厳粛に返した後、言葉を切って声量を落とした。

『……私が現場指揮を取っても構わんぞ……』
「らしくない事を言いますね。僕は平気ですよ」
『そうか。…………詳しいことは、追って連絡する』

 雪弥は電話を切り、予測していた処分事項をぼんやりと思った。ナンバー4としての任務が行われることを想像し、それきりぷっつりと思考を止切らせる。

 賑やかな声が背中で溢れだし、雪弥はゆっくりと振り返って制服の少年少女を眺め見た。彼が考えている最悪の展開は、対象者すべての抹殺――ナンバー4に相応したそのような任務が、白鴎学園で行われることだった。

 雪弥は大回りする道を選ばず、幼なさが残る二学年の生徒たちの間を抜けるように廊下を進んだ。数人の生徒が不思議そうに目で追ったあと、何事もなかったかのように弁当を広げ始める。


「何か嬉しいことでもあったのかしら」

 教室から、見慣れない美麗な三学年の男子生徒を見ていた一人の女子生徒が、そう呟いた。転入生である彼の姿が教室の窓から見えなくなった頃、他の女子生徒たちも顔を見合わせる。

「そうじゃない? 嬉しそうに笑ってたし」

 それより、と女子生徒たちは話題を変えた。


 廊下を進んでいた雪弥の口元には、尾崎とはまた違う、穏やかで優しげな微笑が浮かんでいた。
 六月二十三日木曜日、午後四時四十分。

 高知県警本部刑事部捜査一課で、七人の捜査員たちによるチームが編成された。組織犯罪対策課の毅梨を筆頭に、薬物取締に多く携わっていた内田、捜査一課前線に立つ澤部(さわべ)、現場で活躍する阿利宮(ありみや)班長を含んだメンバー四人の捜査員が金島の元へ向かった。

 金島が最前線に立っていた頃の主力メンバーが揃う光景に、何事かと捜査員たちが目で追う。捜査員の中で一番若い内田も、垂れた瞳を鋭く光らせていた。片手にノートパソコンを持ち、堂々とした足取りで本部長の執務室へと向かう姿は気迫がある。

 捜査二課の者が、そんな内田を見て「本気モードの内田だ」と珍しそうに述べ、息を呑んで見送った。彼が仕事に対して真剣に向きあう姿は、金島が二年前担当した連続強盗事件以来である。


 昼を過ぎた頃、毅梨たちは事前に金島の口から、茉莉海市で起こっている事件を聞かされていた。彼らには、藤村組を麻薬および向精神取締法で押さえ、後に詐欺事件でも再逮捕するという筋書きが与えられていた。本来ヘロインが白鴎学園にあり、情報操作によって他の犯罪組織と共になかったことになることは承知の上だった。


「我々は合図と共に、藤村組をおさえる」

 執務室で、金島は再度集まった一同にそう告げた。

 茉莉海市一帯は現在、国家特殊機動部隊の管轄内となっている。介入許可はすでに降りていが、ナンバー1の「待機命令」は解かれてはいない。金島は彼の指示通りチームを編成し、連絡を待っている状況だった。

 毅梨たちは、それぞれ神妙な面持ちでソファに腰かけていた。一見すると同じ真剣面をした内田だが、腹を立てた顔であることを一同は知っていた。これまで特殊機関の人間によって、パソコンの中をハッキングされていたからである。

 プライドとプライバシーの双方で、内田の怒りは収まらなかった。事件の話を聞かされたあと、もう知らされたからいいだろう、とばかりにデスク画面に堂々と、向こうから情報が送られ張り付けられていっていることに対しても、彼の苛立ちは止まらない。

「……なんかさっきから、俺のデスクトップが掲示板みたくなってんですけど?」

 テーブルのノートソパソコンを見据えていた内田は、トップ画面のファイルを片づけたはずの場所に、また資料が添付されていることに気付いて忌々しげに言った。

 隣にいた毅梨が「どれどれ」と覗きこむと、内田が操作してもいないパソコンの矢印ボタンが勝手に移動し、そのファイルを開き始める。

「うわ、内田さんのパソコンがハッキングされてるの、初めて見た」

 内田より三年先輩の三十代捜査員、阿利宮が立ち上がって後ろからパソコン画面を確認した。一課で一番礼儀正しい捜査員の一人で、聞き込みを得意としている男である。内田と組まされるのは実に二年ぶりだが、頭脳派と行動派、双方のバランスが整ったコンビとして有名だった。
 ソファに腰かけていた残りの捜査員三人も、立ち上がって内田の後ろからパソコンを覗きこんだ。彼らは数日前、内田と金島のやりとりを見守っていた捜査一課の居残り組である。その内三人は阿利宮の部下だったが、四十代に突入したが仕事に熱を入れ過ぎで独り身のままなのは、ベテラン捜査員でありヘビースモーカーの澤部だ。

 澤部は張りのなくなった頭髪に不安を覚え、婚期を逃しているのではないかと心配する四十一歳だった。若い頃から金島、毅梨と共に前線で活躍し、阿利宮と内田に仕事を教えた先輩である。

 内田のパソコン画面は、すでに書き上げられた文章ファイルを展開していた。

 
『東京、高知、共に二十三時作戦決行』
『高知県警、事件介入の許可。指示を待て』
『対象者、藤村組。二十四日二十三時、事務所へ強行突入せよ。建物内に残ったメンバーの確保』


「……つか、この内容、金島本部長から聞いたまんまなんすけど」
「呟き伝言板みてぇだなぁ」

 澤部はセットされた張りのない頭髪に触れてそう言い、内田がじろりと視線を送った。目が合った二人の間に、ぴしりと張り詰めた空気が流れる。

 しばしの無言を置いて、二人がほぼ同時に口を開いた。

「黙ってろ薄ら禿げ」
「てめぇこそ黙れよ垂れ目」
「婚期逃した禿げの癖に」

 言い返せなくなった澤部が「内田ぁ!」と叫び、見守っていた三人の捜査員が「先輩抑えてッ」と後ろから彼を拘束した。

 それを見た毅梨が、「やめんかお前たち、金島本部長の前だぞ」と上司らしく声に威厳を持たせて一喝したとき、けたたましい電話のコール音が室内に響き渡った。

 垂れた瞳をやや見開いた内田の後ろで、揉み合っていた澤部たち四人がぴたりと動きを止めた。阿利宮が、書斎机で鳴り響く金島の携帯電話に気付き、毅梨も表情を強張らせる。

 金島がゆっくり携帯電話を手に取り、耳をあてた。数秒後にはっとして息を呑み、言葉短く応答すると蒼白顔で声を潜める。

 数分も経たずに金島は電話を切ると、立ち上がって一同を見回した。
「ブルードリーム使用後、レッドドリームによる二次被害が確認されたそうだ。容疑者となっていた榎林政徳の死亡が先程確認され、管轄組織によって旧帆堀町会所が現在完全封鎖されている――我々はただちに茉莉海市に向かい、ナンバー組織指示のもと、茉莉海市署員の指揮に入る」

 一体何があったんですか、と毅梨が問うたが、金島はしばらく言葉を失っていた。

 そのとき、沈黙した室内で、テーブルに置かれていたノートソパソコンの画面が動いた。起動音と共に開かれた文章作成ソフトに、リアルタイムで報告のような文字が打ち込まれていく。内田を筆頭に、捜査員たちが気付いてパソコン画面に目を向けた。


『十六時四十二分、某日容疑が確定した榎林政徳被告、レッドドリームを所持、茉莉海市旧帆堀町会所での死亡を確認』
 
『一六時十二分、住民から茉莉海署への通報。現場に到着した巡査部長含む三人の警察官が負傷。逃走した容疑者はブルードリーム使用者の可能性が濃厚と判断。

 ブルードリーム使用者、白鴎学園大学部三学年所属、鴨津原健』


 打ち込まれていた文字が、一旦そこで途切れた。

             ※※※

 榎林政徳は、榎林グループ子会社の社長である。

 榎林財閥当主となった伯父の孜匡(あつ)とは七歳も離れておらず、支店取り締まりの座に不服を感じていた。伯父の元から会社を独立させ、新たに金融会社として東京に腰を降ろしたが、榎林一族の名が強かったため今でもグループの子会社と思われることが多かった。

 名を「丸咲金融会社」と改めた彼の会社は、「お客様の近くにいつも寄り添い続ける」と優しいキャッチコピーで宣伝された。

 暴力団を率いた経営は、闇金業者に近い荒々しさがあるが支店数も増えていた。榎林が堂々と会社を続けていられるのも、違法を権力と力で押さえつける組織がバックについていたからだ。

 政治家や弁護士などの高官職を始め、暴力団を抱えた財閥グループは共に「ブラッドクロス」という巨大財閥組織の傘下にあった。

 中国大陸からやってきたといわれているマフィア一族、夜蜘羅はブラッドクロスの頂点に立つ男を「彼」と呼べる位置にあり、貪欲な榎林は彼に近づいて自身の地位を固めた。

 そこは日本マフィアの中核を思わせる恐ろしい場所ではあったが、孜匡以上の権力を持ったと榎林に錯覚させた。榎林はブラッドクロスで進んでいる「強化兵」の一旦を担い、更に陶酔していったのだ。


 六月二十三日正午、榎林は上機嫌な表情を抑え込んでオフィスにいた。気の短さが顰め面に滲み出ていたが、引き上げられた頬の中肉には笑みが覗く。


佐々木原(ささきはら)、夜蜘羅さんが私に頼みごとをしてきた」
「先程伺いましたよ、榎林さん。準備は整ってます」

 答えたのは、丸咲金融会社を影から支える暴力団の頭、佐々木原洋一だった。引き締まった顔には薄い皺が刻まれているが五十代の面影はなく、修羅場を乗り越えてきた貫録が直立した長身から漂う。整髪剤でまとめられた頭髪の下には太い首があり、きっちりと着込んだ紺色のスーツは余分な生地が見られない。
 佐々木原組は、名高い家系の一つであった。政治家と暴力団を一族の中で両立し、二十年前議員を勤めていた佐々木原が、先代頭に変わって暴力団を引き継いだ。

 上辺は礼儀正しいが気性は荒く、議員在中の頃から裏で暴力事件を多々起こしていた男である。榎林のあとにブラッドクロスへ引き抜かれ、利害の一致から彼と行動を共にしていた。

「通信機器とレッドドリームも、準備出来ていますよ」
「あの人の期待を裏切ることなど出来んからな」

 実験が進んでいることを褒めた夜蜘羅は、『是非成果のほどを見せて欲しいんだ』と榎林に頼んできた。茉莉海市には明日こちらから、本店会社を任せている尾賀が出向かう予定で、それはブラッドクロスに頼まれていたヘロインを入荷する場所でもある。

 その前に自身が徒労するのを榎林は渋ったが、『一番信頼出来るのは君だからね』といった夜蜘羅の言葉に動かされた。夜蜘羅はブラッドクロスに、実験体の成果を秘密裏に試して来るよういわれたことを、榎林に打ち明けてきたのである。

『他のメンバーには内緒で頼めるかな。私としても「働き蜘蛛」くらい使えそうな手駒であれば、個人的に欲しいと思っていてね。尾野坂に知られると、また年寄りの説教をきかされそうだから、今は私とブロッドクロスの彼と、君の三人だけの秘密にしたいんだ』

 ブラッドクロスのトップである男と夜蜘羅、そして自分だけの秘密。

 その言葉に榎林は興奮した。そこに恐怖がなかったわけではない。ただ、味方であれば最強の盾であるのだ。なにしろ榎林は、夜蜘羅の「遊び」と「ブラッドクロス」が畏怖すべき存在だと知っていたからである。

 夜蜘羅は人間をおもちゃのようにしか見ておらず、自分の持ち駒で残酷なゲームをすることが多々あった。部下が使えそうにないと分かると、顔色一つ変えずに殺すという、ひどい残虐性を秘めた男である。気に入っていた愛人たちを集め、「働き蜘蛛」と自ら呼んでいる化け物に惨殺させる観賞会を行ったとき、榎林を含む面々は震えが止まらなかった。

 ブラッドクロスでは、「特殊筋(とくしゅすじ)」と呼ばれる家系が幹部の席を占めている。彼らは人を殺すことを躊躇する心がなく、そこには露見されることもない異形生物の存在もあった。

 こんな化け物がいるのかと、榎林は夜蜘羅の「持ち駒」を見て思ったものである。彼らの一族の中には、まるで化け物のごとく身体能力が高い人間が稀におり、彼らと同様に使える手駒を増やすための計画が「強化兵」だった。

 特殊な力を持った家系は、遺伝子が違っていることが分かり、それを意図的に起こせないかとブラッドクロスは考えた。身体変化によって起こる激しい苦痛は、麻薬や覚せい剤で取り除くことにした。そして、特殊筋の血液と異形の化け物から採取した遺伝子を合成し、青と赤の薬を作り上げたのだ。

 服用者は強い薬物中毒に陥って使い物にならなくなったが、夜蜘羅が探してきた、李という男が作り直したブルードリームは、完成が近いことを思わせる代物だった。ブラッドクロスとは別に、李が「完成させるために実験体が欲しい」と言いだし、薬を完成させることを約束に今回の取引が成立した。