二時間目の授業が始まった午前十時、常盤は保健室にいた。
脇に体温計を挟みこんだまま、俯き加減で黙りこんでいる。彼の担任である英語担当の女教師が出ていった後に続くように、体温を計ってるようにと告げた保険医の明美も一旦席を外し、その扉は開けられたままだ。
授業が始まってからは、廊下から響いていた騒々しさもなくなっていた。開けられたままの保健室の扉からは、職員室と事務室前に伸びる廊下が覗いている。
まだ体温計が鳴らないので、常盤は暇を潰すように廊下の方を眺めていた。尾崎校長が、相変わらず金持ちを主張するかのように高級ステッキを片手に持ち、のんびりとした足取りで歩いて行くのを見送る。いつ見ても面白みがない老人だと思う。
その少し後に、分厚い眼鏡を掛けた女性事務員が、職員室側に向けて通り過ぎていった。あまり見ないタイプの背恰好をしていたから、思わず意味もなく目で追ってしまう。
「……ださい女」
ぎくしゃく手足を伸ばして歩く女が扉の前からいなくなる。
そのとき、女性事務員と入れ違うように、新しい用紙が綴られた保健室利用者名を記載する帳簿を抱えて、保険医の明美が戻ってきた。
明美はこの二ヶ月でだいぶ痩せたが、ふくよかな胸と丸みを帯びた腰つきは変わらなかった。パーマが当てられたセミロングの髪は、はおった白衣に柔らかく栗色を散らせている。
体温計が小さな音を立てたので、常盤は無造作に手に取って明美へと渡した。彼女はわざとらしく他人行儀にそれを受け取り、「まぁ」と顔を顰める。
「熱があるわねぇ。常盤君、大丈夫?」
掠れる声と潜められた眉の下で、黒い瞳は常盤を真っ直ぐに見据えていた。彼はどうにか体調の悪さを訴えるように身を縮ませて「気分が悪いです」とだけ答えた。
明美はすぐに体温計の電源を切って元の場所にしまうと、帳簿に常盤の名を書いて時計を見上げた。同じように時刻を書きとめ「お薬があるけど」と彼女が続けたとき、扉の前を通り過ぎようとしていた男性教師が、足を止めて中を覗きこんできた。
庇った片足を力なく擦る独特の足音がしていたから、常盤はその人物が、既に誰であるかは気付いていた。癖の入った前髪で目元がよく見えない、猫背の数学教師の矢部が、口ごもるような声で「大丈夫か」と常盤に尋ねてくる。
他にも矢部は言葉を続けたが、相変わらず声量が小さくぼそぼそとしていた。常盤は、こんな奴がよく教師をやってるもんだと思ったが口にはせず、寒気を感じているように背中を丸めた。
「この子、ちょっと熱があるんですよ」
明美が、撫でるような声で言った。頬にかかった髪を耳にかけ、上目づかいで矢部を見やる。常盤はここに訪れる男性教師の大半が、明美目当てであることを知っていたので「こいつもか」と内心呟いた。
矢部はしばらく明美を見つめた後、常盤へと視線を戻した。数秒後にようやく「そうか」と力なく呟く。
そこへ、先程廊下を歩いていった分厚い眼鏡を掛けた女性事務員が、きごちない歩みでやってきて「矢部先生、珈琲はいかがですか」と抑揚のない声色で告げた。愛想が全くない声は、話し掛けている相手を馬鹿にしているようで、常盤は気に入らず口をへの字に曲げた。
事務女性は眼鏡の右ガラスを挟みこむようにして押し上げると、明美にも同じことを尋ねた。対する明美は「いいえ、大丈夫です」と、愛嬌のある声と仕草で答える。
矢部と女性事務員が去って行くのを確認し、明美がゆっくりと扉を締めた。
「で、そっちはどうなってるわけ?」
廊下の外に人の気配がなくなったこともあって、常盤は室内に二人きりになったところで、早々に話しを切り出した。
明美が事務椅子にどかっと腰を降ろし、厚化粧の顔に不服そうな表情を浮かべて鼻を鳴らした。机に置かれている鏡を引き寄せ、自分の顔を覗きこみながら「明日よ。それが変更されることはないわ」と言って、指で髪を梳いて整える。
常盤は横長の硬い椅子の背に両手を乗せると、足を組んで顎を引き上げた。
「取引が早まるんなら、初めからそう言ってくれないと」
「しょうがないでしょ。相手は海を渡ってくるんだから、日数がずれる事なんてざらにあるし、双方に都合がつく時間を取るのも大変なのよ。富川も言ってたけど、お金が早く手に入るんだからいいでしょ。あんただって、取引が始まるのを楽しみにしていたじゃない」
文句を言わないでよ、と明美が露骨に眉を顰める。
「俺は別に明日であろうが構わないけど、うちの藤村さんを困らせるのはどうかと思う。富川学長は場所を提供しているだけであって、実際に運搬手引きして頑張ってるのは、藤村さんたちじゃん」
「そういえば、あんたは藤村組に肩入れしてるんだっけ。文句があるなら富川に直接言ってよね、藤村と富川の間を取り持ってるのは、あんたでしょう? あたしは、金融の尾賀と、大学の富川のやりとりだけで手一杯なのよ。どっちも同じ性癖だし、いちいち鼻にくるような話し方とかで自慢話を延々と聞かされるんだから」
明美は大げさに目を回し、大胆に足を組み直した。
膝上のタイトスカートが引き上がり、常盤は自然とそちらへ視線を向けた。露わになった白い太腿へと目を滑らせた常盤に気付き、明美が桃色に塗られた唇をついっと引き上げた。
「何? あたしが欲しいの?」
「まさか」
常盤は嘲笑した。明美も、そんなこと最初から知っていたといわんばかりに「馬鹿じゃないの」と気の強そうな笑みを浮かべて見せる。
明美は、東京の大手金融会社で事務員をしていた。現在、そこは丸咲金融第一支店となっているが、元々は別名で活動していた闇金業者の一つであったらしい。
その支店を任されている男は、東京で古くから闇取引の根を降ろしている尾賀という男である。明美は彼と身体の関係はあったが、二人の間に愛はなかった。五月に新たな取引相手を探すことになった尾賀は、入港ルートのそばで学長を勤めていた富川に話を持ちかけたのだ。
どういう経緯で尾賀が富川を知ったのかは、明美も常盤も知らなかった。ただその際、交渉役になったのが明美だったのだ。場を上手く提供するだけで女と莫大な金、裏で大きなバックアップを得られる利点に、欲深い富川は食い付いた。
「じゃあ本当に、明日なるのか」
扉の前を一つの足音が通過した後、真顔に戻った常盤は声を落として尋ねた。明美は、机の上に張られているカレンダーを見ながら「そうなるわね」と呟き返す。
「……明日の、二十四日になるって尾賀は言ってたわ。予定より五日も早いけど、来週じゃ間にあわないからって、あの李(り)っていう中国人もだいぶ急かしているみたいだし」
でもその理由は教えてもらっていないのだと、明美は訝った。
常盤は明美へと視線を向けた。前髪の間から覗いた目を細め、整った女の横顔を見つめる。常に女を意識している明美は、どんなに性悪でも美人だと彼は思った。
「……なぁ、一体あの青いやつって何なんだ?」
「さぁ、私も聞かされていないわ。ただ、初めに配った人間がいつ頃服用したのか、って尾賀も李もすごく気にしていたけど、どうしてかしらね?」
あんた覚えてる、と明美は常盤を横目に見た。彼は顎に手を当てて記憶を辿る。
「……俺が初めて配ったのは……そう、里久先輩だったな。確か、五月の第一週に受け取って翌週の月曜日に配ったんだ」
「じゃあ、一月半は過ぎてるのね。その十日前後に富川とあんたが一気に配ったのは知ってるけど……そう、初めの一人がいたのね。あたし、第二週の後半くらいって答えちゃったわ」
「どうせそんなに変わらないだろ」
「そうね」
語尾短く二人は続け、不意に言葉を切った。
窓も締められた室内は、薬品の匂いばかりが鼻をついた。部屋の奥には、使用されていない五つのベッドが並んでいる。
「明日の取引は、決定事項ってことか」
おもむろに、もう一度常盤は尋ねた。明美は首にかかった髪先を払い、足を組みかえて可愛らしい顔を顰める。
「変なこと聞くのね、一番あんたが喜ぶと思ってたんだけど。なんだか、落ち込んでる子供みたいよ」
「別に、落ち込んでなんかいない」
廊下に複数の足音がして、常盤は口をつぐんだ。
彼は数日前、自分で悪党を発掘しようという素晴らしい考えに興奮していた。しかし、パートナーとなる人間を探し始めるまでには至らなかった。
擦れ違う学生たちやクラスメイトを見て、彼らの内の一人が自分の隣にいることを想像してみた。そうしたら、そのたびに理想とのギャップに打ちひしがれ、結局その考えを実行に移す意欲も削がれたのだ。
常盤は、今や悪に恋をしていた。初めは組を率いる藤村を尊敬していたが、そこに尾賀という東京の組織が現れて、そちらへ目が移った。しかし、彼らは常盤が思い描く「賢く残酷で悪党」とはいかなかった。
何より、彼の理想が右肩に上がり続けていたのだ。
常盤は貪欲にも、映画や小説や漫画で見るような、賢くて利口で、そのうえ悪魔のような冷酷さを持った相棒を求め始めるようになっていた。出会ったシマや藤村たちと同様に、自分を引っ張ってくれる、すでに出来あがった悪人へと希望はエスカレートしていたのだ。
「…………外には、仲間に引き込めそうな奴っているかな」
ふと呟いた常盤を、明美が怪訝そうに見やった。「仲間に引き込んでどうすんのよ」と問われ、常盤は返す言葉が見つからなくなる。
明美は首筋にかかった髪を払うと、「あたしはね」と乱暴に言葉を吐き出した。
「理香みたいな人材は欲しくないのよ。あんたはシマっていう男の事が気に入ってるみたいだけど、私はすぐに足がつきそうな馬鹿は嫌いよ。薬をやって外を堂々と歩いてるなんて、いつ警察にマークされないかって、はらはらしてるんだから」
「俺が探してるのは、悪行を心の底から楽しむ知能犯だ。冷静沈着で、極悪非道な奴なんだよ」
常盤は苛立ったように口を挟んだ。明美が事務椅子を軋ませ、「ふぅん」と言って髪先を指でいじる。
彼女は整った眉を引き上げると、机の上に頬杖をついて常盤を見た。
「そんな都合のいい奴、いるのかしら。いても本当に少ないと思うわよ? まず、そういう奴に限って絶対表に出て来ないんだから、スカウトなんて無理よ。先に別の組織についているか、犯罪歴があって逃げてるかのどっちかでしょ?」
「でも、そいつらだって初めはどこにも所属してないもんだろ? うちの藤村さんもシマさんも、前までは普通に町中で暮らしていて、組に所属するなんて思わなかった頃があったんだぞ」
常盤は、これは希望的観測論ではないと強く反論するように、明美を睨みつけた。
短い沈黙のあと、明美が降参したように口を開いた。
「確かに、外にはいるかもしれないわね。でも、こっちでは絶対に見つからないと思うわよ。尾賀が藤村に目をつけたのも、そういった人間が他にいなかったからだもの」
ここはね、綺麗過ぎるのよ、といって明美は顔を歪めた。
「自分の事を優先に考えないお人好しばっかり。そんなところに、あんたが探しているような人間がいると思う?」
明美はそこで話しを切ると、カレンダーへ顔を向けて「……事が動くわ。明日集めることになるけど、手筈は整ってる?」と神妙に尋ねて話題を戻した。失敗は絶対に許されない。学生という身で『手助けしているにすぎない』としても、そこには過度な責任が押し付けられていると彼女は知って、彼を見つめる。
しばし沈黙してしまった常盤は、けれどそこに対しては全く心配していないのだという顔で頷いて、外を警戒しながら低く呟いた。
「名前と人数は確認済みで、パーティーだって言って大学校舎の一部に集まる予定だ。あいつらが勝手に配った人間も、ちゃんと調べて把握してる。まだ知らない奴がいるかもしれないから、念のため声を掛けるつもり」
常盤は青い覚せい剤を配るとき、親しい素振りで相手の学生と距離感を縮め、頻繁にメールのやりとりをしていた。今のところ全員問題なく過ごしており、時々しか連絡のない大学生に関しては、連絡のほとんどが薬の催促のみだ。
大学生同士で配りあって連絡先を交換していない生徒も数人いるが、声を掛けた学生とは交流を持っているので、彼らに頼んできちんと明日の覚せい剤パーティーについては伝言させてある。そろそろ薬が切れる頃合いだったせいか、里久からは早朝という珍しい時間にすぐ「楽しみにしてる」と返事がきていた。
「昨日急に聞いたからさ、参加できない奴が出て来ないか俺は心配だよ」
「あんたなら上手く話を乗せられるでしょ。とにかく全員出席させるのよ。しくじったら、今後の取引に大きく関わるんだから」
常盤は「分かってるよ」と答えたが、湧きだした興奮や意欲はいつもの半分にも満たなかった。こんなときに相棒がいれば、とつい思ってしまったせいだ。
細腕を組んだ明美は、表情硬く考えに耽っていた。気付いた常盤が顔を上げて「どうしたんだよ」と尋ねても、整った顔を顰めて白い床を睨みつけ、動く様子がない。質問を理解しているようだが、「うん」と答える返答は短く曖昧だった。
「…………順調に進んでるし、あたしだって慎重に行動してる。でも、なんだか嫌な予感がするのよ」
「珍しいな」
思わず、常盤は疑問の声を発してしまう。
もともと、尾賀の元で麻薬を扱っていた明美は、元々の強い気性もあったが、それ以上に交渉役や連絡係としても経験が長いため度胸が据わっていた。いつも「尾賀のバックにも黒い物があるんだから、あいつに任せとけばいいのよ」と強気な態度だが、今日はいつになく自分で考えているようだった。
「尾賀は何も言わないけど、事件をもみ消したり報道を抑制しているのは、あいつのバックにいる奴だと思うのよ。でも、なんだか今回はいつもと違う気がして……」
明美は言葉を切ると、すくっと立ち上がって常盤に向き直った。白衣と栗色の髪がふわりと揺れ、愛嬌溢れる顔に真剣味を帯びて口を開く。
「ねぇ常盤、時間が取れるときでいいから、軽く町中を見てきてもらえないかしら」
「何を調べればいいわけ?」
「堅苦しいことじゃないのよ。ただ、あたしより、あんたの方がこの町のこと知っているじゃない? 変わったことや気付いたことがあったら、あたしにこっそり教えてほしいの」
常盤は探るように明美を見て、「取引に関係する頼み事か?」と訊いた。
明美は「そういうことじゃないけど」と視線をそらした。
「あたしの車で移動するときに、ちょっと長めのドライブに付き合ってくれたりとか、そういう時に教えてくれてもいいと思うの……だってあんた、きどってる子供の癖に、すごく頼り甲斐のある大人の顔したりするんだもの…………頼りたくなるのよ……」
そう口の中で続けられた気弱な、実に彼女らしくないもじもじとした台詞を聞いて、常盤は思わず「は?」と疑問の声を上げた。
途端に明美が、ハッとした様子でこちらを見て表情を取り繕った。頬にかかった髪を耳に掛け直し、思い出しかけた何かしらの弱みでも振り払うかのように、大げさに踏ん反り返る。
「あんた暇あるでしょ。一番出歩ける立場なんだから、大学で寝るくらいだったらちょっとは動きなさいよ」
明美の言葉は、八つ当たりともとれる幼い言動だった。こんな女だったか、と常盤は疑問に感じたが「分かったよ」とぶっきらぼうに答えて口をつぐんだ。
常盤は大人も子供も好きではなかったが、なぜか明美の頼みだけは断れなかった。こうして話していると、年が違うばかりの腐れ縁を感じて、ずいぶん長い間つるんでいた友人のように、明美のそば不思議なほど心地良いのだ。
自習時間となった四時間目の授業が始まって、二十分後。
校長室から出た雪弥は、先に図書室に入っていた暁也たちとようやく合流した。ほとんど生徒のいない室内で、二人は「遅い」「遅いよ」と同時に言ってきて、雪弥はぎこちない笑みで言い訳を並べた。
彼らが通常の読書や勉強をするはずがなく、なぜか修一から「走れサッカー少年」の一巻を押しつけられてしまった。暇潰しのようにページを読み進めていったが、内容は頭に入ってこなかった。
先程の話し合いの件が、チラチラと脳裏を掠めて離れない。
レッドドリームによって化け物かしてしまう反応を起こすためには、ブルードリームを一定に摂取する期間が必要である、とキッシュは語っていた。
ロシアの一件と同様の事件ならば、国を脅かすレベルとしての処置がとられる。学園で出回っているブルードリームの摂取者が、里久のようにレッドドリームも配られる可能性を考えると、――そして、彼と同じ悲惨な末路を辿る可能性が高いとするのなら尚更だ。
ヘロインを含むすべての違法薬物を押収し、事件に関わった関係者、容疑者全員がその対象である。最優先すべき事項は、危険な薬と組織の一掃だろう。
雪弥は、気乗りしないまま思案した。修一が読んでいた本について暁也に話しを振り、図書室で自習していた三年生たちが呆れたように視線を寄こしてくる。気付いた暁也が睨みつけると生徒たちは慌てて座り直したが、修一は「走れサッカー少年」ついて熱く語り続けることを止めなかった。
「なぁ、やっぱ主人公がすごいだろ? しかも、結構泣かすんだよ」
唐突に、修一がこちらを見てそう言った。
不意打ちで面食らった雪弥が「ああ、そうだね」と視線を泳がせたとき、暁也がすっと立ち上がって「そろそろ授業終わるぜ」とそっけなく告げた。雪弥はそれに便乗するように時計を見やって「本当だ」と、修一との話を打ち切った。
図書室を出ると、ちょうど授業終了を告げる重々しいチャイムが鳴った。「そばパン」と叫んで弾くように修一が走り出し、それに暁也が続く。
雪弥は、呆気に取られて、元気のある少年組を見送った。「お前の分のもゲットしてくるからよ~!」という二人の声が、廊下から階段へと流れていったのが聞こえて、思わず苦笑してしまう。
こうして見ると、やはり普通の高校生だ。自分とは全く違う。
猛スピードで二人が駆け抜けた二学年の教室から、数秒後に「後に続け!」「今日はあの先輩に負けるなッ」と男子生徒たちが飛び出していった。男性教師が「三年の修一と暁也か」と目頭を押さえ、それから廊下を走る少年たちに「廊下は早歩きまで!」と一喝した。
雪弥は、二学年で賑わう廊下の方へ足が進まず、図書室の前でしばらく立ち尽くしていた。ここは二人の言葉に甘えて、先に大回りして屋上にでも向かおうか、と呑気に考え直す。
そのとき、胸ポケットで携帯電話が震えた。
図書室の前に広がるスペースの取られたフロアへと入り、ベランダもない窓ガラスへと歩み寄りながら携帯電話を取り出したところで、雪弥は相手がナンバー1だと知って、わずかに眉根を寄せた。
並んだ大窓からは、高等部校舎正門と運動場が一望出来た。雪弥はガラスに映った自分の顔越しにその風景を見下ろしながら、「はい、もしもし」と声を潜めて電話に出た。
『複数の情報源から、取引の時間が次の時刻だと判明した。明日の二十三時、我々は双方の組織及び関係者を一人残らず一掃する。そちらはナンバー4を現場指揮官とし、当現場には県警とエージェントをつける。対象者の処分や人員配置、詳しいことについては追って連絡する』
雪弥は、心が静まっていくのを感じた。遠くで少年少女の賑やかな声を聞きながら、ガラス窓に額を押しつけて力なく唇を開く。しかし、言葉が出て来ずに一度口をつぐんだ。
しばらく間を置いてから、ようやくといった様子で囁き返した。
「了解、現場指揮として、当日の県警の介入を許可。現場待機を指示、こちらは追って連絡を待つ」
『了解した。指揮権についてはこちらに一時委託を確認』
ナンバー1は厳粛に返した後、言葉を切って声量を落とした。
『……私が現場指揮を取っても構わんぞ……』
「らしくない事を言いますね。僕は平気ですよ」
『そうか。…………詳しいことは、追って連絡する』
雪弥は電話を切り、予測していた処分事項をぼんやりと思った。ナンバー4としての任務が行われることを想像し、それきりぷっつりと思考を止切らせる。
賑やかな声が背中で溢れだし、雪弥はゆっくりと振り返って制服の少年少女を眺め見た。彼が考えている最悪の展開は、対象者すべての抹殺――ナンバー4に相応したそのような任務が、白鴎学園で行われることだった。
雪弥は大回りする道を選ばず、幼なさが残る二学年の生徒たちの間を抜けるように廊下を進んだ。数人の生徒が不思議そうに目で追ったあと、何事もなかったかのように弁当を広げ始める。
「何か嬉しいことでもあったのかしら」
教室から、見慣れない美麗な三学年の男子生徒を見ていた一人の女子生徒が、そう呟いた。転入生である彼の姿が教室の窓から見えなくなった頃、他の女子生徒たちも顔を見合わせる。
「そうじゃない? 嬉しそうに笑ってたし」
それより、と女子生徒たちは話題を変えた。
廊下を進んでいた雪弥の口元には、尾崎とはまた違う、穏やかで優しげな微笑が浮かんでいた。
六月二十三日木曜日、午後四時四十分。
高知県警本部刑事部捜査一課で、七人の捜査員たちによるチームが編成された。組織犯罪対策課の毅梨を筆頭に、薬物取締に多く携わっていた内田、捜査一課前線に立つ澤部、現場で活躍する阿利宮班長を含んだメンバー四人の捜査員が金島の元へ向かった。
金島が最前線に立っていた頃の主力メンバーが揃う光景に、何事かと捜査員たちが目で追う。捜査員の中で一番若い内田も、垂れた瞳を鋭く光らせていた。片手にノートパソコンを持ち、堂々とした足取りで本部長の執務室へと向かう姿は気迫がある。
捜査二課の者が、そんな内田を見て「本気モードの内田だ」と珍しそうに述べ、息を呑んで見送った。彼が仕事に対して真剣に向きあう姿は、金島が二年前担当した連続強盗事件以来である。
昼を過ぎた頃、毅梨たちは事前に金島の口から、茉莉海市で起こっている事件を聞かされていた。彼らには、藤村組を麻薬および向精神取締法で押さえ、後に詐欺事件でも再逮捕するという筋書きが与えられていた。本来ヘロインが白鴎学園にあり、情報操作によって他の犯罪組織と共になかったことになることは承知の上だった。
「我々は合図と共に、藤村組をおさえる」
執務室で、金島は再度集まった一同にそう告げた。
茉莉海市一帯は現在、国家特殊機動部隊の管轄内となっている。介入許可はすでに降りていが、ナンバー1の「待機命令」は解かれてはいない。金島は彼の指示通りチームを編成し、連絡を待っている状況だった。
毅梨たちは、それぞれ神妙な面持ちでソファに腰かけていた。一見すると同じ真剣面をした内田だが、腹を立てた顔であることを一同は知っていた。これまで特殊機関の人間によって、パソコンの中をハッキングされていたからである。
プライドとプライバシーの双方で、内田の怒りは収まらなかった。事件の話を聞かされたあと、もう知らされたからいいだろう、とばかりにデスク画面に堂々と、向こうから情報が送られ張り付けられていっていることに対しても、彼の苛立ちは止まらない。
「……なんかさっきから、俺のデスクトップが掲示板みたくなってんですけど?」
テーブルのノートソパソコンを見据えていた内田は、トップ画面のファイルを片づけたはずの場所に、また資料が添付されていることに気付いて忌々しげに言った。
隣にいた毅梨が「どれどれ」と覗きこむと、内田が操作してもいないパソコンの矢印ボタンが勝手に移動し、そのファイルを開き始める。
「うわ、内田さんのパソコンがハッキングされてるの、初めて見た」
内田より三年先輩の三十代捜査員、阿利宮が立ち上がって後ろからパソコン画面を確認した。一課で一番礼儀正しい捜査員の一人で、聞き込みを得意としている男である。内田と組まされるのは実に二年ぶりだが、頭脳派と行動派、双方のバランスが整ったコンビとして有名だった。