蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~

「あんなところに行っても、つまんねぇだけだぜ」

 言葉を失った修一に続き、暁也が淡々として口を挟んできた。彼は机に両足を乗せながら雑誌を眺め読んでいる。その言葉を聞いた生徒たちが忌々しげに暁也を振り返ったのは、勉強する素振りもない彼が、学年で二番の成績を持っていたからだ。

 雪弥は短く息をつくと、自分の腕を掴む修一の手をそっとほどいた。

「僕は、まだ図書室に行ったことがないんだよ」
「そうなのか? 転入して来たとき放課後残ってたからさ、そんとき行ったのかと思ってた」
「校内を散策していただけだよ」

 雪弥は答えて肩をすくめた。やんわりと崩した表情を浮かべていたものの、二人の少年から視線をそらすその瞳は、あの夜、ゲームセンターで見掛けた常盤という男子大学生を思い浮かべていた。

 実をいうとニ日前から、雪弥は今事件の共犯者である、三年一組の常盤と接触を図ろうとしていた。修一と暁也の目を盗んで彼の姿を探したが、常盤は常に歩き回っているようで、その姿を見掛けることもなかった。

 実際にブルードリームを配っている本人に会ったほうが、仕事が遥かに進むだろうと雪弥は考えていた。ナンバー1からの連絡が来る前に、さらなる情報を仕入れたかったのだが、今のところ目標は達成できていない。


 常盤は、高等部側で唯一動いている協力者である。先日「シマ」と呼ばれていた男との会話を思い返すと、薬の意図は知らずとも、取引についてはよく知っているはずだと推測される。

 そうすると、五月に起こった土地神の噂や怪談騒動も、取引現場となる学園から人払いするため、常盤と理香が動いたのではないかという憶測も浮かんだ。


 前もって準備を早急に進められて今に至るのだとしたら、やはり大学学長の富川は、常盤の後に協力者として傾いたという憶測も立ち始める。何故なら「シマ」は彼の名前を出した際、常盤よりも信頼していないような口振りだったからだ。

 保険医の明美が着任した頃と、事が起こり始めた時期について考え直すと、その線が強いような気もした。彼らを上手いように使っている別の大きな組織がいるとしたら、明美自身が寄越された仕掛け人の一人だ、と考えてもおかしくない。

 蓋を開けてみたら、どんどん厄介で複雑になっていく感じがするな。

「なぁ、お前が図書室行くっていうなら俺も付き合うぜ。『走れサッカー少年』の新刊出てるって聞いたし」

 考え事をしていた雪弥は、「え、ああ」と言いながら反射的に言葉を探した。

「えっと、図書室って混んでないかなぁと思ってさ……」
「混んではないと思う。三年はほとんど教室で自習してる奴が多いんだ。先週の自習もそんな感じだった」
 地理の沢田(さわだ)先生がまた風邪をこじらせて自習になってさ、と修一は頭をかいた。「若いんだけど一年中体調が悪くて、おっさんみたいな先生」と彼は評して暁也へと話を振った。

「なぁ、あんま人いないと思うし、暁也も行こうぜ」
「おう、行く」

 暁也は間髪入れずに答え、雑誌を閉じると机から足を降ろした。

 二人の少年はそうして、すでに校内の全てを把握している雪弥を図書室へと案内するべく立ち上がったのだった。

             ※※※

 図書室は高等部校舎の中央に位置しており、三階にある広々とした視聴覚室の真下にその部屋を構えていた。

 校舎は中央に一階から学食、図書室、視聴覚室と続くが、どれも全く同じ面積と間取りを持っている。進学校のため図書室には専門書なども数多く揃えられ、置いてある本のジャンルも児童文学から大人向けの単行本と幅広い。

「あのさ、一組の常盤って生徒知ってるかな」

 東側の階段を降り、二学年の教室前を図書室へと向けて進みながら、雪弥はさりげなく尋ねてみた。

 真っ先に反応したのは暁也だった。彼は嫌な物を見るように振り返り、「俺はあの秀才野郎が嫌いだ」と開口一番に吐き捨てた。口を開こうとした修一から常盤をフォローする言葉を読みとると、彼は一睨みで黙らせてこう続けた。

「かなり性質が悪いって感じがする。あいつには関わらない方がいい。しかも、優等生ぶって裏で相当女遊びしてるみたいだぜ? この前あいつ、パチンコ店の裏手にいたのバイクで見掛けたけど、女とキスしてた」
「嘘だろ? だってあいつ、学年一番の優等生じゃん」
「嘘じゃない。何考えてんのか分かんねぇし、いろいろとやばい事やってそうだぜ。学校では特につるんでる奴はいないみたいで、この前は一人で図書室にいるの見かけたけどな」

 思い出して語る暁也に、修一が顔を顰めた。

「お前が図書室に?」
「俺の意思じゃねぇよ。矢部から逃げてたんだ」

 暁也は舌打ちをして言葉を切った。

 雪弥は「そろそろナンバー1から連絡が来てもいい頃なんだけどなぁ」と内心呟きつつ、近づいてきた図書室へ視線を滑らせた。

 常盤少年のことは気に掛かったが、夜狐に頼んだ調査の返答もないことに疑問を募らせる。里久にレッドドリームを渡した人物の情報を調べ、雪弥とナンバー1に報告することが夜狐の新たな任務に加わっていたのだ。

 ほんと、どっちも一体何してんだか。

 雪弥が頭をかいたとき、三音の階層が違う音が校内に流れた。それは、校内放送を知らせる音で、暁也が図書室のドアに掛けていた手を止め、修一も「珍しいな」と呟いて足を止める。


『三年三組の本田雪弥君、今すぐ事務室へ来て下さい。繰り返します、三年三組の――』


 修一と暁也が、揃って雪弥を振り返った。

「…………呼ばれてるけど、なんかしたの?」
「…………事務室なら書類とかじゃねぇかとは思うが」

 お前、何か出し忘れてる物とかあるか、と暁也は尋ねた。すぐに校内放送の意図に気付いていた雪弥は、ぎこちなく視線をそらして答える。

「えぇっと、うちの親すごく忙しいから、編入願書に書き忘れがあったのかもしれないな、うん、そうだと思う」

 雪弥は、二人の少年に「先に図書室に入っていてね」と伝えて、その場をあとにした。
 正面玄関のそばにある事務室には、三人の女性がいた。窓口に中年の女性が座り、後部の事務机では若い二人の女性が囁くような声量で会話をしている。

「あの、本田雪弥ですが」

 雪弥が尋ねると、事務机にいた若い女性が席を立った。緑と白のストライプが入ったごわごわのシャツは、百五十センチもない小柄な体躯に比べてサイズが大き過ぎていた。下からはいているロングスカートはくびれもなく広がっており、飛び出た頭と手足は一見すると寸胴であった。

 セミロングの黒い髪を二つに結びまとめた彼女は、事務室から出て来ると、分厚い眼鏡を親指と人差し指で挟むように押し上げた。かなり視力が悪いのか、眼鏡の度数が合わないのかは分からなかったが、かなり下から雪弥を覗きこんでくる。

「ん~本田君ですか? わたくし、事務の岡野(おかの)メイです」
「えっと、そうです。本田です……」

 岡野と名乗った女性は、どこか間が抜けたようなゆっくりとした口調で話した。戸惑う雪弥を見て、事務にいた中年女性が「ちょっと岡野さん」とうんざりしたように声を掛ける。

「写真の通り、彼が本田雪弥君よ。あなたが見つけた編入願書の抜けてる項目、ちゃんと説明して書かせてちょうだいね。ご両親の欄はミスがないから、生年月日のついでに進路調査表もお願い」
「はい、はい、はい。分かってます、分かってます」

 ゆっくりと答える岡野は、これ以上女の言葉は聞きたくもないといった様子だったが、表情と抑揚に変化は見られなかった。手に持っていた茶袋の封筒を雪弥に見せ、「抜けているところがあるので」と続ける。

「うちの説明不足ですみませんでした。覚えてます? 電話でお話しを伺った岡野です」
「さぁ、どうだったかな。実際にお会いしたことはないですし、全然分かりませんでした」
「構いません。では、こちらへどうぞ」

 長いスカートから小さく覗いた岡野の寸胴な足が、力なく前進を始めた。

 伸び過ぎた彼女の背筋はやや後ろへと傾き、短い両手両足を大きく振る様子はぎくしゃくとして動く。岡野と、彼女の後ろをゆっくりと追う雪弥を、事務室から覗いた二人の女がしばらく心配そうに見送った。
 事務室の隣は職員室となっており、岡野はその向かいにある階段を進むと、二階へと上がり「校長室」と書かれた東側の扉を二回叩いた。返事もないまま茶色の質素な扉が開き、外観からは想像もつかないほど立派な校長室が姿を現す。


 黒いカーテンで窓が仕切られた室内は、弱々しい灯かりだけがつけられていた。中央に置かれた重量のあるテーブルと、向かい合った黒い革ソファの奥に、理事長兼校長の書斎机があった。

 岡野が無言で扉を締めると、その席に腰かけていた六十代前半の男性が、雪弥に微笑みかけた。少々薄くなった灰色の髪をしており、大きめのグレースーツを恰幅の良い身体に着こんでいて、その顔は写真で見た尾崎その人だった。

「はじめまして、ナンバー4。元、エージェントナンバー十三の尾崎と申します」

 心地よいテノールで尾崎が言った後、雪弥の後ろに控えていた岡野が、後方に手を伸ばして扉横に触れた。くぐもるように金属音が連続して起こり、雪弥は室内が完全に遮断されたことを理解した。

 つまりは、一見するとどんくさいようにも見える事務員の彼女もまた、尾崎の事情を知る関係者の一人であるらしい。雪弥はそう思いながら、初対面となる元エージェンの尾崎に挨拶をした。

「はじめまして、尾崎さん。ナンバー4の雪弥です」
「わざわざすみません、事は少々厄介な方へ転がっていましてね」

 語る尾崎の声は、童話を語り聞かせるような口調だが、微笑をたたえる瞳の奥には考えが読めない鋭さがあった。すっと歩き出した岡野へと大きな白い手を向け、「彼女は、元ナンバー六十二のメイです」と紹介した。

 岡野は、書斎机の横で踵を返すように雪弥を振り返ると、「突然呼び出して申し訳ありませんでした」と、先程までなかった滑らかで早い言葉を紡いだ。

 肩をすくめて応えた雪弥に、尾崎がふふっと笑みをこぼす。

「大丈夫、この部屋は室内で爆発が起ころうと外に音がもれません。四方に盗聴防止機器が設置されて、外界から完全に遮断されています」
「恐ろしい校長室ですね」

 雪弥は思わず本音をもらした。尾崎は「理事室としても使わせてもらっています。厚さ五十センチの超合金、窓も同じ厚みがある」と言って、穏やかに装われただけの瞳を雪弥に向けた。

「本部から音声通信を繋げてあります。設置機器の問題で、映像とまではいきませんが」
「いいえ、音声通信だけで結構ですよ」

 二人の会話が途切れた時、岡野が書斎机の上に置かれた小さな灰皿へと手を伸ばした。それがカチリとひねられて、金庫室の鍵が回って行くような音が三回上がり、不意に途切れる。

 そのとき、一つの音声信号が入った。

『雪弥、聞こえるか。こちらナンバー1、総本部オフィスからだ』
「聞こえてますよ。こちらは今、尾崎さんのオフィスです」
『急きょですまないが、事態が変わった。今回調査に当たった研究班の班長、キッシュと通信が繋がっている』
 室内に響き渡る低い声が『おい、説明しろ』と続けられたあと、室内の四方に埋め込まれたスピーカーから若い声が『はい』と答えた。

『え~こちら地下十階、レベルB1研究室、班長のキッシュです。はじめまして、ナンバー4。続けて報告に入ります』

 キッシュと名乗った男は、かすれた声色で『え~』と話しを切り出した。

『これまで東京で出た、異常障害の検挙者からご報告させていただきます。彼らから押収した青い薬物は、ブルードリームと呼ばれる覚せい剤でした。形状は最近出回っている完成度の高いMDMAと比べると、一回り大きいくらいですね』

 ただし、とキッシュは強く言葉を区切った。

『これまでの覚せい剤に分類できない薬物となっています。厄介なのは、摂取することによって、こいつが遺伝子に傷をつけることです。今回東京で起こっている薬物事件で、異例な中毒者を出している代物が、ブルードリームとレッドドリームであることが分かっていますが、これらは我々が知る通常の覚せい剤とは呼べない代物であったわけです』

 尾崎は机に両肘を乗せ、手を組み合わせて顎を置いてそれを聞いていた。キッシュの言葉が途切れたタイミングで、立ったままの雪弥に「どうぞ腰かけて。あ、茶菓子があるけれど食べますか」と打ち解けた様子で尋ねる。

 雪弥が「いただきます」と真面目に肯いてソファに腰かけると、岡野がやってきて、テーブルに茶菓子の入った皿を置いた。

『おいおい、お前ら……』
『いえ大丈夫です、ナンバー1。報告を続けます』

 そう言う声には若干の引き攣りがあったが、緊張感の全くないマイペースなエージェントであるナンバー4と元ナンバー十三に対して、キッシュが気を取り直すように冷静な口調で続けた。

『覚せい剤や麻薬は体内組織を溶かしますが、ブルードリームはそれと同時に遺伝子情報に直接作用することが判明しました。その依存性によって定期的に摂取すると、その結果、身体組織にある遺伝子が非常に不安定になるのです』

 その時、室内に茶菓子の袋を開ける音が上がった。
 
 雪弥が「あ、これ美味い」と言い、尾崎が「私のお気に入りなんだ」と場違いなのんびりとした会話が交わされて、キッシュが小さく咳払いをした。

『今回運ばれてきた里久という人間の遺伝子を調べて、ブルードリームとレッドドリームがセットで造られているという推測がぐんと高まりました。レッドドリームは、これまで見た合成麻薬とは見事に違っています。運ばれてきた対象者の身体にまだ成分が残っていたので、現物と併せて解析してみましたが、材料としてヘロインが配合されている他は全く未知の薬です。まだいろいろと不明な点が多い薬ですが、厄介なことに、傷ついた遺伝子を無理やり捻じ曲げる働きがあるようです』

 つまりレッドドリームが本来の薬物としての目的では作られていない物である、というのが判明した証拠だとキッシュは言う。
『どういった成分が使用されているのか分かりませんが、レッドドリームは、ブルードリームによってある程度まで遺伝子に隙間が開いたところで、食いついて力づくで情報を変えてしまうという働きがあるようです。条件を満たした人体の中に入ると、一気に増殖し、まるで生きているように食いつくんですよ。一体どういう原料から取られた成分で出来ているのか、全くもって不明です』

 雪弥は耳を傾けながら、口に入れた茶菓子をもごもごとさせた。『聞いてるか』とナンバー1が問いただしたので、「聞いてますよ」と答える。

 ナンバー1と雪弥の会話が終わったと確認するまで、キッシュは数秒の沈黙を要した。

『……え~、レッドドリームに食われた者は、急激に変化した組織や遺伝子ががっちり凝り固まってしまいますので、二度と元の姿には戻りません。ブルードリームのみの使用だと、肉体が死ぬと元の細胞に落ちつくのは確認されています』

 まるで、どこかの映画かアニメみたいな話ですが、と彼は前置きする。

『四月以降に出回っているこの二種は、遺伝子レベルで作用するため、今のところその急激な変化に身体が耐えられないという欠点があり、細胞が自滅を始める特徴があります。火曜日の夜に運ばれてきた青年は、今日の昼まではどうにか生きていたんですがね……彼は今までの検挙者の中でもっとも異常でした。調べていくとこれがまた厄介でして…………』

 キッシュが苦々しく言葉を濁した。つまり怪物と化したまま、精神状態が戻ることもなく先程、里久の死亡が確認されたのだろう。

 岡野が準備した紅茶で喉を潤した雪弥は、そこで眉根を寄せて顔を上げた。

「一つ訊いていいかな。服薬の順番的には、絶対青いほうを先に飲むようにいわれるってことだよね?」
『まぁ、そうなりますね』
「じゃあ、例えば赤いほうを先に摂取したらどうなるの」
『強烈な快感のあとに苦痛が来ます。んで、各細胞が破裂して、ぽーん、です』

 キッシュは簡単ながら、あっさりと実に分かりやすい言い回しでそう答えた。情報を整理させるようにスピーカーの向こうが沈黙したので、二人はそれぞれの自然な表情を浮かべて見つめ合った。

 尾崎が柔らかな声で、「東京だけでなく、今はここもそうだということでしょう」と言った。今にも拳銃を撃ち抜きそうな雰囲気を感じ取ったが、雪弥は平気な顔で茶菓子を口に放り込んだ。

『……尾崎教官、頼みますからスピーカーをぶっ壊さないでくださいね』

 音声だけで察したらしいキッシュが、『うちも早急に動いているところなんですから』と念を押してくる。

 ナンバーの位が高いエージェントは、将来特殊機関に配属される子供を教育する現場教官を務めることも多い。基本的に希望制であるが、教育熱心だった尾崎はまるで教師のように教官職に力を入れ、軍用ヘリで仕事現場と本部を行き来していたという伝説の教官でもあった。

 現在技術、研究、情報、と各部署に別れて配属している人間の中にも、その教育機関出身の者は多くおり、キッシュもそのうちの一人だ。
 尾崎は孫を見つめるように皺をゆるめただけで、何も答えなかった。雪弥は二人の関係を察して、なるほど、という顔で茶菓子を食べ進める。

 長い沈黙を置いて、キッシュが緊張気味に話しを切り出した。

『とはいえ、どうも荒が目立つんですよ。出回っているブルードリームは、摂取し続けないと傷ついた細胞が『隙間を開けた』現状を維持しないようなんです。それでいて、摂取し続けると組織が壊れて死んでしまうという……。今のところ、東京で薬物取締法によって検挙された中の三十二人が、ブルードリームのみの使用者と判明しましたが、その半分が息を引き取っています』

 ただ、全く安心出来ない事が今回で判明している、と彼は言う。

『二日前にナンバー4が確保したブルードリームは、若干成分が違っていたんです。遺伝子を傷つけるのではなく、『遺伝子そのものに変化を与えて隙間を作る』特性を持っています。それ以上の事はまだ分かっていませんが、なんというか、遺伝子が反応を起こし易くなる……そうですね、ふにゃっとした柔らかい感じになると言いますか』

 キッシュは口ごもった。『細胞の一つ一つが常に変化するなんて有り得ないことなので、俺自身うまく説明できないんですが』と、彼は戸惑うように続ける。

『簡単に違いを申しますと、前者のブルードリームは遺伝子を壊す作用のみで、摂取しなくなる事で細胞が元に戻ろうという通常の回復反応が見られます。しかし、学園側で確認されたブルードリームに関しては、一度摂取してしまうと遺伝子がゆるっゆるになって、現状そのまま回復しないのです』

 学園側で出回っている方が、少しだけ改良に成功した最新版のような気もする、と彼は自身の意見を口にした。

『回収したブルードリームでモルモット実験を試みましたが、五感による刺激のどれにも、遺伝子が不安定に揺れてしまうような反応を見せます。薬の効果が抜けた後もそれは変わらず続きます。この時点では、まぁ特に懸念するようなダメージでもないんですけどね。この反応については、人間が恐怖を覚えた時に震えるのと同じ程度の現象反応だ、と思って頂ければと思います』

 つまり両者のブルードリームは、それのみの摂取であれば、どちらも社会復帰が可能である事に変わりはないらしい。

 ただ後者が、本人も周りも気付かないほど小さな、遺伝子レベルで精密に検査をしないと分からないような、刺激反応を起こしているという状態だけが続く。これは現時点での推測だと、恐らく長い時間をかけても回復の兆しがない可能性があるという。
『問題なのは、そこにレッドドリームを加えた後ですね。まずは体の組織構造が、ありえないくらいのスピードで劇的に変わります。しかも遺伝子が受けた反応がそのまま身体に出て、しばらくはその変化が続くんですよ。二十体のモルモットが、それぞれ違った身体変化をする光景は、まるで悪夢のようでしたね』

 個体の体積が大きければ、身体の変化反応は短時間でなくなるという。

 二日前の夜、二メートルの化け物となった里久の手が、鞭のように伸びた反応がまさにそれだったらしい。

『どちらにせよ、最新版のブルードリームを含め共通していることは、理性が飛んで動物本能の一部が剥き出しになることですね。過剰自己防衛のように、近くにいる生き物を殺してしまうんですよ。で、そのあと変化し続ける細胞組織に耐えきれず、当人たちは死んでしまうというわけです』

 キッシュは説明し、呼吸を整えるように言葉を切った。

『私が今回実験し調査を行ったのはモルモットでしたが、これが人間だったらと考えると恐ろしいです。ナンバー4が撮った映像も確認しましたが、身体に変化を起こした里久という人間は、どこかへ行こうとしていたんですよね?』

 雪弥は思い出して、「人のいる大通りへ」とだけ言って口を閉じた。尾崎がわずかに目を細める間に、キッシュが『そう、人のいる大通りです』と繰り返した。

『自分のテリトリーを持つ動物を考えてもらったほうが簡単だと思います。そこにもし数匹の動物がいたとしたら、必ず共食いが起こる……ブルードリームとレッドドリームは、強い攻撃性と共に殺意を持たせる仕組みを持った全く未知の薬なのです。どういった仕組みでそう働きかけられるのか、といった多くの事が不明なままですが、全く未知の凶暴な生き物が出来あがるのは確かです。しかも、後者の新しいブルードリームの方が、殺人衝動が遥かに強く出ています。もし、新しいブルードリームが白鴎学園内にとどまっているのなら、そこで歯止めをかけるべきだと我々研究班は考えています』

『薬の解明よりも、それを消しさることが最優先になる』

 ナンバー1が口を挟み、キッシュが『その通りです』と言葉を締めくくった。

 今年の始めから東京で増えている違法薬物検挙者は、覚せい剤が含まれる薬に見たこともない成分が配合されている、と検査を行って初めて確認されたところでようやく、ブルードリームを摂取していたというのが判明しているような現状である。

 そのため、特殊機関技術室ではその成分が反応する薬剤を探し、簡単に見分けられる製品機器開発に追われていた。研究室では、覚せい剤を薄める砂糖類やカフィン以外の成分検出が進められている。

『化け物のような人間を作り上げることが目的なのかは分からん。ロシアの一件があるからな、早急に対処しなければならないだろう』

 ナンバー1は、その声色に警戒を滲ませた。

 四年前、ロシア北東部の村人が惨殺される事件が相次いだ。調べに入った者がすべて戻らず、ロシアの隠密暗殺部隊が軍隊と共に投入された。その雪に覆われた山岳から現れたのは、全身厚い体毛に覆われた生き物だった。

 無線では「狼男だ」と表現されたが、人体実験で八十人の浮浪者を殺したとして国際手配になっていた科学者のロディフスが、新たに構えた研究室で手を加えた人間たちであった。狼を兵器として造り直す、シベリアで起こった反政府組織によるウルフマン計画が移行したものである。
 狼男とされた殺人鬼は十六体あり、彼らの強靭な骨格は銃弾をも受け止めた。戦闘において知能が非常に高く、ロディフスの暗殺に成功してもなお、雪山での死闘が続いた。多くの優秀な軍人と軍事戦力が大打撃を受け、応援要請を受けた中国と日本の特殊機関も動いたのだ。

 日本からは、ちょうど仕事で近くにいた雪弥が選ばれた。彼が投入されたあと事件はようやく収まり、それ以来、各国ともにバオテクノロジーを駆使した犯罪組織の動きには敏感になっていた。


 しばらく、雪弥は尾崎を見つめていた。尾崎は微笑んだまま首を傾け、「実際、当時現場にいたあなたになら分かる出しょう」と口にする。


 雪弥は「そうですね」と思い出すように答えると、澄んだ声を強めてスピーカー越しに問い掛けた。

「薬の発生元は特定されたんですか?」
『レットドリームと呼ばれている物に関してはほとんど出回っていないが、お前についている第四暗殺部隊の者が、その学生に薬を渡した人間を特定し、そいつが乗っていた車がうちでマークしている組織の物であると特定した』

 だが、と彼は言葉を強める。

『表向き金融会社であるあの連中が、例の青い覚せい剤を学園に運んでいる痕跡は見付かっていない。恐らくだが、それに関しては、ヘロインを持って来る業者が直接渡している可能性がある。とすると、発生元は二つと考えた方がいい。確実に叩くためにも、同時に潰さないと厄介なことになるだろう』
「製造方法が流用している、ということですかね?」
『本当は製造元を特定したいところだが、何も分かっとらん。業者側がもともと調合もしていたのか、うちでマークしている人間のうちにそういった奴がいるのか……。調査は進めさせるが、こっちを野放しにしておくには危険がすぎる』

 もっと大きな組織が絡んでいる可能性は見えている。そこから繋がりを探せるのであれば、もしかしたら後ろで糸を引いているかもしれない、こちらの機関でさえ足跡を掴めていないグループや真相に辿り着ける可能性はあった。

 とはいえ、今すぐに、というのは希望的観測論だ。

 ここまで巧妙に足もつかない組織への対応を待って、既に浮き彫りになって活発的に動いている今回の事件の解決を先延ばしにするという選択はない。


『事件は早急に明るみに出てきたわけですが、俺としては、なんだか上手く動かされているような気がしてなりませんよ』


 キッシュが危惧するように言ったとき、黙っていた尾崎が、白い髭を乗せた唇を開いた。

「キッシュ君、今はこの状況をどう処理するのか考えるべきです。それによる一般被害者が出る前に、こちらで片づけなければならない。根元を断とうが湧きだして来る害虫は多い。それを潰すのが我々の役目です」