蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~

 自分があのとき、なんと答えたのかを雪弥は思い返した。


[じゃあ粉々にして袋に詰めてしまえばいいじゃないか。どうせ傷は塞がる。どこまで削ぎ落せば生命が停止するのか、見物だろう?]


 そう言って、四肢を切断されてもがき苦しむ巨体を見降ろして微笑んだのだ。彼はあのとき、今は同じ人間には見えない里久であって良かったと、心の片隅に残った思考でそうも感じていた。

 まるで自分ではない何者かが、時々凶暴な顔を覗かせて、全てをひどく憎悪している気がする。まるで、この恨みを忘れるものかというほどの強い憎しみで、家族以外の光や生命を嫌って、それを壊すために生きているのだと――そんな妙な想像が働く。

 多分、そんな事は、きっと気のせいなのだろうけれど。

 コンビニの前の道路を、大型トラックが通り過ぎたとき、雪弥は星すら見えない空を見上げた。

 雲に覆われた空は黒く沈むように広がり、湿った空気は居心地悪いほど澄んでいる。彼は多くの血を浴びた感触を不意に思い出したが、嫌悪感の一つすら湧き上がって来ないでいた。他のエージェントたちが、現場を見て嘔吐する嫌悪感というのが、いまだ理解できないでいるのだ。

 やはり僕には、影の世界に生きる方が相応しい。

 心の中で呟いた雪弥は、「無駄に頭動かしたせいで腹が減った」と言い出した声を聞いた。二人の少年たちが、立ち上がってこちらを振り返り「ちょっとコンビニで肉まん買ってくる」と声を揃える。

「お前のも買ってこようか?」

 修一が尋ね、雪弥はゆっくりと首を横に振った。二人の少年は「雪弥はやっぱりサンドイッチ派だと思う」と会話をしながらコンビニへと入っていく。

 光りの世界が似合う無垢で純粋な子供たちが眩しく思えて、雪弥は思わず目を細めた。壊してはいけないものをそっと見守っていたが、風が止んだ瞬間その瞳から力が抜け落ちた。


 静まり返った雪弥の脳に、無意識に浮かび上がったのは、コンビニにいる少年組と店員、三人の男性客を皆殺しにしたらどうなるだろうといったことだった。

 外からでも良く映える店内が、真っ赤な潜血に染まってさぞ美しいことだろう。
 常盤(ときわ)聡史(さとし)は、裕福な家庭に生まれた三人兄弟の末っ子だった。幼くして通信教育や家庭教師、有名な塾やピアノ教室に通う優秀な末っ子として両親に可愛がられて育った。

 十歳近く離れた兄たちは弁護士と税理士、父は病院の院長で、母は大企業である富豪の父を持つ娘というエリート一家だ。十年前県の要請を受けて病院が移転し、常盤は両親と共に茉莉海市にやってきた。

 自分の意思もない縛られた生活に、常盤は常々不快感を抱いていた。

 もともと勉強やピアノにも興味はなかった。同じ年頃の子供たちが遊ぶのを羨ましく思った気持ちは、成長するにしたがって次第に冷めていき、何に対しても関心を示さなくなった。

 どうして生きているのだろうと、小学校高学年から、常盤は疑問を覚え始めた。楽しみも苦しみも与えられない満たされた生活は、彼の感覚を麻痺させていた。


 そんな彼が自身の人間性を取り戻したのは、中学生を卒業する頃だった。


 講演などで出張が増えた父の留守の日、突然塾の講義がなくなった常盤は、そのまま帰路についた。

 家の前に見慣れない高級車が停まっているのを見たとき、ひどい胸騒ぎを覚えた。そっと鍵を開けて家に入ると、玄関には男性用革靴が並べて置かれていた。いつもなら食事を作る音が聞こえるはずの家は、怖いほど静まり返っている。

 まるで泥棒にでもなった気分で、常盤は鞄を胸に抱えて家へと上がった。

 電気は一つもついておらず、カーテンもすべて閉め切られていたので、夕刻の室内は恐怖を感じるほど暗かった。鼓動が身体中を波打ち、彼は心臓が震えているではと錯覚する胸中の痛みを感じた。

 常盤は浅い呼吸を繰り返しながら、二階へと続く階段を慎重に上がっていった。途中、正面にある両親の寝室の扉下から、暗がりでは眩しく感じる光りを見て足を止めた。

 母さん、どうして寝室に?

 心臓が大きく高鳴り、耳元で煩いぐらい不規則な音が続いた。

 常盤は内臓が軋む思いで階段の最上段まで登ったが、寝室から聞こえてきた小さな二つの声に身体を強張らせた。寝室にいる母が何をしているか悟った彼は、一瞬呼吸すら忘れて聴覚を研ぎ澄ませた。そして二秒半の時間を要して、相手をする若い男の声が、父の病院に勤める医者であることに気付いたのだ。

 胃の底から強烈な嫌悪感が込み上げ、常盤は急く思いで家を飛び出した。死んでいたと思っていた彼の心は、一気に命を取り戻したように激しく震えていた。
 汚らわしい、汚らわしいッ、汚らわしい!

 そう何度も心の中で罵りながら、公園のトイレに駆けこんで常盤は激しく嘔吐した。全身の毛穴が総毛立つほどの嫌悪感に、呼吸もままならなかった。暴れ狂う感情は収拾がつかず、髪をかきむしってあたりかまわず乱暴に殴り付けた。

 あんな女の腹から、俺は生まれたのか。

 常盤の父は、大柄でいかつい顔立ちをしていた。歳が離れた兄弟は凛々しい目元だけが母親譲りで、顔立ちは父の生き写しだった。


 歳が離れすぎた末っ子だけが誰にも似ていない。両親兄弟共に癖毛がありながら常盤にはそれがなく、細く小さな顔立ちは彼らと全く違っていた。父と兄たちよりも細い骨格、焼けてもすぐに戻る白い肌は、母のものですらなかった。


 考え出すと想像は一気に膨れ上がった。「俺が本当は父の子でないことを知っているのではないか」と勘ぐり、家族に強い嫌悪感を抱いた。

 父や兄たちにこれまでの尊敬も持てなくなった常盤は、その元凶である母を憎んだ。英才教育を強いている母が、愛人となっている男の子供として自分を育てていることを考え、何もかもが許せなくなった。

 ぶち壊してやる。お前の望み通りになってたまるか。

 常盤は母が敷いたレールを歩いている振りをして、そこから大きくはずれてやろうと企んだ。強い復讐心に駆られたた彼は、塾が早く終わる日を利用して、これまで行ったこともなかったゲームセンターで時間を潰すようになった。

 金なら自分の通帳にいくらでも入って来るのだ。常盤はゲーム機に怒りをぶちまけたが、その心が満たされない虚しさを感じていた。


 そんな矢先、一人の男が常盤に声を掛けた。明らかに柄の悪そうな男だった。

 敷かれたレールをぶち壊してくれるならと会うようになったが、そこで常盤は初めて、自分が悪に恋焦がれていることに気付いた。男に教えられた煙草と酒は、怒りしかなかった彼の心に人間性を刻みこんだ。


 常盤が出会った男は「シマ」と名乗った。小さな組織である「藤村組(ふじむらくみ)」の人間であり、仕事で茉莉海市を訪れているとのことだった。

 集団詐欺事件で出回っているとシマは語り、常盤は彼が別の名義人で借りている小さなアパートで話しを聞きながら、臆することもなく意見や助言を述べた。シマは犯罪に興味を持っている賢い常盤をひどく気に入り、茉莉海市を頻繁に訪れて交流を取るようになった。
 酒と煙草から始まり、ビリヤードやパチンコ、麻雀や女などシマは常盤に様々なことを教えた。仕事回りが良いときは大麻を持ち、二人でそれを吸って楽しんだ。

 シマは時々後輩を伴って現れ、「賢い小悪党だぞ」と常盤を自慢して小さくなった歯を見せて笑った。常盤の考えで「藤村組」の仕事が円滑に進むようになっていたこともあり、シマの仲間たちも常盤を気に入っていたのだ。

 大きな転機が訪れたのは、常盤が高校二年生になった冬だった。「藤村組」の拠点を茉莉海市に移すことが決まったのである。そこで彼らは、八人で活動していたメンバーに常盤を迎えると歓迎した。

 リーダーの藤村(ふじむら)は「大きな後ろ盾が欲しい」と考えていた。そして、常盤が高校三年生の四月、大きな話が舞い込んできたのだ。


『茉莉海市は絶好の立地です。お互い良いビジネスをしましょう』


 突然掛かってきた電話は、東京からだった。大量のヘロインを入荷する卸し業者が欲しいと男は続けた。

 ヘロインという言葉に、藤村は顔を強張らせたが、儲けの取り分と巨大な後ろ盾をすると約束した男に目の色を変えた。東洋の純粋ヘロインを受け取り横に流すことが仕事内容だったが、資金もない藤村たちに、相手の男は魅力的な条件を出して来たのである。

『初めの入荷分に関しては、すでに我々が代金を払っています。仕事を組んでくれたことへの、ほんの祝い金にすぎません。あなたたちはそれをタダで入荷し、相場価格で私たちに売ってくれれば良いのです』

 ただし、と男は続けた。

『中国からやってくる業者は、若い人間を四十人近く所望しております。こちらで情報操作、証拠隠滅しますので、あなたたちは集めてくれるだけでいい。入荷したヘロインに関しては好きな分を使用してくださって構いませんが、業者に売り渡す学生に関しては、特別製の薬を用意しておりますので、これを業者から受け取って服用させるようにしてください』

 東京から声を掛けてきた組織の力は、凄まじいものだった。どこに大量のヘロインを保管するのかも聞かされないまま、連絡を待って十日が経った五月の始めに『すべてが決まった』との電話が入った。その内容は驚くべきものだったが、日本でも例を見ない悪事に常盤は喜んだ。

 巨大な組織は、ヘロインの保管場所に白鴎学園を選んでいた。先に潜入させた明美という女が、富川を協力させるまでに持って行ったと常盤たちは知らされた。

 明美が新しく来た高等部の保険医であり、学長である富川の名も知っていた常盤は驚いたが、そこで与えられた大きな役目に歓喜を覚えて打ち震えた。明美が東京と学園の連絡係としての役目を担う中、彼は学園と藤村組の連絡係として任命されたのである。
 現在五十歳の富川は、若い頃横領や暴行の中心にいた男で、良い人材だが賢さに欠けるということを双方の組織は懸念していた。そこで、学生の常盤が一番身近にいられるとして判断されたのだ。

 素晴らしい計画だと感じていた常盤は、舌なめずりするような富川に対する嫌悪感を抑えて連絡役を買って出た。

 母よりも残酷で悪魔のようなことをしていると思えると、胸をかきむしるような憎しみも、常盤の中では優越感に変わった。それがとても気持ち良く、何もかもぐちゃぐちゃになってしまえばいいという衝動さえ彼は感じていた。計画さえ上手くいくのであれば、学園も家族もどうなっても構わなかった。


 五月の始めの週から、六月下旬の取引に向けてヘロインが運ばれた。

 大量の品を数回に分けて大学の地下倉庫へ運び込むのは、藤村の部下と、白衣を着た長身の男たちだった。大きく背中が盛り上がった細身の身体は気味が悪く、長く伸びた両手足で黙々と作業を進める様子は、別の生き物のようだった。


 ヘロインと一緒に運び込まれたのは、青い色がつけられた合成覚せい剤であった。常に「検体」という名を口にする密輸業者の老人が、サービスとして常盤たち用に、ヘロインを口内摂取用に加工した薬を渡した。

 通常ニードル摂取のヘロインを、手軽に出来る便利性に文句はなかった。覚せい剤とは全く逆の抑制効果があると聞かされていたが、加工されたヘロインは、大麻よりも常盤の気分を良くした。

 青く着色された覚せい剤は、これから集める四十人近くの学生用だった。それを配ることは容易ではなかったが、しだいに興味を示す大学生が出始めた。「こいつはいけそうだ」と判断した学生に声を掛け、試験前に飲ませて効果のほどを実感させると必ず学生は「欲しいんだけど」と催促した。

 合コンにはまっていた大学生たちに場を提供し、飲み物に覚せい剤を混ぜて提供した常盤の作戦が一番人数を獲得していた。「全然副作用もないんです」と彼は大学生に持ちかけ、自分が実力で取ってきた成績を薬の効果であると説き、薬に溺れる快楽を身によって教え込んでいった。

 少しすると、大学生たちが自ら覚せい剤を広め始めた。常盤は上手くいったことに満足したが、同時に、高等部の少年たちよりも頭の悪い大学生に落胆した。何故なら白鴎学園の高校生は、薬物に対しては警戒を持っており、話し掛けられる隙がほとんどなかったのである。

 なんにせよ母のような大人も、義務教育を受けて大学に通う人間も、皆馬鹿ばかりだと常盤は冷たく笑った。覚せい剤に手を染めた大学生だけではなく、藤村組のシマも、富川も、薬物の快楽に溺れて深みにはまり出したのである。


 常盤は、「自分は彼らとは違う」と自負していた。自分の賢さを常に買っていたのである。彼は酒も煙草も薬も、どの量まで摂取すれば問題がないのか、理解しているつもりだった。


 けれど五月の第二週になって、常盤の心はまた沈んでいた。ふと自分と同じ賢い仲間が欲しくなり、高等部の生徒に加工されたヘロインを配ろうと考えた。
 理香に目をつけたのは、同級生を見つめる彼女の目に「皆馬鹿じゃないの」と悟ったような気配を感じ取ったからだ。彼女は常盤の期待を見事に裏切ってくれたが、ヘロイン入荷を円滑に進めるため、常盤が考え出した作戦を上手くこなして人払いを成功させた。

 誰も夜間の学園に近づけさせないよう、常盤は五月始めから土地神の呪いの噂とチェーンメールを流していた。しかし、その程度では受け手の恐怖感を強く煽れない。

 それならばと考えた彼は、すっかりシマの愛人となっていた理香を使った。彼女が数人の生徒を連れて肝試しに行った夜、常盤は白い布の下にライトを準備して高等部校舎に待機していた。理香が恐怖する演技をしたとき、幽霊に見えるようにそれを動かしたのだ。

 理香のつんざくような悲鳴を合図に、恐怖に駆られた生徒たちが「呪いだ」「祟りだ」といって逃げ出した。元々土地の神様の噂が多々あったこの地域では、似たような話が語り継がれているのだ。「まさかな」と思った生徒さえ、幼い頃から教え込まれた土地神説にすっかり委縮した。

「うまく人払いをしたみたいだな」

 シマは「さすが俺の自慢する小悪党だぜ」と常盤を褒めたが、そんなのは子供騙しの悪戯みたいなものである。常盤はずっと、満たされないままだった。

 骨のない少年たちが集まった白鴎学園で、常盤は独りぼっちの気分から抜け出せないでいた。藤村組の中にいても、その思いは消えなかった。

 
 悪行に酔いしれていた常盤は、すぐそばにいて、いつでも悪の喜びを分かち合える人間を欲していた。六月に入って三回目のヘロインが学園に到着していたが、上手く運んでいる計画よりも、見つけられない相棒を渇望し彼は急いた。

 富川に藤村や明美がいるように、シマに長年付き合っている藤村組のメンバーや理香がいるように、彼は自分のパートナーに相応しい、頭が良くて賢い悪党が欲しかった。
 常盤は校内を歩き回った。すでに青い覚せい剤を使用する大学生が三十八人おり、あとは戻ってきた高校側の校長でもある、尾崎理事長を監視するだけだった。

 そんな中、やはり常盤は自分の相棒となりうる同じ年頃の人間を探していた。

 いつも目ぼしい生徒が見つからず、図書室へ行っては、極悪非道の犯罪記録が載った本を探して読み耽った。自分がその行為をしていることを想像して、一人で酔いしれた。しかし、そこには必ず顔の見えない相棒の存在があった。

 しばらく経ってもそんな相棒は見つからず、大きな取引の日が着々と迫ったある夜。常盤は、ふとあることを思いついた。見つからなければ、自分で作り上げてしまえばいい、と彼の中の悪意が囁いたのだ。

 本で読んだ犯罪者のことを思い出し、常盤は少し前まで自分が虫も殺せない優等生だったことを考えた。心の奥底に悪を秘めている者であれば、環境や心情の変化によって悪党に戻れることを彼は思った。


――『悪党になれる人間は決まっているが、全員必ず自分の本質に帰ろうと働く』


 記憶から引き出したのは、最近読み終わった本の一節だった。わずかな悪ばかりしか持っていない人間も、悪行に酔いしれると抜け出せなると書かれていたのだ。

 追い込まれた状況で、新しい自分に目覚めた例がある。十三人の少女を暴行し殺害した犯人、ディック・エイシーは大人しい学生で、女子大生から激しい暴行を加えられた際殴り返したことが始まりだったといわれている。

 強く死を感じた彼はその女子大生を殴り殺し、死体を犯すことでひどく快楽を得たのだという。それから病みつきになったディックは、一月半で十三人の少女たちを次々に襲い、その後快楽殺人犯として逮捕された。

 常盤は、これから起こす行動を考えて興奮した。「俺は、このままじゃ終わらない」と夢見心地で言葉を吐き出すと、頭上を仰いだ。誰もが恐怖する残酷で残忍な悪党になるのだ。

 常盤はそこに、素顔も定まらない相棒を思い浮かべた。

 見付けられなかったら、自分の手で作り出そうと思った。
 六月二十四日の木曜日、雪弥が白鴎学園に潜入してから四日が過ぎた。

 火曜日の夜、修一と暁也を酔っぱらいから助けてから二日が経過していた。雪弥はその間、常盤という生徒が一組であることを確認すると同時に、よく校内を見て回った。

 火曜日の夜に、保険医の明美が薬物をやっているかもしれないと話してくれた少年たちは、翌日の水曜日にはすっかり立ち直っていた。時々屋上でその話題が出ると「馬鹿バカしくて泣けて来る」と暁也が苦渋の表情を浮かべ、修一が腹を抱えて大笑いするほどであった。

 少年たちにとって、学園に大量のヘロインがあり、得体の知れない青い覚せい剤が出回っているなど、非現実的で遠い世界の話なのかもしれない。

 雪弥はそう思って、ならばもう疑わないだろうと安堵した。

 水曜日の全校集会が体育館であった日、暁也と修一は、昼休みに雪弥を連れ出すと運動場から案内を始めた。高等部用の運動用具入れとテニスコートを見て回り、その日の短い案内は終わった。

 アメリカのテニスコートを想像していた雪弥は、規模の小ささに少々間が抜けたが、新しいテニスコートを自慢する修一に「とても立派だね」と返した。放課後には矢部に連行された二人の少年を見送り、雪弥は一人で校内を見て回った。後日、「なんで雪弥が転入して来て早々呼び出しが増えるんだよ」と二人は小言をもらした。


 木曜日である今日は、一時間目と二時間目の休み時間の合間を使い、雪弥は二人の少年と共に二つの校舎に位置する中庭へと行った。そこは、三階視聴覚室や学食から見みることが出来るものである。


 北東から西南にかけて真っ直ぐに続く敷地には、車一台が裕に通れる幅を持ったS字の歩道が敷かれている。それに沿うようにして造られていた花壇には木と花が分けて植えられ、色取り取りの花が緑の葉を生い茂らせる木によく映えていた。

 中庭のベンチや噴水にいる学生の大半は、西側に位置する大学駐車場からやってきた学生たちであった。高校生が中庭に降りるための出入り口は、移動教室用の部屋ばかりが集まる南側校舎裏口となっているため、使う生徒がほとんどいないのだ。

 大学駐車場との間に桜の木を三本植え、敷地を区切る中庭の西南側に倉庫が一つ置かれている。花壇の整備をしている大学園芸部のもので、中にはシャベルや土、軍手や箒の他、イベント時に車を誘導するカラーコーンや、高等部運動場を借りてスポーツ競技を行う際の小道具や式台といった荷物がしまわれていた。

 中庭にある大学倉庫の大きさは、高さ三メートル、横幅は大人が手を広げて三人並んだ程度だった。奥行きも同じ長さで造られ、地図上で確認すると二つの校舎を隔てた西南側に、正方形の大学倉庫を確認することが出来る。

 雪弥は案内されながら、携帯電話で写真を一つ撮った。遠赤外線透視カメラを搭載しているそれで撮影してみると、地下倉庫は写真の中の緑の線と黒い画像の中で、積み上げられた大量の白い物体を映した。報告のメールとして、その場でナンバー1に送った。

             ※※※

 三時間目の授業は数学だった。教科を担当しているのは、雪弥の通う三年四組の担任である矢部である。
 雪弥は、頬杖をついた姿勢で授業を受けていた。開けられた窓からは暖かな風が吹き、外は欠伸を誘うほど陽気な晴れ空が続いている。矢部がぼそぼそと小さく話すせいで、いつもやけに静かな数学の授業は、退屈さを紛らわせる物もなく気だるさがあった。

 ぼんやりとそんな授業風景を眺めながら、暇を潰すように考察した。

 現在、白鴎学園に出回っているのは、ブルードリームと呼ばれている青い覚せい剤であるらしい。使用者の里久がそれを彼の目の前で服薬し、別の人間からもらったらしいレッドドリームと呼ばれる赤い薬を飲んでから、二日が経っている。

 その間、進展があったという知らせも、覚せい剤に関する新たな情報報告もないままだった。あれから連絡が来ていないので、雪弥は今日の早朝に特殊機関本部へ連絡を入れていた。

 しかし、ナンバー4の電話を受け取った事務の若手が「研究班が地下に閉じこもってナンバー1が東京で珈琲に砂糖詰め込んで大変なようです」と、珍しい様子で慌てふためいた発言をしたので、「彼の報告を待ちます」とそのまま通信を切ったのだ。

 ナンバー1が、珈琲を砂糖の塊にすることは有名である。食べる間もないほど忙しいとき、手っ取り早いエネルギー摂取法として彼が独自に行っているものだ。

 雪弥はそれを見て、「それよりもケーキを食べたほうがいいだろ」と意見していた。他の一桁ナンバーは「どちらでもお好きなように」と傍観に徹し、それ以下のナンバーは見て見ぬ振りを決め込んでいる。

「…………まぁ、それだけ忙しいってことだろうなぁ」

 矢部が教科書を反対にしていたと生徒たちが爆笑したとき、その声に隠れるように雪弥は呟いた。

 自分の中に出来上がりつつある推測をぼんやりと考えていると、矢部が「大学受験に必要な基礎知識」との単語で場を静めた。聞き取りづらい声に威厳も意欲も見当たらない教師だが、生徒たちを誘導することが一番上手い教師でもある。

 矢部が言葉を切って猫背で教科書を覗きこんだとき、絶妙なタイミングで携帯電話のバイブ音が教室内に響き渡った。

 一体どの生徒のものだろうか、と他人事に考えた雪弥は、その直後に自分の胸ポケットで震える使い慣れない薄型携帯電話に気付いた。教室にいた生徒たちが、おや、と顔を上げた矢部に続いてこちらを振り返る。

 まさか自分のものだとは思ってもいなかっただけに、雪弥は頬を引き攣らせた。数秒遅れでポケットの上から通話ボタンを切ると、矢部がワンテンポ置いて、ゆっくりと咳払いをしてこう言った。

「本田君、授業中の携帯電話は……電源を切ってだね…………」

 ぼそぼそと言葉が続いたが、雪弥は聞きとれなくなった彼の言葉を遮るように「すみません」とぎこちなく笑った。他の生徒が「本田君ったら」「本田もうっかりする事があるんだな」と可笑しそうに囁き合う中、修一と暁也は珍しい物を見る顔だった。