萬狩は己の平穏のため、一連の出来事をなかった事にする決意を固めた。男が仲西青年より年下だろうが、少し年上だろうが真実は知らないままでいい。
とりあえず、俺は速やかに理髪店を出るべきだ。
タイミング良く東風平が戻ってきて、整髪剤を手に萬狩の髪を手早く整えた。萬狩は短く礼を言うと席を立ち、そのまま支払いを済ませよそうと、後ろポケットに入れていた財布を手に取ったのだが――
「ま、ままま待って下さい! えと、えぇと、そのッ……ピアノ教室のおじさん!」
瞬間、理髪店内が一瞬、ざわりと震えた。
萬狩は、胃腸の調子が更に悪くなるような倦怠感を覚え、諦めたように小男を振り返った。
互いに名前を知らないとはいえ、もう少し言葉を探せなかったのだろうか。これではまるで、俺がピアノ教室を経営しているおじさんみたいじゃないか?
「……何か?」
萬狩は若干の苛立ちを滲ませながら、そう言葉を返した。
すると小男は何を思ったのか、カット席の椅子から半ば身を乗り出す勢いで「後で少し、お時間を頂けませんかッ」と懇願したのだ。
店内にいた客と、特に中年の女性スタッフが、何かよからぬ勘違いをしたように目を見開いた。
萬狩は片手で顔を覆い、とうとう項垂れた。
※※※
萬狩がちょうど昼食時間ぴったりに帰宅すると、緑のエプロンを着用した仲西青年が、キッチンから顔を覗かせて「お帰りなさい」と言った。
食卓には既に、氷水とソーメンが入ったボールが置かれており、二人分の取り皿と、ポン酢や山葵、千切りにされたキュウリと卵焼きとハムも用意されていた。
疲れていた事もあって、萬狩は短く「ただいま」と諦め気味に答えて食卓についた。内心、ここは俺が一人で暮らしている家のはずだが、と最近の決まり文句を唱えていた。
シャンプーもマッサージもされたシェリーが、萬狩の足元に座った。彼女はどこか興奮した様子で口を開け、舌を出しており、足に掛かる吐息は熱かった。
「運動でもさせたのか?」
「シェリーちゃんが庭に出たがったので、十分ほど一緒に散策しました。大きなカマキリがいて、それを口で掴んで自慢げに闊歩していましたよ」
仲西は思い出すように答えながら、自分と萬狩のコップを用意し、そこに麦茶を注ぎ足した。
「シェリーちゃん、お嬢さん犬だと思っていたんですけど、カマキリが好きなんですかね。ずこく興奮してました」
「俺が知るものか」
付き合いはお前より短いんだぜ、と萬狩は低い声で続けた。
萬狩の向かいの席に腰かけた仲西が、「食べられそうですか?」と訊いた。しかし数秒後に、彼は「おや」と小首を傾げる。
「萬狩さん、なんだかお疲れですね。あ、髪を切りました?」
「……ああ、切ってきた」
先程の一件を思い出し、萬狩は思わず口をつぐんだ。
実は、以前に仲西青年と老犬の散歩をしたビーチで、例の小男と待ち合わせをしてしまったのである。今更であるが、俺はなんてことをしているんだと、今になって後悔ばかりが押し寄せた。
小男はあの時、「相談したい事があるんです」と主張してきた。萬狩は、それを聞く義理はないはずと思って、すぐに断ろうとしたものの、涙声で「ぼくには友達もいないし、福岡からこっちに移住したから独りだし、誰に相談していいのか分からなくって」と訴えられて強く断れなかった。
店内だったので他の人間の目もあったし、居心地の悪さと、早々に逃げ出したい気持ちが勝って、萬狩は、小男の一方的な約束を了承してしまったのだ。
約束は午後一時半頃としているが、この炎天下の中を想像するだけで、萬狩は更に気持ちが萎えてしまう。今思い返すと、新手の迷惑極まりない脅迫のような気もしてきた。
萬狩は、冷やしソーメンを食べながら考えた。
話を聞くだけなのだし、そこまで時間は掛からないだろう。ひとまず、赤の他人である俺に相談したい事とは、どれほどのものなのだろうか?
「……少し出掛けるんだが」
「散歩ですか?」
「おい。誰もそんな事は口にしていないぞ」
本能的な直感で萬狩の行き先を察知したように、仲西が瞳を輝かせた。シェリーも、ついと顔を持ち上げて、期待に満ちた目で萬狩を見上げた。
萬狩は老犬の視線から目をそらすと、罰が悪そうに首の後ろをかいた。
「その、なんだ。人に会うんだよ」
「ご友人さんですか?」
「同じピアノ教室に通っている、顔しか知らない男だ。少し話したい事があるらしい」
萬狩が答えると、仲西は「ふうん」と何も考えていない顔で首を傾げた。
「つまり、ピアノ仲間って事ですね」
「…………」
正直、嬉しくない表現だ。
彼の心境を表情で見て取った仲西が、途端に笑ってこう言った。
「すぐに仲良くなれますよ。萬狩さんって、外見によらず面白いですし」
「どういう意味だ」
「大丈夫。萬狩さんがお喋りしている間、僕とシェリーちゃんは邪魔にならないよう、近くを散歩していますから!」
「お前、俺の話を聞いちゃいねぇな」
萬狩は面白くなかったが、足元に座ったシェリーの尻尾が「散歩」の言葉のたびに揺れている事には気付いていた。
畜生、人間の言葉を完全に理解している
なんて賢い犬なんだ。
萬狩は忌々しく思い、少しばかり悩んだ。そして決断し、吐息交じりに仲西に告げた。
「……分かった。この前の海岸に行くから、食べ終わったら支度しておけ」
「わーい!」
仲西がバンザイをし、すぐにシェリーを呼んだ。
萬狩は、仲西青年がシェリーの顔をめちゃくちゃに撫で、抱き締める様子をぼんやりと眺めた。
やはり体調は良好ではなく、食べたせいで余計に腹の底が重苦しく感じた。本当だったら、もう外出はしたくなかったし、彼らを連れて行くという面倒もしたくはなかった。
けれど、ここに閉じ込めておくより、ずっといいだろう。
気付けなかった頃には戻れないのだからと、萬狩は、そう判断するまでの自分の思考に、そっと蓋をして老犬から視線をそらした。
萬狩は、仲西青年と老犬を乗せて、海岸まで車を走らせた。
目的地の駐車場に車を停めたところで、萬狩は一旦、後でビーチの前で落ち合う事を確認して、シェリーのリードを握った仲西と別れた。
萬狩は防波堤のある北方向へ、仲西は、木々の並ぶ遊歩道の南側へ向かって歩いていった。
ビーチは、左右に海浜公園と海岸沿いが連なっていた。萬狩が向かった先は、仲西が言った「散歩にうってつけ」という公園側の反対側に位置しており、浅瀬の海を拝める防波堤が設けられている。
青く深い海側へ向けてせり出した防波堤の上には、夏休みを楽しんでいるらしい十一、二歳ほどの少年が四人いて、暑い日差しが降り注ぐ中、帽子を着用して釣りを楽しんでいた。
東京では考えられないほど長閑で、萬狩には、どこか馴染めない光景でもあった。
思えばゲームセンターもカラオケ店もない場所だから、自然の中で楽しむのが、ここの少年少女達にとっては普通の遊びなのかもしれない。
「……元気なものだな」
照りつける日差しを手で遮り、萬狩は目を細めた。
歩き出してまだ数分だというのに、既に汗も浮かび始めており、萬狩は早々に疲労感を覚えた。防波堤の先までは距離があるので、釣りを楽しむ少年達の会話は拾えないが、そこからは一際高い興奮した様子や、歓声の賑わいが潮風に乗って流れてきていた。
そんな防波堤の眺められる歩道の中腹に、屋根とベンチがついた休憩所があった。
休憩所には、先程理髪店で偶然会った、例の小男が腰かけて待っていた。彼は萬狩に気付くと立ち上がり、おどおどと視線を、何度もあちらこちらへそらしながら「今日は、その、すみません」とまずは謝った。
互いに初対面のようなぎこちなさで会釈し、「萬狩だ」「古賀です」と自己紹介をした。向かい合わせに座るのは何となく憚れ、それぞれ海側を向いた状態で腰を落ち着けた。
「あの、失礼ですが、貴方はどうしてピアノを……?」
古賀が、しどろもどろに口の中で言った。いつ本題を語ろうか、どのように話せばいいのか分からないでいるように、自身の手元を見つめる眼差しには落ち着きがない。
一度だけ、萬狩は彼を横目に見たが、視線を前へと戻して「数か月前に引っ越した家に――」と切り出した。
「立派なピアノが付いていた。調律もされていたものだから、一曲ぐらい弾いてみようと思った。……それだけだ」
「そう、なんですか……ご自宅にピアアノが…………」
そこで、会話は途切れた。萬狩は他に話題も思いつかず、黙ったまま海を眺めているしかなかった。
海は空の色である、というキャッチフレーズはよく耳にしていたが、こんなにも深く美しい青を、萬狩は沖縄に来るまで知らなかった。
浅瀬から奥へと向かって、青が作り出すコントラストは水面のヴェールにも見える。それを眺めていると、暑苦しい日差しも水面をより輝かせる素敵なものに思えてくるのが、萬狩には不思議だった。
潮風は生温かかったが、心地良くも感じた。きっと、自分が汗をかいているせいだろう。
「君は、いくつだ」
気付けば、彼は吐息代わりのようにそう訊いていた。
古賀は、何度か萬狩の横顔を盗み見た後で「……二十四です」と答えた。途中、少しだけ言葉が舌足らずになっていた。緊張しているのか、それとも会話に慣れていないのか、萬狩は他人事のように考えてしまう。
「実は、その……僕は漫画を書いておりまして」
「ほぉ。漫画家というやつか?」
「まだまだ有名ではないのですけれど、えぇと、いちおう二つ連載を持っていまして、定期的に出している単行本もあって……」
どちらかと言えば、同人の方の仕事がメインというか……、と彼は口ごもった。
萬狩は聞き慣れない言葉に「なんだって?」と彼の方に顔を向けていた。
「俺は漫画を読まないから、よく分からないんだが」
「――そ、そうですよねッ。なんというか、その、女性向けの小奇麗な感じの漫画、といいますか」
慌てたように語る彼が、萬狩には不思議でならなかった。まるで、己の職業を恥じているように感じてしまう。
「出版もされている漫画なんだろう? 漫画家になれる人間は一握りだと聞くぞ。仕事としてやれているそれの、何が問題なんだ?」
萬狩が不思議に思って尋ねると、古賀は、太く短い腕を組んで「うーん」と悩ましげに首を捻った。
「漫画を読む人なら知っている事なんですけど、その、あまり声を大にして語れるようなジャンルでもないし、だいたいの人が、大手の少年少女雑誌の漫画家を目指しながら、ぼちぼち書いてこっそり出しているような漫画でもあるというか……だから、ペンネームも二つ持ちでして…………」
「つまり、隠さなければならないというわけか?」
「まぁ、そうですね。ぼくは男性ですし、あのジャンルは特に、ぼくらの世代だと恥ずかしさもあるというか……」
でも、本職として食べていける作家さんの数もまた少ないんですよね……、と古賀は死んだような声で続けた。組んだ腕を解いて項垂れ、重い溜息を吐く。
「読者は女性ですから、好みもはっきりしていて、続けて出版出来る人は限られてくるんですよ」
「なんだ。君は売れないから悩んでいるのか?」
萬狩は、切羽詰まったような先刻の出会いを思い出した。しかし、古賀は更に沈んだ声で「違います」と両手で顔を覆った。
「……僕、同人作家としては五年目なんですけど、持っている正規の連載漫画よりも、同人の雑誌と単行本の方が、すごく売れているんです……はぁ」
「お前、内容と表情が噛み合っていないぞ。その仕事は、そんなにきついのか?」
「いいえ。すごく稼げますし、ファンの人も情熱的な方が多いし、世話になっている数社の出版社からは、次は何時頃原稿が仕上がりそうかって催促もあるし……」
つまり、そのジャンルの世界では有名な作家、という事だろう。
何がそんなに不満なのだ、と萬狩は訝った。漫画家という職業を良しとも悪とも思った事はないが――息子がそのような職業に就きたいと言えば、将来の安定が約束されているわけではないから反対はするだろうが――手に職の仕事だ。自分の時間が多くとれるとあって、若い者にとっては、さぞ羨ましい職業に違いないとは思える。
萬狩がそう考えているそばで、古賀が、口の中でもごもごと話しを続けた。
「対象読者も、テーマも違うジャンルだけど、やってみると楽しくて、だから後悔はしていないんです。まだ若いから、頑張れば今持っている少年向けの雑誌の連載でも、いつかは食っていけるようになるだろうし……」
「台詞だけは前向きだな」
萬狩は、何だか彼が分からなくなってしまった。
互いに同じ言語を話しているはずなのに、仲西や仲村渠のように、会話のキャッチボールが噛み合わないでいるような気がする。
古賀は顔を上げると、まるで会社をリストラされたサラリーマンのように、遠い目で海を眺めた。
「同じ場所で、描いているんです」
唐突に、古賀はそう言った。
前後の脈絡に話が見えない切り出しに、萬狩は思わず「は?」と間の抜けた声を上げた。しかし、萬狩は数秒で漫画の事だと思い至り「そうか」と相槌を打った。
「まぁ、ペンネームを使い分けているとはいえ、そうなるだろうな」
「それが問題なんです」
「よく分からないな。整理整頓が上手くできないのか?」
尋ねてみると、古賀は、やんわりと首を左右に振った。
「ちゃんと棚も分けています。でも、同人の方の仕事が圧倒的に多いから、その原稿や資料や、見本の漫画が沢山ある部屋なんです」
「仕事部屋とはそういうものだろう」
萬狩の書斎もオフィスも、会社が落ち着くまでは収拾のつかない場所だった。そんなものは、時間が出来るまでそのままに使ってしまう方が効率もいい。
しかし古賀は、途端に泣きそうな声で「それが駄目なんですぅ」と再び両手で顔を覆った。
「実は、ぼく、付き合っている子がいるんですけど、その子には同人の事は隠してあるんですよッ」
「――は」
なんだそれは、実にくだらん悩みじゃないか!
萬狩は一瞬、表情筋が引き攣りそうになった。けれど、あまりにも古賀の激しい落ち込みようを見て、ひとまず酷な言葉は掛けられないと譲歩したうえで、言葉を言い改めた。
「信頼し合っているのなら、白状しても問題ないだろう。付き合って一年ぐらいか?」
「いえ、六年です」
「それでよくバレなかったな」
顔を上げてきっぱりと答えた古賀に、萬狩は、思わず声を荒上げそうになった。
こちらへ移住してからというもの、どうも冷静さを欠かせるような輩が多いような気がして、萬狩は「なんだかなぁ」と項垂れた。
本題を切り出した事で、古賀は数刻前の切羽詰まった感覚が戻ってきたのか、萬狩の方へ身体を向けると、身振り手振りに話を続けた。
「彼女の方が、先に転勤で沖縄に住んでいたんです。しばらくは遠距離だったんですけど、その、ぼくの仕事も落ち着いてきて、こうやって移住出来た事もあって、そろそろ同棲したいって話が出ていて……」
「そんなものは白状してしまえばいい」
萬狩は、遠い目で間髪開けずに告げた。頭の中では、恋人なら近くに住んでいた時に家を行き来する事はあるはずで、やはり、それでよくバレなかったなという感想が、ぐるぐると回っている。
すると、古賀が途端に「えぇ!?」と飛び上がった。
「だ、だだだだだって、こんな成りで、あの漫画を描いている同人作家なんですよッ? 『旦那さんは何をしているの』と訊かれるたび、彼女が苦悩するさまを想像すると、ぼ、ぼく耐えられなくって!」
太った小男が眼前に迫って来て、萬狩は「暑苦しいわッ」と古賀を押し返した。
「落ち着け、『あの漫画』と言われても俺には分からん! というより、お前も気が早いな。そこで普通結婚後の風景を想像するか?」
実に妙な男である。そう睨みつける萬狩に、古賀は涙目で「だって」と男らしくもない震えた声を上げた。
「『あの作家さん』は格好良い美青年に違いないとか、自分達と同世代の女の子が描いているだとか、そう思わせるような漫画を、ぼ、ぼくは描いているんですよッ。実際に同ジャンルで顔の良い作家さんは、堂々と表に出ているぐらいだし、女性向けの同人誌やラジオ番組にも出るぐらい人気がありますし!?」
まるで芸能人並みの扱いだな、と萬狩は思った。たじろぎつつも、「あのな」と、彼を落ち着かせようと言葉を紡ぐ。
「良く分からんが、お前の彼女は、そういった漫画を読む女性じゃないのか?」
「学生時代から友達同士でコミケに行っていたぐらいだから、多分、そのジャンルも読んでいるんじゃないか、と思ってはいるんですけど……」
「ちょっと待て。すまないがコミケとはなんだ?」
「コミックマーケットです」
古賀は、そこだけ饒舌に言い切った。
萬狩は頭が痛くなってきた。しかし古賀は、物想いに耽った雰囲気で「ふう」と息を吐いて、真面目な顔で話を続けた。
「どうしたものかと思って、ぼく、悩んでいたんです。ぼくはこんな成りだし、特技なんて自炊ぐらいだから、ちょっとでも彼女が誇れるように、ピアノの一つでも出来るようになれたら格好良いかな、なんて思って……」
ちょっと待て、と萬狩は隣の小男へ顔を向けた。