シェリーに最期のおやすみを

 人には向きと不向きがあるのだろう。

 ピアノ教室に通い始めて三週間が過ぎると、月は八月に入った。萬狩は楽譜分を全て進められていないため、二ヶ月目の月謝も払い、結局はピアノ教室通いを続ける事となった。

 沖縄の夏の灼熱は、外に出るのが億劫になるほど暑い。風は半ば熱風で生温く、朝風呂と夕風呂はかかせなくなっている。

 シェリーの飲み水も、小まめに皿を洗っては冷たい水を継ぎ足すようにしていた。ほとんど晴れている日が続いているせいか、少し庭先を歩き回ると、老犬は夏バテのように食欲が少なくなり、冷房のあたる場所で横になっている事が多くなった。

 老衰だろうか、と萬狩は悩んだ。

 八月の第二週目の月曜日、診察にやってきた仲村渠に相談すると、診察した老人獣医は「夏バテでしょうなぁ、可哀そうに」と彼女を労うように言った。

「毎年の事ですが、彼女にとって夏は、身体に一番辛い時期ですからね。栄養価の高いご飯があるので、そろそろ切り替えた方がよろしいでしょう。仲西君のところに連絡して、持ってくるよう伝えておきますよ」

 それから、と仲村渠老人は言葉を続けた。

「萬狩さんには少し無理をさせてしまいますが、もしかしたら、深夜にもシェリーちゃんが小腹を空かせる可能性があります。話を聞く限り、一回のご飯の量が減っているので、朝までもたないんですよ。その時にはドッグ缶を混ぜて、少しあげてやって下さい。分量については仲西君から教わって下さいね」

 萬狩はすぐに、「分かった」と答えた。

 自宅は大窓が多く、光が多く入るという利点はあったが、日中は窓からの熱気が強いという難点もあって、冷房機の設定温度を下げる必要があった。

 けれど、シェリーが風邪を引かないよう、朝と夜は冷房の温度をきちんと調整する必要がある。萬狩は、ほとんど在宅しており、ピアノ教室の日には仲西がいる状態だったので、こちらについては心配がなかった。
 仲村渠獣医が帰った後、新たな発注を受けた仲西が、その商品を車に乗せて少し遅れてやって来た。彼は専用のドッグフードとドッグ缶を運び込むと、萬狩に混ぜる割合や保管方法について説明した。

 夜中にシェリーが起きたら、必ず実行しようと意気込んで、萬狩はその日早めに就寝した。

 しかし、老犬に夜中起こされた経験がなかった萬狩は、ふと、彼女は俺をちゃんと起こしてくれるだろうかと気になり、深夜二時頃に一度目が覚めた。

 ベッドの脇を覗くと、シェリーが籠の中で小さな寝息を立てていた。

 萬狩は、額にかいた汗を拭い、白髪混じりの髪をかき上げた。

 日中にも小まめにご飯をあげるようにしているし、彼女はクッキーもよく食べる。だから、そんなに腹は減らない可能性の方が大きいじゃないかと、自分が感じている不安を振り払った。

「別に、俺は余計な心配なんかしていないぞ」

 ぐっと布団を引き寄せて、萬狩は、枕に顔を押し付けた。翌日は早朝の五時前に起きたが、やはりシェリーは相変わらず爆睡していた。

         ※※※

 それから二日ほど経った水曜日の深夜、萬狩は、いつもとは違う異変に気がついて目を覚ました。

 既に日付は木曜日に替わっていたが、枕の上にある時計を見上げれば、時刻はまだ午前の一時過ぎだった。

 彼は浅い眠りの中、啜り泣くような何者かの夢を見ていたから、覚醒した一瞬、それでも耳に聞こえるその声に、自分が夢の続きを見ているのではないかと錯覚した。

 そんなバカな事があるかと己れを叱責し、寝惚けた頭を振って耳を済ませると、冷房機の稼働音に混じって、やはり囁かな音が聞こえていた。

 起き上がり、眠気眼をこすって確認すると、シェリーがベッドに上体を預けるように前足を乗せて、こちらを見ていた。

「なんだ。珍しいな」
 声を掛けると、シェリーが途端に耳を立てて「ふわん」と呑気そうな声で鳴いた。先程まで聞こえていたような声を、彼女はもう立てなかった。

「俺も、ちょうどトイレに行こうと思っていたところだ。ついでに、お前のご飯も入れてやる」
「ふわ、ふわん」

 静まり返ったキッチンへ向かうと、萬狩は、仲西に教えられた通りにシェリーのご飯を準備した。彼女のご飯皿に入れて、いつもの位置に置き、彼女が食べ終わるのを待つついでに、テラスト席に腰かけて煙草を口に咥えた。

 すると、シェリーがそばに来て足元で座った。ちらりと彼女のご飯皿を確認すると、全く手が付けられた様子がなかった。

「なんだ。食わないのか?」

 不思議に思い、萬狩は一旦煙草を灰皿に置いた。

 リビングに上がる萬狩の後ろを、シェリーはついて来た。萬狩が「分量でも間違ったのか?」「腹が減っていない、とか……?」と首を傾げてご飯皿を見つめていると、シェリーが何食わぬ顔でご飯を食べ始めた。

 妙だなと思いながら、萬狩は、再びテラス席へ足を向けた。しかし、その途中でシェリーが食事を止めてついてくる事に気付き、足を止めて振り返った。

「……手間のかかるやつめ」

 普段通りに声を掛けようと思ったのに、どうしてか神妙な声になった。

 萬狩は離婚したあと、一人きりになったマンションの一室で、自分が食事をする機会が減った日々を思い出し、シェリーの行動理由に思い至ってしまっていたのだ。

 何て事はない。つまりは、そう言う事なのだ。
 
 萬狩はシェリーのご飯皿を持ち上げると、テラス席が見える窓辺に置いた。彼が椅子に腰かけて煙草を吸えば、シェリーは、彼が見える位置で食事を再開した。

 夜風は少し生温くて、静けさが降り注ぐような時間の中で萬狩は、ささやかな風と静寂を聞いていた。
 萬狩はふと、頭上の煌めきに気付いて顔を上げた。

 そこには満天の星が広がっていて、萬狩は呆けたように口を開いて見入った。

 入居して今の時点まで、彼は自分が、空に目を向けようともしていなかったのだと気付かされた。人工の明りがほとんどない高台で、それは異世界のような異色の美しさを放って夜空を彩っていた。

 こうして見上げていると、まるで星空に落ちていきそうだ、と錯覚した。広大過ぎる景色に圧倒され、自分があまりにもちっぽけなのだと悟らされる。

 生き物とは結局のところ、この大きすぎる世界の中では、あまりにもちっぽけで無力な存在なのだろう。萬狩が、こうして見上げる夜空の素晴らしさは、刻一刻と変化して、きっと全く同じ光景が訪れる事はなく、作り出す事さえ出来ない。だから誰も、彼と全く同じ感動を味わう事もないのだ。

 かさり、と草を踏む音がした。

 つられて目を向けると、シェリーが隣に腰を降ろして、同じように満天の星空を見上げていた。今夜は月がないから、きっと流れ星もよく見えるに違いない。

「東京の空とは、大違いだなぁ」

 萬狩は煙草の煙を深く吸い込んで、それから、ゆっくりと夜空に向かって煙を吐き出した。

 今夜は、煙草の煙がやけに胸にしみる。

 そう思いながら、深く深く、ゆっくりと息を吐き出した。

 それからしばらく、一つの小さな流れ星が、遠い夜の町へと流れ落ちていくのを、一人と一匹は、互いに触れない距離でそれを見届けた。


 萬狩は流れ星のジンクスを思い出したが、どんな事を願えばいいのか、何をどう願えばいいのか分からず、結局は願い事を胸で唱える事は出来なかった。
 宣言通り、共に昼食を過ごして以来、仲西は、仕事先の上司にお願いして八月は月曜日だけでなく、木曜日も萬狩宅を訪問し続けていた。

 それは、現在の家主である萬狩が、ピアノ教室に通う曜日であるのだが――結局のところそれは言い訳で、シェリーと遊んで過ごしたいからだろう、と萬狩自身は踏んでいる。

 仲村渠は変わらず、月曜日の午前中にシェリーの診察にやってくるが、最近は、その後に茶を飲んでゆくようになった。ちょうど仲西が訪問する頃に「よいしょ」と席を立ち、「じゃあ後はよろしく」と若い弟子に言い聞かせるように去っていく。

 仲西青年は、以前までは午前訪問だったり、午後訪問だったりと時間帯が割りと不定期だったのだが、最近は午前中には必ず来て、午後までゆっくりしていくようになった。

 わざわざ食材や調味料まで買ってきて、仲西は「男の料理ですよ」と自慢げに自前の緑エプロンを身に着け、昼食にミートソースのスパゲティや目玉焼き定食を作ったりする。

 そのせいなのか、萬狩は最近になって、互いの味付けの常識に食い違いが多い事に気付かされた。

 例えば目玉焼きの場合だと、萬狩は醤油、仲西はケチャップだ。缶のポークを焼いてつけているのだから、ケチャップが普通でしょうと仲西青年は自信たっぷりに主張するが、ポーク缶は沖縄特有のものであって、他県には売られていない商品であるので、萬狩はどちらとも言えず話術に負けて悔しい思いもした。

 仲西青年は、どうやら萬狩との味の違いを楽しんでいる節もあるようだった。彼が昼食を用意する時は、テーブルに様々な種類のソースが並んだ。萬狩がどれを手に取るのか、わくわくしている様子が毎回露骨に見て取れる。
「シェリーちゃん、すっかり夏バテですねぇ」
「そのようだな。小まめに水分と食事はあげるようにしているから、体重に変化もないと獣医は言っていたぞ」
「仲村渠さんが月曜日に『まだ夏バテが続いているらしい』と言っていたので、午前と午後にもマッサージを入れているんですけど、まだ体調が良くならないみたいで、僕は心配です」
「そうか」

 萬狩は新聞を読み進めながら相槌を打ち、ちらりと窓側へ目を向けた。日の光に目を細め、疲労感を覚える目頭を揉み解す。最近、シェリーは夜中に目を冷ます事が続いており、昨日も結局、萬狩は深夜三時まで起きていたのだ。

 床に横になっているシェリーも、夏バテというよりは、睡眠不足の顔で半ば眠りに落ちていた。それでも、共に早朝五時に目が覚めてしまったのは、互いの老いと、身に染みついた生活習慣のせいだろう。

 それを仲西青年は知らないのだ。萬狩は、まぁ仕方がないと思い直した。

「――それはいいんだが、お前が当然のように、早朝にいるのはなぜだ?」
 
 今日は八月の第二週目の木曜日。この日、仲西青年が萬狩宅にやって来たのは、朝の六時半の事だった。萬狩が朝一杯目の珈琲を飲んでいたところ、来訪を告げるチャイムに重い腰を上げて玄関を開けると、そこには早朝を感じさせない溌剌とした仲西が立っており、元気な笑顔で「おはようございます」と告げたのである。

 当の仲西青年は、シェリーの身体を揉みほぐしながら朝のニュース番組を眺めており、萬狩の質問に「へぁ?」と間の抜けた声を上げた。

「萬狩さん、とっくに起きていたんじゃないんですか?」
「まぁ起きていたが、しかしだな――」

 言い掛けて、萬狩は説得を諦めた。仲西青年特有の、斜め上のマイペースさに慣れつつある自分が、少し嫌だなぁと思いながら、すっかり冷めた珈琲を飲み干した。
「暑いのに熱い珈琲って、美味しいですかね?」

 すると、仲西が不思議そうに問い掛けてきた。

 息子達が幼い頃にしてきた質問だな、と考えながら、萬狩は「ふん」と鼻を鳴らした。

「大人になれば分かるさ」
「僕、じゅうぶん大人なんですけど……」

 仲西は余程犬が好きなのか、その後、萬狩がリビングでノートパソコンに向かっている間もシェリーの相手をしていた。寝ている彼女に寄り添うように横になり、「柔らかい毛だなぁ」「可愛いなぁ」と飽きずに繰り返している。

 シェリーが身体を休めている間は、無理にトリミングもシャンプーもしないのが決りのようだ。この現場を彼の上司が知ったなら、さぼりだと言われるのではないかと、萬狩はそんな事を考えてしまう。

 不意に思い出したのは、仲村渠が話していた「彼の犬を診た事がきっかけで」という交流の始まりだった。仲西は幼い頃に父親を亡くし、母親とは折り合いが悪かったらしいが、犬に関わる出来事とは、一体なんだったのだろうか。

 以前は関与しないようにと思っていた萬狩だったが、なんとなしに「なぁ」と彼に話しかけていた。

「お前は昔、犬を飼っていた事があるのか」

 尋ねると、仲西は横になったまま、きょとんとした顔を萬狩に向けてきた。

 萬狩は、パソコンの画面に視線を戻しながら「俺は」と思いつくままに話した。

「親と同居している時代に、ペットを飼った事がなかった。結婚して、二人の息子が出来た後に友人から『一週間預かって欲しい』と頼まれた事があって、一番上の息子が面倒を見ていた事がある程度だ。長男は当時六歳で、リードを持つ権利を絶対に譲らなくてな。妻が不安がるんで、俺が散歩についていったんだ」

 話しながら、萬狩は「ああ、そうだった」と、当時の様子を鮮明に思い出した。
 長男が、反抗期のように自分の意見を強く主張したのは、あれが最初で、――そして最後でもあった。

 幼かったにも関わらず、長男は我が儘も口にしない子だったから、犬が欲しいとは決して口にはしなかったが、多分、欲しかったのだろうと、今となってはそう思えた。

 萬狩は、生き物の面倒をみたいと感じた事もなかったから、その考え方を知らず知らずのうちに、子供達にも押しつけていたのかもしれない。

 我慢強い長男は、幼いながらに一生懸命自分を納得させて諦めたからこそ、たった一週間のチャンスを手放したくなかったのだろう。

 萬狩は、幼い我が子と違い、生き物が必ず死ぬ事を知っていた。それを息子に経験させるのはまだ早いという思いで、育てる責任能力と覚悟がなければダメなのだと、厳しい言葉で言い聞かせてしまっていた。

 あの犬の名前はなんと言ったのか。

 萬狩はもう忘れてしまった。茶色く、耳がやや長い中型犬で、全く吠えない躾の行き届いていた賢い犬だった。狩猟犬の種類だといって自慢していたその友人は、その後に家族と、その犬と共にアメリカに渡っていったのだ。

「息子は、散歩ぐらい一人で出来ると言ってきかなかった。賢い犬だったし、俺は大丈夫だと思っていたんだが、妻が駄目だというものだから、散歩をさせる息子に渋々付き合う事になったんだ。あいつは嫌がっていたはずなのに、何度も後ろを振り返っては、まるで安堵するみたいな顔ではにかんでいたっけな」

 思い返せば、やはり言葉数の少ない父と子だった。

 萬狩は、小さかった我が子が、背筋を伸ばして犬を散歩する様子を、少しだけ離れた場所から眺めていた時間を思い起こす。
 あの時考えていたのは、なんだっただろうか。定時に会社を上がった後、一度家でスーツの上着とネクタイを外し、明るい夏の夕刻の空の下重い足を進めていた。この散歩という付き合いを、あと六回もしなければならないのかと、そんな事を考えていたような気もする。

 一人で出来るよと言い張っていた長男は、翌日も、夕刻までには宿題を済ませて、しっかり身支度を整え、行儀よく萬狩の帰りを待っていた。犬のトイレを掃除し、ご飯を用意して風呂も入れ、名前を呼んで「お手」「お座り」もやっていた。

 そこまで考えた時、萬狩は喉元に引っ掛かっていた一つの疑問の答えに見付けた。あの時、仲西青年が「お帰りなさい」と笑った顔が、彼らに重なった理由にようやく思い至れた。

 長男はあの日、犬と共に玄関先で、父親である萬狩を待っていた。萬狩が姿を見せると、黒い瞳に奇跡を詰め込んだような輝きをのせて「お帰りなさい」と言った。だから、萬狩も一周間は残業をしなかったのだ。

 面倒だという想いよりも、父親としては、同時にくすぐったいぐらいに嬉しかったのだと、萬狩は遅れてそう気付かされた。

「多分、一緒に散歩が出来て嬉しかったんだと思いますよ」

 不意に、仲西がそう言った。

 萬狩が思考を中断して彼を見ると、仲西は「僕の想像にすぎないんですけどね」と、遠慮がちに笑みを浮かべた。

 仲西青年は、迷うように視線を巡らせた後、記憶を手繰り寄せながらゆっくりと語り出した。

「僕は、小学三年生の頃に、怪我をした犬と出会ったんです。とても飼える環境じゃなくて、無人の小屋に隠して、少しだけ世話をした事があるんですよ」

 彼は、穏やかな声色でそう語り始めた。仲西の隣で丸くなっていたシェリーは、聞き耳を立てているようではあったが、顔は上げなかった。