それから私たちは二度と会うことはなかった。夜が来るたび、あの幻が今にもドアを開けて私を刺し殺す悪夢に震えていた。それは何度引っ越しても呪いのように付いて回った。なんとか大学を卒業した後、私は縁もゆかりもない土地に就職先を見つけ、やっと妃芽のいる街から脱出できたのだった。

 それから更に数年の月日が経ち、仕事にも慣れてきた頃、中学時代の友人と会う機会があった。どこから居場所を聞きつけたのか、仕事で近くまで来ているからお茶でもしないかというお誘いだった。喜び勇んで待ち合わせのカフェに行くと、感動の再会もそこそこに、あの頃の面影を残す彼女はマルチ商法の勧誘を始める。

――これも人間関係を疎かにしてきたツケかな

 喜んでいたのは自分だけかとふてくされていると、こちらが乗り気でないのを察したのか、

「そういえばさ、妃芽って子がいたの覚えてる?」

 昔話を切り出してきた。

「え、妃芽……?」

 その名前に固まっているのを肯定と受け取ったらしい。彼女はぐっと身を乗り出して、

「あの子ね、この前自殺したらしいよ」

 と囁いた。

「え……?」

「なんかお風呂で手首切って死んでたんだって。それで、遺体を解剖したらさ」

 これ以上聞いてはいけない。本能が警告を出していたのに、私が声を出すよりも早く友人の唇が動いていた。

「喉に、ネックレスが詰まってたんだって」

 気味悪いよね、病んでたのかなぁ、昔も虐められてたもんね、あの子――友人の声が遠のいていく。腹の底から何かがせり上がってきて、うっと口を押さえた。

「わ、私トイレ……」

 個室まで間に合わず、私は洗面台に紅茶と胃液の混じった苦い汁を吐き戻した。えずきながら顔を上げると、あの日と同じ、涙目の自分と目が合う。

 その瞬間、今更ながら――本当に今更ながら思い出したのだが、ユキというのは私が妃芽に見せた小説の主人公の名前なのであった。



 妃芽はユキを呑み込んで死んだ。

 その事実に私は胸を撫で下ろした。もう彼女が私を殺しに来ることはないのだ。夢も見ない深い眠りはいつぶりだろう。

 けれど仕事のミスを怒られた時、一人きりの部屋に孤独を感じたとき、ふと胸元からどこかへ引きずり込まれるような感覚に襲われる。彼女を窒息させたそれは手元にあったのもほんの数日のガラクタなのに、まるで私の一部を持って行かれてしまったように思うのだ。

 そういう時、私は虚ろを隠すように胸元に手を当てる。トン、トンと叩くたびに私の中に結ばれたままの「ユキちゃん」の像が書き換えられて、段々と妃芽の面影に近づいていくことから目をそらしたまま、トントン、トントンと胸を打ち続ける。