「ユキちゃん、この子が幼馴染みの綾ちゃん。……うん、そうそう。いつも買ってくるお弁当屋さんの」
誰もいない空間に向かって話し続ける妃芽を、私は思いのほか冷静に眺めていた。夏に放送される奇妙な怪談番組のワンシーンみたいで、現実味がなかったからだ。彼女は誰かの輪郭を追うように指を滑らせ、抱きしめるような動作を繰り返している。
やっと思考力の戻ってきた頭に最初に浮かんだのは、
――ああ、とうとう行くとこまで行っちゃったのか
という妙に冷めた諦めだった。
「じゃあ私、帰るから」
本来なら引きずってでも病院に連れて行くべきなのだろうが、これ以上奇妙な一人遊びに付き合う義理もない。足早に玄関へ向かえば、案の定不満げな声が上がった。
「ええー、今来たばっかりじゃん」
「急用を思い出したの」
「嘘! ねえ、ユキちゃんもなんとか言ってよぉ」
だってぇ、綾ちゃんと食べようと思ってお菓子まで用意したのに。うん、うん、分かってるけどぉ……背後で話し続ける妃芽に、早くここを出ないと私まで幻聴が聞こえてきそうだ。それともおかしいのは私の方で、本当に誰かがそこにいるのだろうか。
ちらと振り向けば、妃芽が悲しげに眉を下げて部屋の真ん中に立っている。彼女の中にいる「ユキちゃん」は、今どんな顔をして私を見ているのだろうか。
私と対面させたことでより実在感が高まってしまったのか、それからの妃芽は口を開けばイマジナリー彼氏との毎日を惚気ていた。
「……でね、昨日は当欠しちゃったんだけど、そしたらユキちゃんが頑張らなくてもいいよって言ってくれて、ずっと背中トントンって」
「ごめん、バスが来たから」
「うん。今度また遊びに来てね、ユキちゃんも待ってるから」
妃芽はユキちゃんの容姿について詳しく語ることはしなかったけれど、彼のエピソードが増えていくたびに段々と私の中に明確な像が結ばれていく。それが恐怖だった。
妃芽とユキちゃんはどんどん仲を深めていき、最初は会話しているだけだったのが次第に手を繋ぎ、キスをし、そして昨日はとうとう身体の関係を持ったらしい。水彩画が滲んで色が混ざるように、このままだと私と妃芽のいる世界が繋がってしまう気がした。
だから私は強い意思をもって油性ペンを握り、その絵に黒い線を引く。家の場所は教えていないし、大学名も言っていない。共通の友人はいないから、情報が漏れることもないはずだ。あの弁当屋のバイトもやめてしまおう。
そう決意した数日後、妃芽に心中の話を持ちかけられたのだった。
「楽に死にたいって言うけど、ガス系は絶対にするんじゃないよ。他の部屋に漏れでもしたら、あんた人殺しだからね」
私はまた妃芽の部屋に足を踏み入れてしまっていた。「愛の心中作戦会議」に私の部屋を提供するのは断固として阻止したかったし、カフェなどの人の目があるところでは下手したら通報されてしまう。
こんな物騒なことを言っているけれど、なにも本当に妃芽の妄想を手助けしようとしているわけではない。寧ろ逆で、「あたしが先に逝くから、ユキちゃんも後から追ってきてね」なんて展開にならないよう見張っているのだ。それだと本当にこの子だけが死んでしまう。私の知ったことではないけれど、こうなった以上、人として放置するわけにもいかない。
私は妃芽の右隣を指さして宣言する。
「だから方法としては、今からここで先にユキさんに死んで貰う」
「えっ」
妃芽は指と反対側に顔を向けた。そっちにいるのか。
「場所はまあ、お風呂場でいいでしょ。絞殺か刺殺か、とにかくあんたがユキさんを殺して、そのあと首吊りでもなんでも好きな方法で後を追えばいいじゃん」
いくら妄想の世界にいるといっても、実態のないものに刃は突き立てられない。しかもこれまでのような心を癒やすための行為ではなく殺しなのだ。手順を踏むうちに正気に戻るまではいかなくとも、思い止まるくらいはするかもしれない。
まあ、これでだめなら今度こそ病院だ。
「でも綾ちゃん、あたしはユキちゃんと一緒に死にたいんだもん」
「同時になんてほぼ不可能でしょ。それにユキさんが直前で心変わりして逃げたらどうすんの。一人で死ぬのは嫌なんでしょ」
「うん」
「だからこの方法が一番確実なの。ロミオとジュリエットだって死ぬのに時間差があったんだから、ほぼ心中みたいなもんでしょ」
さっき人殺しになるなと言っておきながら積極的にユキちゃん殺しを勧めるなんて矛盾もいいところだが、まあこちらは実害が出ないので良しとしよう。
妃芽はうーんと唸って、ユキちゃんはどう思う? などと聞いている。
「――うん、あたしも! あたしもユキちゃんのためなら命だって惜しくないよ。だってあたしたち、運命なんだもんね」
一人で勝手に盛り上がっている妃芽を眺めながら、私は妄想上の存在とはいえここまで愛されるなんて羨ましい話だと、出されたお茶をちびちびやりながら思っていた。生身の人間にこのレベルの愛を求めれば破局しか道はないのだから、これも一つの幸せの形なのかもしれない。
「綾ちゃん」
「なに」
「死んじゃったらもうお別れだから、さよならのプレゼントちょうだい」
餞別と言いたいのだろうか。
「えー」
「お願い綾ちゃん。なにか一つ、綾ちゃんの大事にしてるものをちょうだい」
大事にしているものか。何だろう。最近新しく買った鞄が思い浮かんだが、この子に渡すには惜しすぎる。ふと目線を落とした先に、首から下げたネックレスが揺れていた。
「じゃあ、これあげる」
後ろに手を回して留め具を外す。チェーンの先には雪の結晶をかたどったガラスがきらめいていた。このあいだ駅前の雑貨屋で見かけて、何となく手に取った物だ。これなら安物だし、特に思い入れはないから手放しても惜しくない。
「いいの?」
「うん。ちょうどいいでしょ、『ユキさん』だし」
「これ、綾ちゃんの一番大事な宝物?」
「うん、超大事なやつ」
笑いながら手に乗せてやると、妃芽は飛び上がって喜んだ。
「やったあ! えへへ、ありがとう。これ一緒に持って行くね」
「うん、そうしなそうしな」
さ、見張っててあげるから早くユキさんのこと殺しなよ。もう夕方に近い時間だと気がついて、人でなしな急かし方をする。
「あっ、ちょっと待って! 心中なんだから、ちゃんと綺麗に着飾らないと。お化粧もしなくっちゃ」
そして小さなクローゼットを開けると、
「ねえ、ユキちゃんはどのスカート穿きたい?」
と聞いた。
「……スカート?」
「うん、やっぱり二人で色合わせた方がいいかなあ。あっ、同じブランドにするのもいいかも」
「ちょっと待って、ユキさんって女の人なの?」
何言ってるの綾ちゃん、見たら分かるじゃん。妃芽はケラケラと笑う。
「――ユキさんって茶髪のショート?」
「ううん。綾ちゃんと同じ長さの黒髪だよ」
「服はどんなの着てる?」
「白のニットに黒いスカート。あは、綾ちゃんお揃いだね」
私の思い描いていた「ユキちゃん」が一つ一つ書き換えられていく。そして最後に現れたのは私と全く同じ顔をした「ユキちゃん」だった。
妃芽に腕を絡め取られたユキちゃんが私を見て口角を引き上げる。私は声にならない悲鳴をあげてその場にへたり込んだ。
「どうしたの、綾ちゃん」
妃芽は不思議そうにきょとんとしている。もう私にも見えていた。妃芽の横をすり抜けてこちらに近づいてくるユキちゃんが。一歩一歩はっきりした輪郭となって、私の腕に手を伸ばす。
「ねえ、ユキちゃんの、殺し方なんだけど――」
殺される。私はその手を振り払って、転がるように玄関へ走った。ぶつかる勢いのままドアを開け、無我夢中で階段を駆け下りる。目を見開き、死に物狂いの形相な私に道行く人はみなギョッとしていたが、気にしている余裕などなかった。瞳が乾いて涙が頬に線を引く。私の顔をした幻がどこまでも追いかけて来るようで、最後まで振り向けなかった。
誰もいない空間に向かって話し続ける妃芽を、私は思いのほか冷静に眺めていた。夏に放送される奇妙な怪談番組のワンシーンみたいで、現実味がなかったからだ。彼女は誰かの輪郭を追うように指を滑らせ、抱きしめるような動作を繰り返している。
やっと思考力の戻ってきた頭に最初に浮かんだのは、
――ああ、とうとう行くとこまで行っちゃったのか
という妙に冷めた諦めだった。
「じゃあ私、帰るから」
本来なら引きずってでも病院に連れて行くべきなのだろうが、これ以上奇妙な一人遊びに付き合う義理もない。足早に玄関へ向かえば、案の定不満げな声が上がった。
「ええー、今来たばっかりじゃん」
「急用を思い出したの」
「嘘! ねえ、ユキちゃんもなんとか言ってよぉ」
だってぇ、綾ちゃんと食べようと思ってお菓子まで用意したのに。うん、うん、分かってるけどぉ……背後で話し続ける妃芽に、早くここを出ないと私まで幻聴が聞こえてきそうだ。それともおかしいのは私の方で、本当に誰かがそこにいるのだろうか。
ちらと振り向けば、妃芽が悲しげに眉を下げて部屋の真ん中に立っている。彼女の中にいる「ユキちゃん」は、今どんな顔をして私を見ているのだろうか。
私と対面させたことでより実在感が高まってしまったのか、それからの妃芽は口を開けばイマジナリー彼氏との毎日を惚気ていた。
「……でね、昨日は当欠しちゃったんだけど、そしたらユキちゃんが頑張らなくてもいいよって言ってくれて、ずっと背中トントンって」
「ごめん、バスが来たから」
「うん。今度また遊びに来てね、ユキちゃんも待ってるから」
妃芽はユキちゃんの容姿について詳しく語ることはしなかったけれど、彼のエピソードが増えていくたびに段々と私の中に明確な像が結ばれていく。それが恐怖だった。
妃芽とユキちゃんはどんどん仲を深めていき、最初は会話しているだけだったのが次第に手を繋ぎ、キスをし、そして昨日はとうとう身体の関係を持ったらしい。水彩画が滲んで色が混ざるように、このままだと私と妃芽のいる世界が繋がってしまう気がした。
だから私は強い意思をもって油性ペンを握り、その絵に黒い線を引く。家の場所は教えていないし、大学名も言っていない。共通の友人はいないから、情報が漏れることもないはずだ。あの弁当屋のバイトもやめてしまおう。
そう決意した数日後、妃芽に心中の話を持ちかけられたのだった。
「楽に死にたいって言うけど、ガス系は絶対にするんじゃないよ。他の部屋に漏れでもしたら、あんた人殺しだからね」
私はまた妃芽の部屋に足を踏み入れてしまっていた。「愛の心中作戦会議」に私の部屋を提供するのは断固として阻止したかったし、カフェなどの人の目があるところでは下手したら通報されてしまう。
こんな物騒なことを言っているけれど、なにも本当に妃芽の妄想を手助けしようとしているわけではない。寧ろ逆で、「あたしが先に逝くから、ユキちゃんも後から追ってきてね」なんて展開にならないよう見張っているのだ。それだと本当にこの子だけが死んでしまう。私の知ったことではないけれど、こうなった以上、人として放置するわけにもいかない。
私は妃芽の右隣を指さして宣言する。
「だから方法としては、今からここで先にユキさんに死んで貰う」
「えっ」
妃芽は指と反対側に顔を向けた。そっちにいるのか。
「場所はまあ、お風呂場でいいでしょ。絞殺か刺殺か、とにかくあんたがユキさんを殺して、そのあと首吊りでもなんでも好きな方法で後を追えばいいじゃん」
いくら妄想の世界にいるといっても、実態のないものに刃は突き立てられない。しかもこれまでのような心を癒やすための行為ではなく殺しなのだ。手順を踏むうちに正気に戻るまではいかなくとも、思い止まるくらいはするかもしれない。
まあ、これでだめなら今度こそ病院だ。
「でも綾ちゃん、あたしはユキちゃんと一緒に死にたいんだもん」
「同時になんてほぼ不可能でしょ。それにユキさんが直前で心変わりして逃げたらどうすんの。一人で死ぬのは嫌なんでしょ」
「うん」
「だからこの方法が一番確実なの。ロミオとジュリエットだって死ぬのに時間差があったんだから、ほぼ心中みたいなもんでしょ」
さっき人殺しになるなと言っておきながら積極的にユキちゃん殺しを勧めるなんて矛盾もいいところだが、まあこちらは実害が出ないので良しとしよう。
妃芽はうーんと唸って、ユキちゃんはどう思う? などと聞いている。
「――うん、あたしも! あたしもユキちゃんのためなら命だって惜しくないよ。だってあたしたち、運命なんだもんね」
一人で勝手に盛り上がっている妃芽を眺めながら、私は妄想上の存在とはいえここまで愛されるなんて羨ましい話だと、出されたお茶をちびちびやりながら思っていた。生身の人間にこのレベルの愛を求めれば破局しか道はないのだから、これも一つの幸せの形なのかもしれない。
「綾ちゃん」
「なに」
「死んじゃったらもうお別れだから、さよならのプレゼントちょうだい」
餞別と言いたいのだろうか。
「えー」
「お願い綾ちゃん。なにか一つ、綾ちゃんの大事にしてるものをちょうだい」
大事にしているものか。何だろう。最近新しく買った鞄が思い浮かんだが、この子に渡すには惜しすぎる。ふと目線を落とした先に、首から下げたネックレスが揺れていた。
「じゃあ、これあげる」
後ろに手を回して留め具を外す。チェーンの先には雪の結晶をかたどったガラスがきらめいていた。このあいだ駅前の雑貨屋で見かけて、何となく手に取った物だ。これなら安物だし、特に思い入れはないから手放しても惜しくない。
「いいの?」
「うん。ちょうどいいでしょ、『ユキさん』だし」
「これ、綾ちゃんの一番大事な宝物?」
「うん、超大事なやつ」
笑いながら手に乗せてやると、妃芽は飛び上がって喜んだ。
「やったあ! えへへ、ありがとう。これ一緒に持って行くね」
「うん、そうしなそうしな」
さ、見張っててあげるから早くユキさんのこと殺しなよ。もう夕方に近い時間だと気がついて、人でなしな急かし方をする。
「あっ、ちょっと待って! 心中なんだから、ちゃんと綺麗に着飾らないと。お化粧もしなくっちゃ」
そして小さなクローゼットを開けると、
「ねえ、ユキちゃんはどのスカート穿きたい?」
と聞いた。
「……スカート?」
「うん、やっぱり二人で色合わせた方がいいかなあ。あっ、同じブランドにするのもいいかも」
「ちょっと待って、ユキさんって女の人なの?」
何言ってるの綾ちゃん、見たら分かるじゃん。妃芽はケラケラと笑う。
「――ユキさんって茶髪のショート?」
「ううん。綾ちゃんと同じ長さの黒髪だよ」
「服はどんなの着てる?」
「白のニットに黒いスカート。あは、綾ちゃんお揃いだね」
私の思い描いていた「ユキちゃん」が一つ一つ書き換えられていく。そして最後に現れたのは私と全く同じ顔をした「ユキちゃん」だった。
妃芽に腕を絡め取られたユキちゃんが私を見て口角を引き上げる。私は声にならない悲鳴をあげてその場にへたり込んだ。
「どうしたの、綾ちゃん」
妃芽は不思議そうにきょとんとしている。もう私にも見えていた。妃芽の横をすり抜けてこちらに近づいてくるユキちゃんが。一歩一歩はっきりした輪郭となって、私の腕に手を伸ばす。
「ねえ、ユキちゃんの、殺し方なんだけど――」
殺される。私はその手を振り払って、転がるように玄関へ走った。ぶつかる勢いのままドアを開け、無我夢中で階段を駆け下りる。目を見開き、死に物狂いの形相な私に道行く人はみなギョッとしていたが、気にしている余裕などなかった。瞳が乾いて涙が頬に線を引く。私の顔をした幻がどこまでも追いかけて来るようで、最後まで振り向けなかった。