妃芽と偶然再会したのは大学三年生の秋、その日は朝から雨が降っていて、バイト先の弁当屋で私は暇を持て余していた。
そろそろ店を閉めようかという頃、すりガラスの向こうに人影が見えた。輪郭からして女性のようだ。この店は古くて、ドアの建て付けが悪いからこちらから引っ張ってやった方がいいだろう。そう思ってレジを出た瞬間、ドアが横にさっと流れた。目の前でカーテンを大きく開かれたような感覚。そしてその真ん中に――
「綾ちゃん!」
笑顔の妃芽が手を振っていた。
「まさかこんな所で会えるなんて! 夢みたい。元気だった?」
久しぶりに見る彼女は随分印象が変わっていた。
「うん、おかげさまで……えっと、個性的な服だね?」
「えへへ、可愛いでしょ」
レースとリボンがふんだんに付いたスカートをふんわりと広げてみせる。
甘ロリというやつだろうか、妃芽はその名前の響きの通り、おとぎ話のような装いをしていた。
「綾ちゃんはいま何してるの?」
「私は大学で薬学をやってる。妃芽は?」
「あたしは、んー、コンカフェとか色々」
巻いた髪をツインテールに結わえて、服に合わせたリボンを付けている。それでいて化粧はすっぴんに近かったから、私はそのアンバランスさに不健康なものを感じていた。
「いまバイト帰りでね。おなかペコペコで、もうどうしようってなって。この辺ご飯屋さんないでしょ? だから思い切ってここに入ってみたんだけど、ほら、古いお店ってなんか入りにくいじゃん? でも大正解だったみたい、ね、綾ちゃん、また会えたんだもんね」
うふっと肩をすくめて後れ毛を耳にかける。めくれたフレアの袖の向こうにはリストカットの赤い線が何本も引かれていて、私は急に現実に引き戻された気持ちになった。
その日から妃芽はうちの店の常連になった。時間はまちまちであったが、私がシフトに入っている日は必ずやってきて、聞いてもいないのに、
「あたしと彼の分!」
と言いながらからあげ弁当を二つ買っていく。
話を聞く限りでは、妃芽は碌でもない男にばかりのぼせているようだった。ある時はホストに大金を貢いでいたし、またある時は自称バンドマンとかいう実質ヒモをせっせと養っていた。彼女がからあげ弁当一つと言う日は決まって瞼を泣き腫らしていて、小さな耳には日に日にピアスが増えていく。
そんな妃芽を前に私は、淡々とレジを打っているだけだった。申し訳ないけれど、もはや住んでいる世界が違うのだ。それにこの歳になれば交際相手を選ぶのも自己責任だろう。
「弁当一つの日」は家に帰りたくないのか、私のバイトが終わるまで外で待っているものだから、バス停までの道すがら彼らへの愚痴くらいは付き合ってやっていた。
「綾ちゃん! 焼き魚弁当二つください!」
そんなある日の夕方、スキップするような足取りで店に入って来た妃芽は、私の眼前にピースサインを突きつけた。
「珍しい。今日はからあげじゃないんだ」
その浮かれた指を押し返しながら言う。
「そうなの、あの人が揚げ物苦手だって言うから。えへへ」
また新しい男ができたようだった。私もフライの類いは胃にもたれて嫌いだったから、どことなく親近感を覚える。
「私も焼き魚弁当が一番好きだな」
「そうでしょう? えへへ」
妃芽はその彼をユキちゃんと呼んだ。もう同棲もしているらしい。これまでのように馴れ初めから愛の言葉まで事細かに語ってくるかと思えばそんなことはなく、寧ろ私を待たずしてさっさと家路につくのだから、少々肩透かしを食ったような気分だ。
まあ、幸せなのは良いことだ。歴代彼氏よりはマシな男なのか、彼女の情緒は見るからに安定していたし、手首にも新たな線が重なることはなくなっていった。
「どうしても綾ちゃんに会って欲しいの! ユキちゃんもぜひって」
久しぶりに店先で待っていたと思えば、妃芽は彼を紹介したいと言い出した。
「えー、いいよ、別に話すこともないし……」
「ちょっと上がってお茶するだけでいいから!」
「それがめんどくさいって言ってんの」
本当に、心底興味がない。
「やっと見つけた運命の人なの!」
「そう、良かったね。お幸せに」
「もー、綾ちゃんってば!」
それからもあまりにしつこく纏わり付いてくるものだから、かえって面倒になってしまって、とうとう次の休みに約束を取り付けられてしまった。
中学まではあの放課後の会話しかなかったし、再会してからはバイト先だけでの付き合いだったから、妃芽のプライベートに踏み込むのはこれが初めてだ。
「じゃーん、ここの三階です」
最寄り駅まで迎えに来た妃芽について行けば、そこは随分と古めかしいアパートだった。今日地震が来たら終わりである。
彼女が言うにはユキちゃんとやらは部屋で待っているとのことだったが、
「ただいまー! 綾ちゃん来たよー」
扉の向こうはしんと静まりかえっていた。コンビニにでも行っているのだろうか。
「早く入って入って!」
妃芽の部屋は服と同じく、可愛らしい小物で統一されていた。ピンクのベッドに猫足の白い椅子、光を編み込んで揺れるレースのカーテン。パステルな色に囲まれているはずなのに、なぜかこの空間全体の彩度が低く感じられた。
部屋を見渡している私に妃芽は得意げに微笑むと、
「綾ちゃん、紹介するね!」
隣の虚空を手のひらで示しながら、言った。
「この人が、私のユキちゃん」
そろそろ店を閉めようかという頃、すりガラスの向こうに人影が見えた。輪郭からして女性のようだ。この店は古くて、ドアの建て付けが悪いからこちらから引っ張ってやった方がいいだろう。そう思ってレジを出た瞬間、ドアが横にさっと流れた。目の前でカーテンを大きく開かれたような感覚。そしてその真ん中に――
「綾ちゃん!」
笑顔の妃芽が手を振っていた。
「まさかこんな所で会えるなんて! 夢みたい。元気だった?」
久しぶりに見る彼女は随分印象が変わっていた。
「うん、おかげさまで……えっと、個性的な服だね?」
「えへへ、可愛いでしょ」
レースとリボンがふんだんに付いたスカートをふんわりと広げてみせる。
甘ロリというやつだろうか、妃芽はその名前の響きの通り、おとぎ話のような装いをしていた。
「綾ちゃんはいま何してるの?」
「私は大学で薬学をやってる。妃芽は?」
「あたしは、んー、コンカフェとか色々」
巻いた髪をツインテールに結わえて、服に合わせたリボンを付けている。それでいて化粧はすっぴんに近かったから、私はそのアンバランスさに不健康なものを感じていた。
「いまバイト帰りでね。おなかペコペコで、もうどうしようってなって。この辺ご飯屋さんないでしょ? だから思い切ってここに入ってみたんだけど、ほら、古いお店ってなんか入りにくいじゃん? でも大正解だったみたい、ね、綾ちゃん、また会えたんだもんね」
うふっと肩をすくめて後れ毛を耳にかける。めくれたフレアの袖の向こうにはリストカットの赤い線が何本も引かれていて、私は急に現実に引き戻された気持ちになった。
その日から妃芽はうちの店の常連になった。時間はまちまちであったが、私がシフトに入っている日は必ずやってきて、聞いてもいないのに、
「あたしと彼の分!」
と言いながらからあげ弁当を二つ買っていく。
話を聞く限りでは、妃芽は碌でもない男にばかりのぼせているようだった。ある時はホストに大金を貢いでいたし、またある時は自称バンドマンとかいう実質ヒモをせっせと養っていた。彼女がからあげ弁当一つと言う日は決まって瞼を泣き腫らしていて、小さな耳には日に日にピアスが増えていく。
そんな妃芽を前に私は、淡々とレジを打っているだけだった。申し訳ないけれど、もはや住んでいる世界が違うのだ。それにこの歳になれば交際相手を選ぶのも自己責任だろう。
「弁当一つの日」は家に帰りたくないのか、私のバイトが終わるまで外で待っているものだから、バス停までの道すがら彼らへの愚痴くらいは付き合ってやっていた。
「綾ちゃん! 焼き魚弁当二つください!」
そんなある日の夕方、スキップするような足取りで店に入って来た妃芽は、私の眼前にピースサインを突きつけた。
「珍しい。今日はからあげじゃないんだ」
その浮かれた指を押し返しながら言う。
「そうなの、あの人が揚げ物苦手だって言うから。えへへ」
また新しい男ができたようだった。私もフライの類いは胃にもたれて嫌いだったから、どことなく親近感を覚える。
「私も焼き魚弁当が一番好きだな」
「そうでしょう? えへへ」
妃芽はその彼をユキちゃんと呼んだ。もう同棲もしているらしい。これまでのように馴れ初めから愛の言葉まで事細かに語ってくるかと思えばそんなことはなく、寧ろ私を待たずしてさっさと家路につくのだから、少々肩透かしを食ったような気分だ。
まあ、幸せなのは良いことだ。歴代彼氏よりはマシな男なのか、彼女の情緒は見るからに安定していたし、手首にも新たな線が重なることはなくなっていった。
「どうしても綾ちゃんに会って欲しいの! ユキちゃんもぜひって」
久しぶりに店先で待っていたと思えば、妃芽は彼を紹介したいと言い出した。
「えー、いいよ、別に話すこともないし……」
「ちょっと上がってお茶するだけでいいから!」
「それがめんどくさいって言ってんの」
本当に、心底興味がない。
「やっと見つけた運命の人なの!」
「そう、良かったね。お幸せに」
「もー、綾ちゃんってば!」
それからもあまりにしつこく纏わり付いてくるものだから、かえって面倒になってしまって、とうとう次の休みに約束を取り付けられてしまった。
中学まではあの放課後の会話しかなかったし、再会してからはバイト先だけでの付き合いだったから、妃芽のプライベートに踏み込むのはこれが初めてだ。
「じゃーん、ここの三階です」
最寄り駅まで迎えに来た妃芽について行けば、そこは随分と古めかしいアパートだった。今日地震が来たら終わりである。
彼女が言うにはユキちゃんとやらは部屋で待っているとのことだったが、
「ただいまー! 綾ちゃん来たよー」
扉の向こうはしんと静まりかえっていた。コンビニにでも行っているのだろうか。
「早く入って入って!」
妃芽の部屋は服と同じく、可愛らしい小物で統一されていた。ピンクのベッドに猫足の白い椅子、光を編み込んで揺れるレースのカーテン。パステルな色に囲まれているはずなのに、なぜかこの空間全体の彩度が低く感じられた。
部屋を見渡している私に妃芽は得意げに微笑むと、
「綾ちゃん、紹介するね!」
隣の虚空を手のひらで示しながら、言った。
「この人が、私のユキちゃん」