青く朧気な春に幸あれ

「なにやってんだよ」
 そう言いながらポケットティッシュをさり気なく出すあたり桐原くんの几帳面さがうかがえる。意外。
「桐原くん、私これから委員の仕事があって、琴音が一人になっちゃうのでどうぞ一緒に」
「え、ちょっと三春!」
「え、なにお前ボッチになんの?」
「ボッチの桐原に言われたくないけど!」
 二人の掛け合いを背に離れ、教室へと戻る。女の子同士、カップルなんかが空間を埋めていた。そういえば、プラネタリウムの完成形、確認できないまま始まっちゃったな。
「なにやってんだよ」
「あ、瀬名くん……って、なんかやたらいっぱい買い込んだね」
 瀬名くんの手元には、焼きそばのパックに、りんご飴、ポテトリング、イカ焼きと、一人で食べるにしてはなかなかの量が用意されている。
「祭りだから。食べないと損。最後の晩餐ぐらいの勢いで食べねえと」
「にしても買いすぎだけどね」
 思わず苦笑がこぼれていくと、ずいっとりんご飴が差し出される。
「これは綿世の」
「え、なんで……」
「好きだったんだろ、これ」
『私、お祭りは絶対りんご飴買ってたなあ』
 ふと、瀬名くんと交わしたやり取りを思い出す。そっか、そんな話もしたんだっけ。
「うん、……好き。ありがとう」
「どういたしまして」
 何気ないことを、頭の片隅にでも置いておいてもらうって、なんだかすごく奇跡だ。
 こんなにも人がいる中で、私と瀬名くんには接点があって、隣にいる。
 それは当たり前なんかじゃなくて、奇跡の連続なんだと、ふと感慨深くなってしまう。
「あれだな、これは最後にさ」
「最後に?」
「そりゃあもちろん──」

 文化祭が、終わろうとしていた。
 校内に流れた片付けのアナウンスは十六時ちょうどに校舎、グラウンドなどに鳴り響いていた。
西に傾いた陽の光。橙色に染まっていく空を眺めながら、ぽつりと思った。
(ああ、本当に終わったんだ……)
 この二か月。思えばがむしゃらに動いていた。文化祭実行委員に抜擢された時なんか果たして自分に務まるのだろうかとさえ思っていたのに。
 廊下で剥がされていく看板などを見て、その役から解放されようとしている実感をする。
「ほら、綿世! はやく!」
 瀬名くんがプラネタリウムの中から私を手招きしている。
 クラスメイトが後夜祭のためにグラウンドへと出ていく中、私と瀬名くんはこっそりと教室に残っていた。
「へえ、なんか意外としっかりしてるな」
 光が遮断された空間で映し出されていたのは、淡い青の空。
 それからゆっくりと色が深くなり、次第に黒へと流れつくと、小さな星々が光りはじめる。
 その様子を、私と瀬名くんはごろりと寝そべって見上げる。
「贅沢だ」
「ほんとにな。これ、作った俺らすげえ」
 自画自賛。でも、その通りだ。これを作った私たち、ほんとうにすごい。
 たくさんたくさん嫌なことがあって、たくさんたくさん乗り越えてきたものがあった。その集大成がこの空なんだと思うと、頑張ってよかったと心から思える。
「この空を、きれいだって思って見てもらえたかな」
「見てもらえたよ。きれいだと思えない奴は、心が腐ってんだよ」
「それは言い過ぎだよ」
 本物の空じゃないかもしれない。
 でも、この空だから、今こんなにも感動している。
 きっと私一人では何も出来なかった。
 もう一人のパートナーとして瀬名くんがいてくれたから、きっと私は委員としてやってこれた。
「ありがとう、瀬名くん」
「なんだよ、いきなり」
「いや、瀬名くんがいてくれてよかったなと思って」
 照れくさいことも、今なら言える。
「ちょっと飲み物買ってくるよ」
 でもやっぱり恥ずかしくなって、勢いのままプラネタリウムを飛び出す。
 あのまま一緒にいたら、自分でも思ってないことを言ってしまいそうな気がして、それは絶対に後悔するだろうからと、やめた。
 廊下を出て、そういえば瀬名くんの好きな飲み物って知らないなと思い出していると──。
「それ、綿世三春のこと?」
 窓の外から聞こえた声に、どきりとした。
 この声、知ってる。
 ──莉子だ。
「はあ?」
「だから、綿世三春の話かって聞いてんの」
 莉子と、それから渡辺さんたちグループ。どうして莉子は一人なんだろう。
 そっと窓から下をのぞき込めば、中庭には睨み合ったグループがいた。
「え、知り合い? あの出しゃばり野郎と」
 渡辺さんの馬鹿にするような、鼻で笑ったような口調が鼓膜に届く。
「知り合いっていうか同じクラスだし。ムカつきすぎてビンタしたったわ」
「へえ、ビンタ」
「あんたら他校でしょ?」
「他校だけど、同中」
「ああ、じゃあデビューしたの知らない? なんか文化祭で覚醒したの」
 げらげらと、その笑いが心臓を抉っていく。
「すごいよ、なんか急にしゃしゃるし。校内でも人気の男子と仲良くなりはじめるし、なんかすごいうざいんだよね」
「だからビンタ?」
「まあ一喝しといてやろうって──」
 バシン、と。乾いた音が響く。
「じゃあ、私からも一喝するわ」
「っ、なにそれ」
「なんかムカつくんだよね。三春の悪口言われるの」
 莉子が渡辺さんにビンタをお見舞いする。その勢いがあまりにも強くて、渡辺さんが頬をおさえている。
「なにすんのよ!」
「──莉子!」
 自分でも驚いた。どうして私、今、莉子の名前を呼んだんだろう。
 莉子の瞳が私を捉える。
「こっち!」
 どうしたらいいのかわからない。でも、自分の方へと呼んでいて、走り出している。
 莉子もまた同じように走り出し、校舎へと入ってくる。その後ろを渡辺さんたちが追いかけている。
 生徒が疎らな廊下をただひたすらに走り、階段を見つけては勢いよく下りていく。
 足音が聞こえ、二階の踊り場で莉子を見つけたときは、なにも考えず莉子の手を取っていた。
 渡り廊下を突き抜け、無我夢中で走り続ける。目的地なんてどこも当てがない。でも走らないといけないという使命感だけで突き動かされていた。
「ここなら……っ、平気、だと思う」
 調理室へと駆け込み、シンク下に隠れるよう身を潜める。息が、吸えない。
 何度も肩で呼吸していると「ねえ」と莉子の声が聞こえる。
「なんで、助けて、くれたの」
 胸元を抑えながら、必死に酸素を求める莉子の姿。
「なんでって……なんで、ビンタなんてしたの、渡辺さんたちに」
「知らないっ……ムカついたから」
 バタバタと、足音が聞こえる。ああ、渡辺さんたちだ。その足音が近くなり、そしてまた急速に遠のいていく。
「謝りたかった」
 グラウンドから微かに音楽が聞こえ、生徒の声も混じって賑わっている。
 橙色の光を受けた莉子の髪が、艶めくように輝く。
「三春に、謝ろうと思ったの」
「……なんで」
「傷つけたから」
 真っ直ぐに見つめられ、息が止まりそうになる。
「中学のときも、卒業してからも、さっきも。ずっと三春のことを傷つけて、それでいいやと思ってた。私には関係ないって思ったし。でも、だめだとも思った」
「……莉子」
「ごめんなさい。たくさん傷つけて。また友達になれるなんて思ってないし、傷つけたことは変わらないけど、それでも謝りたかった。ちゃんと、三春に」



 窓から見えた特設ステージがライトアップされている。
 グラウンドに設けられたそのステージの前には生徒がどっと押し寄せ賑わいを見せている。後夜祭が始まり、今はちょうど軽音部によるライブが行われていた。
「あーもう、またいなくなってるんだから!」
 琴音の声が廊下に響き視線が逸れる。
「あ、ごめんごめん」
「もう、瀬名に聞いたら、いきなり消えたとか言い出すし。あいつ、ぜんぜん役立たないんだから」
 頬を膨らませた彼女を宥めるように「ごめん」とまた繰り返す。
 それからまた窓の外へと視線を戻す。そこには、さっきまで見えていた莉子の背中があって、その姿は静かに消えていった。
『許せないこともいっぱいある……でも、私も莉子を傷つけたことあるだろうか。ごめんね』
 そう言った莉子は、ううん、と首を振った。
 莉子とは、それから、じゃあね、と別れて終わった。
「不思議だね」
 軽音部が奏でる音とともに、琴音の声が風にのって耳に届く。
「ん?」
「ほら、こうして私たちが一緒にいるの」
 少し照れくさそうに笑う琴音を見て「そうだね」と静かに呟いた。
 文化祭が始まる頃は、琴音に話しかけられるを避けたいと思っていて、琴音の笑みが苦手で、きっと友達にはなれないタイプだと思っていた。
 そんな人が今、私の隣にいる。
「三春、なんかこの文化祭で変わったよね」
「そう?」
「前より声出るようになったし、何より表情が豊かになった」
「どうだろう、自分じゃわからないなあ」
「瀬名のおかげ?」
「えっ、いや、そんな!」
「全力過ぎて逆に怪しい」
 そう冗談っぽく茶化されるものだから「やめてよ」と視線を外す。
「何が俺のおかげだって?」
 ひょこっと現れた瀬名くんの顔に肩が飛び上がるように反応する。そんな私を見て彼は「はは、大袈裟」と笑う。
「あーほら、三春の表情が豊かになったのって瀬名の——」
「なんでもないから!」
 琴音の声を遮るように割って入れば瀬名くんが「気になるじゃん」と口を尖らす。
「いいの! ほら、グラウンド行こうよ」
「却下」
 私の提案をきっぱり否定したのは、またしてもどこからともなく現れた桐原くんだった。
「すっげえ人だから。今出ても人混みに潰される」
「潰されるって」
 呆れたように笑う琴音に「じゃあ」と切り出したのは瀬名くん。
「いつものとこ行きますか」
「いつものとこ?」
 首を傾げた私を見ては、人差し指を作り上を指す。
「そりゃあ、もちろん——」

 古びた扉を開ければ、心地いい風が肌をなでた。
 瀬名くんが〝いつもの〟と言った場所は、屋上だった。
「ば、ばれない……? まだみんないるし」
「綿世はほんとビビリだな」
 こんな先生に見つかったら怒られるようなことを人生で一度もしてきていないんだもの。
 そんな私とは対照的に「大丈夫だろ」とぶっきらぼうに言い放つ桐原くん。琴音だって「みんなで怒られようよ」と開き直っている。仮にも学級委員じゃないかと言ってやりたくなるのを寸止めでやめる。
 いつの間にかライブは終わり、今は生徒による漫才が披露されている。どっと笑いが起きるほどに盛り上がりを見せているらしい。
 そんな後夜祭の中、私たちは屋上にいるのだから、なんだか心がそわそわしてしまう。
「綿世」
 瀬名くんはフェンスに凭れながら私を呼ぶ。
「本物、はっきり見えるよ」
 そう言って空を見上げた彼につられて私も同じように眺める。
 濃紺の空に浮かぶ白い無数の星。その輝きはきらきらと輝きを増している。
「ほんとだ」
 夕方に見るよりも、やっぱり星は夜に見た方が格段と綺麗に見える。
「思えば変なメンバーだな」
 どかっと寝そべった桐原くんが空を眺めながら呟く。
「たしかに。ここに桐原がいるのも変だし、三春とか瀬名とか、異色のメンバーだよね、今」
 背にかかった髪を靡かせながら、琴音も楽しそうに愛嬌よく笑っている。
 本当にその通りだ。
 こんなメンバーで文化祭を過ごすなんて思いもしなかった。
 絶対に、仲良くなれるとは思っていなかった人たちばかりだ。そんな人達と今、屋上に来て空を見てるなんておかしな話で、
「でも、楽しいなぁ」
 無意識にこぼれたそれに、視線がぐっと集まった。
「あ、ごめん。つい」
「なんで。いいじゃん、楽しくて」
 すかさず瀬名くんが同調してくれる。まるで彼も楽しいと思っているみたいで、なんだか頬が綻ぶ。
 この二か月、本当にあっという間だった。
嫌で嫌で仕方がなかったのに、気付けば名残惜しさも感じてしまっている。こんな風に思う日がやってくるなんて夢みたいで、今でも夢を見ているじゃないかとさえ思う。
 それでも、隣に瀬名くんがいて、琴音がいて、桐原くんがいて。
 この今がどうしようもなく嬉しいと感じているのは、きっと生きているからだろうなと思ったりする。
 いろんなことに向き合ってきた二か月間。
 終わってしまうのは寂しくて、もっと出来たこともたくさんあったんじゃないかと後悔も残るけど、
「来年も楽しみたいね、文化祭」
 また来年。
三年に進級して、同じ季節がやってくる。そんなときも、変わらずこの四人で集まれたら、すごく楽しいんじゃないだろうか。
「そうだね」
 そう微笑んだ琴音も、
「まあな」
 穏やかな表情をしていた桐原くんも、
「……だな」
 少し寂しそうにしていた瀬名くんも、
 みんな、思い思いになにかを考えていたのだと思う。
 きっと、不確かな不安を感じながら、それでもそうだったらいいという小さな希望を持って、小さく輝く星を眺めていた。
 グラウンドに残された消火済みのキャンプファイヤーを見て、寂しくなった。
 たくさん準備をかけても、この高校の文化祭はたった一日。二日、三日と続くわけじゃない。だからこそ、こうして名残惜しさを感じてしまうのかもしれない。
「三春」
 校門近くで琴音が呼んでいる。「早くおいで」なんて言われながら、下駄箱に上履きをしまい、地べたに置いたローファーに足を突っ込む。
 と同時に何かが床に落ちる音が聞こえ、視線を流せば黒いスマホケースが転がっていた。
 それを拾い上げ画面が割れていないか確認すれば、
「──っ」
 ブルーライトが目を刺激する。真っ暗だった画面は少し触れただけでどうやら反応してしまったらしい。暗闇の中でぼぅと光る画面に、私を言葉にならない衝撃を受けた。
 どくどく、と心臓が鳴る。それは鳴り止むことを知らないようで、どういうことなのかを瞬時に考えて、でも、なにも思い浮かばなくて、ゆっくりと持ち主にスマホケースを差し出す。
「……瀬名くん、落ちたよ」
「え? ああ、ありがと」
 落としたことに気付いていなかった彼は、靴を取り出しながらもう片方の手でスマホを受け取った。
 真っ暗に戻った画面は、何事もなく彼のブレザーのポケットにしまわれる。それを眺めていれば「なに?」と不思議そうな顔で首を傾げた彼と目が合う。
「ううん、なんでも」
「そ、早く行かねーと香川さんに怒られるよ」
「……うん」
 文化祭が終わり、時間はもう二十時をまわろうとしていた。
ほとんどの生徒が帰った校舎を振り返れば、賑やかさなどなかったかのようにしんみりと佇んでいた。
「じゃあ、また明日……じゃないか、また月曜日!」
「うん、また月曜日」
 そう頷いた私に琴音は満足そうに笑った。
「じゃーな」
 桐原くんと琴音は、ぽつぽつと並んだ街灯のある道を二人仲良く帰っていった。家が近いのはどこか羨ましかったりする。
「じゃあ」
 瀬名くんが軽く手をあげたので、私もつられて右手をあげる。
「うん」
「あ」
 何か思い出したような顔つきは、少し口角をあげ、
「委員、お疲れ様」
 どこかほっとするような笑みを浮かべた。
「瀬名くんこそ、お疲れ様」
「俺はなにも」
「そんなことないよ」
 本当に、そんなことはない。私一人では決して務まらなかった。その想いが通じたのか通じていないのか、彼は「うん」と力なく頷いた。
「じゃあ、改めて」
「うん、じゃあね」
 そう、笑い合って互いに背を向けた。
 校舎を出て、真っ直ぐ言った琴音と桐原くん。その右は瀬名くんで、左は私。綺麗に皆が分かれるように帰っていく。
 空を見上げ、無数に輝く星をぼんやりと見つめる。
 今頃みんなもこの星を見て帰ってるんだろうか。同じ空の下で、それぞれが皆、いろんな思いを抱えて、見つめているんだと思うとなんだか心強くなって、安心する——そう、無理に思っていないと、なんだか心がおかしくなりそうだった。