青く朧気な春に幸あれ

 プラネタリウムの制作が終盤を迎えていた。
「はい、香川さんはソーダで桐原はコーラ、綿世さんはあずきね」
「え、あれ……なんで私ってあずき?」
 瀬名くんから渡されたのはたしかにあずき色のアイスだった。
 教室で文化祭の作業をしていると、瀬名くんが白いビニール袋を片手に現れアイスを配り始めた。たった三人しかいないこの空間で、他の生徒はもう準備を早々に切り上げては帰ってしまった。
「ちなみに瀬名くんは?」
「カルピス」
「……私もそういう爽やか系が良かったかなぁ、って」
「え、綿世さんってあずきがこの世で一番好きなんでしょ?」
「言ったことないよね、そんなこと一言も言った覚えないよね」
「はは、面白いね綿世さん」
「どこが?」
 一人だけ何故急に和が飛び出してくるのか。
 どちらかというとあずきは苦手なのだけど、それでも買ってきてもらって文句は言えないので渋々開封すると、
「やっぱ俺がそっち食べるわ」
 ひょいっと伸びてきた腕にアイスを掻っ攫われ、代わりに白いアイスが渡される。
「瀬名って綿世さんに対して謎だよね」
 香川さんの言葉に桐原くんも「綿世の扱い雑過ぎ」だと野次を飛ばす。
 よかった、傍から見てもこれは謎だと認識してもらえている。
 その言葉に特別反論するわけでもなく、やっぱり笑うだけの彼。
 手元のアイスは早くも溶け始めていて、どろっと落ちそうなのを急いで舐める。教室でアイスを食べるのは初めてで、なんだかそれが、
「青春っぽいな」
 私の声がまるで代弁されたかのように続けられた瀬名くんの声。
「……好きだね、青春っぽいって」
〝同じことを思ってた〟というのはなんだか恥ずかしくて、照れ隠しついでにそう伝えると「今しか出来ねえからな」とあずきのアイスを見ては静かに溢す。
 その横顔がどこか切なく見えて、なんだか台詞と一致していないように見える。
 なんで今しか出来ないの?
 それって──。
「よしっ、青春ついでに屋上に行くか」
 ぱっと立ち上がっては突拍子のないことを切り出した瀬名くんに、その場にいた全員が「え?」と驚きの表情を浮かべる。
「ほら、行くぞ」
 そう言ってアイスを持っていないもう片方の手で腕を掴まれ立ち上がらされる。そのまま強引に連れて行かれる私の後ろで「ちょ、瀬名!」と急いで駆けつけてくれる香川さんと、面倒くさそうに、それでもついてきてくれる桐原くんの姿が見えた。
「え……あの、ほんと入ってもいいの?」
「バレたらまずいだろうな」
「えー」
 立ち入り禁止のプレートをやすやすと乗り越え、施錠されているはずの重い扉はドアノブを捻ると、きいっと音を立て開いた。
「なんで鍵が……」
「元々開いてるよ。鍵が閉まってるって見せかけてるだけで」
 なんでそんなことを瀬名くんが知っているのか。
 そんな私の思考を遮るかのように広がる茜色の空に目を奪われる。夜を連れてくる準備をまるでしているかのように、少しだけ薄暗い空と橙色が綺麗にグラデーションを描いている。
 さっと風に髪を攫われ、肩まで伸びた毛先を耳にかける。
「はぁー涼しいね」
 香川さんが両手をくっと広げ深呼吸をする。その後ろからは怠そうに階段をあがってきた桐原くん。
「ほら、綿世、こっち来てみ」
「……あ、うん」
 あれ、今〝綿世〟って呼んだ?
 いつもは律儀にさん付けで呼ぶ彼から、何故だか綿世と呼ばれると距離感が上手く掴めなくて、ぎこちなく歩みを進める。
 なんでだろう。
「ほら、あそこ」
 そう言って指の先を辿るように顔をあげれば、淡い青の中に控え目に光る白を見つける。
「星……」
 小さく光る星は、目を凝らすとその周りの小さなものまで見え始める。
「この明るさでも見えるもんだな」
 瀬名くんの言葉にただ静かに頷く。
 こうして空を見上げたのはいつぶりだろうか。昔はよく空を見て、月を見たり星を見たりしていたのに。いつから、下ばかり向くようになってしまったのか。
 少しだけ冬の匂いを纏う空気が鼻腔を擽る。気付けばもう十一月を迎えようとしている。紅葉の季節、様々な色の葉がこの屋上からも見えた。
「ちゃんと……見てなかったな」
「ん?」
「……いや、なんか、ちゃんと色づいていたのにと思って」
 仄暗い空間で、膝を抱えるように下ばかりを向いていた。何かに怯えていたように思うけど、何に怯えていたのか、それは自分でもわからない。
 毎日、人の視線が怖くて、でも逃げ方を知らなくて。
 いつから、こんな風に色を色だと感じなくなったのだろう。いつから、色を排除してしまっていたんだろう。
 こんなにも、世界は色づいていたのに。
「やっと出てきたんだ」
「え?」
 ふわり、と風にのせられた温かな声が、耳朶にそっと触れる。
「ちゃんと出てこれたじゃん」
 目を細めた彼と目が合い、なんだか胸がきゅっと締め付けられるような感覚を覚える。
『……早く、出てけよ』
『そんなとこ、いつまでいんの』
 少し前、瀬名くんに投げかけられた言葉が今は何故だかぴたりと当てはまる。
〝ああ、見ててくれていたのかもしれない〟そんなことをふと思ってしまった。仄暗い世界にいる私を、瀬名くんはずっと見ていてくれたのかな、なんて。
 そんなわけないのに、都合よく解釈してしまいそうになる。
「……そうかな」
 頬を撫でていく風は、瀬名くんの前髪をさらさらと揺らす。
 こんなにも柔らかな風は、きっと今まで何度だって吹いていた。その柔らかさに、私は気付いたことなんてあっただろうか。
 目を瞑ると木の葉の擦れ合う音が聞こえてくる。
「空の下にいるとさ、なんか心がオープンになるよね」
 緑のフェンスに背中を預けながら空を見上げる香川さんが隣に立つ。そんな彼女を真似るようにフェンスに凭れ「そうだね」と頷くと、
「だからさ、三春って呼んでいいかな」
 思わぬ提案を受け、ぱっと視線を香川さんの顔に移す。
「えっ」
「あ、ごめん。迷惑ならこのまま綿世さんって呼ぶから」
「あ、違うの! あの、その……嬉しくて」
〝那月ちゃん〟
 桐原くんの妹さんにそう紹介してくれたとき、柄にもなく嬉しいと思った。
名前を呼ばれるだけ。家族から呼ばれることとは違う、特別な幸福感。
「……私も、琴音って呼んでいいのかな」
 名前なんて、子供の時は平気で呼び合えていた。下の名前だって呼び捨てに出来て、遊んでいるうちに友達というスタンスが成立していた。
それが年齢を重ねると、遠慮という言葉が浮かんで上手く出来なくなってしまった。
 だから、改まって名前で呼んでいいかなんて聞いてくれた香川さんはきっと緊張しただろうし、なんてことはないような顔をしてくれてるけど勇気を出してくれたのだと思う。
「もちろん、その方が嬉しい」
 だから、この笑顔を向けてもらえてよかったと思う。
 人は、見えてるものだけが全てではない。
この笑顔の裏には、たくさん傷付いてきた過去があって、臆病になりながらも乗り越えてきた証が、きっとこの笑顔なのだろう。
 それから、ジュース買い出しじゃんけんを提案した瀬名くんに嫌々参加させられた三人は、綺麗にグー二名、チョキ二名で分かれ桐原香川ペアで買い出しに行かされる羽目となっていた。
「お前、今度は覚えてろよ」
 桐原くんの苛立ちを含んだような視線にも、瀬名くんは「いってらっしゃーい」とひらひら手を振って送り出していた。
 琴音も、ぶーぶーと垂れながらも桐原くんと仲良く屋上を出て行き、その背中を見送った。
 じゃんけんは意外にも盛り上がりを見せたものだから、しんと静まった今がどうもぎこちなくて、誤魔化すようにフェンス越しのグラウンドを見ていた。
 野球部とサッカー部が半々で練習している風景。
部活動に励む声に耳を済ませながら少しだけ羨ましいと思った。
何かに熱中するなんてことがなかった。今までずっと帰宅部を貫き通してきた私からすると、放課後も残って熱を注ぐなんて経験は一度だってない。
「私ね、ずっと死にたいって思ってたの」
 なんで、するりと口にしてしまったのか、自分でも不思議だった。
 解放感なのかもしれない。心が凪いでいる気持ちになる。
「毎日、今日が私の命日になるって思って過ごしてた。そしたらね、嫌なこともなんとか乗り越えられるの。私どうせ死ぬんだからって、そう思えたら心が軽くなってね」
 黒いカーテン。あれを見る度に、死ぬ権利をもらったような気がした。
 これがあれば私はいつだってこの世界から別れることができる。
 私の最終兵器。
「でも不思議なんだけど、最近はそういうこと考えなくなってた」
「だろうなって思った」
 変に相槌を入れなかった瀬名くんが、まるで全部わかってたように話す。
「死にたいって、もうあの感想文に入ってるようなもんだったし。だから、そう思ってないって聞いて安心した」
「……そうなんだ」
「うん」
 空の濃さが、またぐんと深くなっていた。
「今は、生きててよかったって思えるよ」
「おう、成長だな」
「瀬名くんは?」
「え?」
「なんで、あんな記事書いたりしてるの?」
 どこかで、聞かなきゃいけないと思っていた。
 あんな記事、やっぱりどこを探しても見つからなかった。
 それはつまり、瀬名くん自身が作ったもので──。
「瀬名くんも、死にたいって思ってるの?」
 生きていくための術だったのかもしれない。
 瀬名くんの髪が、またさらりと後ろに流れたのは、瀬名くんが空を見上げたから。
「綺麗だよな、星って」
「……うん、綺麗だよ」
「なんで、ただ光ってるだけで綺麗とか思うんだろうな」
「……なんでだろう」
「あれを見ると、なんか心が落ち着くんだよ」
 なにを指しているのか、すぐにわかった。
 きっと落ち着いて見てるのは星じゃない。
 あの記事だ。
 自分が死んだ、あの記事。
「死にたくなっても、あれを見るとなんか落ち着く。死にたいって思うことは別に異常じゃないと思う。でも、普通じゃないよな。それぐらい、精神がぶっ壊れてるんだろうし。でも周りは気付かないんだよ。そこまで壊れてんのに、そいつが普通にしてたら気付かない。その普通も作り物かもしれないのに」
 何を背負った言葉なのだろう。
 瀬名くんから発せられる痛みを聞き逃さないように、耳を、心を研ぎ澄ませて聞くのに、そんなことさえも無意味なような気がしてしまう。
 だって、瀬名くんの声色は、まるで柔らかな風のようにやさしい。
 どこにも棘がなくて、痛みさえも嘘なんじゃないかと思うほどに、軽い。
「でも、今はあんなの見てない。見る必要がなくなったのかもな」
「ほんとうに?」
「うん。綿世と一緒で、充実してるんだろうな」
 充実。瀬名くんは私に、あの読書感想文のことを拠り所だと言った。
 ならば瀬名くんにとっても、あの記事は拠り所だったのだろうか。
 あんなのを作ってしまうぐらい辛かったことが、今は緩和されているのならいい。
「つうか、俺送ってたのか。はず」
「そんなことないよ。私だって、死にたくなって黒いカーテン買ったりしてたから」
「え、そこロープとかじゃないんだ」
 なんで、こんなこと、笑い合って言えてるんだろう。
 それだけ、私たちが、抜け出せたってことなのかな。
 ちゃんと、星の光が届く場所に、私たちがいるってことなのだろうか。
「おーい、買ってきたよ」
 琴音と桐原くんが仲良く戻ってくるのを見て、笑みがこぼれた。
「なんで……」
 いよいよ文化祭当日。
 学校に着いた私を、血相変えて探していたのは琴音だった。「やばいことになってる」と連れて行かれた教室では、昨日まできちんと形になっていた段ボールがバラバラに散らばっていた。
 プラネタリウムが壊されたんだと、そう気付いたのはそれから数秒後だった。
「最悪だよ、こんなことするの」
 琴音が、ひとつひとつその破片を拾っていく。小さな背中は震えていた。
 一生懸命作ってきたものが、たった一晩で壊されるという現実。
 時間も、想いも、ぜんぶ、無駄にさせられたような気がして、そのままへたり込んでしまいそうになる。
「ねえ、これって渡辺さんたちじゃないの?」
 クラスメイトの一人が、ぽつりと呟く。
 思い当たる人物というのは、ここにいる全員が一緒らしい。
 最後まで手伝わなかったグループ。ずっと、私たちのことを馬鹿にしていた顔。
 ふっと、怒りが頂点に達しそうになって、それを必死に抑える。
「ほら、カーテンまで切られてる。暖簾替わりのやつ」
 教室の扉前後を黒いカーテンで覆っていた。
 それが今ではナイフで刻まれたようにボロボロにさせられている。
 怒りが、収まらない。たぶんもう、限界だ。
「……琴音、渡辺さんの番号、教えてくれないかな」
 それはもう、無意識の領域だった。
 振り向いた琴音の目が大きく見開かれている。
「三春……それって」
「ごめん、教えてほしい」

 今まで、こんなに怒ったことはないかもしれない。
 彼女たちを目の前にしても、正直全く動じなかった。
「え、それって私たちがやったって言いたいの?」
 文化祭がもう始まる。校舎は忙しなく、人の動きも激しい中で、階段の踊り場を占領している私たち。
「やってないって言うの?」
「やってないよ」
 ねえ、と友人たちと目を合わせるその瞳に、悪意がないなんてありえなかった。
 馬鹿にしてる。どこまでも私を、あの出し物を、馬鹿にしてることが許せない。
「羨ましかったことの腹いせだよね、あれって」
 自分でも、ここまで冷たい声が出せるのか驚いた。
 今は彼女たちを軽蔑している。怖いと思うことがない。
「琴音のことが羨ましかったんでしょ」
「はあ?」
「だから壊したかった。琴音が楽しそうにしてたこと全部、壊してスッキリさせたかった」
 私と一緒にいるのが気に入らなかったはずだ。
 自分たちが仲間外れにしたくせに、琴音は孤独にならなかった。
 桐原くんや瀬名くんだっていた。その光景が羨ましかったんだ、この人たちは。
「なにそれ、羨ましいとか、そんなんで私らが動いたと思ってるとか笑える」
「でも壊した。みんなで作り上げたものを、あなたたちは壊した。そうすることでリセットした」
 そうすれば、ぜんぶゼロになるから。何もかもなかったことになるから。
「それ、最低だよ。馬鹿げてるよ」
 勢いよく頬にビンタが飛んできて、顔がぐんと左に向く。
 ああ、図星なんだなって、そう思う顔だった。
 じっと睨む。最低だよ、と今度は心の中で呟く。
 人の想いを踏みにじる人間は最低だ。それを自分の心境だけで都合よく壊していいものじゃない。
「関わらなくていい。あれは私たちが修復する」
 そう言うと、渡辺さんは、まるで自分が被害者みたいな顔をする。
「関わるわけないし。修復もしない」
「それでいいよ」
 それだけ言い終わると、私は教室へと戻った。
 もうあれ以上、時間を割くことはしたくない。
 自分が今、しないといけないことはひとつだけ。
「ごめん、抜けて。私、どこやったらいい?」
 教室に戻れば、琴音が心配そうに私を見て、それから驚いたような顔をした。
「三春……その、ほっぺ」
「ああ、大丈夫。それより時間がないよ。完成させよ」
 本当に平気だった。だから笑みだって浮かべることが出来た。
「……うん、じゃあ三春は段ボールに黒いテープをどんどん貼って」
 琴音もそれ以上追及することはなかった。言いたいことを飲み込んでくれたのはありがたかった。
 渡辺さんたちを除くクラスメイトが、一丸となって修復作業に追われていた。
 きっと準備していた期間よりも、今はまとまっている気がする。
〝今〟を、見つめられている気がする。
 この一瞬を、切り取れたらいいのにと、そう思うほど、強い光景で。
「こら、ぼさっとすんな」
 瀬名くんが段ボールで私の頭をこずく。
 瀬名くんも桐原くんも、黙々とプラネタリウムを直していた。
 悔しい。悔しい。悔しい。
 だから諦めたくない。間に合わなかったね、なんて言って終わらせたくない。
 今、私ができる全力の力を注ぎたい。
「カーテン、だめみたい。予備がないんだって」
 切り裂かれた黒いカーテンは、映画研究会から借りたものだった。
 そこに掛け合ってくれたクラスメイトが残念そうに肩を下げる。
「……私、ある」
「三春?」
「カーテン、あるよ。黒いの。それ、使おうよ」
 半額で買ったあのカーテン。死ぬために買ったあのカーテン。
 あれはずっと、私の部屋の隅に置かれている。
「ほんとう? じゃあ綿世さんに頼んでいい?」
「……もちろん」
 何度もうなずいて「琴音に作業手伝えなくてごめんね」と伝えると「そんなのいい」
と力強く送り出してくれた。
 廊下を走りながら、もつれそうになる足を必死で動かす。
 歩いて二十分。走れば十五分。でも自転車があればもっと早く着くのに──。
「綿世!」
 高い音のブレーキ音と、それに跨る瀬名くんの姿を校門前で見つけたとき、ハッとした。
「乗れ」
「え、でも」
「あのカーテンなんだろ?」
 胸が、ぎゅっと絞られるみたいだった。
 なんのために存在しているのか、その意味を私と瀬名くんだけが知っている。
「うん!」
 躊躇なんて言葉は一切取っ払って、だめな行為だということも重々承知の上で、私は瀬名くんの後ろに乗った。
 校則違反だとか、警察に見つかったらマズイかもしれないとか、そう思うのに、そんなことよりも今はとにかく、あのカーテンがほしかった。
 あれを、こんな形で使うことになるとは思いもしなかった。
「瀬名くん」
 風景が、勢いよく通り過ぎていく。
 風で、瀬名くんの背中のシャツを膨らませている。
「なに」
「私、あれ使わなくてほんとうによかった」
 何度も想像した。あの黒いカーテンに首をくくる瞬間を。
 でもできなかったのは、使えなかったのは、死ぬ勇気なんてなかったからだ。
 死にたいと思っても、死ねなかった。
 でも、ほんとうは、死にたくなかったのかもしれない。
「よかった、ほんとうに」
「ん」
 ぶっきらぼうで、素っ気ない返事だったけど、それだけでよかった。
 聞いてくれてるだけで、それでよかった。
 
 壁を乗り越えれば、そこにはやっぱり壁が待っているものらしい。
「ねえ、莉子。チケットあるでしょ?」
「あるはずなんだけど、あれー、忘れたかも」
 聞き覚えのある声に、ぴたりと足が地面から離れなくなった。
 瀬名くんが自転車置き場に行き、私は一足早く校舎へと入ろうとした。
 声がするのは校門近くに設置された受付から。そこに、いる。
 なんでだろう。私、今なら全然平気だと思っていた。
 渡辺さんに凄まれても、ビンタされても、余裕だった。
 なのに、なんで。莉子の声を聞くと、こんなにも心臓を掴まれるのだろう。
「あ、ねえ綿世三春じゃない?」
 目が、合った。
「ほんとだ」
 あの頃のメンバーでくすりと笑い合う。莉子も、あきほも、蘭も。なにも変わらない。私だけが、そこにいないだけで。
「ねえ、三春」
 久しぶりに、きちんとした名前で呼ばれた。
 カーテンが入ったプラスチックの箱をぎゅっと握る。
 逃げたい、でも、逃げられない。
「うちらチケット忘れたの。でも、在校生が招待したってここに一緒に記入してくれたら入れるんだよ。だからさ、名前書いてほしいんだ」
 都合がいいな、と思う。
 困ったとき、誰も助けてはくれなかったのに。自分たちが困ったときだけ、こうやって声をかけてくるような神経を疑う。
 なに、それ。なんだよ、それ。
「……っ、らない」
「え?」
 出てよ、声。ちゃんと出てきてよ。
 今言わなくていつ言うの。いつ、ちゃんと今と向き合うの。
「知らない」
「なんて? 聞こえた?」
「きこえなーい。三春って昔から声小さいもん」
 笑われて、見下されて、それでも私の心はこんなにも震えていて。
 いつまで続くんだろう。いつまで、この人たちに怯えないといけないんだろう。
「俺の彼女、あんまいじめないでほしいんだけど」
 ぐっと横から肩を掴まれ、引き寄せられる。
「それとも、まだ続ける?」
 見上げれば、近距離にいるのは瀬名くんで、走ってきたのか息が切れてる。
「瀬名……」
 莉子の瞳が大きく見開かれる。
 ああ、今も好きなんだって、そういう顔に見えた気がして。
「付き合ってるの?」
「だったらなに? なんの関係がお前らにあんの? つうか、こっちはこっちで忙しいんだわ。暇人に付き合ってらんねえんだよ」
 それから、瀬名くんの目が私へと向けられる。やわらかな日差しを受けた髪が揺れる。
「行こ」
 自然と手を繋いで、そのまま莉子たちに背を向けて、私たちは走った。
 校舎へとただ走って、靴を脱ぐときには離れた手が、また繋がって。