翡翠は大女将に喧嘩腰で示談しに行くつもりらしいけれど、私は認めてもらいたい。そのために何度でも何度でもお願いするつもりだ。

「大女将! 話がある」
「なんだい騒々しいね、今から篝様がお帰りになる、あんたたちもお見送りしな!」

 旅館に玄関には職員がみんな集まってきていた。荷物をまとめた篝様の姿も見える。篝様は私と翡翠を交互に見ると、表情をやわらげた。

「那岐さん、またお会い出来たら嬉しく思います。色々と現世のことを教えてください」
「こ、こちらこそ! 色々教えてください、篝様が整えた薬湯、ものすごくよい匂いで感動しました」
「ありがとう。どうか、幸せになってくださいね」

 にっこりとほほ笑む篝様に私は深々と頭を下げた。勘違いしていてごめんなさい。今度会うときは、篝様と友達になれたら嬉しいな。

 篝様を見送ると、翡翠はキッと大女将を睨んだ。そんなに怒らないでも大丈夫だよ、翡翠。

「なんだい、若旦那は私に何か言いたいことがるみたいだね」
「山ほどある。とにかく、私は那岐を妻に迎えて若女将に据える。大女将には隠居していただくからな」
「そんな人間の小娘に絆されて、水龍たるものがみっともない」
「那岐を愚弄するな」
「落ち着いて翡翠!」

 私が翡翠をなだめようとしがみつくと、「はいはいは~い」と明るい声にパンパンと手を叩く音がした。

「大女将、もうお芝居はいいんじゃないの?」

 市杵島姫命が楽しそうに笑いながら姿を見せた。

「市杵島姫命、私は芝居なんかしてはいませんよ。人間が気に入らないのは本当のことですからね」
「あら、でも那岐のことは気に入ってるくせに。煮えきらない翡翠を焚きつけるために篝までつかっちゃって」
「そんなわけあるものですか! とにかく、私は隠居していればいいんでしょう。勝手になさい、みんなして年寄りを邪魔者扱いして!」
「待ってください大女将!」

 私は立ち去ろうとする大女将を呼び止めた。大女将は背を向けたまま、それでも立ち止まってくれる。

「大女将、人間の私をこの年になるまで旅館においてくださり本当にありがとうございました。大女将は私を学校にも通わせてくださり、人間らしく現世でも生活できる環境を整えてくださいました。感謝してもしきれません」
「うるさい小娘だね」
「それでも私、やっぱり幽世で生活したいのです。『わたつみ』のみんなは私の家族ですし、翡翠は最愛のあやかしです。離れたくありません。だから――」
「だから邪魔者の私を追い出したいんだろ」
「そうではなくて! 大女将から教えてもらいたいのです。今まで『わたつみ』を市杵島姫命の名に恥じない立派な旅館にしてきた大女将に色々と教えていただかないと困ります! わ、若女将として!」

 若女将って、ちょっと、ううん、かなり恥ずかしい。自分に務まるかなって不安の方が大きいから。
 大女将はしばらく黙ってから、小さな背中でため息をついた。二本の尻尾がゆらりと揺れる。

「私は厳しいよ」
「存じております!」

 大女将が振り向いて答えてくれたので、私はパッと笑顔になった。認めてもらえた。
 
「さぁさぁ、めでたく若女将も誕生したことだし、今夜はお祝いしましょう!」
「待ってください、市杵島姫命、まだ翡翠と結婚しているわけではないので……」
「あら、じゃあ今縁を結びましょう。もともとあなた達の間には縁が出来上がっているし、私は縁結びの神じゃないけど、細かいことは気にしないでちょうだい。後々新婚旅行で出雲に行って、大国主大神にきちんと結び直してもらって、私が頼んでおくから。翡翠、良いわよね?」
「一刻も早くお願いします」
「ひ、翡翠!」 

 市杵島姫命はにっこりと笑って私も翡翠の手を取った。そして、高らかに宣言する。

「市杵島姫命の名において、水龍翡翠と人の子である那岐を夫婦と認め、ここに縁を結ぶ」

 私と翡翠の間に、赤い糸のような物が生まれ、蝶々みたいな形を作る。
 
「二度と解けぬ強い縁をここに」

 糸と端と端が、私と翡翠の中に溶け込んだ。心が、ぽうっと温かくなる。

 自然と涙が流れてきた。私の頬を伝う涙を、翡翠の指がすくい取る。

「那岐、私の花嫁。必ず幸せにする」
「私も。あなたを、あなたにつながるすべての者を幸せにしたい」
 
 言の葉によって、より強く結ばれる縁。

 その後、翡翠と夫婦になってからの日々は色々あれど幸せに満ちたものになるのだけれど、それはまた別のお話。