翡翠が大鯰の前で陣を結ぶと、大鯰の体は陣の中に吸い込まれるように消えていった。こんなことができるなんてさすが水龍。翡翠は力の強いあやかしなのだ。

 私が感動してぱちぱちと手を叩ていると、翡翠は気難しい顔でこちらを見てくる。

「こんな力よりも、君が邪気を祓った力の方が気になる」
「あれはきっと翡翠のお母さんの力だよ。私のじゃない」
「いや、母にあんなに強い力はなかったはずだ。たぶん、市杵島姫命はなにかを隠している。『わたつみ』に戻るぞ」
「うん」

 市杵島姫命からのお仕事は終えることができたけれど、結局、翡翠が私のことをどう思っているのか聞く勇気が出なかった。もう一回尋ねる勇気、ないかも。どうしよう。

「天晴天晴! きちんと対処できたわね。安徳帝は無事に壇ノ浦に着いたと連絡があったわ。あの子、那岐の魂に懐いちゃって、ずっと探していたみたいなのよ」

 『わたつみ』に戻ると上機嫌の市杵島姫命が出迎えてくれた。どうやらすでに全貌を把握しているみたい。さすがだ。

「私……ですか?」
「そうよ、子供の頃にも一回取り憑かれたでしょう? あのときはたまたま宮島を漂っていたみたいだけど、今回は明らかに那岐を狙ってきていたわ。私がなんとかしようかなって思っていた角、自分で解決できてえらいえらい!」
「なんとか解決できました。大鯰の容態はどうですか?」
「那岐が上手に邪気を祓っていたから大事なさそうよ」

 ウインクする市杵島姫命に翡翠が不機嫌そうな声で尋ねる。

「那岐の力は何なのですか? 私は知らない。だが、母の力ではないことは確かだ」
「あれね、あれは昔、私が那岐に渡した神子の力。清き心の那岐は私の力を受け入れ、あやかしの声を聞き、姿を見ることができるようになったのよ、私って人を見る目があるのよねぇ」
「では、那岐が苦しんできたのはあなたのせいではありませんか!」

 いつになく翡翠が声を荒げるので私は驚いた。今にも市杵島姫命につかみかかろうとするので、慌てて止める。

「翡翠、落ち着いて!」
「落ち着いていられるか! 力のせいで那岐は人の世に馴染めずに辛い思いをしたはずだ」

 確かに、幼い頃の私は友達もできず、家族もおらず、孤独だった。

 だけど。

「もしも力がなかったら翡翠には会えなかったんでしょう? 私はそんなの嫌だ! 細雪さんにも、千ちゃんにも、小虎さんや累、この旅館で働くみんなに会えないなんて、私は絶対に嫌だ」

 私が必死に訴えると、翡翠は少し落ち着いた様子を取り戻す。

「だそうよ翡翠、勇ましい花嫁ね」

 市杵島姫命がそんなことを言うものだから、私は聞き返した。

「市杵島姫命、私との婚姻は大女将が許してくれないと思います。翡翠だって望んだ結婚ではないだろうし……」
「あら、那岐は翡翠が他のあやかしと結婚してもいいって言うの? 大女将が反対するなら仕方ないって思うのね?」

 そんなのは嫌だ。だけど、それはきっと私のわがまま。『わたつみ』のためにも、翡翠のためにも、私よりも篝さんの方がふさわしいのだと思う。

「あなたたち、ちょっと二人で話し合っていらっしゃい。那岐の言葉を聞いたでしょう翡翠。婚姻を結ぶには少し気持ちがすれ違っているみたいよ。そんなんじゃせっかく二人を結んでいる運命の糸が切れてしまうわ。今のままじゃ縁を結んであげられない。私、本来は縁結びの神様じゃないんだもの、そういうの得意じゃないのよ」
 
 市杵島姫命の言葉に、翡翠は声を荒げた。

「それは困ります!」
「でしょう? 翡翠、ちゃんと那岐と話し合っておいで。「わかるだろう?」じゃ駄目よ。言葉にしないと、伝わらないものもあるのよ。現に那岐はぜんぜんわかってないじゃない。自分が蒼玉の力を持っているから大事にしてくれて、自分が『わたつみ』で働き続けるために結婚の話が出ているんだって思ってる。こんな風に勘違いしたまま別れた二人を、私、たくさんたくさん見てきたもの」

 翡翠はぐっと奥歯をかみしめてから私の手を握ると、そのまま『わたつみ』から離れていく。

「翡翠、どこに行くの?」
「誰もいないところへ。市杵島姫命の言う通りなら、君とゆっくり話をしないといけない。私は、色々と間違えていた」
 
 翡翠はながらかな岡を上り、『わたつみ』の西国が見渡せる場所までやってきてから足を止めた。

 夕日に照らされる西国の町からは、この地で生きるあやかしたちの息づかいが聞こえてくるみたい。
 とても美しくて温かな景色だ。大好きな景色。

「君が私に自分のことをどう思っているのか聞いたとき、なんて愚かな質問をするのだろうと思った。そんなのわかりきったことだろうと、伝わっていると勘違いしていた」

 ひゅうと吹き抜ける風に、翡翠の青い髪がなびく。

「君が私のことを好きだと言ってくれたとき、とても嬉しかった。こんなに幸せなことはないと思った。自分の想いがやっと通じたのだと思っていた。それなのに君は現世に帰ると言った。わけがわからなかった」

 翡翠の苛立ちや困惑が伝わってくる。私たち、互いに互いを思いながら、すれ違っていた。

「私は君が私の想いに応えたのだと思った。でも違ったんだ。君は、私の想いなど知ることなく、私のことを好きだと伝えてくれていたんだ」

 翡翠の手が私の頬に伸びる。温かな熱が、冷えた頬から伝わってくる。

「那岐、私は君に初めて会った時から、ずっと君に恋をしてきた」

 うそ……

「私は、幼い頃から人見知りがひどくてな。性格もあるが、水龍という種族ということもあって周りから距離を取られていたのだと思う。友人と呼べるあやかしは一人としていなかった、母はいたが孤独だったな」

 そうか……翡翠も、私がと同じ孤独を抱えていたんだ。

「だが、君は私に声をかけてくれた。君と一緒に遊んだ時間は、私にとって何物にも代えがたい宝になったんだ」
「私もだよ。私も、友達なんか一人もいなくて……ただ、私は翡翠と仲良くなりたくて……ただ、その一心で声をかけたの」
「それが、私にはたまらなく嬉しかったんだ」

 それ……私にもわかるかもしれない。私にたとっても、翡翠と過ごせた時間は、何物にも代えがたい宝物だ。

「溺れかけた君を助けてくれるよう母に頼んだのは私だ。あの時点で、母が永い眠りに就くことはすでにわかっていた。安徳天皇は以前もこの地に漂ってきた。眠りに就く前に母が成仏仕損じた亡霊だ。だが、今回那岐がきちんと邪気を祓ったことで水妖も落ち着いて眠れることだろう」
「そうなの?」
「君が母の力を奪ったなどということは決してない。確かに母は君に力の一部を残したかもしれないが、それらは母にとって大した問題ではない」
 
 力を使うときに聞こえた声は、翡翠のお母さんの声かもしれない。
 蒼玉さん、私を導いてくださってありがとうございました。

「市杵島姫命が君を『わたつみ』に連れて来てくれた時は、本当に嬉しかった。一緒に過ごせる日々が、どんなに嬉しかったことか」

 信じられない、翡翠も私のことが――

「大女将が青龍家の娘を私の妻にと考えていると聞いたから、焦って君と婚姻を結ぼうとしたんだ。とんだ早とちりをしてしまった。私はその、少し考えの足りないところがあるから、唐突な話に君は驚いたんだろうな。私の気持ちを知らなかったのなら勘違いするのも当然だ。ごめん、悪かった、許してくれ」
「本当に、驚いたよ。私、最初はね、あぁ翡翠も私のことが好きだったんだって、すごくすごく嬉しい気持ちになったの。だけど、なにかおかしいなって思って……」
「何がおかしい」
「ほら、翡翠みたいに素敵なあやかしが、私みたいな普通……じゃないか。ちょっとおかしな人間の女の子を好きになるわけないよねって、やっぱ違うのかなって思ってさ。篝様と翡翠が話してるのを聞いたらあぁやっぱりねって思っちゃって。完全に片思いだと思ってた」

 私が少し笑い交じりに応えると、翡翠は頭を抱えてしまった。

「大女将にしてやられた。あの鬼婆、那岐を追い出すために青龍の令嬢まで利用して紛らわしいことを!」

 翡翠の周りにメラメラと青い炎が見える。那岐、大女将は鬼婆じゃなくて猫又だよ!

「篝殿がうちに女将修行に来たのは本当だ。近々東国の老舗旅館に嫁ぐことが決まったらしい」

 へぇ、なるほど、それで女将修行を……

「って! 翡翠に嫁ぐのではなくて!?」
「と、本人が言っていたから間違いない。鬼婆にまんまと騙された。愛想がないのを気にして修行に来たと話していた。篝殿は君に会いたがっていたな。母の話をしたとき、篝殿はそのまま婚姻を結ぶのは君に失礼だと腹を立てておられたようだ。機会があれば君の方から、両思いなのだと伝えてほしい」
「篝様が?」
「そうだ、彼女、君に現世の薬草について教えてもらいたがってもいたな」

 なんてことだろう。勝手に恋敵だと勘違いして篝様のことを避けてしまっていた。私のことを心配してくれていたというのに……なんてお優しいあやかしだろう。

「それにしてもあの鬼婆、那岐が現世に帰った後で勘違いしたとしらばっくれるつもりだったのだろう。忌々しい……」

 翡翠ったら、大女将を完全に鬼婆呼ばわりして、万が一聞かれたらめちゃくちゃ怒られそう。それにしても――

「あの、私のことが好きだって、本当?」
「私は好きでもない女と婚姻を結べるほど器用ではない。最近好きでもない会合に頻繁に参加出ていたのも、君を娶るためだ。人間である君を受け入れてもらえるよう、根回しが必要だからな」

 翡翠の碧い瞳に私の顔が映る。同じように、私の黒い瞳には翡翠が映っているのだろう。

「那岐、私は君を愛している。どうか、私の妻になってくれ」

 翡翠の言葉を聞いて、みるみるうちに視界がにじんでいく。

「はい」

 どうしよう、嬉しくて涙が止まらない。私の頬を、翡翠の大きな手が覆う。そのままゆっくりと翡翠の顔が近づいてくる気配がした。私は、目を閉じて、翡翠を受け入れる。
 唇に触れる柔らかな熱が全身に伝わってくる。

「ありがとう那岐、私を受け入れてくれて」
「お礼を言うのは私の方だよ。ありがとう翡翠、私を好きになってくれて、奥さんにしてくれて」

 もう一度口づけを交わしてから、私と翡翠は旅館へと戻った。