悩むことはやめたけど、翡翠と顔を合わせるのはやっぱり怖い。翡翠だけじゃなくて篝様とも顔を合わせられないよ。
ついつい篝様がいそうな場所を避けてしまう。
コソコソと隠れるように寮に戻ってきた私が部屋で市杵島姫命の話していたことを考えていると、仕事を終えた千ちゃんが戻ってきた。
「やっほー那岐、リラックスできた〜」
「お疲れ千ちゃん」
「うわ、朝部屋を出てきたときよりひどい顔してるじゃん。完全になにかあったやつ」
千ちゃんは私が座っている横にちょこんと腰かける。
「おばばになんか言われた?」
「大女将には今日会ってないかも。そもそも顔も見たくないって向こうに言われてるし」
「じゃぁあれだ、篝様と若旦那! 篝様ったら今日ずーっと若旦那横に張り付いててさ、若旦那超嫌そうだった!」
ケラケラと楽しそうに話す千ちゃん。もう、ゴシップ大好きなんだから。
「翡翠はそんな露骨に嫌がらないでしょ、篝様お綺麗だしさぁ」
「いかんねぇ、那岐は男心がまったくわかっとらん!」
「千ちゃんだって女の子じゃない」
「まあまあ、とにかく那岐は堂々としてればいいってことだよ。小虎さんも、篝様の仕事ぶりは完璧だけど愛想がないって苦笑いしてたもん」
「で、私は愛想しかないと」
「ちょっと、なんでそんなにひねくれてるのよ、今日の那岐全然可愛くないー」
「ごめん、なんか心がチクチクしちゃって」
翡翠のこと、蒼玉さんのこと、篝様のこと――いろいろなことが私の中でごちゃ混ぜになってる。
「別にいいけどー。あー次の非番は一緒の日にしてポーラにジェラート食べに行く!」
千ちゃんと話してると元気が少し出てくる。千ちゃんの明るさが本当にありがたい。
「千ちゃんと同室でよかった」
「なによ今更、私もー。那岐のこと若旦那に渡したくなーい!」
ぎゅっと千ちゃんが抱きついてくる。温かい千ちゃん、優しい千ちゃん。
私、逃げてはいけないんだ。市杵島姫命からの仕事からも、翡翠からも、篝様からも大女将からも、逃げちゃいけない。そんな気がする。
胸を張って、みんなとお別れするために。
「千ちゃん、私頑張る」
「おうおう大いに頑張りたまえ! 若旦那に渡したくないけど、若旦那を篝様に取られるのも癪だから!」
「なにそれ〜」
二人で顔を見合わせてケラケラと笑い合った。
長い長い夜が明けて、私は朝早くに旅館に向かう。翡翠と一緒に、現世に行かなければいけない。
私が旅館の勝手口に着くと、すでに翡翠は来ていた。
「おはよう」
一日顔を合わせてないだけで、何日も会っていなかったような気がする。こみあげてくる気持ちにそっと蓋をして、私は平静を装う。
翡翠は私の姿を見つけると、駆け寄ってきて私の頬を両手で包んだ。
翡翠の綺麗な瞳に私の顔が映って恥ずかしくなる。顔が熱い。
「ど、どうしたの?」
「おはよう那岐、昨日は非番だったらしいな。顔を見ないから心配していたんだ。細雪さんが那岐は非番だと教えてくれた」
「一日くらいで大げさだなぁ」
「そうだな、少し心配性になっている」
「なにそれ」
「君がいないと無駄口を叩く相手がいなくてつまらない」
そう言って翡翠は安心したような表情になってから私の頬から手を離した。
思わず笑みがこぼれる。翡翠だ。いつもの翡翠だ。私は何を緊張してたのか。
「市杵島姫命から聞いたよね? お仕事のこと」
「聞いた。市杵島姫命が解決すればあっという間に片が付くのだと思うのだが……」
「それ、私も思った」
「姫命は海の間から如月の間に移ってくつろいでおられた」
「市杵島姫命、あのお部屋の雪景色が大のお気に入りだもんね」
二人で並んで話をしていると、顔を合わせにくいと思っていたのが嘘のように会話が弾む。だけど、私は一番聞きたいことを避けていた。
翡翠のお母さんのこと。逃げてはいけない。それを聞いておかないと、翡翠のことを好きでいてはいけない気がするから。
「原因を探れと言われたが、私には心当たりがある」
翡翠がそう言うので、私たちはさっそく現世に降りたち、目的の場所を目指す。
「昔、弥山の地中深くに住んでいるという主の話を聞いたことがある。島が震源になっているなら、無関係ではないだろう」
「そんな話初めて聞いたよ」
「人の世では知られていないのだろう」
標高535m、弥山へと上る山道を歩きながら翡翠の話に耳を傾ける。そう広くはない島だけど、目星がついているならそこから確認していくのが良いと思う。
「とはいえ定かなものではない。私もはるか昔、幼いころに寝物語に聞いただけだ。現世に住むあやかしには詳しくないんだ」
「なるほど」
翡翠のお母さんが、翡翠に話して聞かせてくれたのかもしれない。
「子供のころの翡翠、可愛かっただろうなぁ」
そう言うと翡翠は少し不機嫌そうな顔をした。そうだった、翡翠は「可愛い」と私が言うのを本当に嫌がるのだ。そうだよね、男の子だもの。
「ごめん、褒めているの。出会った頃も可愛らしかったし、でも今は可愛いなんて思ってないから!」
「では、なんと思っている」
いつになく真剣な顔で翡翠が私を見てくる。海のように碧い瞳が、私の心を見透かそうとしているみたい。
「翡翠はとても綺麗」
翡翠の頬に触れる。触れた手が熱くなって、心臓がバクバクと鳴る。
「それで?」
翡翠が私の言葉を促す。素直になりたい。やっぱり駄目だ、こんな気持ち、隠し通せるわけないよ。私は、翡翠のことが好き。ずっと一緒にいたい。
「憧れてる」
心のままに言葉を紡ぎたくなる思いをぐっと飲み込む。もしも私が好きだと言えば、翡翠は絶対に困ったような顔をする。これ以上、迷惑かけられない。
翡翠の瞳が、海のように揺れている。
「翡翠に負けないよう私も自分磨きしようかな、現世で」
だから、私は帰るよ。私が生きるべき世界に。
「なんだよそれ」
翡翠は急に不機嫌な声を出した。なんだか、怒っているみたい。
「君に憧れてもらったって、少しも嬉しくない」
「それもそうだ」
だけど、他に表しようがない。好きだって言いたい、大好きだって、篝様と結婚してほしくなんかないって……
だけど駄目だ。私はただの人間、翡翠は『わたつみ』を背負う水龍の長。住む世界も、背負うものの重さも全然違う。
「ねぇ、翡翠。私、教えてほしいことがあるの。現世に帰る前に知らなくちゃいけないことがある。翡翠のお母さんのこと。私と関係があるのでしょう?」
私は知らなければいけない、私を助けて深い眠りに就いた、優しい水龍のこと。
そして返すのだ、その力を……
私の言葉を聞いて、翡翠は目を見開く。
「どうしてそれを……誰かからなにか、聞いたのか?」
翡翠の瞳が揺れている。きっと、動揺しているんだ。
「……翡翠と篝様との話を聞いちゃって。ごめん、立ち聞きするつもりじゃなかったんだけど、旅館のそばを通ったときに聞こえてきちゃったんだ」
「そうか」
翡翠は難しい顔をしてそうつぶやく。篝様と一緒にいるのを見られて腹を立てているのかも。何か他人には聞かれたくないようなことを話していたのかも。嫌だ、変な考えが止まらない。翡翠は、篝様と結婚する、お似合いの二人だ。
嫌だ、やっぱり私――
「私、翡翠のことが好きだよ。結婚してくれって言われたときは、本当に嬉しかった」
頬を、一筋の涙が伝う。
言葉にしてしまった。翡翠は困るって、わかってるのに――
「では、なぜ現世に帰ろうとする! 大女将のことなんか気にするな!」
「違う、違うんだよ。大女将が原因じゃない。ねぇ、翡翠は私のことをどう思ってるの」
なに聞いてるんだろう私。傷に塩を塗るようなこと……
翡翠はきっと困ったような顔をする。翡翠が私のことを大切に思ってくれているのはわかる。だけどそれは、私が、家族みたいなものだから。
私はきちんと翡翠の気持ちを受け止めて、私は自分の恋と向き合う必要がある。
この恋に終止符を打たなきゃって。だから、教えて翡翠。
「私は――」
翡翠が言葉を切り出した瞬間、ごうごうと肌に感じる確かな揺れを感じた。翡翠は私を守るように覆いかぶさると、揺れが収まるのを待つ。
「間違いなくこの下で何かが揺れている。もう少し行ったところに大きな岩があるんだ、そこから地底へと続く道があるはず」
「そんな場所があるなんて……」
「私も下るのは初めてだ。行こう、那岐」
さすが翡翠。なんだか、私のお荷物感半端ないよ。市杵島姫命はどうして私なんかに仕事を頼んだろう……なんて、悩むべきじゃない。必ず理由があるはずだ。私でなくてはいけない理由が。
「行こう」
揺れが収まると、私は歩き出した。まるで、翡翠から逃げるみたいに。
さっきまでは翡翠の答えを聞く心の準備が出来ていたはずだった。だけど、この揺れでその決意も揺れてしまったみたい。
まだ、聞きたくない。もう少しだけ、翡翠への想いを抱いていたい。結論を、先延ばしにしていたい。
翡翠の言うとおり、少し歩くと大きな岩が見えた。だけどこの岩、観光ガイドなんかにはなかったはず。すごく目立つ岩なのに……
私が不思議そうな顔をしていたからだろう。翡翠が説明してくれた。
「これはあやかしにしか見えない。那岐にはあやかしの力が宿っているから見ることができるんだ」
「……そっか」
なんだか複雑な気持ちになる。それってやっぱり、翡翠のお母さん、蒼玉さんの力だよね。
私が受け取ってしまったもの。返さなければいけない力。
そうなれば、きっと私は翡翠のことが見えなくなる。声も聞こえなくなる。幽世にだって行けなくなる。
それが、本来の私の姿なのだきっと。
やっぱり大女将は正しい。私が住むべきなのは現世なのだ。私は、ただの人間なのだから。
「那岐、さっきの話の続きだけどな、私は……」
翡翠の紡ぐ言葉が怖い。
「待って! ごめん、まだ聞けない。もう少し待って。このお仕事が終わるまで」
「……わかった」
翡翠は私の手を握ると、岩の前に立つ。翡翠が岩に触れると、岩はゆっくりと開いた。中にぽっかりと空いた空洞と、地中へと続く石の階段が見える。翡翠が光の精霊を呼ぶと、手の中に小さな明かりが生まれた。
「行くぞ那岐」
「うん」
暗い穴の中をどんどん下っていくと、開けた場所に出た。ひんやりとしていてなんだか、小学校の修学旅行で行った鍾乳洞に似ている。
そういえば修学旅行のときに、子供のあやかしに会ったっけ。海の中を漂っていた水妖、あの子は、元気にしているかな。
私たちは洞窟の中を慎重に進んでいく。奥に、何か大きな生き物の存在を感じた。
「何かいる」
「そうだな、気配からして、おそらく大鯰だろう。こんな場所に住んでいたとはな」
「害をなすもの?」
「いいや、大人しいあやかしのはずなんだが……暴れることがあれば島全体が震えるのも頷ける」
「そっか」
何か原因があって、鯰が暴れているのだとしたらそれを解決すべきだ。私に、出来るかな。
長い長いトンネルのような洞窟は、小さな勾配があって少しずつ下に下っているみたいだ。
翡翠は私の手を離さない。強く握ったまま前を行く。ざわざわと流れる水の音が洞窟の中に響いていく。
「那岐、君のことは私が守るから安心しろ」
「ありがとう。でも大人しいあやかしなんでしょう?」
「必ずということはあり得ない。何事にも例外というものがある」
翡翠がそう言うと同時に足を止めた。光を前に向けると、遠くに巨大な塊がうごめいているのが見える。
「あれが、大鯰。なんだか、苦しそうだよ」
私は鯰を驚かせないようにゆっくりとした足取りで近づく。なんだか荒い息をしている。その巨体から、もやもやとした煙のようなものが立ち上っているのが見えた。
「那岐、あまり近づくな。邪気が出ている」
「邪気?」
鯰は私たちに気が付いて、ゆっくりと大きな目を開けた。
「すごく、苦しそう」
『……イタイ、クルシイ』
空気の振動が耳に届く。やっぱり、どこか悪いのだ。
「大鯰は何か言っているのか?」
「うん、痛いって、苦しいって言ってる。どこか怪我をしてるのかな? それとも病気?」
「纏わりつく邪気のせいだろう。とにかく邪気を祓う必要がある。このままでは近づくこともできない」
『サビシイ……』
大鯰は体をよじるように暴れ始めた。大きな揺れが起こる。
「那岐、しゃがめ!」
翡翠はまた私を守るように包み込んだ。
大鯰が落ち着くと、揺れが収まる。間違いなく地震の原因はこの大鯰だ。
『イタイ、イタイ、クルシイ、クルシイ、サビシイ、カナシイ』
大鯰は苦しんでいる。早く、邪気を祓わなくてはいけない。だけど、どうしたら……
考えを巡らせていると、突然黒い靄の塊が私目掛けて飛び出してきた。
この感じ、私知ってる……
あの日、私を水の中に引っ張り込んだ何かに似てる。ううん、同じだ。
苦しくて、悲しくて、寂しい気持ち……
私は手を伸ばして大鯰に纏わりつく黒い靄を抱きしめた。
「やめろ那岐! 君まで取り込まれる!」
「大丈夫! 絶対に、大丈夫だから!」
これは、邪気などではない。あの日の、水妖の子供だ。
大丈夫とは言ったけど、水妖に取り込まれるような感覚がした。
だんだんと意識が遠のきそうになる。
抱きしめた靄の記憶が私の中に流れ込んでくる。小舟に乗って沖へと逃げる仲間たち。迫りくる追っ手、抱きしてめくれる、温かな手……
『波の下にも、都がございますよ』
水しぶきの音――息が、苦しくなる。
『那岐!』
私を呼ぶのは誰……
糸のように細い光が見える。
「那岐! しっかりしろ!」
力強い腕が、靄の中で私がを抱きしめてくれているような気がした。
誰……
光の糸を辿るように、手をのばすと、遠のいていた意識が少しずつはっきりとしてくる。
「翡翠……」
「那岐……良かった! あのまま水妖に飲み込まれるんじゃないかと心配した」
「ありがとう翡翠」
私を抱きしめる翡翠の背に腕を回して抱きしめて返してから、私は大人しく、小さくなった水妖を抱きしめる。
「苦しかったね、寂しかったね……」
私が靄を抱く手に力を込めると、姿を持たなかった靄は次第に幼い男の子の姿になる。
男の子は私にしがみついて泣き始めた。
『ははうえ……』
この子がはっきりと誰だかわかった。幼くして壇ノ浦で入水した安徳天皇。
翡翠が話していた水妖とは、この子のことだ。
寂しさから縁を辿って祖父の建造した厳島へと流れ着いたのかもしれない。
「ずっと一人で彷徨っていたのね。さあ、みんなのもとへお帰り、あなたを待つ人に巡り合うために」
私が涙を拭うと、幼い水妖は小さくこくんと頷いた。それからもう一度ぎゅっとしがみついてくる。ずっと、誰かのぬくもりを求めて来たのだろう。
『かえりかたが わからないの』
耳元でささやく声は弱弱しい。私にもどうしてあげたらよいのかわからない。翡翠を見上げても、私と同じように困惑したような顔をしていた。
『両の手を合わせてから水を掬うような形にしてごらんなさい』
突然、頭の中に声が響く。私は声に導かれるまま両手を合わせて水を掬うような形を作る。すると、手のひらに水が生まれた。
「那岐、それはなんだ」
「わからない。わからないけど、頭の中で声がするの」
『その水を、その子に飲ませてあげて』
私は言われるまま、幼い天皇に水を差しだした。すうっと水が靄の中に吸い込まれる。
すると、安徳天皇の姿が優しい光に包まれた。温かな光に包まれたまま、水の中へ帰っていった。嬉しそうな笑顔を残して――
『ありがとう』
可愛らしい声が頭の中に響く。
何が起きたのか全く分からない。隣にいる翡翠もとても驚いたような顔をしている。
『イタイ、イタイ……』
邪気がはがれたというのに大鯰はまだ痛がっていた。もしかしたら、痛みの原因は安徳天皇が憑り付いていたからではないのかも。
「ねぇ、どこが痛いの!」
私は大鯰に向かって投げかけた。
『尾ガ痛イ。尾ニ、何カ居ル』
私は不思議そうな顔をしている翡翠に大鯰の容態を伝える。
「尾っぽが痛いんだって。私、ちょっと診てくる」
「よせ、また暴れるかもしれない」
「だけど、このままにはしておけないよ。翡翠、精霊を貸して」
「待て、那岐!」
私は翡翠の腕からするりと抜け出すと大鯰に向かって駆けた。
私の気配を感じ取った大鯰は、体をうねらせた。大きな鰭が岩肌に当たる。
「危ない那岐!」
鯰の鰭が削り取った石の塊がこちらに落ちてくるのがわかった。
翡翠が必死にこちらに来ようとしているのもわかる。
私は石を寸でのところで避けると、「大丈夫」と翡翠に声で無事を伝えた。
「尾を見せて、どうなってるか確認するから」
私がそう言うと、暴れていた鯰は少し大人しくなる。ヌメヌメとした体は大きな池にはまっているみたい。尾は水の中だ。
私は池の中に顔と手をつけて、鯰の尾の辺りを照らす。すると、小さな木霊がかじりついているのが見えた。
私はそっと手を伸ばして、木霊を手に取ると水面に顔を出した。
「もう大丈夫だよ」
私は大鯰に向かってそう言うと、手のひらにちょこんと座る木霊を翡翠に見せた。
「この子が噛み付いていたの」
「どうしてこんな場所に木霊が……」
翡翠が難しい顔をして木霊とにらめっこをしていると、大鯰が穏やかな声で話しかけてきた。
『ありがとうございました。お恥ずかしい姿をお見せしました……』
大鯰は恥ずかしそうに鰭で頭をかく。なんだかとっても器用だ。
「私にできることで良かった。どうして森にいるはずの木霊がこんなところにいたのかしら。それに、どこであの水妖と出会ったの?」
『私は建御雷神様の眷属。この地の川を永く守ってまいりました。先日、建御雷神様の命を受けまして、出雲の国まで市杵島姫命様をはじめとする宗像三女神様たちをお送りしたのです。その際に何かに憑りつかれまして。どうやら海から島の中に入りたがっていた水妖をくっつけてしまったようです」
大鯰が話し終えると今度は木霊が耳打ちしてきた。
「なるほど。それでこの子は大鯰の目を覚まそうとして尾に噛み付いていたって言っているわ。あなたを助けようとしていたのね」
「えらいえらい」と私は小さな木霊の頭を撫でた。すると、木霊は嬉しそうに頭を揺らす。あはは、可愛い。
「なにはともあれ、これで全部解決だね!」
私が翡翠に笑いかけると、翡翠は不機嫌そうな顔をして私を抱きしめてきた。
「君が無事で良かった。本当に……さっきは肝が冷えた」
声が震えている。可笑しい、翡翠ってこんなキャラだっけって思ったけど、やっぱり蒼玉さんの欠片は大切だもんね。
「大丈夫だよ」
力が消えちゃったかと思った? 驚かせてごめん。大丈夫だよ、きちんと返すからね。
「大鯰は治療の必要があるな。君が邪気を祓ったけれど、一度診てもらった方がいい。『わたつみ』まで運ぶ」
「そうだね、木霊は山に返そう」
私が撫でると、木霊は心地よさそうに小さな体を揺らした。
ついつい篝様がいそうな場所を避けてしまう。
コソコソと隠れるように寮に戻ってきた私が部屋で市杵島姫命の話していたことを考えていると、仕事を終えた千ちゃんが戻ってきた。
「やっほー那岐、リラックスできた〜」
「お疲れ千ちゃん」
「うわ、朝部屋を出てきたときよりひどい顔してるじゃん。完全になにかあったやつ」
千ちゃんは私が座っている横にちょこんと腰かける。
「おばばになんか言われた?」
「大女将には今日会ってないかも。そもそも顔も見たくないって向こうに言われてるし」
「じゃぁあれだ、篝様と若旦那! 篝様ったら今日ずーっと若旦那横に張り付いててさ、若旦那超嫌そうだった!」
ケラケラと楽しそうに話す千ちゃん。もう、ゴシップ大好きなんだから。
「翡翠はそんな露骨に嫌がらないでしょ、篝様お綺麗だしさぁ」
「いかんねぇ、那岐は男心がまったくわかっとらん!」
「千ちゃんだって女の子じゃない」
「まあまあ、とにかく那岐は堂々としてればいいってことだよ。小虎さんも、篝様の仕事ぶりは完璧だけど愛想がないって苦笑いしてたもん」
「で、私は愛想しかないと」
「ちょっと、なんでそんなにひねくれてるのよ、今日の那岐全然可愛くないー」
「ごめん、なんか心がチクチクしちゃって」
翡翠のこと、蒼玉さんのこと、篝様のこと――いろいろなことが私の中でごちゃ混ぜになってる。
「別にいいけどー。あー次の非番は一緒の日にしてポーラにジェラート食べに行く!」
千ちゃんと話してると元気が少し出てくる。千ちゃんの明るさが本当にありがたい。
「千ちゃんと同室でよかった」
「なによ今更、私もー。那岐のこと若旦那に渡したくなーい!」
ぎゅっと千ちゃんが抱きついてくる。温かい千ちゃん、優しい千ちゃん。
私、逃げてはいけないんだ。市杵島姫命からの仕事からも、翡翠からも、篝様からも大女将からも、逃げちゃいけない。そんな気がする。
胸を張って、みんなとお別れするために。
「千ちゃん、私頑張る」
「おうおう大いに頑張りたまえ! 若旦那に渡したくないけど、若旦那を篝様に取られるのも癪だから!」
「なにそれ〜」
二人で顔を見合わせてケラケラと笑い合った。
長い長い夜が明けて、私は朝早くに旅館に向かう。翡翠と一緒に、現世に行かなければいけない。
私が旅館の勝手口に着くと、すでに翡翠は来ていた。
「おはよう」
一日顔を合わせてないだけで、何日も会っていなかったような気がする。こみあげてくる気持ちにそっと蓋をして、私は平静を装う。
翡翠は私の姿を見つけると、駆け寄ってきて私の頬を両手で包んだ。
翡翠の綺麗な瞳に私の顔が映って恥ずかしくなる。顔が熱い。
「ど、どうしたの?」
「おはよう那岐、昨日は非番だったらしいな。顔を見ないから心配していたんだ。細雪さんが那岐は非番だと教えてくれた」
「一日くらいで大げさだなぁ」
「そうだな、少し心配性になっている」
「なにそれ」
「君がいないと無駄口を叩く相手がいなくてつまらない」
そう言って翡翠は安心したような表情になってから私の頬から手を離した。
思わず笑みがこぼれる。翡翠だ。いつもの翡翠だ。私は何を緊張してたのか。
「市杵島姫命から聞いたよね? お仕事のこと」
「聞いた。市杵島姫命が解決すればあっという間に片が付くのだと思うのだが……」
「それ、私も思った」
「姫命は海の間から如月の間に移ってくつろいでおられた」
「市杵島姫命、あのお部屋の雪景色が大のお気に入りだもんね」
二人で並んで話をしていると、顔を合わせにくいと思っていたのが嘘のように会話が弾む。だけど、私は一番聞きたいことを避けていた。
翡翠のお母さんのこと。逃げてはいけない。それを聞いておかないと、翡翠のことを好きでいてはいけない気がするから。
「原因を探れと言われたが、私には心当たりがある」
翡翠がそう言うので、私たちはさっそく現世に降りたち、目的の場所を目指す。
「昔、弥山の地中深くに住んでいるという主の話を聞いたことがある。島が震源になっているなら、無関係ではないだろう」
「そんな話初めて聞いたよ」
「人の世では知られていないのだろう」
標高535m、弥山へと上る山道を歩きながら翡翠の話に耳を傾ける。そう広くはない島だけど、目星がついているならそこから確認していくのが良いと思う。
「とはいえ定かなものではない。私もはるか昔、幼いころに寝物語に聞いただけだ。現世に住むあやかしには詳しくないんだ」
「なるほど」
翡翠のお母さんが、翡翠に話して聞かせてくれたのかもしれない。
「子供のころの翡翠、可愛かっただろうなぁ」
そう言うと翡翠は少し不機嫌そうな顔をした。そうだった、翡翠は「可愛い」と私が言うのを本当に嫌がるのだ。そうだよね、男の子だもの。
「ごめん、褒めているの。出会った頃も可愛らしかったし、でも今は可愛いなんて思ってないから!」
「では、なんと思っている」
いつになく真剣な顔で翡翠が私を見てくる。海のように碧い瞳が、私の心を見透かそうとしているみたい。
「翡翠はとても綺麗」
翡翠の頬に触れる。触れた手が熱くなって、心臓がバクバクと鳴る。
「それで?」
翡翠が私の言葉を促す。素直になりたい。やっぱり駄目だ、こんな気持ち、隠し通せるわけないよ。私は、翡翠のことが好き。ずっと一緒にいたい。
「憧れてる」
心のままに言葉を紡ぎたくなる思いをぐっと飲み込む。もしも私が好きだと言えば、翡翠は絶対に困ったような顔をする。これ以上、迷惑かけられない。
翡翠の瞳が、海のように揺れている。
「翡翠に負けないよう私も自分磨きしようかな、現世で」
だから、私は帰るよ。私が生きるべき世界に。
「なんだよそれ」
翡翠は急に不機嫌な声を出した。なんだか、怒っているみたい。
「君に憧れてもらったって、少しも嬉しくない」
「それもそうだ」
だけど、他に表しようがない。好きだって言いたい、大好きだって、篝様と結婚してほしくなんかないって……
だけど駄目だ。私はただの人間、翡翠は『わたつみ』を背負う水龍の長。住む世界も、背負うものの重さも全然違う。
「ねぇ、翡翠。私、教えてほしいことがあるの。現世に帰る前に知らなくちゃいけないことがある。翡翠のお母さんのこと。私と関係があるのでしょう?」
私は知らなければいけない、私を助けて深い眠りに就いた、優しい水龍のこと。
そして返すのだ、その力を……
私の言葉を聞いて、翡翠は目を見開く。
「どうしてそれを……誰かからなにか、聞いたのか?」
翡翠の瞳が揺れている。きっと、動揺しているんだ。
「……翡翠と篝様との話を聞いちゃって。ごめん、立ち聞きするつもりじゃなかったんだけど、旅館のそばを通ったときに聞こえてきちゃったんだ」
「そうか」
翡翠は難しい顔をしてそうつぶやく。篝様と一緒にいるのを見られて腹を立てているのかも。何か他人には聞かれたくないようなことを話していたのかも。嫌だ、変な考えが止まらない。翡翠は、篝様と結婚する、お似合いの二人だ。
嫌だ、やっぱり私――
「私、翡翠のことが好きだよ。結婚してくれって言われたときは、本当に嬉しかった」
頬を、一筋の涙が伝う。
言葉にしてしまった。翡翠は困るって、わかってるのに――
「では、なぜ現世に帰ろうとする! 大女将のことなんか気にするな!」
「違う、違うんだよ。大女将が原因じゃない。ねぇ、翡翠は私のことをどう思ってるの」
なに聞いてるんだろう私。傷に塩を塗るようなこと……
翡翠はきっと困ったような顔をする。翡翠が私のことを大切に思ってくれているのはわかる。だけどそれは、私が、家族みたいなものだから。
私はきちんと翡翠の気持ちを受け止めて、私は自分の恋と向き合う必要がある。
この恋に終止符を打たなきゃって。だから、教えて翡翠。
「私は――」
翡翠が言葉を切り出した瞬間、ごうごうと肌に感じる確かな揺れを感じた。翡翠は私を守るように覆いかぶさると、揺れが収まるのを待つ。
「間違いなくこの下で何かが揺れている。もう少し行ったところに大きな岩があるんだ、そこから地底へと続く道があるはず」
「そんな場所があるなんて……」
「私も下るのは初めてだ。行こう、那岐」
さすが翡翠。なんだか、私のお荷物感半端ないよ。市杵島姫命はどうして私なんかに仕事を頼んだろう……なんて、悩むべきじゃない。必ず理由があるはずだ。私でなくてはいけない理由が。
「行こう」
揺れが収まると、私は歩き出した。まるで、翡翠から逃げるみたいに。
さっきまでは翡翠の答えを聞く心の準備が出来ていたはずだった。だけど、この揺れでその決意も揺れてしまったみたい。
まだ、聞きたくない。もう少しだけ、翡翠への想いを抱いていたい。結論を、先延ばしにしていたい。
翡翠の言うとおり、少し歩くと大きな岩が見えた。だけどこの岩、観光ガイドなんかにはなかったはず。すごく目立つ岩なのに……
私が不思議そうな顔をしていたからだろう。翡翠が説明してくれた。
「これはあやかしにしか見えない。那岐にはあやかしの力が宿っているから見ることができるんだ」
「……そっか」
なんだか複雑な気持ちになる。それってやっぱり、翡翠のお母さん、蒼玉さんの力だよね。
私が受け取ってしまったもの。返さなければいけない力。
そうなれば、きっと私は翡翠のことが見えなくなる。声も聞こえなくなる。幽世にだって行けなくなる。
それが、本来の私の姿なのだきっと。
やっぱり大女将は正しい。私が住むべきなのは現世なのだ。私は、ただの人間なのだから。
「那岐、さっきの話の続きだけどな、私は……」
翡翠の紡ぐ言葉が怖い。
「待って! ごめん、まだ聞けない。もう少し待って。このお仕事が終わるまで」
「……わかった」
翡翠は私の手を握ると、岩の前に立つ。翡翠が岩に触れると、岩はゆっくりと開いた。中にぽっかりと空いた空洞と、地中へと続く石の階段が見える。翡翠が光の精霊を呼ぶと、手の中に小さな明かりが生まれた。
「行くぞ那岐」
「うん」
暗い穴の中をどんどん下っていくと、開けた場所に出た。ひんやりとしていてなんだか、小学校の修学旅行で行った鍾乳洞に似ている。
そういえば修学旅行のときに、子供のあやかしに会ったっけ。海の中を漂っていた水妖、あの子は、元気にしているかな。
私たちは洞窟の中を慎重に進んでいく。奥に、何か大きな生き物の存在を感じた。
「何かいる」
「そうだな、気配からして、おそらく大鯰だろう。こんな場所に住んでいたとはな」
「害をなすもの?」
「いいや、大人しいあやかしのはずなんだが……暴れることがあれば島全体が震えるのも頷ける」
「そっか」
何か原因があって、鯰が暴れているのだとしたらそれを解決すべきだ。私に、出来るかな。
長い長いトンネルのような洞窟は、小さな勾配があって少しずつ下に下っているみたいだ。
翡翠は私の手を離さない。強く握ったまま前を行く。ざわざわと流れる水の音が洞窟の中に響いていく。
「那岐、君のことは私が守るから安心しろ」
「ありがとう。でも大人しいあやかしなんでしょう?」
「必ずということはあり得ない。何事にも例外というものがある」
翡翠がそう言うと同時に足を止めた。光を前に向けると、遠くに巨大な塊がうごめいているのが見える。
「あれが、大鯰。なんだか、苦しそうだよ」
私は鯰を驚かせないようにゆっくりとした足取りで近づく。なんだか荒い息をしている。その巨体から、もやもやとした煙のようなものが立ち上っているのが見えた。
「那岐、あまり近づくな。邪気が出ている」
「邪気?」
鯰は私たちに気が付いて、ゆっくりと大きな目を開けた。
「すごく、苦しそう」
『……イタイ、クルシイ』
空気の振動が耳に届く。やっぱり、どこか悪いのだ。
「大鯰は何か言っているのか?」
「うん、痛いって、苦しいって言ってる。どこか怪我をしてるのかな? それとも病気?」
「纏わりつく邪気のせいだろう。とにかく邪気を祓う必要がある。このままでは近づくこともできない」
『サビシイ……』
大鯰は体をよじるように暴れ始めた。大きな揺れが起こる。
「那岐、しゃがめ!」
翡翠はまた私を守るように包み込んだ。
大鯰が落ち着くと、揺れが収まる。間違いなく地震の原因はこの大鯰だ。
『イタイ、イタイ、クルシイ、クルシイ、サビシイ、カナシイ』
大鯰は苦しんでいる。早く、邪気を祓わなくてはいけない。だけど、どうしたら……
考えを巡らせていると、突然黒い靄の塊が私目掛けて飛び出してきた。
この感じ、私知ってる……
あの日、私を水の中に引っ張り込んだ何かに似てる。ううん、同じだ。
苦しくて、悲しくて、寂しい気持ち……
私は手を伸ばして大鯰に纏わりつく黒い靄を抱きしめた。
「やめろ那岐! 君まで取り込まれる!」
「大丈夫! 絶対に、大丈夫だから!」
これは、邪気などではない。あの日の、水妖の子供だ。
大丈夫とは言ったけど、水妖に取り込まれるような感覚がした。
だんだんと意識が遠のきそうになる。
抱きしめた靄の記憶が私の中に流れ込んでくる。小舟に乗って沖へと逃げる仲間たち。迫りくる追っ手、抱きしてめくれる、温かな手……
『波の下にも、都がございますよ』
水しぶきの音――息が、苦しくなる。
『那岐!』
私を呼ぶのは誰……
糸のように細い光が見える。
「那岐! しっかりしろ!」
力強い腕が、靄の中で私がを抱きしめてくれているような気がした。
誰……
光の糸を辿るように、手をのばすと、遠のいていた意識が少しずつはっきりとしてくる。
「翡翠……」
「那岐……良かった! あのまま水妖に飲み込まれるんじゃないかと心配した」
「ありがとう翡翠」
私を抱きしめる翡翠の背に腕を回して抱きしめて返してから、私は大人しく、小さくなった水妖を抱きしめる。
「苦しかったね、寂しかったね……」
私が靄を抱く手に力を込めると、姿を持たなかった靄は次第に幼い男の子の姿になる。
男の子は私にしがみついて泣き始めた。
『ははうえ……』
この子がはっきりと誰だかわかった。幼くして壇ノ浦で入水した安徳天皇。
翡翠が話していた水妖とは、この子のことだ。
寂しさから縁を辿って祖父の建造した厳島へと流れ着いたのかもしれない。
「ずっと一人で彷徨っていたのね。さあ、みんなのもとへお帰り、あなたを待つ人に巡り合うために」
私が涙を拭うと、幼い水妖は小さくこくんと頷いた。それからもう一度ぎゅっとしがみついてくる。ずっと、誰かのぬくもりを求めて来たのだろう。
『かえりかたが わからないの』
耳元でささやく声は弱弱しい。私にもどうしてあげたらよいのかわからない。翡翠を見上げても、私と同じように困惑したような顔をしていた。
『両の手を合わせてから水を掬うような形にしてごらんなさい』
突然、頭の中に声が響く。私は声に導かれるまま両手を合わせて水を掬うような形を作る。すると、手のひらに水が生まれた。
「那岐、それはなんだ」
「わからない。わからないけど、頭の中で声がするの」
『その水を、その子に飲ませてあげて』
私は言われるまま、幼い天皇に水を差しだした。すうっと水が靄の中に吸い込まれる。
すると、安徳天皇の姿が優しい光に包まれた。温かな光に包まれたまま、水の中へ帰っていった。嬉しそうな笑顔を残して――
『ありがとう』
可愛らしい声が頭の中に響く。
何が起きたのか全く分からない。隣にいる翡翠もとても驚いたような顔をしている。
『イタイ、イタイ……』
邪気がはがれたというのに大鯰はまだ痛がっていた。もしかしたら、痛みの原因は安徳天皇が憑り付いていたからではないのかも。
「ねぇ、どこが痛いの!」
私は大鯰に向かって投げかけた。
『尾ガ痛イ。尾ニ、何カ居ル』
私は不思議そうな顔をしている翡翠に大鯰の容態を伝える。
「尾っぽが痛いんだって。私、ちょっと診てくる」
「よせ、また暴れるかもしれない」
「だけど、このままにはしておけないよ。翡翠、精霊を貸して」
「待て、那岐!」
私は翡翠の腕からするりと抜け出すと大鯰に向かって駆けた。
私の気配を感じ取った大鯰は、体をうねらせた。大きな鰭が岩肌に当たる。
「危ない那岐!」
鯰の鰭が削り取った石の塊がこちらに落ちてくるのがわかった。
翡翠が必死にこちらに来ようとしているのもわかる。
私は石を寸でのところで避けると、「大丈夫」と翡翠に声で無事を伝えた。
「尾を見せて、どうなってるか確認するから」
私がそう言うと、暴れていた鯰は少し大人しくなる。ヌメヌメとした体は大きな池にはまっているみたい。尾は水の中だ。
私は池の中に顔と手をつけて、鯰の尾の辺りを照らす。すると、小さな木霊がかじりついているのが見えた。
私はそっと手を伸ばして、木霊を手に取ると水面に顔を出した。
「もう大丈夫だよ」
私は大鯰に向かってそう言うと、手のひらにちょこんと座る木霊を翡翠に見せた。
「この子が噛み付いていたの」
「どうしてこんな場所に木霊が……」
翡翠が難しい顔をして木霊とにらめっこをしていると、大鯰が穏やかな声で話しかけてきた。
『ありがとうございました。お恥ずかしい姿をお見せしました……』
大鯰は恥ずかしそうに鰭で頭をかく。なんだかとっても器用だ。
「私にできることで良かった。どうして森にいるはずの木霊がこんなところにいたのかしら。それに、どこであの水妖と出会ったの?」
『私は建御雷神様の眷属。この地の川を永く守ってまいりました。先日、建御雷神様の命を受けまして、出雲の国まで市杵島姫命様をはじめとする宗像三女神様たちをお送りしたのです。その際に何かに憑りつかれまして。どうやら海から島の中に入りたがっていた水妖をくっつけてしまったようです」
大鯰が話し終えると今度は木霊が耳打ちしてきた。
「なるほど。それでこの子は大鯰の目を覚まそうとして尾に噛み付いていたって言っているわ。あなたを助けようとしていたのね」
「えらいえらい」と私は小さな木霊の頭を撫でた。すると、木霊は嬉しそうに頭を揺らす。あはは、可愛い。
「なにはともあれ、これで全部解決だね!」
私が翡翠に笑いかけると、翡翠は不機嫌そうな顔をして私を抱きしめてきた。
「君が無事で良かった。本当に……さっきは肝が冷えた」
声が震えている。可笑しい、翡翠ってこんなキャラだっけって思ったけど、やっぱり蒼玉さんの欠片は大切だもんね。
「大丈夫だよ」
力が消えちゃったかと思った? 驚かせてごめん。大丈夫だよ、きちんと返すからね。
「大鯰は治療の必要があるな。君が邪気を祓ったけれど、一度診てもらった方がいい。『わたつみ』まで運ぶ」
「そうだね、木霊は山に返そう」
私が撫でると、木霊は心地よさそうに小さな体を揺らした。