翡翠と顔を合わせづらい。ついつい避けるようになってしまう。
 幸い、翡翠は西国の会合で忙しく、宿を空けることが多いのだ。普段なら寂しいなと思うところだけど、今はすごくありがたい。

 考え事をしないよう、淡々と仕事をこなすと、従業員の多くが生活を共にする寮に戻った。

 旅館の裏手にある二階建ての職員寮は小綺麗で、こっちも旅館ですって言われても十分に通用しそう。

 寮母の(みどり)さんが綺麗好きなのだ。碧さんは青女房(あおにょうぼう)っていうあやかしなんだって。
 荒れ放題の空き家に住み着くことのあるあやかしらしいんだけど、綺麗好きの本能がうずいて荒れ放題の空き家で掃除を始めちゃうのかもしれない。

 部屋の襖を開けると同室の千里(せんり)ちゃんが先に布団の上に転がっている。千ちゃんはネズミのあやかし。
 このあやかしの国には十二支に猫とイタチを加えた十四種の貴族筋があるんだけど、千ちゃんはそのうちのネズミの傍流なんだって。貴族だなんて、すごい!

「お疲れ那岐~」
「千ちゃん、非番だったよねぇ。お出かけしてきた?」
「久しぶりに買い物してきた! 見て見て、新色アイシャドウパケ買いしてきた〜」
「わぁ、可愛い!」
「でしょ、那岐に似合いそうな色も買って来たよ〜いつも色々仲良くしてくれるお礼に」
「ありがとう!」

 千ちゃんが選んでくれたアイシャドウは桜色でとっても可愛い。私も何かお返ししたいな。
 オシャレな千ちゃんは人間の世界のファッションにだって詳しい。私なんかよりも色々知っている。

「那岐、元気ないねぇ。やっぱあれだ、おばばが青龍のご令嬢連れてきたから」

 おばばというのは大女将のことだ。明け透けな性格の千ちゃんは大女将のことをこっそり(って言うほどこっそりしてないけど)そう呼んでいる。さすがに本人に直接呼びかけることはないけど。

「なんか美男美女すぎて眩しかった。篝様、私よりも薬草に詳しそうだし、私のリストラ秒読み感半端ないよ」
「那岐のことは若旦那が離さないよ」
「いやぁ、どうかな」
「いっそおばばがぽっくり逝ってくれたら丸く収まるのにねぇ」
「いやいやいや、それはあんまりだよ」

 ブラックジョーク笑えない!

「あはは、例えばだよ、例えば。那岐は明日非番じゃん? パーッと楽しいことしてスッキリしておいでよ。あー私も一緒にいきたいなーこんなことなら非番の日一緒にしてもらったら良かった〜細雪さんに頼んで2連休にしてもらおっかな」

 嬉しいけど、突然の連休は難しいだろう。学校のあとの暇な時間をどうやって過ごそうかな。
 千ちゃんと話をしてると楽しくてあっという間に時間が過ぎちゃう。
 「おやすみ〜」って布団の上にゴロンとしてから目を閉じると、疲れがどっと襲ってくる。何も考えないで眠れることがすごくありがたかった。

 翌日、寮を出て旅館のわきを歩いていると聞き覚えのない声がした。落ち着いた若い女の人の声。たぶん、篝様の声だ。

「女将の水龍様は瀬戸の海で深い眠りについているとお聞きしました」

 私もあまり聞いたことがない女将さんの話だ。今は永い眠りについているとしか知らない。詳しいことは千ちゃんや細雪さんも知らないみたいだし、翡翠も話したがらない。大女将ならなにか知ってるかもしれないけれど、私に教えてくれるとは思えない。

「ええ、海の(けが)れに中てられて少し弱っているものですから。ご存知の通り、水龍には周期的に眠りが必要なのです」
「子供を助けて残りの力を使い果たしたと聞きました。その欠片が、助けた子供に宿っていると。翡翠様は、それであの人間の娘を召し抱えようとしておられるのでしょう」

 なんの、話?

「何をおっしゃりたいのかわかりかねます」

 翡翠の声だ。少し尖った声。翡翠が、篝様と二人で話をしている。心にとげが刺さったみたいな痛みが走る。

「彼女の中に宿る水龍様の力を守るために婚姻をお結びになられるのではないかと懸念しているのです」

 ぽたりと心の中にしずくが落ちる。落ちたしずくが水面に波紋を作り、広がる。

 その瞬間、深い水の底から小さな泡が浮かび上がってくるように、私の中に記憶がはじけた。

 そう、あれは遠足の時。同じ学年の子供たちになじめず、私は一人潮の引いた浅瀬で遊んでいた。その時に幼い翡翠を見つけて一緒に遊び始めて――

 翡翠が「そろそろ帰らなければ」と言ってさよならの挨拶を交わした時、すでに潮は満ち始めていたのだ。私の膝くらいまで嵩を増した海。翡翠の後を追うように岸を目指していた私は、海の中で転んだのだ。まるで何かに足を引っ張られたみたいだった。

 足の着く場所なのに、足に何かがまとわりついているみたい。焦って立つことができないまま、どんどん水が満ちてくる。そのまま立ち上がれずに、私は潮にのまれたのだ。
 引率の先生が気が付いたときには、もう足のつかないところまで流されていて――

 どんどん遠のいていく水面に手を伸ばしながら、私は誰かの声を聞いた。その後、体の中に力が満ちて温かくなったのを覚えている。あれが、水龍の力だったのかもしれない。

 次に気が付いたのは、搬送先の病院でのことだった。少し海水を飲んでいたけど、命に別状はないとのことで。先生から聞いた話によると、沈んでいったはずの私の体が急に水面に浮かんできたのだそうだ。
 そのまま救助に来た小舟に助けられて、私は一命をとりとめた。

 今思い出した。どうして、そんな大事件を忘れていたのだろう。

 あの声は、きっと翡翠のお母さんの声だったのだ。記憶はまだまだ曖昧で、彼女が私になんと伝えたのか思い出せない自分がもどかしい。

 そうか、あの時翡翠のお母さんは私を助けて最後の力を使い切ってしまったのだ。そして永い永い眠りに就いた。

 翡翠は、私の中に入り込んだお母さんの力を守るために、私をそばに置こうとしてくれている――大女将に抵抗してまで。
 私のためなんかじゃなかった。良かったって思っていいのかな、複雑。すごくすごく自分の気持ちが複雑だ。

 過去の記憶を思い出した私は、その場から逃げるように現世に続く道に駆け込み、靄の中で大きなため息をついた。

 私の中に水龍の力が残っているというのなら、それを返したら翡翠のお母さんは少し元気になるのかもしれない。もしかしたら目を覚ませるのかも。

 力を返すべきだ。だけど、どうしたらいいのだろう。

 一日中そんなことを考えながら市内で過ごし、学校を終えて島に戻る。今日は非番だ、このまま旅館に戻る気持ちに慣れずに、私は階段を上って千畳閣(せんじょうかく)に来た。

 参拝コースから少し外れた千畳閣、豊臣秀吉公が、千部経の転読供養をするため、造られることになったこの建築物は、秀吉の死によって未完成のまま今に至る。
 下から見ると、隣にそびえる五重塔(ごじゅうのとう)が目印だ。建立は千畳閣よりも五重塔の方が二百年近く早い。
 今日は珍しく観光客の人がいなくて、閑散としている。

 千畳閣の中に入って、高台からぼんやりと海を見ていると、自然と心が凪いできた。
 自分の気持ちを整理することにする。

 翡翠のことが好きだ、結婚出来たらそんなに嬉しいことはない。「わたつみ」でも働き続けたい。
 だけど、翡翠と結婚して「わたつみ」で働き続けることは、本当に良いことなのだろうか。

 翡翠がもし、篝さんのことを好きになったら――

 私はキラキラと輝く瀬戸内海を見つめる。

 やはり、私は現世(こちら)で生きるべきなのだ。だって、私は人間なんだから。

 力を水龍様にお返しして、普通の人間に戻る。あやかしたちと過ごした日々の記憶は、いつか薄れて良い思い出になる。

 千ちゃん、小虎さん、細雪さん……翡翠

「那ー岐!」
「きゃぁ!」

 突然ぽんっと肩を叩かれて、私は悲鳴を上げた。振り返るときらびやかな着物を着た美女が立っている。

「もう、脅かさないでください、市杵島姫命」
「ごめんごめん、海の間に帰ろうと思ったら那岐がここにいる気配がしたからきちゃった」
「出雲はどうしでしたか?」

 私の横にストンと腰を下ろした市杵島姫命に尋ねる。

「良かったよ~。相変わらず居心地が良いのよね。もう少しいようかなって思ったけど、家族水入らずがいいだろうと思って一足お先に帰ってきたのよ。気を使ったのよ私、えらーい!」
「いいですよねぇ出雲大社」
「それはそうと、なにか私に聞きたいことがあるんじゃない? 顔に書いてある」
「うっそ」
「ほんとー」

 市杵島姫命は笑いながら私のおでこを小突いた。

「大女将に何か言われた?」
「それもありますけど……」

 私はここ数日起こった出来事を市杵島姫命に話した。翡翠に求婚されたこと、大女将に反対されたこと、青龍の令嬢が来ていること。私の中に、翡翠のお母さんの力が残っているかもしれないこと――

「なーんだ。そんなの悩まず結婚しちゃえばいいじゃない。翡翠のこと、好きでしょう?」
「私は好きですけど、翡翠は違うと思います」

 私が小さな声で返すと、市杵島姫命は驚いたような顔になった。それから「うわぁ」と声を漏らす。

「那岐は翡翠が蒼玉(そうぎょく)のためにあなたと結婚すると思っているのね?」

 蒼玉というのは翡翠のお母さんのことだ。

「篝様と翡翠がそう話していたものですから。だから、市杵島姫命、力の返し方を教えてください」
「なるほどね、なんとなーく全部わかったような気がするわ」

 それから市杵島姫命はぽんっと手を叩く。 

「那岐、私はあたなと翡翠に仕事を頼むことにします」
「え、二人だけでですか?」
「当たり前じゃない」

 正直に言うと嫌だ。翡翠に合わせる顔がない。だけど、市杵島姫命に頼まれた仕事を断るわけにはいかなかった。

「どんなお仕事ですか?」
「最近島で地震が起こってるじゃない? あの原因を突き止めて、対処してほしいの」
「え!」
「本当は私がやるべきなんだけど、ちょっと旅疲れが出てるから。これから『わたつみ』でゆっくりしたいのよ。だからかわりによろしく〜」
「よろしく〜じゃありませんよ! そんなに大事なことを私と翡翠に任せて大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。原因は現世にあるから那岐は適任だし、こちらで地震があると幽世にも影響があるから『わたつみ』の若旦那として翡翠にも一肌脱いでもらわないと」

 「それにね」と市杵島姫命は私に耳打ちしてくる。

「力を返したいって言う那岐の悩みも一緒に解決すると思うのよ」
「そんなこと言って、面倒くさいだけじゃないんですか?」
「それも一理、二理、サンリあるけど、まあとにかく任せたわよ。鬼婆……違った、大女将にも翡翠にも、私から話しておいてあげるから。嫌だ、私って太っ腹! 超優しい! そうと決まれば善は急げよ。じゃあ、一足先に『わたつみ』に行ってるわね」

 市杵島姫命は楽しそうにそう言い残して、すっと姿を消してしまった。本当に奔放な神様だ。私は市杵島姫命の振る舞いにふっと笑みをこぼしてから、自分も幽世へ向かうことにする。
 悩んでいたって仕方ないよね、今はお仕事をいただいてしまったことだし、それに専念しよう!