食事を終えると、翡翠はそのまま仕事に向かおうとする。私は慌ててその手を引いた。
「待って待って、大女将に呼ばれてるよ」
「さっき話したからもういいだろ」
そう言って翡翠は行こうとしない。
仕方なく私一人で大女将の部屋に出向くことにしたのだけれど、私一人じゃ会ってもらえないんじゃないかな。部屋の中にだって入れてもらったことないもんね。
「大女将、那岐です。参りました」
障子越しに声をかけると、予想通り棘のある声が返ってくる。
「おまえの顔なんか見たくもない。翡翠がいないなら戻りなさい。話はさっき廊下で話した通りです。翡翠は寝ぼけたことを言っていましたが、私は絶対に許しませんからね。おまえもそのつもりで、荷物をまとめておきなさい」
「大女将、私をここで働かせてください。下働きでも、掃除婦でも、なんでもいいんです」
「うるさいね。おまえをここに置くつもりはない。翡翠との結婚なんて以ての外だよ! 今まではまだ学問に身を置く立場だったから大目に見ていたがね、これからは人間は人間らしく現世で生活なさい」
「ですが!」
「しつこいね、サボってないで仕事にお戻り」
「……失礼します」
大女将の許しを得ることはできなかった。私は急いで仲居の細雪さんたちに混ざって仕事を始める。
「なんか浮かない顔してるねぇ、大女将に叱られた?」
一緒に客間の準備をしていると、細雪さんが心配そうな顔で尋ねてくる。
「いえ、そういうわけでは。まぁ叱られるのは慣れっこですし」
「それもそうか。じゃああれだ、若旦那に告白でもされた?」
「こ!」
告白ではなく、プロポーズを……そう言いかけたところで、私ははっとした。そういえば、翡翠はプロポーズこそしてくれたけど、私のことを好きだとは一言も言っていない。私が一人ではしゃいでいただけだ。
それに、市杵島姫命に聞かなかったのかと言ってもいた。
もしかしたら、この結婚は翡翠の意志ではなくて、市杵島姫命のご指示なのでは……そう考えると翡翠が大女将に対して強い態度に出たのも頷ける。
そもそも、翡翠のような美形のあやかしが、私のような平凡な人間を好きになるなんて考えられない。さっきは浮かれて少しも冷静に考えられなかった。これは、明らかにおかしいよ。
「なぁに、百面相なんかしちゃって。ほら、市杵島姫命が翡翠に話していたのを聞いたのよ、那岐に縁を結ぶ話をしないといけないねって。結婚するのが一番手っ取り早いって言っていたから」
やっぱり。
「市杵島姫命が結婚の話を翡翠にしていたんですか?」
「ええ、そんな感じだったわ。翡翠と結婚したら、那岐もこちらで働けるしって」
「そういうことですよね……あはは」
これで全てのつじつまが合う。なんだか悲しい気持ちを通り越して、なんと言ったら良いのかわからなくなる。自分の勘違いが恥ずかしい。
つまり、翡翠は私が『わたつみ』で働けるよう、伴侶にしたらいいと市杵島姫命と話をしていたのだろう。私のために、私なんかのために翡翠は自分の気持とは関係なく奥さんを選ぼうとしてるってことだ。そんなの、全然嬉しくないよ。
「市杵島姫命と話がしたいのですが、姫様は海の間でしょうか?」
市杵島姫命がオーナーを務めるこの『わたつみ』には、市杵島姫命専用のVIPルームがある。それが海の間。
「いいえ、田心姫命と湍津姫命が大国主神に会うために出雲に旅行に行かれるっていうからついて行っちゃったのよ」
「いつお帰りになるのでしょう」
「さあねぇ、でもお二人よりは早いと思うよ。出雲観光して帰ってくるんじゃないかな?」
「そうですよね」
市杵島姫命に話を聞きたい。翡翠を問い詰めたらいいだけの話なんだけど。本人の口から直接聞いてしまうと、私の恋心へのダメージが大きすぎるような気がする。一瞬でも両思いだなどと勘違いして喜んでいた自分がいたたまれない。
気持ちが落ち着くまで翡翠の顔なんか見られないよ。
私との結婚なんて、私をこの旅館に置くための口実だなんて。そんなことのために私と結婚しなきゃいけないなんて、翡翠が不憫すぎる。
「まぁ、大女将のことは気にしなさんな! 那岐ちゃんはここの立派な薬草師だし、大きな顔して働いていたらいいのよ」
なんて、細雪さんは言ってくれたけど。私の心中は割と大混乱だった。
翌日、学校から戻ってくると旅館の中がざわついていた。
勝手口から入った私は困惑した表情の細雪さんを見つけて話しかける。
「何かあったんですか?」
「それがね、大女将に連れられて青龍家の篝様っていう娘さんが来ているのよ。女将修行だって言うんだけど、なんでも薬草に詳しいらしくて那岐ちゃんの代わりに薬湯を調整し始めたの。だからみんな困惑しちゃって」
昨日の今日で話の展開が早すぎるよ。さすが敏腕大女将! なんて感心している場合ではない。私のことを追い出す気満々ではありませんか。
「つまり、私はしばらく用無しですか?」
「いやいやいや! そんなわけないでしょう! 那岐ちゃんは私達の家族みたいなものだし、信頼だって激厚なんだから、ポッと出の女将なんかじゃ駄目よ!」
「あはは、ありがとうございます」
私の代わりに対抗意識を燃やしてくれている細雪さんに感謝の意を述べる。
嬉しい、私だってここで働きたい。だけど、翡翠に迷惑をかけなきゃいけないなら話は別だ。
「小虎さんが蒼海の湯を薬湯にしてくれって言っていたから、早く行って仕事ぶりを見せつけておいで!」
細雪さんに背中を押されて慌てて蒼海の湯に向かう。ガラリとお風呂へと続くガラス戸を開いたところでその香りの良さに驚いた。
嗅いだことのない花の香り、だけどものすごく心地が良い。他にもいくつかハーブを合わせているのだろう。すごく複雑で、とても繊細な香りがする。
「おお、遅かったな那岐。今日はもう見習い女将とかいう青龍の娘が来て調整しちまったのよ、無駄足踏ませて悪かったなぁ」
「いえ、大丈夫ですよ! いい香りですねぇ」
本当に良い香り。こんなお風呂に入れたら疲れも吹き飛ぶだろうなって思う。
だからこそ心の中に隙間風が吹いたみたいな気持ちになる。
私の居場所は、もうここにはないのかもしれない。
「細雪さんに仕事をもらってきますね!」
「おーう」
客間を整えて、お客さんをお迎えする。今日は木花之佐久夜毘売様と邇邇芸命様のご夫婦。
職員総出でお迎えすることになっているのだけれど、そこで私は初めて篝様に会った。
会合に出掛けていた翡翠も戻ってきており、その横に佇む篝様。肌はほんのりと青く、瑠璃色の美しい髪に、青い瞳。翡翠の横にいても少しも見劣りしない青龍の美女に、私は思わずため息を漏らした。
お似合いすぎるよ、これは完敗だ。
苦笑いとともに、翡翠への思いにそっと、だけど固く蓋をする。二度と、開いたりしないように。
「待って待って、大女将に呼ばれてるよ」
「さっき話したからもういいだろ」
そう言って翡翠は行こうとしない。
仕方なく私一人で大女将の部屋に出向くことにしたのだけれど、私一人じゃ会ってもらえないんじゃないかな。部屋の中にだって入れてもらったことないもんね。
「大女将、那岐です。参りました」
障子越しに声をかけると、予想通り棘のある声が返ってくる。
「おまえの顔なんか見たくもない。翡翠がいないなら戻りなさい。話はさっき廊下で話した通りです。翡翠は寝ぼけたことを言っていましたが、私は絶対に許しませんからね。おまえもそのつもりで、荷物をまとめておきなさい」
「大女将、私をここで働かせてください。下働きでも、掃除婦でも、なんでもいいんです」
「うるさいね。おまえをここに置くつもりはない。翡翠との結婚なんて以ての外だよ! 今まではまだ学問に身を置く立場だったから大目に見ていたがね、これからは人間は人間らしく現世で生活なさい」
「ですが!」
「しつこいね、サボってないで仕事にお戻り」
「……失礼します」
大女将の許しを得ることはできなかった。私は急いで仲居の細雪さんたちに混ざって仕事を始める。
「なんか浮かない顔してるねぇ、大女将に叱られた?」
一緒に客間の準備をしていると、細雪さんが心配そうな顔で尋ねてくる。
「いえ、そういうわけでは。まぁ叱られるのは慣れっこですし」
「それもそうか。じゃああれだ、若旦那に告白でもされた?」
「こ!」
告白ではなく、プロポーズを……そう言いかけたところで、私ははっとした。そういえば、翡翠はプロポーズこそしてくれたけど、私のことを好きだとは一言も言っていない。私が一人ではしゃいでいただけだ。
それに、市杵島姫命に聞かなかったのかと言ってもいた。
もしかしたら、この結婚は翡翠の意志ではなくて、市杵島姫命のご指示なのでは……そう考えると翡翠が大女将に対して強い態度に出たのも頷ける。
そもそも、翡翠のような美形のあやかしが、私のような平凡な人間を好きになるなんて考えられない。さっきは浮かれて少しも冷静に考えられなかった。これは、明らかにおかしいよ。
「なぁに、百面相なんかしちゃって。ほら、市杵島姫命が翡翠に話していたのを聞いたのよ、那岐に縁を結ぶ話をしないといけないねって。結婚するのが一番手っ取り早いって言っていたから」
やっぱり。
「市杵島姫命が結婚の話を翡翠にしていたんですか?」
「ええ、そんな感じだったわ。翡翠と結婚したら、那岐もこちらで働けるしって」
「そういうことですよね……あはは」
これで全てのつじつまが合う。なんだか悲しい気持ちを通り越して、なんと言ったら良いのかわからなくなる。自分の勘違いが恥ずかしい。
つまり、翡翠は私が『わたつみ』で働けるよう、伴侶にしたらいいと市杵島姫命と話をしていたのだろう。私のために、私なんかのために翡翠は自分の気持とは関係なく奥さんを選ぼうとしてるってことだ。そんなの、全然嬉しくないよ。
「市杵島姫命と話がしたいのですが、姫様は海の間でしょうか?」
市杵島姫命がオーナーを務めるこの『わたつみ』には、市杵島姫命専用のVIPルームがある。それが海の間。
「いいえ、田心姫命と湍津姫命が大国主神に会うために出雲に旅行に行かれるっていうからついて行っちゃったのよ」
「いつお帰りになるのでしょう」
「さあねぇ、でもお二人よりは早いと思うよ。出雲観光して帰ってくるんじゃないかな?」
「そうですよね」
市杵島姫命に話を聞きたい。翡翠を問い詰めたらいいだけの話なんだけど。本人の口から直接聞いてしまうと、私の恋心へのダメージが大きすぎるような気がする。一瞬でも両思いだなどと勘違いして喜んでいた自分がいたたまれない。
気持ちが落ち着くまで翡翠の顔なんか見られないよ。
私との結婚なんて、私をこの旅館に置くための口実だなんて。そんなことのために私と結婚しなきゃいけないなんて、翡翠が不憫すぎる。
「まぁ、大女将のことは気にしなさんな! 那岐ちゃんはここの立派な薬草師だし、大きな顔して働いていたらいいのよ」
なんて、細雪さんは言ってくれたけど。私の心中は割と大混乱だった。
翌日、学校から戻ってくると旅館の中がざわついていた。
勝手口から入った私は困惑した表情の細雪さんを見つけて話しかける。
「何かあったんですか?」
「それがね、大女将に連れられて青龍家の篝様っていう娘さんが来ているのよ。女将修行だって言うんだけど、なんでも薬草に詳しいらしくて那岐ちゃんの代わりに薬湯を調整し始めたの。だからみんな困惑しちゃって」
昨日の今日で話の展開が早すぎるよ。さすが敏腕大女将! なんて感心している場合ではない。私のことを追い出す気満々ではありませんか。
「つまり、私はしばらく用無しですか?」
「いやいやいや! そんなわけないでしょう! 那岐ちゃんは私達の家族みたいなものだし、信頼だって激厚なんだから、ポッと出の女将なんかじゃ駄目よ!」
「あはは、ありがとうございます」
私の代わりに対抗意識を燃やしてくれている細雪さんに感謝の意を述べる。
嬉しい、私だってここで働きたい。だけど、翡翠に迷惑をかけなきゃいけないなら話は別だ。
「小虎さんが蒼海の湯を薬湯にしてくれって言っていたから、早く行って仕事ぶりを見せつけておいで!」
細雪さんに背中を押されて慌てて蒼海の湯に向かう。ガラリとお風呂へと続くガラス戸を開いたところでその香りの良さに驚いた。
嗅いだことのない花の香り、だけどものすごく心地が良い。他にもいくつかハーブを合わせているのだろう。すごく複雑で、とても繊細な香りがする。
「おお、遅かったな那岐。今日はもう見習い女将とかいう青龍の娘が来て調整しちまったのよ、無駄足踏ませて悪かったなぁ」
「いえ、大丈夫ですよ! いい香りですねぇ」
本当に良い香り。こんなお風呂に入れたら疲れも吹き飛ぶだろうなって思う。
だからこそ心の中に隙間風が吹いたみたいな気持ちになる。
私の居場所は、もうここにはないのかもしれない。
「細雪さんに仕事をもらってきますね!」
「おーう」
客間を整えて、お客さんをお迎えする。今日は木花之佐久夜毘売様と邇邇芸命様のご夫婦。
職員総出でお迎えすることになっているのだけれど、そこで私は初めて篝様に会った。
会合に出掛けていた翡翠も戻ってきており、その横に佇む篝様。肌はほんのりと青く、瑠璃色の美しい髪に、青い瞳。翡翠の横にいても少しも見劣りしない青龍の美女に、私は思わずため息を漏らした。
お似合いすぎるよ、これは完敗だ。
苦笑いとともに、翡翠への思いにそっと、だけど固く蓋をする。二度と、開いたりしないように。