初恋ディストリクト


「一体どういうことだろう」
 澤田君が呟いたけど、私も全く同じことを思っていた。
 私は婦人服の店も試しに入ろうとした。そこにもやっぱり見えない壁があって、どうしてもぶち当たって先に進めない。
「ええ、嘘! やっぱりこっちもダメだ」
 澤田君は反対側へとひょっこひょこしながら小走りする。
 向かいは地元の人で集まりそうなお好み屋がある。暖簾が掛かって、店は営業している雰囲気だ。まずは鼻をひくひくとさせて匂いを嗅ぎだした。
「なんか微かに鉄板で焼いているお好み焼きの匂いがする」
 そういって慎重に一歩近づき、引き戸に向かって手をかけようと延ばせば、それははじかれるようにぶつかり、澤田君は痛みを感じて顔を歪ませた。
「付き指したみたい」
 泣き笑いな顔を私に見せていた。
 その隣も飲食店で焼肉の看板が出ていた。お好み焼き屋よりも小さくて入り口が狭い。精肉店と隣り合わせになっているところをみると、直営のお店なのかもしれない。
 念のため澤田君はそこも確かめようと手を伸ばせば、同じように見えない壁にぶち当たっていた。
「ここもダメか」
 がっかりするため息が聞こえた。
 私はどうしてもまだこの状況が飲み込めない。路地に戻って、来た道を引き返そうとしたとき、そこも見えない壁で塞がれていた。
「ダメだ、戻れない。ここから入ってきたのにどうして……」
 私が混乱していると、澤田君は「あっ!」と叫んでいた。
「どうしたの」
「店に入れないだけじゃない。ここから先へも行けないんだ」
 焼肉屋の隣の精肉店に澤田君は行こうとするのだけど、初代ドラゴンクエストのキャラクターのように、先に進めなくてその場でつかえたキャラクターみたいになっている。手で探りながら見えない壁を辿るように私のいる反対側まで来た。
「これってかなり狭い空間に私たちは閉じ込められているってことなの?」
 私が不安になっていると、澤田君はそれを確かめようとして、ペタペタと見えない壁を触って全体の大きさを確認している。それを目で追っていると四角い部屋があるように見えた。
「僕たちが入ってきた路地の辺りを軸として向こう側の商店街へは行けない。それぞれ向かい合っている四つの店に挟まれた大きさの中に僕たちは閉じ込められた様子だ。届かないけど、きっと頭上も同じ状態なのだろう」
 私たちは頭上を見上げた。
「ちょっと確かめてみましょうよ。もしかしたら開いていて出られるかも」
 私は手をあげたまま何度もジャンプしてみた。
「梯子がないと上はどこまで続いているのか確かめようがないと思うよ」
「じゃあ、肩車してみて」
「えっ、僕が?」
「他に誰がいるのよ。それとも私が澤田君を肩車しろと?」
「わ、わかったよ」
 澤田君は片方の膝だけを地に着けてしゃがんだ。
 私は澤田君に近づいて彼の肩に乗ろうとする。
「もう少し、低くして、首を前に屈めて」
「ちょっと待って、これ以上は苦しくて」
 お互い「あっ」「おっ」と声を出し合い、ようやく私が肩に乗れた。
「それじゃ、立って」
 私の掛け声で澤田君は踏ん張って立ち上がろうとするが、どうも上手く立ち上がれない。
 大きく澤田君が動いた時、バランスが上手く取れなくて気がつけば前のめりになって私は倒れこんでいた。
「あー、ちょっと危ないじゃない」
 慌てて澤田君から離れる。
「ごめん。上手く行かなくて」
 澤田君はぎこちなく立ち上がり、ヘラヘラとして笑っていた。
 澤田君だけを責められない。私も重かったかもしれない。でも男の子だからちょっと私より力があって支えてくれると期待した。
「もう、仕方ないな。あっ、そうだ」
 ふと閃いて、ポケットからコインを取り出した。五百円玉だ。それを力強く天井に向けて放り投げた。それは途中で強く何かに当たり、パーンとはじけて地面に落ちた。天井にも見えない壁がある事がこれで証明された。
「あーあ」
 悔しさの声が虚しく漏れた。落ちたコインを回収し、澤田君にちらりと視線を向けた。
「見えないけどもこれで完全にキューブの中に僕たちは居ると考えられる」
 澤田君は冷静に分析していた。
「どうしてこんな事が」
「僕にもわからない」
「どうやったらここから出られるの?」
 パニックになりそうな気分をかろうじて私は押さえ込む。叫んだところでどうしようもないけど、澤田君が意外にも落ち着いていたお陰でなんとかそれに見習った。
 頼りない印象だった澤田君は気を確かに持って辺りを見ていた。
「こんな状況でも、匂いが入ってくるってどういうことだろう。あっちは微かにお好み焼きの匂いがするんだ」
 澤田君はもう一度確かめようとお好み焼き屋に近づいて鼻をひくひくさせた。私も釣られて側に寄って匂いを嗅ぎ取る。
「本当だ、お好み焼きを焼いてる匂いがする」
 鉄板の上に焼かれているお好みを想像し、ソースを刷毛でぬりこんで、そこからこぼれたじゅーっと焼ける音が聞こえてくるようなそんな気もした。
 想像すると無性にお腹がすいてきた。
「でも隣の焼肉屋は何も匂わない」
 澤田君は犬のように激しくクンクンしていた。
「焼肉の方が匂いはきついのに、こっちは匂わないね。なぜなんだろう」
 私がそういうと澤田君はズボンのポケットからスマホを取り出した。操作を繰り返しながら、何かを考え込んでいた。
「ネットはやっぱりできない。電話も掛けられない。だけど、時計はそのまま動いている。今は十一時八分になっている」
 私もスマホを確かめたかったけど、家に置いてきてしまった。財布すら持たず、お金を無造作にポケットに突っ込んできただけだ。
「時は普通に動いているってことなの?」
「多分だけど、僕たちは時空のポケットにはまり込んだのかもしれない。この世界は見えてるけど、実際そこに居なくて、別の空間にいるってことなのかも」
 澤田君はある程度把握したようだけど、私には分かったようで分からない。
「元に戻れるの?」
 不安な面持ちで訊いてしまう。
「わからない。だけど、入り込んだんだから、出る事だってできるんじゃないかな。匂いが伝わってくるということはきっと何かそこにヒントがあるはずだ。お 好み焼きの匂いを感じるのも、今実際に現実で起こっていることなんだと思う。焼肉屋が匂わないのは、営業が夕方からだからまだ開いてないと考えたら辻褄が あう。それとも定休日ってことも考えられるけど」
「なるほど。そういえば、焼肉屋の暖簾が入り口にでてないね」
「服屋も和菓子屋も店は開いている。ここから先にはいけないけど精肉屋も営業している。ほら、ショーケースの中を注意深く見てごらん」
 澤田君の見ている方向を暫く見れば、ショーケースの中でパッとお肉が一部消えた気がした。
「あっ、なんか動いた」
「あれは、お客が来て、売ったんだと思う。秤もデジタルの数字が動いてたんだ」
 お客からも見えるように置かれた秤の数字が一瞬現れた。
「ほんとだ。よく見たら何か変化してる。現実の微かな動きを少し感じ取れるってことなんだ」
「急に人が消えたのは、僕たちが見えなくなっただけで、きっと周りには人がいっぱいいるんだと思う」
「だったらぶつかってもいいのに」
「それが同じ空間にいないってことなんだと思う。でもきっといつかぶつかる時が突然来るんじゃないかな。気まぐれに現れた空間なら、また気まぐれに消えるかもしれない。人が確認できれば同じ空間に居るということになる。そしてこのキューブから出られる」
「じゃあ、どうすれば人がまた現れるようになるの?」
「それよりも僕はなぜこんな状況になったのか、知りたい。ここはもしかしたら霊的な空間で、その、栗原さんはもしかして幽霊とか、成仏しきれてない存在だったりする?」
「はぁ?」
 思わず顔が歪んだ。こんな状況で何を言うんだと耳を疑ってしまう。
「いや、なんていうのか、ちょっと確かめたくて」
「それなら、澤田君はどうなの? そっちこそ幽霊じゃないの。たまたま見えた私を道連れにしようとしているんじゃないの。そうじゃなかったら超能力者とか、宇宙人とか?」
 精一杯にやり返すも、とっぴな言葉過ぎてなんだか馬鹿馬鹿しくて虚しい。それが恥ずかしくなって私はプイッとそっぽを向いた。私の気分を損ねた態度に気がついた澤田君はぎこちなくなって少し動揺気味だ。ちらっと様子を見たら彼の目が泳いでいる。
 お互いどうしていいかわからなくなって暫く私たちは黙り込んでしまった。
 また変化がないか、目を凝らし、見える範囲で店の様子を窺う。暫く沈黙が続くと気まずい思いがどんどん膨らんでいった。
 この状況が異常なのに、プライドの問題で上手く接する事ができず、それぞれ別々に何度もこのキューブの壁に触れながら無意味に辺りをぐるぐると回っていた。
 時々、私を気にする澤田君の視線を感じる。幽霊って勝手に殺された設定にちょっと気分を害したけど、ずっとこのままでもいられない。私が心許せばまた歩み寄れるような気がした。
 私は考える。澤田君は私を初恋の人に似てるとか言い出し、何か魂胆を持って私に近づいたと仮定して、澤田君がこの状況を作った原因になったんじゃないだろうか。
「ねぇ、澤田君。やっぱり澤田君が無意識にこの状態にしたんじゃないの?」
「そんなこと出来るわけないよ。僕はどこにでもいるような目立たない普通の高校生だよ」
「それじゃ、どこの高校よ」
「常盤台《ときわだい》学園だけど」
「ちょっと待って、嘘、私も常盤台学園よ。もしかして三年生?」
 急に先輩かもしれないと思うと、緊張してしまう。
「これから二年になるけど」
「えっ、同じ学年?」
「栗原さんも二年生なの?」
 お互い同じ高校の同じ学年と知ってびっくりしてしまう。
「澤田君は一年の時、何組だったの?」
「六組。栗原さんは?」
「私は一組」
 ちょうど一組から六組ある中で、教室も四組以降は私のクラスがある校舎から向かいの校舎になって分かれていた。同じ学年内では知らない人もまだいる。
 でも同じ高校だから、お互い知らなくても廊下ですれ違ったりして無意識に顔を見ていたとも考えられる。だから澤田君を見たとき、知らないけども初めて会った気もしなかったのかもしれない。
「すごい偶然だね。まさか同じ学校だったとは」
 そのとき、私は突起物に触れたようなピリッとした違和感を覚えた。それを口にしようとしたとき、澤田君は「猫!」と突然叫んだ。
「あそこ、見て、猫が歩いてる」
 私たちが入り込めない向こう側の世界で確かに猫がテケテケと商店街を横切って歩いていた。
「あれ、キジトラだよね。何色に見える?」
 私は色を気にして訊いていた。
「キジトラ? 僕には黒っぽい、それでいて真っ黒じゃない猫に見える」
 遠目にみたら、全体的にそう見えることもないけれど、あの模様はキジトラにしかみえなかった。ただ色がはっきりとわからない。
「もしかして、澤田君って視力悪い?」
「普通だと思うけど、普段からめがねかけてないし。でも遠くはぼやけるかな」
 なるほどあの距離ならぼやけて、なかなかはっきりと見えないのだろう。
「あの猫、こっちにこないかな。ねえ、猫! おいで、こっちにおいで」
 私は叫んでみた。猫は素知らぬ顔でまたどこかの店入り込んだように消えていった。
「ああ、行っちゃった」
 私はがっかりしてその場にへたり込んだ。
「もしあの猫がここにきたら、この空間にはいれるような気がしたのに。そしたら穴が開いて風船がはじけるようにこのキューブもなくなるように思えた」
 独り言のように呟いた。
 その後、思うように行かなかったイラついた感情が沸々と心の中の不満を大きくしていった。
 この空間の存在は、澤田君も原因かもしれないけど、もしかしたら猫も原因の一つなのかもしれない。猫なんか追いかけなければこんなことにならなかった。こんな状況、絶対に猫と澤田君のせいだ。
 私はただ歩いていて猫に気を取られて迷い込んでしまった。それがトラップで、出れなくなった。もし澤田君が声を掛けないで私を引き止めなかったら、私はすぐに路地に戻って家に帰っていたはずだ。こんなことにはならなかった。
 澤田君をちらりとみれば、黙々とまだこのキューブの中を調べている。
 見知らぬ男の子とこんな狭い中に閉じ込められて、これからどうなってしまうのだろう。
 そういえば、こんな状況の映画がなかったっけ。タイトルも確かキューブとかいう……あっ、ホラー映画だ。怖い映画は観る気がしなくて内容は知らないけど、ホラーだから閉じ込められた人たちは殺されて行くんじゃなかっただろうか。
 ふと私は嫌な気持ちになった。まさか、このキューブがさらに縮んで私たちは最後圧縮されて潰されるんじゃ……そこまで考えた時、ぞっとせずにはいられない。私はうずくまって怖くて悲観的になってしまった。涙がじわっと目から染み出てくる。
 私の落ち込んだ肩に澤田君の手が触れて、びくっとした。
「栗原さん、大丈夫? どこか具合悪いの?」
「具合が悪いですって!? 当たり前じゃない。こんなところに閉じ込められて正気でいられるわけがないじゃない」
 澤田君が優しいことを利用して私は八つ当たってしまう。
「大丈夫だよ、きっと出られるよ」
「どうしてそんな平気でいられるのよ」
 泣き叫んでいる私の顔を見て澤田君はにこっと微笑んだ。
「もしかして、栗原さん、なんか悪い方向に考えてない? 例えば、この空間がもっと狭くなって最後に押し潰されるとか」
 図星だからうっと喉の奥で声がつまった。
「やっぱり。不安を抱いちゃ全てが悪い方向へ行っちゃうよ。そんなの損するよ」
「だったら、早くここから出してよ」
 私の叫びに澤田君の眉が下がって困った表情になった。でもすぐに気を取り直し、私のネガティブな言葉に流されず微笑む事を忘れない。
「隣に座っていいかな」
 隣も何も、私たちは商店街のど真ん中にいる。見えないキューブの中にいるとはいえ、視界だけは広がってこんな場所の地べたにふたり並んで座るのも変な感じがした。
「好きにしたらいいじゃない」
 素直になれない私は、まだ会って半時間も経ってない人に気持ちをぶつけている。こんなことすべきじゃないと頭ではわかってるんだけど、不安が自分の心を狭くする。
 澤田君は私の横に並んで座り、見えない壁に背をもたせかけ両足を伸ばした。真横でみればそれは不思議な気分だった。何もないから澤田君が演技でもたれるふりをしているのではと思ってしまう。
 澤田君はそのまま動かないでじっと前を向いていた。その沈黙が私には居心地が悪くて、自分が澤田君に向けた態度に罪悪感を抱いてしまう。澤田君は全く悪くない。でも私は一度あげた拳を下ろせないように素直になれなくてひとりでいじけて背中を丸めた。
 なんで澤田君はこんなにも私に優しいのだろうと思ったとき、私ははっとした。
「澤田君、私の顔は似てるかもしれないけど、澤田君の初恋の相手ではないから、彼女がこんな態度をとると誤解しないであげてね」
「えっ?」
「だから、初恋の人に私が似ていても、中身は全く違うってことだから。澤田君の初恋の相手の思い出を私は壊したくないの」
 澤田君が私に優しいのは持って生まれた穏やかな性格のせいでもあるのだろうけど、元はと言えば、私が『初恋の君』に似てるから感情をごっちゃにさせているのかもしれない。
 好きな人に似ている人が目の前にいれば、錯覚を起こすことだってある。
 私だって、澤田君が私の憧れている人に似ていたら、こんなにも感情をむき出しにしなかったはずだ。
 澤田君は暫く私の言葉の意味を思案していたけど、先ほどよりももっと明るくなったように表情が晴れ晴れとしていた。
「ありがとう」
 私に向かって言った。
 突然の感謝の気持ちに私は戸惑った。
「お礼言われることじゃないと思うんだけど」
「違うんだ。僕の初恋の人だけど、僕は彼女に関して何も知らないんだ。ただ見かけて、僕が勝手に好きになっただけだった。声を掛ける勇気もなかった。一体 どんな女の子なんだろうって、想像はしたけど、僕、女の子とあまり話した事がなくて全然イメージが湧かなかったんだ。だから却って栗原さんと接して、知り 合って間もないのに本音を僕にぶちまけてくれたから、感情のぶつかり合いが青春してるなって思えて、そんなに悪くないんだ。頼りない僕に腹を立てながら、 僕を気遣ってくれる栗原さんが嬉しかった」
「嬉しいって気持ちはよくわからないけど……」そんな風に言われたらこっちが益々自己嫌悪になってしまう。「……ごめん」思わず気持ちが溢れた。
「どうして栗原さんが謝るの?」
「だって、我がままな事を言ったから。澤田君に八つ当たったから」
 あまりにも澤田君がピュアすぎて、私は自責の念に駆られた。
「僕は何も気にしてないよ。謝ることなんてないんだから」
 手をひらひらと振りながら、澤田君は慌てて否定している。どこまでも澤田君は優しい男の子だ。今時こんな男の子はめずらしいかも。
 自分のことよりも人の事を気にする澤田君。好感度が増していった。澤田君は全くすれてなくて、こんな純粋に人懐っこくつきまとうのって、何かに似てい る。存在自体が無条件に好きになってしまうもの。それは犬だ。しかも忠実に主人を慕う犬。そんなのが側にいたら誰だって気に入ってしまう。
 頼りない風貌じゃなくて、竹のようにしなやかでそれでいて芯が強い。澤田君はそういう男の子だ。
「もし澤田君が初恋の人に声をかけていたら、きっとその女の子は澤田君のこと好きになっていたような気がする」
 そんな言葉がポロッとでたのも、私自身が澤田君のこと気に入ったからだと思う。
「えっ、そ、そうかな」
 澤田君は照れた仕草をしたけど、その瞳はどこか悲しそうであんまり喜んでない。過去の事をそんな風に言われても、もう遅いだけに虚しさの方が強くなるの かもしれない。たらればでそんな風に肯定にいったところで褒め言葉でも何でもなかった。たらればはあくまでも仮定だ。それに私がいうことでもなかった。架 空のことじゃなくて現実の事を言わなければ。また変な雰囲気になりたくなくて、私は思い切って言ってしまう。
「だって、私、澤田君のことかなりポイント高いもん。ちょっといいなって正直思ったよ」
 自分を引き合いにだしてさっきの言葉を上書きしようとしたけど、自分でも大胆すぎて、なんかかっと体が熱くなって恥ずかしい。
「えっ?」
 突然のことに澤田君はきょとんとしている。鈍感なのか、伝わらないのも悔しくなる。ここまで言ったからにはあとにはひけなくて、つるっと口からまた言葉が飛び出す。
「あのさ、ここから抜け出したらさ、お祝いに私とデートしない?」
 何を言っているんだ、私は。逆ナンパか。でも初恋の人に似てるって言われて、どこかで澤田君に好かれてるんじゃないかって自惚れたし、澤田君みたいなタイプは嫌いじゃないし、春だし、今私の中のピンクの蕾が突然開いたような気がした。
 澤田君は口を開けて言葉を失っている。それはどういう意味なの、澤田君。拒否、それともまだ伝わらないの?
「だから、絶対にここから抜け出して、それで二人で楽しいところに行こうっていってるの。何か楽しみがあったら意地でもここからでようと思うじゃない」
 私の顔が熱くなる。言い訳がましいながらも、精一杯のアプローチ。こんな台詞を私が言うなんて自分でも信じられない。それ以上に澤田君は状況が飲めなくてただ私を見つめていた。
「顔は似てても私だとやっぱりダメ?」
 モジモジとしながら澤田君と目を合わせた。
「えっ、その、えっと、えーっ!!」
 澤田君はどう返事をしていいのか分からず、しどろもどろだ。そして一度大きく息を吸ってから吐き出すと同時に言った。
「うん。それいい。行きたい。絶対行こう!」
 突然誘われたことに最初澤田君は驚きすぎたみたいだ。ちょっと鈍感なのかもしれない。落ち着いた時、思いっきり喜んでいた。
 顔を合わせてお互い笑った。何だか照れくさい。先ほどの不安がうそのように払拭されていく。悲観になるよりもずっと気分が楽になった。ここから絶対に出られる。今はそう思う事が一番大事なんだ。
 隣で澤田君は嬉しそうに顔を綻ばしながら、勢いづいて見えない壁に背中をもたれさせる。その時「うわーっ」と澤田君がびっくりして後ろに倒れこんでいた。
「澤田君、大丈夫?」
 一瞬何が起こったのかわからなかった。
 だけど私もまさかと思って手を伸ばすと、さっきまでそこにあった壁がなくなっていることに気がついた。

 気持ちが明るくなって、私たちがデートする約束をすると、澤田君がもたれていた見えない壁がいきなり消滅していた。
「えっ、壁が消えた?」
 後ろに倒れこむのをかろうじて手で踏ん張って耐えていた澤田君は、体勢を整え立ち上がる。手を伸ばしてもう壁がないか恐る恐る探っていた。
 私も立ち上がって同じように確かめる。少しずつ歩いて進めるところまでおぼつかなく足を動かした。でもふとその動きを止めた。
「壁がなくなっても、まだ周りには誰もいない」
 周りの人が見えなければ、まだ違う空間に居るということだ。空間が広がったところでここから抜け出せないことに私はがっかりする。
 少し先まで行っていた澤田君が振り返って報告する。
「ここで行き止まりだ。ちょうどこのお肉屋さんの店の端あたりを境目に壁があるよ」
「それって、空間が少し拡張されたってこと?」
「多分、店舗の区切りごとに、壁が動いたってことなんだろう。ほら、向かいの店はお肉屋さんよりも小さい。だから店の端どうしを線で結ぶと、ちょっと斜めに壁が出来ることになるんだ」
 澤田君が見つけた法則は、向かい合った店を基準にして、その端をつないだ区切りが壁になっているらしい。精肉店の向かいは瀬戸物や食器を売っている店 だ。店頭にセール品と手書きでかかれたポップが貼られたワゴンに、お茶碗やお皿が入れられて売られている。店に近づくとやっぱり壁があって、中には入れず 外に出されたワゴンにもがっちりと被せた見えない何かがあって、商品に触れなかった。この商店街で売っているものは一切触れられないってことなんだろう。 なんなのよ、もう。
 その間に澤田君は反対方向へとひょこひょこ走り、路地を越えた向こう側をチェックする。
「ああっ」
「どうしたの」
「今の拡張はこっちにも影響している。壁が店ごとを区切りにして左右同時に移動しているみたいだ」
「じゃあ、さっきよりも、かなり広くなったってこと?」
「そうだよ。空間は広がってる」
 澤田君は嬉しそうに私に叫んでいる。
「でも、まだ人が現れてない。どんなに広がったって違う空間に閉じ込められたままじゃないの」
「だけどさ、これっていい兆候じゃないかな。だってさ、僕たちが希望を持った時、急に壁が動いたんだよ。僕たちのここから脱出したい気持ちが高まったからそうなったと考えられないかな?」
 澤田君の言いたい事はわかる。でも私は半信半疑だった。
「ここから出たい気持ちは閉じ込められていると分かってからずっと変わらないし、苛立つほどそれは大きく持ってるじゃない。でも見えない壁はそんなすぐに変化しなかった」
「ううん、さっきの気持ちはそれ以上のものがあったよ。何かポジティブになったじゃないか。その、僕たちが同じ思いに明るく希望をもったというのか、僕たちその時、ぐっと体に熱いものが流れたような感情があったよね」
 ぐっとくる熱いもの。確かに顔を熱くして自分らしからぬ言葉を澤田君には伝えたけど、それはすなわち私が澤田君に好意をもった感情だ。それが本当ならもう一度試してみようじゃないの。
「デート……」
「何?」
「だから、私はここを出て澤田君とデートしたい!」
「えっ? 一体どうしたの、急に叫んで」
 澤田君は戸惑っていた。
「ほら、どう、またそっちの空間が広がった?」
「はい?」
 澤田君は私の意図がまだわかってない。説明するのが面倒くさくて、私は食器屋から向こう側を確かめる。澤田君の仮説どおりなら、広がってるはず。でもそれはあえなく撃沈した。見えない壁は全く動いてなかった。
「効果ないじゃない。やっぱり偶然だったんだ」
「いや、偶然じゃない。きっと何か僕たちのしたことが影響したんだよ。あの時、僕はわくわくしてすごく嬉しかったんだ。それで壁がまだあると思って後ろにもたれたら、触れたと同時に急に消えたんだよ」
「でも、私だって今、気持ちをぶつけたけど、上手く行かなかった。口から出た言葉は本当にそう思っての本心なんだよ」
「そ、そっか。それは嬉しいな」
 向こう側にいる澤田君はまた照れた。手持ちぶたさに壁に手をついたときだった。またがくっと体がバランスを崩していた。体勢を整えようとおっとっとっと、今にもこけそうだ。それをやっとの思いで持ちこたえて私に振り返った。
「壁がまた消えた」
「うそっ」
 私も目の前の壁にふれようと手を伸ばす。さっきまであった壁がもうそこにはなかった。
「こっちも消えた」
 確認のため、先へと足を運ぶ。食器屋の隣は無機質な白い壁が続いている。ガラス張りのドアが中央にあって接骨院とかかれていた。反対側の精肉店の隣は シャッターが閉まっていた。進めるところまで進んだら、接骨院の建物の終わりに見えない壁を確認した。そこから辿って向かい側に行けば、シャッターが閉 まっている店の端に続いた。それは店舗ごとにこの空間は確実に広がっている。私は澤田君を振り返る。これって、やっぱり澤田君の感情が影響しているんじゃ ないの?
「ちょっと澤田君」
 澤田君から遠ざかってしまったので、私は澤田君に駆け寄る。澤田君に近づけば、彼は眉間に皺を寄せて混乱していた。
「栗原さん、これってどういうことだろう」
「だから、やっぱり原因は澤田君なのよ。澤田君の感情がこの空間を左右してるのよ」
「僕の何の感情?」
 さっきまでポジティブになるや、希望をもつといっていたのに、澤田君は自分のことになると訳がわかってない。
「その純粋な、ピュアな心!」
 重複した語彙が続いた。そんな事を気にしてられない。これは澤田君が喜んだり恥ずかしがったりしたら、壁が消えるのじゃないだろうか。私にはそう思えてならなかった。
 澤田君はまだこの事態を飲み込めていなかった。
「ちょっと待って、僕のそのピュアな心って、何?」
「澤田君ってすごく純情で心が澄んでいるってことよ」
「ええっ、僕はそんなんじゃないよ」
「そんなことで謙遜しないの。とにかくそっちの壁がどこまで動いたか確認して」
 私は接骨院のところまで再び走り、澤田君の行動を離れて見守った。私もこっち側で壁が移動する事を期待して、今手のひらをくっつけてスタンバイしている。
「どうそっちは?」
 距離が遠ざかった分、力んで声を出した。静かな空間では声がよく通った。
 澤田君は少し進んだ先で手に壁を感じたのか、ペタペタと辺りを触っている。
「ここまで壁が移動している」
「じゃあ、もう一回、さっきのように繰り返すよ」
 私は一度息を吸い込んだ。そして思いっきり叫ぶ。
「澤田君とデートしたい!」
 私の方は壁がまだ動いてない。暫く様子を窺い、壁が消える事を願った。でも澤田君からは何の報告もされなかった。
「澤田君、ちゃんと壁を触った?」
「触ったけど、さっきみたいに消えないんだ」
「どうして?」
「わかんない」
 その後、私はもう一度デートしたいと叫んだが、壁はそれ以上動かなかった。
「なんでよ。二回もそれで成功しているのに、どうして急に法則が発動されないのよ」
 大声を出し続けるのも疲れ、私たちは商店街の真ん中に戻る。虚しくなっている私の表情に澤田君は反応する。
「栗原さん、ほら、がっかりしないの。ネガティブは禁物だよ」
「わかってるけどさ、折角ヒントを掴みかけたのに、それが役に立たなくなったからちょっと悔しくて」
 澤田君を見れば落ち着いている。
「やはり偶然だったのかもしれないよ。ここは気まぐれで不安定な空間なのかも」
「偶然にしても、二度も同じ事が続いたんだよ。気まぐれだったとしても、店舗を基準にして壁が動くのは順序良くすぎない? やっぱり法則があるんだよ。私が澤田君とデートしたいっていったら、澤田君が照れて壁を触ると動いて、この空間が拡張したのはまぎれもない事実だよ」
「そうなのかな……」
「もしかして澤田君、もうドキドキしなくなった?」
 何度も同じ事を繰り返せば、澤田君自身の感情が慣れてきたのかもしれない。それにデートしたいって思っていても、今はその言葉を発すればこの空間が広がるって思いこんでいる自分もいる。感情が二の次になってしまった。
 でも澤田君は私を見てにこっと笑う。
「そんなことない。僕は栗原さんを見てからずっとドキドキしてるけど」
「やっぱりそれって、初恋の人と私が被っちゃってるから?」
 澤田君はこの質問に少し考え込んだ。
 言葉を選んでいるようで、困っているようで、私がじっと見つめて答えるのを待っているから答えないといけない焦りもでて、ようやく出てきた声は「うーん」だった。
「やっぱり被ってるんだ。初恋の人の事を考えてるんだ」
 勝手に判断して私が代わりに答えた。
「あのね、どう答えていいのかわからないんだけど、栗原さんのいうことは一理ある。それだけじゃないんだ」
「どういう意味?」
「うーん」
 また唸っていた。
 澤田君は答えるのを渋っているのか、本当にどう答えていいのかわからないのか、多分後者だろう。そしてやっと口を開いた。
「僕が勝手に初恋の人に似てるなんて言ってごめん。やっぱり初対面でそんなこと言われたらびっくりするよね」
「それはそうだけど」
 ある程度澤田君の人柄を理解すると、今となってはそんなに悪い気がしない。それってすでに好かれている近道というのか、私を意識する要因になっている。私だって、それがあるから急に告白されたみたいな錯角に陥った。
 初恋の人に似てるや、元カノに似てるって、一度好きになった人に似ているっていう言葉は接着剤のように突然強力にくっ付いてしまう力を持っていると思う。
 人間じゃなくても、以前飼っていた犬に似てる、猫に似てる、そういうペットの写真を目にした時、共通点があれば誰だってそう思う。死んでしまったペット のクローンだってわざわざ作るような時代になってしまったくらいだ。最初に好きになったものからそれに似ているものに執着するのは人間の本能なのだろう。 好みは体に刷り込まれて無意識に繰り返される。
「正直、栗原さんを見たとき、僕の初恋の人が現れたんじゃないかって、一瞬思ったのも確かなんだ。でもそれはありえないことだってわかってたんだけど、栗 原さんを見るといてもたってもいられなくて、それでつい声を掛けてしまった。まさかこんな状況になるなんて思ってもなかったけど、もしかしたらやっぱり僕 のせいなのかもしれないね」
 急に後悔して、澤田君が悩み出した。
「一体、初恋の人と何があったの?」
 何か言えないわけでもあるのだろうか。
「本当に僕たちの間には何もなかった。ただ遠くから見てるだけの存在。だから声を掛けなかったことをとても後悔した。もし声を掛けてたら何かが変わったんじゃないかって、いつもいつも思いながら過ごしてた」
「そんなに好きだったんだね。やっぱり純情なんだ」
「そうじゃないんだ」
 珍しく澤田君は取り乱した。
 その反応に私も息を飲んで黙りこんだ。急に静かになって気まずい空気が目に見えるようだ。初恋の人の話は私から気軽に触れてはならない何かを感じる。
「あのさ」
 頭に何も考えが浮かんでないのに、その場を取り繕うだけの声がでた。
 澤田君も私に視線を向け、迷いがあるようで口に出来ないまま口元を微かに震わせている。
 暫く張り詰めた冷たい空気を感じたけど、そこに何かが割り込んできた気配がする。
「あっ、今、足に何かが触れた」
 澤田君が言うや否や、突然「にゃー」と足元で甲高い声がした。それがきっかけで辺りの空気が一気に柔らかくなった。
「えっ、猫? 猫がいるの?」
 私たちは辺りを見回す。かなり近くで聞こえたように思ったけど、足元を見ても猫の姿が見えない。
「にゃーお、にゃーお」
 私は鳴き真似をするも、手ごたえはなかった。
「あっ、居た」
 澤田君が指を差して声を上げた。
 そこは焼肉屋があるところだ。その店の前の隅っこには、外で待つ客のために、赤い丸椅子が重ねて置かれていた。その上にちょこんと座ってこっちを見ていた。
「何も見えなかったのに突然ぱっと宙に現れて、その椅子に着地したように見えたんだ」
 澤田君が説明する。
「もしかしたら、さっき足元で声が聞こえたのは、私たちの近くを横切ってたってことかな」
「多分そうだろうね。この空間の中では見えなかったんだ」
「それじゃ猫には私たちが見えるのかな」
 私はそっと猫に近づいた。
 不思議なことにその猫の毛並みの色が一つに定まって見えなかった。
「ねぇ、澤田君。この猫の毛並みだけど、何色に見える?」
 澤田君が近くで見ようとすると猫は椅子からジャンプして降りてしまった。そのとたんに姿がぱっと消えた。
「ねぇ、見た? 猫の毛並みの色。何色だった?」
「うんと、こげ茶っぽかったような黒かったような」
「私には模様も含めて次々と変化しているように見えたんだけど」
 澤田君は考えこんでから、また「うーん」と唸っていた。そして口を開く。
「ねぇ、栗原さん。色が変化しても、その猫は一匹だと思う?」
 澤田君の質問の意味がよくわからなかった。
「私には一匹にしか見えなかったけど?」
 澤田君は瞳の奥深くで何かを考えていながら、私を見ていた。
「ねぇ、栗原さん。少し休憩しない?」
「休憩?」
「うん、ずっとここを出ることばかり考えて、一喜一憂してちょっと疲れたでしょ。僕も少し休みたいんだ」
「うん、別にいいけど」
 澤田君は何かに気づいたんじゃないだろうか。慎重になったというのか、初恋の人の話を訊いたら、急に態度が変化した。それに何かあるのは伝わってくるのに、何も話してくれない。
「ああ、この椅子が使えたら、座れるのにな」
 私がヤキモキしているというのに、澤田君はマイペースに事を運んでいる。
 何も触れるはずがないのに、澤田君は丸椅子に向かって手を伸ばす。そして「うわぁ」と声を上げていた。
「どうしたの?」
「椅子、椅子が」
「椅子がどうしたの?」
 澤田君は両手で二つに重なった丸椅子を掴んでいた。

 人がいない、店だけが開いている商店街。焼肉屋を背にして、私は澤田君と体を密着させてきっちきちに並んで丸椅子に座っている。仲睦まじく焼肉店が開くのを待っているカップルではないけど、仕方ない事情でこうなっている。
 ことの発端はほんのちょっと前、澤田君が椅子に触れたお陰でその椅子が使えるようになったのだ。
「休憩するために椅子が欲しいって思ったら、無意識に手を伸ばしてたんだ。そしたら、ゼリーの中に手を突っ込んだような、柔らかいぐにゃぐにゃした感触があって椅子に手が届いたんだ」
 その時の様子を澤田君は私の真横で説明してくれた。
 ふたつに重なった椅子を持ち上げて引き寄せる時も、ゼリーの中から取り出したように、ぷるんとした空間の歪みを感じたとも付け加えた。
 澤田君は椅子を取り出したら無造作に二つ並べて置いたのだ。
 その直後私が「座れるのかな?」と椅子に恐々と手を伸ばした。
 この空間では何にも触れられないと思っていたから、手が椅子に届いた時、それは変哲もないただの椅子にも関わらず、なんだかびっくりしてしまった。
「あ、これ触れる。周りに壁がない」
 そう言って持ち上げようとしたら、動かなかった。
「何これ、地面にくっついてる」
 私が奮闘しているのを見て、澤田君も確かめようと両手で椅子を持った。澤田君が二つ重ねてあった椅子を持ち上げて横に並べたのに、その椅子は固定されたようにびくとも動かなくなっていた。
「どうして? さっきまで持ち上げられたのに」
 動かない椅子に澤田君は蹴りまで入れていた。
 この空間のルールは一体どうなっているのか。でもやっぱり私には澤田君が原因のように思えてならなかった。
「とにかく座ってみない?」
 私が言ったからふたりして座ったのだけれども、椅子同士の間隔が近すぎて、座ると体が触れ合ってしまった。
「もうちょっと離して置けばよかったね」
 澤田君は苦笑いしていた。
 という理由《わけ》で、暫くは体が密着した状態で座ってたわけだった。
「僕、地面に座るよ」
「私気にしてないから、大丈夫だよ」
「でも」
 澤田君はできるだけ私から離れようとしてお尻半分だけずらした。
「いいよ別に、そんな座り方したら疲れるよ。だったらさ、お互い背中向けようか。そしたら、少しは楽なんじゃないかな」
 私の提案でお互い背中を向けて座る。そうすると横から来る威圧がなくなって、随分と解放された。
 私の後ろに澤田君がいるけど、視界から消えるとなんだか不安になってくる。急に澤田君が消えてしまうのではないだろうか。何が起こるかわからないこの空 間なら可能性もありかもしれない。こんなところにひとり残されるのも怖い。一度悪い方向へ傾くと段々そうなるように思えてくるからやっかいだ。
「澤田君、後ろにいるよね」
 私は振り返る。
「もちろんいるよ」
 澤田君の声もするし、振り返ればちゃんといる。でもまた前を向くと不安になってくる。負のスパイラルに陥ったように、何度と振り返っていた。
 そうだ澤田君に触れていればいいんだ。そう思ったとき、私は後ろにもたれた。澤田君の背中に触れていたら心配ないはずだ。背中なら、別に触れてもいいだろうと軽く思って後ろに反れたら、思った以上に角度が開いて慌ててしまう。澤田君のあるはずの背中がない。
「澤田君!」
 立ち上がって振り返ると、澤田君は背中を曲げてスニーカーの靴紐を結び直していた。
「どうしたの? 急に」
「ん、もう、びっくりさせないでよ。消えたかと思っちゃった」
「えっ?」
 澤田君は何の事が分かってない様子だった。
 澤田君が視界から消えるとこんなに簡単に不安になるなんて、この空間でひとりになる事を私はかなり恐れている。
「やっぱり私、横向きに座る」
 私ひとりが横になって、澤田君は背中を向けたままに座った。
「どうしたの?」
「こんなに近くにいても、背中合わせだと澤田君の姿が見えないからなんか落ち着かない」
「そっか、もしかして、僕が消えるとでも思った?」
 澤田君は何でもお見通しだ。
「出るときは必ず一緒だからね。ひとりでここから出ないでよ」
「もちろんだよ。栗原さんをこの空間に残しておけるわけがないじゃないか」
「そうだよね。だって、私たちここを出たらデートだもんね」
 私が力むと、澤田君は本当に嬉しそうにはにかんで照れていた。
「だったらさ、どこに行こう。今からデートの計画しようよ」
 澤田君の方から提案してきた。
「うん、そうだね」
 声が弾む。
 澤田君がそれに応えるように微笑んで私を見るから、今度は私が照れてしまった。
 男の子とどこかに出かけるのは、ずっと夢見ていたことだった。友達には彼氏がいて、メールの交換をしていたり、学校の帰りにどこかに寄ったり、楽しそう にしている姿を見るといつも羨ましかった。私もいつか彼氏ができるかな、なんて夢見てたけど、現実はかけ離れた生活だった。
 憧れている人がいても積極的になれない自分のせいでもあるけど、自分に自信がないからいつも無理無理とはなっから諦めてばかりだ。自分で自分を押さえつけていたのだ。
 まるで土の中で埋もれていた私。それを澤田君が突然現れて勢いつけて引っこ抜いてくれたみたいだ。真新しい自分になったようでうきうきする。
 まだ澤田君が私の彼氏って訳ではないけども、堂々とデートする約束が出来て、それを話し合うのはやっぱり楽しい。段々顔がにやけてきてしまう。
「栗原さんはどこに行きたい?」
「どこって言われても、うーんと、そうだな。楽しいところ」
「それじゃ漠然としすぎて、絞れないね」
「じゃあ、遊園地なんてどうかな?」
 これってデートの定番だよね。心の中でふふふと笑ってしまう。
「だけどさ、ディズニーランドですら二月末から休園してなかったっけ。世間は自粛状態で、人が集まる場所は臨時休業させられているところ多いんじゃない?」
「そっか、そうだった。私たちの学校ですら長い春休みになってるもんね」
 舞い上がってすっかり忘れていた。世間は今、新型コロナウイルスで大変な状態だった。
「そういえば、夏はオリンピックがあるけど、どうするんだろうね」
「中止かな」
「もうすぐ四月も近づいてるけど、早く方向を定めた方がいいよね」
「私たちが心配したところで、どうなるってわけでもないけど、今日、明日にでも発表があるんじゃないかな」
「そうだよね」
 こんな状況でも、私たちが楽しめる何かはまだ残されているはずだ。
「だけどさ、私たちは絶対に楽しもうよ。折角の高校生生活をこんなことで台無しにしたくない」
「びっくりするほど急に自由が奪われたみたいで、窮屈になったよね」
「そうだよ。これ以上、行動制限されるのなんて嫌だよね。周りも不安になっている人が多くて、時々誰かが咳なんかしたら、顰蹙《ひんしゅく》ものだよ。みんなギスギスするっていうのか、簡単に仲たがいしちゃうというのか。恐怖心ってこんなにも束縛されるんだね」
 恐怖心。自分で言っておいてなんだけど、これほど簡単に精神が壊れやすいものもない。
 辺りは相変わらず不気味なくらい静かだ。誰も人がいないのに、店は電気がついたまま。普通の商店街なのに、ここが怖いと思うだけで、常に不安がつきまとう。私は澤田君の着ているジャケットの裾をそっと掴んだ。
「僕たちはもっと自由でなければならないし、押し付けに屈服なんて簡単にしたくない。しっかりとどんな時でも生きなくっちゃって僕は思う」
「こんなの納得できないけど、今の時代は試練の時なのかな」
「試練の時か。苦しいばかりも辛いけど、それはいつまで続くんだろうね」
 澤田君の声にどことなく陰りが出ているように思えた。私は気になって様子を見れば、澤田君は俯いてじっと膝あたりを真剣に見つめていた。
 澤田君は人を疑う事を知らないような素直さがあって、真面目だけど、時々不器用な面もあるような気がする。いつも朗らかとして前向きに見えるけども、も しかしたらそれって無理にそうやって踏ん張っているんじゃないだろうか。優しいだけの彼じゃない、秘めたものが時々見え隠れする。もう少し、澤田君の内面 を見てみたいと思ったとき、私は自分語りを始めてしまった。
「あのね、私さ、中学の時がすごく試練の時だったんだ。いつまでこんな状態が続くのだろうって、すごく苦しかった。でもやっぱり終わりはあったんだ。だから、絶対この騒ぎも必ず終わる時が来るって思う」
「栗原さんは強いんだ」
「強くなんかないよ。ただ耐えて流されていただけだと思う。そしたら自然と行くべきところに着いたっていうのか、苦しいことから離れられたっていうのか」
「栗原さんはとてもしっかりしているように見える」
「ちょっと図太いところはあるかもしれない。本心を見せずに様子を見る癖はついてて、嫌なものは心の奥深くで罵るの。隠れてこそこそする陰険なんだと思う」
「自分のことそんなにネガティブに言わなくても。栗原さんはちゃんと正直に僕と向き合って喋ってるじゃない。全然陰険じゃないよ」
「それは澤田君がとてもいい人だからだよ。最初は、ちょっとアレって思ったけど、でも今は澤田君に頼りきりだし、一緒にいるとすごく安心する」
 澤田君のジャケットの裾を握ってるだけでも落ち着く。
「そっかな」
 澤田君は褒められることに慣れてないようだ。顔は恥ずかしそうに笑って、身をすくめて畏まっている。
「澤田君自身は自分の事どういう風に思ってる」
「僕が僕をどう思うかって?」
 澤田君はうーんと唸りながら上を見て考え込んだ。
「そんな深刻に詳しく聞こうとしてないから。簡単でいいから」
「うーん……」
 澤田君は苦しみながら考えた末、やっと口を開いた。
「カジモドさん」
「ん? 梶本さん。誰それ?」
「えっと、カジモ《《ト》》じゃなくて、トには濁音がついて、カジモ《《ド》》っていうの」
「はっ? カジモド???」
 何のことかまったくわからない。
「あれ、知らない? ディズニーアニメの『ノートルダムの鐘』。あの主人公がカジモドさん」
 言われて見ればなんとなく思い出してきた。
「もしかして、あのせむしのキャラクター?」
「そうそう。観たことある?」
「子供の頃、観たことあるけど、あまり話は覚えてないな」
 絵柄もあまり好きじゃないし、話もシリアスぽくて今でも好みじゃない。
「でもキャラクターはすごい強烈だったでしょ」
「それは、ディズニーキャラクターにしてはかわいくないよね。でもなんでカジモドの話なの?」
「だから、僕はカジモドさんみたいになりたくて、そうだったらいいなって、それでその名前が出た」
 なんだかよくわからない。でもあのキャラクターは自分が醜いと分かってるから恐縮して隠れて生きていたように思う。外見とは対象的に内面は優しく、心が とてもきれいなキャラだった。澤田君とちょっと被るような性格ではあるけど、でもあんなセムシのキャラクターになりたいって、感覚がなんか違う。
「好きなの、その映画?」
「うん。僕の母がいうにはね、小さいときにそのDVDばかり観てたんだって。なんで自分でもそんなに好きだったのかわからないんだけど、時が経ってからまた観たらさ、カジモドさんに励まされたような気がしたんだ」
「励まされる要素なんてあったっけ?」
 私は首を傾げた。
「感じ方は人それぞれだから。へへへ」
 澤田君は笑いで誤魔化していた。
「澤田君とそのカジモトさんだけど」カジモドだった、まあいっか。トもドもどっちでもいいや。「えっと、ピュアなところは的を射ているかもね」
 澤田君の出してきたチョイスに圧倒されてしまって、どう対応すればいいのか、私も「へへへ」と最後はヘラヘラしてしまった。
 澤田君を知ろうと思って質問したけど、益々謎めいてしまった。
「あのさ、澤田君の好きな食べ物って何?」
「何でも食べるよ」
「だから、その中で一番好きなものは?」
 澤田君はまた考え込む。独り言を呟きながら、頭の中にはいっぱい食べ物がつまっている様子だ。
「あれも好きだし、これも好きだし……」
「だからひとつじゃなくてもいいから、思いつくままなんでも言ってみて」
「それじゃ、アルティメットおにぎり」
「えっ、何、それ? おにぎり?」
「名前は母がつけたの。見掛けはおにぎりなんだけど、中身がすごくて、だから究極のおにぎりっていう意味」
「なんの具がはいってるの?」
「ちょっと想像してみて? 何が入っていると思う?」
「えっと、なんだろう。アルティメットって……うーん、どうしてもアルミニウムしか思い浮かばない」
「なんでおにぎりにアルミニウムなの。ハハハハハ」
 澤田君に受けた。ちょっと嬉しい。
「それじゃヒントちょうだい」
「四種類の何かをご飯に混ぜるの」
「混ぜご飯か。じゃあ、ふりかけ四種を混ぜるってことかな」
「違う、違う。ちゃんとした具」
 私はいろいろと言ってみた。「鮭、わかめ、おかか、高菜、昆布、ツナ」でも全て外れた。「じゃあ、梅干し。でもこんなの当たり前すぎるよね」また不正解だろう。
 でも澤田君は嬉しそうに拍手した。
「当たり。梅干は正解。詳しく言えば、はちみつ梅が合う。それをペースト状にするの」
「なんだ、梅干しでいいのか。それじゃ、あと三つは何を入れるの? もうギブアップ」
 ひとつ当てたから、そろそろ答えが知りたい。
「残りは、ゴマとほうれん草とパルメザンチーズ」
「えっ、何その組み合わせ。それでおにぎり作るの?」
 ゴマとほうれん草はともかく、梅干とチーズが一緒に入ってるなんてびっくりだ。
「これが意外と合うんだよ。小さい頃ほうれん草を嫌がった僕に、母が工夫して作ってくれたおにぎりだった。海苔で包んでたから中身がわからなくてさ、知ら ずにそれを食べたらすごく美味しくて病み付きになった。それから嫌いなものでも組み合わせたら美味しくなるんだって、好き嫌いなくなったんだ」
「へぇ、今度作ってみよう。澤田君のお母さんって料理が上手そうだね」
「うん、おいしいよ。だから、好きな食べ物って、ひとつにしぼれなくてさ、だけどアルティメットおにぎりは僕の好き嫌いを失くすきっかけを作ってくれたから、やっぱり特別な食べ物だね」
「こんな話をしてたらかなりお腹が空いてきた」
「ほんとだ、昼の一時過ぎてる」
 スマホを取り出して澤田君は時間を確認していた。
「もうここに閉じ込められて二時間以上経ってるんだね」
 折角ふたりで楽しい会話をしていたのに、商店街を見渡せばまた不安が押し寄せる。本当にここから出られるのだろうか。
「まだ二時間だよ。そんなの映画が一本終わった時間じゃないか。だったら次の上映だ。一作目が面白かったから、次はその続編だ」
 どこまでも澤田君は前向きだ。悲観的になるよりは確かにいい。なんとしてでもここを出る。
「そうだよね、不安にならないようにしなくっちゃね。ここを出てデートするんだから」
「そういえば、どこへ行こうか話し合ってたのに、ずれちゃったね」
「じゃあ、もう一度、話合おうよ。おにぎりの話がでたから、お弁当持ってピクニックに行くなんてどうかな」
 お弁当作るの大変そうだけど、お母さんに手伝ってもらったらなんとかなるかな。
「それいいね。この近くにさ、桜ヶ丘公園あるじゃない。その名の通り、桜の木がいっぱいあって、毎年綺麗に咲くところ。そこなんかどうかな。ゆっくりと桜を見ながら丘のてっぺんまで登って、そこで一番大きな桜の木の下でお弁当を食べるの」
 澤田君の提案でビジョンが出来て、一緒に歩いている姿が想像できる。
「ああ、桜ヶ丘公園。そろそろ桜の季節だ。この商店街もそれにちなんで桜祭りって幟でてるくらいだもんね。ぜひ見に行かなくっちゃ」
「栗原さんが着ているパーカー、それも桜を連想するね。ピンクが似合ってかわいいよね」
 澤田君はさらりというから、ドキッとしてしまった。急に体が畏まってそれでいて恥ずかしくて竦んでしまう。
 私の頬も桜に負けじとピンク色に染まっているのを感じるほど、ぽっと温かかった。気持ちがほぐれると、自分が置かれている状況から暫し遠ざかる。
 澤田君のジャケットの裾をぎゅっとしながら、このドキドキを少し楽しんでいるところだったのに、澤田君が急に立ち上がったから、ひっぱり上げられた。
「ちょっと、どうしたの?」
「また猫が現れたんだ。今度はあっちの方にいる」
 黒っぽいものが路地を境目にした向こう側の奥でゆっくりと歩いている。
「あの猫を追いかけよう。何かまた変化があるかもしれない」
 そうだった。あの猫はこの椅子に座っていたんだった。そしてこの椅子を澤田君が触って、私も触る事ができた。もしかしたら、あの猫を捕まえる事ができた ら、元の空間に戻れるのかもしれない。口に出さなくともお互い同じ事を考えていたと思う。私たちは迷わずその猫を追いかけた。

 住宅街を歩いていると、ブロック塀に『猫に餌をやるな!』と書かれた張り紙が目に入った。雨風に風化してボロボロになっている上に、乱暴に書かれた手書きの字が滲んでホラーみたいだ。よほど猫が嫌いか、野良猫のせいで被害を被っているのか、猫への強い恨みを感じた。
 そこに、渦中の猫が塀の上を素知らぬ顔をして歩いていった。白と黒の混ざり合った猫だ。さっきまで僕を見て、尻尾を立てて毛先だけをゆっくり左右に揺らして様子を窺っていた。僕が張り紙を気にしたもんだから、まるで分かったかのように静かに去っていった。
 動物は好きだけど、まだ責任がもてない中学生の僕では世話をきっちりすることはできないと思う。でも側に寄り添ってくれる動物がいればいいなとは思うけど、ペット不可のアパートでは絶対に不可能だ。
 犬が見たければ、桜ヶ丘公園で散歩すればいい。あそこは犬を連れた人たちが、よく散歩している。猫も時々こんな風に見かけるし、今は見ているだけで満足 だ。それで時々、学校の帰りに街を探索して色んなところをあちこち見て、動物に出会うのを楽しみとしている。ちょっとした癒しを与えてくれたから。
 この町に引っ越してきたのは中学三年になる前の春休みの時。父と母が離婚して、ひとりっ子の僕は母についてきた。ほんの二ヶ月前のことだ。
 高校までエスカレーター式に上がれる私立校に入ったけど、授業料の問題もあって高校は公立に行く予定だ。中学までは父が授業料の面倒みてくれるから、少 し通学が不便になったけど、しっかりと通っている。でも後で、近くの公立中学に転校してもよかったかもしれないと、時間が経ってから思ってしまった。
 空を見上げればどんよりとした曇り空だ。そろそろ梅雨の季節でもある。それにふさわしく、ある家の玄関先で紫陽花が咲き始めていていた。心は荒んでても素直にきれいだなって思った。
 この町に慣れようとあちこち歩いているけれど、すぐ家に戻りたくない気持ちのいいわけだ。突然変わってしまった身の回り。父と母の相容れない二人の間の 事情が僕の人生を左右する。親権は母が取ったけど、父が取ったとしても僕は母と暮らしていた。マザコン気味なところもあるけど、やはり離婚した後の母のダ メージは父よりも強いと思ったし、僕は母の力になりたいと思った。
 なぜこうなってしまったのかと考えたけど、そこはいくら血の繋がった親でも、与り知らないところで、息子の僕にはどうすることもできない問題があったと しか言えない。僕のために親たちが我慢して暮らしてほしいなんていってそうなったとしても、虚しさはいつも付きまとうだろう。
 頭では割り切って大人になるべきだと強がっているのだけども、心の中ではもやもやとしてしまう。
 両親の不仲が分かるまでは、普通に楽しく学校生活を送っていた。なよなよしている僕だけど、それを個性と受け止めて仲良くしてくれる友達にも恵まれた。クラスのみんなもいい人たちが多くて、いつも和気藹々としているような学校だった。
 中学受験は大変だったけど、入ったあとはこのまま高校も安泰だってそう思っていた。それがあっさりと崩れた中学二年の三学期。自分が見ていたものが色あせて、急に心が寒々としていった。
「隼八、どうした、元気ないぞ」
 ある日、登校して席に座ると、後ろから肩をポンと叩かれた。僕と仲がいい倉方哲《くらかたてつ》だ。面倒見がいいやつで、クラスでもリーダーシップをとって、みんなからも慕われている。家もかなりの金持ちだと噂されていた。
「まあな。そんな日もあるんだ。ハハハ」
 僕はなんでもないと装う。
「悩みがあるならいつでも聞くぞ」
「悩んでるって程でもないんだ」
 その言葉の裏で嘘つけと自分を罵った。
「そっか。どうせ隼八のことだ、夜更かしして眠たいとか、朝飯食えなかったとか、そんなことだろ」
 この時僕は、正直イラッとした。でもそれを隠してヘラヘラと作り笑顔で誤魔化す。
 この時点で哲とは違う世界にいるんだと思ってしまった。
 哲と仲いい奴はいっぱいいるし、僕はその中でも特に親しい関係だと思っていたけど、僕の心の変化が不条理に哲を遠ざけていく。哲は絵に描いたようなクラスの中心人物で人望も厚く、性格もいいから人気者だ。それが八方美人的なものに見えてしまい、突然鬱陶しくなった。
 哲には関係ないのに、自分の不幸な状況が全てを歪ませてしまった。それでも僕はいつも通りの僕を演じる。
 両親が離婚したことは誰にも言ってないし、僕の心が荒んでいるなんてことも誰も気づいてないと思う。ひたすら全てを覆い隠し、残りの中学生活を無事に終えることだけを願っていた。
 ある程度の成績がなければ、いくらエスカレーター式の私立中学であっても高校へすんなりと進級できない。でも受験をする必要がないので、みんなはいつも通りに学校内で行われるテスト勉強だけはしっかりと対策していた。
 僕だけが高校受験を視野に入れていた。そのことも先生だけに伝えただけで、まだクラスの誰も知らなかった。
 表面上は何も変わっていない。僕の中だけが、色んな思いで渦を巻いていた。僕はそんなに強くないから、強い者に巻かれて適当に過ごす癖がついている。己を控えめにして最後はうまくブレンドして可もなく不可もなくといった具合に。
 自分を主張するのが恥ずかしいという気持ちが今まであったけど、何も恐れる事がない不安がなかったために、以前はのうのうとしていられた。
 少し心の中が不自由を感じた時、それを表に出せず、顔では笑っている態度が自分自身腹立たしい。
 心の中は冷めて、周りがわざとらしい茶番に感じて物事を見てしまっていた。周りがあまりにも幸せそうで、僕はそれに嫉妬していたんだと思う。
 その反面、そんなことない、僕はそんな風に人を羨ましがるような人間ではないではないか、と叫びたくなる自分もいた。
 過去の自分は本当に純粋に真面目だったから、今の状況についていけなくて、どうしても負の部分を認めたくなかった。
 無理にいい子ぶるけど、それが思った以上にとても疲れる。以前はふりなんかしなくてもいつも自然体でそうだったのに。
 母の前でも何でもないことのように振る舞い、僕はいつも通りのスタイルを崩さないようにしていた。
 別に悪い事をしているわけではないのに、それがどうしてもずるいと思えてしまう。そう感じるのも、僕は心の片隅で周りのみんなと一緒にいる事を訳もなく嫌がっていたからだと思う。
 ため息をつき、足元を見ながら歩いていた時、ふと声が耳に入った。
「そうそう、あいつキモいよね」
 その言葉が自分に向けられたものと思い、僕ははっとして顔を上げた。
 そこにはセーラー服を着た地元の三人の女子中学生が横並びで歩いている。ひとりが後ろを向いて「そうそう」って相槌を打ったので、どうやらぼくの事を言っているのではなさそうだ。僕が前から歩いていても、その三人には周りの事が眼中に入ってない。
 すれ違う時、気を遣って道を譲るのだけども、横に並んで広がっていた三人はフォーメーションを崩すことなく、当たり前のように堂々と横並びで僕とすれ違っていった。
 自転車も車も通る住宅街の道を遠慮もなく広がって歩き、前から来る人がいても道を譲るそぶりもなく『お前がどけ』と粋がっている。
 見ていて不快だし、こういう女子とは絶対に関わりたくない、いかにも嫌いなタイプだった。
 すれ違った後、キャッキャと調子にのってバカ騒ぎしている声が肩越しに聞こえてきた。
 その三人のあとから少し離れて、髪の色が茶色い女の子がゆっくりと俯き加減で歩いていた。この子がさっきの三人にキモいといわれていたのだろう。
 その女の子も心に何かを秘めたように、暗さが僕の目に映った。
 彼女との距離が近まり無意識に僕が端に寄ると、彼女は顔を上げ僕と目が合った。一瞬軽くお辞儀をしたように微妙な頭の動きを感じた。それが道を譲った時 の気配りに対するお礼のように思えた。恥ずかしい気持ちが混じって堂々と出来ないながらも、常識を踏まえて礼儀を重んじようと精一杯に表わしたそれは、確 実に僕に伝わった。そんな些細な事が、その時の僕には衝撃的で心をじんわりと温かくした。思わず喉の奥から息が漏れるように「あっ」と小さく出たのだけれ ど、彼女はそのまますれ違っていった。
 顔を見たのは一瞬だったけど、目だけは鋭かった。何かに耐えてる無表情さもどこか暗かった。だけど笑ったら絶対にかわいい子だと僕は確信する。事情があるからそんな態度になっているだけだ。それは僕にはよく理解できる。
 先ほどの言動から前を先に歩いていたあの三人の女子が学校で彼女をいじめているのかもしれない。僕はその時、彼女に対して頑張れって声を掛けたくなった。でもそんなこと僕に出来るはずがなかった。
 振り返って、その女の子の後姿を暫く目で追っていた。そのまままっすぐ歩くと思っていたら、急に立ち止まって辺りをキョロキョロしだした。何かを探している様子だ。
 すると、低木の集まる垣根から猫が顔を出し、女の子の足元へと寄っていった。さっき見かけた白と黒の猫だ。猫は尻尾を立てて、女の子の足元にまとわりついて甘え出した。
「○○ちゃん」
 女の子が猫の名前を呼んだけど、はっきりと聞き取れなかった。
 名前を呼び、懐いている猫の様子から、今日初めて会った仲ではないのだろう。
 女の子はしゃがんで猫を撫で始めた。次に肩に掛けていた鞄から何かを取り出して、その猫に見せると、猫は前足を女の子に向けて二本足で立ち上がった。うるさくニャーニャーと催促の声が聞こえた。
「今、あげるからね」
 スティック状のものを手に持って先端をやぶる。猫は待ちきれないのか、女の子の手に前足を掛けて、自分に引き寄せようとする。
 女の子は先ほどと違って満面の笑みを浮かべていた。猫の強引な催促を楽しんでいる。こちらも見ていて癒された。猫にあそこまで慕われている女の子が羨ましいと笑いながら思っていた。
 あの子と知り合いになりたい。一緒に猫に餌をあげたい。
 そんな感情を抱いたとき、あの女の子が気になって仕方がなくなった。
 猫を前にすると本来の素直な表情が出る。やはり僕が思った通り、笑うとあの鋭い眼光がマイルドに優しくなってかわいい。
 なぜあの三人の女子から虐められているのかわからないけど、女の子は虐めに負けるような感じがしなかった。静かに過ぎ去るのを我慢強く待っているのか、自分に降りかかる災難を気にしないようにしようと自分をまだ見失ってない。少なくとも僕にはそう感じられた。
 僕はできるだけ道の端に寄ってさりげなくスマートフォンを操作しているふりをする。電柱があったし、新緑で青々とした葉っぱで覆われた木々もあったから、自然と景色に溶け込んでいたはずだ。
 ああ、あの女の子が気になる。ちらっちらっと視線を向けながら、こっそりと盗み見をする。
 すれ違ったときの些細な気配りと、そして猫に向けたあの屈託のない笑顔がとても素敵だったから、あの女の子に心掴まれてしまった。
「それじゃ、またね。バイバイ」
 餌やりが終わった様子だ。女の子は立ち上がり、猫に振り返りながら去っていく。
 猫はついていきたそうに、またはもう少し餌が欲しいとねだりながら、尻尾をピーンと立てて女の子に向かってニャーオと一声鳴いていた。僕と同じように女の子が去っていくのを目で追って名残惜しそうにしていた。
 女の子が遠く離れていくと、猫は座って顔を洗い出した。丁寧に何度も前足を舐めては顔を擦っている。美味しいものを貰って満足なのだろう。
 僕はそっとその猫に近づいていく。
 猫は動きを止めて、僕をじっと見ていたけど、僕が何も危害を与えないと分かると、優雅に足を開いてお腹を舐め始めた。
「なあ、猫、あの女の子は誰なの?」
 猫は僕のことなどお構いなしに、毛づくろいに励んでいた。訊いても無駄なのは分かってたけど、訪ねたくなってしまった。
 猫は動きを止め、女の子が去っていった方向を見つめる。その後に、僕を見た。
 そして立ち上がって、のっそりと歩いたあと、後ろ足の瞬発力でコンクリート塀を駆け登っていった。
 もう一度僕に振り返ってから塀を伝って歩いていった。
 お前も餌をもってこいと思っていたかもしれない。張り紙には猫に餌を与えるなとはあったけど、あんなに喜んで懐いている姿を見ると、餌をあげたくなってしまう。
 それが迷惑行為だとしても、ばれなければいいんじゃないだろうかと思ってしまった。
 女の子だって、あの張り紙の存在を知っているだろう。それでも餌を与えるのは彼女にとって猫は友達なんだと思う。自分に寄って来てくれる者を無視するのは難しいもんだ。
 今度またいつあの女の子に会えるだろう。そう思ったとき、僕ははっとして走り出していた。
 名前も知らない、学校も違う、接点が何もない、すれ違ったあの子。
 偶然今日は出会えたけど、いつもその偶然が続くとは限らない。今、彼女がどの辺に住んでいるのか知らなければ、探しようもないだろう。
 今なら彼女に追いつけるかもしれない。すでに姿は見えなくなったけど、勘を頼りに僕は彼女の通学路を推測する。
 これは運命の出会い。人を避けていた僕が、興味を持ったのは彼女に何かをピピピと感じたからだ。彼女と今日出会ったのが僕にとっての必然性なら、僕は彼女とどこかで何かの縁があるに違いない。説明がつかない感覚を体で感じ取った。
 その時、目の前の景色が二重に見えたかと思うと、波打つようにまた一つになったように見えた。体から僕の波長が波紋のように広がってそれにまるで反応し たかのようだった。直感が目に見えて、不思議な力をやどったようだ。こっちを進めばきっと彼女がいる。そう強く思ったらほんとにそうなった。
「あっ、いた」
 僕は彼女を見つけられた。その瞬間、ドキドキと心臓が高鳴った。
 車が激しく通る道で信号待ちをしていた彼女。人通りもあるし、道路を渡ろうとしている人にまぎれて僕が近づいても不自然じゃない。
 でもそのあとをどうすればいいのだろう。いきなり声なんて掛けられないし、掛けたとしてもその後何を話していいのかわからない。彼女の後姿を見ながらドキドキとしていた。
 そして信号が青に変わり、彼女は堂々と横断歩道を渡っていく。
 彼女に知られず、後をつけようと、一瞬僕の足も同じ方向を向いたけど、僕は中途半端に足を上げただけでやめてしまった。声を掛ける勇気もないのに、後をつけたらただのストーカーだ。そんな行為をしているのが彼女にばれたら、もう弁解の余地がない。
 なんで彼女は猫に餌を与えている時、鞄から他のものを落とさなかったんだ。落し物があったら、どんなによかったか。
 さりげなく追いかけて、これ落としたよって声を掛けられたのに。
 そんな事を考えながら、信号の青が点滅し赤に変わっていた。
 彼女は僕の存在を知らず、道路を渡りきって先を歩いていく。次また会えるだろうか。見かけても声をかける事は僕には出来そうもない。でもまた彼女に会いたい。
 そう思ったとき、僕は今からその口実を作ろうと猫の餌を買いに行く。
 あの白と黒の猫に餌をあげたら、あの女の子の方から僕に声を掛けてくれるチャンスがあるかもしれない。猫がきっかけで仲良くなれるのではないだろうか。
 いい事を思いついて顔がにやけて、それでいて上手く行くと思うと胸が高鳴って心地いい。
 どんよりとしていたはずの曇り空が、この時西の方で切れ目が出て光が差し込んだ。それが尾を引いて光の筋が見えた。なんて神々しい。
 大げさだけど、僕の心の中を見ているようでもあった。
 これってもしかして初恋なのかな?
 久しぶりに、自分におかしくなって笑いそうになる。それをぐっと堪えてていると肩が震えた。初恋の味を知った僕はふわふわした足取りでスーパーに向かった。
 猫の餌なんて何を買えばいいのか悩んだけど、じっくりと色んなものを見てから、あの女の子が持っていたスティック状のおやつと、パックに入ったシールを はがすだけのウェットタイプのものを買った。それを学生鞄に入れて毎日持ち歩く。ただそれだけで、楽しみができて荒んだ心が和らいでいた。
 誰かを好きになることが、こんなにも力を与えてくれるなんて思ってもみなかった。恋の力ってすごい。彼女の通う中学に今からでも転校したいとまで思う始 末。あまりの心の変わりように、自分でもあきれてくるのだけども、久々に周りの色がはっきりと見えて違う世界に来たみたいだ。こうやって物事は意識の変化 でいつも違ったものになれるのかもしれない。
 それでも表向きはいつもの僕だから、心の変化がコロコロ変わっているなんて誰も気がついてないだろう。僕だけがひとり一喜一憂していただけだ。
 意味もなく卑屈になっていた事が今となっては恥ずかしい。まあ、いっか。学校の友達はいつものように僕と接してくれるし、僕だけの隠れた問題だったのだから。

「あれ、隼八、なんかいい事あったのか? 今日はなんかよく笑うな」
 休み時間みんなと固まって話していると哲が言った。
「そうかな」
 僕は何気なさを装う。
「お前のことだ、なんか美味しいものでも食べたんだろ。それとも誰かに恋をしたか?」
「えっ、そ、そんなこと……」一度は嘘をつこうと思ったが、「あったりしてな。ハハハ」と答えていた。
「おい、おい、まさか隼八が、嘘だろ」
 哲も周りのみんなもびっくりしてたけど、その話題で話が盛り上がって僕中心にもてはやされた。自然体でいつも僕に付き合ってくれるくったくのない哲の笑顔に、僕は心の中でごめんと謝った。やっぱり哲はいい奴だ。
 自分で処理できない感情を抱いたとき、周りがよく見えなくなって卑屈になってしまう。一度ネガティブになってしまうと、ずるずると全てに影響して、何をしても否定的に面白くなくなってしまうのが人間の弱い心だ。
 精神のバランスが崩れるのは心の病気だ。僕はそれを患っていたんだ。その負に陥っていく過程を僕は身をもって学んだと思う。
 それも人生の一部なんだと、今なら受けいれられる。
「なあ、哲、数学の宿題ちょっと見せてよ」
「やだよ」
「ケチ」
「分かったよ、じゃあ後でなんか奢れよ」
「ああ、いいよ」
 それで全てがチャラになるのなら、何だって奢るよ。
 僕は宿題をきっちりしていたにも関わらず哲からノートを受け取った。罪滅ぼしのきっかけがほしかっただけだ。
 あの女の子は今学校でどう過ごしているだろう。虐めにあって、今は辛い思いをしているのかもしれない。僕がそれを変えてあげられたらどんなにいいだろう。
 勇気を出して声を掛けてみようか。だけど、もし嫌がられたり嫌われたらどうしようか。
 今度は恋に悩む者になってしまった。僕は自分の事をまだよくわかってない。分かってないから、ころころと気持ちが変化して、それに戸惑っては嫌気がさしたり、恥ずかしがったり、そして粋がったりと、本当にめまぐるしい。
 一言で言えば思春期。
 なんて便利な言葉だろう。こんな状態を簡単に言い表せるなんて。実際はとっても心苦しくてたいへんなのに。
 でもまだ僕はこの先にもっと試練があるなんて想像もつかなかった。
 ひとつが片付いて、ひとつがまたやってくる。そんな状態が繰り返されるとは漠然に思っても、衝撃になってどーんとやってくるなんて思わなかった。
 これは僕が悪いんだろうか。
 着々とそこに向け、物事が動いていった。

 何も意識していなかった時は、住宅街を歩くだけでその辺に猫がいると思っていたのだけど、いざ目的を持って探せば以外にも見かけないことに気がついた。
 すっかり梅雨の季節になって、雨が降る日が多くなると、傘を持たない動物はひっそりと身を潜めて表に出てこなくなっている。
 まだ猫と全く親しくなれてないから、やっとの思いで彼女を再び街で見かけてもなんの取っ掛かりもなくて、ただ彼女はさっと僕の目の前から去っていく。
 彼女に僕の存在を知られないまま、もどかしさを抱え、それが次第にため息となっていた。
「なんだ、隼八、振られたのか」
 放課後の帰り際、鞄の中に筆記用具をつめていたとき、猫の餌が目に入って虚しくなったために出たため息を目ざとく見ていた哲がちょっかい出しに来た。
「振られるも何にも、全然まだ始まってないから」
「お前さ、鞄に、何を入れてるんだ」
 中を覗き込まれ、哲が手を突っ込んで猫の餌を取り出した。
「ちょっと、勝手にさわらないでよ」
 僕が取り返そうと手を伸ばす。
「隼八、まさか、お前」
 哲は真顔になった。
「な、なんだよ、急に」
「隼八の恋って、まさか猫なのか?」
 哲は黙って猫の餌を返してくれたが、興ざめしたように無表情になっていた。
「そうだよな。隼八が恋するなんていうのもアレだけどさ、自分からはっきりと認めること自体らしくなかったし、露骨に恋してるって正直に言うなんて、どうもおかしいと思ったんだよ。そっか、そういうことか」
 手を組んでひとりで納得していた。
「何なんだよ、何がそういうことだよ」
「だから、相手は猫なんだろ。ちょっと俺の前で見栄を張って好きな人がいるなんて、思わせぶりなことを言って、実は野良猫を見つけてそれを大げさに言っただけなんだろ」
「そういうわけじゃなくて、好きな人が本当にいるんだけど、まずは猫に餌を与えてからじゃないと何も始まらなくて」
「はぁ? お前、何言ってんだ?」
「だから……」
 哲に説明しようとするのだけれど、ひとつ言えばそれだけで済まなくなってきた。
「家に帰るときにすれ違って一目惚れしたけど、声が掛けられなくて、それでたまたま彼女が猫に餌を与えていたのを見て、自分もその猫に餌を与えて、それで接点を作ろうとしたってことか?」
 僕が説明した事を確認するように哲がまとめた。
「そうそう」
「ふーん。それでどこですれ違ったんだ」
「それは」
 うっかりと引っ越した町の名前を言ってしまった。
「なんでそんなところにいたんだ?」
 哲が疑問を持ったことで、僕はその時重大なミスをしたことに気がついてしまった。
「いや、そのちょっと用事があって」
「なんの用事があったんだ。お前、家に帰るときって言っただろう」
「だから、その、買い物だよ。それが終わって家に帰ろうとしたんだよ」
「あんなところ、何も店なんてないぞ。何を買いにいったんだ」
 哲は目を細くして違和感を覚えていた。
「その、買いにいったというのか、頼まれて行ったんだけど、結局は店を見つけられなくてさ、よくわからないままに終わったんだ」
 少し苦しい。
「あのさ、隼八、俺に何か隠しているだろ」
 ぎろっと睨んでくる哲の目に僕はビクッとしてしまった。
 哲は信頼する奴にはいつも親身になって接するから、そこに誤魔化しや嘘があるのを非常に嫌う。
 泳いでいる僕の目を見て哲は脅すように凄みを利かせた。
「いいから話せ」
 僕は観念して正直に家庭の問題を哲に話した。そのせいで引っ越したことを明かした。
「バカ野郎。なんでそんな大事なことを俺に相談しないんだ」
 哲は怒りだした。僕はひぃっと身を竦ませてしまう。
「だって、そんなこと誰にも言えないし、僕だってどう受け止めていいかわからなかった。ただ、こんなことになるのが嫌で嫌で、それを口にしてしまったら、もっと惨めになると思った。それに高校はみんなと進学できないから、それを言うのも辛かった」
「それでひとりで抱え込んで、俺の前ではヘラヘラと自分を偽って過ごしてたのか。通りでなんかおかしかったはずだ」
 哲は僕の変化には気がついていた。でも僕が軽く促すとそれで過ぎ去っていった。
 僕は怒っている哲をチラッと上目使いで見れば、哲は悔しそうに顔を歪ませていた。そんなに黙っていた事が腹立たしかったのだろうか。
 すると哲は急に肩の力を抜いて、息を漏らした。
「隼八、ごめんな」
「えっ、なんで哲が謝るの?」
「俺、隼八のおかしいところに気がついてたのに、真剣に受け止めなくて、隼八のことだからって、つい軽くあしらってしまった」
 僕は黙って訊いていた。その時僕は、確かに気持ち的にいっぱいいっぱいで哲にイラッとしたのは事実だ。あの時の事を思い出すと、僕も面映い。
 何か僕が言おうとすると、また哲が言葉を続けた。
「正直に話してくれなかったことに失望したけど、それは俺が勝手に隼八がこうあるべきって決めてかかったから、そんな風に感じてしまったんだと思う。俺の方が隼八に話しさせ難い雰囲気を作ってたのかもしれない」
 僕は今気がついた。哲は僕を心底助けたいと思ってくれたんだ。哲は僕に心を開いてくれていたけど、僕はどこかでまだ遠慮していて、哲に黙ってついていっていただけだった。
「ううん、僕は話すべきだったんだ。ひとりで抱え込んでいた時、確かに精神的に参って全てが嫌になってしまった。僕は自分自身にも本音をさらけ出せず、ひたすら我慢してばかりで臆病だった」
「そうなんだよ。隼八の性格からしたら、すぐに遠慮して自分を押さえ込むもんな。それを分かってたのに、俺もそれに慣れてしまっていた。そこが隼八の優しいところでもあるけど、それは悪い意味でいえば、正直になれないってことだもんな」
「よく見てるよね、僕のこと」
「当たり前だろ、親友なんだから」
 哲から出たその言葉が胸に沁みてくる。僕は体の力がぬけたような、それでいて背負っていた重いものが消えていくような安心感を得ていた。
「哲、ありがと」
「何を今更、でも力になれることがあったら、頼ってくれて構わないぜ。俺もなんかショックだな。三年間ずっと同じクラスでさ、高等部もまた一緒に行けると思ったのに。高校卒業までの学費の援助はなんとか父親に出してもらえないのか?」
「無理を言えば出してもらえたと思うんだ。だけど、この先何があるかわからないから、節約して、その分生活費としてもらうほうがいいと思ったんだ」
「そういうところ、現実的だな。でも隼八は正しいと思う」
 悩んだ末に決めたことだから、哲に肯定されて自分自身もこれでよかったんだと思えて嬉しい。
「哲に聞いてもらってよかったよ。なんか頑張れそうだ」
「あまり無理するなよ。それで頑張るといったら、その好きになった女の子の対策だけど、手伝ってやろうか」
「えっ、どうやって」
「まずは、隼八が女の子と話すことに慣れないとな。猫に餌付けしたところで、女の子と話すきっかけにはあまり繋がらないと思うぞ」
「そ、そっかな」
「じゃあ、どういう計画をしていたのか話してみろよ」
 僕は頭で想像していたことを、哲の前で言葉にしてみた。
 僕の計画はこうだ。
 猫に餌を与え、そこを彼女に見てもらう。または彼女が猫に餌を与えるのを見たら、近寄って僕も与えていた事を伝える。どっちにしろ、猫に餌を与えていたという共通点があれば、話すきっかけになるはずだ。
「それで、猫に餌を与えることが今は目的になっているってわけだ」
 哲は納得したように見えたが、急に首を横に振る。
「何がダメなの?」
「いつ猫に餌をやっているところを彼女に見せる? いつ彼女が猫に餌をやっているところを隼八が見る?」
「そのうち」
「あのな、それだとなかなか二度目のそういう偶然は起こらないぞ。先に、猫関係なく彼女に会ったらどうするんだよ」
 哲のその質問に僕は「あっ」と声を出す。
「その分じゃ、すでに彼女に会う機会があったんだな。だけど猫に餌を与えることが先にあったから、折角また出会えても何も出来ずに見送ったな」
 哲の言う通りだ。声を掛けるきっかけが分からず、見かけても何も出来ずじまいだった。
「哲、どうしたらいいの?」
「だから、隼八が女の子と気軽に話せるようにならないといけないわけだよ。その特訓をしようじゃないか」
「特訓?」
「まあ、任せな」
 哲自身、僕を助ける名目で楽しいと言わんばかりににたりと笑った。
 哲に相談したその週末。僕は哲の誘いで、ホテルで催しされるパーティに招待された。
 パーティに着ていく服なんてもってないから、その話を持ち出された時、僕は遠慮してしまう。
「お互い制服でいこうぜ。ブレザーだし、ネクタイしてるし、学生だから制服が正装だ。とにかく俺だって、そんなパーティに行くのはあんまり気乗りしないんだぞ。でも隼八のためなんだからな」
「それ、なんのパーティなの?」
「俺の父の会社のイベントで、各方面からいろんな人が来るんだって。俺も詳しい事はわからないんだけど、こういう催しがある度にいつも父から社会勉強のために参加しろって言われてたのを断ってたんだぜ」
 やはり噂通り哲は金持ちの息子だった。
「そんなとこ、僕が行ってもいいの?」
「ああ、父に友達と一緒に行きたいって言ったら喜んでくれたくらいだ。隼八のことは大親友だって、いつも父に言ってるから、一度会いたいって」
「ちょっと、待って。僕のことお父さんに言ってたの?」
「もちろん。俺ってさ、なんか知らないけど金持ちのボンボンとか思われてるだろ。そんなことで意味もなく寄って来る奴がいるんだよ。利用しようとか思う奴 もいたり、あとはライバル意識もったりしてさ、なかなか心許せる友達なんてできないと思ってたわけ。そしたらさ、ぬぼっとして、マイペースな奴がいるじゃ ん。媚びうる訳でもなく、張り合う訳でもなく、自然体で気がついたらいつも側にいるような犬みたいなのが」
「もしかして、それって僕のこと?」
 哲は明確に答えないで笑っていた。
「いや、なんていうのか、安心するんだよ。まあ、時々引っ張ってやらないと、あまりにも鈍感すぎるんだけど、それも一緒にいてて楽しいと思えるのも不思議な奴さ」
「褒められてるのか、貶されてるのかわからないよ」
「おっ、自分のことだって思ったな」
 哲は笑っているけど、ここは僕が怒るべきなのかもしれない。だけどそれが全く不快じゃなかった。僕も一緒になって笑ってしまった。
 哲は僕よりも大人で物事をよく見ていた。だから争い事や問題をさけるようにしながら、最善をつくしていたから、みんなと上手くやっていたんだ。上辺だけに見えることもあったけど、それが哲のコミュニケーションの高さでもあった。
「パーティ、行く。是非連れて行って」
「おっ、なんだ急にスイッチ入ったみたいだな」
 哲のようになれたらどんなにいいだろう。そこへ行けば、自分も変われるような気になった。

 パーティのその日、直接開催されるホテルのロビーで哲と待ち合わせをした。先に来ていた哲は僕を見るなり、手を振って呼んだ。
「こっちだ、隼八」
 僕はたくさんいる人にぶつからないようにしながら駆け寄った。
「うわぁ、こんな立派なホテルのパーティだなんて緊張するな」
「別に大丈夫だよ。とにかく今日は初対面の人と話す事に慣れようぜ」
「初対面っていっても、みんな大人でビジネスマンなんだろ。中学生の僕たちがそんな人と気軽に話しても大丈夫なのかな」
「この場所にいるということは、みんなが会社の関係者っていうことさ。例え俺たちが中学生であってもだ。ほら、これ首からかけとけ」
 哲はゲストと書かれたタグがついた紐を手渡した。僕たちはそれを身につけてパーティ会場へと向かった。
 重いドアを開けたら、まぶしい光が目に飛び込んで、思わず目を瞬いた。たくさんの大人たちが小さなグループをそれぞれ作ってグラスを持ちながら談笑している。
 部屋の端では豪華な料理がテーブルに彩り緑に置かれていて、お皿を持っている人たちが集まっていた。
「すごいんだね、哲のお父さんの会社。こんな世界があるなんて想像したことなかったよ」
「世界なんて自分でイメージすればなんでもありなんだよ。その都度、順応すればいいだけさ。とにかくどんなところであれ、楽しめばいい」
「でも、なんか場違いな気がして」
「隼八は今、恐れや不安があるだろ。そういうのをまず一番に取り除くんだ」
「そんな簡単に言われても、慣れなくておどおどしてしまう」
「背筋を伸ばせ。そしてどんな時もなんとかなると構えるんだ。そしたら心配も不安も消えるから」
 哲は僕に度胸をつけさせようとしている。慣れない場所で、堂々と出来るようにする練習だ。
「いいか、不安でいっぱいになったとき、それは物語でいうところの起伏だ。そこからどう切り抜けたらいいんだろうって物語りも面白くなっていくだろ。その 後は必ずそれを土台にする何かが起こるようになってるんだ。父がいつもいってる。ピンチになった時ほど、チャンスのときだって。常に自分で考えて切り抜け ろって」
「ピンチがチャンス?」
「そうだ。そう考えたら、困難もウエルカムって思えて怖くなくなってくるのさ」
 哲はにかっと笑った。そこに父親から学んだ事をすでに実行している余裕を感じる。
 僕はすぐには哲のようには行かないけど、考え方次第でその場がひっくり返るかもしれないということだけはなんとなくわかった。まずはおどおどしないこと。
 意識して背筋を伸ばした。
 周りは、みな堂々として話したり、名刺交換をしたり、握手をしたり、大げさに笑ったりして、ビジネスのために行動していた。
 学生服を着ている僕たちには無縁な感じがしたけども、哲はその辺りにいた女性に声を掛けた。
「そのドレス素敵ですね。よくお似合いです」
 あんな台詞僕には恥ずかしくて絶対に言えない。
「あら、ありがとう」
 女性は素直に喜んでいた。
 僕は離れてそのやり取りを見ていた。
 哲は、次に若いビジネスマンに近づき、ネクタイを褒めた。
「センスがいいですね。それどこで買われたんですか」
 見えすぎたお世辞っぽいのに、ビジネスマンは素直に喜んで、得意気にネクタイの事を話していた。どうやら高いブランド物で自分でも自慢したいところがあったようだ。哲はきっとあのネクタイのブランドをすでに知っていたのだろう。
 会話が終わると、哲は僕の側にやってきた。
「哲、すごいな。物怖じせず話しかけるなんて」
「父が言ってたんだけど、相手のいいところを見つけて褒めるって大切なんだって。普段から練習しとけってさ。そうじゃないと慣れてないと、そういう言葉は出てこないんだ」
「うん、わかる。僕、そんな言葉恥ずかしくていえない」
「だけど、人から褒められると、絶対に悪い気はしないんだ。たとえそれがお世辞であっても、ポジティブな言葉は人にいい影響を与える」
「頭では分かるんだけど、僕は口下手で」
「だから、このパーティで度胸をつけるんだよ。なんのためにここへ連れてきたと思う? 好きな女の子に話しかけられるようになるためだろ」
「でも、だって」
「ほら、『でも』と『だって』なんていってたらいつまでもあの子と話せないぞ」
「だけど」
「『だけど』もだめだ」
 哲にアドバイスを貰うのだけど、僕はどうしてもそれを実行できないでいた。
「隼八、恥をかくことを恐れるな。とにかく当たって砕けるんだ」
 それが恥ずかしいから出来ないというのに。
 そのあとも哲は見本を見せてくれるのだけど、哲の話が弾んでいくと僕は圧倒されてどんどん哲から距離が出来てしまった。
 哲の知っている人もいたみたいで挨拶に忙しそうだから、暫く哲と離れてしまった。
 ひとりになると心細い。邪魔にならないように端に寄ろうと後ろ向きに歩いていた時、ドンと何かにぶつかった。
「ああ、すみません」
 慌てて振り返って頭を下げた。
「いいんですよ。ちょっと触れたくらいですから」
 顔を上げると少しふくよかなおじさんが、笑っていた。よく見れば頬に珍しいハートマークに似た染み、もしくは痣がついていた。
 僕はついそこを見てしまう。
「どうかしましたか?」
「あっ、いえ、その頬のハートマークが……」
 そこまで言った時、こういうことは口に出してはいけないのではと焦ってしまった。でもここまで言った以上途中でやめるわけにも行かなくなった。
「そ、その、頬のハートマークが素敵ですね」
 こんなところで哲のアドバイスに従うなんて、汗が出てきてしまった。
「はははは、これが素敵ですか」
「はい。さ、桜の花びらみたいにもみえます」
 焦ってしまって、僕はさらに例えてしまった。こういう顔のシミや痣なんて気にしている人が多いというのに、僕は何を褒めているんだ。
「そんなこと面と向かっていったのは、あなたが初めてです。みな気を遣って見て見ぬふりをしますからね。そうです。実は私も密かに気に入ってました」
「そうですよね」
 汗がでてきた。
「あなたは、もしかしたら哲の友達の隼八君ですか?」
「えっ? そ、そうですけど」
 もしかしたらこの人は……と思ったとき、哲が戻ってきて「お父さん」と言った。
 やっぱり。僕は笑うしかなかった。ハハハハ。
 その後、哲は僕を哲のお父さんに正式に紹介した。哲のお父さんは僕に会えた事を本当に喜んでくれて、僕は恐縮して身が竦む。
 忙しそうだったので、あまり長くは話せなくて、しどろもどろになり過ぎて招待してくれたお礼を言うのも忘れてしまった。あまりにも圧倒されて、ドキドキと心臓が口からせり出しそうになっていた。
「そんなに緊張することないって」
「どうしよう、礼儀正しくできなかった。ああ!」
「何言ってんだよ。隼八は見ただけでどういう人物か父にはすぐに分かったと思う。好印象だったさ」
「でも僕、頬の痣のことを口にしちゃって」
「そんなの全然気にしてないよ。どうせなら目の周りにあったらロック気分でよかったのにっていってたくらいだぜ」
 どこか感性が違う。
「哲のお父さん、なんかすごい貫禄だった」
「まあね。でも家ではあんな感じじゃないな。母にヘコヘコして尻に敷かれてるもん」
「えっ、そうなの?」
「まあ、色々あるってこった。それより、これで少しは話すコツを掴んだかな」
「いや、その、そうだといいんだけど」
 僕は頼りなく笑って誤魔化した。

 そしてその後、無理してコミュニケーション力を上げるよりも、僕はやっぱり猫の餌やりに力を入れることにした。いきなり彼女に声を掛けて、髪が素敵な色ですねなんてやっぱり思ってても言えない。
 ようやく梅雨も明け、同時に暑さが強くなってきた。騒がしい蝉の声が耳につくようになった時、やっと猫に会えた。
 近づいても僕を無視し、そのまま去っていこうとしたところ、僕はおやつを手にして猫に見せた。それを見るなり猫はまっしぐらに僕に掛けて来た。手に持っているものが何だか判別できるくらい、このおやつが好きみたいだ。
 初めての餌やりは何の問題もなく、激しく食いついた。一心不乱にぺろぺろと舐めている姿はすさまじい。あの女の子もこれをみていたのだろう。あの笑顔が思い出された。
 これで彼女がやっていたように、猫に餌を与えるようになって、僕もこの近所のルールを破った。
 こっそり餌やりして黙っていればいい。僕もあの猫と仲良くなりたかったし、彼女と話すきっかけを作りたかった。きっとその時がやってくると思っていた。
 暫く猫に懐いてもらうため、餌やりに専念した。お陰で猫は僕を見ると寄ってきてくれるようになった。あとは彼女さえ現れれば、これで話すきっかけができる。
 そう喜んでいたのだけれど、あの張り紙が新たなものに差し替えられたとき、僕はもっと慎重になるべきだった。

 猫に餌を与え始めると、猫の方が僕を探しているのか出会う回数が多くなった。塀の上をスタスタスタと小走りに、それでいて流れるようにすうっと近寄って きたかと思うと、さっと華麗に壁を伝って僕の足元へ降り立つ。そこからは体を擦るように僕の足元にまとわりついて、尻尾をピーンと立ててニャーニャーと催 促し始める。
「よしよし、今あげるから」
 この調子なら女の子が通りかかれば僕の事を気になってみるはずだ。辺りをキョロキョロするが、今は人通りがなく車が一台通っていっただけだった。暫く女 の子が来ないか待っていたけど、その気配が感じられない。残念でしたと、蝉の声がどこからともなくジージーと聞こえていた。
 猫は待ちきれず僕の足にドンと頭を押し付けた。
「わかったよ」
 しゃがんで猫に餌をあげると、一心不乱で食いついた。それはあっという間に終わってしまった。
「また明日ね」
 猫はもっと欲しいと目をまん丸にして僕を見上げ、僕もまた彼女に会えなかったと諦め悪く辺りを見回した。
 女の子に会えば、きっと自然に話しかけることができる。あがり症の僕もその時が来れば覚悟を決めていた。
 これだけ状況が整えば猫の話題ですんなりと話しかけられるはずだ。少しはどもるかもしれないけど、困ったときは猫の話題を素早く持っていけばいい。
「この猫かわいいよね。君も餌をやってたの? 奇遇だな」なんて話し始めれば、彼女も無視できず、あわよくば心開いてくれるはずだ。
 そう願って諦めずに作戦を実行していた時、とうとう街角で女の子が猫と一緒にいるのを目撃した。
 僕はその場で飛び上がりそうに「ヤッター」と強く拳を握った。走り寄っていきたい衝動を抑え、しばらく彼女の行動を観察する。彼女は辺りを確認してい た。スティック状のおやつを手にして、それを猫に見せながら、道の端へと誘っていた。まだ僕とは距離があったので彼女は僕の存在をあまり気にしていない。 それともまだ気がつかなかったのかもしれない。
 やっと待ち望んだシチュエーションが今目の前に――。久しぶりに見た彼女に感動し、これから話しかけるんだと思うと心臓がドキドキとして口までせり上がって来そうだ。
 話しかけようとする意気込みが却って僕の体を硬くして思うように動けなくなってしまう。落ち着け、落ち着け。
 暫く深呼吸をして、それから彼女に近づこうと足を一歩動かした時だった。僕の後ろから自転車がやってきて側をすうっと通っていった。その自転車は女の子の前でブレーキを掛けてキーと不快な音を響かせると、猫はびっくりし危険を察知してどこかへ走り去っていった。
 突然のことで女の子もびっくりし、恐る恐る自転車に乗っていた年老いた男に視線を向けた。目が合ったのか、その老人は威圧的な態度を女の子に向ける。
「あんた、猫に餌やっとるんか!」
 しわがれた声で頭ごなしに女の子を叱り出した。
 それを見たとき、あの張り紙の文字が頭に浮かんだ。あれを書いたのはあの爺さんに違いない。
 女の子は突然のことに、爺さんを見ておどおどしている。肩を竦め体を強張らせ、戦慄していた。
「勝手な事をするんじゃない。猫の糞の被害にあったこともないだろうし、自分で責任もって飼えないくせに、餌だけ与えてあとは知らん振りか」
 知らない人から頭ごなしにいきなり怒られたら恐怖の何ものでもない。僕もまた機転が利かずにびっくりしてただ突っ立っていただけだった。
「ご、ごめんなさい」
 女の子の声が震えでかすれている。今にも泣きそうだ。
 あの子だけが責められるなんて不公平だ。僕だって同じように猫に餌を与えていたじゃないか。それなのに、僕はどう切り出していいのかわからない。足が地面にくっついたように動かず、息だけが荒くなっていた。
「猫に餌をやるのなら、責任もってあんたが家で飼いなさい。それが出来ないのなら、無責任な事はするんじゃない」
「す、すみません」
 女の子は耐えられなくなって、走り出す。一方的に怒鳴り散らされ、怖かったこともあるだろうが、そこまで怒らなくてもという気持ちもあっただろう。あれ は女の子に対して怒りをぶつけていたのと同じだ。もっと他に言い方があったはずだ。あれではトラウマを植えつける。女の子の目にはあの爺さんが鬼みたいに 見えたかもしれない。
 目を赤くして、僕の前を駆け抜けていった。
「全く、今時の若いもんは身勝手な。話もきっちりとできんのか。全くもう」
 爺さんはぶつぶつと文句を言いながら自転車に乗って去っていった。僕ひとりだけがその現場に取り残された。
 僕はこの時、とても後悔した。なぜ彼女に駆け寄ってあげられなかったのか。彼女だけが責められてしまった事が申し訳なくて顔向けできなくなってしまった。あんな風に叱られたら心に傷が残って、猫に餌をあげる共通の話題を持ち出して話しかける事ができなくなってしまった。
 こんな最悪な状態になって、僕は体が竦む。いつも肝心な時になると僕は動けない。結局は何にも出来ないただの臆病者だ。あの時僕が彼女の盾となって、僕 が叱られていたら彼女の傷はそんなに深くなかっただろう。こんなこと想定してなかったから、ショックで頭の中が真っ白で何も考えられなかった。
 彼女を守ろうとしなかった事は僕にも大きな爪あとを残していた。自分がここまで無力で情けないことに自分でも腹立たしい。
 あまりにも悔しくて、近くの電信柱を強く蹴っていた。
 つま先がジンジンとして痛いと顔を歪ませ、不快な気持ちで家路についた。
 このことを次の日学校で哲に報告すると、呆れたため息が聞こえてきた。僕もしゅんとして首をうな垂れていたから、十分反省していると見なして哲は僕を責めなかった。
「過ぎ去ってしまったことをとやかく言うのは仕方がない。次、彼女に会ったら、正直に自分の気持ちを言えばいい。それで話すきっかけにもなるじゃないか。今はプラスに考えよう」
「うん」
 頼りなく返事はするも、目を赤くして泣いていた彼女の顔を思い出すと、あの時の事を穿《ほじく》り返すのが悔やまれる。
 でも僕はもっと想像を働かせて、どういう風に彼女に次会ったら声を掛けるべきか考えておくべきだった。後味が悪くて、いつまでもこの事が僕を落ち込ませ て苦しく、それを次にどう生かすかなんて考える余裕がまだない。彼女の心の傷が癒えている事を願うことしかできなかった。
 夏休みが始まっても、まだ彼女のことを引きずっていた。あの一件があってから、僕は猫に餌を与える事をやめた。猫にとっても餌をもらえない事は寂しいだ ろうけど、そんな気分ではなくなってしまった。僕の浅はかな思いつきで猫も不幸にしてしまったかもしれない。今度は猫を見かける事が辛くなって、猫に会わ ないように街を歩く。
 避けていても相手は動物だ。僕を見かけると、無邪気に近寄ってくる。尻尾を立てて僕の足元ですりすりしている。あどけなく僕を見つめる真ん丸い目が罪意識を強くする。僕は何度もごめんねと謝ってしまった。そしていつしかパタッとその猫に会う事はなかった。

 夏休みの間、高校受験を控えている僕は夏期講習に通うことにした。
 朝、バス停でバスを待っていたときだった。ギラギラとした夏の太陽がまぶしく、暑いと汗ばんでいた額を軽く拭った時、ふと見た先にあの女の子がゆっくり と歩いてきていた。もしかして同じようにバスに乗るつもりだろうか。それともそのまま過ぎ去っていくのか。女の子はこちらに向かってどんどん近づいてく る。僕はドキドキし、それでいて何もできないから、もどかしくて苦しくその場で突っ立っていた。
 バス停に近づく手前で、女の子は不意に立ち止まりスマホを出して何かを確認している。メールでも入ったのか、それを見て思案している様子だった。
 一度元来た道を振り返って引き返そうとしたように見えたけど、思いとどまって結局はバス停に向かって歩いてきた。
 バス停の周りには数人ほどパラパラと人が待っていた。遠慮がちに女の子は少し離れた位置で立ち止まった。やはりバスに乗るつもりだ。僕は道路も面したバ スに早く乗れる位置にいたけど、女の子に近づきたくて、そっと後ろに下がった。女の子は下を向いてスマホを見ていたので、僕の怪しい動きに気づくことはな かった。そのままゆっくりと、女の子のいる手前まで移動できたときだった。急に誰かが叫んでいる声が聞こえた。その声を確かめようと振り向いた瞬間、そこ で見たものがありえなかった。
 恐ろしい速度で歩道に乗り上げてくる車。そう思ったとき、目の前の景色が激しく反転しぐちゃっと混ざり合って何が起こったか判断できなかった。
 無から徐々に聞こえてくるノイズが悲鳴と怒号に変わり突然騒がしくなった時、僕は激痛に顔を歪ませて赤く染まった何かを見ていた。投げ倒されたように体が横たわり足の感覚がおかしい。
 あの女の子は一体どうなったのか。視界がぼやけ、意識が遠のいていく。次に気がついた時、僕は病院のベッドの上だった。
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 猫を見つけて興奮した私たちは、まっしぐらに走り出した。こんなに勢いつけて走って近づいたら、猫はびっくりしてしまうのではないだろうかと思ったとき、私は澤田君を追い越していた。
 澤田君の走り方は右足を庇うようにしてガタガタとバランスが悪い。そういえば、ずっとひょっこひょこしてたような気がする。
 気をとられて走っていたら、バンと思いっきり壁にぶつかってしまった。見えない壁の存在をすっかり忘れていた。
「ああ、痛い」
 トムとジェリーの追いかけっこの果てのトムになったように、体が平らになってつるっと壁に沿って流れていくような気分だった。
「栗原さん、大丈夫?」
「大丈夫じゃない。鼻を強く打った」
 その見えない壁の向こうで猫が気にもかけずに毛づくろいをしていた。涙目でそれを見ていたせいで、やっぱり猫の色がはっきり判別できない。
「でもさ、壁はここまで広がっていたんだね。後もう少し広がってたら、猫に届きそうな気がする。あの猫、こっちに来ないかな」
 澤田君は空間が広がるスイッチを探すみたいに、ペタペタと辺りを触れた。時々コンコンと強く音を立てて猫の気を引こうとするけど、猫は気がつかないのか、私たちの方を振り向きもしなかった。その内毛づくろいが終わると、猫は立ち上がってきままに歩く。
「猫! ネッコ! ヌコォォォ!」
 私は壁を叩きながら必死に声を張り上げたが、素知らぬ顔で去っていく。やがて店の前に置かれていたごちゃごちゃした立て看板にまぎれて消えていった。
 その後、また姿を見せるのかじっと看板を睨んでたけど、猫はその裏に居るのか、それとも消えたのか分からず仕舞いだった。
 見えない壁に張り付いていたとき、商店街の出入り口が随分近づいていることに気がついた。
 先は大通りが横切って車が行き来しているはずだ。だけどまるで暗いトンネルから外の明るさが眩く白く光っているように見えるだけで、外の様子がわからない。
 でもあそこまで行けば何かが分かりそうな気がして、先が見えないのがもどかしい。この空間が端から端まで全部繋がれば猫も捕まえられるんじゃないだろうか。
「この調子で行けば、いつか商店街の出口まで空間が広がるんだろうか。そこまで広がれば、猫はこっち側の空間にも入ってくるのかな」
 私は遠い目で出入り口を見ながら呟いた。
「可能性はあるかもしれないね。こっちの空間に猫が一度入ったとき、姿は見えなくても足元で鳴き声が聞こえたから、猫はもう少しで僕たちと同じ空間に姿を現せたのかも」
「じゃあ、その時、空間のけもの道でも通ってたのかな?」
 思いつきで上手く表現したつもりだったけど、自分で言っておいてあまりぱっとしなかった。
「僕も分からないけど、元の世界と僕たちがいる空間って紙一重の何かの違いでこうなっているのかもって思うんだ。お好み屋の匂いも微かに感じたし、現実の世界とはそんなに離れてないんだよ。この世界は現実をコピーしたもので、そこに僕たちだけが入り込んだ」
「現実をコピー?」
「ほら、僕たちが存在する現実のオリジナルがあって、それをどこかにバックアップしたようなものじゃないかな。時空のずれみたいな。それともバグかな?」
 澤田君はもしかしたらコンピューターかゲーム関係に詳しいのかもしれない。でも私にはさっぱりだ。
「よくわからないけど、そうであったとしてもオリジナルの元の世界に帰るにはどうすればいいの?」
 それが分かれば苦労はしないんだけど、この世界がああだ、こうだと知るよりも、私は手っ取り早く元の世界に戻りたい。
「うーん。ずっとどうすればいいのか僕も考えているけど、やっぱりこの世界の仕組みを知らないと、答えが見つからないような気がする。もう少し、調べてみよう」
 澤田君は見えない壁を伝って端から端へと移動する。少しでも変化がないか、地道に探っていた。そういう手間を省いて、すぐ結論を求めてしてしまう私とは大違いだ。澤田君に任せて自分が何もしないわけにもいかない。出来る範囲で辺りを見回した。
 今回広がった部分にはチェーン店の百円ショップが入っていて、個人経営の店よりも店舗が大きい。向かいも同じような大きさの名の知れたドラッグストアが入っていた。どちらも大きな店だから、その大きさに沿って空間が随分と拡張されていた。
「だけど、いつの間にこんなに広がっていたんだろう」
 まだ少し痛む鼻を手で軽くさすりながら私は訊いた。
「僕たちが座って話しているときに、偶然拡張できる正解に触れたとかかな」
 この空間が広がる法則は正確に分かりようがないが、憶測として澤田君の純粋な心、または私たちの行動が影響しているのは確かかもしれない。澤田君とデートをしたいと私が言って、澤田君はそれに照れて恥ずかしがって、そして壁が消滅したのは事実だ。
 でもこうだと決め付けて繰り返すも、二度は成功したかのように見えたけど、三度目になると法則は発動しなかった。折角分かりかけてきたと思ったのにやりすぎると躓《つまづ》いた。微妙なところで何かが変化したのかもしれない。
 何か変わった事がなかったか自分なりに振り返る。
 椅子に座っていた時、何を話していただろうか。その時もデートの行き先について話して、色々と話が脱線していた。最後はどこに行くかで行き先は決まったけど、やはりデートの話になると空間が広がるのだろうか。
 澤田君を見れば一生懸命何かを探そうと見えない壁と奮闘していた。考え事をしているときの澤田君の目は真剣で顔つきもふと大人っぽくなっている。こういう面を見ると、胸がキュンとしてしまう。
 そんな気持ちが芽生えたのも、澤田君と一緒に長く居れば居るほど、心をすでに許して仲良くなっているということだ。
 近くに居るとちょっとしたドキドキもしてくるし、私たちの心が通じ合うことはやはりこの空間を左右しているのかもと思ってしまう。
 でもなんのためにこんな事が起こっているのだろう。そこに意味なんてあるんだろうか。
 私はずっと先の方向を見つめた。向こう側にも出入り口があり、白く光っていた。
「ねぇ、澤田君」
 私が呼びかけると澤田君が振り返った。私は澤田君の顔を見つめる。目が合うと相変わらず優しく微笑みを返してくれた。
「どうしたの?」
「それじゃさ、ふと思ったんだけど、あっちも同じように広がってるってことかな」
 今までのところ、この商店街の真ん中から両端へと、店舗を区切りとして徐々に広がっていくのは確かめた。
「じゃあ、確かめてこようか」
 澤田君がもう一方の端へと歩きかけた時、私は止めた。
「別に確かめなくてもいいよ。多分そうなんだよ。それに、広がっていたところで、この空間から抜け出せないんだから、確かめても無駄だよ」
 私はこの絶望的な状況に慣れてしまって、そういうものだと決め付ける。
「わからないよ。もしかしたらそこに新たな発見があるかもしれないし、何事も自分で調べて納得しなくっちゃ。放っておいたら、そこからは進めないんじゃないかな」
「澤田君はポジティブだから」
「僕がポジティブだからという意味じゃないんだ。何もしないことがいやなんだ」
「えっ?」
「何もしなかったら、そこで終わってしまう。それって、変化を望まないってことじゃないか。無理だから、ダメだから、そんな気持ちに邪魔されて、僕はいつ も動けなかった。まずは自分のそういう気持ちを変えたいんだ。例え、そこに何もなかったとしても、それを確かめることは決して無駄なことではないと思う」
 言い切った後、私を見てハッとし恥ずかしがっていた。
 それは澤田君の真面目な部分なんだと思う。すごいとは思うんだけど、面と向かってどう反応していいかわからないのが私だった。投げやりな自分が少し恥ずかしい。
「ご、ごめん。別に栗原さんを責めたわけじゃないんだよ」
「そんなの分かってるって。ただ、圧倒された」
「僕、過去に色んなことで後悔してるから、つい、力入っちゃって」
「わかった。じゃあ、見に行ってみよう」
「でも、何もなかったらごめんね」
「なんで、そこで弱気になってんの」
 芯はしっかりしているのに、最後でなよっとしてしまう澤田君。でも向こう側へと、張り切って前を歩き、私はその後をついていく。
 まだ少年であどけない部分が目立つけど、その後姿は精悍《せいかん》だ。
 私は振り返り、先ほどの猫がどうなったか確認する。今のところ、その姿は見えずじまいだった。そのうちまた出てくるのかもしれない。今はそれを信じるしかない。
 澤田君の後を追いかけ、私は横に並んだ。まじまじ見れば肩の位置が結構高いことに気がついた。
「改めてみると、澤田君、背が高いよね。身長どれくらいあるの?」
「178cm」
「もうすぐ180cm越えるかもね」
「これ以上伸びたら面倒くさいな」
「背が高いって面倒くさいものなの?」
「あっ、いや、この間も伸びたところなんだ。だから急激に身長ってあまり伸びて欲しくないなって」
「私としては、体重は急激に増えてほしくないな」
 私の返しに澤田君はクスッと笑ってくれた。
 そんな他愛のない会話をしながら壁に気をつけて歩けるところまで歩く。やはりこちらも空間は広がっていた。
 念のため、何かの変化がないか澤田君は念入りに見えない壁を確認していた。
「このまま空間が広がったら、両端の商店街を抜けた先に出られるんだろうか」
 もう一方の商店街の先の向こうを見つめながら、私は訊いた。
「どうなるんだろうね。この商店街を中心としてずっとずっと徐々に広がれば、この街全体にまで大きくなって、そのうち地球全体規模に見えない壁などなくなるのかも」
「もしかしてどこにも壁がなくなった時に、元の世界に戻れるとか?」
「そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない」
「そうだったとしたら、気の遠くなるような時間がかかるんじゃない? でもさ、この商店街の中で起こっているように、空間は広がっても建物の中に入れないし、この世界のものにも触れられないし、どうやって生きていくための必要なものを手に入れるの?」
「全く触れられないこともないかもしれない。現に僕は見えない壁を越え、椅子に触れられてこっちの空間に持ってこれたし」
「それでも、こっち側に来たら地面にくっついて動かせなくなった。取り出しても、また何かの法則が発動するんだよ」
「今はまだ答えを出すには早いと思う。この商店街から抜け出したら、また何かが変わるんじゃないかな。この調子だと空間は広がり続けているから、また少し様子をみよう」
 澤田君は私を励まそうと笑顔を絶やさなかった。私もその笑顔にならってポジティブに考えてみた。
「椅子を取り出した時さ、猫が先にそこに座ってたよね。もしかしたら、猫が触れたものやその周りにあるものが取り出せるのかも」
「うん、そういう考えもできるよね。あの時、違う空間から何かを取り出したって気分だった」
 ちょうどこの空間に沿って、お菓子やさんと果物やさんが向かい合っていた。店先にお菓子や果物が今日の特売品みたいに置かれている。そこに猫が来てくれれば取り出せるのかもしれない。
「お腹すいたね」
 つい口から漏れてしまった。
「そうだね」
 澤田君も自分のお腹に触れて、頼りなく笑っていた。
 結局何も見つけられなかった私たちは、がっくりと肩を落としてしまった。澤田君も申し訳なさそうに、私の様子を気にしていた。
 暫く口数少なくなってしまうと、私たちの間にしらっとした空気が流れていくのが見えてしまった。このままではまた悪い方向にいくんじゃないだろうか。不安になると物事はいつも悪い方向にしか考えられなくなっていく。せめてこの流れを変えたい。私から行動してみよう。
「ねぇ、澤田君」
「どうしたの?」
 ここまではいい。話すきっかけになった。しかし、ここからどう話題を振ろうか。なんでもいい。歌でも歌おうか。こういうときに楽しく盛り上げられる話題と言えばと思った時、ぱっと閃いた。
「あのさ、しりとりしようよ」
「しりとり?」
「そう、ずっと黙ってたらさ元気なくなりそうだから、何かして気を紛らわそうと思って。そういう時って、しりとりがいいでしょ」
「そうだよね。こういうときこそ楽しむ。それいいかもしれない。やってみよう」
「じゃあさ、普通にしてたら面白くないから、白いもの限定のルールでチャレンジしてみない?」
「白いものの名前しかだめなの?」
「そう。じゃあ、私からいくよ。とうふ」
 こういうのは先手で攻めるのがいい。
「ふ、ふ……ふがつくもので白いもの」
 澤田君はじっくりと考えていた。
「あっ、ふと……んっ?」
 ふとんと言いかけた澤田君は最後で息をつまらせ、慌ててつけたす。
「……の綿!」
「ふとんの綿。おお、そう来たか。危なかったね」
 私がからかうと、澤田君はセーフといいたげに息を吐いていた。
「次は『た』だね。た、た」と『た』を繰り返す。白いもの限定は結構難しい。だからこそやりがいがある。「た、タイのほね」
「鯛の骨? なるほど、確かに骨は白い。やるね」
「フフフ。次は『ね』だよ」
 得意になりながら、澤田君を煽る。
「ね、ね……」
「どう、降参かな」
「まだ始まったばかりで降参はちょっと。うーん、ね、ね、あっ! ねんがじょう」
 澤田君はちょっとテンション高く口にした。
「なるほど年賀状か。確かに白い。次は『う』だね。う、う」
 単純に『うし』を連想するけど白黒だし、あっ、閃いた。
「うしのちち!」
「牛の乳。すなわち牛乳か。それも確かに白い。よし、次は、ち、ち、ち……」
 澤田君は悩んでいた。『ち』から始まる白いものを一生懸命想像し「うーん」とうなっている。
「どうやらこれで勝負は決まりそうね」
「いや、そうはさせないぞ。ち、ち、ち、あっ、ちぎれ雲! どうだ」
「おお、やるではないか、澤田君。しかもまさに白い」
「へへへ。じゃあ次、『も』だよ」
 なんかむきになってくる。これは負けられない。
「も、も、も……、あっ、もち!」
「えっ、また『ち』か。ち、ち、ち」
 さっきはちぎれ雲なんて綺麗にまとめてくれたけど、連続しての『ち』はさすがに難しいだろう。
「あっ、ちり紙」
 澤田君はあっさりと返してきた。
「ちり紙の『み』だね。み、み、ミルク!」
 さっきの牛の乳と被ってしまうけど、文字は違うからセーフだ。
「ミルク。うまいこところついて来るな。次は、『く』だね、く、く……あっ、これは簡単だ。クリーム」
「ミルクからのクリームか、これは連想もあって、すぐに浮かびやすい。不覚だった」
「さあ、次は『ム』だよ。思い浮かぶかな」
 澤田君はすっかりのってきて、いたずらっぽく笑っていた。よし、その挑戦受けてたとうではないか。
『次は、「む」だね。む、む、む、む……」
『む』から始まる言葉ってなかなか難しい。白いもので『む』から始まるもの。私はうーんと考え込んだ。
「もしかして、僕の勝ちかな」
 澤田君が煽ってくる。なんかちょっとイラっとした。やだ、負けたくないぞ。
「む、む、む、あっ、あった。麦とろごはん!」
『む』から始まる白いものを想像して、やったと思って口にしたら、最後『ん』と言ってしまった。「あっ」と気がついたときには澤田君が指を差して指摘した。
「ああ、『ん』がついた」
「ちょっと待って、その麦とろご飯のご飯はなしで」
「ダメ、言い切っちゃったから、取り消し不可能」
「でも澤田君だって、フトンって言ったけど、慌ててつけたしたのを見逃してあげたんだよ」
「あれは、すぐにふとんの綿って続けたからセーフ。それに栗原さんは何も文句言わなかったよ。これは言い切っちゃったから取り消し不可能」
「そんなのずるい、ずるい」
 私は悔しくて澤田君につっかかろうと迫ると、澤田君はひらりと身をかわすから、つい追いかける羽目になった。
「なんで逃げるのよ」
「だって、殴りかかりそうにみえたから」
「私がそんなことするわけないでしょ」
 それでも澤田君は私から逃げる。私は意地になって追いかける。次第に追いかけっこみたいになってしまい、私たちは小学生のように遊んでしまった。きゃっきゃと騒いでいる澤田君がかわいい。
 その時、「あっ」と澤田君が叫んだ。
「どうしたの?」
「また壁が消えたんじゃないかな?」
「えっ、うそ」
 夢中で追いかけっこしていたから、自分たちが先ほどよりも見えない壁の向こう側に足を踏み入れていたことに気がつかなかった。
 ふたりで手を前に出して真っ直ぐ歩けば、確かに空間が広がっていた。
 私は澤田君と顔を合わせて、そしてにんまりと笑った。ある仮説が浮かんだ。
「これってさ、私たちがこの閉鎖された空間で楽しく過ごせば広がるんじゃないのかな」
「最初の空間が広がった時は、僕はドキドキとして楽しかったのは確かだと思う」
「ほら、そうでしょ。私も澤田君とデートしたいって思ったとき、そんな事自分の口から言ったのも初めてだから、私もドキドキだった。本当にそうなったら楽しいだろうなって、強く願ってた」
 そう感じると、気持ちが高ぶってきて、ふたりして微笑みあった。
「そうだよね。椅子に座って話をしていた時も、きっとその延長でふたりで話すのが楽しかったってことだね」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、あともう少しで、この商店街全体に空間が広がるね」
「商店街の空間が全部広がったら、もしかしたらパンってはじけて元の世界に戻れるかも」
 共通点が明らかになると、私たちは希望に満ちてきた。
「残りは、ふたりでどうやって楽しむ?」
 澤田君とふたりで楽しむって、なんかその言葉にまたドキドキしてしまう。このドキドキだけで空間が広がっているのではないだろうか。この展開にすごく期待してしまう。
「そうだね。それじゃ楽しい話をしようよ」
「どんなこと話せばいいんだろう」
「じゃあ、澤田君が今までで楽しかったこと話してみて」
「今までで楽しかったことか」
 澤田君は見えない壁にもたれながら、思い出そうと天井を仰いだ。
「そうだな。今思うととても楽しかったことになるのかな。僕の親友、哲っていうんだけど、すごいいい奴なんだ。僕のために色々と世話を焼いてくれて、哲と一緒にいると楽しかったな」
「ふたりでどんなことしたの?」
「それがさ、哲のお父さんが会社の社長でね、それで中学生の時にその会社のパーティに僕は誘われて哲と参加したんだ。それがすごい世界でさ……」
 とりとめもなく、澤田君はそのパーティについて話してくれた。豪華な食べ物、色々な飲み物、カラフルなデザート、社会で活躍する見るからにすごそうなゲ ストたちなど、異次元に来たみたいだったらしい。私のイメージとしては、おとぎ話にでてくるような貴族の集まりの世界をイメージしてしまう。
「まるでシンデレラでも登場しそうな舞踏会に思えちゃう」
「ははは、そこまではいかないけど、なんていうのかきちっと正装した社交界だったな」
「あっ、そういうのってさ、急に誰かがワインを飲んで倒れて、それで周りが悲鳴をあげてさ、事件が起こったりする舞台になりやすいよね」
「そしたら、僕が名探偵役となって事件解決って……ないない」
 私の話に合わせてくれる澤田君。でも探偵役も澤田君なら十分似合うと思う。
「それで、そのパーティで何が起こったの?」
「特に何が起こったってことじゃないんだけど、友達の哲のコミュニケーション力が高くて、大人顔負けにいろんな人と話すんだ。ぼくなんてその場にいるだけでも恐縮だったから、雰囲気にのまれて話すことなんてできなかった」
 おどおどしている澤田君が目に浮かぶ。
「でも楽しかったんでしょ」
「うん。哲が色々と教えてくれたからね。それが僕にとってすごいためになったと思う」
「例えば何が?」
 その時、澤田君はもたれていた壁から離れてまっすぐ立って私をじっと見つめた。
「何、なんか私変な事いった?」
 見つめられると意識して、自分の視線があちこちいってしまう。
「栗原さんの髪の毛、つややかでとてもきれいですね」
「えっ、どうしたの、急に」
 面と向かって褒められると、恥ずかしくなる。
「瞳も、虹彩が琥珀のようでとても美しい」
「ちょ、ちょっと」
「そのピンクのパーカーがとても栗原さんに似合っていて、すごくかわいい」
 ここまで褒められると、体の中の何かに火がともったように温かくなって気持ちよくなってくる。
「やだ、そんなこと、もう、やめてよ」と口ではいいつつ、顔は綻んでしまった。
 その私の様子を見て、澤田君は目を細めて笑っていた。
「と、こんな風に、その人のいいところを見つけてちゃんと伝えるってことを哲は教えてくれたんだ」
「えっ? もしかしてそれってお世辞?」
 最初から本気にはしてなかったけど、あそこまで言われたら、お世辞だったとしても強く抗えない感情が芽生えてしまった。
「ううん、僕が今言った事はお世辞じゃない。僕が本当にそう思ったこと」
 真顔で言われると、余計に照れてしまう。自分だけこんな感情でモジモジと恥ずかしくなるのは不公平だ。
「澤田君もさ、真面目で優しくて、背も高いし、すごくいけてると思う」
 ええい、お返しだ。
「そ、そうかな。でもすごく嬉しい。ありがとう」
「そんな、お礼言われるほどのことじゃ。だって本当に澤田君って素敵な人だと思う」
 つい目を逸らしてしまったのは、私は澤田君を好きになりかけてるからだ。恥ずかしい。
 澤田君も照れている。「へへへ」と笑って後ろの見えない壁に背中をもたせ掛けた。その時だった。澤田君は「うわぁ」と慌てふためく。必要以上に後ろに倒れかけた。
「澤田君!」
 咄嗟に私は澤田君に手を伸ばし、ジャケットを掴む。澤田君も私に頼ろうと手を伸ばして私の手を取った。
「ああ!」と澤田君。
「きゃー」と私。
 私たちは引力に逆らえず重なって倒れてしまう。どさっと床に二人して転がった。
「あたたた」と澤田君。
「うっ」と私。
「大丈夫かい、栗原さん」
「うん、なんとか」
 気がつけば、私は澤田君の胸の中でしっかりと腕に抱かれていた。
「きゃー」と再び私。
「うぉ!」と澤田君。
 私は手をバタバタしながら、離れようと慌てて横に這《は》い蹲《つくば》る。澤田君は顔を赤らめて焦りながら上半身をむくりと起こした。
「ごめん、栗原さん。怪我しなかった?」
「だ、大丈夫。澤田君も怪我してない?」
「ちょっと体を打ちつけただけ。大丈夫だから」
 突然のハプニングに私は息が荒くなっていた。澤田君もちょっと動揺している。
 抱き合ってしまったことに恥ずかしさを感じながら、お互い気になって目を合わせた時だった。なぜこうなってしまったか考えたら、突然「あっ!」と同時に叫んだ。
「また壁がなくなったんだ」
 澤田君は立ち上がり、見えない壁を確認しながらスタスタと先へ進んだ。
「また空間が広がったんだ」
 私もこの状況がとてもいい方向に進んでいると実感してうれしくなってくる。
「栗原さん!」
 突然先へ進んでいた澤田君が叫んだ。
「どうしたの、澤田君」
 私は立ち上がり、澤田君の方を見た。そして目を見開く。
「あっ、うそ、そこまで壁が移動しているの?」
 すぐさま澤田君のもとへと駆け寄った。
 そこは商店街の一番端っこ。向かいの通りはすぐそこだ。
 2
 商店街の出入り口の両端はどちらも車が激しく行き来する通りに面し、頭上にはアーケードが広がり雨も気にせず買い物もできる一本の抜け道といってもいい。
 片方は駅へと続き、そちら側に面した大通りは町の中心部になってバスも通り、もう片方と比べると車の行き来が激しい。今、その駅に近い方の通りに面した出入り口に、私と澤田君は突っ立っていた。
 ここまで空間が広がったのは素直に喜ばしいけど、商店街の出入り口から大通りに向かっての外の景色が見えず、透明であったはずの壁がその出入り口では白く、まるで氷の壁をみているようだった。
「あれ、どうして向こう側が見えないの?」
 私が訊けば、澤田君も首を傾げた。
「ずっと目に見えない壁であったのに、ここに来てその壁の存在が見えるようになった。そして不透明でその先が見えないのはまるで、ここから出られないと蓋をされているみたいだ」
「私が白いもの限定でしりとりなんかしたから、私たちがイメージした白に影響されてしまったとか?」
「いや、それは……」
 言葉につまる澤田君。やっぱり第一にその可能性を考えていたみたいだ。
「ねぇ、反対側も確認しよう」
 今までの法則からすれば、もう片方も同じように空間が移動しているはずだ。私たちは商店街を横断する。端から端へと歩くと結構な距離があった。真ん中あ たりには路地があり、ここから私たちが入ってきたところだ。そこを越えて反対側に行く。先の出入り口は中側から外側の光のコントラストが激しくここからだ と白く光って見えた。それは近づいてもやっぱり同じで白いままだった。
「こっち側の空間も同じように広がって壁ができてる」
 端まで来ると、澤田君はその出入り口にふさがる壁を触った。広くなっているとはいえ、目の前の出入り口がふさがっているのを見るとまゆ毛が下がり少しがっかり気味だ。
「向こう側と同じように、白い半透明の壁だね」
 私も、それに触れながら言った。
「この商店街の両端がふさがれた状態か」
 澤田君は考え込んだ。
「ここまで空間が広がったら、この閉鎖された空間が消えるって思ったのに。なんで?」
 思っていたのと違うから、私はとても落胆して一気に気分が滅入った。
「栗原さん。これはチャンスかもしれないよ」
 澤田君は私と真逆の反応だ。思わず「はぁ?」と呆れてしまった。
「どうしてこれがチャンスなの? もう絶望的な予感しかしない」
「あのね、これも哲が教えてくれたんだけど、ピンチのときは発想を逆転させてチャンスと捉えるんだ」
「えっ? この状態を?」
 出口が閉ざされ、ここからは出られない『見える壁』の出現によってありありとしているのに、それをチャンスと見なす澤田君には賛同できない。
「そう思った方が楽しいじゃない。辛いことに飲み込まれて暗くなるよりも、きっと解決方法があると信じたほうが得しない?」
「こんな状態で損得って」
「これは次へのステップなんだよ。ゲームで言ったらレベルをクリアーして次のステージへ挑戦といったところかな」
「ゲームのステージで片付く問題なの?」
「栗原さんはゲームしたことない?」
「それはあるけど」
「だったらさ、ひとつのステージクリアーしたとき嬉しいでしょ」
「ゲームに関してはそうだけど」
「だから今までは空間を広げるゲームで、そして全部クリアーした。次のレベルが、この出入り口の壁ってわけだ。確実に解決に向かっているんだよ」
 簡単に言ってくれるけど、それとこれとは全然違う。
「そう仮定したとしても、じゃあ、ここからどうすれば」
「基本は今まで通りでいいんだと思う」
「今まで通り?」
「そう、僕たちが楽しめばいいってこと」
「楽しむ?」
「栗原さんが先にその法則を見つけたでしょ。だったら、もっと楽しもう。このふたりの時間を」
 澤田君が言った『ふたりの時間』。その言葉にはっとした。ずっとふたりだけでこの世界に閉じ込められていたけど、裏を返せば邪魔が入らない本当にふたりの時間だ。
「澤田君はどこまでもポジティブだね。その考え方は称賛に値する」
 ふたりの時間。不思議とその響きはとても特別なものとして私の耳に届いた。鈍くふさがっていた重い感情がふわっと浮いていく。諦めちゃいけない。それよりも澤田君と過ごせることを有難く思ってみよう。こんなときだから、力を合わせる。
「澤田君、ほいっ」
 私は手を出した。
「えっ、何?」
「握手、握手だよ。新たに気合を入れよう」
 私が前向きになったのを知って澤田君は自然と口元を綻ばせた。
「うん」
 私の手をぎゅっと握った。
 澤田君の手の温かさと、ぎゅっと握られた感触が心地いい。
 澤田君と一緒なら頑張れる。澤田君のにこやかな顔を見たとき、私は澤田君の事が好きだと自分に正直になった。
『澤田君が好き』
 手を握りながら、私は心の中で呟いた。
 その時、澤田君は辺りをキョロキョロする。
「そういえばさ、猫は確か、あの看板の辺りに隠れたんだったよね」
 あっ、猫。そうだった。あの猫は今どこに居るんだろう。
 百円ショップの隣はチケットショップだった。扱っている商品を紹介した立て看板と店の名前が目立つように電飾看板が並んで置かれていた。この辺りで猫が消えたように見えたんだった。
 その周りを良く調べたけども、猫はすでに移動したのか、その姿は見えなかった。それよりもその隣、この商店街の一番端にある店に興味を抱いた。色とりどりに美味しそうなケーキがショーケースの中に入っている。それが商店街の通りに面していた。
「うわ、おいしそう」
 お腹が空いているから余計に食べたくなってしまう。
「ほんとだ、美味しそうだね」
「ねぇ、ここから出たらやることのひとつに、一緒にケーキも食べることも付け加えようよ」
「いいね。それ」
 カラフルなケーキをバックに、あどけなく笑う澤田君。かわいい。私がスマホを持っていれば、写真を撮ったのに。あっ、澤田君に借りればいいか。
「あのさ、澤田君、ちょっとスマホ貸してくれない?」
「何するの?」
 澤田君はジャケットのポケットからスマホを取り出しながら訊いた。
「ケーキと澤田君の写真撮らせて」
「それじゃ、記念に一緒に撮ろうか」
 澤田君は私の側に寄りスマホを掲げる。私もできるだけ澤田君と密着する。ケーキ屋をバックにパシャリと一枚撮った。それをふたりで確認する。
 澤田君の腕を抱きしめ、にんまりと少しふざけたように私は笑っている。その隣で恥ずかしそうに笑う澤田君。
「いい感じに撮れてる。ねぇ、それ私のスマホにあとで送ってくれる?」
「うん、いいよ。メアド教えて」
 澤田君はスマホを操作して、私のメールアドレスを打ち込んだ。
「今は送信できないけど、ここから出たら必ず送るね」
 澤田君の言い方だと、このあとすぐに出られるように聞こえた。
 本当にそうであったらいいと、私は出入り口をふさいだ壁を振り返る。依然変わらず、外が見えないまま巨大な南極の氷の壁のようだ。
 見ているとその大きな存在に打ちのめされそうでため息が出てきた。
「大丈夫だよ。きっと出られるから。ふたりで信じよう」
 澤田君が言うんだから間違いない。
「そしたら次はどうやって楽しむ?」
 この場所で澤田君と何をして楽しんだらいいのだろう。私が考えているとき、澤田君があっさりと言った。
「それじゃ、じゃんけんグリコでもやってみようか」
「ええ、じゃんけんグリコって」
 私が戸惑っていると、澤田君は有無を言わさずすぐに行動する。
「じゃーんけん、ぽん!」
 澤田君の弾む掛け声ががらんどうな商店街いっぱいに元気に響くと、体に刷り込まれた条件反射で私は抗えずそれに合わせてチョキを出していた。
「あっ、僕の勝ちだ。グ、リ、コ」
 澤田君はできるだけ足幅を広げて三歩飛んだ。
「んもう、それで、また向こうの端までじゃんけんグリコしながら行くの?」
「そうだよ。次行くよ、じゃんけーん」
 澤田君の掛け声の後に私も続く。
「ほい!」
 こうなったらやるしかない。今度は私が買った。
「パ・イ・ナ・ツ・プ・ル」
 私も負けずに足を大きく広げて弾むように進んだ。
 ふたり同時に「じゃんけんぽん」と勝負する。また私が勝った。
「チ・ヨ・コ・レ・イ・ト」
 澤田君と少し距離が出来てしまう。
「次は、負けないぞ。じゃんけんぽーん」
 どっちも同じパーだ。同時に「あいこでしょ」。
 また私が勝った。
「パ・イ・ナ・ツ・プ・ル」
 澤田君とどんどん離れると不安になってくる。
「澤田君、まじめにやってよ」
「僕はまじめにやってるよ。それじゃいくよ。じゃんけんぽん」
 やっと澤田君が買った。
「グ・リ・コ」
 それじゃ追いつかないじゃないの。
 しばらくじゃんけんグリコで遊んでいたけど、商店街の半分まで来るのに結構な時間がかかってしまった。
「澤田君、ちょっと休憩しよう」
 まだ私に追いつけない遠く離れた澤田君に叫んだ。
「オッケー」
 返事をすると、澤田君は私の居る方向へとゆっくりと歩いてきた。
「澤田君、じゃんけん弱いね」
「栗原さんが強いんじゃないの」
 結局楽しんだというよりも、時間つぶしになってしまい、ちょっとこれは体力を消耗してしまった。こんな事をして解決策に近づいた気になれなかった。
「あまり面白くなかったかな」
 澤田君は私の顔色に気がついて、心配になっていた。
「だって澤田君負けてばっかりだからやりがいがなくって」
「こういうのって、張り合いがないと楽しめないよね。ごめん」
「でもね、久しぶりだったな。小学生の時以来で、あの時は皆できゃっきゃしながら楽しんでたな」
「栗原さんの小学生の時ってどんな子だった」
「うーんとね、独占欲が強かったかな。仲がいい子が他の友達と一緒に遊んでいるとちょっとヤキモチやいたり、すねたりとかあったかな」
「子供にはよくある感情だと思うよ」
「そうなんだけど、自分がその子の一番じゃないって思ったら辛くってさ。昔ね、スポーツがよく出来て、クラスでも人気者のリミちゃんっていう子と仲良く なったの。近所だったし、親同士も知り合いでお互いの家に遊びに行ったりしてたんだ。手を繋いで一緒に歩いて、私はすごく大好きでたまらなかった」
 澤田君は首を振って相槌を撮りながら聞いていた。
「ある日、リミちゃんに私のこと好き? って訊いたの。そしたら『うん』っていってくれたの。そこでやめとけばよかったのに、どれくらい好きって訊い ちゃって、そしたらリミちゃん『普通よりもちょっと上の好き』って言ったの。それが子供心にすごくショックだった。次にリミちゃんが、『智世ちゃんは私の ことどれくらい好き?』って訊くの。もちろん私はリミちゃんのこと友達の中で一番大好きだったんだよ」
「ちゃんとそれを伝えたの?」
「なんかね、その時、対等じゃなかったことが悔しくてさ、『私も普通よりもちょっと上の好き』って答えちゃった。これでお互い様だって思ったんだけど、変なところでプライドが発動しちゃった」
「それは仕方ないよ。僕だって、哲は親友だけど僕がちょっと問題を抱えたとき、哲のこと避けてしまったことがあったんだ」
「澤田君でもあるんだ、そういうこと」
「そりゃ、あるよ。心が不安定な時は自分にネガティブになって周りが面白く見えないから、つい卑屈になっちゃうんだろね」
「でも、今の澤田君からはネガティブな行動がイメージできないな」
「油断をすると、どっからかすぐに入り込んでくるよ。だからそれを跳ね除けるために、できるだけいい事を口にするようにしてるんだ」
「ピンチの時がチャンスとかもそうだね」
「ほんとはそれ、哲が教えてくれたんだ。僕は哲のお陰でとても助けられたんだ」
 澤田君は右足の太もも辺りをさすっていた。
「澤田君もしかして疲れてる? こんなこと言うのも何だけど、走るときさ、ちょっとひょこひょこしてるじゃない。もしかして、足が痛いんじゃない?」
「あっ、痛いって程じゃないんだ。ちょっと事故にあって、それが原因」
「えっ、事故にあったの? 大変だったね」
「うん。中学三年の夏休みが始まった時、バス停でバスを待っていたら、いきなり乗用車が歩道に突っ込んできたんだ」
 それを聞いて私ははっとした。
「あっ、知ってる、その事故。全国的に大ニュースになったし、地元だからみんなびっくりして、大騒ぎだったよね。その事故に澤田君が巻き込まれてたの? だけど無事でよかった。確か、あの事故で犠牲になった人がいたよね」
 私がその話を軽々とすると、澤田君は心を乱されたかのように少し動揺して俯いた。私はその動作にしまったと焦った。
「ご、ごめんね。辛いこと思い出させちゃって」
「いや、いいんだ。気にしないで」
 澤田君は現場にいたから、一緒にいた人とは顔を合わせていたはずだ。そんな人が側で犠牲になったと思ったら、辛いに決まっている。それに自分自身も巻き込まれてトラウマもあるはずだ。本人の前で蒸し返すのはちょっと軽率すぎた。
「あの事故は本当に悲惨だった。私もよく覚えてる。あの日、私もバスに乗ろうとしてたんだけど、用事ができてそれで引き返して乗らずにすんだんだ。その後であの事故が起こったから、ショックだった。確か、犠牲になったのは中高生の学生だったんじゃなかったかな」
「うん、中学生の女の子だった。僕の初恋の人……」
 澤田君は俯いたまま、呟いた。
 私はどきっとして目を見開いた。
「えっ、そうだったの」
「何度も声を掛けようと、色々と彼女に近づく手を考えてたんだ。だけど臆病でそれが出来なくて……」
「……」
 どう返していいかわからない。喉の奥で息がつまった。
 澤田君は淡々と話しているけど、語尾が弱くなっている。私に似た女の子が事故で死んでいた。他人事だと思えない。
 澤田君が頭をあげ双眸を私に向ける。
「事故にあった直後、僕の意識がなくなって気がついたら病院のベッドにいたんだ。あの時僕は夢を見ていたんだと思った。それは目が覚めても夢に違いないと思ったんだ。こんなこと起こってないって、信じこもうとしてた」
「精神的にもショックが強かったんだね」
「事故についてのニュースも記事も僕は目に触れなかった。ずっとなかったことにしたかった。後で中学生の女の子が亡くなったって耳に入ったとき、何かの間 違いだってそれすら信じなかった。僕の中ではあの事故はなかったことになってるから、あの女の子も生きているってずっと思って過ごしたんだ」
 澤田君は右足のズボンの裾を膝まで上にあげた。それを見て私は息を飲んだ。明らかに違いがわかる作り物のそれは、改めて知らされると驚きを隠せない。
「その足は」
「義足さ。背が伸びたからちょうど新調したところなんだ。まだちょっと違和感があって、それで走るとひょこひょこしてしまうんだ」
 何かおかしいとは思っていたけど、こういうことだったのか。私が言葉につまっていると、澤田君は笑い出した。
「もしかして引いちゃった?」
「びっくりはもちろんしたけど、引くってそんなことない。それよりも、私、無理に肩車させたし、もっと早く言ってくれればよかったのに。あの時、自分がかなり重たいのかなって思っちゃったよ」
「ははは、栗原さんらしいな。隠すつもりはなかったけど、この義足自体も、僕には本当の足だって思い込もうとしてるんだ。僕の中ではあの事故は本当にな かったことになってるんだ。栗原さんを見たとき、やっぱり生きていたって思えて、それでいてもたってもいられなくて、気がついたら行動してた」
「でも他人のそら似だった」
「それでも、もしかしたらって本人かもって」
「それであの時、幽霊じゃないかって私に訊いたんだ」
 今になって澤田君の言動が腑に落ちた。
「やはりこの世界は僕が作ってしまったのかも。栗原さんを初恋の人だと思いこんで僕がここに閉じ込めてしまった」
 最初は私も澤田君のせいにした。それはフラストレーションで八つ当たって、人のせいにするのが楽だったからだ。だけど澤田君は全く悪くない。ずっと澤田君と過ごして、この人が他人の嫌がる事を望むわけがない。
「澤田君のせいじゃない。私は路地で猫を追いかけてこの商店街の中に入ってしまった。澤田君も猫を探してなかった?」
「うん、久しぶりに猫をみたから猫の頭を撫でてたんだ。そしたら商店街に入っていったから、つい追いかけた」
「でしょ、だから私たちは猫によって、この世界に呼び込まれたのよ。澤田君は偶然私をそこで見てしまった。初恋の人に似てるっていったけどさ、本当にそっくりだと思う? 何かの特徴が一致してつい脳内補正でそっくりに見えたとかあるんじゃないかな」
「特徴といったら、その茶色っぽいつややかな髪は同じだと思ったし、近づいたら目の感じも似てた」
「私もさ、澤田君を見たとき、初めて会った気がしなかったんだ。どこかで見たことあるような、そんな親しみが湧いた」
「よく考えたら、僕たち同じ高校だった。栗原さんは学校で僕を見たことあったのかも」
「あれっ?」
「どうしたの?」
 今、既視感があった。そうだ、この感じ、前にもあった。あの時はピリッとした違和感を覚えたんだった。
「私たち学校で会った事はないはずなのよ」
「急にどうしたの?」
「だって、もし学校ですれ違ったら、澤田君は必ず初恋の人に似ている私に気がつくはず。澤田君も私が同じ学校に居た事を知らなかったということは、一度も見かけた事がなかったってことなんだと思う」
 あの時、私はそれを感じて言おうとしたんだった。
「そういえばそうだね。もしすれ違っていたら、僕は栗原さんのクラスをつきとめていたに違いない」
「それじゃなんで私は澤田君の事をどこかでみたように思ったのだろう」
「こういう僕みたいな顔もよくあるのかもしれないね。そしたら、栗原さんが僕の初恋の人に似てるっていうのも、僕にとったら一番雰囲気が近い人をそう思い込もうとしていたのかもしれない」
 人の視覚は簡単に騙される。絵が動いてないのに動いて見えたり、線ばかりの図形の中に点が点滅して見えたり、ちょっとしたことで目の錯覚が起こる。
 今も澤田君を見ていると、揺れているような気がする。
「あれ、地震かな?」
 澤田君の言葉で私もはっとした。
「やっぱり、今揺れたの?」
「栗原さんも、なんか感じた?」
「微妙だったから、錯覚かなって思ったんだけど、澤田君も感じたんだ」
 暫く動かないで様子を見ていたけど、その後は何も感じなかった。
「もう大丈夫そうだね」
 澤田君がにこっとすると、ほっとする。
 私が息をついた時、足元で何かがコツンとぶつかってきた感触があった。
「なんか今、足元にいた」
 目を凝らしてみるけど、何も見えない。
「もしかしたら、猫が今この空間に入っているのかも」
 澤田君は腰を曲げて、手探りで猫に触ろうとしていた。
 私も同じように見えない猫を捕まえようとする。
「どこにいるの、猫」
 見えないのがもどかしい。
「猫は栗原さんの足に触れたんだよね」
「うん。頭をこすりつけるようなそんな感じだった」
「猫には僕たちが見えるのかもしれない。何か猫に与えられる餌でもあれば」
「そうだよね、チュールが欲しいよね。あれを一度知ってしまったら、猫は病みつきになって、すぐに食いつくよね。昔はあれを鞄に忍ばせて、猫をみたらあげてたんだけどな」
「栗原さんもそんなことやってたんだ」
「ということは澤田君もやってたの?」
「うん、ちょっと色々とあって」
「結構、黙って野良猫にチュールあげる人っているよね。でも餌をあげるなってさ、うるさい人もいてさ」
 澤田君は急に動きを止めて私を見ていた。
「もしかして、澤田君もうるさい人に怒られたことある?」
「いや、僕は……」
「私はあるんだ。責任も持てないのに勝手に餌やるなって、頭ごなしに言われて、だけどさ、私だけじゃなかったもん。猫に餌あげてたの」
「そ、そうなんだ」
「でも、その通りだなって、怒られた後で反省して、それで母に相談して、その猫を引き取ることにしたの」
「えっ、捕まえたの?」
「そう。責任取った。今は飼い猫になったよ。これで文句言われないだろうって思って」
「それはハッピーエンドだ」
「だから、怒られてよかったかな。あのうるさい人に見つからなかったら飼う事もなかったし」
「猫にとったら幸せだね。それで名前はなんていうの?」
「福」
「フクちゃん……」
 澤田君は繰り返した。
「猫と出会ったとき、すぐに懐いてくれてね、出会う度に嬉しくて、それで勝手に福ちゃんって呼んでたの。なんか幸運をもたらす感じで縁起がいいでしょ。あ の辺では有名な野良猫で、みんな黙って餌あげて面倒見てたと思う。それで意地悪な人が、『ねこに餌を与えるな』なんて張り紙貼ってけん制しててさ」
 澤田君は一点を見つめて何か考えこんでいた。
「どうしたの? また猫見つけたの?」
「いや、そうじゃないんだけど」
 その時、再度揺れを感じた。
「ああ、また揺れた」
 今度は錯覚とかじゃなく、確実に体に振動を感じた。
「さっきのより少し大きくなった揺れだったね」
 澤田君も浮かない顔をしていた。
「でも、あれぐらいはまだ揺れたって驚くほどでもなかったよね。家の前をトラックが通ったような振動だった」
「あっ」
 澤田君が驚いた表情を私に向けた。
「どうしたの?」
「猫、猫がいる。今なんか濡れた鼻を近づけて手を匂ってたような感じがした」
「ほんと?」
 猫は確実に私たちの近くにいる。私たちはあまり動いて怖がらせないように慎重に手探りした。ふと我に返って澤田君を見れば、ぷっと吹いてしまった。
「なんかこの格好だと、潮干狩りしてるみたいだね」
「田植えしているようにも見える」
 澤田君が返してきた。
 私もまた思いつく事を言ってみた。
「どぶさらいとか」
「じゃあ、川で洗濯」
 さらっと澤田君も想像を働かせる。
「落ち葉拾い」
 すぐに私も答えた。沢山思いついた方が勝ちみたいに思えてきた。
「ええっと、栗拾い」
 澤田君もむきになって思いつくまま言い合う。
「じゃあ、どんぐり拾い」
「それ、栗拾いと被ってるよ」
 澤田君が指摘する。
「被っても別物だからセーフ。だけど私たち、何をやってるんだっけ?」
「栗原さんがこの格好を見て笑うからだよ」
「そうなんだけど、ずっとこの格好してると段々腰が痛くなってくるね」
 私は背中を真っ直ぐにしてから、後ろにそれた。体の筋を伸ばしていたその時、ゴゴゴゴゴとまた揺れた。
「さ、澤田君」
 思わず澤田君の側に寄って無意識に彼の腕に自分の腕を絡めていた。
「だ、大丈夫だよ。揺れはそんなに強くないし」
「でも徐々に大きくなってるような気がする。どうしよう、澤田君」
 さすがに地震が頻繁に起きると、不安になってしまう。澤田君も一生懸命笑おうとするけど、顔が強張っていた。
「大丈夫だよ。大丈夫。この空間では物は落ちてこない。揺れても危険なものはないってことだよ。ちょっと落ち着こう」
 私たちは密着し、辺りを見回す。
 その時は何も変わった事がないと思っていた。
「あっ」
 また私が声を上げた。
「猫が足元にいたの?」
 澤田君が確認するために腰を曲げようとした。
「動かないで澤田君。今猫は私の足をすりすりしている」
「あっ、なんか聞こえる。ゴロゴロって猫が喉を鳴らす音」
 耳を澄ますと、低音でそれでいて小刻みに響く猫の喉を鳴らす音が聞こえてきた。
「本当にいるんだ、猫」
 私たちは顔を合わせた。
「でも、その姿が見えない」と澤田君。
「だけど、猫からは私たちが見えるんだよ」
「あっ、もしかしたら」
 澤田君ははっと閃いて、必死に考えをまとめようとしていた。その隣で私は固唾を飲んだ。
「これも仮説なんだけど、さっきから揺れてるのは、この猫と関係があるんじゃないだろうか」
「どういうこと?」
「猫は僕たちが見えてじゃれている。でも僕たちからは見えない。そのお互いが居るところの時空のズレが今、重なろうとしてこの空間が揺れてるんじゃないだろうか」
「あっ、なるほど。じゃあ、揺れが大きくなっているのは、もう少しで重なり合うってことなの?」
「かもしれない」
「じゃあ、この揺れは、元の世界に戻るために起こってるってことなんだ」
 私たちの顔がぱっと明るくなる。
 元に戻れる。それが近づいてきている。
「澤田君、やったね」
 急に力が抜けて、目が潤みだした。
「栗原さん、今猫はどうしている」
 先ほどまですりすりされていたけども、今は何も感じない。あまりにも喜びすぎて無意識で猫を蹴ったかもしれない。
「あっ、どこかに行ったみたい。どうしよう」
「大丈夫。きっとまだ近くにいるよ」
 そこで、また揺れが始まった。私は咄嗟に澤田君の腕を掴んだ。
「どんどん大きくなってる」
「これは猫のせいだよ。元の世界に戻れるチャンスなんだよ」
 私たちはいいように捉えようと必死だった。
「ここを出たら、澤田君と桜ヶ丘公園でお弁当もってデートする」
「そしてケーキを一緒に食べる」
 何かの呪文のように私たちは言い合った。
 澤田君は猫に触れようと腰を折って地面に手を向ける。私はその姿をくすっと見ながら見ていたけど、急に我に返ってすっと笑顔が消えた。
 澤田君の初恋の人は事故で亡くなってしまった。澤田君はその事故をなかったことにして、その初恋の人が生きていると思い込んでいる。でも私はその初恋の人じゃないし、この場合、澤田君にとったら私の存在はどうなるのだろう。
 そう考えたら、私は初恋の人に似ている事を利用して、澤田君の弱みに付け込んで入り込もうとしているんじゃないだろうか。
 最初はそれがすごい強みに思えたけど、事故の事を知ると納得しづらいものが出てくる。
「澤田君、まだその初恋の人のこと好き?」
 私の質問に澤田君は猫を探す動きを止めた。ゆっくりと立ち上がり私に振り向いた。
「えっと、そうだね。好き……」
 澤田君がそこまで言うと、私の心が少しずきっとした。告白して失恋したわけでもないのに、何か心をぎゅっと掴まれる苦しいものを感じる。
「……なんだけど、僕が彼女に執着するのは、勇気が出せなくて声を掛けられなかったことをとても後悔しているからなんだ。もし、僕が声を掛けていたら、少しでも何かがずれてたんじゃないかって思うんだ」
「じゃあ、私の事はどう思う?」
「えっ?」
 私ははっきりと澤田君の顔が見られなくて、すごくモジモジしてしまった。澤田君も対処に困っている。
「だから、私は澤田君のことが」
 そこまで言いかけたとき、また揺れた。今度の揺れはちょっと足元がおぼつかない。
「ああ」
 私がぐらつくと、澤田君は駆け寄ってきてくれて私を支えてくれた。
「大丈夫かい」
 気持ちを伝えたいと思っていたけど、中途半端になってしまってとても気まずい。どうしよう。はっきりと好きだと言ってしまいたいのに、喉に声が引っか かって出てこない。かぁっとする熱いものがドクドクと体の中を流れて、それが胸に溜まっていくばかりで苦しい。発散できない気持ちをかかえて、泣きそうに なってくる。
 揺れは収まったけど、私の感情は収まらない。
 澤田君も動きがぎこちなくなって、私に気まずい思いをしてそうだ。
「栗原さん、あのね、僕はずるいのかもしれない」
「えっ?」
「栗原さんが僕の初恋の人に似てるっていうだけで近づいてさ、それで調子に乗って仲良くなって、それがすごく楽しくてさ、なんていうんだろう、僕、今ではちょっと後悔してるんだ」
「何を後悔してるの?」
 私に声を掛けたこと? 初恋の人を想像して私と過ごしたこと? 澤田君の目を見ながら恐れていた。
「初恋の人に似ているって言って気をひきつけてしまったこと。そんなの関係なかった。栗原さんは面白くてとても楽しい人で、栗原さんと知り合えてとても嬉 しいと思ってる。僕は初恋の人と一度も話したこともなかったし、名前も知らないし、勝手に遠くから見ていて憧れていた人だった」
 澤田君は私をじっと見つめていた。そしてその先を続ける。
「憧れと、一緒に過ごして話した人とではなんか違うなって思う」
「それで?」
「えっと、栗原さんは本当に素敵な人だと思う」
「だから?」
「えっ? だから?」
「そう、だから、私のこと好きかって聞いてるの」
 とうとう我慢できなくて、思いっきり言ってしまった。昔から独占欲が強いから、はっきりとさせたくなってくる。自分の顔が赤くなってすごく熱くなってるのがわかる。
「えっと、その、えっと、それは」
 もしかして澤田君は私のこと好きじゃないのだろうか。やっぱり初恋の人の方がいいってことなんだ。
「そうだよね、即急すぎたよね」
「違うんだ。そうじゃなくて、ほら、前にもいったでしょ。僕は自分の事をカジモドだって」
 ああ、ノートルダムの梶本さん。
「カジモドには二つの意味があるんだ。ほぼ人間という不完全な意味と、白衣の主日といわれる宗教的な神聖な儀式をする日を表わしてるの。外面は不完全、で も内面は神聖でピュア。僕も、足を片方失った時、子供の時に見ていた『ノートルダムの鐘』を観直したんだ。その時に自分とカジモドが重なってさ、それでも 一生懸命生きていこうって思えるようになったんだ。だけど、僕はまだ成長してなくてしっかりしてないから、それで、簡単に好きだっていえなくて。ほら、 やっぱり僕、普通の人と違うし」
 澤田君は自分の足のことでコンプレックスを抱いている。そんなの気にしなくていいのに。私は外見よりも澤田君の内面を見て好きになったのに。
 私もつい、初恋の人が気になり過ぎて、澤田君に私の事が好きと先に言ってほしかった。そんなのじゃだめなんだ。好きという気持ちは自分から伝えないと。
「澤田君、だったら私が言う。私は澤田君が――」
 折角いいところだったのに、また揺れた。しかも今度はいきなり足元を救われて、立っていられない。
 その時、澤田君が二度叫んだ。
「ああ! ああ!」
「何、どうしたの」
「壁が、壁が」
「壁?」
 澤田君は両サイドを交互に見て我を忘れたように取り乱している。
 私も、同じようにまず片方に視線を向けた。
「ああ! 嘘!」
 すぐさま反対側も見れば驚かずにはいられなかった。
「ああ!」
 私たちは一緒に悲鳴をあげながら、自然と寄り添いあう。
「壁が、あの白い壁がどっちもこっちに向かってきている!」
 何事にも動じない澤田君が恐ろしいとばかりに叫んでいた。