初恋ディストリクト

 5
 ◇澤田隼八の時間軸

 春休みが続く限り、僕はここで栗原さんを待つ。栗原さんも同じようにここに来ていると強く確信していた。ふたりの思いが繋がれば、再びあの空間の入り口が開くかもしれない。
 僕が栗原さんの事をずっと生きていると思いこんであの事故をなかったことにしたように、心の中で別の世界線を創造すればそれが可視化されるかもしれない。
 僕はまだ栗原さんに告白してないし、約束したデートだって果たさなくっちゃならない。中途半端で終わらすわけにはいかないんだ。
 強く念じながら待っている時だった。婦人服店のお爺さんが店頭で僕に手招きした。
 僕は呼ばれていることに半信半疑で辺りを見回す。そしてまたお爺さんを見た。
「あんたを呼んでるんじゃ。そこにはあんたしかいないだろうが」
「はっ、はい」
 僕は慌ててお爺さんの元へと行った。ひょっこひょこしている僕の様子をおじいさんは不思議そうに見ていた。
「あんた、なんか足を引きずってるみたいだけど、怪我でもしてるのか?」
「ちょっと右足が義足でして」
 隠すことでもないので、ヘラヘラと軽く答えた。
「えっ、あんた若いのに、足を失くしたのか」
 おじいさんはびっくりして僕の足をみていた。大抵の人はびっくりするだろうけど、強面のお爺さんの眉根が下がって、別人のように思えた。もしかしたら顔で損するタイプじゃないだろうか。実際は気のいい人なのかもしれない。
「もう慣れましたから」
 こっちが変に気遣ってしまう。
「そうか、大変だったのう……」
 おじいさんは僕に同情し、気難しい顔つきがすっかり和らいで僕を優しく見つめる。そして心配そうに僕に問うた。
「昨日はデートをすっぽかされても、懲りずにまた待つのか?」
「はい。春休み中は彼女を待ちたいです」
「いつ来るか分からん彼女を待つか。まあ、それも青春なんじゃな」
遠い目をしてお爺さんは言った。
「あの、僕に何か用事でもあったんですか?」
「おお、そうじゃ、そうじゃ、ほれ、これ」
 お爺さんは僕に綺麗な包装紙に包まれた《《丸い》》ものをふたつ差し出した。
「えっ?」
「遠慮しなくてもいい。隣の和菓子屋さんが、時々売れ残ったお菓子をくれるんじゃ。そのおすそ分けじゃ」
「あっ、ありがとうございます」
 僕は有難くそれを受け取った。その時おじいさんが「ん?」という顔をして困惑していた。
「どうかされたんですか?」
「いや、なんか今、こういうのどこかであったような気がしてな」
「ああ、デジャブーって言うやつですね」
「そうなのか? なんか二回繰り返したような不思議な感覚だった」
 その時僕もハッとして、お爺さんのその言葉に引っかかりを感じた。
「とにかく、彼女とデートが出来るといいのう」
 お爺さんはもう言う事はないと、店の奥へと引っ込んでいった。
 人情味に溢れたいいお爺さんだった。頂いた和菓子を有難く思い、お爺さんの優しさに感謝した。
 大切に手にしながら僕も元の場所に戻った。一体何の和菓子だろうか。もらったお菓子を改めてじっくりと見つめたその時、「ん?」っと違和感を覚えた。
「あれ? 受け取った時は丸いお菓子だと思ったけど、四角だったけ」
 お爺さんの持ち方で丸く見えたのかもしれないし、僕が見間違えて丸いと思いこんでいたのかもしれない。手にした和菓子はどう見ても四角く包装されていた。でも何かが納得できないくらい引っかかっていた。


 ◇栗原智世の時間軸

 毎日同じ場所で立っていても、あの時の空間の歪みは現れる事がなかった。その間変わった事といえば、オリンピックが正式に一年延期になったことだ。
 全国の学校もいつまで休みになるのか世間では色々言われ出したけど、私の学校は新学期が延期されることなくいつも通りに始まる予定だ。
 そして世間のマスク不足から、総理大臣が各家庭に布マスク二枚の配布をすることを決めた。
 澤田君の世界線も同じことが起こっているのだろうか。
 そこでふと気がついた。こっちの世界線の澤田君はどうしているのだろう。それを考えたとたん少しドキドキとしてしまった。もしかしたら、もしかする。
 こっちの世界でも澤田君にとって私は初恋の人ですか。
 そうであってほしい。
 澤田君と出会うにはこっちの世界の澤田君を探せばいいんじゃないだろうか。それなら、新学期私と会えば澤田君は必ず反応してくれる。
 また一から出会えばいいだけだ。私は気を取り直し、学校に行く日を楽しみにした。

 ◇澤田隼八の時間軸

 毎日ここで待っていても、あの時のようにはならなかった。
 だけど栗原さんは僕のいる世界では見えないだけで、違う世界線では婦人服店の隣に立っていると僕は確信している。
 この間お爺さんがデジャブーを感じた時、僕はひとつの可能性に後から気がついた。
 もしかしたら、おじいさんは栗原さんのいる世界線でも栗原さんに同じ事を言って和菓子をおすそ分けしたんじゃないだろうか。
 ぼくたちはあのお爺さんを媒介して、お互いの世界線で同じ時間に同じ行動をしている。その重なりがあのおじいさんの感じたデジャブーなのではないだろうか。
 そして包装された丸い和菓子をふたつもらったと思ったけど、後で見直したら四角に変化していた。
 僕の見間違えなのか、それとも栗原さんは四角い和菓子を受け取って、それが後から僕の持っていた丸い和菓子から修正されたのかもしれない。
 これもマンデラ効果として、お菓子がパラレルワールドを移動してしまい変更された可能性があるかもしれない。
 そうであってほしいと僕は強く願う。


 ◇栗原智世の時間軸

 今日から新学期が始まった。学校ではマスクをしている人、まだ様子を見ている人とまばらだ。
 私はまだマスクはしたくなかった。澤田君に顔を見てもらわなければならないからだ。ぎりぎりまでマスクなしで頑張ろうと思う。
 始業式の日、校舎の入り口の壁に貼り出されたクラス分けが書かれた紙を前にして、一組から順に見て行く。
 澤田君とはできれば同じクラスになりたいと願い、期待して同時に探していたけど、私の名前は見つけてもそこに澤田君の名前はなかった。他のクラスを見ようとしたとき、後ろからポンと肩を叩かれた。
「智世ちゃん、同じクラスだね。よろしく」
 普段『栗ちゃん』と呼ばれているから、下の名前のちゃん付けに「えっ?」と思って振り返った。
「あっ、リミちゃん! 私と同じクラスなの? 『よろしく』って、私と仲良くしてくれるの?」
「当たり前でしょ。幼馴染なんだから。それとも私だと不服?」
「そんなことないけど、なんか新鮮味にかけるというのか」
「何言ってるの、私のお陰で命拾いしたくせに」
「あっ!」
 そうだ。あの時、リミちゃんからのメールで引き返したからバス停での事故に巻き込まれなかった。それをリミちゃんに伝えたから、リミちゃんも驚いてはいたけど、それはいつしかネタ的なものとして私たちは気軽に話していた。
 でも今はそれが違う意味となって悲しくなってくる。もうひとつの世界線では、私は事故に遭って死んでしまったことになっているのだから。
「どうしたのよ、智世ちゃん。大丈夫? なんか心ここにあらずって顔だよ」
「えっ、あ、なんかまだ休み呆けかな」
 私は何でもなかったことのように振舞った。
「春休み長かったけど、ちゃんと学校始まってよかったよね」
「うん。でもどこかみんな心配しているような雰囲気もあるね」
「仕方ないよ。世間は新型コロナウイルスだもん。だけどまだこの学校は大丈夫だよ。それに若い人は重症にならないって言ってたよ」
「そうだよね、心配しても始まらないね。もう学校に来てるんだから」
 こういうときこそ、いい方に考えるんだった。怖がってたら何もできない。
 教室に入れば、知ってる顔や初めて会う人など交じり合っていた。
「ねぇ、リミちゃん、一年のとき六組だった澤田隼八って知ってる?」
「ううん、知らないな」
「このクラスに六組だった人いないかな」と私が言えば、リミちゃんは大きな声を出した。
「一年の時、六組だった人いる?」
 みんながリミちゃんを振り返る。
「リミちゃん、そんな今訊かなくても」
 私がおどおどしている側で誰かが手を挙げた。
「あっ、俺、六組だったけど」
 喋った事はないけど、この人は目立つから知ってる。野球部の鹿島君だ。
 リミちゃんが私を見て早く訊けと目で催促した。私は仕方なく鹿島君に近づいた。
「あのね、澤田隼八って知ってる?」
「澤田隼八? 澤博則《さわひろのり》って言うやつなら居たけど」
「背が178cmあって高いんだけど」
「澤はそんなに高くないと思う」
「じゃあ、義足の人がいた?」
「義足? そんな奴いなかったけど、誰だ、澤田シュンヤって?」
 反対に訊かれてしまった。
 確かにあの時、同じ高校の名前を言って、一年六組だっていった。この世界では澤田君はこの学校に受からなかったの?
 選択は未来を変える分岐点。少しの違いが大きく左右する。
 また何かがずれている。この世界の澤田君に会うにはどうしたらいいのだろう。そうだ、親友の哲だ。
「ねぇ、哲って名前の人知らない? 澤田君の友達なんだけど」
「テツってこの学校に何人かいるんじゃないかな。だけど澤田シュンヤの友達なんだろ。この学校にいないのに、そんな友達もいないだろう」
 冷静に考えれば、そうなる。私は適当にお礼を言って鹿島君から離れた。
「智世ちゃん、澤田君って誰? なんで探してるの?」
「ううん、なんでもない。ちょっと勘違いしたかも」
「もしかして、恋バナかな? それだったら私聞くよ」
 リミちゃんは知りたそうに詮索してくる。でも正直に話したところで信じてもらえないだろう。
 本当はリミちゃんに全てを話してしまいたいけど、どうしてもできなかった。
 あの時の事は体験したものにしか絶対にわからない。その体験した私ですら、今は心揺れて本当にあったことなのかあやふやで自信ないというのに。
 この世界で澤田君を見つけたらどうなるのだろう。とにかく澤田君に会いたい。会ってからそれを考えばいい。
 まずはどうやって澤田君を探せばいいのだろうか。
 考えていると、早く会いたくなって気持ちが高ぶってきた。
 7
 ◇澤田隼八の時間軸

 今日は始業式だ。延期されることなく普通に始まった。
 学年ごとにクラス分けの紙が校舎の壁に張り出されて、人が集まっていた。遠慮がちに自分の名前を探していたら、ショートヘアーの活発そうな女の子と接触してしまった。
「すいません」
 僕はすぐに謝った。
「気にしないで」とあっさりと言った後、その女の子はすぐに自分の名前を見つけ、そこを離れる。その直後、僕の背後で誰かに名前を呼ばれていた。
「リミ、何組だった?」
 えっ、リミ? どこかで聞いたことのある名前だ。そう思って二人の会話を立ち聞きしていた。
「私は二組だった。芽衣ちゃんは?」
「私は一組。離れちゃったね」
 芽衣はがっかりしてたけど、すぐ他の人にも同じ質問をして、そこで同じクラスだと分かると、すでにリミの事は忘れたようだった。
 僕もそこで自分の名前が二組に入っていた事を知った。リミと同じクラスかと思い、彼女に振り返った。
 リミはひとりで立って、声をかけてきた芽衣を冷めた目で見ていたのでつい話し掛けた。
「あの、まさかだとは思うんだけど、栗原智世さんって知ってる?」
「えっ、知ってるも何も、幼馴染み……だった」
 最初驚いたけど、急に現実を突きつけられたみたいな悲しい瞳を僕に向けた。
 まさかこんなところで栗原さんの友達に会うなんて思わなかった。
「僕も栗原さんの友達なんだ」
 すでに仲良くなってるからそういったところで問題はないだろう。
「でも智世ちゃんは……」
「知ってる。僕もその時事故に遭ったから」
 リミは口元に手を当ててはっとした。
「じゃあ一緒にバスに乗ろうとしてあのバス停で待ってたんだ。もしかしてふたりはできてたの?」
 結構はっきりとモノを言う子だ。
「そうだったらよかったんだけど、まだ始まる前だった。でもあの事故がなかったら僕たちはきっと付き合っていたと思う」
 いいよね、栗原さん。君の幼馴染に僕の妄想を伝えても。
 僕が声を掛けていたら、栗原さんはきっと僕のこと好きになってくれてたでしょう。だから本当のことだよね。
 リミはこの上なくびっくりしていたけど、目が少し潤んでいた。栗原さんのことを思い出すと自然にそうなるのだろう。
「そうなんだ。智世ちゃんもすみに置けなかったんだ。それならそうと教えてくれてたらよかったのに」
「リミさんは栗原さんと仲いい友達だったの?」
 小学生の時、栗原さんは好きかと訊いて、半分より少し上って言われてショックを受けていたあのエピソードが思い出される。
「当たり前じゃない。大親友よ。小さい頃からずっと一緒だったんだもん。いいところも悪いところも知ってるし、喧嘩もしょっちゅうだったし、だけどいつも自然でいられた。あんな友達もう二度と作れないと思う」
 最初は子供同士の他愛ない付き合いで始まっても、月日を重ねたらまたかけがえのない友情が育っていく。そして失ってしまった後だから、それが大切なものだったと改めて気がついたのだろう。リミも栗原さんを失って嘆き悲しんだに違いない。
 僕たちは栗原さんのことを思い、一緒にしんみりしてしまった。
「おい、澤田、お前何組になった?」
 昨年同じクラスだった鹿島が側にやって来た。
 僕はリミに「またあとで」といって軽く頭を下げた。そして鹿島と合流する。
「お前、早速女子に声かけてるのか。この」
「そんなんじゃないって」
「で、お前、何組だよ」
「二組だけど」
「なんだ、また同じじゃないか。で、さっきの女子ももしかして同じクラスか?」
「うん」
「なかなか目立ってかわいい子だったじゃん」
「そんなんじゃないって」
「だったら、俺アタックしちゃうぜ」
 どこまで本気でどこまで冗談かわからない。でも鹿島はとても気さくで話しやすい。
 僕は彼女の幼馴染が好きなんだって鹿島に言いたかったけど、今はまだ全てを話せない。
 栗原さんはこの世界線にいないけど、栗原さんを知っている人がいた。また後で栗原さんの事を訊いてみたい。リミと話を共有することで思いが強くなってそっちの世界線の栗原さんとまた繋がれるんじゃないかって僕は期待している。
 僕はどこにいても君を思う――。
「澤田、何ぼんやりしてんだよ。もしかして悩んでるのか? もし足のことでからかわれたら俺に言えよ」
 鹿島は哲みたいに面倒見のいいところがある。
「大丈夫だよ。僕はこの足がかっこいいと思ってるから、反対に自慢してやるよ」
 僕の新しい義足が体の一部として段々と馴染んできた。
 僕はこの世界でも一生懸命生きていこうと思う。栗原さんとあんな冒険をしたからさらにパワーアップしたよ。
 学校の校庭の隅で桜の花が咲いている。風が吹くと柔らかく一枚一枚が次々と木から離れて舞っていく。散っていくのはもったいないけど、それがはかなげでありながらとても美しく、まるで僕の初恋に似ていると思った。


 ◇栗原智世の時間軸

 始業式が終わって、家に帰る前に思い立って、澤田君が私に初めて会ったと言われる場所に行った。中学校から下りてくるあの緩やかな坂道。あそこで澤田君とすれ違った。
 もしかしたらあの辺りに澤田君の家があるのじゃないだろうか。
 私は久しぶりに中学へ行く道を歩きながら、『澤田』の表札が出てないか辺りを見回した。こんな小さな町でも、一軒の家を探すのは至難の業だ。やはり思うように探せなかった。
 そんな時に『猫に餌をやるな』という張り紙がブロック塀に貼ってあるのを見つけた。きっとあのうるさそうな爺さんの家に違いない。
「福は私が引き取ったけど、この近所にはまだ猫がいるんだ」
 その張り紙をじろじろ見ていたら、キーというブレーキ音が後ろで響いた。あまりの不快恩に首をすくめた。
「あんた、わしの家の前で何しとる」
 振り返れば、やっぱりあのお爺さんだった。でもお爺さんは私の事は覚えてなさそうだ。
「あの、家を探してまして」
「家を探してる? 誰の?」
 お爺さんに言っても分からないだろうけど、とりあえず澤田君の名前を口にしてみた。
「おお、あの子か。あんた、あの子の知り合いか?」
 先ほどの居丈高な態度が和らいだ。
「まあ、そうですが。ご存知なんですか?」
「ああ、この町内のことだから、一応は」
「教えてもらえませんか」
「ああ、別にかまわんが。ここを真っ直ぐ行って、左に曲がってちょっと大きな通りに出たら、右に緩やかな坂をあがって、次の道を左に曲がった先にあるアパートだったはずじゃ」
 お爺さんが教えてくれたお陰で、位置が大体分かった。行けばわかるだろう。
「どうも、ありがとうございました」
 丁寧にお礼を言って、去ろうとした時だった。
「うーん、あれは悲惨な事故だったな。澤田さんもかわいそうに」
 きっと足を失った事故の事を言っているのだろう。
 適当にあしらって頭を下げて今度こそ去ろうとした時、お爺さんはしみじみと呟いた。
「一人息子さんだったのに、亡くなられてかわいそうに」
 それを聞いて私はハッとして顔を上げた。
「ちょっと待って下さい。澤田君は事故にあったけど、足を怪我したんじゃないんですか」
「なんか勘違いしとるようじゃな。あの事故はこの町中に広がって誰もがお気の毒にって思ったもんじゃった。わしも近所だったから告別式には行かせてもらった」
 そんな、嘘よ。この世界では澤田君が事故で死んだなんて。
 私はすぐさま走り去る。
 そんな事ってありえない、この世界に澤田君が存在しないなんて。
 感情に流されるまま無我夢中に暫く走って、息が切れた。立ち止まりはあはあとして前方を見れば、二階建てのアパートが目に入った。
 8
 ◇澤田隼八の時間軸

 栗原さんの世界では僕の存在はどうなっているのだろう。
 多分、僕があの事故の犠牲者になっているような気がする。栗原さんはあの事故で中高生の学生がひとり亡くなったと言っていた。
 栗原さんが事故に遭わなかったのなら、当事バス停で待っていた中高生と言えば、僕しかいなかった。あとは子供連れの母親や年寄り、僕よりも大人か子供がバスを待っていた。
 バスに乗らない選択をして遠ざかる栗原さんを僕は追いかけて移動したのかもしれない。その時、どこに自分が位置していたかで生死を分けたような気がする。
 あの事故がもし起こらなかったら、僕は栗原さんを追いかけて声をかけていたのだろうか。
 過去の事はどうしようもないけど、もし事故が起こらなかった世界線があるのなら、そこで僕たちは青春を謳歌していて欲しいと願う。
 また僕が強く願えば、そんな世界も存在しうるかもしれない。僕は晴れた青空を仰いでふと笑った。


 ◇栗原智世の時間軸

 激しく息をしながら、スマホを取り出してあの時の事故を検索する。この町の名前、バス停、事故とキーワードを入れるだけで、すぐに引っかかった。
『バス停に乗用車突っ込み一人死亡、二人けが』
 その見出しのリンクを息を整えてクリックした。
 徐々にスクロールした時、見たくないものが目に飛び込んだ。
『死亡したのは中学三年生、澤田隼八さん(15)。搬送先の病院で死亡が確認された』
 このニュースは当事私も近くにいたからとてもショックを受けた。そうだった、学生がひとり亡くなったことは覚えていた。事故を起こしたのは七十を過ぎた高齢者で、その後テレビでは高齢者の危険運転が暫く話題になっていた。
 澤田君の居る世界では、私はバスに乗る事を選んだために、私が犠牲者となって澤田君は足を怪我した。あの時の自分の選択が分岐点となって、ふたつの世界に分かれてしまった。
 そんなことって。
 急激に走った後の足の疲れが、ショックと共に今になって現れて私はがくっと力が抜けてしまう。よたついたとき、後ろから声を掛けられた。
「あの、大丈夫ですか。気分でも悪いんですか?」
 急いで私に駆け寄って、私の体を支えてくれた。買い物袋をさげているところをみると、近くのスーパーから戻ってきたところに違いない。
「すみません。ちょっと躓いただけで」
 顔をあげれば、女性が心配そうに覗き込んだ。その表情にハッとしてしまう。
「でも顔色が悪いわよ」
「私、その」
 その女性の顔を見ると涙がじんわりと目に集まってくる。
「どうしたの。やっぱり具合が悪いの?」
 このまま放っておけないと思ったのだろう。親身になって接してくれる。
 私には分かっていた。この人は澤田君のお母さんだ。だって澤田君に雰囲気が似ているんだもん。とてもすがりたい気持ちが強くなって、支えてくれたのをいいことに私はこの人の腕を抱きしめる。
「あの、澤田君のお母さんですよね」
 突然に尋ねたから、澤田君のお母さんも驚きを隠せなかった。
「あなた、隼八の友達なの?」
 半信半疑で私に訊いた。
「はい」
 返事をするとずっと我慢していた感情があふれ出して泣き出してしまった。
 澤田君のお母さんは私を支えて歩き出す。
「うち、すぐそこなの。あがっていって」
 ひっくひっくしながら支えられるままに私はついていく。
「狭いアパートだと思っていたんだけど、ひとりだと結構十分過ぎるものね」
 ドアの前で、鍵を取り出しながら澤田君の母親は呟いた。
 ドアを開け「入って」と言われて、私はそこで怖じ気着いてしまった。
「あの、澤田君のお母さん」
「沙耶子《さやこ》でいいわよ」
 親しみを込めた笑顔。私の母と年は変わらないだろうけど、母よりも若く見えた。
「沙耶子さん、あのその」
「遠慮することないわ。こうやって時が経っても隼八の友達が訪ねてきてもらえるのが嬉しい。あの子、男子校だったから、まさか女の子の友達がいるなんて思わなかったわ。あなたの名前はなんていうの?」
「あっ、すみません、申し送れました。栗原智世といいます」
「そう、智世さんね。さあ、あがって」
 玄関に入るとそこはすぐダイニングキッチンになっていた。奥にはふたつの部屋がある2DKと呼ばれる間取りだ。
「お邪魔します」と私は家に上がった。
 綺麗に整頓された清潔感があるけど、それがとても殺風景にも見えた。最低限の必要なものしかないのだろう。
 やかんに水を入れながら、沙耶子さんは言った。
「どうぞ奥に入って。隼八に会いに来てくれたんでしょ」
「失礼します」
 そういって居間に使われている部屋に入っていくと、そこには白い布に包まれた四角い箱と、とても素敵に笑っている澤田君の写真が台の上に置かれているのがすぐに目に飛び込んだ。
 私の知っている澤田君の顔よりも写真は少し幼い気がした。
 やかんに火をかけた後、沙耶子さんも居間に入ってきた。
「未だにずっと手元に置いているの」
 沙耶子さんはお線香を取りだしたので、私は遺骨の前に正座した。火をつけたあと炎が収まると煙がでるそれを私に手渡してくれた。それを香炉に差し私は手を合わせた。
 そうはしても私の心中はとても複雑だ。到底目の前のものが受けいれられない。
「隼八とはどこで知り合ったの?」
 沙耶子さんは質問してくるけども、私はどう答えていいのかわからない。
「あの、その、澤田君がこんなことになってるなんて信じられなくて」
「私もそうなの。こんなに時間がたっても、いつかまた隼八がひょっこり戻ってくるんじゃないかって思うわ」
「澤田君は生きています!」
 我慢できなくて私は叫んでしまった。
 沙耶子さんはびっくりしていたけど、その意味をいいようにとってくれた。
「そうね、隼八は心の中で忘れなかったらそれは生きているってことなのかもしれないわね」
「いえ、違うんです。私、別の世界の澤田君に会いました。別の世界の澤田君は事故で片足を失ったけど、とても前向きに生きてたんです」
「……」
 沙耶子さんはどう受け止めていいのかわからず、唖然としていた。
「信じてもらえないかもしれませんが、私、昨日澤田君と会って、色々話をしたんです」
 やはり唐突すぎたのだろう。沙耶子さんは言葉を失っていた。なんだか気まずくて私はモジモジしてしまう。
 沙耶子さんは私を見て困ったように眉根が少し下がっている。それでも様子を窺いながら、決して邪険にはしなかった。
「どんな事を話したのか聞かせてもらえる?」
 できるだけ穏やかに、沙耶子さんは接しようしている。本当はこんな突拍子もないことを言われて、私を追い出したいかもしれない。でもまだ気になる部分が大きかったのか、沙耶子さんは話が聞きたいと訊く耳を持とうとしていた。
「その、えっと」
 何から話していいのか迷っている時、視線をあちこちに向けているとテレビの台の棚の中にDVDがあるのに気がついた。『ノートルダムの鐘』って背表紙に書いてある。
「あっ、あれはカジモド。澤田君の好きなDVD」
 私が呟くと、沙耶子さんの表情に変化があった。
「子供の頃、あれを何度も観てたんですよね。澤田君」
「ええ、そうだったわ」
 事故にあってからも観直したといってたけど、それはこの世界では実現されなかった。
「智世さん、そのDVDにはノートルダムの鐘って書いてあるのに、どうしてカジモドって……」
「えっ、あの、澤田君、カジモドが好きだったので、それで」
 沙耶子さんの琴線に触れたように、目が見開いて驚いていた。
「あの子もね、そのDVDをカジモドって呼んでたの。何がそんなに面白いのか、私にはわからないんだけど、あの子なりに何かを感じて観ていたの。色んなか わいい、またはかっこいいキャラクターのアニメはいっぱいあるけど、こんなに現実的に醜いキャラクターが主人公なのが面白かったみたい。それでいて主人公 は純粋だから、応援したくなったのかもしれない」
「私が出会った澤田君は、事故で右足を膝の部分まで失ってしまって、義足をつけてました」
 私は沙耶子さんの様子を窺った。まだ困惑している。
「自分の姿をカジモドに例えて、足を失ってしまったけど一生懸命生きたいって、カジモドのようになりたいって、なんでも前向きに捉えてました。どんな困難もチャンスだって、絶対にめげないんです」
 沙耶子さんは正座をしながらぐっと体に力を入れた。震えるように、黙って話を聞いていた。
「私たち、不思議な空間に閉じ込められたんです。澤田君がいうには、パラレルワールドって言ってました。決して出会うことのない世界の私たちが出会ってしまった。澤田君の世界では私が事故に遭って死んでいたそうです」
 沙耶子さんが「はっ」と息を飲んだ。
「澤田君は私のことずっと前から知っていて、その……」
 ここまで言った時、沙耶子さんの気持ちが和らぐのを感じられた。
「あなたが、隼八の初恋の女の子なのね」
「えっ?」
 私は、ドキッとして顔を上げた。沙耶子さんは泣きそうになりながらも、笑みを浮かべている。
「ええ、隼八が亡くなったとき、友達の哲君が私に教えてくれたの。猫を通じて好きになった女の子がいる。ずっと話したいと思っていたけどなかなかそれができなくて、それで哲君が隼八を手助けしていたって」
「哲君……、あっ、澤田君の親友だ」
「信じがたい話だけれど、隼八が本当に別の世界で生きているのなら、私は嬉しいわ」
 どこまで私の話が本当だと思ったのかはわからないけど、少なくとも私に出会えた事は喜んでくれているのがわかる。
 沙耶子さんは私の手を取り「ありがとう」と言って、目じりから涙を一筋流していた。
「それと、あの、アルティメットおにぎり」
「あっ、それは」
「澤田君が子供の頃、ほうれん草が嫌いで、それを沙耶子さんが工夫しておにぎりに入れたんですよね。ほうれん草、梅干、ゴマ、粉チーズ。特に梅干は、はちみつ梅がおいしいって。そのおにぎりが一番大好きな食べ物だって。そしてお母さんの作る料理はとても美味しいって」
 沙耶子さんの目からぽたぽたと大粒の涙がこぼれていく。
「そのおにぎりの作り方教えて下さい。分量はどれくらい入れれば、澤田君の好きな味になるんですか?」
 沙耶子さんは気持ちが高ぶってとうとう泣いてしまった。今までもたくさんたくさん泣いてきただろうけど、その泣き方は悲しいというよりも、嬉しくて泣いているように見えた。
「ええ、いいわよ。だったら、今から一緒に作りましょう」
 台所ではやかんから沸騰した蒸気が勢いよく立っていた。そんな事はもうどうでもいいかのように、私たちは澤田君の写真を一緒に見つめた。
 沙耶子さんからエプロンを借りて手を洗った後、私たちは一緒に台所に立った。
「おにぎりだから、そんなに難しくないんだけどね」
 沙耶子さんはカップでお米を計り、それをボールにいれた。
「えっと、お米はまず二カップですね」
 それを見て私は確認する。
「まずは、作りやすい分量ね」
 沙耶子さんはそういって、手早くお米を研いでいた。それを炊飯器に入れ、暫く浸水させた。
「次はほうれん草をゆでます」
 予め鍋に水を入れ火にかけていたものがぐらぐらと湧き上がっていた。塩を入れて洗ったほうれん草を鍋に放りこむ。
「大体どれくらいゆでるんですか?」
「一分程度でいいのよ」
 沙耶子さんの手は白くて、指先が細く綺麗な手だった。澤田君がお母さんの料理が美味しいって言う意味が、その手を見ているだけで伝わってくる。
 ほうれん草は鮮やかな緑色をして茹で上がり、それを冷水につけた。そして白い手はほうれん草をぎゅっと搾る。絞った後はまな板の上に置いた。今度はそれを細かく切っていく。途中まで切ったあと、手を止めた。
「智世さんも切ってみる?」
 何もしないで退屈していると思ったのかもしれない。
「はい」
 沙耶子さんのようにスームズに手元が動かないけど、ゆっくりと切っていく。沙耶子さんはとても温かく私を見守っていてくれた。
 もう少し、お米に水を吸わせたかったけど、時間の関係で、炊飯器のスイッチを入れた。軽やかなメロディが鳴っていた。
 出来るだけ細かくといわれたので、ほうれん草のみじん切りに奮闘していると、沙耶子さんは冷蔵庫からタッパーを出した。蓋を開けると梅干が沢山入っていて、口の中が酸っぱく感じた。
 一粒が大きくて、果肉がとてもやわらかそうだ。優しい杏色をしていて、これははちみつ梅に違いない。
「梅干はいくつ使うんですか?」
「そうね、この大きさだと三、四個くらいかがいいかな。梅の果肉次第ね。ペースト状にして大体大さじ二杯くらいあればいいの。隼八は沢山入れた方が美味しいっていってたわ」
 細かく切ったほうれん草、梅干のペースト、粉チーズ、最後に胡麻を用意した。
 ご飯が炊き上がるまでまだ時間があった。その間、沙耶子さんとテーブルについてお茶を飲んで話をした。
 沙耶子さんが不思議な空間での澤田君と私の話を聞きたがったので、最初からどういう経緯でそれが起こったのか話した。
 沙耶子さんはまだ半信半疑だったけど、澤田君の事を話したとき、納得いくものが多々あって、時々涙ぐみながらとても興味深く聞いていた。
「また隼八に会えるときがあるのかしら」
 沙耶子さんも会いたいに違いない。会えば私の話が本当だったと信じてもらえるはずだ。でも私にはわからない。私だってまた会いたし、できることなら七夕 のように一年に一回でもあえる機会があればいいのにとも思う。でも私の中ではすでにあのようなことが起こるにはかなり難しいと思っていた。
 私が返事に困っていると沙耶子さんも察したみたいだ。
 丁度その時、ご飯が炊き上がった知らせの音楽がなった。
「あっ、焚けたわ。この熱々をのがしちゃだめなのよ」
 沙耶子さんはさっと立ち上がり、炊飯器の蓋をあける。熱々の水蒸気がもわっと立ち上がった。
 しゃもじで炊き立てのご飯を軽くかき混ぜてから、布巾をつかって炊飯器からお釜を取り出した。
「智世さん、そこにある寿司桶をテーブルに置いて」
「はい」
 手巻き寿司で使う小さな桶だった。
 沙耶子さんは寿司桶にお釜をひっくり返す。
「さあ、熱いうちに材料を入れるわよ」
 楽しそうに微笑む。
 その中に刻んだほうれん草、ペースト状の梅干、大さじ二杯ずつの粉チーズと胡麻を入れた。それを素早くかき混ぜる。
 ほうれん草の緑と梅干の赤味がコントラストに綺麗だ。そこに粉チーズが熱さに溶けて糸を引き出した。胡麻は時々キラキラときらめくように顔を覗かせる。とても賑やかにそれらは混ざっていった。
 そういえばまだお昼を食べてなかった。お腹が空いたのを思い出すようにグーッと鳴り響いた。
 沙耶子さんはクスッと笑う。まだ炊き立てで熱々なのに、手に水をつけて、おにぎりを握り出した。
 手のひらが赤くなりながらご飯を転がして三角に握っていく。握り終わるとすぐに私の目の前に差し出した。
「いいんですか?」
「もちろんよ。お腹空いているんでしょ」
「ありがとうございます」
 私はそのおにぎりを手にした。
 澤田君の大好きなアルティメットおにぎり。澤田君はどんな顔をして食べたのだろう。私は澤田君を思い浮かべながらがぶっと勢いよく噛んだ。
 はちみつ梅の甘酸っぱさと、チーズが混ざり合うハーモニーは酸っぱさの中にコクがあるうまみを感じる。そこにプチプチとした胡麻の触感。ほうれん草は梅とチーズの塩気と混ざり合って、癖のない葉っぱにとても味がよく絡んでいた。
「うわ、おいしい」
「そう、よかった」
 沙耶子さんは次々におにぎりを握っていく。そのひとつを小さなお皿に入れて、澤田君の前にもお供えした。
 私も、澤田君の前に座って、畏まって一緒に食べた。
「美味しいね、澤田君」
 じんわりと目頭が熱くなりながら、しっかりと味わって咀嚼した。
 9
 ◇澤田隼八の時間軸

 初恋を桜の花のように例えたあと、僕はその桜が咲き誇る桜ヶ丘公園へ行きたくなった。そこは栗原さんと僕のデートする場所になるはずだった。
 栗原さんが何度も僕とデートしたいといってくれて、僕は素直にそれを喜んだ。僕が初恋の人に似てるなんていったもんだから、栗原さんも僕を意識してしまったところがあったと思う。
 僕はあのとき、栗原さんが本当の僕の初恋の人かもしれないという疑念が拭えなかったのと、いや、やっぱりそうじゃないと否定もして、あの状況の中とても困惑していた。
 実際は本人だったのだけど、それがわかったところで僕たちの存在する世界線が違うから、その初恋は自分の世界では成就させる事ができない。
 でも僕はあの空間で、全てを全力で受け止めた。そこで出来る限り僕たちは楽しんだし、そこは誰にも邪魔されない僕たちだけの世界だった。まるで僕の初恋のやり直しをするためにチャンスを与えられたようにも思えた。
 その空間も限りというものがあって、広がってから狭まっていく過程は時間制限を表わしていたのかもしれない。終わってから色々と思うけど、実際はどんな法則があったのかは知る由もない。それでも精一杯に僕は栗原さんと向き合えたと思う。
 ただ好きだと栗原さんにちゃんと言えなかったことが悔しいけど――。
 栗原さんも気持ちが高ぶったことが何度もあって、僕からの言葉を待っていたような気がした。でもその時、初恋の人に似てるからという動機で、栗原さんに押し付ける事は憚られたし、そのときになって僕はちっぽけな存在に思えて怖じけた。
 僕の初恋はあまりにも苦くて深く傷ついて泥のようにぬかるんでいた。その中に僕は右足を置き去りにしていたから、いざという時になって臆病になってい た。頭でこうすべきだと分かっていも、それを行動するには勇気がいると思う。最初の一歩から全力で攻めて、力強く飛び立つまで迷いがあった。
 ずっとなかったことにしていたけど、僕はあの事故と向き合おうと思う。
 僕は本当のところ、あの事故が怖くてたまらなかった。思い出すと、動悸がして倒れそうになっていた。失ってしまったものがあまりにも大きくて、それを認めたら憤って気が狂いそうだった。ずっと恨んで殻に閉じこもって何も出来なかったと思う。
 だから僕には栗原さんが必要で、栗原さんは生きているって思っていた。それが僕の唯一の生きがいだったから。
 でももう大丈夫だ。栗原さんは生きている。そして僕はまた彼女に恋をした。二度目の初恋は透き通るように美しく、全てが浄化されていった。

 始業式が終わった後、リミと少しだけ栗原さんの事を一緒に喋った。そこに鹿島が割り込んできたから、それ以上話せなくなって、でもリミと鹿島はなぜか意 気投合し、気晴らしにどこかへ行こうということになった。僕も少しだけ付き合ったけど、途中で抜けた。あのふたりが僕をきっかけで仲良くなるのなら僕はこ の世界で大事な役割を担ったんだと思う。
 僕は今、桜ヶ丘公園をゆっくりと歩いている。手には苺のショートケーキがふたつ入った小さな箱を持ち、桜の花びらが舞う中を栗原さんを思い浮かべている。
 小さい子供と母親が桜の木の下でボール遊びをしていた。その側で白い毛がもじゃっとした小型犬が舌を出してハッハしながら見ていた。まるで笑ってるみたいだ。
 僕の足元にボールが転がってきたので、それを手にして軽く投げ返した。
「どうも、すみません。ありがとうございます」
 母親が丁寧にお礼を言った。
 僕はどういたしましての変わりににこっと笑って頭を下げた。
 桜ヶ丘公園はなだらかな丘に渦巻きを描きながらてっぺんに続いている。もちろん桜もこの丘いっぱいに植えられて、この季節はピンク一色に染まって綺麗だ。今が丁度見ごろだ。
 ところどころでお花見をしている人たちもいる。今年はお花見を自粛してほしいといわれていたが、そんなの関係なしの人もいる。ほんの数組程度だから、密にはなっていない。こんないい天気に一番見ごろな桜を見ない方がもったいない。
 時々犬の散歩をしている人とすれ違う。僕の持っている箱が気になるのか、くんくんと匂いをかぎに来た。飼い主さんが「これっ」て叱ってたけど、僕は全然嫌じゃなかったから「いい犬ですね」と褒めた。自然と知らない人と話せるようになったと思う。
 丘の上のてっぺんに来た時、白い大型犬が桜の木に向かって吼えていた。飼い主の女性は「やめなさい。もう十分でしょ」と繰り返し言ってリードを引っ張っていた。だけど犬は吼える事をやめなかった。
 何かがいるのかなと僕も気になって近づいた。


 ◇栗原智世の時間軸

 沙耶子さんは残ったふたつのおにぎりをラップに包んで私にくれた。
「あのね、智世さん、おにぎりだけど、実はあれ、雑誌に紹介されていたの。だから私が考えたわけじゃないの」
 最後に恥ずかしそうに教えてくれた。
「でも、澤田君の好き嫌いを失くしたくて、一生懸命何を作ろうか悩んで、それで色んな料理雑誌を見たんだろうなって思います」
「ええ、そうだったわ」
 沙耶子さんは懐かしむように微笑んでいた。
「今日は突然お邪魔してすみませんでした」
「いいえ、こちらこそ、来てくれてありがとう。そして隼八を好きになってくれてありがとう」
 沙耶子さんは私を抱きしめてくれた。
 ふんわりとしたやさしい匂いがする澤田君のお母さん。澤田君の優しさと被る。
 年が離れているけど、沙耶子さんとこれからも友達でいたいと思った。
「また遊びに来てもいいですか」
 厚かましくも私は尋ねた。
「もちろん大歓迎よ。また一緒に料理しましょうね」
「はい、ぜひ教えて下さい」
 澤田君が好きなものや、いつも食べてたものを私も作ってみたい。
 また会う約束をして、私は沙耶子さんと別れた。
 鞄に入ったおにぎり、澤田君の大好きな味。今それを手にしている事がとても嬉しい。
 空を見上げれば、今日はいい天気だ。桜ヶ丘の桜も見ごろに違いない。そこに行ってこのおにぎりをまた食べてみようか。
 本当なら私と澤田君がデートするはずだった場所だ。それが叶わなくなったけど、ひとりでも行かなくっちゃ。

 桜ヶ丘公園は優しいピンク色に包まれてお伽の国のようだ。風が吹くと桜がそよそよとなびいて、花びらが時々ふわっと舞っていく。
 優しい時間がゆっくりと流れて、桜の木の下で母親と小さな子供が犬に見守られながらボール遊びをしていた。子供も犬もかわいいなと見ていたとき、ボールが私の足元に転がってきた。
 それを拾って、子供に向かって転がした。
「どうもすみません。ありがとうございます」
 母親は丁寧にお礼を言った。
「どういたしまして。お子さんも、犬もかわいいですね」
 褒めると、お母さんは嬉しそうにはにかんでありがとうの意味で頭を下げていた。
 なだらかな坂をゆっくりと歩きながら、桜を堪能していた。途中、犬を散歩させている人たちと会い、人懐っこい犬が私を見て、遊んでほしそうに尻尾をふった。
 私はにこっと微笑み返してすれ違った。
 お花見している人たちも少なからずいる。もしかしたら週末は自粛と言われていてもそんなの無視してここにやってくるのかもしれない。
 ぐるぐると回りながら丘の上まで歩けば、結構な運動量だ。苦にならなかったのは、桜が綺麗で見ているのが楽しかったからだ。
 頂上が近づくと、上の方から犬の吼える声が聞こえる。てっぺんについてみれば白い犬が桜の木に向かって吼えていた。大型犬だから声が太い。飼い主の女性はリードを引っ張って、「やめなさい。もう十分でしょ」と何度も言っているけど犬は言う事を聞きそうにもない。
 何かがいるのだろうか。近づいて様子を探ってみた。
「こんにちは、そこに何かあるんですか」
 私が声を掛けると、女性は困った表情を向けた。
「何かを見つけたみたいに急に吠え出したんだけど、私が見ても何もなくてね」
「犬は繊細だから、細かい何か見つけたのかもしれませんね」
「私も注意深く何度と見たんだけど、やっぱり何もないのよ」
 散った桜の花びらが地面を多い、そこはピンクの絨毯になっていた。
「もういいでしょ。帰るよ」
 女性はリードを無理にひっぱり、犬をそこから引き離す。私に一礼をして、犬をひきずって丘を降りていった。
 犬は何回か振り返っていたけど、そのうち諦めて丘を下りて行った。
 ここに何か埋まっているのかなと落ちていた枝を拾って突いたとき、そこに散らばっていた桜の花が幾分消えたように見えた。
 風が吹いて飛んでいったのだろうと思っていたら、次に地面の土も小さくほじくったような穴が出来ていた。
「ええ、虫がいるの?」
 何かが明らかにここでうごめいている。どんな虫が出てくるのか暫く見ていた。
10
 ◇澤田隼八の時間軸

「そこに何かあるんですか?」
 僕が訪ねると、女性は振り返り困った顔を僕に向けた。
「何かを見つけたみたいに急に吠え出したんだけど、私が見ても何もなくてね」
「でも何かあるから吼えるんでしょうね」
「私も注意深く何度と見たんだけど、やっぱり何もないのよ……あれ?」
「どうかされました?」
「いえ、なんかこんな風に前にも誰かに言ったことあったなって思って」
「えっ? それってデジャブーですか」
「そんな感じかな」そういって頼りなく笑った後、「さあ、もういいでしょ。帰るよ」と犬のリードを引っ張って無理に歩かせようとした。
 僕に一礼をすると、さらに強く引っ張って犬は連れて行かれた。
 犬は納得がいかないと抵抗しながらこっちを振り返っていたけど、そのうち諦めて真っ直ぐ丘を下りていった。
 あの女性が感じたデジャブーが引っかかる。もしかしたらまた変化が起こるかもしれない。
 僕も何かこの辺りに不思議な要素があるような気がして、そっと木に触れてみた。何かの変化を期待したけど、特別に著しく違いがわかるというわけでもなかった。さらに詳しく観察をしてみる。
 小枝を拾い、桜の花びらが落ちている木の根元を軽く擦ってみた。そして木の根元の地面に小枝を差し込んでみたけど、虫がいるわけでも、何かが埋まっているわけでもなかった。
 その時、目の前で桜の花びらがひとりでにかき集めたように盛り上がった。
「えっ」
 ぼくはそれを手で払いのけた。
 するとそれはまた同じように集まって盛り上がった。
「どうなっているんだ?」
 そこで僕はさらに桜の花びらをかき集めてハートの形にしてみた。
 するともうひとつ隣にハートの形にかき集められたものが出来上がっていた。
「まさか」
 僕ははっとした。


 ◇栗原智世の時間軸

 地面に小さな穴が開いたから、虫が出てくるのかと思ったけど、何も起こらなかった。
 そこだけ桜の花びらが取り除かれたので、私はふさぐように周りの桜の花びらをかき集めてみた。それなのに、風が吹いたようにさっとはらいのけられてしまった。
 どういうことだろう。
 もう一度同じようにかき集めた。今度はそれがひとりでにハートの形になった。
 あまりにも不自然でどうみてもそれは人工的に作られている。もしかしたらと思い、私はその隣にもうひとつハートの形を作ってみた。
 やがてそれはまたひとつになって、大きなハートが出来上がった。やはりこれは誰かがここにいる。
 私は辺りを見回した。
「澤田君なの?」
 でもなんの反応もなかった。だけどきっと澤田君に違いない。
 同じようにこの場所で桜を見に来ている。ここで私たちがデートする約束をしたのだから、絶対そうに違いない。
 なぜだかわからないけど、今ここは澤田君のいる世界線と繋がっている。
 私は鞄からおにぎりをひとつ出し、ハートに型どられた桜の花びらの上に置いてみた。
 そして私は強く願う。この場所で澤田君と私がする予定だったことを。
 私たちはここでデートをして、一緒にお弁当を食べる。
 目を瞑って手を合わせて、祈るように強く念じた。
 11
 ◇澤田隼八の時間軸

 僕は確信している。
 商店街で栗原さんを待っているときに婦人服店のお爺さんが僕に饅頭をくれた。その時おじいさんはデジャブーを感じた。
 そして僕が渡された饅頭も丸く包装されていたものから四角いものに変わった。あのとき、ズレが起こってそれが栗原さんの世界線と少しだけ交わった。
 ここで犬が鳴いていたのも動物が感じる特別なセンサーが空間の歪みの感知をしたに違いない。それを裏付けるように、飼い主が感じたデジャブー。あれも栗原さんが同じように犬が吼えていることに疑問を持って訊いたのだろう。
 今ぼくたちは同じ場所にいて、この桜を見ている。この場所に栗原さんが来ている。
 桜の花びらを集めて象《かたど》られたハート。僕はそれをじっと見ていた。この狭い範囲だけが今あちら側の世界線と交わっている。
 なぜそれが起こっているのかと考えた時、この場所で僕たちはお弁当を食べる世界線があったのかもしれない。それは事故の起こらなかった世界線。
 もしそうだったとしたら、僕は栗原さんに声をちゃんと掛けられたんだと思う。そのいくつかの僕たちの重なりがここに奇跡を起こしている。
 きっとそうに違いない。
 それを強く信じて、僕はその桜のハートの上にケーキの入った箱を置いた。


 ◇栗原智世の時間軸

 私が目を開けたとき、そこには白い小さな箱が置かれていた。
「うそ!」
 あまりにもびっくりして、誰かのいたずらなのかと辺りを確認した。周りには人がいない。
 時折り、スズメがちゅんちゅんと戯れて、桜の花がひとつふたつと間隔をあけてこぼれていた。
 とても静かな午後。そこに突然現れた白い小さな箱にドキドキしながら中を覗けば、ふんわりと絞った白いクリームの上に赤い苺がのったショートケーキがふたつ入っている。
「これは……」
 ケーキをふたりで食べる約束も澤田君は覚えてたんだ。
 私は桜の木を背後にして地面に座り込んだ。隣に置いた箱からひとつケーキを取り出す。
「ひとつで十分だから、残りは澤田君の元へ戻ってください」
 ケーキを手にして、頭上の桜を見上げながら言った。
 12
 ◇澤田隼八の時間軸

 ケーキの箱がグリッチのように歪んですっと縮んだ。でもそれは消えずにそこに何かが形を変えて現れた。
 ラップに包まれたおにぎり。具の混ざり具合で僕の大好きなものだとすぐに分かる。僕は辺りを見回し、時空の歪みの何かに触れられないか手当たり次第に手を伸ばした。何の感触もなく、桜の花びらの上におにぎりが転がっているだけだった。
 僕はそれを手にして桜の木の下に座り込んだ。今ここは確実に栗原さんの世界線と交わっている。両手でおにぎりを包み込み、じっと目を瞑る。気配だけでも感じられれば、五感を研ぎ澄ませた。
 空間の歪みはシャボン玉のようだ。それは大きくなってやがて消えていく。気まぐれか、何かの条件が重なった時なのか、それは分かりようがないのだけど、ここもきっと、そうであるようにいずれ消滅するのだろう。
 すぐ側に栗原さんがいると分かっているのに、会えない程遠い場所。やっぱり何も感じ取れない。
 そして再び目を開けた時だった。
「あっ」
 またケーキの箱が現れた。蓋が開いたままで、ケーキがひとつ減っていた。
 この一箇所は小さい範囲ではあるけど、その分交わる力が濃縮されているのかもしれない。
 僕が椅子を取り出したとき、あれは猫が僕の足に触れた後、空間を移動していたときに起こったことだった。ここで同じようなことが起こっているとしたら――僕ははっとした。
 桜の木の枝にスズメがいる。確かスズメは桜の花をちぎりとって花の蜜を吸うと聞いた事がある。だから木の下に桜の花を落としてしまう。この中に空間を移 動したスズメがいて、桜の花びらをここに落とした。空間を移動したスズメが触れた桜の花にまた物が触れたら、今この空間だけ物の移動できるのかもしれな い。
 でもその移動できるものの大きさや条件は限られているのだろう。人間も可能なら、とっくに僕か栗原さんの移動があるはずだ。
「栗原さん」
 せめて僕の声が届けばいいのに。もどかしくて奥歯を噛み締めた。
 手に持っていたおにぎりを見つめ、ぼくはラップをはがしてそれを一口食べた。母が作るいつもの味だ。もしかしたら栗原さんは僕の母を見つけて作り方を聞いたのかもしれない。
 僕が食べていると、頭上からちゅんちゅんとスズメの声が聞こえた。人に慣れているように見えるのは、ここでお弁当を食べる人たちからおすそ分けを時々もらっているのかも。僕も少し米粒を投げてみた。やっぱりスズメはそれを狙って下りてきた。

 ◇栗原智世の時間軸

 ケーキの箱がまた消えていた。やはり繋がっている。その仕組みは全く分からないけど、私も澤田君の世界線に行けるのかと思えば、それは無理なことだと感じた。
 空間の歪みに入ったとき、澤田君曰く、そこはどこの世界線にも属さないオリジナルの場所だった。だから私たちはそこに一緒に居られた。
 再び路地が通れるようになった時、自分が通った道、すなわち自分の世界線にしか帰れなかった。だから私たちはお互いの世界線には入る事ができないのだと思う。
 あの空間は初恋が実らなかった澤田君が作り出したものだと思う。だからあの現象はもう起こらない。だって私は澤田君のこと好きになってるから、初恋は実ったということになるのだから。
「澤田君、初恋が実ってることに気づいてますか?」
 あの空間に制限があったように、この小さな時空の歪みもいつしか消えていくのだろう。
 折角側にいるのが分かってるのに、どうすることもできないなんて。
 私は手に持っていたケーキのフィルムをはがし、そしてぱくっと口に入れた。
 あっさりとした生クリームが舌の上でとけるようだ。柔らかいスポンジとスライスされた苺の甘酸っぱさが混ざり合ってとてもおいしい。
 澤田君、おいしいよ。
 その時、私の隣で異変が起こった。
 おにぎりを持った澤田君が隣で座っている。
 澤田君もびっくりして私を見ている。でも反対側の手で、人差し指を立ててそれを口元に持ってきた。
 それは私に静かにしてほしいと意味している。そして足に向かって指を差した。
 澤田君の伸ばした足にはスズメが一羽とまっていた。
 理由はわからないけど、澤田君が突然現れたのはこのスズメが原因かもしれない。
 だけど、澤田君のビジョンはとても淡く、今にも消えそうに弱々しい。なんてはかない戯れだろう。でもまた澤田君に会えて嬉しい。
 澤田君、澤田君、澤田君! 何度も名前を繰り返してしまう。
 ああ、この瞬間、澤田君に伝えないと、私の気持ちを――。


 ◇澤田隼八の時間軸

 スズメが僕の足に乗ってきた。そのとき、僕が柔らかいものに包まれて圧迫されるような衝撃を感じた。ぷるんとした膜で覆われたような感覚だ。
 隣にケーキを持った栗原さんがいる。はっとしたけど、大声を出してはいけないと思った。スズメが逃げてしまうかもしれない。すぐにそれを栗原さんにも知らせる。
 これはスズメが僕を空間の歪みに招いている。あのスズメの足の爪が僕のズボンを掴んでいる。スズメが居なくなれば僕は消えるだろうし、その前にこの空間の歪みが消滅しても同じことになるだろう。
 栗原さんがこんなに近くにいた。
 栗原さんが焦るように何か言いたそうにしている。もしかしたら僕はすでに消えかかっているのかもしれない。
 僕が消える前に早く気持ちを伝えないと。
「君が好きだ」
 ゆっくりと口を動かしながらそっと声を出した。
 でも栗原さんは「ん?」と眉間に皺を寄せた。
 もしかしたら声が届かないのかもしれない。
 それなら、もっと明確に口の動きだけでわかる言葉を言わないと。
「す・き」
 これでわかっただろうか。
 栗原さんも頷きながら僕と同じ口の動きをしてくれた。
 僕たちは胸がいっぱいになりながら、お互いをじっと見つめる。
 栗原さんは手を伸ばすけど、そこには見えない壁が存在するようだ。やっぱり簡単にはいかないんだ。
 でも僕は今、君を見てるよ。
 もう一度、言うよ。
「すき、だいすき」
 栗原さんの琥珀の色の目から涙が滲んでいる。
 僕も泣きそうになったけど、それよりも僕の笑顔を見てほしくて、僕はぐっと我慢する。
 僕たちは遠いところに存在しているけど、案外と心は近くにあるのかもしれない。
 ねぇ、栗原さん、僕はデートすることもケーキを一緒に食べることも約束は全部叶えたよ。
 そして僕の初恋も……。

   澤田君に気持ちを伝えようとした時、澤田君の方から何かを言ってきた。でも声が聞こえない。もどかしい気持ちで困った顔になっていた。
 今、なんて言ったの。
 またゆっくりと口が開く。
 唇が萎んでから横に大きく伸びる。
 これは『すき』だ。
 そっか、さっきはもしかしたら『きみがすきだ』だったのかも。
 私も「すき」とゆっくりと同じ動きを返した。
 やっと気持ちが伝えられた。澤田君に触れたい。私は手を澤田君に向かって差し出したけど、そこには見えない壁が存在した。まただ。
 ペタペタとそれを触れた。お願い、壁なんかで邪魔しないで。
 澤田君がまた口を動かす。
「すき、だいすき」
 胸がいっぱいになって涙が溢れてくる。澤田君の優しい笑顔がぼやけてしまう。
 いつだって澤田君は笑っている。この先もずっとそうなのだろう。
 だったら私も笑っていたい。精一杯の笑顔を澤田君に向けた。
 見えない壁に向かって手のひらを押し付ければ、澤田君も同じように私の手に合わせるように重ねてきた。
 澤田君を思う気持ちが私の胸を苦しいほどに締め付ける。
 澤田君、澤田君。
 何度も彼の名前が思いの中でこだまする。
 消えないで、お願い消えないで。そう思っていても、やがて澤田君は水面《みなも》に落とした雨の滴のように、静かに揺らいでそして水の泡のごとくその姿をすぅっと消してしまった。
「あっ」
 どうすることも出来ない気持ちが喉の奥で反射した。ぐっとお腹に力がこもり、体が震える。
 澤田君の笑顔の残像が私の隣で暫く残り、私は胸を締め付けられて動けない。泣き叫びたいけど、奥歯をかみ締めてそれに耐えていると、ゆっくりと桜の花びらが舞い落ちてきた。
 見上げた頭上では優しいピンク色がそよそよと風に揺られていた。まるで私の寂しさを慰めようとするようにそれはとても優しく感じられた。
 私は手に持っていた残りのケーキをしっかりと口に頬張る。クリームは澤田君が私を思う気持ちのようにとても甘く、そして苺は切なさが混じって甘酸っぱかった。
 また桜の花びらが風に乗ってひらひらと舞落ちてくる。手のひらを広げてそれを一枚すくった。薄っすらとしたピンクのかわいらしいそれは、小さなハートのようにも見えた。
 暫くそれを見つめた後、私は息を大きく吸ってそして手のひらに乗ったそれを澤田君に届けと力いっぱい吹き飛ばしていた。

 了


参考文献
ディズニー・アニメーション「ノートルダムの鐘」

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