初恋ディストリクト


 パーティのその日、直接開催されるホテルのロビーで哲と待ち合わせをした。先に来ていた哲は僕を見るなり、手を振って呼んだ。
「こっちだ、隼八」
 僕はたくさんいる人にぶつからないようにしながら駆け寄った。
「うわぁ、こんな立派なホテルのパーティだなんて緊張するな」
「別に大丈夫だよ。とにかく今日は初対面の人と話す事に慣れようぜ」
「初対面っていっても、みんな大人でビジネスマンなんだろ。中学生の僕たちがそんな人と気軽に話しても大丈夫なのかな」
「この場所にいるということは、みんなが会社の関係者っていうことさ。例え俺たちが中学生であってもだ。ほら、これ首からかけとけ」
 哲はゲストと書かれたタグがついた紐を手渡した。僕たちはそれを身につけてパーティ会場へと向かった。
 重いドアを開けたら、まぶしい光が目に飛び込んで、思わず目を瞬いた。たくさんの大人たちが小さなグループをそれぞれ作ってグラスを持ちながら談笑している。
 部屋の端では豪華な料理がテーブルに彩り緑に置かれていて、お皿を持っている人たちが集まっていた。
「すごいんだね、哲のお父さんの会社。こんな世界があるなんて想像したことなかったよ」
「世界なんて自分でイメージすればなんでもありなんだよ。その都度、順応すればいいだけさ。とにかくどんなところであれ、楽しめばいい」
「でも、なんか場違いな気がして」
「隼八は今、恐れや不安があるだろ。そういうのをまず一番に取り除くんだ」
「そんな簡単に言われても、慣れなくておどおどしてしまう」
「背筋を伸ばせ。そしてどんな時もなんとかなると構えるんだ。そしたら心配も不安も消えるから」
 哲は僕に度胸をつけさせようとしている。慣れない場所で、堂々と出来るようにする練習だ。
「いいか、不安でいっぱいになったとき、それは物語でいうところの起伏だ。そこからどう切り抜けたらいいんだろうって物語りも面白くなっていくだろ。その 後は必ずそれを土台にする何かが起こるようになってるんだ。父がいつもいってる。ピンチになった時ほど、チャンスのときだって。常に自分で考えて切り抜け ろって」
「ピンチがチャンス?」
「そうだ。そう考えたら、困難もウエルカムって思えて怖くなくなってくるのさ」
 哲はにかっと笑った。そこに父親から学んだ事をすでに実行している余裕を感じる。
 僕はすぐには哲のようには行かないけど、考え方次第でその場がひっくり返るかもしれないということだけはなんとなくわかった。まずはおどおどしないこと。
 意識して背筋を伸ばした。
 周りは、みな堂々として話したり、名刺交換をしたり、握手をしたり、大げさに笑ったりして、ビジネスのために行動していた。
 学生服を着ている僕たちには無縁な感じがしたけども、哲はその辺りにいた女性に声を掛けた。
「そのドレス素敵ですね。よくお似合いです」
 あんな台詞僕には恥ずかしくて絶対に言えない。
「あら、ありがとう」
 女性は素直に喜んでいた。
 僕は離れてそのやり取りを見ていた。
 哲は、次に若いビジネスマンに近づき、ネクタイを褒めた。
「センスがいいですね。それどこで買われたんですか」
 見えすぎたお世辞っぽいのに、ビジネスマンは素直に喜んで、得意気にネクタイの事を話していた。どうやら高いブランド物で自分でも自慢したいところがあったようだ。哲はきっとあのネクタイのブランドをすでに知っていたのだろう。
 会話が終わると、哲は僕の側にやってきた。
「哲、すごいな。物怖じせず話しかけるなんて」
「父が言ってたんだけど、相手のいいところを見つけて褒めるって大切なんだって。普段から練習しとけってさ。そうじゃないと慣れてないと、そういう言葉は出てこないんだ」
「うん、わかる。僕、そんな言葉恥ずかしくていえない」
「だけど、人から褒められると、絶対に悪い気はしないんだ。たとえそれがお世辞であっても、ポジティブな言葉は人にいい影響を与える」
「頭では分かるんだけど、僕は口下手で」
「だから、このパーティで度胸をつけるんだよ。なんのためにここへ連れてきたと思う? 好きな女の子に話しかけられるようになるためだろ」
「でも、だって」
「ほら、『でも』と『だって』なんていってたらいつまでもあの子と話せないぞ」
「だけど」
「『だけど』もだめだ」
 哲にアドバイスを貰うのだけど、僕はどうしてもそれを実行できないでいた。
「隼八、恥をかくことを恐れるな。とにかく当たって砕けるんだ」
 それが恥ずかしいから出来ないというのに。
 そのあとも哲は見本を見せてくれるのだけど、哲の話が弾んでいくと僕は圧倒されてどんどん哲から距離が出来てしまった。
 哲の知っている人もいたみたいで挨拶に忙しそうだから、暫く哲と離れてしまった。
 ひとりになると心細い。邪魔にならないように端に寄ろうと後ろ向きに歩いていた時、ドンと何かにぶつかった。
「ああ、すみません」
 慌てて振り返って頭を下げた。
「いいんですよ。ちょっと触れたくらいですから」
 顔を上げると少しふくよかなおじさんが、笑っていた。よく見れば頬に珍しいハートマークに似た染み、もしくは痣がついていた。
 僕はついそこを見てしまう。
「どうかしましたか?」
「あっ、いえ、その頬のハートマークが……」
 そこまで言った時、こういうことは口に出してはいけないのではと焦ってしまった。でもここまで言った以上途中でやめるわけにも行かなくなった。
「そ、その、頬のハートマークが素敵ですね」
 こんなところで哲のアドバイスに従うなんて、汗が出てきてしまった。
「はははは、これが素敵ですか」
「はい。さ、桜の花びらみたいにもみえます」
 焦ってしまって、僕はさらに例えてしまった。こういう顔のシミや痣なんて気にしている人が多いというのに、僕は何を褒めているんだ。
「そんなこと面と向かっていったのは、あなたが初めてです。みな気を遣って見て見ぬふりをしますからね。そうです。実は私も密かに気に入ってました」
「そうですよね」
 汗がでてきた。
「あなたは、もしかしたら哲の友達の隼八君ですか?」
「えっ? そ、そうですけど」
 もしかしたらこの人は……と思ったとき、哲が戻ってきて「お父さん」と言った。
 やっぱり。僕は笑うしかなかった。ハハハハ。
 その後、哲は僕を哲のお父さんに正式に紹介した。哲のお父さんは僕に会えた事を本当に喜んでくれて、僕は恐縮して身が竦む。
 忙しそうだったので、あまり長くは話せなくて、しどろもどろになり過ぎて招待してくれたお礼を言うのも忘れてしまった。あまりにも圧倒されて、ドキドキと心臓が口からせり出しそうになっていた。
「そんなに緊張することないって」
「どうしよう、礼儀正しくできなかった。ああ!」
「何言ってんだよ。隼八は見ただけでどういう人物か父にはすぐに分かったと思う。好印象だったさ」
「でも僕、頬の痣のことを口にしちゃって」
「そんなの全然気にしてないよ。どうせなら目の周りにあったらロック気分でよかったのにっていってたくらいだぜ」
 どこか感性が違う。
「哲のお父さん、なんかすごい貫禄だった」
「まあね。でも家ではあんな感じじゃないな。母にヘコヘコして尻に敷かれてるもん」
「えっ、そうなの?」
「まあ、色々あるってこった。それより、これで少しは話すコツを掴んだかな」
「いや、その、そうだといいんだけど」
 僕は頼りなく笑って誤魔化した。

 そしてその後、無理してコミュニケーション力を上げるよりも、僕はやっぱり猫の餌やりに力を入れることにした。いきなり彼女に声を掛けて、髪が素敵な色ですねなんてやっぱり思ってても言えない。
 ようやく梅雨も明け、同時に暑さが強くなってきた。騒がしい蝉の声が耳につくようになった時、やっと猫に会えた。
 近づいても僕を無視し、そのまま去っていこうとしたところ、僕はおやつを手にして猫に見せた。それを見るなり猫はまっしぐらに僕に掛けて来た。手に持っているものが何だか判別できるくらい、このおやつが好きみたいだ。
 初めての餌やりは何の問題もなく、激しく食いついた。一心不乱にぺろぺろと舐めている姿はすさまじい。あの女の子もこれをみていたのだろう。あの笑顔が思い出された。
 これで彼女がやっていたように、猫に餌を与えるようになって、僕もこの近所のルールを破った。
 こっそり餌やりして黙っていればいい。僕もあの猫と仲良くなりたかったし、彼女と話すきっかけを作りたかった。きっとその時がやってくると思っていた。
 暫く猫に懐いてもらうため、餌やりに専念した。お陰で猫は僕を見ると寄ってきてくれるようになった。あとは彼女さえ現れれば、これで話すきっかけができる。
 そう喜んでいたのだけれど、あの張り紙が新たなものに差し替えられたとき、僕はもっと慎重になるべきだった。

 猫に餌を与え始めると、猫の方が僕を探しているのか出会う回数が多くなった。塀の上をスタスタスタと小走りに、それでいて流れるようにすうっと近寄って きたかと思うと、さっと華麗に壁を伝って僕の足元へ降り立つ。そこからは体を擦るように僕の足元にまとわりついて、尻尾をピーンと立ててニャーニャーと催 促し始める。
「よしよし、今あげるから」
 この調子なら女の子が通りかかれば僕の事を気になってみるはずだ。辺りをキョロキョロするが、今は人通りがなく車が一台通っていっただけだった。暫く女 の子が来ないか待っていたけど、その気配が感じられない。残念でしたと、蝉の声がどこからともなくジージーと聞こえていた。
 猫は待ちきれず僕の足にドンと頭を押し付けた。
「わかったよ」
 しゃがんで猫に餌をあげると、一心不乱で食いついた。それはあっという間に終わってしまった。
「また明日ね」
 猫はもっと欲しいと目をまん丸にして僕を見上げ、僕もまた彼女に会えなかったと諦め悪く辺りを見回した。
 女の子に会えば、きっと自然に話しかけることができる。あがり症の僕もその時が来れば覚悟を決めていた。
 これだけ状況が整えば猫の話題ですんなりと話しかけられるはずだ。少しはどもるかもしれないけど、困ったときは猫の話題を素早く持っていけばいい。
「この猫かわいいよね。君も餌をやってたの? 奇遇だな」なんて話し始めれば、彼女も無視できず、あわよくば心開いてくれるはずだ。
 そう願って諦めずに作戦を実行していた時、とうとう街角で女の子が猫と一緒にいるのを目撃した。
 僕はその場で飛び上がりそうに「ヤッター」と強く拳を握った。走り寄っていきたい衝動を抑え、しばらく彼女の行動を観察する。彼女は辺りを確認してい た。スティック状のおやつを手にして、それを猫に見せながら、道の端へと誘っていた。まだ僕とは距離があったので彼女は僕の存在をあまり気にしていない。 それともまだ気がつかなかったのかもしれない。
 やっと待ち望んだシチュエーションが今目の前に――。久しぶりに見た彼女に感動し、これから話しかけるんだと思うと心臓がドキドキとして口までせり上がって来そうだ。
 話しかけようとする意気込みが却って僕の体を硬くして思うように動けなくなってしまう。落ち着け、落ち着け。
 暫く深呼吸をして、それから彼女に近づこうと足を一歩動かした時だった。僕の後ろから自転車がやってきて側をすうっと通っていった。その自転車は女の子の前でブレーキを掛けてキーと不快な音を響かせると、猫はびっくりし危険を察知してどこかへ走り去っていった。
 突然のことで女の子もびっくりし、恐る恐る自転車に乗っていた年老いた男に視線を向けた。目が合ったのか、その老人は威圧的な態度を女の子に向ける。
「あんた、猫に餌やっとるんか!」
 しわがれた声で頭ごなしに女の子を叱り出した。
 それを見たとき、あの張り紙の文字が頭に浮かんだ。あれを書いたのはあの爺さんに違いない。
 女の子は突然のことに、爺さんを見ておどおどしている。肩を竦め体を強張らせ、戦慄していた。
「勝手な事をするんじゃない。猫の糞の被害にあったこともないだろうし、自分で責任もって飼えないくせに、餌だけ与えてあとは知らん振りか」
 知らない人から頭ごなしにいきなり怒られたら恐怖の何ものでもない。僕もまた機転が利かずにびっくりしてただ突っ立っていただけだった。
「ご、ごめんなさい」
 女の子の声が震えでかすれている。今にも泣きそうだ。
 あの子だけが責められるなんて不公平だ。僕だって同じように猫に餌を与えていたじゃないか。それなのに、僕はどう切り出していいのかわからない。足が地面にくっついたように動かず、息だけが荒くなっていた。
「猫に餌をやるのなら、責任もってあんたが家で飼いなさい。それが出来ないのなら、無責任な事はするんじゃない」
「す、すみません」
 女の子は耐えられなくなって、走り出す。一方的に怒鳴り散らされ、怖かったこともあるだろうが、そこまで怒らなくてもという気持ちもあっただろう。あれ は女の子に対して怒りをぶつけていたのと同じだ。もっと他に言い方があったはずだ。あれではトラウマを植えつける。女の子の目にはあの爺さんが鬼みたいに 見えたかもしれない。
 目を赤くして、僕の前を駆け抜けていった。
「全く、今時の若いもんは身勝手な。話もきっちりとできんのか。全くもう」
 爺さんはぶつぶつと文句を言いながら自転車に乗って去っていった。僕ひとりだけがその現場に取り残された。
 僕はこの時、とても後悔した。なぜ彼女に駆け寄ってあげられなかったのか。彼女だけが責められてしまった事が申し訳なくて顔向けできなくなってしまった。あんな風に叱られたら心に傷が残って、猫に餌をあげる共通の話題を持ち出して話しかける事ができなくなってしまった。
 こんな最悪な状態になって、僕は体が竦む。いつも肝心な時になると僕は動けない。結局は何にも出来ないただの臆病者だ。あの時僕が彼女の盾となって、僕 が叱られていたら彼女の傷はそんなに深くなかっただろう。こんなこと想定してなかったから、ショックで頭の中が真っ白で何も考えられなかった。
 彼女を守ろうとしなかった事は僕にも大きな爪あとを残していた。自分がここまで無力で情けないことに自分でも腹立たしい。
 あまりにも悔しくて、近くの電信柱を強く蹴っていた。
 つま先がジンジンとして痛いと顔を歪ませ、不快な気持ちで家路についた。
 このことを次の日学校で哲に報告すると、呆れたため息が聞こえてきた。僕もしゅんとして首をうな垂れていたから、十分反省していると見なして哲は僕を責めなかった。
「過ぎ去ってしまったことをとやかく言うのは仕方がない。次、彼女に会ったら、正直に自分の気持ちを言えばいい。それで話すきっかけにもなるじゃないか。今はプラスに考えよう」
「うん」
 頼りなく返事はするも、目を赤くして泣いていた彼女の顔を思い出すと、あの時の事を穿《ほじく》り返すのが悔やまれる。
 でも僕はもっと想像を働かせて、どういう風に彼女に次会ったら声を掛けるべきか考えておくべきだった。後味が悪くて、いつまでもこの事が僕を落ち込ませ て苦しく、それを次にどう生かすかなんて考える余裕がまだない。彼女の心の傷が癒えている事を願うことしかできなかった。
 夏休みが始まっても、まだ彼女のことを引きずっていた。あの一件があってから、僕は猫に餌を与える事をやめた。猫にとっても餌をもらえない事は寂しいだ ろうけど、そんな気分ではなくなってしまった。僕の浅はかな思いつきで猫も不幸にしてしまったかもしれない。今度は猫を見かける事が辛くなって、猫に会わ ないように街を歩く。
 避けていても相手は動物だ。僕を見かけると、無邪気に近寄ってくる。尻尾を立てて僕の足元ですりすりしている。あどけなく僕を見つめる真ん丸い目が罪意識を強くする。僕は何度もごめんねと謝ってしまった。そしていつしかパタッとその猫に会う事はなかった。

 夏休みの間、高校受験を控えている僕は夏期講習に通うことにした。
 朝、バス停でバスを待っていたときだった。ギラギラとした夏の太陽がまぶしく、暑いと汗ばんでいた額を軽く拭った時、ふと見た先にあの女の子がゆっくり と歩いてきていた。もしかして同じようにバスに乗るつもりだろうか。それともそのまま過ぎ去っていくのか。女の子はこちらに向かってどんどん近づいてく る。僕はドキドキし、それでいて何もできないから、もどかしくて苦しくその場で突っ立っていた。
 バス停に近づく手前で、女の子は不意に立ち止まりスマホを出して何かを確認している。メールでも入ったのか、それを見て思案している様子だった。
 一度元来た道を振り返って引き返そうとしたように見えたけど、思いとどまって結局はバス停に向かって歩いてきた。
 バス停の周りには数人ほどパラパラと人が待っていた。遠慮がちに女の子は少し離れた位置で立ち止まった。やはりバスに乗るつもりだ。僕は道路も面したバ スに早く乗れる位置にいたけど、女の子に近づきたくて、そっと後ろに下がった。女の子は下を向いてスマホを見ていたので、僕の怪しい動きに気づくことはな かった。そのままゆっくりと、女の子のいる手前まで移動できたときだった。急に誰かが叫んでいる声が聞こえた。その声を確かめようと振り向いた瞬間、そこ で見たものがありえなかった。
 恐ろしい速度で歩道に乗り上げてくる車。そう思ったとき、目の前の景色が激しく反転しぐちゃっと混ざり合って何が起こったか判断できなかった。
 無から徐々に聞こえてくるノイズが悲鳴と怒号に変わり突然騒がしくなった時、僕は激痛に顔を歪ませて赤く染まった何かを見ていた。投げ倒されたように体が横たわり足の感覚がおかしい。
 あの女の子は一体どうなったのか。視界がぼやけ、意識が遠のいていく。次に気がついた時、僕は病院のベッドの上だった。
 1
 猫を見つけて興奮した私たちは、まっしぐらに走り出した。こんなに勢いつけて走って近づいたら、猫はびっくりしてしまうのではないだろうかと思ったとき、私は澤田君を追い越していた。
 澤田君の走り方は右足を庇うようにしてガタガタとバランスが悪い。そういえば、ずっとひょっこひょこしてたような気がする。
 気をとられて走っていたら、バンと思いっきり壁にぶつかってしまった。見えない壁の存在をすっかり忘れていた。
「ああ、痛い」
 トムとジェリーの追いかけっこの果てのトムになったように、体が平らになってつるっと壁に沿って流れていくような気分だった。
「栗原さん、大丈夫?」
「大丈夫じゃない。鼻を強く打った」
 その見えない壁の向こうで猫が気にもかけずに毛づくろいをしていた。涙目でそれを見ていたせいで、やっぱり猫の色がはっきり判別できない。
「でもさ、壁はここまで広がっていたんだね。後もう少し広がってたら、猫に届きそうな気がする。あの猫、こっちに来ないかな」
 澤田君は空間が広がるスイッチを探すみたいに、ペタペタと辺りを触れた。時々コンコンと強く音を立てて猫の気を引こうとするけど、猫は気がつかないのか、私たちの方を振り向きもしなかった。その内毛づくろいが終わると、猫は立ち上がってきままに歩く。
「猫! ネッコ! ヌコォォォ!」
 私は壁を叩きながら必死に声を張り上げたが、素知らぬ顔で去っていく。やがて店の前に置かれていたごちゃごちゃした立て看板にまぎれて消えていった。
 その後、また姿を見せるのかじっと看板を睨んでたけど、猫はその裏に居るのか、それとも消えたのか分からず仕舞いだった。
 見えない壁に張り付いていたとき、商店街の出入り口が随分近づいていることに気がついた。
 先は大通りが横切って車が行き来しているはずだ。だけどまるで暗いトンネルから外の明るさが眩く白く光っているように見えるだけで、外の様子がわからない。
 でもあそこまで行けば何かが分かりそうな気がして、先が見えないのがもどかしい。この空間が端から端まで全部繋がれば猫も捕まえられるんじゃないだろうか。
「この調子で行けば、いつか商店街の出口まで空間が広がるんだろうか。そこまで広がれば、猫はこっち側の空間にも入ってくるのかな」
 私は遠い目で出入り口を見ながら呟いた。
「可能性はあるかもしれないね。こっちの空間に猫が一度入ったとき、姿は見えなくても足元で鳴き声が聞こえたから、猫はもう少しで僕たちと同じ空間に姿を現せたのかも」
「じゃあ、その時、空間のけもの道でも通ってたのかな?」
 思いつきで上手く表現したつもりだったけど、自分で言っておいてあまりぱっとしなかった。
「僕も分からないけど、元の世界と僕たちがいる空間って紙一重の何かの違いでこうなっているのかもって思うんだ。お好み屋の匂いも微かに感じたし、現実の世界とはそんなに離れてないんだよ。この世界は現実をコピーしたもので、そこに僕たちだけが入り込んだ」
「現実をコピー?」
「ほら、僕たちが存在する現実のオリジナルがあって、それをどこかにバックアップしたようなものじゃないかな。時空のずれみたいな。それともバグかな?」
 澤田君はもしかしたらコンピューターかゲーム関係に詳しいのかもしれない。でも私にはさっぱりだ。
「よくわからないけど、そうであったとしてもオリジナルの元の世界に帰るにはどうすればいいの?」
 それが分かれば苦労はしないんだけど、この世界がああだ、こうだと知るよりも、私は手っ取り早く元の世界に戻りたい。
「うーん。ずっとどうすればいいのか僕も考えているけど、やっぱりこの世界の仕組みを知らないと、答えが見つからないような気がする。もう少し、調べてみよう」
 澤田君は見えない壁を伝って端から端へと移動する。少しでも変化がないか、地道に探っていた。そういう手間を省いて、すぐ結論を求めてしてしまう私とは大違いだ。澤田君に任せて自分が何もしないわけにもいかない。出来る範囲で辺りを見回した。
 今回広がった部分にはチェーン店の百円ショップが入っていて、個人経営の店よりも店舗が大きい。向かいも同じような大きさの名の知れたドラッグストアが入っていた。どちらも大きな店だから、その大きさに沿って空間が随分と拡張されていた。
「だけど、いつの間にこんなに広がっていたんだろう」
 まだ少し痛む鼻を手で軽くさすりながら私は訊いた。
「僕たちが座って話しているときに、偶然拡張できる正解に触れたとかかな」
 この空間が広がる法則は正確に分かりようがないが、憶測として澤田君の純粋な心、または私たちの行動が影響しているのは確かかもしれない。澤田君とデートをしたいと私が言って、澤田君はそれに照れて恥ずかしがって、そして壁が消滅したのは事実だ。
 でもこうだと決め付けて繰り返すも、二度は成功したかのように見えたけど、三度目になると法則は発動しなかった。折角分かりかけてきたと思ったのにやりすぎると躓《つまづ》いた。微妙なところで何かが変化したのかもしれない。
 何か変わった事がなかったか自分なりに振り返る。
 椅子に座っていた時、何を話していただろうか。その時もデートの行き先について話して、色々と話が脱線していた。最後はどこに行くかで行き先は決まったけど、やはりデートの話になると空間が広がるのだろうか。
 澤田君を見れば一生懸命何かを探そうと見えない壁と奮闘していた。考え事をしているときの澤田君の目は真剣で顔つきもふと大人っぽくなっている。こういう面を見ると、胸がキュンとしてしまう。
 そんな気持ちが芽生えたのも、澤田君と一緒に長く居れば居るほど、心をすでに許して仲良くなっているということだ。
 近くに居るとちょっとしたドキドキもしてくるし、私たちの心が通じ合うことはやはりこの空間を左右しているのかもと思ってしまう。
 でもなんのためにこんな事が起こっているのだろう。そこに意味なんてあるんだろうか。
 私はずっと先の方向を見つめた。向こう側にも出入り口があり、白く光っていた。
「ねぇ、澤田君」
 私が呼びかけると澤田君が振り返った。私は澤田君の顔を見つめる。目が合うと相変わらず優しく微笑みを返してくれた。
「どうしたの?」
「それじゃさ、ふと思ったんだけど、あっちも同じように広がってるってことかな」
 今までのところ、この商店街の真ん中から両端へと、店舗を区切りとして徐々に広がっていくのは確かめた。
「じゃあ、確かめてこようか」
 澤田君がもう一方の端へと歩きかけた時、私は止めた。
「別に確かめなくてもいいよ。多分そうなんだよ。それに、広がっていたところで、この空間から抜け出せないんだから、確かめても無駄だよ」
 私はこの絶望的な状況に慣れてしまって、そういうものだと決め付ける。
「わからないよ。もしかしたらそこに新たな発見があるかもしれないし、何事も自分で調べて納得しなくっちゃ。放っておいたら、そこからは進めないんじゃないかな」
「澤田君はポジティブだから」
「僕がポジティブだからという意味じゃないんだ。何もしないことがいやなんだ」
「えっ?」
「何もしなかったら、そこで終わってしまう。それって、変化を望まないってことじゃないか。無理だから、ダメだから、そんな気持ちに邪魔されて、僕はいつ も動けなかった。まずは自分のそういう気持ちを変えたいんだ。例え、そこに何もなかったとしても、それを確かめることは決して無駄なことではないと思う」
 言い切った後、私を見てハッとし恥ずかしがっていた。
 それは澤田君の真面目な部分なんだと思う。すごいとは思うんだけど、面と向かってどう反応していいかわからないのが私だった。投げやりな自分が少し恥ずかしい。
「ご、ごめん。別に栗原さんを責めたわけじゃないんだよ」
「そんなの分かってるって。ただ、圧倒された」
「僕、過去に色んなことで後悔してるから、つい、力入っちゃって」
「わかった。じゃあ、見に行ってみよう」
「でも、何もなかったらごめんね」
「なんで、そこで弱気になってんの」
 芯はしっかりしているのに、最後でなよっとしてしまう澤田君。でも向こう側へと、張り切って前を歩き、私はその後をついていく。
 まだ少年であどけない部分が目立つけど、その後姿は精悍《せいかん》だ。
 私は振り返り、先ほどの猫がどうなったか確認する。今のところ、その姿は見えずじまいだった。そのうちまた出てくるのかもしれない。今はそれを信じるしかない。
 澤田君の後を追いかけ、私は横に並んだ。まじまじ見れば肩の位置が結構高いことに気がついた。
「改めてみると、澤田君、背が高いよね。身長どれくらいあるの?」
「178cm」
「もうすぐ180cm越えるかもね」
「これ以上伸びたら面倒くさいな」
「背が高いって面倒くさいものなの?」
「あっ、いや、この間も伸びたところなんだ。だから急激に身長ってあまり伸びて欲しくないなって」
「私としては、体重は急激に増えてほしくないな」
 私の返しに澤田君はクスッと笑ってくれた。
 そんな他愛のない会話をしながら壁に気をつけて歩けるところまで歩く。やはりこちらも空間は広がっていた。
 念のため、何かの変化がないか澤田君は念入りに見えない壁を確認していた。
「このまま空間が広がったら、両端の商店街を抜けた先に出られるんだろうか」
 もう一方の商店街の先の向こうを見つめながら、私は訊いた。
「どうなるんだろうね。この商店街を中心としてずっとずっと徐々に広がれば、この街全体にまで大きくなって、そのうち地球全体規模に見えない壁などなくなるのかも」
「もしかしてどこにも壁がなくなった時に、元の世界に戻れるとか?」
「そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない」
「そうだったとしたら、気の遠くなるような時間がかかるんじゃない? でもさ、この商店街の中で起こっているように、空間は広がっても建物の中に入れないし、この世界のものにも触れられないし、どうやって生きていくための必要なものを手に入れるの?」
「全く触れられないこともないかもしれない。現に僕は見えない壁を越え、椅子に触れられてこっちの空間に持ってこれたし」
「それでも、こっち側に来たら地面にくっついて動かせなくなった。取り出しても、また何かの法則が発動するんだよ」
「今はまだ答えを出すには早いと思う。この商店街から抜け出したら、また何かが変わるんじゃないかな。この調子だと空間は広がり続けているから、また少し様子をみよう」
 澤田君は私を励まそうと笑顔を絶やさなかった。私もその笑顔にならってポジティブに考えてみた。
「椅子を取り出した時さ、猫が先にそこに座ってたよね。もしかしたら、猫が触れたものやその周りにあるものが取り出せるのかも」
「うん、そういう考えもできるよね。あの時、違う空間から何かを取り出したって気分だった」
 ちょうどこの空間に沿って、お菓子やさんと果物やさんが向かい合っていた。店先にお菓子や果物が今日の特売品みたいに置かれている。そこに猫が来てくれれば取り出せるのかもしれない。
「お腹すいたね」
 つい口から漏れてしまった。
「そうだね」
 澤田君も自分のお腹に触れて、頼りなく笑っていた。
 結局何も見つけられなかった私たちは、がっくりと肩を落としてしまった。澤田君も申し訳なさそうに、私の様子を気にしていた。
 暫く口数少なくなってしまうと、私たちの間にしらっとした空気が流れていくのが見えてしまった。このままではまた悪い方向にいくんじゃないだろうか。不安になると物事はいつも悪い方向にしか考えられなくなっていく。せめてこの流れを変えたい。私から行動してみよう。
「ねぇ、澤田君」
「どうしたの?」
 ここまではいい。話すきっかけになった。しかし、ここからどう話題を振ろうか。なんでもいい。歌でも歌おうか。こういうときに楽しく盛り上げられる話題と言えばと思った時、ぱっと閃いた。
「あのさ、しりとりしようよ」
「しりとり?」
「そう、ずっと黙ってたらさ元気なくなりそうだから、何かして気を紛らわそうと思って。そういう時って、しりとりがいいでしょ」
「そうだよね。こういうときこそ楽しむ。それいいかもしれない。やってみよう」
「じゃあさ、普通にしてたら面白くないから、白いもの限定のルールでチャレンジしてみない?」
「白いものの名前しかだめなの?」
「そう。じゃあ、私からいくよ。とうふ」
 こういうのは先手で攻めるのがいい。
「ふ、ふ……ふがつくもので白いもの」
 澤田君はじっくりと考えていた。
「あっ、ふと……んっ?」
 ふとんと言いかけた澤田君は最後で息をつまらせ、慌ててつけたす。
「……の綿!」
「ふとんの綿。おお、そう来たか。危なかったね」
 私がからかうと、澤田君はセーフといいたげに息を吐いていた。
「次は『た』だね。た、た」と『た』を繰り返す。白いもの限定は結構難しい。だからこそやりがいがある。「た、タイのほね」
「鯛の骨? なるほど、確かに骨は白い。やるね」
「フフフ。次は『ね』だよ」
 得意になりながら、澤田君を煽る。
「ね、ね……」
「どう、降参かな」
「まだ始まったばかりで降参はちょっと。うーん、ね、ね、あっ! ねんがじょう」
 澤田君はちょっとテンション高く口にした。
「なるほど年賀状か。確かに白い。次は『う』だね。う、う」
 単純に『うし』を連想するけど白黒だし、あっ、閃いた。
「うしのちち!」
「牛の乳。すなわち牛乳か。それも確かに白い。よし、次は、ち、ち、ち……」
 澤田君は悩んでいた。『ち』から始まる白いものを一生懸命想像し「うーん」とうなっている。
「どうやらこれで勝負は決まりそうね」
「いや、そうはさせないぞ。ち、ち、ち、あっ、ちぎれ雲! どうだ」
「おお、やるではないか、澤田君。しかもまさに白い」
「へへへ。じゃあ次、『も』だよ」
 なんかむきになってくる。これは負けられない。
「も、も、も……、あっ、もち!」
「えっ、また『ち』か。ち、ち、ち」
 さっきはちぎれ雲なんて綺麗にまとめてくれたけど、連続しての『ち』はさすがに難しいだろう。
「あっ、ちり紙」
 澤田君はあっさりと返してきた。
「ちり紙の『み』だね。み、み、ミルク!」
 さっきの牛の乳と被ってしまうけど、文字は違うからセーフだ。
「ミルク。うまいこところついて来るな。次は、『く』だね、く、く……あっ、これは簡単だ。クリーム」
「ミルクからのクリームか、これは連想もあって、すぐに浮かびやすい。不覚だった」
「さあ、次は『ム』だよ。思い浮かぶかな」
 澤田君はすっかりのってきて、いたずらっぽく笑っていた。よし、その挑戦受けてたとうではないか。
『次は、「む」だね。む、む、む、む……」
『む』から始まる言葉ってなかなか難しい。白いもので『む』から始まるもの。私はうーんと考え込んだ。
「もしかして、僕の勝ちかな」
 澤田君が煽ってくる。なんかちょっとイラっとした。やだ、負けたくないぞ。
「む、む、む、あっ、あった。麦とろごはん!」
『む』から始まる白いものを想像して、やったと思って口にしたら、最後『ん』と言ってしまった。「あっ」と気がついたときには澤田君が指を差して指摘した。
「ああ、『ん』がついた」
「ちょっと待って、その麦とろご飯のご飯はなしで」
「ダメ、言い切っちゃったから、取り消し不可能」
「でも澤田君だって、フトンって言ったけど、慌ててつけたしたのを見逃してあげたんだよ」
「あれは、すぐにふとんの綿って続けたからセーフ。それに栗原さんは何も文句言わなかったよ。これは言い切っちゃったから取り消し不可能」
「そんなのずるい、ずるい」
 私は悔しくて澤田君につっかかろうと迫ると、澤田君はひらりと身をかわすから、つい追いかける羽目になった。
「なんで逃げるのよ」
「だって、殴りかかりそうにみえたから」
「私がそんなことするわけないでしょ」
 それでも澤田君は私から逃げる。私は意地になって追いかける。次第に追いかけっこみたいになってしまい、私たちは小学生のように遊んでしまった。きゃっきゃと騒いでいる澤田君がかわいい。
 その時、「あっ」と澤田君が叫んだ。
「どうしたの?」
「また壁が消えたんじゃないかな?」
「えっ、うそ」
 夢中で追いかけっこしていたから、自分たちが先ほどよりも見えない壁の向こう側に足を踏み入れていたことに気がつかなかった。
 ふたりで手を前に出して真っ直ぐ歩けば、確かに空間が広がっていた。
 私は澤田君と顔を合わせて、そしてにんまりと笑った。ある仮説が浮かんだ。
「これってさ、私たちがこの閉鎖された空間で楽しく過ごせば広がるんじゃないのかな」
「最初の空間が広がった時は、僕はドキドキとして楽しかったのは確かだと思う」
「ほら、そうでしょ。私も澤田君とデートしたいって思ったとき、そんな事自分の口から言ったのも初めてだから、私もドキドキだった。本当にそうなったら楽しいだろうなって、強く願ってた」
 そう感じると、気持ちが高ぶってきて、ふたりして微笑みあった。
「そうだよね。椅子に座って話をしていた時も、きっとその延長でふたりで話すのが楽しかったってことだね」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、あともう少しで、この商店街全体に空間が広がるね」
「商店街の空間が全部広がったら、もしかしたらパンってはじけて元の世界に戻れるかも」
 共通点が明らかになると、私たちは希望に満ちてきた。
「残りは、ふたりでどうやって楽しむ?」
 澤田君とふたりで楽しむって、なんかその言葉にまたドキドキしてしまう。このドキドキだけで空間が広がっているのではないだろうか。この展開にすごく期待してしまう。
「そうだね。それじゃ楽しい話をしようよ」
「どんなこと話せばいいんだろう」
「じゃあ、澤田君が今までで楽しかったこと話してみて」
「今までで楽しかったことか」
 澤田君は見えない壁にもたれながら、思い出そうと天井を仰いだ。
「そうだな。今思うととても楽しかったことになるのかな。僕の親友、哲っていうんだけど、すごいいい奴なんだ。僕のために色々と世話を焼いてくれて、哲と一緒にいると楽しかったな」
「ふたりでどんなことしたの?」
「それがさ、哲のお父さんが会社の社長でね、それで中学生の時にその会社のパーティに僕は誘われて哲と参加したんだ。それがすごい世界でさ……」
 とりとめもなく、澤田君はそのパーティについて話してくれた。豪華な食べ物、色々な飲み物、カラフルなデザート、社会で活躍する見るからにすごそうなゲ ストたちなど、異次元に来たみたいだったらしい。私のイメージとしては、おとぎ話にでてくるような貴族の集まりの世界をイメージしてしまう。
「まるでシンデレラでも登場しそうな舞踏会に思えちゃう」
「ははは、そこまではいかないけど、なんていうのかきちっと正装した社交界だったな」
「あっ、そういうのってさ、急に誰かがワインを飲んで倒れて、それで周りが悲鳴をあげてさ、事件が起こったりする舞台になりやすいよね」
「そしたら、僕が名探偵役となって事件解決って……ないない」
 私の話に合わせてくれる澤田君。でも探偵役も澤田君なら十分似合うと思う。
「それで、そのパーティで何が起こったの?」
「特に何が起こったってことじゃないんだけど、友達の哲のコミュニケーション力が高くて、大人顔負けにいろんな人と話すんだ。ぼくなんてその場にいるだけでも恐縮だったから、雰囲気にのまれて話すことなんてできなかった」
 おどおどしている澤田君が目に浮かぶ。
「でも楽しかったんでしょ」
「うん。哲が色々と教えてくれたからね。それが僕にとってすごいためになったと思う」
「例えば何が?」
 その時、澤田君はもたれていた壁から離れてまっすぐ立って私をじっと見つめた。
「何、なんか私変な事いった?」
 見つめられると意識して、自分の視線があちこちいってしまう。
「栗原さんの髪の毛、つややかでとてもきれいですね」
「えっ、どうしたの、急に」
 面と向かって褒められると、恥ずかしくなる。
「瞳も、虹彩が琥珀のようでとても美しい」
「ちょ、ちょっと」
「そのピンクのパーカーがとても栗原さんに似合っていて、すごくかわいい」
 ここまで褒められると、体の中の何かに火がともったように温かくなって気持ちよくなってくる。
「やだ、そんなこと、もう、やめてよ」と口ではいいつつ、顔は綻んでしまった。
 その私の様子を見て、澤田君は目を細めて笑っていた。
「と、こんな風に、その人のいいところを見つけてちゃんと伝えるってことを哲は教えてくれたんだ」
「えっ? もしかしてそれってお世辞?」
 最初から本気にはしてなかったけど、あそこまで言われたら、お世辞だったとしても強く抗えない感情が芽生えてしまった。
「ううん、僕が今言った事はお世辞じゃない。僕が本当にそう思ったこと」
 真顔で言われると、余計に照れてしまう。自分だけこんな感情でモジモジと恥ずかしくなるのは不公平だ。
「澤田君もさ、真面目で優しくて、背も高いし、すごくいけてると思う」
 ええい、お返しだ。
「そ、そうかな。でもすごく嬉しい。ありがとう」
「そんな、お礼言われるほどのことじゃ。だって本当に澤田君って素敵な人だと思う」
 つい目を逸らしてしまったのは、私は澤田君を好きになりかけてるからだ。恥ずかしい。
 澤田君も照れている。「へへへ」と笑って後ろの見えない壁に背中をもたせ掛けた。その時だった。澤田君は「うわぁ」と慌てふためく。必要以上に後ろに倒れかけた。
「澤田君!」
 咄嗟に私は澤田君に手を伸ばし、ジャケットを掴む。澤田君も私に頼ろうと手を伸ばして私の手を取った。
「ああ!」と澤田君。
「きゃー」と私。
 私たちは引力に逆らえず重なって倒れてしまう。どさっと床に二人して転がった。
「あたたた」と澤田君。
「うっ」と私。
「大丈夫かい、栗原さん」
「うん、なんとか」
 気がつけば、私は澤田君の胸の中でしっかりと腕に抱かれていた。
「きゃー」と再び私。
「うぉ!」と澤田君。
 私は手をバタバタしながら、離れようと慌てて横に這《は》い蹲《つくば》る。澤田君は顔を赤らめて焦りながら上半身をむくりと起こした。
「ごめん、栗原さん。怪我しなかった?」
「だ、大丈夫。澤田君も怪我してない?」
「ちょっと体を打ちつけただけ。大丈夫だから」
 突然のハプニングに私は息が荒くなっていた。澤田君もちょっと動揺している。
 抱き合ってしまったことに恥ずかしさを感じながら、お互い気になって目を合わせた時だった。なぜこうなってしまったか考えたら、突然「あっ!」と同時に叫んだ。
「また壁がなくなったんだ」
 澤田君は立ち上がり、見えない壁を確認しながらスタスタと先へ進んだ。
「また空間が広がったんだ」
 私もこの状況がとてもいい方向に進んでいると実感してうれしくなってくる。
「栗原さん!」
 突然先へ進んでいた澤田君が叫んだ。
「どうしたの、澤田君」
 私は立ち上がり、澤田君の方を見た。そして目を見開く。
「あっ、うそ、そこまで壁が移動しているの?」
 すぐさま澤田君のもとへと駆け寄った。
 そこは商店街の一番端っこ。向かいの通りはすぐそこだ。
 2
 商店街の出入り口の両端はどちらも車が激しく行き来する通りに面し、頭上にはアーケードが広がり雨も気にせず買い物もできる一本の抜け道といってもいい。
 片方は駅へと続き、そちら側に面した大通りは町の中心部になってバスも通り、もう片方と比べると車の行き来が激しい。今、その駅に近い方の通りに面した出入り口に、私と澤田君は突っ立っていた。
 ここまで空間が広がったのは素直に喜ばしいけど、商店街の出入り口から大通りに向かっての外の景色が見えず、透明であったはずの壁がその出入り口では白く、まるで氷の壁をみているようだった。
「あれ、どうして向こう側が見えないの?」
 私が訊けば、澤田君も首を傾げた。
「ずっと目に見えない壁であったのに、ここに来てその壁の存在が見えるようになった。そして不透明でその先が見えないのはまるで、ここから出られないと蓋をされているみたいだ」
「私が白いもの限定でしりとりなんかしたから、私たちがイメージした白に影響されてしまったとか?」
「いや、それは……」
 言葉につまる澤田君。やっぱり第一にその可能性を考えていたみたいだ。
「ねぇ、反対側も確認しよう」
 今までの法則からすれば、もう片方も同じように空間が移動しているはずだ。私たちは商店街を横断する。端から端へと歩くと結構な距離があった。真ん中あ たりには路地があり、ここから私たちが入ってきたところだ。そこを越えて反対側に行く。先の出入り口は中側から外側の光のコントラストが激しくここからだ と白く光って見えた。それは近づいてもやっぱり同じで白いままだった。
「こっち側の空間も同じように広がって壁ができてる」
 端まで来ると、澤田君はその出入り口にふさがる壁を触った。広くなっているとはいえ、目の前の出入り口がふさがっているのを見るとまゆ毛が下がり少しがっかり気味だ。
「向こう側と同じように、白い半透明の壁だね」
 私も、それに触れながら言った。
「この商店街の両端がふさがれた状態か」
 澤田君は考え込んだ。
「ここまで空間が広がったら、この閉鎖された空間が消えるって思ったのに。なんで?」
 思っていたのと違うから、私はとても落胆して一気に気分が滅入った。
「栗原さん。これはチャンスかもしれないよ」
 澤田君は私と真逆の反応だ。思わず「はぁ?」と呆れてしまった。
「どうしてこれがチャンスなの? もう絶望的な予感しかしない」
「あのね、これも哲が教えてくれたんだけど、ピンチのときは発想を逆転させてチャンスと捉えるんだ」
「えっ? この状態を?」
 出口が閉ざされ、ここからは出られない『見える壁』の出現によってありありとしているのに、それをチャンスと見なす澤田君には賛同できない。
「そう思った方が楽しいじゃない。辛いことに飲み込まれて暗くなるよりも、きっと解決方法があると信じたほうが得しない?」
「こんな状態で損得って」
「これは次へのステップなんだよ。ゲームで言ったらレベルをクリアーして次のステージへ挑戦といったところかな」
「ゲームのステージで片付く問題なの?」
「栗原さんはゲームしたことない?」
「それはあるけど」
「だったらさ、ひとつのステージクリアーしたとき嬉しいでしょ」
「ゲームに関してはそうだけど」
「だから今までは空間を広げるゲームで、そして全部クリアーした。次のレベルが、この出入り口の壁ってわけだ。確実に解決に向かっているんだよ」
 簡単に言ってくれるけど、それとこれとは全然違う。
「そう仮定したとしても、じゃあ、ここからどうすれば」
「基本は今まで通りでいいんだと思う」
「今まで通り?」
「そう、僕たちが楽しめばいいってこと」
「楽しむ?」
「栗原さんが先にその法則を見つけたでしょ。だったら、もっと楽しもう。このふたりの時間を」
 澤田君が言った『ふたりの時間』。その言葉にはっとした。ずっとふたりだけでこの世界に閉じ込められていたけど、裏を返せば邪魔が入らない本当にふたりの時間だ。
「澤田君はどこまでもポジティブだね。その考え方は称賛に値する」
 ふたりの時間。不思議とその響きはとても特別なものとして私の耳に届いた。鈍くふさがっていた重い感情がふわっと浮いていく。諦めちゃいけない。それよりも澤田君と過ごせることを有難く思ってみよう。こんなときだから、力を合わせる。
「澤田君、ほいっ」
 私は手を出した。
「えっ、何?」
「握手、握手だよ。新たに気合を入れよう」
 私が前向きになったのを知って澤田君は自然と口元を綻ばせた。
「うん」
 私の手をぎゅっと握った。
 澤田君の手の温かさと、ぎゅっと握られた感触が心地いい。
 澤田君と一緒なら頑張れる。澤田君のにこやかな顔を見たとき、私は澤田君の事が好きだと自分に正直になった。
『澤田君が好き』
 手を握りながら、私は心の中で呟いた。
 その時、澤田君は辺りをキョロキョロする。
「そういえばさ、猫は確か、あの看板の辺りに隠れたんだったよね」
 あっ、猫。そうだった。あの猫は今どこに居るんだろう。
 百円ショップの隣はチケットショップだった。扱っている商品を紹介した立て看板と店の名前が目立つように電飾看板が並んで置かれていた。この辺りで猫が消えたように見えたんだった。
 その周りを良く調べたけども、猫はすでに移動したのか、その姿は見えなかった。それよりもその隣、この商店街の一番端にある店に興味を抱いた。色とりどりに美味しそうなケーキがショーケースの中に入っている。それが商店街の通りに面していた。
「うわ、おいしそう」
 お腹が空いているから余計に食べたくなってしまう。
「ほんとだ、美味しそうだね」
「ねぇ、ここから出たらやることのひとつに、一緒にケーキも食べることも付け加えようよ」
「いいね。それ」
 カラフルなケーキをバックに、あどけなく笑う澤田君。かわいい。私がスマホを持っていれば、写真を撮ったのに。あっ、澤田君に借りればいいか。
「あのさ、澤田君、ちょっとスマホ貸してくれない?」
「何するの?」
 澤田君はジャケットのポケットからスマホを取り出しながら訊いた。
「ケーキと澤田君の写真撮らせて」
「それじゃ、記念に一緒に撮ろうか」
 澤田君は私の側に寄りスマホを掲げる。私もできるだけ澤田君と密着する。ケーキ屋をバックにパシャリと一枚撮った。それをふたりで確認する。
 澤田君の腕を抱きしめ、にんまりと少しふざけたように私は笑っている。その隣で恥ずかしそうに笑う澤田君。
「いい感じに撮れてる。ねぇ、それ私のスマホにあとで送ってくれる?」
「うん、いいよ。メアド教えて」
 澤田君はスマホを操作して、私のメールアドレスを打ち込んだ。
「今は送信できないけど、ここから出たら必ず送るね」
 澤田君の言い方だと、このあとすぐに出られるように聞こえた。
 本当にそうであったらいいと、私は出入り口をふさいだ壁を振り返る。依然変わらず、外が見えないまま巨大な南極の氷の壁のようだ。
 見ているとその大きな存在に打ちのめされそうでため息が出てきた。
「大丈夫だよ。きっと出られるから。ふたりで信じよう」
 澤田君が言うんだから間違いない。
「そしたら次はどうやって楽しむ?」
 この場所で澤田君と何をして楽しんだらいいのだろう。私が考えているとき、澤田君があっさりと言った。
「それじゃ、じゃんけんグリコでもやってみようか」
「ええ、じゃんけんグリコって」
 私が戸惑っていると、澤田君は有無を言わさずすぐに行動する。
「じゃーんけん、ぽん!」
 澤田君の弾む掛け声ががらんどうな商店街いっぱいに元気に響くと、体に刷り込まれた条件反射で私は抗えずそれに合わせてチョキを出していた。
「あっ、僕の勝ちだ。グ、リ、コ」
 澤田君はできるだけ足幅を広げて三歩飛んだ。
「んもう、それで、また向こうの端までじゃんけんグリコしながら行くの?」
「そうだよ。次行くよ、じゃんけーん」
 澤田君の掛け声の後に私も続く。
「ほい!」
 こうなったらやるしかない。今度は私が買った。
「パ・イ・ナ・ツ・プ・ル」
 私も負けずに足を大きく広げて弾むように進んだ。
 ふたり同時に「じゃんけんぽん」と勝負する。また私が勝った。
「チ・ヨ・コ・レ・イ・ト」
 澤田君と少し距離が出来てしまう。
「次は、負けないぞ。じゃんけんぽーん」
 どっちも同じパーだ。同時に「あいこでしょ」。
 また私が勝った。
「パ・イ・ナ・ツ・プ・ル」
 澤田君とどんどん離れると不安になってくる。
「澤田君、まじめにやってよ」
「僕はまじめにやってるよ。それじゃいくよ。じゃんけんぽん」
 やっと澤田君が買った。
「グ・リ・コ」
 それじゃ追いつかないじゃないの。
 しばらくじゃんけんグリコで遊んでいたけど、商店街の半分まで来るのに結構な時間がかかってしまった。
「澤田君、ちょっと休憩しよう」
 まだ私に追いつけない遠く離れた澤田君に叫んだ。
「オッケー」
 返事をすると、澤田君は私の居る方向へとゆっくりと歩いてきた。
「澤田君、じゃんけん弱いね」
「栗原さんが強いんじゃないの」
 結局楽しんだというよりも、時間つぶしになってしまい、ちょっとこれは体力を消耗してしまった。こんな事をして解決策に近づいた気になれなかった。
「あまり面白くなかったかな」
 澤田君は私の顔色に気がついて、心配になっていた。
「だって澤田君負けてばっかりだからやりがいがなくって」
「こういうのって、張り合いがないと楽しめないよね。ごめん」
「でもね、久しぶりだったな。小学生の時以来で、あの時は皆できゃっきゃしながら楽しんでたな」
「栗原さんの小学生の時ってどんな子だった」
「うーんとね、独占欲が強かったかな。仲がいい子が他の友達と一緒に遊んでいるとちょっとヤキモチやいたり、すねたりとかあったかな」
「子供にはよくある感情だと思うよ」
「そうなんだけど、自分がその子の一番じゃないって思ったら辛くってさ。昔ね、スポーツがよく出来て、クラスでも人気者のリミちゃんっていう子と仲良く なったの。近所だったし、親同士も知り合いでお互いの家に遊びに行ったりしてたんだ。手を繋いで一緒に歩いて、私はすごく大好きでたまらなかった」
 澤田君は首を振って相槌を撮りながら聞いていた。
「ある日、リミちゃんに私のこと好き? って訊いたの。そしたら『うん』っていってくれたの。そこでやめとけばよかったのに、どれくらい好きって訊い ちゃって、そしたらリミちゃん『普通よりもちょっと上の好き』って言ったの。それが子供心にすごくショックだった。次にリミちゃんが、『智世ちゃんは私の ことどれくらい好き?』って訊くの。もちろん私はリミちゃんのこと友達の中で一番大好きだったんだよ」
「ちゃんとそれを伝えたの?」
「なんかね、その時、対等じゃなかったことが悔しくてさ、『私も普通よりもちょっと上の好き』って答えちゃった。これでお互い様だって思ったんだけど、変なところでプライドが発動しちゃった」
「それは仕方ないよ。僕だって、哲は親友だけど僕がちょっと問題を抱えたとき、哲のこと避けてしまったことがあったんだ」
「澤田君でもあるんだ、そういうこと」
「そりゃ、あるよ。心が不安定な時は自分にネガティブになって周りが面白く見えないから、つい卑屈になっちゃうんだろね」
「でも、今の澤田君からはネガティブな行動がイメージできないな」
「油断をすると、どっからかすぐに入り込んでくるよ。だからそれを跳ね除けるために、できるだけいい事を口にするようにしてるんだ」
「ピンチの時がチャンスとかもそうだね」
「ほんとはそれ、哲が教えてくれたんだ。僕は哲のお陰でとても助けられたんだ」
 澤田君は右足の太もも辺りをさすっていた。
「澤田君もしかして疲れてる? こんなこと言うのも何だけど、走るときさ、ちょっとひょこひょこしてるじゃない。もしかして、足が痛いんじゃない?」
「あっ、痛いって程じゃないんだ。ちょっと事故にあって、それが原因」
「えっ、事故にあったの? 大変だったね」
「うん。中学三年の夏休みが始まった時、バス停でバスを待っていたら、いきなり乗用車が歩道に突っ込んできたんだ」
 それを聞いて私ははっとした。
「あっ、知ってる、その事故。全国的に大ニュースになったし、地元だからみんなびっくりして、大騒ぎだったよね。その事故に澤田君が巻き込まれてたの? だけど無事でよかった。確か、あの事故で犠牲になった人がいたよね」
 私がその話を軽々とすると、澤田君は心を乱されたかのように少し動揺して俯いた。私はその動作にしまったと焦った。
「ご、ごめんね。辛いこと思い出させちゃって」
「いや、いいんだ。気にしないで」
 澤田君は現場にいたから、一緒にいた人とは顔を合わせていたはずだ。そんな人が側で犠牲になったと思ったら、辛いに決まっている。それに自分自身も巻き込まれてトラウマもあるはずだ。本人の前で蒸し返すのはちょっと軽率すぎた。
「あの事故は本当に悲惨だった。私もよく覚えてる。あの日、私もバスに乗ろうとしてたんだけど、用事ができてそれで引き返して乗らずにすんだんだ。その後であの事故が起こったから、ショックだった。確か、犠牲になったのは中高生の学生だったんじゃなかったかな」
「うん、中学生の女の子だった。僕の初恋の人……」
 澤田君は俯いたまま、呟いた。
 私はどきっとして目を見開いた。
「えっ、そうだったの」
「何度も声を掛けようと、色々と彼女に近づく手を考えてたんだ。だけど臆病でそれが出来なくて……」
「……」
 どう返していいかわからない。喉の奥で息がつまった。
 澤田君は淡々と話しているけど、語尾が弱くなっている。私に似た女の子が事故で死んでいた。他人事だと思えない。
 澤田君が頭をあげ双眸を私に向ける。
「事故にあった直後、僕の意識がなくなって気がついたら病院のベッドにいたんだ。あの時僕は夢を見ていたんだと思った。それは目が覚めても夢に違いないと思ったんだ。こんなこと起こってないって、信じこもうとしてた」
「精神的にもショックが強かったんだね」
「事故についてのニュースも記事も僕は目に触れなかった。ずっとなかったことにしたかった。後で中学生の女の子が亡くなったって耳に入ったとき、何かの間 違いだってそれすら信じなかった。僕の中ではあの事故はなかったことになってるから、あの女の子も生きているってずっと思って過ごしたんだ」
 澤田君は右足のズボンの裾を膝まで上にあげた。それを見て私は息を飲んだ。明らかに違いがわかる作り物のそれは、改めて知らされると驚きを隠せない。
「その足は」
「義足さ。背が伸びたからちょうど新調したところなんだ。まだちょっと違和感があって、それで走るとひょこひょこしてしまうんだ」
 何かおかしいとは思っていたけど、こういうことだったのか。私が言葉につまっていると、澤田君は笑い出した。
「もしかして引いちゃった?」
「びっくりはもちろんしたけど、引くってそんなことない。それよりも、私、無理に肩車させたし、もっと早く言ってくれればよかったのに。あの時、自分がかなり重たいのかなって思っちゃったよ」
「ははは、栗原さんらしいな。隠すつもりはなかったけど、この義足自体も、僕には本当の足だって思い込もうとしてるんだ。僕の中ではあの事故は本当にな かったことになってるんだ。栗原さんを見たとき、やっぱり生きていたって思えて、それでいてもたってもいられなくて、気がついたら行動してた」
「でも他人のそら似だった」
「それでも、もしかしたらって本人かもって」
「それであの時、幽霊じゃないかって私に訊いたんだ」
 今になって澤田君の言動が腑に落ちた。
「やはりこの世界は僕が作ってしまったのかも。栗原さんを初恋の人だと思いこんで僕がここに閉じ込めてしまった」
 最初は私も澤田君のせいにした。それはフラストレーションで八つ当たって、人のせいにするのが楽だったからだ。だけど澤田君は全く悪くない。ずっと澤田君と過ごして、この人が他人の嫌がる事を望むわけがない。
「澤田君のせいじゃない。私は路地で猫を追いかけてこの商店街の中に入ってしまった。澤田君も猫を探してなかった?」
「うん、久しぶりに猫をみたから猫の頭を撫でてたんだ。そしたら商店街に入っていったから、つい追いかけた」
「でしょ、だから私たちは猫によって、この世界に呼び込まれたのよ。澤田君は偶然私をそこで見てしまった。初恋の人に似てるっていったけどさ、本当にそっくりだと思う? 何かの特徴が一致してつい脳内補正でそっくりに見えたとかあるんじゃないかな」
「特徴といったら、その茶色っぽいつややかな髪は同じだと思ったし、近づいたら目の感じも似てた」
「私もさ、澤田君を見たとき、初めて会った気がしなかったんだ。どこかで見たことあるような、そんな親しみが湧いた」
「よく考えたら、僕たち同じ高校だった。栗原さんは学校で僕を見たことあったのかも」
「あれっ?」
「どうしたの?」
 今、既視感があった。そうだ、この感じ、前にもあった。あの時はピリッとした違和感を覚えたんだった。
「私たち学校で会った事はないはずなのよ」
「急にどうしたの?」
「だって、もし学校ですれ違ったら、澤田君は必ず初恋の人に似ている私に気がつくはず。澤田君も私が同じ学校に居た事を知らなかったということは、一度も見かけた事がなかったってことなんだと思う」
 あの時、私はそれを感じて言おうとしたんだった。
「そういえばそうだね。もしすれ違っていたら、僕は栗原さんのクラスをつきとめていたに違いない」
「それじゃなんで私は澤田君の事をどこかでみたように思ったのだろう」
「こういう僕みたいな顔もよくあるのかもしれないね。そしたら、栗原さんが僕の初恋の人に似てるっていうのも、僕にとったら一番雰囲気が近い人をそう思い込もうとしていたのかもしれない」
 人の視覚は簡単に騙される。絵が動いてないのに動いて見えたり、線ばかりの図形の中に点が点滅して見えたり、ちょっとしたことで目の錯覚が起こる。
 今も澤田君を見ていると、揺れているような気がする。
「あれ、地震かな?」
 澤田君の言葉で私もはっとした。
「やっぱり、今揺れたの?」
「栗原さんも、なんか感じた?」
「微妙だったから、錯覚かなって思ったんだけど、澤田君も感じたんだ」
 暫く動かないで様子を見ていたけど、その後は何も感じなかった。
「もう大丈夫そうだね」
 澤田君がにこっとすると、ほっとする。
 私が息をついた時、足元で何かがコツンとぶつかってきた感触があった。
「なんか今、足元にいた」
 目を凝らしてみるけど、何も見えない。
「もしかしたら、猫が今この空間に入っているのかも」
 澤田君は腰を曲げて、手探りで猫に触ろうとしていた。
 私も同じように見えない猫を捕まえようとする。
「どこにいるの、猫」
 見えないのがもどかしい。
「猫は栗原さんの足に触れたんだよね」
「うん。頭をこすりつけるようなそんな感じだった」
「猫には僕たちが見えるのかもしれない。何か猫に与えられる餌でもあれば」
「そうだよね、チュールが欲しいよね。あれを一度知ってしまったら、猫は病みつきになって、すぐに食いつくよね。昔はあれを鞄に忍ばせて、猫をみたらあげてたんだけどな」
「栗原さんもそんなことやってたんだ」
「ということは澤田君もやってたの?」
「うん、ちょっと色々とあって」
「結構、黙って野良猫にチュールあげる人っているよね。でも餌をあげるなってさ、うるさい人もいてさ」
 澤田君は急に動きを止めて私を見ていた。
「もしかして、澤田君もうるさい人に怒られたことある?」
「いや、僕は……」
「私はあるんだ。責任も持てないのに勝手に餌やるなって、頭ごなしに言われて、だけどさ、私だけじゃなかったもん。猫に餌あげてたの」
「そ、そうなんだ」
「でも、その通りだなって、怒られた後で反省して、それで母に相談して、その猫を引き取ることにしたの」
「えっ、捕まえたの?」
「そう。責任取った。今は飼い猫になったよ。これで文句言われないだろうって思って」
「それはハッピーエンドだ」
「だから、怒られてよかったかな。あのうるさい人に見つからなかったら飼う事もなかったし」
「猫にとったら幸せだね。それで名前はなんていうの?」
「福」
「フクちゃん……」
 澤田君は繰り返した。
「猫と出会ったとき、すぐに懐いてくれてね、出会う度に嬉しくて、それで勝手に福ちゃんって呼んでたの。なんか幸運をもたらす感じで縁起がいいでしょ。あ の辺では有名な野良猫で、みんな黙って餌あげて面倒見てたと思う。それで意地悪な人が、『ねこに餌を与えるな』なんて張り紙貼ってけん制しててさ」
 澤田君は一点を見つめて何か考えこんでいた。
「どうしたの? また猫見つけたの?」
「いや、そうじゃないんだけど」
 その時、再度揺れを感じた。
「ああ、また揺れた」
 今度は錯覚とかじゃなく、確実に体に振動を感じた。
「さっきのより少し大きくなった揺れだったね」
 澤田君も浮かない顔をしていた。
「でも、あれぐらいはまだ揺れたって驚くほどでもなかったよね。家の前をトラックが通ったような振動だった」
「あっ」
 澤田君が驚いた表情を私に向けた。
「どうしたの?」
「猫、猫がいる。今なんか濡れた鼻を近づけて手を匂ってたような感じがした」
「ほんと?」
 猫は確実に私たちの近くにいる。私たちはあまり動いて怖がらせないように慎重に手探りした。ふと我に返って澤田君を見れば、ぷっと吹いてしまった。
「なんかこの格好だと、潮干狩りしてるみたいだね」
「田植えしているようにも見える」
 澤田君が返してきた。
 私もまた思いつく事を言ってみた。
「どぶさらいとか」
「じゃあ、川で洗濯」
 さらっと澤田君も想像を働かせる。
「落ち葉拾い」
 すぐに私も答えた。沢山思いついた方が勝ちみたいに思えてきた。
「ええっと、栗拾い」
 澤田君もむきになって思いつくまま言い合う。
「じゃあ、どんぐり拾い」
「それ、栗拾いと被ってるよ」
 澤田君が指摘する。
「被っても別物だからセーフ。だけど私たち、何をやってるんだっけ?」
「栗原さんがこの格好を見て笑うからだよ」
「そうなんだけど、ずっとこの格好してると段々腰が痛くなってくるね」
 私は背中を真っ直ぐにしてから、後ろにそれた。体の筋を伸ばしていたその時、ゴゴゴゴゴとまた揺れた。
「さ、澤田君」
 思わず澤田君の側に寄って無意識に彼の腕に自分の腕を絡めていた。
「だ、大丈夫だよ。揺れはそんなに強くないし」
「でも徐々に大きくなってるような気がする。どうしよう、澤田君」
 さすがに地震が頻繁に起きると、不安になってしまう。澤田君も一生懸命笑おうとするけど、顔が強張っていた。
「大丈夫だよ。大丈夫。この空間では物は落ちてこない。揺れても危険なものはないってことだよ。ちょっと落ち着こう」
 私たちは密着し、辺りを見回す。
 その時は何も変わった事がないと思っていた。
「あっ」
 また私が声を上げた。
「猫が足元にいたの?」
 澤田君が確認するために腰を曲げようとした。
「動かないで澤田君。今猫は私の足をすりすりしている」
「あっ、なんか聞こえる。ゴロゴロって猫が喉を鳴らす音」
 耳を澄ますと、低音でそれでいて小刻みに響く猫の喉を鳴らす音が聞こえてきた。
「本当にいるんだ、猫」
 私たちは顔を合わせた。
「でも、その姿が見えない」と澤田君。
「だけど、猫からは私たちが見えるんだよ」
「あっ、もしかしたら」
 澤田君ははっと閃いて、必死に考えをまとめようとしていた。その隣で私は固唾を飲んだ。
「これも仮説なんだけど、さっきから揺れてるのは、この猫と関係があるんじゃないだろうか」
「どういうこと?」
「猫は僕たちが見えてじゃれている。でも僕たちからは見えない。そのお互いが居るところの時空のズレが今、重なろうとしてこの空間が揺れてるんじゃないだろうか」
「あっ、なるほど。じゃあ、揺れが大きくなっているのは、もう少しで重なり合うってことなの?」
「かもしれない」
「じゃあ、この揺れは、元の世界に戻るために起こってるってことなんだ」
 私たちの顔がぱっと明るくなる。
 元に戻れる。それが近づいてきている。
「澤田君、やったね」
 急に力が抜けて、目が潤みだした。
「栗原さん、今猫はどうしている」
 先ほどまですりすりされていたけども、今は何も感じない。あまりにも喜びすぎて無意識で猫を蹴ったかもしれない。
「あっ、どこかに行ったみたい。どうしよう」
「大丈夫。きっとまだ近くにいるよ」
 そこで、また揺れが始まった。私は咄嗟に澤田君の腕を掴んだ。
「どんどん大きくなってる」
「これは猫のせいだよ。元の世界に戻れるチャンスなんだよ」
 私たちはいいように捉えようと必死だった。
「ここを出たら、澤田君と桜ヶ丘公園でお弁当もってデートする」
「そしてケーキを一緒に食べる」
 何かの呪文のように私たちは言い合った。
 澤田君は猫に触れようと腰を折って地面に手を向ける。私はその姿をくすっと見ながら見ていたけど、急に我に返ってすっと笑顔が消えた。
 澤田君の初恋の人は事故で亡くなってしまった。澤田君はその事故をなかったことにして、その初恋の人が生きていると思い込んでいる。でも私はその初恋の人じゃないし、この場合、澤田君にとったら私の存在はどうなるのだろう。
 そう考えたら、私は初恋の人に似ている事を利用して、澤田君の弱みに付け込んで入り込もうとしているんじゃないだろうか。
 最初はそれがすごい強みに思えたけど、事故の事を知ると納得しづらいものが出てくる。
「澤田君、まだその初恋の人のこと好き?」
 私の質問に澤田君は猫を探す動きを止めた。ゆっくりと立ち上がり私に振り向いた。
「えっと、そうだね。好き……」
 澤田君がそこまで言うと、私の心が少しずきっとした。告白して失恋したわけでもないのに、何か心をぎゅっと掴まれる苦しいものを感じる。
「……なんだけど、僕が彼女に執着するのは、勇気が出せなくて声を掛けられなかったことをとても後悔しているからなんだ。もし、僕が声を掛けていたら、少しでも何かがずれてたんじゃないかって思うんだ」
「じゃあ、私の事はどう思う?」
「えっ?」
 私ははっきりと澤田君の顔が見られなくて、すごくモジモジしてしまった。澤田君も対処に困っている。
「だから、私は澤田君のことが」
 そこまで言いかけたとき、また揺れた。今度の揺れはちょっと足元がおぼつかない。
「ああ」
 私がぐらつくと、澤田君は駆け寄ってきてくれて私を支えてくれた。
「大丈夫かい」
 気持ちを伝えたいと思っていたけど、中途半端になってしまってとても気まずい。どうしよう。はっきりと好きだと言ってしまいたいのに、喉に声が引っか かって出てこない。かぁっとする熱いものがドクドクと体の中を流れて、それが胸に溜まっていくばかりで苦しい。発散できない気持ちをかかえて、泣きそうに なってくる。
 揺れは収まったけど、私の感情は収まらない。
 澤田君も動きがぎこちなくなって、私に気まずい思いをしてそうだ。
「栗原さん、あのね、僕はずるいのかもしれない」
「えっ?」
「栗原さんが僕の初恋の人に似てるっていうだけで近づいてさ、それで調子に乗って仲良くなって、それがすごく楽しくてさ、なんていうんだろう、僕、今ではちょっと後悔してるんだ」
「何を後悔してるの?」
 私に声を掛けたこと? 初恋の人を想像して私と過ごしたこと? 澤田君の目を見ながら恐れていた。
「初恋の人に似ているって言って気をひきつけてしまったこと。そんなの関係なかった。栗原さんは面白くてとても楽しい人で、栗原さんと知り合えてとても嬉 しいと思ってる。僕は初恋の人と一度も話したこともなかったし、名前も知らないし、勝手に遠くから見ていて憧れていた人だった」
 澤田君は私をじっと見つめていた。そしてその先を続ける。
「憧れと、一緒に過ごして話した人とではなんか違うなって思う」
「それで?」
「えっと、栗原さんは本当に素敵な人だと思う」
「だから?」
「えっ? だから?」
「そう、だから、私のこと好きかって聞いてるの」
 とうとう我慢できなくて、思いっきり言ってしまった。昔から独占欲が強いから、はっきりとさせたくなってくる。自分の顔が赤くなってすごく熱くなってるのがわかる。
「えっと、その、えっと、それは」
 もしかして澤田君は私のこと好きじゃないのだろうか。やっぱり初恋の人の方がいいってことなんだ。
「そうだよね、即急すぎたよね」
「違うんだ。そうじゃなくて、ほら、前にもいったでしょ。僕は自分の事をカジモドだって」
 ああ、ノートルダムの梶本さん。
「カジモドには二つの意味があるんだ。ほぼ人間という不完全な意味と、白衣の主日といわれる宗教的な神聖な儀式をする日を表わしてるの。外面は不完全、で も内面は神聖でピュア。僕も、足を片方失った時、子供の時に見ていた『ノートルダムの鐘』を観直したんだ。その時に自分とカジモドが重なってさ、それでも 一生懸命生きていこうって思えるようになったんだ。だけど、僕はまだ成長してなくてしっかりしてないから、それで、簡単に好きだっていえなくて。ほら、 やっぱり僕、普通の人と違うし」
 澤田君は自分の足のことでコンプレックスを抱いている。そんなの気にしなくていいのに。私は外見よりも澤田君の内面を見て好きになったのに。
 私もつい、初恋の人が気になり過ぎて、澤田君に私の事が好きと先に言ってほしかった。そんなのじゃだめなんだ。好きという気持ちは自分から伝えないと。
「澤田君、だったら私が言う。私は澤田君が――」
 折角いいところだったのに、また揺れた。しかも今度はいきなり足元を救われて、立っていられない。
 その時、澤田君が二度叫んだ。
「ああ! ああ!」
「何、どうしたの」
「壁が、壁が」
「壁?」
 澤田君は両サイドを交互に見て我を忘れたように取り乱している。
 私も、同じようにまず片方に視線を向けた。
「ああ! 嘘!」
 すぐさま反対側も見れば驚かずにはいられなかった。
「ああ!」
 私たちは一緒に悲鳴をあげながら、自然と寄り添いあう。
「壁が、あの白い壁がどっちもこっちに向かってきている!」
 何事にも動じない澤田君が恐ろしいとばかりに叫んでいた。
 3
 時々感じていた揺れは、時空のズレが重なるためのものではなく、この商店街の両端をふさいでいた白い半透明の壁が、両方同時にこちらへ向かってきていたときに生じたものだった。
 これが意味する事は、私たちはこの壁に両サイドからサンドイッチのように挟まれてしまう。
「やだ、澤田君、どうしよう。これって、私が最初に恐れていたことだったよね」
 あの時私は見えない壁が迫ってくると思って悲観的になっていた。
「栗原さん、落ち着こう。まだこちらに来るまでには時間がある。それまでになんとか解決策を考えよう」
「だけどさ、ここには出口がないんだよ。どうやって逃げればいいの」
「分かってる。でも僕たちは絶対にこの難を逃れられると信じてる」
 澤田君は自分を保とうと必死になっている。私のためにもなんとかしようとしている。
 ずっと澤田君に支えられてなんとか持ちこたえていたのに、こんな展開になるなんて思ってもみなかった。
「最後でこんなのって」
 半泣きでぼやく私。
「今、最後って言ったよね」
「言ったよ」
 ぐずっと鼻をすすった。
「ということは、僕たちは今最後の難関に挑戦しているってことだ」
 澤田君はこんな時でも、またピンチをチャンスに変えようとしている。
「だけど、それを越えられないと、本当にお陀仏の最期になっちゃう」
「栗原さん、もう一度考えよう。僕たちがこの空間に囚われた意味。なぜここに入ってきたのか」
 澤田君は絶対にあきらめようとはしなかった。なら私もぐっと体に力を入れて踏ん張る。そして大きな声を無理やり出した。
「それは、猫を追いかけて始まった!」
 私は澤田君の顔をちらりと見ると、澤田君はそれでいいと頷いた。
「僕が栗原さんを見つけて、初恋の人に似てると言った!」
 澤田君も叫んだ。
 次、私は何て言おう。もうこうなったら正直に言っちゃえ。
「私は、それがまんざらではありませんでした!」
「えっ?」
 澤田君が意表を突かれたように驚いている。まさかそんな風に私が言うとは思わなかったのだろう。
「初恋の人に似てるって言われたら、そりゃ、好意を持たれてるって思うじゃない」
「そ、そう?」
「澤田君みたいな背が高くて、優しくて、かわいくて、心が純粋な人が近寄ってきて声を掛けられたら、誰だってドキドキするの!」
 やぶれかぶれだ。
 ドドドドドとその時床が大いに揺れて、私たちはお互いを支えようと手を取り合った。
 揺れが大きくなれば、あの見えない壁の時の逆パターンで、壁が店の間隔ごとにこちらに向かってくるのがはっきりと見えた。大きな白い壁はまるで生き物のようにゆっくりと威圧的に進んでいた。私は怖くて思わず目を瞑ってしまった。
 揺れが収まるまでふたりしてくっつきあった。
「あっ」
 澤田君が叫んだ。
「どうしたの?」
「やっぱりそうか……」
 澤田君は突然ぶつぶつと独り言を言いだした。そしてぐっと体に力を入れて背筋を伸ばした時、確信したようにありったけの大きな声を出した。
「僕も、栗原さんが初恋の人に似ていて、本当にびっくりして、本人だって思ってしまった。今でもそうじゃないかって、どこかで思ってる!」
 澤田君もいつしか正直になって叫んでいた。
「そんなのありえないよ」
「ううん、ありえるかもしれない。この空間の謎が分かったかもしれない」
「ほんと?」
「壁が動いて、揺れた時、猫が一瞬見えたんだ。その猫がグリッチみたいにノイズがかっていて、やがてふたつに分かれたように見えた。そこには二匹猫がいたように見えた」
「揺れてたから見間違えたんじゃないの」
「僕たちが猫を見たとき、色があやふやだったよね。それっていろんな空間にいた猫がひとつに重なっていたんだ」
「訳がわかんない」
 すぐ理解できない私。
 澤田君も上手く説明できなくてもどかしそうだ。言葉を一生懸命探して「うーん」と唸っていた。
「あのね、なぜ僕たちがここにいるか考えたら、その理由は簡単なことだったんだ」
 簡単なこと? 私にはそうは思えない。もう泣きそうだ。
「栗原さん。ずっと前に猫に餌をあげようとした時、自転車に乗ったお爺さんがいきなりどなってきたんじゃなかった?」
 あれ、澤田君にお爺さんのことまで話したっけ? 私はうるさい人って言っただけだったような……。疑問を持ちながら、あの時の事を思い浮かべた。
「うん、そうだったよ。あの時は怖かった。とにかく謝ったけど、なんか悔しくもなって、それで……」
「走って逃げた。それも目を赤くして、泣きそうに、いや、すでに泣いていた状態で走っていた」
「そうだけど、私そのことそんなに詳しく話したっけ?」
「その時、僕は見てたんだ。僕は助けに行きたかったんだ。でもどうしていいかわからなくて、足も竦んで何もできなかった」
「澤田君が私を見てた?」
「それだけじゃない。意地悪な三人組が悪口を言いながら僕とすれ違ったんだ。その三人組の後ろには初恋の人がひとりで歩いていた。虐めにあっていても我慢強くじっと耐えている様子だった。でも目だけはするどくて、虐めていた三人組を睨んでいた」
 まさに私の行動を言い当てられてびっくりする。
「すると道端で立ち止まり辺りをキョロキョロした。待っていたものが自分の前に現れると、鞄からチュールを取り出して、寄って来た白と黒の猫に与えたん だ。その時、初恋の人は猫の名前を呼んだんだけど、僕にははっきりと聞き取れなかった。でも今ならわかる。フクちゃんって呼んでたんだ」
「えっ、それって私? でも……」
「そう、それが僕の一目惚れでもあり、初恋だった。それから声を掛けるためのきっかけを作ろうと、僕も猫に餌を与えてたんだ。そして初恋の人に再びやっと会えたのに、あのお爺さんが邪魔をして僕は何もできなくなった。あの時、僕が声を掛けてたらってずっと思っていた」
「確かにそういう事があった。だけど、私は事故に遭ってないよ」
 澤田君の初恋の人は事故に遭って亡くなったって言ったのに、それじゃ矛盾する。
「あの日、栗原さんもバスに乗ろうとしていたっていったよね」
「うん」
「でも、用事ができたって、それはスマホでメールを送られてこなかった?」
「うん、その通りだけど」
 澤田君のいうことが全て私に当てはまるから驚きが隠せない。
「僕の初恋の人は、それを見て、一瞬引き返そうか迷ったんだ。でも引き返さなかった。だけど栗原さんは引き返した」
 澤田君は何をいいたいんだろう。
「この世界のことを僕はコピー、またはバックアップって言った。でも今思うと、ここが元になるオリジナルだったんだ。僕たちが居た世界がいくつもの分岐点に分かれたこの世界のコピーだったんだよ」
「何を言っているのか、まだわからない」
「栗原さんはメールを見たとき、引き返そうか迷わなかった?」
「うん、確かに迷った。あの日、クラスのみんなで集まる予定があったんだけど、虐められていた私にも声が掛かって、夏休みだったからみんな浮かれてて、こ れで流れが変わるんじゃないかって思ったんだ。その時貰ったメールはリミちゃんからだった。相談したい事があるから今から家に行っていいかって書いてあっ た。リミちゃんからの連絡は久しぶりだったから、それでどうしようかって考えて、あの時は悩んだ末にリミちゃんを優先したの。そしたら、暫くしてバス停で 事故が起こってびっくりした。その時、クラスのみんなも私が連絡しないから事故に巻き込まれたと思ったみたいで、それ以来虐めがぴたって止んだ」
「そっか。そういうタイムラインに乗ったんだ」
「タイムライン?」
「僕がいいたいのは、僕たちはそれぞれの違う世界、すなわちパラレルワールドから来たんだ。選択の岐路に立つと、どれを選ぶかでその先の未来が変わってしまう。栗原さんは、バスに乗らない未来を選んだ。僕が見たのはバスに乗る未来を選んだ栗原さんだった」
「ちょっと待って、それって、何、私がふたりいるってこと?」
「実際は決して交わることのない二つの世界。だからどちらも同一人物ってことだと思う」
「猫……だから澤田君は猫の色が違うけど何匹いるか訊いたんだ。その時、すでにこの事をわかってたの?」
「まだその時はひとつの可能性として曖昧だった。だけど栗原さんの話を訊いていたら、僕の知っていることと被るからあれって、違和感が出て、ようやく今になって謎が解けたって感じ」
「待って、待って、それって、私たち元の世界に戻ったら澤田君の世界には私がいないってこと?」
「うん、そういうことに、なるね……」
 澤田君は言いにくそうだ。
「そんな、私たち、お互い違う世界から来たってことなの?」
「僕は、いつも強く願ってた。あの事故は起こらなかった。初恋の人が生きてるって。そしてまた会いたいとも。それが、お互い猫を追いかけた偶然から、空間の歪みに入り込んで出会ったってことなんだと思う。多分僕が別の世界線の栗原さんを呼んだのかもしれない」
「そんな事って信じられない」
 澤田君の突拍子もない話は、私のキャパシティを越えてしまう。目の前に迫った危機、訳のわからないこの空間。落ち着いて考える暇もなく、パニックに陥りそうだ。
「栗原智世さん」
 澤田君が私をフルネームで呼んだ。ハッとして私は澤田君に視線を向ける。澤田君はこんな時でも笑っていた。その笑顔をみて私は魅了される。
「ずっと声を掛けたいと思っていた。恥ずかしくて、臆病で、何か正当な理由がないと行動に移せなかった。気持ちはいつも後回しで、それでいて一歩前に出る事もしなかった。そのせいで僕は悪い方の選択をしてしまった」
 澤田君が選んだ世界は本当に悪い方の選択の故だったのだろうか。私はそれがひっかかった。
 また激しく揺れだす。私たちは迫ってくる壁を見て恐怖を感じながらも、ふたり手を取り合ってなんとかしたいと踏ん張る。
「こんな時になんだけど、君の名前を知って、呼べたこと、とても嬉しかった。僕がしたかったこと、楽しくおしゃべりしたり、ふざけあったり、一緒に喜怒哀楽を共有したり、思った以上に栗原さんは素敵な人で一緒にいて楽しかった」
「んもう、なんで今そんなことを」
「そうだよね。でもどうしても言いたかったんだ」
「違うの、もっと早くにどうして言ってくれなかったのよ。もっと早く澤田君と出会っていたら、もっと別の世界があったはず。私は澤田君から声を掛けてもらったら絶対に興味を持って、すぐに仲良くなったと思う」
「本当にそうだよね。僕はいつもそれで後悔していた」
 いつだって人生に、あのときこうしていたらというのはつきものだ。今更過去のことは何を言っても仕方がない。私だって、あの時本当は澤田君の存在を無意識に見ていた。
「学校の帰り道、前方にクラスで私を虐めてる女の子たちが歩いてて、すごく嫌だなって思っていたの。できるだけゆっくり歩いて、距離を離そうとしていた。 みんなでかたまって行動している時はいい気になって、とても傲慢で、そんな三人が前から人が来ていても、避けようともせずに見下すように歩いている姿を見 ていてすごく不快だった。私もその人とすれ違うんだけど、その人、気を遣うタイプで私のために端に寄ってくれた。だから、反射で頭を下げたんだけど、なん か恥ずかしくて中途半端になったの。その後に小さく猫の鳴き声がどこからか聞こえて、近くにいると思うと、立ち止まったの。私は鞄から餌を取り出してあげ ようとするんだけど、すれ違った人が遠くから見ているって気がついた。だから私もその時、澤田君のことに気がついていたんだよ」
 あの時の事が突然思い出された。あの時はあの人も猫に餌をやってるのかなって、それで私の様子を窺っていたんだってそんな風に感じていた。それで悪びれることもなく、私は堂々と猫に餌を与えたと思う。私もあの男の子を意識していた。
「そうだったのか。なんだ、バレてたんだ」
「ねぇ、澤田君。ここでのルールはふたりで楽しむことだったよね」
「うん」
「だったら、最後まで楽しもう。壁が迫ってくるのもやっぱりクライマックスだから演出なんでしょ」
 本当は怖くて目が潤みっぱなしだ。この場に及んで私も何をしでかすのかわからない心理状態だった。
「そうだよね。ピンチはチャンスだ」
「澤田君、もう一度あの最初の出会いを再現しよう。最初からやり直すの」
 壁は確実に近くまで迫ってきていた。私たちは路地がクロスする商店街の真ん中で向かい合った。
「それじゃ、すれ違うところから」
 澤田君が後ろに下がった。私も下がる。そして同時に前に歩き出し、澤田君が私に道を譲ろうと避けた。私は顔を上げ澤田君をはっきりと見る。そして微笑んで頭を軽く下げた。澤田君も恥ずかしがりながら、同じように頭を軽く下げた。私たちはお互いを意識してすれ違った。
 次は猫の餌やりだ。そこにいると思って、私は演技する。鞄からチュールを取り出すふりをすれば、澤田君は背後で私の様子を窺う。澤田君ににこっと微笑みをしてから、しゃがんでチュールを猫に差し出すふりをする。
「福ちゃん」
 猫の名前を読んだとき、澤田君が近づいて来た。
「その猫、君に慣れてるね」
「うん。この子すごく人懐っこいよ」
 澤田君は猫の頭を撫でるふりをした。
「ねぇ、名前はなんていうの」
「福ちゃんだよ」
「ううん、君の名前を聞いているんだ」
「あっ、そうか、へへへ。栗原智世。あなたは?」
「僕は澤田隼八」
 私は立ち上がり、澤田君と向かい合う。お互い恥ずかしそうに微笑みあった。澤田君はきっとこのシチュエーションに満足だと思う。私もふりをしていてもとてもドキドキする。
 その時、足に何かがコツンとあたった。
 澤田君も同じように感じたみたいで、私たちははっとして下をみれば、そこには色が定まらない猫が私たちの足に交互に頭を擦りつけながらじゃれていた。
「あっ、猫が見える」
 私の足元で「にゃー」と可愛く鳴いた。
 私はその猫を抱きかかえようと持ち上げる。でも持ち上げたはずなのに、その場にもう一匹残ったままだった。
「あれ、猫が分離した」
 私の抱きかかえている猫は茶色のキジトラだった。もう片方は黒猫だ。
 澤田君も黒猫を抱きかかえる。
「僕は最初にこの黒猫の頭を撫でていたんだ」
「私もこのキジトラが建物の隣で顔を洗ってるのをじっと見ていた」
 ゴゴゴゴゴと地響きと共に壁が迫ってきている。あと一回迫ったら私たちは押し潰されそうだ。
 激しい揺れに立ってられなくて、私たちは猫を手放して床にしゃがんだ。
「どうしよう。この世界の事がわかっても、事態は変わらない」
 私は何も考えられなくなっていた。
「栗原さん。見て」
 澤田君が声を上げる。
「どうしたの?」
「猫たちがそれぞれ、路地の出入り口に向かっているよ」
 私がそれを確かめた時、キジトラは私が入ってきた路地に、その反対側には黒猫がいた。それらは路地へと入っていった。
「もしかしたらこの路地は使えるの?」
 澤田君は黒猫が入った路地に向かって手を伸ばす。するとその手は見えない壁に邪魔されることなくすっと入っていく。
「壁がなくなっている」
 私も澤田君の元に走りより、同じように手を伸ばした。しかし、硬いものにぶつかった。
「えっ、見えない壁がある」
「そんな、僕の時はすっと手が」
 もう一度澤田君は手を伸ばした。それはやっぱりすんなりと入っていった。
 澤田君は反対側を確かめに走った。私も着いて行く。澤田君が同じように手を伸ばしたらこちら側の路地は壁にぶち当たっていた。
「今度は栗原さんがやってみて」
 澤田君に言われるまま、恐る恐る手を伸ばしたその時、すっと何にも邪魔されず入っていくのが実感できた。
「これって……」
「それぞれ、自分が来た道が使えるってことなんだ。栗原さん、僕たちは帰る道を見つけたんだよ」
 ゲームをクリアーして澤田君は喜ぶけど、私は素直に嬉しくなれなかった。
「こんなのって、残酷すぎる。私たち、ここを一緒に出てそれでデートするって約束したんだよ。それはどうするの?」
「そうだけど」
 澤田君の眉根が下がる。
「ここを出たら、私は澤田君に会えないじゃない。澤田君のいる世界では私は死んでるんでしょ」
 私は澤田君の世界では存在しない。すでに自分が別の世界で死んでいるなんて、考えるととても複雑だ。自分が今生きてることって一体なんなのだろう。
「栗原さん、落ち着いて。今、僕の目の前には栗原さんはちゃんと生きて存在している。それは僕が自分の世界に帰っても変わらない。別の世界で栗原さんはちゃんと生きている。僕はそれを確かめられてとても嬉しい」
「でも会えないんだよ」
「そんなことない。栗原さんの住む世界に、僕は存在しているかもしれないじゃないか」
 私ははっとした。そういえばそうだ。
「それじゃまた一から澤田君との出会いを始めなくっちゃ。私のことまた好きになってくれるかな」
「どの世界線でも、僕はきっと栗原さんに会って恋をしていると断言できるよ」
 澤田君は私に笑みを向ける。でもその目がどこか悲しそうだ。
「澤田君、私も……」
 ゴゴゴゴゴ。
 いつも気持ちを伝えようとしたら、それを邪魔するように地響きが鳴る。
「ああ」
 恐怖を襲う轟き、足元をすくわれそうな大きな揺れ、そしてどんどん壁が両サイドから迫ってくる。私たちはガタガタとしながら必死に態勢を保とうとする。
「栗原さん、もう時間がない。早く路地に戻って」
「いや! 澤田君と離れるなんていや!」
「栗原さん、悲しむ必要なんてないよ。僕たちはどんな時もどんな場所でもしっかりと生きていこう。きっとどこにいても気持ちは通じ合える。ぼくたちはパラレルワールドを越えたんだから」
 澤田君は無理やり私を路地に押し込んだ。
「あっ!」よろけるように私は倒れこんだ。慌てて振り返り、手を差し出せば、そこには見えない壁ができていて、裏側からはもう戻れなかった。
「澤田君!」
 発狂したように彼の名前を呼ぶ。
 澤田君は壁が迫って狭くなった空間を、反対側の路地に向かってひょこひょこ走っていく。私は何度も彼の名前を叫びながら壁が重なり合うのを見ていた。
 やがて二つの壁が重なり合った時、目が痛いほどの光がピカッと辺りに広がり、私はまぶしくて目を閉じた。再び目を見開いた時、目の前で人が歩いている姿 が目に入る。震える足でまた一歩商店街に足を踏み入れた。反対側の路地に澤田君が立っている事を願ったけど、そこには誰も立っていなかった。いや、私がた だ見えていないだけなのかもしれない。澤田君も違う世界できっと私と同じようにそこに立ってこっちを見ているのだろう。
 商店街は人や自転車が行き交い、店の中で買い物をしている客の姿が目に付いた。肉が火であぶられる焼肉の匂いがする。暖簾が出て、店に明かりがともっていた。
 その店の前には丸椅子がふたつ並んで置かれている。あれは澤田君が置いたままそこにあるのかもしれない。
 それを暫くじっと見ていると、後ろから女性が現れて、私を不審者みたいに見ていった。
 私はぎこちなく目を逸らし、仕方なく踵を返していた。
 1
 ◇澤田隼八の時間軸

 女の子を突き飛ばしたなんていったら、酷い奴といわれるのだろうけど、あの時はそうしないと栗原さんは僕から離れようとしなかった。
 僕は栗原さんを元の場所に返した後、反対側の路地へと急いで走った。
 白い壁が両端から迫ってきている。走る場所も狭まって、最後は体を挟まれそうになりながらギリギリのところ、危機一髪ですり抜けて元来た路地に飛び込んだ。
 勢いあまって地面に転がったとき、後ろで眩い光が炸裂した。
 振り返ったときには弾け飛んだように光が消えていたが、その代わり商店街への入り口が再び現れていた。
 僕は右足を庇いながら立ち上がり、こけた拍子に打った節々の痛さを感じながら、商店街の中を覗いた。
 そこは人々が行き交い、夕方の買い物客や駅から家路に向かう通勤帰りの人たちが通り抜けをして歩いていた。
 栗原さんはちゃんと元の世界に戻れたのだろうか。僕が向かい側を見たとき、そこには薄暗い路地の入り口が黒く色を塗ったように奥が見えなくなっていた。
 誰かがその路地からやってくる――。
 一瞬ドキッとしたけど、それは全く知らない中年の女性だった。僕がじっとみていたから、視線に気がついて目があった。それが不快感だったのか、ふんとすまして去っていった。
 僕が今こうやって確かめているように、栗原さんも今あそこからこっちを見ているのかもしれない。
「あ、そうだ」
 僕はスマホをジャケットのポケットから取り出した。そして栗原さんと写った画像を見て、僕の心臓は激しく高鳴った。
 ああ、栗原さんだ。笑ってる。
 約束したとおり、僕は教えてもらったアドレスにその画像を送る。もしかしたら奇跡が起こって届くかもしれない。そんな期待を込めて送信ボタンを押した。
 その後、そのメールはエラーの知らせもなく戻ってくることはなかった。無事届いたのだろうか。
 返事を期待していたが、いくら待っても何の反応も返ってこなかった。
 辺りはすっかり日暮れ、温度がかなり下がっているのを感じる。ジャケットのジッパーを閉めて左右のポケットに手を突っ込んで帰ろうとしたとき、焼肉の匂いに一瞬動きが止まった。
 匂いの方に視線を向ければ、焼肉屋の店の前には僕が置いた椅子がふたつそのままくっついて並んでいた。そんなものを今更見ても仕方ないと、僕は振り切って家路についた。
 感傷に浸っていても何も始まらない。栗原さんは遠いところに行ってここには戻ってこない。でも事故に遭わずに生きていた。僕はそれでいいと思った。いや、思い込もうとしていた。
 でも会うことができないと思うと、胸の奥がぐっと掴まれるように苦しくなった。


 ◇栗原智世の時間軸

 辺りは暗く、冷え込んできた寒さで体がぶるっと震える。お腹が空き切って体もだるい。俯き加減にダラダラ歩きながらやっとの思いで家にたどり着いた。
 ドアを開け、ただいまの代わりに、まずはため息が出てしまう。玄関先に母がスリッパのパタパタする音を立ててやってきた。
「智ちゃん、一体どこに行ってたの。連絡もないから心配したのよ。それでマスク買えた?」
 そうだマスク。そんなことすっかり忘れてた。私は首を横に振る。
「もしかして、遠くまで行ってかなり探し回ってくれたの? お母さんもね、やっぱり手に入らなかったのよ。もう、ほんと困ったわ。まあいいわ。さあ、とにかくまずは手を洗ってきてよ。すぐご飯にしよう」
 そういって家の奥へと入っていく。
 何も知らないとはいえ、能天気なお母さんの態度が鼻につく。
 世間がどんな状態であろうと、今の私にはどうでもいいことに感じる。たとえそこに危険があったとしても、この喪失感が全てを跳ね除けていた。
 あれだけお腹が空いていたというのに、食欲すら湧かない。感覚が麻痺して足が地についているかさえおぼろげだ。何をどう考えたらわからないほど、自分の周りがぐにゃぐにゃして見ているものが本当に正しいのかすら自信が持てない。
 洗面所で手を荒い、鏡に映る自分を見れば、その鏡の中にすら別の世界があるように思えた。
 果たして今自分が居る場所は現実なのだろうか。
 疲れきった顔をしている私。口角を無理に上げてみる。頬の筋肉を指で持ち上げ、歯だけ見せても笑っている風には見えなかった。
「でもこういうときこそ笑うべきなんだよね、澤田君」
 名前を呟くとじわっと目が熱くなって、視界がぼやける。おぼろげにみる悲しげな自分の顔。もっていきようのない気持ちに泣き崩れそうになっていると、足元で福が頭をぶつけてすりすりしてきた。そこではっとした。
「福ちゃん。もしかしたら澤田君に餌もらったことあるんじゃないの」
 猫を抱き上げ、顔を合わせる。澤田君との唯一の接点。間接に澤田君を感じたかったのに、福はじっと見つめる私の目がいやで逸らしていた。そのうちクネク ネと体を動かして、ニャーと不機嫌に鳴いて本気で嫌がりだす。仕方ないので下ろしてやった。そのとたん、私を見捨ててすばしっこく去っていった。
「福ちゃんのバカ」
 つい八つ当たりしてしまった。そして無性に泣けてきた。

 ◇澤田隼八の時間軸

「栗原智世……」
 彼女の名前を口ずさむ。僕は今の方がもっと彼女を好きになっている。
 もう一度あの出会いを振り返る。
 猫を追いかけたあの時、栗原さんと出会って、僕の心臓は跳ね上がり、いてもたってもいられずに感情のままに行動した。
 初恋の人と言ったとき、僕は栗原さんを前にして気持ちが高ぶってしまった。それを言った後で、栗原さんに初恋の事を詳しく訊かれて、そこでなかった事にしていた事故の事を話す羽目になってしまった。
 ずっと記憶の奥にとどめて掘り起こすことなく埋めていたのに、口に出したとたんあっさりとあの時の事を思い出して、僕は苦しくなる。その後は言いたくなくなって黙ってしまった。
 でもそんな僕の態度など気にせず、栗原さんはあっけらかんとしていて、僕の言った事を茶化した。
 それで少し気が楽になって、ただ笑って誤魔化した。
 そして僕に名前を教えてくれたとき、ああ、この人と知り合いになれたんだと、それを素直に喜んだ。
 僕たちはお互い猫を追いかけてきた事を知り、その猫の色が定まらない事をいいあった。
 その時だ。辺りが急におかしくなったのは。
 でも僕はその時、まだ事態の重さに気がつかなくて暢気にしていたと思う。
 それよりも栗原さんと長く一緒にいられることにちょっとドキドキしていた。
 栗原さんが辺りを探っている間、僕はその彼女の様子を眺めていた。
「やっぱりなんかおかしい」
 栗原さんがそんなことを言うから、僕も和菓子屋さんを覗き込んだけど、そんなに心配することないという代わりに「お菓子屋さんだけにお菓子い?」と茶化 してみた。不安にならないように気軽に考えようっていう意味だったのだけど、真顔の栗原さんを見てこれはヤバイという気持ちになって、ちょっと反省した。
 栗原さんは自然体で気を遣うことなく明るい女の子だった。
 初めて会ったときは、虐められて目だけがきつくて踏ん張っている様子だったけど、笑うと本当に可愛い人だ。あの明るい瞳の虹彩が僕を捉えると、魅了する輝きを放つから、僕はそれが琥珀みたいだと思っていた。
 その後ぶつかったことで、見えない壁を見つけた。そこからはゲームの世界に入ったようなアドベンチャーだった。
 栗原さんがいたから、楽しいとまず思ってしまったこと、僕は置かれていた状況を楽観視しすぎていた。
 事故で足を失ったことに比べたら、全てがなんでもないことのように思えて、世の中の事は全部がそういうものなんだとまずは無条件に受けいれてしまう。
 僕の足は普通とは違うけど、僕にはこれが当たり前で僕自身なんだとずっと思いこんでいた。
 見えているものは自分次第で感じ方を変えられる。
 どんな場所であれ、最大限に楽しめばいい。不安になれば損をする。ほとんど哲の影響ではあるけど、実際困難な事を体験して、僕はそれを利用してやりたいと思う癖をつけた。
 だけど、折角栗原さんが肩車をリクエストしたのに、それを上手く出来なかったのはちょっと心残りだ。
 新しい義足にまだ慣れてないものがあって、足を曲げてしゃがんだ状態から重いものを持って立ち上がるのは少し難しい。栗原さんが重かったとか言ってるの ではないけど、高い位置に持ち上げられなかった事はちょっと男として傷つくものがあった。それも情けなくってついヘラヘラしてごまかしたけど、もう少しト レーニングして鍛えなければならない。
 夜道の暗闇で周りに誰もいない事をいいことに、僕はその場で少しジャンプして自分の足の状態を確かめた。慣れればそのうち、動きに違和感がなくなるはずだ。
 義足を着ける前、不思議と自分のなくなった足が痛くてたまらなかった。手で触れることもできないのに、頭の中ではそこに自分の足があるように思えて、そ れが悲鳴をあげているような痛さを感じた。かと思えば痒いと感じて、無意識に掻くのだけども、ただベッドのシーツを引っ張っていた。
 義足を付けたくない僕の体の抵抗だったのかもしれない。
 哲は、いつかコンピューターを駆使した自分の意思で自由に動かせる義足を作るから、その時は協力してくれなんて言ってきた。
 僕の失った足を無駄にはしないと、そこまでポジティブになることもないんだけど、哲もあれで、かなり僕を励まそうとしていた。
 義足に慣れるまでは哲が練習に付き合ってくれて、病院の廊下や階段でじゃんけんグリコして遊んだ。もちろん哲のアイデアだ。
 まだ自由に使いこなせなかった時は、沢山歩くのが嫌で、グーばかりだしていた。グリコなら三歩で済むからだ。それに気がついた哲はチョキばかり出すようになって、三歩であっても連続何回も続くとさすがに諦めてしまった。
 でもグーを出す回数が多く、それが今では癖になってしまっている。栗原さんとじゃんけんグリコをした時もついそうなってしまった。
 考え事をしながら歩いていると、住宅街の道路で後ろから来た車が軽くクラクションを鳴らした。僕は慌てて端に寄って立ち止まった。車を見送った後、夜空の星を仰ぎながら、別の世界線の事を考える。栗原さんは今頃どうしているのだろう。
 世界線が違って二度と会うことはないけど、その遠い世界に栗原さんがいると思うだけで励まされる。
 今見えている夜空の星々は栗原さんが見るものと同じものであってほしいと僕が願った時、流れ星がすっと線を描いていた。


 ◇栗原智世の時間軸

 私が存在する元の世界線。無事に戻ってこれた夜、福を側に置いて澤田君の事を考えながら眠りについた。
 澤田君との出会いから、誰もいなくなった商店街。見えない壁の存在。閉じ込められた恐怖。元の世界に戻るためにふたりで一緒に考えて、色々と試して次第に心が通っていったこと。それは楽しい出来事だったように、口元は微笑んでしまう。
 そうしてもう会えないと思ったとき涙で目じりが濡れた。
 寝返りを打てば、足元で丸くなっていた福がむくりと起き上がり、遠慮なく私の体を踏んで枕元にのそのそとやって来た。
「福ちゃんちょっと痛いよ」
 暫く枕の端を踏み踏みした後、私の隣で再び丸くなって落ち着く。
 目の前に横たわった福。私は顔を埋めて福の柔らかいもふもふの毛並みを荒っぽくスーハーしてしまう。福が「にゃーん」と頭をもたげて私に振り返った。止めてという意味だったのだろうか。心なしか目が睨んでいた。
「福ちゃん、つれないな。ちょっとぐらいいいじゃない。今日はさ、色々とあったんだよ」
 じーっと私を見つめてから、再び丸くなったので、その後は、そっと撫でてやった。今度は気に入ったのか、喉をゴロゴロ鳴らしだした。
 静寂な暗闇で聞くその低く振動する音はとても優しくて、私の心を慰めてくれる。
「福ちゃん、ありがとね」
 しばらく福を撫で、喉のゴロゴロを楽しんだ。
 その音を聞いているうちにすっと眠りに落ちていった。

 ◇澤田隼八の時間軸

 あの時の悔しかった苦い初恋が塗り替えられた。ピンクのパーカーを着ていた栗原さんは桜の花のようで、僕の初恋も桜の花のように咲き誇った。
 今はまだこの桜を散らしたくなくて、栗原さんの事を思っていたい。
 寝る前にスマホを取り出し、もう一度栗原さんの画像を確かめる。
 いつでも会いたくなったら僕には栗原さんの画像がある。それがあの不思議な空間での出来事を、常に夢じゃなかったと肯定してくれるはずだ。
 スマホの画面をタップしてスライドするのだけれど、「あれ?」っと思わず声が出てしまう。
 一度確かめてちゃんとあったはずなのに、何度探しても撮ったはずの画像が見当たらない。
「えっ、まさか間違って削除してしまったのだろうか。そんな」
 横たわっていた布団から起き上がり、真剣にスマホを操作する。
 絶対に削除なんてありえない。だけどいくら探しても、あのふたりで撮った画像が見つけられない。
 突然スマホから自然消滅してしまった。
 栗原さんのメールアドレスも登録したはずなのに、それも見当たらない。送信履歴も消えている。何度探してもその結果は同じだった。
 あの空間で撮った画像はこっちの世界では残せないのだろうか。
 あの画像を見たときは、まだあの空間の名残があったから見る事ができたのだろうか。
 メールもトラブルなく送信したと思ったけど、あの時点で消えてしまったのかもしれない。
「そんな……」
 画像を失ったと知った今、急に心細くなり、僕は何かを抱きしめたい衝動に駆られた。
 この僕がいる世界ではパラレルワールドで出会ったふたりの証拠は残せない。
 その事実に気がついた時、大切なものを無理やり奪われたみたいに、それはとても残酷に僕を締め付けた。
 我慢できなくて枕をサンドバッグのようにして何度も叩いた。悔しさは虚しさに変わり、やがてそれは悲哀となって、僕は枕を抱きしめて惨めさを労わった。
 あの空間は一体なんだったのだろう。徐々に広がっていった見えない壁から急に見えるようになった白い壁。知らない間に押しつぶそうと移動して、まるで僕たちをあの空間から追い出そうと容赦なく閉じていった。
 考えても仕方がないのだろう。そこには意味がなくそういう条件がそこにあっただけだ。空間のひずみが大きくなった後は萎んで最後は消えていく。時空の歪 みというものはそういうものだったのだろう。でも冷静に考えたらやはり僕があの空間を作り出したのかもしれない。そしてそれは僕に二度目の初恋をやり直す チャンスでもあった。
 栗原さんがバスに乗るか乗らないかの選択する分岐点を僕はしっかりと見ていたことも影響し、僕はずっと栗原さんが生きていると思い込んだ。事故をなかったことにした思いが、あの時、時空の歪みとして表れたのかもしれない。
 あれやこれやとその理由を考えるよりも、僕はあの空間で栗原さんと過ごした事をいつまでも覚えていたい。
 一晩寝てしまって翌朝になれば、夢と現実の境界線があやふやになっていく恐れを感じる。それが毎日繰り返されれば、いつか薄れてしまうのだろう。消えた画像と同じで、この世界線の現実にはあの出来事は必要ないとでもいうように――。思わずため息が漏れた。
 この世界では存在しない栗原さん。でも僕の思いは募っていく。
 僕は栗原さんが初恋の人だと伝えたけど、ちゃんと好きだと正式にいえなかった。
 僕の気持ちは伝わっただろうか。
 栗原さん、君の作るお弁当をもってデートがしたかった。そして僕の口から好きだと告白したかった。もし僕が好きだと叫んだら、その時君はどんな顔をしてどんな言葉を返してくれるんだろう。
 そんな事を想像しても今の僕には慰めにもならなかった。いつまでも心に切ない思いが溢れてくる。少しでも紛らわそうと、何度もため息でその思いを吐き出そうとしていた。そうやって夜はどんどん更けていった。

 ◇栗原智世の時間軸

 朝起きたら、自分が体験した事が夢のように、あやふやになってしまっていた。
 ずっと留めておきたいのにすぐに薄れて行くこの感覚が嫌で、自分でもどう対処していいかわからない。本当に起こったことだったと確信したくて私は決心する。もう一度、あの路地から商店街の中に入って確かめるんだ。
 身支度を済ませたあと、私はピンクのパーカーを着て同じ場所へと向かった。
 何かがまた変わるんじゃないかと期待しながら、そこで暫く突っ立っていた。
 不自然に突っ立っている私を、行き交う人が不審者みたいに見て過ぎ去っていく。路地に近い婦人服店のオーナーらしき年老いたお爺さんが店から出てきて、私を怪しんだ目でハタキを振りながら露骨にじろじろ見つめた。
「あんたそんなところで何をしている」
 商品を万引きするとでも思ったのだろうか。誤解されるのが嫌なので言い訳をする。
「あの、人を待ってるんですけど、この辺で高校生くらいの男の子を見なかったですか?」
「さあ、そういう子はこの辺よく歩いていると思うけど」
「背が178cmあって、ひょろっと細めで、いつもニコニコしているような男の子なんです」
「さあ、詳しく言われても、わからんな」
 商売人にしてはぶっきらぼうで感じが悪い。自分の不審な行動が心証を悪くしたに違いない。それでもちゃんと答えてくれたから敬意を一応払う。
「そうですか。ありがとうございました」
 頭を下げながらも、無駄な努力だったというのは内心わかっていた。それでもまだ何かが起こるかもしれないとどこかで期待すると、そこから離れたくなく なってくる。気持ちだけがぐっとこみ上げて、目が思わず潤んでしまった。どうしていいかわからないまま、少しモジモジしているとお爺さんが言った。
「なんか事情がありそうだし、気になるんだったら、納得するまでそこで待ってるがいい。どうせ、ここの商品はあんたの趣味には合わんだろうし、そこにいたところで何も心配してないから」
 パタパタとまたハタキをかけて店の奥に入っていった。
 愛想が悪いと思っていたことが申し訳なくなるほど、いいお爺さんじゃないかと心が温まった。
 お爺さんの計らいでもうしばらくそこに立っていた。どれくらいそこで待っていたのだろう。
 結局、澤田君に会うこともなかったし、誰もいないあの別の空間に再び入れることもなかった。トイレにも行きたくなってしまい、やっと諦めがついたところで商店街をあとにする。
 澤田君に会いたい。また楽しくふたりで語り合いたい。
「グ・リ・コ」
 薄暗い路地で弾むように三歩進んだ。自分を元気つけるように。

 ◇澤田隼八の時間軸

 夜が更ければうとうととして、眠りについたけど、不意にはっとして目が覚める。何度もそれを繰り返しているうちに朝になっていた。
 起きて台所を覗けば、母がお湯を沸かしているところだった。
「あら、早いのね。隼八もコーヒー飲む?」
「うん」
 母は最近やつれている。未知のウイルスのせいで、仕事場のスケジュールが変更されて、色々と振り回されている様子だ。休みが多くなり、その分給料にも響いてくる。だけど僕の前では明るく振舞っていた。
 僕が事故に遭ってから、多少の困難があったとしても僕を失うことと比べたら何でもないと思うことで気持ちを奮い起こしていた。
 トイレを済ませてからダイニングテーブルについて欠伸をすると、ケトルから蒸気が噴出した。母は火を止め僕の目の前を横切る。
「オリンピックは正式に延期が決まったみたいだけど、学校はいつから始まるのかしら」
 母は戸棚からカップを出しながら訊いた。
「世間では延期ブームだけど、うちはいつも通りだと思うよ」
「ちゃんと気をつけるのよ」
「大丈夫だから心配しないで。それよりも、お母さんこそ、気をつけてよ」
「分かってるわ」
 母は心配ないと笑った。
 僕はこのとき、栗原さんのお母さんの事を想像した。この世界では栗原さんは事故で亡くなっている。大切な娘を失って悲しい思いでいることだろう。
 別の世界線では元気だと伝えてあげたいけど、言ったところで信じてもらえないだろうし、馬鹿げていると気を悪くするのが落ちだ。そっとしておくのがいい のかもしれない。きっと僕が想像できないくらいの悲しみに包まれているに違いない。僕ができることなんて何もないし、僕もまた会うのが怖かった。
 母がテーブルの上に湯気が立つコーヒーカップを置いた。
「今日は何か予定あるの?」
「うん、まあね」
「昨日みたいに遅くならないでよ」
「うん」と答えて僕はコーヒーカップを手に取る。それをフーフー息を吹いて冷ましながら、ぼんやりとした目ですすった。
 いつもなら砂糖とミルクを入れるけど、それなしで今朝は飲んでみたかった。
 やっぱり甘みが感じられないと苦味に舌を刺激されて飲みにくい。それでも僕はそれを無理して飲んでいた。
 いつもと違う僕だと母は不思議そうに見ていたけど、特に何も言ってこなかった。それよりも、「今日の夕飯は何がいい?」と笑顔で訊ねてくる。
 僕が何かで悩んでいても、美味しいものを作れば元気を出してくれると思っていた。僕が事故に遭った時もそうだった。母は一生懸命色んな料理を作ってくれた。それが母のいつもの気遣いだった。
「なんでもいいよ」
 僕がそっけなく答えても、母はきっと手の凝ったものを作るつもりだろう。冷蔵庫の中を確かめて、すでに献立を決めている様子だった。
 コーヒーを飲み終わり、朝の身支度を済ませながら、時計を気にしていた。僕はまたあの商店街に行くつもりでいる。
 そこに栗原さんが来ている気がして、もしかしたらまた空間の歪みが発生するかもしれないと思うと確かめずにはいられなかった。
 昨日と同じ時間帯を見計らって、僕は再び奇跡が起こる事を願いながら家を出た。
 今日は黒猫を見かけなかったけど、ドキドキして路地から商店街に入れば、まばらに人が歩いていた。
 向こう側に続く路地をじっと見ていると、隣の婦人服店から気難しそうなおじいさんがハタキをもって奥から現れた。僕の方を怪しげに見ながら、店頭に置いてるマネキンに向かってハタキをかけている。
 こんなところでじっと立っている僕を不審者だと思ったのかもしれない。お互い意識しているから、気まずさを感じて僕はおじいさんに近づいた。
「あの、この辺りに高校生の女の子を見かけませんでした?」
「あんた、彼女とここでデートの待ち合わせか」
「いえ、違う……」と否定しかけたけど、僕は言い直す。「はい、そうです」
「ふーん、こんな場所でね。こんなところで女の子がいたら、すぐに気がつくけど、この店を開けてから、そんな子は来なかったよ」
「そうですか。ありがとうございます」
 僕はお好み焼き屋の隣の路地に戻り、暫くそこで空間の歪みが発生しないか待っていた。
 向かいの店のお爺さんは僕の様子を時折り見ては、首を横に振って呆れている様子だった。
 でも僕はここから動きたくなかった。
 それでも僕の思うように事は起こらなかった。
 ただすぐそこに栗原さんも僕を探しているような気がして、ずっと向かい側の路地を見ていた。

 ◇栗原智世の時間軸

 昨日は諦めて帰っても、また朝を迎えると懲りずに商店街にやって来た。春休み中、毎日同じ時間にここで澤田君を待つつもりでいる。
「あんたまた来たんかね」
 婦人服店のお爺さんだ。その後も何か言いたそうにしていたけど、何も言わずに奥に入っていった。
 お爺さんに何か言われようと、学校が始まるまでは毎日通うつもりでいる。もしかしたらと思うとじっとしていられない。
 変化を期待して前方を注意深く見ていると、またお爺さんがやってきた。
「あんたさ、昨日も十一時前にはここにいたけど、その待ち人の男の子と連絡したらどうじゃい?」
「連絡先が分からなくて」
「でもここに来るかもしれないってことで、待ち伏せでもしてるのかい?」
 ストーカーとでも思ったかもしれない。でも説明もできなかったので「はい」とあっさり答えた。
「そっか、そんなに好きな子なんじゃな。まあしっかり頑張りなさい。ほれ」
 お爺さんは私に和紙で包装された《《四角い》》ものをふたつ差し出した。
「えっ?」
「遠慮しなくてもいい。隣の和菓子屋さんが、時々売れ残ったお菓子をくれるんじゃ。そのおすそ分けじゃ」
「あっ、ありがとうございます」
 私がそれらを手にすると、最中かお饅頭か、中に餡子が入っている様子でずっしりと重たく感じた。
「まあ、気の済むまで好きな人を追いかけたらいい」
 そう言ってまた奥へと引っ込んだ。
 あのお爺さん、見かけは気難しそうだけど心の優しい人かもしれない。
 手にしたふたつの四角い和菓子をじっと見つめる。お爺さんの心遣いにほんわかしながら、もしかしてと澤田君に会えるような気になっていた。その和菓子を持ちながら胸に抱いて澤田君に会いたいと強く願った。