◇
賑わう囃子の音、高らかに響く射的の音、鉄板を叩く屋台の音。
『――会場内の皆様にご案内です。間もなく第一広場にて盆踊り大会の受付が始まります。参加を希望される方は……』
「お兄さん、これ一つどお⁉ 今ならおまけでこっちもつけちゃうよ!」
天に響くアナウンスの声、羽振りのいい的屋の声。
「キャハハ、このお面ちょーウケるー」
「おかーさん、まって〜」
「そこ、立ち止まらないでください! その先は一方通行ですよ!」
喧騒、駆け回る子どもの足音、誘導する警察官の声、どこからともなく聞こえてくるパトカーや救急車の音――。
鼓膜を掠めていく雑多な音が、どこか遠い世界の出来事のようだと感じながら、しばらくの間、私はそこに一人でポツンと立っていた。
湿った風が肌に触れ、雨を予感する。
緞帳を下ろしたように赤黒く染まる空を見上げて妙に落ち着かない気持ちになったその時、持っていた陽菜の巾着袋が着信音を発した。
(どうしよう。陽菜のだ)
巾着袋の中にある陽菜の携帯電話が鳴っているのだろう。扱いに困っているうちに一度目のコール音が鳴り止み、すぐにまた二度目のコール音が鳴り始めた。
彼氏からかもしれないし、二回もかけてきたってことは急いでいるかそれなりの用事があるのかもしれない。届けた方が良いだろうと判断し、雑貨屋に足を踏み入れながら鳴り止まない携帯電話を巾着袋の中から取り出す。
ふと画面に視線を落としたところで呼吸が一瞬止まった。
『着信中――光亮先輩』
見覚えのある顔画像に、はっきり表示された設楽先輩の下の名前。
どくん、と心臓が嫌な音を立てた。
(え、どういうこと)
間違いない。バスケ部の先輩たちと一緒に映っているその人は、バイト先の設楽先輩本人だ。
彼は元バスケ部で今夏の大会を終えて引退したばかりだった。受験勉強に専念しつつ、秋口までは息抜き程度にアルバイトのシフトを週一くらいで入れる予定だと言っていたっけ。
いや、今はそんなことどうでもよくて、陽菜の携帯に設楽先輩からの着信……それはつまり、『陽菜の彼氏』イコール『設楽先輩』ということ?
(いや、まだ彼氏と決まったわけじゃない。陽菜もバスケ部だから、たまたま何かバスケに関する連絡かもしれないし、それにそれに……)
混乱する頭で必死にその可能性を打ち消す。
そりゃもちろん先輩は格好良いしモテるだろうから彼女がいても不思議じゃない。でも、身勝手だけれどできれば相手は私の知らない人であって欲しかった。ううん、知ってる人でもいい、醜く嫉妬しないようせめて同じ屋根の下に暮らす人以外にして欲しかった。
後頭部を鈍器で殴られたような衝撃に完全に冷静さを欠く私。つんのめりながら雑貨屋のトイレのそばまで行くと、ちょうど陽菜が髪の毛のセットを終えて出てくるところだった。
「あれ、血相変えてどうしたの月乃」
「あ、いや。陽菜の電話が鳴ってて。その、『光亮先輩』って画面に……」
「え、貸して!」
ディスプレイを見せながら携帯を差し出すと、陽菜にひったくられた。
陽菜はいつもと違うワントーン高い声で着信に応じる。
『もしもし先輩、今どこですか〜⁇』『こっちは今、会場近くの雑貨屋で〜』『えっ。どういうことですか⁉』『ちょっとだけでもだめなんですか?』『そうなんですか……』
はらはらしながら電話する陽菜を見守る。
陽菜はニコニコ笑ったり、眉を顰めたり、くるくる表情を変えた後、最後はひどく不機嫌そうな顔で通話を終了した。
何かあったようだ。
「ありえないんだけど」
「え?」
こちらが口を開く前に、イラついた口調で突然そう吐き出す陽菜。
「どうしたの?」
「いや、なんかさ……約束してた人、今日来られないんだって」
言葉に詰まる。ドタキャンか、と状況を飲み込むより先に、約束していた人……つまりは、やはり陽菜の彼氏は設楽先輩だったのかというショックが全身を駆け抜けていく。
「そう……」
「しかも詳しい理由も教えてくれないし、急いでるからちょっと会うぐらいもダメだって。ついさっきまでちゃんと時間には来るって言ってたのに」
「……」
駄目だ、陽菜の言葉が全然頭に入ってこないし、返す言葉も出てこない。
でも――。
「なんなのもう! 今さら中止とかありえなくない⁉ こっちは楽しみにして色々準備してきたっていうのにさあ!」
「……っ」
「っていうか光亮先輩、なんだかんだ言って私のこと弄んでただけなのかも。本当は他に女がいて一緒に回る約束してたとか、会場内で可愛い子みつけてナンパが成功したからそっち優先したとか……ありえそー。顔面偏差値高い人はなにやっても顔で許されるとでも思ってんのかね。そんなんだったらマジ最低なんだけ――」
「設楽先輩はそんな人じゃないよ!」
「⁉」
急に声を張り上げた私を、陽菜が驚いたように目を丸くして見る。
余計な言葉は全く頭に入ってこなかったのに、設楽先輩を非難する言葉だけはどうしても聞き捨てならなくて、気がついたら大声で陽菜を咎めていた。
はっとして慌てて唇を引き結んだものの時すでに遅く、陽菜が怪訝そうな顔で尋ねてくる。
「え。月乃、光亮先輩のこと知ってるの?」
「三年の元バスケ部の設楽光亮先輩だよね。もちろん知ってるよ。バイト先が同じだから話したこともあるし」
「……」
隠す必要はないと思ってそう告げると、陽菜は若干面食らったような顔をした後、こちらをジロリと睨んできた。
「あー、そうなんだぁ……先輩、ずっと教えてくれなかったバイト先、月乃と同じコンビニだったのか。ふぅん、どうりで……」
「どうりで?」
「いや、こっちの話。それより珍しいじゃん。月乃がそんな必死になって反論してくるなんて」
歪に笑う陽菜。急に敵意がむき出しになった気がして、突き刺さる視線が痛い。
でも引くわけにもいかなかった。
「だって本当に設楽先輩はそんな人じゃないから。口数少ないから誤解されやすいみたいだけど、いつだって相手のこと思いやるような優しい人だし、きっと何かそれなりの事情があったから来られなくなっ……」
「え、なにその『私、先輩のことなんでも知ってます』みたいな口ぶり。バイト先が一緒ってだけでなに優越感浸って彼女めいたこと言ってんの」
「違っ! そんなつもりで言ったんじゃ……」
「どうだか。あ、そうか……もしかして月乃、あたしの光亮先輩狙ってたとか?」
「……っ」
「図星? うわ、サイアク。いるよねー、普段真面目ぶってるくせに男が絡むと急に目の色変えちゃう月乃みたいな女。やることやって孤立して、最終的に身内に迷惑かけてるあたり死んだ月華さんとやってること同じじゃん」
「……!」
月華――母の名前が聞こえた瞬間、頭にカッと血が昇った。
だんっと、持っていた陽菜の巾着袋を脇にあった棚に乱暴に置く。
陽菜がぎょっとしたような目をこちらに向けたが、もう止まらなかった。
「お母さんは関係ない!」
「じ、冗談じゃん。なにムキになって……」
「冗談でも言っていいことと悪いことあるよね。私だって別に迷惑かけたくてかけてるわけじゃないし、それに今日だって陽菜がどうしてもって言うから来ただけで、設楽先輩がいるってわかってたら来てなかった」
どうしよう、止まらない。
お母さんを侮辱されたことで、ずっと溜め込んできた思いが音を立てて弾けたみたいだった。
唖然とする陽菜に構わず、怒りに任せて声を張り上げる。
「いつだってそう。好き勝手相手振り回しておいて、どうしてそう人を傷つけるようなこと平気で言えるの? 私、陽菜のそういう無神経なところ……大っ嫌い!」
お母さんを馬鹿にしたこと。
設楽先輩を侮辱したこと。
その両方が、私にとっての起爆剤となった。
ふいに燻んだ空から雨がざあっと降ってくる。
感情のままに思いの丈をぶつけた私は、踵を返すと呆然として立ち尽くす陽菜を一切振り返ることなくその場から走り去った。
◇
ざあざあと降り頻る雨は本格的な熱気と湿気を纏って、あたり一帯を豪雨の渦に呑み込んだ。
傘を持っていなかった私は、ずぶ濡れになりながらもふらふら歩き続け、祭り会場付近にある小高い丘の麓までやってくる。
手入れもされず草木が伸び放題になったその丘の片隅には、天に昇るような細い石段があって、古ぼけた灯篭に両脇を囲われたそこをまっすぐに上っていくと、今にも崩れ落ちそうな鳥居が姿を現す。蔓延った蔦が絡まないよう肩を窄めてそこをくぐれば、軒先に透明な鈴を物寂しくぶら下げた社が町を見下ろすようにぽつんと佇んでいる。
成外内神社――それがこの小さな神社の名前。
手水舎もなければ、賽銭箱もない。
滅多に人がくることもなければ、誰かに崇められるようなこともほとんどない。
あまりにも廃れすぎて神様がいるのかさえわからないようなこの神社は、地元の人たちからは『なりそこないの神社』や『なりそこないの神様』などと揶揄され敬遠されている。
それでも私は、昔からこの静かな場所が好きだった。
いつから馴染みの神社となっていたのかそれすら記憶にないぐらい長い付き合いで、私にとっては心の拠り所のような場所だったから、少しの間だけ雨宿りをさせてもらおうと――といっても、すでに浴衣はびしょ濡れになってしまっているからあまり意味はないかもしれないけれど――神様にお辞儀をしてから近くに幹を構える御神木の下に身を寄せ、ごろごろと稲光をちらつかせる暗雲を見上げる。
しばらくは止みそうにないな、と途方に暮れた。
でも、ちょうどよかったかもしれない。
憤懣やるかたない思いが雨水とともに流されていくようで、幾ばくかの落ち着きを取り戻す。
(これからどうしよう)
しかし心の中は暗澹としていた。
陽菜に歯向かうということは、叔母さんに背いたも等しい。
家に帰ったら陽菜と叔母さんの双方からひどい仕打ちを受けるだろう。もう設楽先輩という心の拠り所もないし、強い孤独を感じた。
侘しい。苦しい。寂しい。
帰りたくないけど行くあてもない。
雨のせいか否か、視界の端が涙でうっすらと滲む。
歯を食いしばって眼下に広がる成外内町の景色を見つめた。
ここは小高い丘の頂付近。柵を乗り越えて飛び降りれば間違いなく命を絶つことができるだろう。そうすれば、お母さんにも会える。
「……」
そう思うと、ぼろぼろ涙が溢れて止まらなかった。
お母さんに会いたい。
お母さんの作った温かいご飯が食べたい。
お母さんに会って取り留めのない話がしたい。
お母さんと一緒にテレビを見てくだらないことで笑いたい。
お母さんにごめんねって言いたい。
「神様……どうか――」
耐え難い衝動の波がきて、ふらりと足が前に出る。
無音だった。無音で色のない世界。
希望も何もない。息が詰まりそう。
もう何もかも手放して、このまま闇に呑まれてしまいたい……と思ったその時、あたりがカッと白く光った。
「……っ!」
あまりの眩しさに、咄嗟に腕で視界を庇う。
ゴロゴロ、ピシャン――!
(か、雷……?)
いや、それにしてはものものしい光り方だった気がしないでもない。
よほど近くに落ちたのだろうか? いずれにしても我に返るには絶妙なタイミングだった。腕を下ろし、そろりと目を開ける。黒い闇の中で、降り注ぐ雨が地面で激しい白波を立てていた。
ふと、顔を上げると――。
《あー……うん》
「え……」
杜のすぐそばに、うっすらと浮かび上がる細長い影。
《ごほん。ええと、名を……呼ばれた気がするのだが……》
「ひっ!」
若々しい声で語りかけてくる『それ』――きつねの面を被り、すらりとした体躯に黒っぽい着流しを纏った、やや靄がかっている人影――に、思わず目を丸くする。
「き、っきゃあああっ……お、おばっ、おばっっ、おばけーーッ‼」
《なっ! ぶ、無礼者っ。『神』に向かって『オバケ』はないだろう!》
反射的に出てしまったその台詞。あまりの動揺に頭の中は半分パニックで、失礼だとか無礼だとか考える余裕は全くなかった。
その神様(らしい?)はさも心外だというようにこちらを窘めてくるんだけれど、声色も雰囲気も若々しくて全く神様っぽさがないし、そもそも狐の顔をした人にいきなり『神だ』なんて名乗られたっておばけ以上に実感が湧かない。
「かかかか神……様⁉ ほ、本当に、本当に神様なの⁉」
《どこをどう見たって『神』だろう。おぬし、呼び出しておいて無礼にもほどがあるぞ》
むっとしたように言う神様。がちがち震えながらも冷静になって考えてみれば、確かにこれだけ豪雨の中に立っているというのに全く濡れている気配がないことや、目を凝らすと若干光る粒子のようなものを全身に纏っているあたり、人ならざる空気を感じる。
「ごっ、ごごごごごめんなさいっ。で、でも、あの、その……」
《なんだ。言いたいことがあるならはっきり言え》
「えっと、その、まず狐のお顔が怖くて……」
《――顔?》
こくこく頷く。あたりが真っ暗ななか、時々発生する稲光が反射して狐のお面がすうっと闇夜に浮かび上がってくるから、実際かなり不気味だった。
正直にそう申し上げると、
《そうか。この顔がそんなに怖いか……。とはいえ、神が人前で素顔を晒すなど前代未聞。うーむ……》
神様は少し迷ったように顎に手をあてて考える。
《……! そうだ、ではこうしよう。縁結びの神らしく、おぬしにとっての『理想の器』を今ここで顕現してみせよう》
と、得意げな声色でそんな提案をしてきた。
仰っている意味はよくわからないけれど、そういえば確かに、この成外内神社の神様は、縁むすびや夫婦和合としての神徳があるとされているんだっけ。
「り、理想の器を顕現、ですか……?」
《ああ。それならおぬしも神の存在を信じるだろうし、畏れも取り除けて一石二鳥だ》
「仰ってる意味がよくわからないのですが、具体的にどうすれば?」
《目を閉じ、そうだな……想い人の顔でも強く念じればいい》
「おっ、想い人⁉ で、でもそれはっ……」
《心配しないでもまだ縁を結ぶわけではないし、姿を借りるだけだ。よいから早く》
「え、あっ、はいっ」
急き立てられるように言われ、慌てて目を閉じる。
困ったな……。想い人、いるにはいるけれど、設楽先輩を思い浮かべたところで陽菜に迷惑がかかったりはしないだろうか。
「……」
でもまぁ、神様も『縁を結ぶわけではない』って言ってるし、他に気になる人もいないから素直に思い浮かべることにしよう。
思い切って先輩の顔を脳裏に思い描く。
凛々しくて、優しくて、穏やかで、温かい眼差しをした設楽先輩の顔。すると――。
――ガラガラ、ピシャン!
「……っ!」
急に近くで雷が落ちるような音がして、びくっと肩を跳ね上がらせる。
ざあざあざあ。夜のしじまに響く絶え間のない雨音。
《目を開けてよいぞ》
神様の声が聞こえて言われるがまま恐る恐る目を開けると、狐のお面を外した神様が立っていた。
「な……」
その顔は設楽先輩そのものになっていて、思わず心臓が跳ね上がる。
「せ、先輩っ‼」
《どうだ。これなら文句ないだろう》
ふん、と鼻を鳴らす神様に、何度も肯いてみせる。
うわあ。どうしよう先輩だ。黒目黒髪の先輩と違って目の色は少し茶色がかっているし、髪の毛の色も美しい黄金色に輝いているものの、顔も背格好も見れば見るほど設楽先輩そのものすぎて余計に直視できなくなってしまう。
「文句どころか私には神々しすぎます……」
《……ったく。急にしおらしくなりおって》
肩をすくめた神様はふうと一息つくと、両腕を体の前で組んで踵を返す。
《とにもかくにもここにいては風邪を引く。ついてこい》
神様はそう言って、小さな社に向かって歩き出した。
◇
成外内の神様が普段鎮座されていらっしゃるだろうその社は、ところどころ蔦が絡み、社周辺は雑草に覆われているものの、屋根が広く作られているため雨を防ぐことは充分にできる。
神様は辛うじて草の生えていない社正面の石の土台位部分に腰をかけ、闇夜に広がる雨雲を見上げた。
雨はいまだに止む気配がなくあたりは静まりかえっていて、雨音と杜の軒先にぶら下がるこの神社特有の硝子鈴の音以外何も聞こえない。
《まぁ座れ》
神様の手前、無遠慮に座っていいものか迷ったが、小さく肯いてから神様より下の段にそっと腰をかける。
神様に背を向けるだなんて失礼かなとも思ったけれど、横に座るよりはいいよねと自分自身に言い聞かせた。
今、自分のすぐ後ろに設楽先輩の顔をした神様がいるだなんて、なんとも不思議な気分だ。
「あ、あの……」
《なんだ?》
「やっぱり、余計に緊張してしまうので狐のお顔のままでいいです……」
《……。そうか》
「せっかく気を遣って下さったのに、すみません」
俯いたままそう告げると、神様はさして気にした風でもなく《別に構わん》と仰った。
ごろごろ鳴る雷。ちらりと横目でみやれば神様は再び狐のお顔に戻っている。
「おばけだなんて失礼なことを言って申し訳ありませんでした。まさか本物の神様が現れるだなんて思ってもみなくて……」
《神といっても……今や『なりそこないの神』だがな》
「なりそこないだなんて、そんな……」
《この有様をみればわかるだろう。長らく廃れて人っ子一人訪れん。我々神は人々の信心を得られなければ力を失い、やがて消滅する。今や私も、姿形を変えることぐらいしかできぬ、なりそこないにまで落ちてしまった》
「……っ」
《神だと名乗っておきながら、情けないものだろう》
憂いを帯びた神様の呟きに、ぐっと言葉を飲み込む。
参拝者がいないという点については否定ができなかった。私自身は昔から何度もここへきてお供物をしたり手を合わせたりはしていたけれど、確かに自分以外の人の気配があったことは今までに一度もなかった。
小高い丘という立地も要因だろうけれど、このすぐ近くにもっとアクセスがよくて有名で大きめな神社があるから、皆そちらに行ってしまうのだろうと思う。
「私は……私は好きです。この場所も、成外内の神様も。昔から何度も救われてきました。だから、その、消えてしまわれたら困ります」
《言ってくれるな。おぬしぐらいだぞ、そんな物好きは》
畏れ多くて振り返ることはできなかったけれど、神様が微かにふっと笑ったような気配がした。
《いまだ私が神としてこの地に止まれるのはおぬしのような物好きのお陰だろう。かねてからなにか報いることができればと思っておったところに、あのような現場を目の当たりにすることになろうとはな……》
嘆くようにそう呟いた神様は、どきっとしている私に構わず単刀直入に尋ねてくる。
《なにゆえ神の前で命を絶とうなど不届きを働こうとした》
言葉は厳しめだけれど、ゆったりとした口調に包み込むような優しさがあって、
「……」
《思う存分話すがよい》
懐を貸してくれるようなその一言には、神様なりの労りと慈悲の心が溢れているようだった。
「申し、わけ……」
返事をしようと、声を出そうとしたけれど、精神的に参っていたせいか優しくされると余計に感情が溢れてきてしまって、いつの間にか眦に溜まっていた涙がぽろりと零れた。
「あれ……ごめ、なさい……泣く、つもりは……」
一度零れてしまうともう止まらなかった。堰を切ったように負の感情がわき出てきて、両手で口元を抑えながらぼたぼたと涙を流す。すると、
《謝る必要などない》
ふわりと、頭を優しく撫でられるような気配がした。
神様が人に触れるだなんてそんな非現実的なことがあるだなんて夢にも思えないから、きっとそんな気配がしただけなんだろうけれど……それでも。
《気がすむまで泣けばよい》
「……」
神様の手は母のように優しく、父のように温かかった。
穏やかで柔らかい風が、まるで慰めるようにわたしの髪の毛を撫でていく。
「……ひっぐ……」
せめて今だけでも一人じゃないんだってそんな気持ちになって。
身体中の毒素が全て流れ出ていくように、止めどなく零れる涙。
神様はただただそっと優しく、見守るように私の言葉が整うのを待ってくれた。
◇
長らく時間はかかったけれど、ようやく涙も止まり呼吸も落ち着いてきた頃に、ぽつりぽつりとそこに至る経緯を話し始める。
幼い頃に自分のせいでたった一人の肉親である母を失ったこと。
それ以来塞ぎ込むようになり、学校でもなかなか友人ができず孤立していること。
引き取られた家で日々責め立てられ暴力を振るわれたり厄介者扱いされていること。
唯一、心の拠り所だったバイト先の親切な先輩も、わけあってもう頼れないこと。
従姉妹と喧嘩をしてしまったため、帰る場所すら失ってしまったこと――。
「初めての喧嘩だったんです。居候の身だし、従姉妹にはなにを言われても我慢するしかないってわかっていたから、いつも通りただ黙って頷いていればよかったんですけど……。今日は母や親切にしてくださっている先輩のことを悪く言われて、どうしても我慢ができなくて」
《……》
「家に帰ればきっと叔母にもきつく咎められます。逃げようにも行く場所もないし、ここへ来て色々考えていたらふと死んだ母を思い出してしまって、それで……」
《感情が昂り、衝動的に足が出てしまった……と?》
「はい」
正直にそう答えると、神様は《ふむ》と唸ってから、しばらく考え込むように沈黙を下ろした。
小さく息を吸って吐く。
腹の中に積もらせていたものを全て吐き出したせいか、幾分気持ちが楽になった気がする。……とはいえ、根本的な問題が解決したわけではないので、複雑な心情で天啓を待ち望んでいると、
《なるほどな、事情はわかった。雑感はひとまず留め置いて、最期に私の名を呼んだのは何故だ?》
「え?」
《とぼけるでない。足を踏み外そうとした時に私の名を呼んだだろう。何を願おうとしたのかと聞いている》
「それは……」
その時のことを思い返し、唇を噛む。
『神様……どうか――』
あの時私は、たしかに神様に願おうとした。
「……」
《正直に申せ》
――いや、違う。
「『生まれ変わったら、もっと素直で明るくて強い自分になれますように』って……願おうとしました」
本当は、願うというよりも縋ろうとしていたのだと思う。
ずっと弱くて卑屈な自分が大嫌いだった。
だから神様に縋って、今の自分はもう終わりにして、もっと素直で前向きな自分になれたならどれだけ幸せだろうとそう思ったのだ。
《生まれ変わりたい、か……》
「そんな都合の良いお願い無理ですよね。あの時は頭の中がいっぱいで……」
《確かに厚顔無恥も甚だしい願いだな》
「うっ」
《機械じゃあるまいし、そう簡単に人の生き死にや転生を支援する神がいるわけなかろう》
「うぐっ」
《そもそも元来、神とは願いを叶えるものではなく日々の神徳に感謝されてしかるものだ。そのあたりからして、おぬしは神という存在を履き違えている》
「うう……返す言葉もありません……」
思いのほかきっぱり言われてしまってしおしおと萎れる。
そういえば、神仏マニアらしいうちの学校の校長先生も終業式の日に言っていたっけ。
神社参拝の際は神様にはまず日頃の感謝を伝えましょう。願い事をするのはそれからです――と。滔々と語られる参拝マナーの話は三十分以上にもおよび、貧血者が続出していたことが記憶に新しい。
改めて自分の知識不足を恥じていると、神様は《だが、まぁ》と前置きをした上でさらに続けた。
《これまでのおぬしの苦難を思えば、そのような願望がわく心理もわからなくはない》
はっと顔をあげる。てっきり気分を損ねてしまったのかと思ったが違った。
ちょこっとだけ首を捻って背後を振り返ると、神様は微動だにしない狐顔のまま、やや天を仰ぎ見て言った。
《おぬしには随分と世話になったからな。条件付きであること、それから一度引き受けた願いは二度と取り消せぬこと前提だが、それでよければその願いを叶えてやらんこともない》
「えっ⁉」
まさかのお言葉に思わず声が裏返る。
「ほっ、本当ですか⁉ で、でもっ、どうやってです? 神様、力が薄れているせいで今はもう姿形を変えるぐらいしかできないと仰っていましたし、人の生き死にについても支援はできないって……」
《まぁな。だが神の力を侮るな。少しばかり骨を折ることにはなるだろうが、おぬしが長年私に捧げ続けた敬虔な祈りの結実を持ってすればできぬこともない》
「……!」
希望が見えて、目の前にぱあっと光がさす。
仰っている意味は難しすぎてよくわからなかったが、新しい自分として生まれ変わることができるのならばいくらでもこの身この命を捧げよう。
「お願いします……願いが叶うならどんな条件でも必ずクリアしてみせますから」
《そう急くな。今一度いうが一度引き受けた願いは二度と取り消せんのだぞ? よいのだな?》
「はい、もちろんです。一体どうすればいいでしょうか……?」
食い気味に身を乗り出すと神様はやれやれと言ったように肩をすくめ、顎に手を当てながらこう説いた。
《では条件だ。まず、因果応報という言葉の通り、今のままでは新たに生を受けたとしても同じような運命を辿ることになる。蟠りのない人生を送りたいのであれば、今生でも蟠りのない終焉を迎えねばならぬ》
ふむふむなるほどと頷いてから顔を顰めた。それってつまり……。
《おぬしの考えている通りだ。今現在心に抱いている閊えを全て解消してまいれ》
「えっ⁉」
やっぱり……! ちょっと待って欲しい。心の閊えを一人で解消できるほどコミュニケーションスキルが高くて器用な性格だったらそもそも死のうとなんて考えないのに。
「うぅ」
《なんだその不満そうな顔は》
「だっ、だって無理ですよ……」
《できないと思うからできぬのだ》
「そ、それはそうですけど」
《まぁ確かに今までのおぬしなら無理だろうな。だが、今までと違って今のおぬしには私がついている。死んだ気にでもなれば容易いことだと思うが?》
あ、そうか……。言われてみれば確かにそうかも。
嫌なことがあっても、なんとかやり抜きさえすれば神様が生まれ変わらせてくれる。そう思えばできなくはない気がして俄然やる気が湧いてきたが、すぐさま壁にぶつかった。
「そっか。そうですよね。頑張ってみようと思うのですが……一体なにからやればいいんだろう」
閊えがありすぎた。
短い私の人生、失敗と後悔だらけだ。
閊えなく納得して過ごしている項目自体乏しかったりする。
「今一番の閊えといえばやはり叔母や従姉妹のことなんですけど、帰宅して自分の意見を口にしたところで叔母さんが私の意見を聞き入れてくれるとは到底思えないし、家に帰ったらきっと罵声やひどい体罰が待っているかと思うとどうしても気が重く……」
《そもそも家に帰る必要はあるのか?》
「え」
虚をつかれた質問に、目を瞬く。
《罵詈雑言や体罰だけでも充分目にあまるが、身上監護を放棄とまであっては法度が黙っておらん案件だろう。いざとなったら相手をぶん殴ってでも家を出てはどうか》
「ぶっ、ぶん殴……⁉ あ、あの、さすがにそこまでは……」
《おぬし、先ほど言っておっただろう。毎日奴隷のように働かされ、時に暴力を振るわれ、挙句親の遺産まで巻き上げられて充分な養育を受けていないと。おぬしは遠慮して言葉を選んでおったが、側から見ればそんなもの虐待も同然だ。おぬしがいる今の環境は劣悪以外のなにものでもない。何故もっと早く身の回りの者に助けを求めなかった》
ぴしゃりと指摘され、慌てて身を縮める。
「……っ! ごめんなさい、それが当たり前かと……。それに、行くあてもないし相談しようにも誰を頼ればいいのかわからなくて」
《誰でもよい。家を出、すぐさま身近なものに助けを求めよ。一人相談して駄目なら二人、二人相談して駄目なら三人。縁を動かすためにもまずは声をあげることに意味がある》
ふん、と鼻で息をするようにそう告げる神様。
意外と体育会系の神様らしい。
でも……そうか、そうだよね。
ようし。こうなったらもう、とことんやってやろうじゃないの。
唇を強く噛み締めて力強く頷くと、すっと立ち上がる。
「わかりましたっ。私、やってみます。見ててください!」
意気揚々と宣言し、失礼しますと告げてからぺこりと頭を下げる。
どこか満足そうに頷く神様を横目に踵を返すと、いつの間にか小ぶりになった雨の中を颯爽と駆け抜ける。
まさか神様、試練を与えるだけ与えて消えちゃったりしないよね、なんて無用な心配を胸の片隅に抱きつつ、この奮い立った勇気が消えないうちに、冷え切った義理の家族が待つ自宅へ歩みを進めるのだった。
◇
――がんっ、がらがらがしゃんっ。
鈍い音とともに、強烈な痛みが頬と背中に同時に走る。
玄関の扉を開け、敷居を跨いで家に上がろうとした瞬間、頬を張り飛ばされた。
目の前には体の前で両腕を組みまるで汚物に向けるような眼差しで私を見下ろす義母と、その背中に隠れるようにして口元を歪めている陽菜の姿がある。
張り飛ばしたのはもちろん、叔母である義理の母。
その衝撃で玄関脇にある傘立てまでふっ飛ばされ床に転がった私は、じんじん痛む頬を両手で抑え、早まる心音と恐怖心を必死に押し隠しながら叔母さんを見上げた。
「よくもまあ、おめおめと帰って来れたもんだねぇ、この汚い溝鼠が!」
耳を覆いたくなるような罵声が頭上に降ってくる。
この口調、そして声のトーン。
今の叔母さんは間違いなく激昂モードだ。
「聞いたわよ全部。あんた、うちの陽菜を長時間待たせた挙句、彼氏を取られた腹いせに暴言吐いて祭りを台無しにしてばっくれたんだって? なんっっっって恩知らずな娘なのかしらねぇ! あんたのせいで泣きながら帰ってきたんだよ陽菜は! しかもわざわざ厚意で貸した大事な浴衣をそんな泥だらけのびしょびしょにして……カビ臭いったらありゃしない! 弁償だけで済むと思ったら大間違いよ。土下座しようが何しようが今日という今日は許さないからね!」
身に覚えのない筋書きに絶句した。
叔母さんの後ろでぺろりと舌を出している陽菜に気がつき、またかと唇を噛み締める。
思えば叔母さんは稀に、手がつけられないほど暴力的になることがあった。
陽菜と私に確執が生じた時、私が叔母さんの指示通りに動けなかった時、陽菜が学校のテストで悪い点をとった時、単に虫の居所が悪い時……など。
きっかけは様々だがその大半はなんらかの形で陽菜が絡んでいる。
腹いせ、もしくは叔母さんの怒りの矛先を自分から逸らす目的で標的にされているのだろう。
幼少の頃はよくあったものの、高校生になった今では口外されるのを警戒してか折檻よりも口撃が主だったため、久しぶりに味わう苦い感触だった。
「さあてどうしてくれようかしら。まずは土下座からかしらね」
叔母さんが姿勢を解き、こちらに詰め寄るように足を出す。
いつもならこのまま叔母さんの小言と暴力に歯を食いしばって耐えるしか選択肢がないのだが、今日の私は違った。
「早く立ちなさ――」
「いっ……いい加減にしてくださいっ!」
「……っ⁉」
恐怖心をかなぐり捨てると、私の腕を掴んで立ち上がらせようとした叔母さんの手を振り払い、自らの足で立ち上がる。
「ちょ、な……」
「……」
正直、ものすごく怖かった。足だって震えてる。
でも、大丈夫。わたしには神様がついてる。
自分自身を鼓舞するよう心の中で何度もそう暗示をかけて腹を括ると、驚いたようにこちらを見る叔母さんと、その後ろにいる陽菜をきっと睨みつけた。
「な、なによあんた……」
「約束の時間に遅刻したり大事な浴衣を濡らしたことなら謝ります。で、でも、それならなぜあの時に掃除や洗濯など無理難題を仰ったんでしょうか」
「な……」
拭い切れなかった恐怖心に声が震えたが、胸の閊えを吐き出せた興奮で僅かに溜飲が下がる。
今までにない剣幕に驚き、唖然と口を開けている叔母さんに私はさらに畳み掛けた。
「そ、それに……お借りしたこちらの浴衣ははじめから染みや匂いがひどい状態でした。確かに雨や泥で汚してしまった部分もあると思うのでその点は弁償しますが、私のお金は叔母さまが管理されていて自由に使えませんし、貯めているアルバイト代もまだ学生でそんなに多くはないので、相場を調べてから相応の支払いをするってことで良いでしょうか?」
「ちょ、な、な……」
口を挟む隙を与えないように一気にそう捲し立てると、口籠る叔母さんに「では、着替えてくるので……」と断ってから部屋に向かおうとした。
――が、もちろん、その途中で我に返った叔母さんに浴衣の裾を引っ張られ壁に叩きつけられた。
がしゃん、がらがら!
転がっていた傘立てに足があたり、床に散らばった傘がさらにばらばらになる。
「……っ!」
「あたしに口答えしようなんていい度胸じゃないの! しかもその生意気な口ぶり、小利口な言い草……死んだ姉さんにそっくりすぎて胸糞悪いったらありゃしない! あんた、これ以上身体に傷つけられたくなけりゃ今すぐこの家から出――」
「い……言われなくても出て行きますっ」
ぎゅっと拳を握って、間髪入れずそう答える。
叔母さんはもう、驚きを通り越して愕然とするように私を見た。
予想外の展開に、叔母さんの後ろにいる陽菜でさえ狼狽しているのがわかる。
「ちょ、ちょっと待ってよ月乃、ほ、本気で言ってんの⁉ どうせ行くあてなんか……」
「行くあてなんてない……。でも、ここにいて延々と厄介者扱いされたり理不尽な思いを強いられるぐらいなら、どこかで自由に生きて野垂れ死んだ方がましだから……」
「な……」
今まで大人しく従うしかなかった私が急に手のひらを返したものだから、慌てて仲裁に入ろうとした陽菜はもちろん、叔母さんなんか口をぱくぱくさせて言葉に詰まっていた。
「……」
「じ、冗談でしょ……」
私は絶句する二人の脇を無言ですり抜けると、自分の部屋――とは名ばかりの単なる納戸――まで駆け上がり大急ぎで荷造りをする。
ずぶ濡れの浴衣を脱ぎ、私服に着替える。学校とバイト先の制服、教科書や母の形見、その他の必需品をボストンバックに素早く詰め込んで肩にかけると意を決して部屋を飛び出した。
玄関先にはいまだに呆然と突っ立つ陽菜と叔母さんの姿があり、陽菜は予想外の展開におろおろしながら慌てて叔母さんの服の裾を引っ張った。
「ち、ちょっとママ! 月乃が本気で……」
「放っておきなさいっ! どうせ何もできやしないしすぐ戻ってくるわよ!」
「で、でもっ、もしこのことが街で噂にでもなったら……」
「そ、それは……」
陽菜の指摘にギリっと唇を噛み締める叔母さん。
何か物言いたげにこちらを睨んでいるけれど構わない。
「今まで色々ありがとうございました。浴衣は後日お返しいたします」
「ちょ、ちょっと月――」
――バタン。
陽菜の制止を振り切るように玄関扉を閉める。
抱えていた鬱憤を全てその場に置き去りにするよう踵を返すと、雨上がりの夜道を風を切って走った。
「……」
――怖かった。
でも……すっきりした。
これからのことを考えると頭の中は不安でいっぱいだけれど、全くと言っていいほど後悔はなかった。
立ち止まり夜空を見上げると、いつの間にか満点の星空が優しく包み込むように広がっていて、その壮大な眺めになぜだか少し泣きそうになった。
(もうあの家には帰らなくていいんだ)
そう思うと不安よりも安堵の方が大きく胸の中に広がって、溜まっていた涙が無意識にぼろりと溢れる。
(泣くな私。こんなところをお巡りさんに見つかりでもしたら連れ戻されちゃうかもしれないし、早いところどこかに身を寄せよう)
強く握りしめた拳でごしごし目元を拭う。
未知なる経験にまだしっかり順応しきれていない頭で一番最初に思い浮かべたのは、さほど遠くない場所にある町外れの図書館だった。
あそこなら確か夜の二十一時半まで開館していたはずだから、ひとまずはそこで呼吸を整え、今後について考えよう。
(――きっと大丈夫。私には神様がついている)
呪文のように心の中でそう繰り返して。
顔を上げると町外れにある図書館を目指し、力一杯駆け出した。
◇
町外れにある図書館のそばまでやってきた私は、建物の手前にある噴水広場でふと歩みを止めた。
薄暗い広場の中央、乏しく揺れる街灯の明かり下で地面にしゃがみ込んで必死に何かを探している女の子の姿がある。
(あれ? あれって……)
茶髪のセミロングをハーフアップにまとめ、オフショルダーのフリルシャツにフルレングスの折り返しズボンを穿いた見覚えのある顔――。
「山川さん?」
「ひゃあっ」
そばに歩み寄り、背後からそっと声をかけてみたところ素っ頓狂な返事が返ってきた。
髪の毛を揺らしながら勢いよくこちらを振り返ったのは、やはりアルバイト先の新人・山川さんだ。今日は急用という名の彼氏とデートの日だったはずだが、こんなところで一体何をしているんだろう。
「び、びっくりしたっ! 七瀬さんじゃん!」
「驚かせてごめんなさい。こんな時間にこんなところで何してるのかなって思って」
「ほっといてよ。てゆーか、そっちの方こそそんな大荷物抱えて何してんの。家出?」
「家出かぁ。まぁ、平たく言えばそんなものかな」
「え。ガチとか。やめてよそういうブラックジョーク。真面目な七瀬さんが言うとリアルに聞こえちゃうんですけど」
顰めっ面で一歩引く山川さん。初めて彼女とプライベートな会話をしたけれど、いつにもまして忖度がない。
リアルなんだけどなぁと思いつつも、これ以上リアクションに困らせるわけにはいかないので黙っていると、
「まぁ、どうでもいいけどさ。早く行かないと図書館閉まるよ」
山川さんは心底どうでもよさそうにそう言って、再びその場にしゃがみ込み探し物を再開した。
言葉はキツいが至って平然と言うので、あまり気にはならない。どうでもいいということは、裏を返せばどんな自分でも構わないということだから。好かれようと取り繕う必要がないため、むしろ接しやすくすら感じる。
「暇だし手伝うよ。探し物でしょ」
だから、本当に気まぐれでそんな言葉が口から出てきた。
「え。なんで」
案の定、意表をつかれたような表情で山川さんが私を二度見してくる。
なんでと言われても、なんとなくそうしようと思ったからとしか言いようがない。
「すごく困ってそうに見えるのに、見て見ぬ振りする自分は嫌だから。何探せばいい?」
いうが早いか、荷物を下ろすと私も同じようにして地面にしゃがみ込んだ。
驚いてこちらを見つめる山川さん。近づいてみて分かったけれど、やはり彼女の目元が赤く腫れている。泣き腫らした後、と表現して差し支えはないだろう。
彼女はしばし唇をかみしめ逡巡していたが、
「無理だよ。絶対見つからない」
「でも探さないといけないんでしょ。ものが何か教えて」
「……ピアス」
「ピアス?」
「うん。無断で借りてきたお姉ちゃんのピアス、片方だけ落としちゃったの。これと同じヤツ」
そう言って、彼女は後れ毛を耳にかけると左耳につけていたピアスを指さした。
山川さんの柔らかそうな耳たぶにはローズゴールドに光る、米粒並みに小さなハート型ピアスが嵌まっている。
「うわ、小さいね」
「彼氏からもらったブランドもので七万近くするって言ってた」
「なっ、七万……!」
思わず声が裏返る。そりゃ必死にもなるわけだ。
山川さんはごしごし目元を拭うと、半分自暴自棄になるように加えて言った。
「はーぁ。ほんっとついてない。明日、あたしの誕生日なのにさ。彼氏が明日予定入ってダメになっちゃったっていうから急遽今日に予定変更したら、楽しみにしてた映画が館内メンテナンスの日に当たっちゃって結局観れずじまいだし、甘いスウィーツで口直ししようと思ったら目ぼしいカフェは軒並み祭りの影響で臨時休業になってるし、だったらもう祭りで楽しんでやろうと縁日に繰り出したはいいけどソッコーで大雨にやられるし」
「……」
「何もかもうまく行かなくて結局彼氏と喧嘩になって、一人になって自棄になってここで泣き喚いてたら、ハンドタオルにピアスのキャッチが引っかかってピアスごとどこかに飛んでっちゃうとか……。マジあり得ない。ホント最悪。絶対呪われてるとしか思えない」
愚痴を吐き出すようにそこまでの災難を余すところなくぶちまける山川さん。
わざわざ説明してくれた、というよりは、単に誰かに話してその鬱憤を晴らしたかったのだろうと思う。さすがに彼女が不憫に思えてきて苦笑いがこぼれた。
「大変だったね」
「大変どころじゃないし。あたし史上最悪の……って、あ。忘れてた。私、七瀬さんに今日のバイト押し付けてたんだっけ……」
山川さんは今さらながら『しまった』といった顔つきで、バツが悪そうに私を見た。
普通、そういうことは心の中で思っても口や顔には出さないものではないだろうか。
「うん。『七瀬さん暇だよね⁉ 急用だからお願い!』って、こっちの予定も聞かず、割と強引めに」
「うっ。あ、あは。ウソウソ、今の全部ウソ! 今日、本当は親戚のおばあちゃんが……」
慌てて取り繕ったように言い訳を始めようとするその様子があまりにもおかしくて、思わずぷっと吹き出してしまった。
「過ぎたことだし別にもういいよ。むしろ、思っていた以上に本当に急用だったっぽいし」
「……」
「その呪い、私からってことでそれでチャラね。……ほら、早くピアス探そ」
そう括ってピアス探しを再開する。
山川さんは面食らったようにぽかんとしてた。
そりゃそうだよね。普段の私なら相手の反応をあれこれ気にしてしまって、こんな軽快なやりとり絶対にできないはずだから。
神様がついているせいか、あるいは全てがうまくいったら山川さんともどうせお別れになるだろうという割り切りがあるせいか。いつになく言葉も感情も朗らかに振る舞えた。
「意外」
「え?」
「七瀬さんって、意外と話わかるじゃん」
「私、話通じない人だと思われてたの?」
「話通じないっていうか、大人しくて堅物な真面目ちゃん? 口には出さなくても『人を騙すなんて山川さんサイテー』ぐらい言われるかと思った」
「シフト変わったくらいでそこまで言わないよ」
「えー。あたしなら自分の時間潰されるのヤダから言うけどなぁ。って、押し付けたあたしが言うのも変か」
あけすけに物を言う山川さんは、苦笑気味にこちらをチラ見しながらも「まぁ、とにかくシフト押し付けちゃってごめん」と素直に詫びた。
何食わぬ顔で返事してその件に区切りをつけたけれど、まさかこんなところで心の閊えがまた一つ解消するとは思わなかった。
そういえば確か神様は『縁を動かすためにも』と言っていたし、もしかしたらこれは、神様がお膳立てしてくれたご縁なのかもしれない。
そんなことを考えながら地面の切れ目を凝視しつつピアスを探しているとふいにじゃりと音がして背後に人の気配を感じた。
◇
「ねえ、君たちこんな時間まで何してるの、高校生〜?」
妙になれなれしい口調が聞こえ、山川さんと同時に振り返る。するとそこには、いかにも軽薄そうな身なりをした二十歳過ぎくらいの二人組の男性が立っていた。
「……っ」
「ねぇねぇ無視? 今暇っしょ〜? 隣街にいいカンジのクラブがあんだけど、オニーサンたちと一緒に行かない?」
露骨に顔を顰めた山川さんと私に構わず、二人組のうち口に煙草を咥えた金髪の男が山川さんの肩に腕を回す。
「ちょっとやめてよ。興味ないし行かないし」
山川さんが即座に拒絶を示すが、金髪男はにやにやと歪んだ笑いを浮かべるだけ。
「またまたぁ。本当は興味あるお年頃のくせに〜」
「嫌って言ってんじゃん、離してよっ」
山川さんは冷や汗を垂らしながら距離を取ろうとするけれど、金髪男は執拗に彼女に絡みついて離そうとはしなかった。
「山川さ……きゃっ」
防衛本能が働き、慌てて彼女の身体を手元に引き寄せようとしたが、もう一人、坊主頭に鼻ピアスをした男の人が、今度は私の腕を引っ張った。
「おっと、君の相手はこっち。って……君さあ、この眼鏡だっさくね? ない方がいいよ絶対」
「なっ、ちょっと、か、返してください!」
「ほら。やっぱこっちの方がイイじゃん。クラブ着いたら安くコンタクト譲ってくれるヤツ紹介してやるからさあ、早く行こうぜ」
「け、結構ですっ、眼鏡返してくださいっ」
震える声で必死に抗うけれど、強い力で掴まれた腕はどう頑張っても振り解けないし、眼鏡を取られてしまったせいで視界も悪い。
「向こう着いたら返してあげるって。そんな遠くないし、俺らの車、すぐそこだから」
なんて強引な奴らなんだろう。
どうしよう。このままでは強制的に連行されてしまう。
怖くて身は竦んだままだけれど、ふと脳裏にある考えが過ぎった。
もしかしたらこれも、神様が動かしたご縁なのだろうか……?
「……」
「ほら、はやくぅ」
よく考えれば、私はすでに義家族に対する蟠り、そして山川さんとの蟠りも自分なりに消化している。
対価として新しい自分に生まれ変われるタイミングが今なのだとしたら、万が一ここで危険な目にあっても――それこそ命を落とすようなことでも――望み通りの展開にたどり着いたというだけで、結果的に悪いようにはならないのではないだろうか。
極論だけどあながち的外れでもないような気がして、強引にそう結論づけるとなんだか無性に力が湧いてきた。
よし、大丈夫。
だって……今の私には神様がついている!
「……れか……」
「あん?」
「だっ、誰か、誰か助けてえええええーーーー!」
「⁉」
勇気を振り絞ると、おもむろに夜のしじまを切り裂くよう大声を放つ。
「誰かあああ! わーわーわああああーーー!」
それも絶やすことなく延々と。
「ちょっ、てめっ……」
驚いた坊主頭の男は慌てて私の口を手で塞ごうとしたけれど、それより早くそいつの足を思いっきり踏みつけた。
「いっづ!」
「わーわーわーわーわあああーーー! 助けてーーーー!」
「お、おいっ!」
「そ、そうよ、痴漢よ‼ たっ、助けてっっ、誰か! 痴漢、変態ーーーーっ!」
それまで怯えたような表情をしていた山川さんもハッと自分を取り戻し、便乗するように大きな声をあげる。すると、しんとしていた広場にはたちまち二人分の叫び声がこだまするように広がって、少し離れた大通りの方まで響いていった。
道ゆく人が何人か怪訝そうに足を止め、こちらを凝視している。
「お、おい、やべえぞ人が……」
「くそっ。逃げんぞ!」
すると途端に顔色を変え、慌てて引き上げていく二人。
いともあっさり引き上げていった、ということは、存外いけないことをしようとしていたという自覚があったのかもしれないし、あのまま連れて行かれていたら想像以上に危険だっのかもしれない。
とにもかくにもなんとか事なきを得、ぜぇぜぇと息を整えながらその場にぺたりと座り込む。山川さんは額に浮かんだ大量の汗を腕で拭いながら、私を見て言った。
「あっぶな……。危うく変な奴らに連れ去られるとこだった……」
「うん……急だったからびっくりしたし、すごい怖かった。山川さんが一緒に叫んでくれてよかったよ」
「いや、七瀬さんのおかげだって。っていうかあの状況でよく叫べたよね⁉ 今の時代凶器隠し持ってたりとかしてもおかしくないってのに、怖くなかったの?」
「あー、いや、はは。もちろん怖かったよ。ほら、手に汗びっしょりだし」
さすがに神様の存在をちらつかせるわけにはいかないし、いくら神様がついているとはいえ、怖かったのも事実だ。
汗ばんだ手のひらを見せると山川さんは、
「やべ。マジでびっしょりだし。びびりのわりに勇気あるとかウケる」
そう正直な感想を述べて、吹き出して笑った。
それまでずっと元気がないようだったから、彼女の笑顔が見れてちょっとホッとする。 しばらく二人で膝を抱えて「怖かったー」とか、「あんなの初めて」とか、乱れた心を落ち着かせるように他愛もない言葉を交わしていると、ふと、目下にある山川さんのズボンの裾が目に入った。
ゆったりとしたつくりのそのパンツの裾は整った形の折り返しになっていて、思わず「あっ」と声をあげる。
「ねえ、もしかして」
「……ん?」
ちょっとごめんね、と断りを入れてから山川さんのズボンの裾――くるぶしあたりの折り返し部分を指でつまみながら探る。すると、コツンと指が何か硬いものに触れた。
「!」
「なになに?」
折り目にそっと指を入れ、慎重にその硬いものを引き上げる。胸の前で手を広げて見せると、
「あっ!」
「あったー!」
やっぱりそうだ。探していたピアスの片割れだった。
「うっそ⁉ マジで⁉ まじでなんでこんなところから出てくんの⁉」
「実は私も前にさ、レジの現金点検やってる時にうっかり床にお金落としてバラバラにしちゃって、十円足りなくなったことがあったんだよね。散々探した結果、その時はズボンの裾の折り返し部分から出てきて……」
「何それウケるんだけど……って、あーもう、マジでよかった……」
小さなハート柄のピアスをそっと山川さんの掌に乗せると、彼女はそれを大切そうに抱きしめて、半分涙声で安堵の呟きをこぼした。
「ありがとう、七瀬さん」
「ううん。役に立ててよかったよ」
本当によかった。これで彼女も安心して家に帰れるだろう。
立ち上がって荷物を拾い、地面に投げ捨てられていた眼鏡も回収する。あーあ。レンズにヒビ入っちゃってるけど仕方ないか。命あっての物種だしね。
図書館はもう閉館時間になってしまうだろうからとりあえず今日のところは近場の公園にでも身を寄せよう。
そう思って踵を返そうとしたところ、
「え、ちょっと待ってよ」
「……わっ」
荷物の入った鞄をぐいっと引っ張られる。
思わずよろけつつ、どうしたの? と首を捻ると、山川さんはさも当然な疑問だとでもいうように尋ねてきた。
「どこいくつもりよ、七瀬さん。家出してんでしょ?」
先ほどは半信半疑で聞き流していたように見えたが、今回は妙に改まった口調だ。
「え? あー、うん。図書館はそろそろ閉まっちゃうだろうし、交番脇にある公園にでも行こうかなって……」
隠しても仕方がないので正直にそう述べたところ、彼女は持ち前の気の強さを取り戻したようにずいと身を乗り出しながら言った。
「はー⁉ だめだめ、ダメに決まってんじゃんそんなの! さっきの奴らみたいなのがまた来たりでもしたらどうすんの⁉ 危ないでしょ⁉」
「うっ、それはそうだけどでも、他に行く場所が……」
「そんなのうちに来ればいいじゃん!」
「えっ⁉」
「家で何があったのか知らないし、さっきは半信半疑だったから特に何も口出さなかったんだけど、うち、すぐ隣にあるおじいちゃんの家がお寺で、参拝者が泊まれる宿坊っていうのがあるんだよね。中にはワケアリの人とかも抱えてるみたいだし、行く宛がないなら七瀬さんも相談してったらいいじゃん」
「え、本当⁉ いいの……?」
「当たり前でしょ⁉ これでもかってぐらい助けてもらったんだから、むしろお礼の一つでもしないと気が済まないんですけど!」
山川さんはそういうと、戸惑う私の鞄を問答無用で掠め取り、自分の肩にかける。
「ほらこっち。絶対野宿よりはマシだから。早く」
言うが早いか、踵を返してすたすたと歩き出す山川さん。
詳しい事情も聞かず、こちらが遠慮する隙すら与えないのはきっと彼女なりの気遣いの現れだろうと思う。
「……うん。すごく助かる。ありがとう」
胸の中にじわりと灯る、人の温かさ。
ゆっくりと深呼吸をすると、しっかり前を向いて。星空の下を爽やかな夏風のように歩いていく山川さんの後を追いかけた。
◇
その翌日の夕暮れ時、私は商店街で買った紙パックのお酒と、おまんじゅうの紙包を携えて再び成外内神社へやってきた。
敷地内に足を踏み入れると、杜の軒先にぶら下がったいくつかの硝子鈴が風に吹かれて微かにりんと鳴った。まるで歓迎の唄でも奏でているかのようだ。
この硝子で作られた小鈴は確か縁結びの鈴だと誰かに聞いたことがある。長年そこにくくりつけられているためだいぶ薄汚れてはいるけれど夕焼けの緋が透明の球体に反射して、美しく光り輝いて揺れているのが眩しく目に映る。
それを横目に神饌を神様の前に置き、お賽銭を捧げる。鈴緒を手にしてがろんがろんと重い音を夕焼けの空に響かせると、二礼、二拍手、そして。
――神様……。
両手を合わせて目を瞑り、心の中で神様の名を呼んだ時のこと。
《来たか、人の子よ》
社から声が聞こえてきてどきっとする。
視線を彷徨わせていると、昨日と同じ着流し姿に狐の面を被った神様が、社の後ろからそっと現れた。
「神様っ!」
やはり夢ではなかった。また会えた嬉しさで飛びつきたくなる衝動を必死に抑えつつ、地面におでこをぶつける勢いでお辞儀をする。
「こっ、こんばんはっ!」
《畏まらんでよい。まぁ座れ》
神様はそう言って、昨日と同じ社の石段に腰をかけた。
それに倣うように自分も腰掛け、昨晩と同じように神様と同じ方向を向いたまま口を開く。
「ご報告が遅れてすみません。ちょっと色々とありましたもので……」
相手は神様だしもしかしたらすでに全てお見通しかもしれないと思ったけれど、きちんと自分の口から報告するのが筋だろうとそう告げると、
《よい。申してみよ》
神様は穏やかな口調でそう仰られたので、ここに至る経緯を語る。
神様と別れた後、叔母夫婦の家を飛び出したこと。
図書館で時間を潰そうと思ったら、アルバイト先の山川さんに会ったこと。
彼女と失くし物を一緒に探していたら怪しい二人組の男に絡まれ、撃退したこと。
それがきっかけで、昨日は山川さんの自宅にお邪魔させてもらったこと。
「変な人たちに絡まれた時はどうしようかと思いましたけど……神様がよりよい方向にご縁を結んでくれたおかげで、野宿せずにすみました。本当にありがとうございました」
《ん?》
「……?」
《いや、ちょっと待て》
「え?」
まずは感謝の気持ちを述べようとした私に、神様は怪訝な声色を挟む。
《山川という娘の件は……まぁ、その、ごほん、ともかくとしてだな。そんな二人組の男、私は知らぬぞ》
「へっ⁉」
神様の唐突なカミングアウトに耳を疑う。
「え、えっ。で、でも……」
《確かに『死んだ気になって』とは言ったが、まだ約束を半分も果たしておらぬおぬしをわざわざそんな危険な目にあわせるわけがなかろう》
「え……ええええー⁉」
思わず素っ頓狂な声をあげる私。
あれは神様の結んだご縁ではなかったのかという驚きと、自分では閊えをクリアにしていたつもりだったがまだ半分も果たしていなかったのかというダブルの驚きで、つい目を白黒させる。
「そ、そんな! てっきり私……」
《まったく、いくら私がいるといえ、できることには限りがあるのだ。無茶をするんじゃない》
「ご、ごめんなさい」
思いのほか、真剣な声色で注意されてしまった。
そりゃそうだよね。生まれ変わらせてくれるとは言ったけれど、だからといって私だけ何か特別扱いするようなことはできないだろうし。
もう少し慎重に、謙虚に行動しよう……。
《まぁ無事だったんなら今回の件はそれでよい。……それで、その後は?》
「あ、はい。その後は……山川さんのご両親にお会いして、それで……」
私はそれからの出来事を順を追ってご報告した。
山川さんのお宅にお邪魔し、手厚くもてなされたこと。
その後、住職をされている山川さんのおじいちゃんのところに案内され、家庭の事情を相談した結果、お寺の宿坊と呼ばれる宿泊施設にしばらくは無料で身を寄せさせてもらえるようになったこと。
「もちろん、ずっとお世話になるわけにはいかないんですけど。でも、しばらくは朝早くお寺のお掃除をしたり、修行中のお坊さんたちと一緒にお経を唱えたり、座禅を組んだり、炊事のお手伝いをすることを条件にそこに居候させてもらえることになったので、そちらに身を置かせてもらってる間に気持ちの整理をつけて、落ち着き次第、専門の相談所に連絡しようと思っています」
《そうか。そこまで決めておったか》
「はい。もし専門の施設へ保護される場合、しばらくは自由に外出ができなくなると聞いたので、今のうちに母のお墓やお世話になったアルバイト先の方々にそれなりのご挨拶をしておこうと思ってます」
ぽつん、とそう告げると、神様は噛み締めるように《そうか……》と呟いた。
「もちろん、アルバイト先の方たちに家庭の事情までは話せないですけど、せめて自分の口から辞めることぐらいは伝えておきたいんです」
《なるほど。よい判断だな》
背中に柔らかい声が降ってくる。
この考えには神様も賛成のようでほっとした。
――とはいえ、不安の種は尽きない。
無事に保護してもらえるのかとか。
施設に入れてもらえたところで期限を過ぎた後はどうなるのだろうかとか。
そもそも施設に相談するまでの間、叔母さんや陽菜に居場所を突き止められて何か報復されたりしないだろうかとか。
考え出したらキリがないが、叔母さんに関しては、何よりも世間体を気にする彼女のことだから外にいる限り度を超えるような乱暴や嫌がらせはされないだろうと結論づけて、自分自身を鼓舞するしかないだろう。
《母親か……》
そんなことを考えていると、ふと、神様が呟きを漏らした。
「はい」
《確かこの界隈の事故で亡くなったんだったな?》
「あ、えっと……。場所は確かにこの近辺なんですが、事故で亡くした、というより私が殺したようなものなんです」
《……ほう?》
そういえば神様には、『自分のせいでたった一人の肉親を失った』とは言ったが、その辺の経緯を詳しく話していなかった。
といっても神様のことなのできっと何もかもお見通しなのだろうとは思ったけれど、改めて事情を説明することにする。
「私が保育園児の頃、園のイベントで家族ぐるみのバーベキューパーティーがあって、それで……」
眼下に広がる夕暮れの街並みをぼんやり眺めながら、私は過去の記憶を辿った。
***
――そう、あの日は朝からよく晴れていて、絶好のバーベキュー日和だった。
年に一度しかない家族ぐるみの大規模なイベントだったから、園児も家族も職員さんも大張り切りで準備を進めていたし、家族にお誘いを受けて招かれた親族などもかなりの人数が集まって、会場は始終大賑わいだった。
父に母、おじいちゃんにおばあちゃん、中には親戚のおじちゃんやおばちゃんなんかが参加する子もいてクラスのみんなはとても満足そうに楽しんでいたけれど、私はずっと、不満げに、僻んだ顔をしていた。
理由はもちろん、私には父もいなければおじいちゃんもおばあちゃんもいなかったから。
参加人数を競い合うように家族親族が集まるような大イベントだったから、クラスの子はみんな、父や母、祖父や祖母、親戚のおじちゃんやおばちゃんに囲まれて○○ちゃん、○○ちゃんとチヤホヤされているのが子供心に心底羨ましかったのだ。
祖父母はすでに他界しており、義理の妹とも仲が悪く呼べる親族がいない私の母は、気を遣って誰よりも可愛い手作りエプロンを作ってきてくれたし、普段制限されてなかなか食べられないような私が大好きな甘いお菓子をいくつも用意してきてくれた。そして何より、忙しくてなかなか自由に休めない仕事を丸一日休んできてくれたというのに、その当時の私は我儘で、素直に喜べることができなかった。
もちろん本当は嬉しかった。
忙しい母とずっと一緒にいられるわけだし、可愛いエプロンもあれば美味しい料理もお菓子もある。でも、なぜみんなには沢山の家族がいるのに、うちには母一人しかいないんだろう、そもそもなぜ私には父がいないんだろうと、そんなことばかり考えていた。
父については今まで聞きたいけど聞けないといった子どもなりの遠慮があったし、ストレスもあったから、イベントが大いに賑わうなか、やがてその鬱憤は胸の中で弾け、私は母と大喧嘩をした。
いや、喧嘩というよりは私が一方的にぐずって大泣きをしたのだ。
「保育園ではよくあることだと園の先生も笑ってらっしゃいましたし、周りのみんなはそれぞれ家族で盛り上がってましたから、和を乱すようなことはなかったんですが……一生懸命都合つけて参加してくれたのに、いつまでたっても泣き止まない私を見て、母はかなり辛かっただろうと思います。……本当、ひどい親不孝者ですよね、私」
説明の合間に苦笑しながらそう告げると、神様は静かに首を振った。
《子どものしたことだ。そう気にやむな》
その言葉に苦笑をこぼしながらも、消えない後悔に自責するよう頭を垂れる。
当時の懺悔でもするように、私はその先を続けた。
「結局私は……バーベキューの間、母の焼いたお肉ばかりを黙々と食べて過ごしました」
泣いていたってどうにもならないことは分かっていたけれど、その時はまだ、それを理解し納得できるほど受容力が育ってなかった。
わがまま言ってごめんね。そう言いたいのに言えない自分がもどかしくて、いまに母が怒って愛想をつかし、会場を出て行ってしまうんじゃないかとびくびくしながらお皿の中のお肉を消化していたのだが、その後、ちょっとした騒動が起こって――。