◇
長らく時間はかかったけれど、ようやく涙も止まり呼吸も落ち着いてきた頃に、ぽつりぽつりとそこに至る経緯を話し始める。
幼い頃に自分のせいでたった一人の肉親である母を失ったこと。
それ以来塞ぎ込むようになり、学校でもなかなか友人ができず孤立していること。
引き取られた家で日々責め立てられ暴力を振るわれたり厄介者扱いされていること。
唯一、心の拠り所だったバイト先の親切な先輩も、わけあってもう頼れないこと。
従姉妹と喧嘩をしてしまったため、帰る場所すら失ってしまったこと――。
「初めての喧嘩だったんです。居候の身だし、従姉妹にはなにを言われても我慢するしかないってわかっていたから、いつも通りただ黙って頷いていればよかったんですけど……。今日は母や親切にしてくださっている先輩のことを悪く言われて、どうしても我慢ができなくて」
《……》
「家に帰ればきっと叔母にもきつく咎められます。逃げようにも行く場所もないし、ここへ来て色々考えていたらふと死んだ母を思い出してしまって、それで……」
《感情が昂り、衝動的に足が出てしまった……と?》
「はい」
正直にそう答えると、神様は《ふむ》と唸ってから、しばらく考え込むように沈黙を下ろした。
小さく息を吸って吐く。
腹の中に積もらせていたものを全て吐き出したせいか、幾分気持ちが楽になった気がする。……とはいえ、根本的な問題が解決したわけではないので、複雑な心情で天啓を待ち望んでいると、
《なるほどな、事情はわかった。雑感はひとまず留め置いて、最期に私の名を呼んだのは何故だ?》
「え?」
《とぼけるでない。足を踏み外そうとした時に私の名を呼んだだろう。何を願おうとしたのかと聞いている》
「それは……」
その時のことを思い返し、唇を噛む。
『神様……どうか――』
あの時私は、たしかに神様に願おうとした。
「……」
《正直に申せ》
――いや、違う。
「『生まれ変わったら、もっと素直で明るくて強い自分になれますように』って……願おうとしました」
本当は、願うというよりも縋ろうとしていたのだと思う。
ずっと弱くて卑屈な自分が大嫌いだった。
だから神様に縋って、今の自分はもう終わりにして、もっと素直で前向きな自分になれたならどれだけ幸せだろうとそう思ったのだ。
《生まれ変わりたい、か……》
「そんな都合の良いお願い無理ですよね。あの時は頭の中がいっぱいで……」
《確かに厚顔無恥も甚だしい願いだな》
「うっ」
《機械じゃあるまいし、そう簡単に人の生き死にや転生を支援する神がいるわけなかろう》
「うぐっ」
《そもそも元来、神とは願いを叶えるものではなく日々の神徳に感謝されてしかるものだ。そのあたりからして、おぬしは神という存在を履き違えている》
「うう……返す言葉もありません……」
思いのほかきっぱり言われてしまってしおしおと萎れる。
そういえば、神仏マニアらしいうちの学校の校長先生も終業式の日に言っていたっけ。
神社参拝の際は神様にはまず日頃の感謝を伝えましょう。願い事をするのはそれからです――と。滔々と語られる参拝マナーの話は三十分以上にもおよび、貧血者が続出していたことが記憶に新しい。
改めて自分の知識不足を恥じていると、神様は《だが、まぁ》と前置きをした上でさらに続けた。
《これまでのおぬしの苦難を思えば、そのような願望がわく心理もわからなくはない》
はっと顔をあげる。てっきり気分を損ねてしまったのかと思ったが違った。
ちょこっとだけ首を捻って背後を振り返ると、神様は微動だにしない狐顔のまま、やや天を仰ぎ見て言った。
《おぬしには随分と世話になったからな。条件付きであること、それから一度引き受けた願いは二度と取り消せぬこと前提だが、それでよければその願いを叶えてやらんこともない》
「えっ⁉」
まさかのお言葉に思わず声が裏返る。
「ほっ、本当ですか⁉ で、でもっ、どうやってです? 神様、力が薄れているせいで今はもう姿形を変えるぐらいしかできないと仰っていましたし、人の生き死にについても支援はできないって……」
《まぁな。だが神の力を侮るな。少しばかり骨を折ることにはなるだろうが、おぬしが長年私に捧げ続けた敬虔な祈りの結実を持ってすればできぬこともない》
「……!」
希望が見えて、目の前にぱあっと光がさす。
仰っている意味は難しすぎてよくわからなかったが、新しい自分として生まれ変わることができるのならばいくらでもこの身この命を捧げよう。
「お願いします……願いが叶うならどんな条件でも必ずクリアしてみせますから」
《そう急くな。今一度いうが一度引き受けた願いは二度と取り消せんのだぞ? よいのだな?》
「はい、もちろんです。一体どうすればいいでしょうか……?」
食い気味に身を乗り出すと神様はやれやれと言ったように肩をすくめ、顎に手を当てながらこう説いた。
《では条件だ。まず、因果応報という言葉の通り、今のままでは新たに生を受けたとしても同じような運命を辿ることになる。蟠りのない人生を送りたいのであれば、今生でも蟠りのない終焉を迎えねばならぬ》
ふむふむなるほどと頷いてから顔を顰めた。それってつまり……。
《おぬしの考えている通りだ。今現在心に抱いている閊えを全て解消してまいれ》
「えっ⁉」
やっぱり……! ちょっと待って欲しい。心の閊えを一人で解消できるほどコミュニケーションスキルが高くて器用な性格だったらそもそも死のうとなんて考えないのに。
「うぅ」
《なんだその不満そうな顔は》
「だっ、だって無理ですよ……」
《できないと思うからできぬのだ》
「そ、それはそうですけど」
《まぁ確かに今までのおぬしなら無理だろうな。だが、今までと違って今のおぬしには私がついている。死んだ気にでもなれば容易いことだと思うが?》
あ、そうか……。言われてみれば確かにそうかも。
嫌なことがあっても、なんとかやり抜きさえすれば神様が生まれ変わらせてくれる。そう思えばできなくはない気がして俄然やる気が湧いてきたが、すぐさま壁にぶつかった。
「そっか。そうですよね。頑張ってみようと思うのですが……一体なにからやればいいんだろう」
閊えがありすぎた。
短い私の人生、失敗と後悔だらけだ。
閊えなく納得して過ごしている項目自体乏しかったりする。
「今一番の閊えといえばやはり叔母や従姉妹のことなんですけど、帰宅して自分の意見を口にしたところで叔母さんが私の意見を聞き入れてくれるとは到底思えないし、家に帰ったらきっと罵声やひどい体罰が待っているかと思うとどうしても気が重く……」
《そもそも家に帰る必要はあるのか?》
「え」
虚をつかれた質問に、目を瞬く。
《罵詈雑言や体罰だけでも充分目にあまるが、身上監護を放棄とまであっては法度が黙っておらん案件だろう。いざとなったら相手をぶん殴ってでも家を出てはどうか》
「ぶっ、ぶん殴……⁉ あ、あの、さすがにそこまでは……」
《おぬし、先ほど言っておっただろう。毎日奴隷のように働かされ、時に暴力を振るわれ、挙句親の遺産まで巻き上げられて充分な養育を受けていないと。おぬしは遠慮して言葉を選んでおったが、側から見ればそんなもの虐待も同然だ。おぬしがいる今の環境は劣悪以外のなにものでもない。何故もっと早く身の回りの者に助けを求めなかった》
ぴしゃりと指摘され、慌てて身を縮める。
「……っ! ごめんなさい、それが当たり前かと……。それに、行くあてもないし相談しようにも誰を頼ればいいのかわからなくて」
《誰でもよい。家を出、すぐさま身近なものに助けを求めよ。一人相談して駄目なら二人、二人相談して駄目なら三人。縁を動かすためにもまずは声をあげることに意味がある》
ふん、と鼻で息をするようにそう告げる神様。
意外と体育会系の神様らしい。
でも……そうか、そうだよね。
ようし。こうなったらもう、とことんやってやろうじゃないの。
唇を強く噛み締めて力強く頷くと、すっと立ち上がる。
「わかりましたっ。私、やってみます。見ててください!」
意気揚々と宣言し、失礼しますと告げてからぺこりと頭を下げる。
どこか満足そうに頷く神様を横目に踵を返すと、いつの間にか小ぶりになった雨の中を颯爽と駆け抜ける。
まさか神様、試練を与えるだけ与えて消えちゃったりしないよね、なんて無用な心配を胸の片隅に抱きつつ、この奮い立った勇気が消えないうちに、冷え切った義理の家族が待つ自宅へ歩みを進めるのだった。
長らく時間はかかったけれど、ようやく涙も止まり呼吸も落ち着いてきた頃に、ぽつりぽつりとそこに至る経緯を話し始める。
幼い頃に自分のせいでたった一人の肉親である母を失ったこと。
それ以来塞ぎ込むようになり、学校でもなかなか友人ができず孤立していること。
引き取られた家で日々責め立てられ暴力を振るわれたり厄介者扱いされていること。
唯一、心の拠り所だったバイト先の親切な先輩も、わけあってもう頼れないこと。
従姉妹と喧嘩をしてしまったため、帰る場所すら失ってしまったこと――。
「初めての喧嘩だったんです。居候の身だし、従姉妹にはなにを言われても我慢するしかないってわかっていたから、いつも通りただ黙って頷いていればよかったんですけど……。今日は母や親切にしてくださっている先輩のことを悪く言われて、どうしても我慢ができなくて」
《……》
「家に帰ればきっと叔母にもきつく咎められます。逃げようにも行く場所もないし、ここへ来て色々考えていたらふと死んだ母を思い出してしまって、それで……」
《感情が昂り、衝動的に足が出てしまった……と?》
「はい」
正直にそう答えると、神様は《ふむ》と唸ってから、しばらく考え込むように沈黙を下ろした。
小さく息を吸って吐く。
腹の中に積もらせていたものを全て吐き出したせいか、幾分気持ちが楽になった気がする。……とはいえ、根本的な問題が解決したわけではないので、複雑な心情で天啓を待ち望んでいると、
《なるほどな、事情はわかった。雑感はひとまず留め置いて、最期に私の名を呼んだのは何故だ?》
「え?」
《とぼけるでない。足を踏み外そうとした時に私の名を呼んだだろう。何を願おうとしたのかと聞いている》
「それは……」
その時のことを思い返し、唇を噛む。
『神様……どうか――』
あの時私は、たしかに神様に願おうとした。
「……」
《正直に申せ》
――いや、違う。
「『生まれ変わったら、もっと素直で明るくて強い自分になれますように』って……願おうとしました」
本当は、願うというよりも縋ろうとしていたのだと思う。
ずっと弱くて卑屈な自分が大嫌いだった。
だから神様に縋って、今の自分はもう終わりにして、もっと素直で前向きな自分になれたならどれだけ幸せだろうとそう思ったのだ。
《生まれ変わりたい、か……》
「そんな都合の良いお願い無理ですよね。あの時は頭の中がいっぱいで……」
《確かに厚顔無恥も甚だしい願いだな》
「うっ」
《機械じゃあるまいし、そう簡単に人の生き死にや転生を支援する神がいるわけなかろう》
「うぐっ」
《そもそも元来、神とは願いを叶えるものではなく日々の神徳に感謝されてしかるものだ。そのあたりからして、おぬしは神という存在を履き違えている》
「うう……返す言葉もありません……」
思いのほかきっぱり言われてしまってしおしおと萎れる。
そういえば、神仏マニアらしいうちの学校の校長先生も終業式の日に言っていたっけ。
神社参拝の際は神様にはまず日頃の感謝を伝えましょう。願い事をするのはそれからです――と。滔々と語られる参拝マナーの話は三十分以上にもおよび、貧血者が続出していたことが記憶に新しい。
改めて自分の知識不足を恥じていると、神様は《だが、まぁ》と前置きをした上でさらに続けた。
《これまでのおぬしの苦難を思えば、そのような願望がわく心理もわからなくはない》
はっと顔をあげる。てっきり気分を損ねてしまったのかと思ったが違った。
ちょこっとだけ首を捻って背後を振り返ると、神様は微動だにしない狐顔のまま、やや天を仰ぎ見て言った。
《おぬしには随分と世話になったからな。条件付きであること、それから一度引き受けた願いは二度と取り消せぬこと前提だが、それでよければその願いを叶えてやらんこともない》
「えっ⁉」
まさかのお言葉に思わず声が裏返る。
「ほっ、本当ですか⁉ で、でもっ、どうやってです? 神様、力が薄れているせいで今はもう姿形を変えるぐらいしかできないと仰っていましたし、人の生き死にについても支援はできないって……」
《まぁな。だが神の力を侮るな。少しばかり骨を折ることにはなるだろうが、おぬしが長年私に捧げ続けた敬虔な祈りの結実を持ってすればできぬこともない》
「……!」
希望が見えて、目の前にぱあっと光がさす。
仰っている意味は難しすぎてよくわからなかったが、新しい自分として生まれ変わることができるのならばいくらでもこの身この命を捧げよう。
「お願いします……願いが叶うならどんな条件でも必ずクリアしてみせますから」
《そう急くな。今一度いうが一度引き受けた願いは二度と取り消せんのだぞ? よいのだな?》
「はい、もちろんです。一体どうすればいいでしょうか……?」
食い気味に身を乗り出すと神様はやれやれと言ったように肩をすくめ、顎に手を当てながらこう説いた。
《では条件だ。まず、因果応報という言葉の通り、今のままでは新たに生を受けたとしても同じような運命を辿ることになる。蟠りのない人生を送りたいのであれば、今生でも蟠りのない終焉を迎えねばならぬ》
ふむふむなるほどと頷いてから顔を顰めた。それってつまり……。
《おぬしの考えている通りだ。今現在心に抱いている閊えを全て解消してまいれ》
「えっ⁉」
やっぱり……! ちょっと待って欲しい。心の閊えを一人で解消できるほどコミュニケーションスキルが高くて器用な性格だったらそもそも死のうとなんて考えないのに。
「うぅ」
《なんだその不満そうな顔は》
「だっ、だって無理ですよ……」
《できないと思うからできぬのだ》
「そ、それはそうですけど」
《まぁ確かに今までのおぬしなら無理だろうな。だが、今までと違って今のおぬしには私がついている。死んだ気にでもなれば容易いことだと思うが?》
あ、そうか……。言われてみれば確かにそうかも。
嫌なことがあっても、なんとかやり抜きさえすれば神様が生まれ変わらせてくれる。そう思えばできなくはない気がして俄然やる気が湧いてきたが、すぐさま壁にぶつかった。
「そっか。そうですよね。頑張ってみようと思うのですが……一体なにからやればいいんだろう」
閊えがありすぎた。
短い私の人生、失敗と後悔だらけだ。
閊えなく納得して過ごしている項目自体乏しかったりする。
「今一番の閊えといえばやはり叔母や従姉妹のことなんですけど、帰宅して自分の意見を口にしたところで叔母さんが私の意見を聞き入れてくれるとは到底思えないし、家に帰ったらきっと罵声やひどい体罰が待っているかと思うとどうしても気が重く……」
《そもそも家に帰る必要はあるのか?》
「え」
虚をつかれた質問に、目を瞬く。
《罵詈雑言や体罰だけでも充分目にあまるが、身上監護を放棄とまであっては法度が黙っておらん案件だろう。いざとなったら相手をぶん殴ってでも家を出てはどうか》
「ぶっ、ぶん殴……⁉ あ、あの、さすがにそこまでは……」
《おぬし、先ほど言っておっただろう。毎日奴隷のように働かされ、時に暴力を振るわれ、挙句親の遺産まで巻き上げられて充分な養育を受けていないと。おぬしは遠慮して言葉を選んでおったが、側から見ればそんなもの虐待も同然だ。おぬしがいる今の環境は劣悪以外のなにものでもない。何故もっと早く身の回りの者に助けを求めなかった》
ぴしゃりと指摘され、慌てて身を縮める。
「……っ! ごめんなさい、それが当たり前かと……。それに、行くあてもないし相談しようにも誰を頼ればいいのかわからなくて」
《誰でもよい。家を出、すぐさま身近なものに助けを求めよ。一人相談して駄目なら二人、二人相談して駄目なら三人。縁を動かすためにもまずは声をあげることに意味がある》
ふん、と鼻で息をするようにそう告げる神様。
意外と体育会系の神様らしい。
でも……そうか、そうだよね。
ようし。こうなったらもう、とことんやってやろうじゃないの。
唇を強く噛み締めて力強く頷くと、すっと立ち上がる。
「わかりましたっ。私、やってみます。見ててください!」
意気揚々と宣言し、失礼しますと告げてからぺこりと頭を下げる。
どこか満足そうに頷く神様を横目に踵を返すと、いつの間にか小ぶりになった雨の中を颯爽と駆け抜ける。
まさか神様、試練を与えるだけ与えて消えちゃったりしないよね、なんて無用な心配を胸の片隅に抱きつつ、この奮い立った勇気が消えないうちに、冷え切った義理の家族が待つ自宅へ歩みを進めるのだった。