我が儘なんて言わないから。

 手のかからない息子でいるから。

 嫌わないで。





 馴染み深い家の扉を開けて、「ただいま」と発することは、母が出て行ってから無くなった。

 父が仕事から帰ってくる時間はとても遅く、食材を切るだけで完成する鍋のような晩ご飯も一人で済ませることが多い。だから靴数の少ない玄関に見慣れた父の靴があり、リビングでコーヒーを片手に新聞を読む父と目が合って、一人当たり一万円は下らない高いホテルのレストランに誘われた時点で嫌な予感は察していた。


『夏向、こちらが――さんと、息子の――君と――君。二人は――大学の医学部で――』


 小学生でも一度は聞いたことがあるだろう学校名。その中でも特に難しいと分かる学部がどこかに重たくのし掛かった。

 高学歴に加え、更にはそれに相応しい優秀な職を聞かされて、頭の中で警報装置がうるさく鳴り響く。


(――いやだ……)


 その先の言葉は聞きたくない。

 当然、そんな我が儘は口にも顔にも行動にも決して表わさない。


『父さんは、この人達と家族になりたいと思ってる。もちろん、夏向さえよければだ』

(――いやだ……)

『いいよ。父さんが幸せになれるなら』


 鍛え上げたポーカーフェイスには自信があり、父親に嘘の笑顔を向けることなど容易いものだった。心の声に今日も気付いてくれない父は心から嬉しそうに笑い、他人としか思えない三人も安心したように笑っている。端から見れば全員が幸せを手にした瞬間に見えていただろう。


 ただ一人、俺だけが内側で笑っていない。

 俺は幸せになれない。

 これでいい。

 手のかからない息子で、父親に幸福を与える息子なら、きっと嫌われない。

 父さんに嫌われなければ、他の誰に嫌われたって――

 クラスメイトに嫌われたって――