デイブレイク・ムーン



 「これだけあれば十分かな」

 翌日、私はキッチンに立ってお菓子を作っていた。
 お菓子に関しては食べるよりも作る方が好きで、趣味特技の欄には決まってお菓子作りと書いている。

 甘い匂いに包まれたキッチンで焼き上がりを待つ。モモさんへのお礼は手作りのバタークッキー。

 多めに作ったし、クラネスさんにも持って行こうかな。

 今日は納期に追われているらしく一日部屋から出られないらしい。
 灯なら何とかなると根拠のない激励をもらったのは昨日。少しだけ自信はついていた。バレッタのおかげで。


 時間になりオーブンを開けると、湯気と共にバターの香りが広がった。
 うん、いい感じ。

 モモさんへ渡すものとクラネスさんへの差し入れ。残りは味見を兼ねて自分で食べる。

 「交渉……上手くいきますように」



 作業部屋の前まで来てドアをノックする。

 「クラネスさん、今からモモさんのところへ行ってきます。あと、クッキーを作ったのでよかったら食べてください」

 そう言ってドアノブに袋をかけた。
 クッキーは手を汚さずに食べられるように一つずつ包装してある。
 返事はないけれど物音はするので、作業に集中しているのだろう。
 そのままそっと家を出て、私は店へ向かった。

 「こんにちは」

 「アカリ!いらっしゃい。実は昨日の夜に急ぎの注文が入って午後から作業をするの」

 「それじゃあ、また日を改めましょうか?」

 「少しくらい休憩したって平気よ」

 店内を走り回っているモモさんの背中を見て、職人さんは大変なんだなと呟いた。

 店は午後から閉めるとのことだったので、私はアトリエの隣にある部屋へ案内された。
 普通の家の一室で生活用品は一式揃っている。ここがモモさんの家らしい。


 テーブルには私の持ってきたクッキーとモモさんの入れた紅茶が用意された。
 盛りつけるお皿によって、自分のクッキーがこんなにも豪華に見えるなんて思わなかった。モモさんの部屋にある食器棚を見ても、どれも高価そうで触れるのが怖い。


 「いただきます」

 モモさんがクッキーを手に取った。

 「うん、とっても美味しいわ」

 「よかったです。お菓子作るの好きなので、また何か作りますね」

 それにしてもモモさん、昨日と比べて話し方が変わってるというか、雰囲気も柔らかくなってる気がする。
 所作も美しくて、紅茶を飲む動き一つでそれが分かる。きっと育ちの良い方だ。言葉遣いも丁寧で、お嬢様みたい。
 じっと見ていると「どうしたの?」と聞かれたので、私は訊ねた。

 「あの、なんだかお店で話してた時と雰囲気変わりました?」

 モモさんは、私の言葉に苦笑いを浮かべながら答えてくれた。

 「ごめんなさい、本当はこっちが普段の私なの。このまま接客をしていたら話しにくいと思われたことがあって。できるだけ周りと変わらないように、立ち振る舞いを変えていたんだけど……変かしら?」

 やはり立ち振る舞いが美しすぎると相手も緊張してしまうんだろうな。
 通常のモモさんはお嬢様モードで、店ではキャラクターを使い分けている。どちらも魅力的だと思うし、人付き合いが苦手な私にとって、切り替え術は純粋に憧れる。

 「そんなことないです!素敵です!」

 しょんぼりしていたモモさんが笑ってくれた。

 「ありがとう。なんだかアカリといると気が抜けて素が出ちゃうのよ。こんな風に話せるのはアカリくらいだから」

 昨日の今日でそんなに仲が深まるようなことはできていないと思うけれど、モモさんがそう思ってくれているのは嬉しい。

 「だけど周りに合わせて話すのがまだ苦手で、どうすればいいか分からないから、とりあえずなめられないようにしようって決めたの」

 胸の前に手を持ってきて「よし!」と意気込んでいるみたいだけれど、その見た目で言われても説得力に欠けるかも。
 ただただ可愛い。

 「なめられないようにって、強気な態度をとるってことですか?」

 「まぁ、そんな感じかしら」

 確かに店では今よりも素っ気ない感じだったけれど、別に強気にならなくてもなめられないと思う。

 クラネスさんの話をしていた時のモモさんは強気というか少し口が悪くなっていた気がするけれど、多分あれは無意識なんだろうな。猫を被っているようにも見えないし、これは怒らせたら怖いタイプだ。


 その後もお菓子の話題やモモさんの仕事の話が続き、お互いの距離はかなり縮まった。

 「モモさん、お話があるのですが」

 紅茶を飲み終えたところで、私は本題を持ち出した。
 何を譲ってもらうかは聞いている。そしてそれが、その人にとってどんなものなのかも。

 「なぁに?」

 彼女には回りくどい言い方をするよりも素直に話した方がいい。
 私は、マロン色の瞳を真っ直ぐ見つめて切り出した。

 「透明なシルクを、譲って頂けませんか?」

 透明なシルク。それがクラネスさんから頼まれた最初の材料。

 「どうしてそれを知っているの?」

 モモさんが驚くのも当然だ。この透明なシルクは、仕立て屋・カーネットにしか存在しないたった一つの生地。それも表では一切出回っていないもので、この町では彼女以外その存在を知らないらしい。
 そんな希少なものの情報をどこで手に入れたのかは聞かなかった。

 「実は私、クラネスさんのところで助手をやっていて。そのシルクが研究に必要なので譲って頂けないかなと……もちろんタダでとは言いません!」

 「クラネスの……」

 小さく呟いたその声に背中がゾッとした。
 あ、これダメなやつだ。そう思うと視線が下がっていく。

 ここは考えてくれと言って一旦引き下がるべきか。しかし、もう会いたくないと言われれば交渉すらできなくなってしまう。
 やっぱり私に交渉なんてできない……。

 「いいわよ」

 「え?」

 その言葉に顔を上げる。

 「本当に?」

 「えぇ」


 結論から言うとあっさり譲ってもらえた。
 クラネスさんから聞いた話だとシルクはモモさんにとって大切なもので、簡単には譲ってもらえないと思っていた。

 「はい、これでしょ?」

 部屋のクローゼットから取り出した箱に入っていたのは、白いシルク。

 「これはね、光に当てると透明になるの。クリアシルクって呼ばれてる」

 そしてモモさんは二十センチほどのシルクを手に取り、明かりにかざした。

 「ほんとだ、透明」

 先程まで白かったはずのシルクが透き通っている。
 その繊細な輝きに息を呑んだ。

 「これには幸運を呼び寄せる力があるらしくて、一度はお店に飾ったの。だけど昼間は太陽の光で、夜はお店の照明に当たってずっと透明のままだから、誰にも気づいてもらえなくて。……見てもらえたのはアカリが初めてよ」

 モモさんからクリアシルクを受け取った。
 軽くて柔らかい。少しでも強く握ってしまうと壊れてしまいそう。
 幸運を呼び寄せる力がどのようなものか分からないけれど、このシルクに例えると何となく分かる気がする。

 「透き通ったシルクから目を離すとすぐに見失ってしまう、それくらい繊細で曖昧で掴めない」

 「そうね、でも幸運ってそういうものじゃないかしら。本当は近くにあるのに、見方によっては見えなくなってしまう曖昧なもの。だからそれを見つけた時、特別に感じることができる」

 私の零した言葉をモモさんは優しく掬い上げてくれた。

 「私にとってこれはお守りみたいなものだった。私はね、私の作ったものを身につけてくれたみんなが幸せになれますようにって願いを込めて作っているの。今まで喜んでくれたお客さんももちろんいたけれど、アカリは特別だった」

 「え?」

 目を合わせた先でモモさんは笑っていた。

 「昨日アカリの笑顔を見て自信がついたの。私にもこのシルクに負けない力があるんだって。だからもう必要ないわ!」

 私の手に優しく触れていたモモさんの手が離れた。
 シルクはここにあるもので最後。彼女にとってこれは、この店とお客さんとモモさん自身を繋ぐ特別なものだ。

 「本当にいいんですか?こんな大切なもの」

 そっと抱きしめるように言葉を紡ぐモモさんを見ていると受け取る側が遠慮してしまう。

 「いいの。私がアカリに受け取ってもらいたいと思ったから。……言っとくけど、アカリの頼みだから譲るのよ。クラネスのためじゃないからね」

 ここまで言われて受け取らないわけにもいかない。
 私は落とさないように、両手で包み込んだ。

 「ありがとうございます。モモさんの思いごと、受け取らせていただきます!」

 今回ばかりはクラネスさんがいなくてよかったのかもしれない。



 二人で過ごす時間は楽しくて、来週もお茶会を開くことが決まった。

 「いつでも遊びに來てね」

 「はい!ではまた」

 モモさんは、この町で初めての友達になった。


 「ただいまです」

 玄関を開けて見慣れたリビングへと足を運ぶ。

 「おかえり」

 そこにはクラネスさんがいた。私の帰りを待っていてくれたのか、それとも休憩をしに立ち寄ったのか。どちらにしてもちょうど良かった。

 「頼まれていた透明なシルク、譲ってもらえましたよ」

 「さすがだな。まぁ灯なら難なくこなすと思っていたが」

 それは相手がモモさんだったからで、次からはどうなるか分からない。
 私はクリアシルクの入った箱を渡した。

 クラネスさんは中を確認すると、早速作業に取り掛かった。
 作業部屋は以前よりも片づいていて、追われていた依頼は既に終えたそうだ。


 「そのシルクをどうするんですか?」

 「見ていれば分かる」

 テーブルの上に並べられたのはアルコールランプみたいなものと氷水を入れたボウルにビーカー。三脚やら発熱皿やら、小学生の頃に理科の実験で使ったことのあるものもあった。
 もしかして燃やす?でもシルクは燃えたら粉になっちゃうんじゃ。

 「これはただの炎ではない。俺が作った特殊成分の含まれているもので、シルクが溶けるようになっている」

 言葉通り熱したクリアシルクは透明な液体に変わっていた。それをビーカーに入れ、氷水の入ったボウルにつけて少し混ぜる。

 「え、うそ……」

 液体はあっという間に固まり、透明な石になった。

 「これは天然水晶の原石。美しいだろ」

 透き通る美しい石は、光に反射して輝いている。薄く繊細だったクリアシルクが、立派な原石へ姿を変えた。
 それを見た私は「綺麗……」と言葉を零した。

 「そういえばクッキー、美味かったぞ」

 片づけの手を止めずにクラネスさんは言った。
 そうだった私、差し入れしてたんだ。

 「よかったです。また作りますね」

 なんでだろう。なんか、嬉しいかも。
 こういうことは初めてじゃないのに、いつもと違う鼓動に違和感を感じた。
 それを掻き消したくて、違う話題を振った。


 「モモさんが言ってたんですけど、クラネスさんはロリが好きなんですか?」

 「は?なぜそうなる」

 「香水ですよ。人の姿のモモさんをあんな風に設定したのクラネスさんですよね?すごい恨んでましたよ」

 「あー、あいつか」

 もふもふが本来の姿であるモモさんは、作業がしやすいように人の姿になれる香水をクラネスさんに依頼した。本人はあの容姿が気に入らなかったみたいだけれど、私は可愛くて好きだ。

 「別に俺の好みでも何でもない。ただ、モモは少々気が強いところがあってな。あいつの良いところではあるが、それを怖いと言う客もいたらしい。だから見た目を幼くして、愛嬌があって可愛らしく魅せようと思ったら、あんな感じに」

 クラネスさんはお嬢様モードのモモさんを知らないんだ。
 表のモモさんは、なめられないように強気な態度をとるって言ってたし、それが上手く調節できていなかったのかも。それにクラネスさんの話をするときはツンケンしてたもんね。

 「気を許した人にはすぐに懐く猫みたいなやつだ。これからも仲良くしてやってくれ」

 「もちろんです」

 素のモモさんについては触れずに、私は頷いた。


 そして私にはもう一つ気になっていたことがあった。

 「それにしても、なぜ人の姿になる香水なんですか?」

 作業の効率化を図るためとはいえ、人でなくても二足歩行で両手の使える動物ならなんでもよかったはず。

 「ほとんどの者は人間を嫌っていないからな」

 「嫌われ役だと言っているのに?」

 人間のことをよく思っていない人がいたら、人の姿を見たくないのではないかと勝手に思っていた。

 「嫌われていたとしても、それが人間を嫌う理由にはならない。なにせ元々……いや、なんでもない」

 そう言いかけて話を止めた。
 元々、なんだろ。
 気になったけれど、それ以上は聞けなかった。


 「さ、用は済んだから灯は部屋で休んでいろ」

 「え!?あ、はい」

 背中を押され、部屋の外に追い出されてしまった。

 もしかして触れない方がいいことを聞いてしまったのだろうか。
 私は多少の罪悪感を覚えつつ、言われた通り部屋に戻った。


 私たちは今、ジュエリーショップの前にいる。

 「あの、ここに今回の交渉相手様がいらっしゃるとのことで間違いないです?」

 「あぁ」

 目の前には立派な洋館。白い外壁に上品に添えられた金色のライン……漫画でしか見たことないような建物だ。

 「そんなに緊張しなくても大丈夫だ。あいつは絡まれると面倒だが、悪いやつではない」

 絡まれるという表現を使う時点で危ない気がする。
 私はクラネスさんの隣で怖気づいていた。

 「よぉクラネス。久しぶりだな」

 ドアが開いて中から人が出てきた。

 「悪いな、オープン前に」

 この人もモモさんと同じ香水を持っていると聞いた。彼らと同じく、クラネスさんの作った香水を使っている人は結構いるらしい。
 私が見ている人の姿は幻影であり、その人の性別や性格・特徴などを加味した上で、存在している人間のデータからより合うものをクラネスさんが組み合わせて作っている。それは香水も同じだ。


 彼はリィン・ロット。
 ピアスに指輪、首飾り……。ジュエリーショップのオーナーだからなのか、数種類のアクセサリーを身につけている。
 ドアの前には階段があり、それを一段ずつ下りる度にきらきら光って、揺れて忙しい。


 「いいよ、お前には世話になってるからな」

 今回はクラネスさんがいてくれてよかった。だってこんなチャラチャラした人相手に交渉なんてできる気がしない。

 「頼みがあるんだが、プラチナを少し譲ってもらえないか?」

 二つ目の材料はプラチナ。
 この世界での価値は分からないけれど、私の知っているプラチナは希少金属だ。そんな簡単に譲ってもらえるとは思えない。

 「あー、いいぜ」

 悩んでいる様子もなく、すぐに返事をもらえた。
 え、そんなあっさり?私の役目何もないじゃん。何のためにここへ来たのか、と思ったところでリィンさんと目が合った。

 「一つ条件をつけるなら、こいつを借りる」

 「え?」

 絡まれると面倒だと言われた人に指名されてしまった。

 「ほう。確かお前は女性には興味がなかったんじゃないのか?」

 「そうだけど、なんかこいつ面白そうだし」

 いや、どんな理由だよと心の中でツッコミを入れた。
 暇つぶし相手をしろとか言われそうな勢い。そんなの絶対無理。

 「クラネスのとこで助手してるなら、雑用くらいには使えるだろ」

 これくらいならできるだろ?と言わんばかりの視線が飛んでくる。若干偉そうな態度が癪に障るけれど、それで譲ってもらえるなら安いものだ。

 「雑用くらいならやりますよ」

 断るわけにもいかないし、私は迷うことなく答えた。

 「決まりだな」

 驚くほどにトントン拍子で話が進む。そんな中、クラネスさんだけは表情を曇らせていた。

 「どうかしましたか?」

 気になった私は、リィンさんが一度店へ戻った後に聞いた。

 「あいつは女性に興味がないから、灯に絡むことはないと思っていたんだが……少々面倒なことになったな」

 クラネスさんを唸らせるほどの厄介者。リィンさんってどんな人なんだろう。

 「大丈夫ですよ。むしろこの町の人たちと接することができるいい機会ですし」

 安心してもらえるように私は笑って見せた。

 その後プラチナは明日までに用意するということになり、私はリィンさんの店へ入った。
 別れ際にクラネスさんの口から「何もなければいいがな」と小声が零れていたのを私は聞き逃さなかった。

 店内は、日本で見かけるジュエリーショップとあまり変わらない。

 「お前、名前は?」

 「アカリです」

 リィンさんの視線が私の頭から足の先までを見据えている。
 さっきも思ったけれど、この人すごい見てくる。私そんなに変かな。それとも人間だと気づかれた?

 「ちょっとこれつけてみろ」

 「え?」

 そう言って渡されたのはシルバーチェーンのブレスレットだった。

 「最終調節に付き合え」

 あぁ、なるほどそういうことか。
 理由が分かったところで、私は左手首にブレスレットを合わせた。
 アクセサリーなんて滅多にしないから、少し苦戦したけれどなんとかつけられた。

 「これでいいですか?」

 私が左腕を見せると、リィンさんはメモを取り始めた。
 このブレスレット、シンプルなデザインで私には大人っぽい気がする、なんて考えながらしばらくじっと待っているとペンが止まった。

 「お前、腕細いな」

 「うぇっ!?」

 その一言に思わず手を引っ込めた。
 運悪く、今日着ているワンピースは七分袖だった。

 「じゃあ次こっち」

 まだやるんだ。
 ブレスレットを返すと今度は、白いレースのガーターリングを渡された。
 これって足につけるやつだよね。

 「えっと、今つけるんですか?」

 「当たり前だろ」

 そうだよね。仕事だもんね。

 「じゃあ、ちょっとイス借ります」

 何もない壁の方を向いて、ガーターリングを太ももまで上げる。
 あれ、ぴったりだ。でもこれだとワンピースに隠れちゃうよね。

 「あの、リィンさん」

 私が後ろを振り返ると、そこに立っていたリィンさんと目が合った。

 「分かった、それやるよ」

 「え、何が分かったんですか?というかこれ……」

 「もう用は済んだから早く掃除しろ。店の窓拭きと外の掃き掃除な」

 えぇ……。
 やりたいことだけやってリィンさんは店の奥へ行ってしまった。

 何がしたかったんだろう。ガーターリングもらっちゃったんだけど、よく分からない。
 そんなモヤモヤを抱えながら私は立ち上がった。

 やろうか、掃除。

 単純な作業は何も考えないでできるから、それに該当する掃除も嫌いじゃない。
 窓を見ると、普段からきちんとされているのか、そこまで汚れはない。
 おかげで店内の掃除はオープン前に終えることができた。これなら残りもすぐに終わりそうだ。

 今度は掃き掃除をするために外へ出る。
 朝の柔らかい日差しと風が心地良い。

 この町での暮らしにも、だいぶ慣れてきたな。
 初めは十秒もたなかった視線が今じゃ前を向いたまま顔を下げないで町を見ることができている。時が経つにつれて、怖いという感情は少しずつ薄れていた。
 慣れるとどうにでもなるんだなんて思っていると、後ろからパタパタと走る音が聞こえた。

 「お姉ちゃんおはよ!」

 突然声をかけられ、振り向くと鬼の子がいた。彼とは初対面だ。だけれどこの子は今、私に挨拶をしてくれた。

 「おはよ」

 私が挨拶を返すと、にっこり笑ってその子は走っていってしまった。視線で追いかけていると、彼はすれ違う人たちに挨拶をしていた。時折、持っていたカバンから手紙を取り出して町の人に渡している。郵便配達の手伝いをしているのだろうか。

 それはどこにでもある普通の光景のはずなのに、寂しく感じてしまうのはどうしてだろう。




 「リィンさん、掃き掃除終わりましたー」

 店に戻り、彼の姿を探すも見当たらない。
 そう言えば香水の効果っていつまで続くんだろう。リィンさんの本来の姿、気になる。
 そんなことを考えていると声が聞こえてきた。

 「思ってたよりできるやつだな」

 そして奥のカウンターから姿を現したのは、緑色のヘビだった。

 「じゃ次は、屋敷の方の掃除な」

 リィンさんはヘビ。
 姿は変わっても相変わらず私の扱いは雑だけれど。

 「また掃除ですか。しかも屋敷って、もう店じゃないし」

 「ごちゃごちゃ言わずに行ってこい」

 私は言われるがまま、店の裏口から屋敷の方へ行った。
 屋敷というのはリィンさんの家のことだ。


 「アカリさんですね、ではまずこちらの服に着替えていただけますか?」

 そこには羊の執事がいた。
 そして着替えと言って渡されたのはメイド服。これに着替える必要はあるのだろうか。でもワンピースを汚すわけにもいかないし……はぁ。
 ため息をつき、もう二度と着ることはないであろうメイド服に袖を通す。

 スカート丈、短い。膝が見える長さのスカートを履いたのはいつぶりだろう。……あ。

 鏡に映る自分を見ると、太ももにつけていたガーターリングのリボンが目に入った。
 もしかしてあの人、私がこれ着るの知ってて渡した?

 コスプレの趣味はないんだけどな。本日二度目のため息をつきながら部屋を出た。

 「ではまずこちらのお部屋から……」

 目の前に広がる大きなスペースを見て思った。これ終わるの何時間後なんだろう。




 「お疲れ様でした」

 全て終わったのは夕方だった。

 メイド服からワンピースに着替え、ぐーっと伸びをした。
 普段使わない筋肉を使ったせいで、体が悲鳴を上げている。掃除ってこんなに大変だったっけ。

 「お前、結構いい仕事するじゃん」

 リィンさんの仕事も終わったのか、屋敷に戻ってきた。

 「それはどうもありが……え、ちょっ!?きゃああああ!」

 今の間に何が起きたのか整理すると、玄関から入ってきたヘビのリィンさんがこちらに近づいてきて、迷うことなく私の左足に絡みついてきた。

 「あ、あの……」

 足首から脹脛(ふくらはぎ)にかけてぐるりと巻きついている。

 「これは一体……」

 「休憩」

 スカートの中から声がする……。なにこれ。
 こんな状態誰かに見られたら間違いなく怪しまれる。

 そこから一、二分何も起こらず、彼はシュルリと下りて来た。
 絡まれると面倒って、こういうこと?





 重たい足を動かして、何とか家に着いた。

 「おかえり……どうした、浮かない顔だな」

 「あ、えっと……」

 できれば気づかれずに部屋まで行きたかったけれど、仕方がない。
 目を泳がせつつも、私はワンピースの裾を少しだけ持ち上げた。

 「すみません……眠ってしまわれたみたいで」

 そう言ってヘビの巻きついている左足を見せた。
 実はあの後もう一度足に巻きつかれ、そのまま眠ってしまったのだ。引き離すこともできたけれど、執事に起きるまでそっとしておいてあげてほしいと言われ、連れて帰って来てしまった。

 「……」

 クラネスさんが固まっている。そして聞いたことないくらいの大きなため息をついた。

 「娘の足で寝るやつがあるか」

 「ぜ、全然平気ですので!」

 「……悪い」

 クラネスさんはリィンさんを引き離してくれた。それでも彼は起きない。

 「こいつは俺の部屋でいいだろ。起きたら勝手に帰るだろうし」

 なんだか手馴れている。こういうことが過去にもあったのだろうか。


 
 一段落して私は今日のことを報告するためにクラネスさんの部屋に来ていた。
 ベッドではヘビのリィンさんが眠っている。

 「久しぶりにあんなに掃除しましたよ」

 結局店にいたのは数時間で、残りは屋敷の掃除をしていた。

 「こいつの家は無駄に広いからな」

 あれを毎回こなしている方には頭が上がらない。


 「それにしても、リィンさんっていつもあんな感じなんですか?」

 人生で初めてヘビに巻きつかれた。
 家に帰るまで隠すのに必死で、変な歩き方していた気がする。町の人に気づかれないかハラハラしっぱなしだった。

 「そうだな。眠る時は基本何かに巻きついている。中でもヒト型の足や腕が居心地いいそうだ」

 私が知っているところの、クッションやぬいぐるみがないと眠れないという感覚に似てるのかもしれない。

 「ストレスを抱えやすいやつで、こいつにとって睡眠は栄養みたいなものだ。俺やシュベルトもよく巻きつかれる。それぞれ居心地のいい場所は違うらしいが……もしかして腕とか足のサイズを測られたか?」

 「あ、えっと……」

 再び目を泳がせる。
 ブレスレットやガーターリングを試させたのってそういう意味だったり……もしかして巻きつくのに腕が細かったから足に?

 「……心当たり、なくはないですけど」

 リィンさんは仲の良い人を見つけるとすぐ体に巻きついてしまうらしい。
 しかしその人と眠るわけにもいかないので、クラネスさんに代わりとなるクッションを依頼したそうだけれど、やはり体に(まさ)るものはないとのこと。


 掃き掃除をしている時、接客をしていたリィンさんが見えた。その仕草や表情からは仕事熱心で誠実な人という印象を受けた。
 そして最初の偉そうな態度から一転、疲れると喋らなくなる人なのか、仕事終わりには口数が減っていたのを思い出した。
 絡まれると面倒だけれど悪い人じゃないんだよね。あまり無理はしないでほしいな。


 「灯も早く休んだ方がいい」

 時刻は深夜を回っていた。

 「そうですね、おやすみなさい」

 部屋に戻ってやることを済ませると、私はすぐに眠ってしまった。

 次の日、プラチナを受け取りに店へ向かうと外でリィンさんが待っていた。
 朝早くにクラネスさんの家から帰っていたらしいけれど、全く気づかなかった。

 「ほらよ、約束の品だ」

 確認すると袋には少量のプラチナが入っていた。

 「それと昨日は悪かったな。あんまり記憶がなくて、起きたら"早く帰れ"ってメモがあったから、またやらかしたのかと」

 そう話す顔は落ち込んでいるようにも見えた。昨日のことを覚えてないくらい疲れていたのだろうか。

 「昨日のは十分やらかしていると思うが」

 クラネスさんの目は冷たかった。
 それに昨日からリィンさんに対する視線がちょっと怖いんだよな。私のせいなんだろうけど。

 「別に気にしてないですから!」

 全く気にしてないわけではないけれど、ここはそういうことにしておこう。リィンさんだって悪気があったわけじゃないんだし。今回はたまたまだったと信じたい。


 そこへ聞き覚えのある声が響いた。

 「あれ?アカリだ!」

 前から走ってくるのはピンクのワンピースを着た可愛らしい女の子。

 「モモさん!」

 駆け寄ってきたモモさんは、私とリィンさんの顔を交互に見ていた。

 「リィンと知り合いだったの?」

 知り合いというか雑用係というか。

 「実は昨日会ったばかりで」

 そう言うとリィンさんに引き寄せられた。

 「知り合いよりも深い関係だよな」

 「何言って……」

 顔を上げると、長いまつ毛に空色の瞳、艶やかな唇がすぐそこにあった。文句なしの整った顔立ち。サラサラの髪が視界をくすぐる。
 近い……。
 
 さっきまで落ち込んでいたのは芝居だったのか、晴れやかな顔をしていた。
 絶対今の状況を楽しんでる。お願いだから変なこと言わないで。

 「……」

 モモさんが分かりやすくショックを受けている。これは早く誤解を解かないと。

 「モモさんこれは」

 「あんたなんかとアカリがそんな関係なわけないでしょ!どう見てもアカリ困ってるじゃない!」

 それは、リィンさんのことを知っているような口ぶりだった。
 クラネスさんの話をしていた時よりも勢いがすごい。
 するとモモさんに右腕を掴まれた。

 「アカリ!こんなやつ放っておいて今から家に来ない?新しい紅茶が入ったの」

 えぇ……。

 「悪いが俺はこいつに用がある。お子さまは引っ込んでろ」

 あぁ……大変なことになってしまった。
 二人に挟まれて、完全に”私のために喧嘩をしないで”というシチュエーションだ。

 そして、この様子を何も言わずに眺めている人がいた。

 「あのクラネスさん、突っ立ってないで助けてください」

 まじまじとこちらを観察しているクラネスさん。

 「なかなか面白い絵だな」

 面白がるところじゃないです。

 「ではこうしよう、灯は今から俺の実験の手伝いをしてもらう」

 「なんでそうなる!」
 「なんでそうなるの!」

 二人は口を揃えて言ったけれど、私は助かった。


 モモさんはリィンさんの店の常連で、私のバレッタについているオパールもそこで購入したものだという。
 以前ある人に依頼され、服のデザインを一緒に考えたことがあったらしい。仕事以外での相性は最悪だけれど、お互い妥協を許さない人たちなので、その仕上がりは素晴らしく後に依頼が殺到したそうだ。しかし二人とも共同作業はもうやりたくないと、依頼は受けていないという話を聞いた。




 家に着いて早々、クラネスさんは作業部屋にこもってしまった。
 私は買い出しに行ったり、部屋の掃除をしたり、ほとんど動き回っていた。
 そして一通り終えて休憩していた時、ある異変を感じた。

 ……寒い。

 この世界に四季はなく、年中春のような暖かい日差しが降り注いでいるため寒さとは無縁の環境だ。

 やってしまったかもしれない。

 それは時間が経つにつれてひどくなっていった。
 頭が上手く働かない。背中がゾワゾワする。指先の感覚が敏感になって、体がだるく熱っぽい。


 「風邪だな」

 リビングで丸まっているところをクラネスさんに発見され、部屋で寝るように言われた。

 慣れない生活が続いたからだろう。環境の変化や溜まった疲労が体に負担をかけていた。今日までなんともなかったのが不思議なくらいだ。

 「飲み物とタオルは置いてある。他に何か必要なものはあるか?」

 クラネスさんに迷惑をかけるわけにはいかない。早く治さなければ。

 「すみません、ありがとうございます。とりあえず今は寝ます」

 クラネスさんが部屋を出たのを確認した後、私は目を閉じた。