漫画家は描くために冒険をする

 俺は今真っ白な紙と向き合っている。鉛筆を片手にお互い睨み合ってるような状態だ。鉛筆の先を紙に近づけるのだが、結局何も描くことはなく紙から離れてしまう。
 頭を掻きむしりながら、この状態が何時間も続いていく。これに我慢出来なくなったのか、俺は突如両手の手の平で机を思いっきり叩いた。
「描けない……」
 酷く焦った顔をしているであろうこの俺は高峰遥斗(たかみねはると)。漫画家だ。漫画家といっても、まだデビューして二ヶ月ばかりしか経っていない新人である。
 俺は勉強やスポーツなど特に取り柄が無いのだが、子どもの頃から漫画を読むのがとても好きで、それもあって漠然と漫画家を目指したというか、まぁそれで大学卒業間近に適当に考えて描いた短編漫画が賞の佳作に選ばれて、一応漫画家としてデビューしたという形になっている。
 しかし、この二ヶ月間全く漫画が描けていない。漫画が描けないどころか、ネームさえろくに描けてない状態である。
 それは当然と言えば当然だと思う。特にこのストーリーを描きたいと思って漫画家になった訳ではなく、お金持ちになれそうだとかモテそうだとか、何となくな憧れによる不純な動機で漫画家を目指した訳なのだから。
 あの佳作に選ばれた短編漫画だって、自分の好きな漫画を所々パクって、それを少し誤魔化しただけの完全な贋作なのだから、そりゃあ次の漫画が描けるわけがない。
 漫画が描けないことは、つまり収入が全く入ってこないということだ。週刊誌や月刊誌などに自分の漫画が載らないことには原稿料が貰えない。収入が無いということは無職、ニートということと全く変わらないということである。
 俺は生活費という切実な問題に直面していた。就活を全くやらず大学卒業のタイミングで一応デビューしたため、当然どこにも就職していない。それどころか漫画を描くことに集中したいということで、バイトさえやっていないのだから。
 この状態もそろそろまずいと最近思い始めて、まず最初に頭に浮かんだのはアシスタントの仕事だった。俺は担当編集がついた段階で、何人かの漫画家の先生の仕事場を見学したことがある。そこで働くアシスタントのあまりの画力の高さに、完全に自信を無くしてしまった。その記憶が蘇り、俺は頭を横に振った。
 アシスタントは絶対無理だ。今の俺がもし採用されたとしても、必ず初日でクビになる。それは絶対だ。
 だが、他に漫画家としてのスキルを活かせる仕事があるのだろうか?俺はスマホを取り出した。
 絵を描く仕事と言えば、真っ先に思いつくのはイラストの仕事だろう。俺はイラストを描く求人を調べた後、SNSに投稿されているイラストをいろいろ見ていった。どれもレベルが高い。プロのイラストレーターは当然だが、素人のレベルもかなり高い。プロ並みやどうかしたプロよりも明らかに画力が高い人たちばかりだ。その中には中学生や高校生もざらにいる。
 イラストを見てみた限り、どれもデジタルで描かれたものばかり。最近までデジタルでイラストを描く方法さえ知らず、今でもアナログで絵を描いてる自分にとって、とてもじゃないが採用される見込みがない。
 今こうやってSNSに投稿されてるイラストを見ていって、よく自分の画力で漫画の賞に入選出来たものだととても不思議に思う。所々パクったものだし、ストーリー自体良いものとはとても思えない。
 イラストやアニメ関係の仕事以外、絵を描いて収入を得られる仕事はほとんど無い。知名度も低くスキルの劣る自分にとって、この道はとても険しいというのが現実だろう。
 じゃあ、他に自分は何が出来るのだろう?俺は空っぽに近い脳みそをフル回転させて、いろいろ考えてみる。
 学生時代にコンビニや清掃のバイトぐらいしか経験したことがない自分にとって、結局出来ることがほとんど無い。大学も三流私大文学部出身、理系の知識も無く就活も全くしてこなかった。こんな自分を採用してくれる企業なんてほとんど無いだろう。そして、漫画が描けない。
「あぁ、人生詰んだ……」
 俺は天井を見上げながら薄ら笑いを浮かべる。完全にあきらめモード、人類ただ一人この俺だけが世界の終末にいる、正にそんな気分に陥っていた。
 しかし、ふと子どもの頃よく読んでいた漫画とその時の記憶が頭の中で蘇る。週刊少年◯◯、俺はこの週刊誌を読むのが好きで、逆境にもめげず自分の信念に突き進む主人公たちに、俺は心を躍らせていた。
 そうだ、俺はこんなピンチの時こそ、乗り越えようと前を向く漫画のキャラたちに憧れていたのではなかったのか?
 俺はこの気持ちを久しく忘れていたことに気づいて、漫画の登場キャラのごとくキザっぽく笑った。
 たかが二ヶ月ちょっと漫画が描けてないだけで、よくもまぁここまで落ち込むものだと、こんな自分自身に呆れてしまう。だって、よく考えてみろ。今すぐ命の危険が迫ってるほど深刻なことではないだろ。世界では今でも戦争や飢餓で死んでしまう人なんてたくさんいるのだから、それに比べればどれだけ恵まれていることか。俺は自分にそう言い聞かせる。
 このことは客観的に見ても真実だと思う。しかし、これは自分自身を元気づけるための口実としての意味も含まれる。だからこそ、自分の置かれてる状況に背を向けることは出来ない。
 俺は再び自分と向き合う。自分には何が出来るのだろうか?今までの生きてきた時間を振り返ってみて、自分に対して誇れるものと言えば、漫画の賞で佳作に選ばれたこと。つまり自分が出来ることと言えば、漫画を描くことなのだ。だが、その漫画が今は描けない。どうしてだろう?
 まず考えられることとして、他の漫画家と比較してしまい、モチベーションが低下してしまっていることが理由に上げられるだろう。他の漫画家の絵やストーリーの上手さに自信を無くすのは分かる。でも、誰もが最初から上手かった訳ではないだろ。それに絵が下手でも売れてる漫画家さんはいる訳なのだから。俺は絵が下手だけど、佳作に選ばれたのにはそれなりの理由があった訳なのだから、ここで描くのをやめてしまうのは本当にもったいない。多くの作品の中から自分の描いた漫画が選ばれたのだから。
 俺は自分自身に語りかけることにより、少しずつ自信を取り戻していく。だが、漫画を描くモチベーションが上がったものの、漫画が描けない根本的な問題を解決していないことに変わりはない。この根本的な問題とは何だ?別に絵が描けないわけじゃない。犬の絵を描け、女の子の絵を描け、ロボットの絵を描けと言われれば、下手なりには描ける。つまり、ストーリーを考えることに問題があるということだ。問題解決に行き詰まった途端、モチベーションが急激に下がってしまう。
「ストーリーが思い浮かばないんじゃ、漫画は描けない。漫画を描くこと以外特に経験やスキルの無い自分にとって、この先どうやって生きていけば……あっ!」
 あっそうだ。経験が無いからストーリーが作れないんだ。なぜこんな簡単な理由に気づかなかったんだろう?俺は自分のあまりの馬鹿さ加減に呆れてしまう。
 つまり経験が無いためその分の知識が無く、それが理由で漠然としたアイデアを具体的な形へと上手く表現出来ないことが、漫画が描けない根本的な問題ということだ。
 そう、だから経験を積めば、問題が解決される……かもしれない。
 なぜここまで来て俺は前向きになれないんだ?根本的な問題は見つかったのだ。
 確かに知識や経験があるからといって、漫画が描けるわけではない。漫画家として食っていくならなおさらだ。でなければ、周りは漫画家で溢れ返ってる。
 でも、これは自分が前向きになれない本当の理由ではない。本当の理由なんてとっくに分かってる。
 未知の経験が怖いのだ。漫画を描くフリをするぐらい、ほとんど何もやってこなかった。俺なんて無能だ。そんなことは分かってる。そして、俺は臆病者なんだ。
 でもな、こんな無能で臆病な俺でも、漫画家としてのチャンスを掴んだんだ。未知の経験が怖いってなんだ?たかが社会見学みたいなものだろ。漫画のキャラのように危険が隣り合わせってことでもあるまい。冒険気分でいろいろ経験してみれば、もしかしたら漫画の主人公のようにヒーローになる瞬間が来るかもしれない。このまま何もしなければ俺の人生は確実に終わるのだから、最初は簡単なこと身近なところからでいいから、漫画の主人公のように冒険に出かけてみよう。いろいろ経験してみれば、いつかこのことを漫画にする日が来るかもしれない。俺は今日そう決意した。
 漫画を描くために身近なところから少しずつ新しい経験をしていこうと決意してからその翌日、俺はまず何からスタートしようか考えていた。
 冒険に出かけてみようなんて大げさに自分に言い聞かせはしたけど、つまりはネタ探しのためにいろいろ経験してみるということだ。自分は今まで描くこと以外特に何もやってこなかったから、まぁ遅い社会科見学ぐらいに考えたらいいんだろう。でも、まず何をやろうか?
 俺がいろいろ考えているところ、突然スマホに着信の知らせの音が鳴る。
「もしもし」
「あっ、高峰先生。おはようございます」
 女の人の声。担当編集の瀬川さんだ。
「瀬川さん、おはようございます」
「高峰先生、あの一週間前ぐらいにもご連絡させてもらいましたが、あれからネーム少しぐらい描けました?」
 俺は描けてない現実に気分がガクンと落ち込む。
「いや、その〜……ってか、実は全然描けてなくて……」
 ややしどろもどろになりながら答えると、少しの間沈黙になる。はぁ〜、つらい現実を突き付けておいて、それに加えてプレッシャー与えないでよ瀬川さん!俺は少しの沈黙が破られるまでの間、溜め息をつくのを何とか堪える。
「あっ、そうですね。高峰先生、久しぶりにこちらに来られませんか?直接会ってお話しなどしてたら、何か構想など思い浮かぶかもしれませんので」
「あぁ、はい。そうですね。分かりました。今からそちらに行きます。えーっと……大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。では、お待ちしております」
 電話が切れると直ぐ様着替えて家を出た。

 出版社に行くのは三週間ぶりだ。一等地の大きな会社の外観を目の前にすると、自分が普段暮らしてる場所と同じ東京であるとは思えない。中に入って受付に行き部署名と編集者の名前を書いて入館証を発行してもらうと、若干迷いながら目的の場所へと向かう。
 何回か階段を上がって担当の編集部に辿り着くと、近くにいる職員に声をかけた。そして、毎度のごとく担当編集が来るまでの間休憩ブースで待たされる。自分は漫画家なのだから出版社に来るのは至極当然のことだと思うのだが、正直言うと敵地にいるような気分だ。待ってる時間は長くても十分ぐらいのものだと思うが、これがやたら長く感じる。そして、毎回自分がつくづく小心者だと自覚してしまうのだ。
「高峰先生、お待たせしました。こちらへどうぞ」
「あっ、はい」
 やっと打ち合わせが始まる。と言ってもネームどころか構想も全く浮かんでこなかっため、あんまり期待出来ない。前回と同じように編集部の長机が置いてある場所へと向かう。パイプ椅子に腰掛けると、瀬川さんかお茶を持ってきてくれた。
「先生、お茶どうぞ」
「あっ、ありがとうございます」
 お茶を啜っていると瀬川さんも椅子に腰をかけて向き合う形となる。さっきまであまり瀬川さんのほうを向いて話していなかったが、お互い椅子に腰をかけて打ち合わせが始まると視線を逸らしてしまうと不自然なので、どうしても瀬川さんの姿が目に入ってしまう。
 瀬川さん。え〜と、下の名前何だったけ?黒髪の長髪。眼鏡をかけているが、文学少女といった感じとは少し違い、知的さもありながらもどこかクールな雰囲気の漂う。喋り方もわざとらしくない感じのクールさがあって、如何にも仕事が出来そうって感じのそんな女性だ。歳も自分と変わらないぐらいの感じ。普段眼鏡をかけているので地味な印象を受けるが、こうしてよく見ると瀬川さんが実はかなり美人だということが良く分かる。
 瀬川さんが美人だということを意識してしまうと、俺は瀬川さんの顔から目を逸らしてしまう。しかし、視線を移したその先には、瀬川さんの胸元の姿があった。
 それは正に芸術だった。胸元のシルエットが何とも美しい。ほとんど隠れているのだが、それでもこれだけハッキリとシルエットが見て取れるということは、当然バストのサイズも……
「高峰先生、ちゃんと話聞いてます?」
「ん?あっ、はい!」
 瀬川さんのあまりに素敵な胸元に意識が集中してしまい、俺は打ち合わせ中だと言うことをすっかり忘れていた。瀬川さんの声が突然耳に入ってきたので、驚いて椅子を少し揺らしてガタンと音を鳴らした。瀬川さんと視線が合ってしまい、俺は直ぐ様下に視線を逸らす。すると、自分の股間の辺りが大きく盛り上がってるのが確認出来た。
「どうされました?」
「いえ、別に……何も!」
 ヤバい!瀬川さん、何か疑ってるようにこっちを見てる。こんなにも大きく膨れ上がった股間をもし瀬川さんに見られようものなら、完全に変態だと思われてしまう。まぁ、実際谷間に見惚れてた訳だけど、もう完璧に……
「では、まだアイデアが浮かんで来ないと?」
 ふぅ〜、どうやら気づかれなかったようだ。もし気づかれたりしたら、瀬川さんむっちゃ怖そう。普段物静かな人ほど怒ると怖いと聞くから、実際静かな時も少し近寄り難いのだけど瀬川さん。まぁ、気づかれなかったみたいだから、ちゃんと話に集中しよう。
「そうなんです。いろいろアイデアが出るように、街中いろいろ歩いてみたり、図書館で調べものしたりなど、いろいろやったのですが」
 実はそこまでちゃんとやってなかった。ただ、机に座って何となく考えるだけで、今まで全く行動出来てない。
「そうなんですか」
 今までのことを見透かしているかのように瀬川さんがこっちを見てる。まるで軽蔑してるかのように。瀬川さん、そんな目で俺を見るのはやめて……
「分かりました。今ここでお話ししても高峰先生アイデア浮かんでこなさそうなので、また後日お会いしましょうか。その間に何かアイデア思いつくかもしれないし」
「そうですね。分かりました。何かアイデアが浮かんできたら、今度はこちらから連絡します」
 俺は立ち上がった瞬間、壁に貼ってあるポスターが目に入る。可愛い女の子が描かれてる。どうやらラブコメのようだ。
「あの、あれ〜……」
「あぁ、少し前に連載が始まった◯◯って恋愛ものなんですけど、今度新刊が発売されるんです。そのポスターで連載の一話目から結構人気あるんですよ。わたしも連載追ってますけど、面白いですよ。高峰先生も読まれてます?」
「あぁ、いいえ」
 恋愛もの。あぁ、そういえば恋愛ものって描いてこなかったな。まぁそもそも、恋愛経験が皆無な俺に恋愛ものやラブコメ描けるわけがない。でも、ここ最近はラブコメや恋愛系の漫画の人気が高い。恋愛描写さ最もストーリーとして盛り上がる要素の一つだ。それが描けないとなると、漫画家としてはやってはいけないと思う。あぁ、そうだ!まずは異性を知ることから始めよう。異性と話せば少しはアイデアが浮かんでくるかもしれない。でも、まずはその異性を探さないことには何も始まらない。では、誰を?
「……何か?」
 いた!何かいきなりハードル高そうだけど、まともに接点がある人は瀬川さんぐらいしかいない。あまりにクール過ぎて、感情や表情に乏しい気がするのだけど、あぁいや、彼女で決まりだ。
「瀬川さん。あのポスター見て思ったんですけど、あの僕恥ずかしながら恋愛経験どころか、あまり異性と話したことが無いんですよ。そこで……あれなんですけど……瀬川さん、僕と……僕とデートしてもらえませんか。あっいえいえ!デートするフリをしてもらえればいいんです。あの……そしたら、何か恋愛ものとか描けそうな気がして……」
 あぁ、言ってしまった。どうせ漫画を描くという口実に誘ってるだけなんだろうって思われてるんだろうな、きっと。あぁ、何でこんなこと言ってしまったんだろう。これで完全に軽蔑されたな。
「いいですよ」
 えっ!OKでちゃった?うっそ〜、マジか。
「えっ?いいんですか?」
「いいですよ。それで何か描けそうだったら」
 こうもあっさり承諾してもらえるとはかなり意外だった。でも大きな前進だ。瀬川さんとデートか。どこに行けばいいだろうか?
「えっ、じゃあどうしますか?あのどこか行きたいとことかありますか?」
「特に何も?街中ぶらぶら歩けばいいんじゃないですか。所々でお店にでも入ったりしながら」
 瀬川さんは特に考える様子も見せず即答した。確かに変にデートスポットとか行くよりそのほうがいいかもしれない。
「それじゃあ、いつにしますか?予定空いてる日は?」
「今から行きましょ。取材ってことにしておきますので」
「分かりました」
 瀬川さんは他の社員に外に出かけることを伝えると、俺と一緒にそのまま会社を後にした。

 俺は今、瀬川さんと一緒に街を歩いている。ちょうど天気も良く、気温二十℃前後とデートをするにはうってつけの日だ。だがしかし、今まで異性とこうして隣り合って歩くことがなかったので、個人的には奇妙な感覚というか、慣れない感覚というか、むず痒く感じるというか、まぁそんな気分だった。
 俺は基本的に前を向いて歩いているが、ほんのチラッとだけ十秒に一回程度瀬川さんの様子を確認する。瀬川さんは相変わらずクールな表情だ。あまりにクール過ぎてホント話しかけづらい。
 でも、何か話しかけないと、せっかくデートをしている意味がない。いや、正確にはデートのふりをしているだけなのだが、何を話せばいいのかが本当に頭に浮かばない。東京の地理には疎いし、瀬川さんがあまりに表情に乏しいので、ホントこの人今何考えてるのだろうと、俺は正直かなり困惑していた。
「瀬川さん、会社出てから三十分ぐらいずっと歩いてるわけですけど、どこか行きたいところありますか?何かお店とか?」
「う〜ん、まぁ適当にぶらぶら歩いてればいいんじゃないですか」
 えっ!それホントにデートになってんの?まぁ、ふりなんだけど、その気分味合わないと意味ないでしょ。本当は男の俺がリードしなきゃいけないんだけど、恋愛経験の無いホント童貞なんだから、少しぐらい力になってくれよ瀬川さん!
 瀬川さんの服装はジャケットにスカートというややフォーマルな感じの服装だ。その逆に俺はジーンズと長袖のTシャツという完全な私服という状態。街中を歩いていると手を繋いでいるカップルを結構見かけるが、他の人から見たら彼らと比べると俺たちはかなり浮いた状態に見えるだろう。
 そうだ!ファッションだ。服の店に入ってみるのも良いかもしれない。
「瀬川さん、あの服とかって興味あります?何かお店にでもご一緒に?」
「服余ってるんで大丈夫ですよ。それにわたしあまりファッションに興味ないんで」
 完全に躱されてしまった。ってか、俺の漫画のために手伝ってくれるんじゃないの?全然協力的ではないじゃない、瀬川さん。
「瀬川さん?」
 瀬川さんが急に立ち止まった。瀬川さんが一瞬より鋭い目になったのに俺はビクッとする。何かを見てるようだ。そして、瀬川さんは俺のほうに顔を向ける。
「ここに入りませんか?」
「えっ?」
 お店に入ると午前中だというのに若い女性が結構いる。そして、多種多様なスイーツが並んでいた。
「瀬川さん、甘いものが好きなんですか?」
 席に座ると瀬川さんにそう尋ねた。しかし、瀬川さんは完全にスルー。俺は仕方なくメニュー表を見る。
「あの、すみません。いつものお願いします。あの、二つね」
 いつもの?ってか、ここの常連なのか?って、俺お金大丈夫かな?正直お金全然無いんだよな。
「瀬川さん、あの実はお金あんまり無いんですけど……」
「大丈夫ですよ。奢りますので」
 奢ってくれるのか、それは有難いが、何かこうして奢られるのはどうしてもプライドが……
「お昼も近いですから、お昼の代わりにスイーツってのはあれかもしれませんが、わたしは良くここの食べてるので、高峰先生も良かったらと思って」
「あっそうですか。どうもありがとうございます」
 普段クールで何を考えてるのかよく分からない瀬川さんだが、瀬川さんなりの心配りに俺はとても感謝した。
「お待たせしました」
 !?俺はテーブルの上に置かれるスイーツにとても驚愕した。何ととてつもなく大きなプリンが目の前にある。いわゆるバケツプリンというやつか。通常のプリンの十倍、いや二十倍近くあるんじゃないかと思えるほど、とてつもなくデカい。って、これ正直言って食べ切れるかな?
「当店のバケツプリンですが、毎回ご説明させてもらっておりますが、食べ残されましたら、ペナルティとして倍の金額を頂きますので、どうかご了承ください」
 えっ!?うそ?ペナルティあるの?そんな知らねぇ〜よ!
「ってなことなので、完食してくださいね、高峰先生」
 いや完食って、あんた鬼かよ。まぁ、甘いものはわりと好きだけど、これは流石に……
「いただきます」
 瀬川さんはスプーンを手に取りプリンを口に運ぶ。プリンを口に入れたその瞬間、瀬川さんは至福の時と言わんばかりの満面の笑みを見せた。今まであまりに瀬川さんが感情を表に出すことが無かったため、俺は瀬川さんが初めて見せる女の子らしい表情に大きくときめいた。
「じゃあ、僕もいただきます」
 俺もスプーンを手に取るとプリンを掬って口に運ぶ。!?これは美味い。ただデカく作ったプリンだとばかり思っていたが、単純に味のクオリティが高い。甘くてとても濃厚。これなら何とか完食出来そう……
「ごちそうさまでした……」
 俺は今やっと何とか完食することが出来た。最初の五回ぐらいまではスプーンを口に運ぶのは良かったんだよ。でもそれ以降はあまりに甘くて濃厚なせいで食べるとホントにツラくて……
 瀬川さんは俺がこのバケツプリンを半分食べ終わった頃にはすでに完食していた。そして、俺が完食するまでの間、パンプスのカタカタいう音を鳴らしていた。俺があまりに食べるのが遅いので苛立っていたのだろう。
「では、もうお店出ましょうか」
「はい……」
 もう一生分の甘いものを食べた、そんな感覚になっていた。当分甘いものを食べることは無いだろう。
「高峰先生、美味しいケーキ屋さんがあるんですけど、今さっきスマホで調べたらバイキングやってるようなので、今から行きましょ」
 えぇ、まだ食べるの!?もうこれ以上は流石に……
「一緒に来てくれますよね?」
 瀬川さんが俺に見せるこの笑み、どこかどす黒さを感じる。むっちゃ怖い!?それに俺の腕を掴む手の力が何かとても強いんですけど。
「では、行きましょうか」
 瀬川さん怖い。もう甘いの嫌だぁ〜!
 こうして俺は今日の夕方頃までスイーツ巡りに付き合わされる。瀬川さんと別れてからスイーツを見るだけで身体が震えてしまうほど、甘いもの恐怖症がしばらく続くのだった。
 瀬川さんとのデートから二週間が過ぎた。いや、実際には恋愛描写を描くための参考ということで、デートのふりをしてもらっただけなのだが、その結果がまさかスイーツ地獄に発展してしまうとは……
 俺はこの二週間ずっと机に向かっているのだが、一向にネームが進まない。それどころか、どんなストーリーを描いたらいいのか、全くアイデアが思いつかないのだ。
 瀬川さんには本当に申し訳ないのだが、あのデート体験は全くもって参考にならなかった。それどころか、ここ最近はスーパーやコンビニで見かけるスイーツを見るたびに、条件反射的に身体が震えてしまう。参考になるどころか、俺は大ダメージを受けた。甘いという感覚があまりにしつこくて離れない。スイーツの甘さこそ甘いもの好きにとっては至福の時なのだろうが、今の俺にとってはまさに呪いだ。
 瀬川さん、手伝ってくれると言っておきながら、結局自分だけ楽しんでたのかもしれない。俺の立場から見れば、明らかにそう思える。そう思えば思うほど腹も立ってくる。しかし、スイーツを前にしたあの瀬川さんの表情を目の当たりにすると、あまりの迫力でどうしても断れなかったと思う。まぁ結局、全部奢ってもらったし、普通の恋愛ものとしては参考にならなかったかもしれないが、時が経てば面白おかしいエピソードということで、この体験を元とした漫画を何か描くかもしれない。そう思えると歯痒さも少しはましになる。
 しかし、今現在漫画が描けない状況が続いている。他にバイトなどしていない自分にとって、漫画を描かないことには収入が一銭も入らないことには変わりない。本当に何か描かないと……
 アイデアを出すため白い紙に何か書き込もうとするが、スイーツの残留思念が俺を邪魔する。
「あぁ、全然思いつかない……」
 あぁ、本当に何も思いつかない。そう言えば、瀬川さんとのあれからずっと引きこもってばかりだな。場所を変えたほうが何かアイデアを思いつくかもしれない。それとこのしつこく甘さが残る感じもどうにかしないと……
 俺は財布を取り出し所持金を確認する。お札様の姿が一枚と、後は六百といくらかのお金しか残っていない。お札のほうは残りの生活費として取っとかなければいけないから、六百円程度しか自由に使えるお金がない。この程度のお金で出来ることなんて限られてる。
 俺はスマホで時計を確認すると、さっさと着替えて家の外に出た。
 家の外を出てみたものの、どこに行けばいいのか全く分からない。当てがある訳ではなかった。別に外に出かけてみたからといって、何かアイデアが浮かんでくる保証はどこにもない。
 なぜ、こうもネガティブ思考になるのかなぁ?自分でもそれが本当に嫌になる。だが、もう時間的にも余裕がないのも事実だ。出来るだけ早く漫画を描かないと、お金が底をついてしまう。
 どこに行けばいいのか、自宅のアパートの近辺をうろうろしていると、ふとレトロな外観の喫茶店に目が留まる。俺はポケットから財布を取り出し小銭を確認する。
 食費を切り詰めている自分にとって、喫茶店のメニューはかなり高い。どこに行ってもだいたいコーヒーや紅茶一杯で五百円ほどする。この金額だとスーパーのタイムセールを利用すれば、何日かの食糧を買い込むほうがよっぽど賢い選択だ。
 しかし、このままだといずれ貯蓄が底をつく。問題解決のためには漫画のアイデアを出す、それしか道はない。
 頭の中でいろいろ悩んでいると、口の中に甘いという記憶がどんどん広がってくる。ああ、どうしよう?
 財布の小銭入れの中には六百円と少しほど。この強烈な甘いという感覚もどうにかしたい。他にどうすればいいのか全く思いつかないし、コーヒー一杯ぐらいならいいか、この甘さをコーヒーの苦味で中和したい。
 俺は決意すると喫茶店の中に入った。喫茶店の内装はやや昭和レトロな感じ、ミステリー系のラノベに出てきそうな雰囲気の良いお店だ。店の中をさっと見るとカウンター席に座った。
 喫茶店やカフェといえば今までチェーン店のところしか行ったことがない。漫画家や作家がアイデアを出すためカフェなどに行くという話はよく聞くが、こうまで雰囲気が良いところだとかえって緊張してアイデアが出せないのではと思ってしまう。
「いらっしゃいませ」
 おっと、女性の声。顔を上げると目の前にいる若い女性の姿が目に入った。歳は二十代後半から三十前半ぐらい、控えめなダークブラウンなポニーテール、化粧はナチュラルな感じで白のシャツと黒のエプロン姿が何とも大人っぽくて良い。
「メニュー表こちらになりますので、決まったら声かけてください」
 高過ぎず低過ぎず何とも大人っぽい声。良い感じだ。だが正直、ちょっと出来過ぎじゃないかと思う。こんな雰囲気の良い店にこんな美人が働いているという、童貞な俺にとってあまりに非現実的な光景だ。
「あっそうそう、これお冷やですので。注文決まったら声かけてくださいね」
「あっ……どうもすみません」
 俺は渡されたメニュー表に目を通す。一番安くても五百円のコーヒーと紅茶それぞれ一杯分、注文出来るものはこれが限度だ。
「あっあ〜あの〜、すみません」
 何を緊張してるんだ俺!
「あっはい」
「コーヒー一杯お願いします」
「え〜と、ホットですかアイスですか?後種類は?」
 コーヒーの種類か、気分的には間違いなくホットだな。後あまり苦いのが得意ではないので、恐らくアメリカン辺りが無難だろう。
「あっえ〜と、ホットでえ〜と、アメリカンをお願いします。一杯分だけ」
「分かりました。少々お待ちください」
 待ってる間再び店内のあちこちに視線を移す。そう言えば他の客が誰もいない。まぁ、昼間の中途半端な時間帯だからなのかもしれないが、あまり客が来ないのかなこの店?まぁそのほうがアイデアも出てきそうなものだが、緊張からなのか思ったことが思わず口に出てしまったのではないかと思ってしまい、独り気まずくなってしまう。
「お待たせしました」
 目の前に白いコーヒーカップが現れる。コーヒーカップからは程良い感じに湯気が出る。あぁ、良い香りだ。
「いただきます」
 ご飯ではないのだから、いただきますなんて言わないでいいのか?可笑しかった俺?まぁ、いい。コーヒーカップを手に取り少し啜ってみる。
「美味しい……」
 正真正銘、正直な感想だ。本当に美味しい。コーヒーなんてインスタントをたまに飲むぐらい、普段飲むものといったら水道水がほとんどだ。
「ありがとうございます。そう言っていただけてとても嬉しいです」
 笑顔が何とも美しい。思わず見惚れちゃうと言うよりは、見てて落ち着くというか、人に安心感を与える感じの、セクシーや小悪魔とは全く正反対な部類の美しさだ。
「本当に美味しいですよ、このコーヒー。思わず美味しいって言っちゃいましたもの」
 あれ?自分でも不思議なぐらいきちんと喋れてる?普段人と話してるとよく噛むものなのだが、それだけ落ち着ける相手なんだなこの店員さんは。これも一種の才能だよな、本当に。
「そう言っていただいて、もう本当にありがとうございます」
 せっかく良い感じになっているので、ここで会話を広げたいところだ。さて、何を言おうか?
「ここで働いてもうどれぐらいですか?」
「そうですね。もう五年ぐらいになるかもですね」
 五年か、結構長いな。あぁ、でもこれが普通なのかな。俺なんてバイト長くて半年ぐらいだからな。漫画家としても、いや一応デビューして二ヶ月ってだけで、全く漫画描けてないからな。みんな大体これぐらいの勤務年数なんだろう。
「元々祖父のお店だったんですけど、わたしが継ぐことになって、まぁ元々喫茶店やってみたかったってのもありましたし、何とかやってるって感じですね」
「あぁ、そうなんですか」
 ここの喫茶店のマスターなのか。あれ、マスターって呼び名でいいのか?店長?まぁ、いいや。でも喫茶店の女性マスターって、何かカッコいいよな。
「あっそうそう!まだ試作の段階なのですけど、ちょっと今までと味変えてみようと思って、チーズケーキ良かったら食べてください」
 コーヒーカップのすぐ横にチーズケーキ一切れをのせた白い皿が置かれる。チーズケーキか、いつもなら喜んで口に運びそうなものだが、瀬川さんのせいで今は甘いものを見ただけで拒絶反応を示す体質になってしまっている。
「もしかしてお嫌いですか?」
「あっ、いえ……」
 せっかくのご好意なのにここで頂かないのは失礼なのではないだろうか?いや、失礼だよな?甘いものはもう懲り懲りなのだが……仕方ない。いや、仕方ないって思うこと自体、失礼極まりないよな。きっと美味しいはずだ。有り難く頂こう。俺はケーキ用のフォークを手に取ると、チーズケーキを掬って口の中へと運ぶ。
「美味しい……」
 もちろん正直な感想だ。本当に美味しい。あんなに甘いものは口に入らなかったのに、このチーズケーキはすんなり口に入る。あまり甘くない。程良い酸味にほんのり甘い感じが絶妙だ。あまりに美味しいので一気に平らげてしまった。
「美味しいですよ、これ」
「ありがとうございます」
 思いもよらない素敵な御馳走と彼女の優しい笑顔。正に至福の時だ。こんなにも幸せに感じたのはいつ以来だろうか?今なら漫画が描けそうだ!……そんな気がする。
「お店ってお一人でやられてるんですか?」
 気分が良くなったせいか、つい余計なことを訊いてしまった。俺は言ってしまった直後、気持ちがダダ下がりしてしまう。
「そうですね。先月まではバイトの子がいたんですけどやめてしまって、今は一人でやってます」
「そうですか」
 この様子だとどうやら不味いことは訊かなかったようだ。う〜ん、どうなんだろう?やっぱ不味かったのかな?こういうの分からないのってホント何においても経験ないんだろうなって思ってしまって、心底自分に嫌気がさしてしまう。
「今はちょっとお客さん全然いないですけど、時間帯によっては一人じゃ正直きついなって思うこともあるので、バイト募集しようかなって思ってるところなんですけどね」
 そうか、バイト募集か、なるほど。って!これって、一緒に働けるチャンスじゃねぇのか!?喫茶店のことについて実は良く知らないし、ここで経験を積めば漫画にも活かせるかもしれない。ってなことは表向きな理由で、本当はただこの美人マスターと仲良くなりたい。それだけだ。いや、それだけじゃないんだけど……さぁ、どうする?
「あっ、え〜と、あの?」
「はい?」
「あの〜、さっきバイト募集しようかって、そんな話してたと思うんですが、あのその〜、ちょうどバイト探してたところなので、あっえ〜と、喫茶店とかって未経験なんですけど、もしよかったら雇っていただけませんか?」
 あっ、言っちゃった。あぁ、でもどうしよう。こんなに明らかに緊張したような喋り方じゃ、どうせ雇ってもらえないだろうな。失敗したよ俺!
「え〜と、いいですけど」
 えっ!?OK?やったー!OKもらっちゃったよ。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
「では後日履歴書書いて持ってきてもらえれば」
「分かりました」
「え〜と、こういう場合面接したほうがいいのかな?いつぐらいがいいだろう?」
「あの、明日履歴書書いて持ってきますので、面接は後から都合が良い時で大丈夫です」
「そうですか。分かりました」
 俺は立ち上がると伝票を持ってマスターに渡す。
「五百円になります」
「五百円、五百円と。あっ、あのケーキ代のほうは?」
「あれは試食のサービスですので、その分のお代は入りません。大丈夫ですよ」
 会計を済ませると俺は店を出ようとドアのほうに向かう。あっ、そういえばこの店何て名前なんだろう?店の看板とかろくに見なかったからな。俺は立ち止まり振り返る。
「あっあの〜、この店の名前って何って言うんですか?」
「喫茶倶楽部です」
 喫茶倶楽部、いい名前だ。俺はマスターの優しい笑顔を最後に店を後にした。

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