ふーっと二人でシャボン玉を吹いたけど、どう見てもバニラは煙草を吹かしているようにしか見えなかった。
ぶわっとあたり一面が仄かな光に包まれる。
夜の闇にきらきらとシャボン玉が輝いて、文字通り星が降ってくるようだった。
シャボン玉を飛ばすバニラの横顔は優しい目をしていて、どうしてか分からないけど、きっと本当はこのシャボン玉のように繊細なひとなんだろうなと思った。
同時に、いつかいなくなってしまいそうな、そんな気がして胸がざわついた。
ーーそれはきっと、バニラの横顔があまりにも綺麗だったから。
夏になったら海で花火をしようよ、最後にそう約束したのを覚えている。
その日、いつもと同じように一人でお弁当を食べようとしていると志賀谷さんに「一緒に食べない?」と声をかけられた。
教室を見渡してみると、志賀谷さんがいつも一緒にお弁当を食べていた松平さんだった――は綾瀬さん達と一緒に食べているようだった。
「……えっと……うん。」
高校生になって誰かとお昼ご飯を食べるのは初めてだった。
どうして私を誘ってくれたんだろう……。
そう考えていると、わたしの反応を伺うように加賀谷さんは言った。
「急にごめんね。莉帆が……あ、松平さんがね、なんか今日から綾瀬さん達とお昼食べるって。」
それから少し声を落としてこう続けた。
「……私ら、めちゃくちゃ仲良しだったってわけじゃなくて、中学が同じで、あの子から仲良い人できるまで一緒にいてって言われてただけなんだ。」
そんな関係だったなんて、と思った。
一人ぼっちで焦っていた私には他の仲良しグループと同じように映っていたのに、蓋を開けてみればたいした友情でもなかったようだ。
そういえば前に彼女が困ったような顔をしていたのは、私に対してではなく、松平さんとそんな約束を交わしていたからなのかもしれない。
それにしても、松平さんがよりにもよってあの綾瀬さん達のグループに入っていくなんて皮肉なものだなと思った。
それから志賀谷さんと仲良くなって、大抵は誰とでも話せる彼女のおかげで次第にクラスにも馴染めるようになっていった。
バニラにそのことを話すと、自分のことのように安心した顔で「よかった」と微笑んでいた。
そうしてあるべきところにあるべきものが収まるように新たなグループができあがり、私の高校生活がようやく始まった。
梅雨が明ける頃、彼女は眠剤を飲まなくても、馬鹿みたいにアルバムを再生し続けなくても、眠れるようになっていることに気付いた。
そして、ちょうど期末テストの時期にさしかかっていた。
彼女の高校は、県内では進学校と呼ばれる部類に入っているため、生徒も先生も勉強熱心な人が多い。
「ねぇ、数一の二次関数分かる?」
そう言って休憩時間に彼女に話しかけてきたのは、夏実ーー志賀谷さんだ。
最近ではすっかり下の名前で呼び合う仲になっている。
「……や、私そこ全然分かんない。」
テスト前になると「全然わからないよ〜」と言って謙遜という名の嘘をつく人というのは往々として存在するものだが、彼女の場合は事実だった。
授業で二次関数をやっていた頃、学校に通うことだけで精一杯だった彼女は、予習はおろか、復習さえできていなかったのだ。
そろそろテスト勉強頑張らなきゃ。
その日から彼女は、授業が終わった後もすぐに家には帰らず、学校の図書室で勉強をするようになった。
帰ってきた頃にはくたくたで、眠れなかったことがまるで嘘のように一瞬で意識を失っていた。
その頃には、バニラと過ごしたあの時間は、夢の中の話だったのではないかとさえ思うようになっていた。
無事に期末テストが終わり、夏休みが目前に迫っていた。
気付けば、バニラには一ヶ月近く会っていなかった。
バニラ、どうしてるかな。
そう思うことはあっても、今までも二人は『約束』をして会っていたというわけではない。
だから眠れるようになった今、バニラに会う理由なんてどこにもなかった。
眠れない夜にイチゴがふらりと公園に行くと、バニラがそこにいる。
必ずそこに、いてくれる。
ただそれだけの関係だった。
ーー前に聞いたことがある。
『どうしてバニラはいつもここにいるの?』と。
するとバニラは、冗談とも本気とも取れないような表情で『イチゴが眠れなくて、寂しがってる気がするんだ。』と言って笑った。
バニラはどうして、ずっと一緒にいてくれたんだろう。
心のどこかでずっと引っかかっていた疑問が浮かび上がってくると同時に、はっきりと『会いたい』と思った。
それは今までの、眠れない夜に仕方なくバニラと会うような時のそれとは違って、突き動かされるような感情だった。
バニラが、待っているような気がした。
この世界のどこかで待っているような――。
彼女はその夜、十二時を合図にそっと家から抜け出した。
久しぶりに見上げた夜空は星ひとつ出ていなかった。
何かを見失ってしまいそうで、公園に向かう足取りが心なしか速くなる。
あれは夢なんかじゃない。絶対に。
そう自分に言い聞かせてはやる気持ちを抑え、住宅街を抜けていく。
ーーこんなに遠かったっけ。
いつもの公園に向かうはずの道が、その日はやけに長く感じた。
久しぶりに足を踏み入れた公園には、初めて来たあの日と同じように誰もいなかった。
あの日の寂しさが、苦しさが、蘇ってくるようだった。
だけどあの日は、私の前にバニラが現れてくれた。
それからアイスをくれて、私のこと勝手に『イチゴ』って呼び始めて、それから、それから……。
「……いつでもここにいるって言ったじゃん。嘘つき……。」
泣きそうになりながら、そう呟いた。
自分勝手なセリフなのは分かってる。
怖くて堪らない夜に寄り添って、救ってくれたのはバニラだった。
それなのに私は自分が救われて、眠れるようになってからバニラの存在を忘れかけていた。
まだ中学生とおぼしき男の子が、たった一人で夜の公園にいるなんて、普通に考えておかしいに決まってる。
初めて出会ったあの日だって、きっと偶然じゃない。
バニラも苦しくて、寂しくて仕方がなかったのだ。だから私の寂しい夜に付き合い続けてくれたんだ。
今だから分かる。
夜の辛さを知らない人間が、わざわざ自分の時間を削ってまで隣にいてくれるはずがないと。
バニラは一体どれだけの辛い夜を一人で乗り越えてきたのだろう。
どうして、何も気付いてあげられなかったんだろうね。私ばっかり、聞いてもらって。私ばっかり……。
バニラがいなくなって初めて、私はバニラのことをほとんど何も知らないことに気付いた。
名前はおろか、歳も、住んでいる場所も。……好きなアイスの味も。
いつだってバニラが私の話を聞いてくれたように、もっとバニラのことを聞いておけば良かった。
手を伸ばせば届く距離にいたはずなのに、本当はこんなにも遠い存在だったなんて。
その日から彼女は、毎晩十二時を過ぎると公園で張り込むようになった。
バニラのための、眠らない夜が始まった。
彼女には、もうするしかできなかったのだ。
バニラが現れることを祈って、彼女はただひたすらに待ち続けた。
ーー野良猫みたいにまたひょっこり現れてくれるんじゃないか、どこかでそう思っていた。
だけどそれからしばらく経っても、バニラが現れることはなかった。
夏が、もう終わろうとしていた。
張り込みを始めてから、既に一ヶ月近く経とうとしている。
その間、真夜中の公園に現れたのは酔いつぶれて足の縺れた様子のサラリーマンと、気まぐれに姿を現す野良猫だけだった。
もうだめかもしれない、そんな考えが何度も頭を過ぎった。
それでもやめなかったのは、自分がバニラに〝アイス仲間〟以上の感情を持ち始めていたことに気付いたからだった。
もう、今日も諦めて帰ろう。
そう思ってベンチから腰を上げた矢先、街灯で照らされた公園の入り口に影が落ちた。
その影は、ゆらゆらと左右に揺れていた。だけど酔っ払いのそれとは違って、震えるような、崩れ落ちそうな影だった。