「次の授業って、第二理科室だよね?」

彼女は、窓際の席で話している二人組の女の子に尋ねた。実際には普通の声なのに、問いかける声が上ずってしまったように感じる。


「え?……うん、そうだよ。」


ショートカットの毛先が無造作にばらばらになっている女の子――志賀谷(しがや)さんが答える。


知ってる。

次の授業の場所が第二理科室だと朝礼の時に先生が言っていたのは、ちゃんと聞いていた。
確認が取りたかったわけでもない。
――申し訳程度でも、クラスメイトと話したかっただけだ。

志賀谷さんはもう一人の女の子、黒縁の丸眼鏡をかけた女の子に困ったように視線を向ける。
確か――マツバラさん、いやマツヒラさんだっけ。

二人はそれ以上、何も言ってこない。


入学式の日、たまたま隣の席だった志賀屋さんは明るい笑顔で「緊張するよね」と私に声をかけてくれた。だから一番話しかけやすそうだと思って、声をかけたのに……。


「あ、ありがとう。」

これ以上気まずくならないうちにと思い、そう言って足早に教室を後にした。

ほんの少しだけ、期待してた。
『一緒に行こう』とか『授業の課題やってきた?』とか話しかけてくれるんじゃないかって。

高校生活が始まって、一ヶ月が経とうとしていた。クラス内はだんだんと仲のいい人同士で固まるようになっていた。
いわゆる、グループの出現だ。

それなのに私は未だ一人ぼっちだ。

乗り遅れてしまったことも分かっていたし、時間が経てば経つほど取り返しがつかなくなるんじゃないかと怖くなる。

言い訳じゃないけど、私のクラスには同じ中学校から進学した人が一人もいなかった。

隣のクラスに一人だけ同じ中学校だった女の子がいたけれど――といってもそんなに親しくないその子はすんなりとクラスに馴染んで楽しそうに過ごしていた。

そう考えると、やっぱりこれは自分に問題があるんだろうなと思う。

自分が誰とでもすぐに仲良くなれるようなタイプの人間だとは思っていなかったけれど、こんなにも孤立してしまうとは思ってもいなかった。


今思えば、焦りすぎていたのだと思う。


だけどその頃は、心細すぎて、もう誰でもいいからそばにいてほしかった。


お決まりというかなんというか。


その頃、夜がなかなか眠れなかった。


夜はとても寂しい。 


押し潰されそうなほどに。


目を閉じると、教室の喧騒が目に、耳に、浮かび上がる。


――日沼センセーって、彼女いるんですか? 

教室のドア付近の廊下で、隣のクラスの担任がクラスで一番目立つ女子グループに取り囲まれていた。

――いないでしょ。だってセンセー、仕事バカだもん。彼女いたら、あそこまでできないって。


先生が答える前から彼女達は言いたい放題だ。


――おい、お前らぁ。先生に向かってなんだ、その口の利き方は。

咎める言葉とは裏腹に、三十も半ば過ぎたであろう日沼先生は女子高生に囲まれて満更でもない様子だった。

――お前らみんな楽しそうだな。早く弁当食えよ。
 

みんな、ね。と彼女は心の中でそう呟いた。

――やべっ、弁当忘れた!

血気盛んな男子生徒の声が、教室の前の方でしていた。


――おいお前、半分俺によこせよ。


たかられていたのは、影で陰気だとか、オタクだとか言われている式原(しきはら)君だった。
昼休みにはいつも一人で黙々と弁当をかき込みながら、二次元の美少女が表紙を飾るアニメ雑誌を読んでいる。

彼は男子の中では浮いているようだった。
だけど当の本人は、全く気にしている風でない。
 
あれくらい振り切ってた方が楽なのかな、なんて一瞬、思ったけど、絶対にあんな風にはなりたくないとすぐに思った。

式原君は俯いて自分の机から顔を上げようとしない。びくびくと無抵抗で自分の弁当箱を差し出している。


搾取されている。


一人でいる人間はターゲットにされやすいのだ。

その様子を見るのが辛くて目を逸らしたから、彼の弁当箱がどうなったのかは分からない。

他の人たちは和気あいあいとお弁当を広げていて、今まさに搾取されている彼や『みんな』なんて言葉で簡単に括る教師の存在は、ぼんやりとした歪みでしかないのだろう。

彼女は、一人にも関わらず教室でお弁当を食べるのが嫌で――というより、その姿をクラスメイトに見られることが恥ずかしくて、席を立った。

教室を出る直前、みんなの視線が自分に集まっているような気がして、早く逃げ出したい気持ちになる。

だけどいたって普通に、別のクラスの友達とお昼ごはんを食べに行くみたいに平然とした足取りでなければならない。
そうでないと、私は一人ぼっちなんですとみんなに宣言しているようなものだ。

もしそんな宣言をしようものなら、誰に狙われるか分からない。

頭の中を駆け巡るのは、大体がその日あったことだ。

壊れたテレビみたいに、そんな考えたくもない教室の様子が流れ続ける。
そのせいで、目を閉じても全く気が休まらない。

どうしても眠れない日は、ドラッグストアで買った睡眠導入剤を飲んでいたけれど、薬が催す眠気は気持ち悪くてあまり好きになれなかった。

眠れなくなってからというものの、お気に入りの歌手のアルバムを聴きながらベッドで過ごすのが日課になっていた。

最初のうちは、アルバムを一周する頃には眠りにつけていた。
しかし日を追うごとに、気付けば二週、三週、五週と気が付けば永遠にループしていた。

だけどその日は、もう何度聴いているか分からないくらい、イヤホンから音が流れっぱなしで、その曲を聴き続けるのが苦痛になってしまった。


もう、音楽すら救ってくれないらしい。 


何かに見放されたような気がして、その日初めて、自分の部屋に一人でいることに耐えられなくなった。

もう十二時をとうに過ぎて、家族が寝静まっているのをいいことに彼女は一人でそっと家を出た。

夜の空気はひんやりとしていた。
熱にうなされていた頭が次第にすっきりとして元通りになるような感覚がした。

住宅街はしんと静まり返っていて、まるでこの世界には自分しかいないような、そんな錯覚さえ覚えた。

空には点々と星が輝いていた。
細い月明かりが、住宅街に影を落とす。

彼女が住むのは郊外から離れた場所で、こんな真夜中に出歩くような人は殆どいない。
家の明かりはおおよそ消えているため、ところどころにある街灯と、月明かりだけが頼りだった。


どこかに行きたいのに、どこにも行けないような、そんな気がする夜だった。


行くあてもなく、それがまた居場所のない寂しさのようで、胸にぽっかりと穴が空いているみたいだった。