「この声って……」
俺は周囲を見渡した。
案の定、近くにいたはずの品川さんの姿が見当たらない。
「羽島っ! アレって……」
福山さんの指差す方を向くと、先程の黒ずくめの男が品川さんを捕らえていた。
その左手は品川さんの口元を塞いでおり、彼女は彼女でその拘束の下、モガモガと必至に抵抗を試みている。
そして右手には、まるでお約束とばかりに鋭利な得物が握られていた。
安城も良くやるものだと、内心感心してしまう。
品川さんについても、白々しいと言えば白々しい。
しかし、この後に及んで何が狙いだというのか。
「あー福山さん。アレはですね……」
俺が呆れながらも状況を説明しようとした時、品川さんは口元の拘束を強引に解き、叫ぶ。
「羽島くんっっっ!!! お願いっっ!!! 助けっ!! ぐっ」
品川さんは鬼気迫る形相で、俺に助けを求めて来る。
男はそれを許さず、すぐに彼女の口元を塞ぐ。
ここまで来ると、悪ふざけにも見える。
だが、不味い。
二人の度の超えた演技に、俺たちは衆目の的になってしまっている。
「おいっ、安城! 流石にやり過ぎだ! もう少し周りを見ろ! 大体、お前はそういうところをだな……」
「羽島くん! 違うの! この人、安城くんじゃないみたいなのっ!」
「は? ちょっと待て! じゃあ……」
品川さんは黙って頷く。
それに呼応するように周囲は露骨にざわめき立つ。
今日は何度、裏切られればいいのか。
天賦の才とも言える、俺の巻き込まれ体質が引き寄せてしまったのか。
呪うべきは己自身かもしれない。
……そんな悠長なことを考えている暇はない。
目の前で、現在進行形で知り合いが脅威に晒されているのだ。
落ち着け……。落ち着け……。
待て。
これも豊橋さんのシナリオかもしれない。
三島は言っていた。
小学生時代の彼女は、天真爛漫でイタズラ好きな少女であったと。
この程度のどんでん返しなど、本来彼女にとって赤子の手を捻るも同然なのかもしれない。
だが、待て。
冷静に考えれば、やはりそれは違う。
言っても、豊橋さんだ。
彼女は、俺がどれだけ国家権力に気を遣ってきたか、目の前で見てきたはずだ。
わざわざ、警察沙汰になるような嫌がらせをするとは考えにくい。
しかし、待て。
それは俺が勝手にそう思っているだけだ。
俺が見てきた豊橋さんは、良くも悪くも真っ直ぐな人間だ。
目的遂行のためなら、あらゆるカードをテーブルに乗せる可能性すらある。
とは言え、待て。
本来の目的を思い出せ。
そもそも、彼女の嘘を見抜くことが目的ではない。
俺自身が過去から脱却し、ひいては彼女がそれを通じて成長を遂げるためのプロセスであり、一種の通過儀礼だ。
俺は心穏やかに、彼女が書いたシナリオの文字として、その場その場をやり過ごせばいいだけだ。
しかしながら、待て!
それより何より大事なことがある。
万が一、目の前の男が豊橋さんの手配したものでなければ……。
「あの……、羽島くん?」
思考停止、いや厳密に言えば停止はしていない。
今、目の前にある出来事に対しての、現実的な思考がおざなりになっているだけだ。
そんな俺を不自然に思ったであろう三原さんに呼びかけられ、意識を戻される。
「っ!? あ、おいっ!!」
ハッとした俺を見た男は、品川さんを連行し、どこかへ走り去っていってしまった。
「あのー、どうかされましたか?」
俺も負けじと追いかけようとしようとした時、とある警察官に呼び止められる。
面倒なことになったものだ。
豊橋さんの仕組んだシナリオだった場合、それなりの折檻は免れないだろう。
だが、万が一本物であったのなら、品川さんの身に危険が及ぶのは言うまでもない。
ここはどう考えても、素直に公安に頼るべき場面だ。
「なるほど。黒のニットにサングラス、ダウンジャケットを着た男が……、と。今時こんなのいるんですねぇ」
品川さんが攫われてから、俺はその場に居合わせた警察官にコトの経緯を伝えた。
マニュアル作りであれ、何であれ俺が一番避けたかった展開だ。
とは言え、当の警察官は俺の話を聞き、呑気に感心しているところを見る辺り、ヤラセを疑っているフシが垣間見える。
当然だ。
これだけ教科書通りの不審者など、俄には信じ難いだろう。
第一、犯人の目的が一切分からない。
「分かりました。では改めて詳細をお聞きしたいので、署までご同行願えますか?」
「あ、はい……」
署まで同行、か。
まさか自分の人生でその言葉を聞くことになるとは思わなかった。
「では、宜しくお願いします。あの……、そう言えば今日は結婚式か何かだったんですか?」
警察官は俺たちの身なりを眺めながら、思い出したように質問してくる。
「まぁ、それについては非っっっ常に複雑な事情がございまして、はい……」
「そ、そうでしたか。それは大変でしたね……。その辺りも捜査に支障がない程度にお話いただけると助かります」
特殊過ぎる事情を抱えていることを素直に告げると、警察官は何かを察するように俺たちを労う。
果たして、俺たちはどこまで話すべきなのだろうか。
そして、品川さん。
どの道、彼女は立派な被害者だ。
もちろん多少の面倒ごとは覚悟の上で、引き受けたのだろうが。
無事でいてくれることを切に願うばかりだ。
「なるほど……。つまり、これもドッキリか何かだと」
警察署へ向かう道すがら、世間話とばかりに今日の経緯について話していた。
こうして説明しているだけでも、形容し難い疚しさに襲われるのは何故だろうか。
無論、今回については恐らく被害者側であるのだから、堂々としていればいい。
だが、警察沙汰という言葉に過剰なまでにアレルギー反応を起こす人間は多い。
それは俺とて、例外ではない。
人が見ている前では真面目という、日本人ならではの国民性によるものか。
いやはや。
警察の目さえなければ、信号無視など平気な顔をしてやって退ける癖に、いざ職務質問の一つでもされようものなら過剰なまでに恐縮してみせる。
コレのどこをどう見て、謙虚で礼儀正しい民族だと言えるのか。
それも偏に忖度文化の発展により、法治国家としてのフェアネスが十分に育たなかったからなのかもしれない。
まぁ、それはどうでもいい。
それにしても、この青年。
俺が警察と聞いてイメージするものとは正反対で、非常に腰が低い。
年の頃で言うと、俺と同じか、やや下か。
下っ端とは言え、法律を後ろ盾にしているとあれば、もう少し横柄になりそうな気もするが。
しかし、こうして真摯に庶民の声に耳を傾けてくれている以上、それは偏見だと改めるべきなのかもしれない。
まぁ事件の内容が内容だけに、当然ではあるのだが。
「はい。ですからヘンに勘繰ってしまって……」
「そうでしたか……。ご安心下さい。後は、我々公安にお任せいただければ、責任を持ってお連れの方の安全を保障します」
などと、頼もしいことを言って退ける辺り、やはり俺は国家権力に対して多大なる誤解があったようだ。反省しなければならない。
俺は居たたまれなくなり、より一層恐縮度合いを強める。
「あぁ、ナンカ本当にすみません……」
「い、いえ! 仕事ですから! お気になさらず!」
俺の何重もの意味を込めた謝罪の言葉を聞いた警察官は、負けじと恐縮してくる。
今後はどんなに間隔の短い横断歩道であろうと、きちんと青になるまで待とうと、固く心に誓った。
さて、この警察官。
ここまで見た印象では、信用に足る人物であるとは思う。
とは言え、疑問がないこともない。
「あの……、一つ聞いてもいいですか?」
「はい? なんでしょう?」
「今日って、警ら中だったんですよね?」
「そうですが……」
「警察官って基本的に二人一組で行動するんですよね? 今日は、その……、相方さん? みたいな人ってどこかに居たりするんですか?」
俺がそう言うと、警察官はしばしの間押黙る。
「なるほど。詳しいですね。お知り合いに警察官がいらっしゃる、とか?」
「い、いえ。どこかで聞いたことがあるってだけで……」
「……そうですか。おっしゃる通り、基本は二人行動です。理由としては、誤認防止とか、緊急時の役割分担とかの意味合いが大きいですね」
「そ、そうなんですか……」
「…………」
警察官は淡々と落ち着いた口調で言い放ち、そこで話が途切れてしまう。
何だか上手く煙に巻かれた気もするが……。
「……ていうか、羽島が結婚するって嘘だったんだよな? よしっ! これで俺の方がまだギリギリリードしてる状態だな! うんうん」
すると福山さんが沈黙を破り、声を上げる。
まんまと騙されたわりに、やたらと満足気だ。
「俺、何の勝負に参加させられてたんすか……。心配しなくても、福山さんたちは来月なんだから、ここから俺が逆転なんて無理っすよ」
「でも、ちょっと残念だったかも。サークルの仲間が同じタイミングで結婚って、ちょっとステキだって思ったから」
それに対して、三原さんは本気で祝福してくれていたようだ。
この辺りが俺や福山さんとの人間力の差かもしれない。
「あのっ! お二人は、その……、結婚される予定なんですか?」
突如、警察官が三原さんと福山さんに向き直り、質問を投げかける。
「へ!? は、はい。来月に籍を入れる予定ですけど……、でもどうして?」
不意打ちを食らった三原さんは、彼女らしからぬ間の抜けた声で応える。
「い、いえっ! すみません……。個人的な話で申し訳ないんですが、最近親がうるさいんですよ。『お前もそろそろイイ歳なんだから、彼女の一人でも連れてこい』って。皆さん、見た感じ僕と同世代みたいですし、気になってしまって……」
「そうだったんですね。ちなみにお巡りさんはおいくつなんですか?」
「僕、ですか? 今年で26になります」
「羽島くんたちと一緒じゃん! それなら、まだまだお若いんですし、これからいくらでもチャンスありますよ!」
「そ、そうですかね……。そうだといいんですが……」
警察官はそう言いながら、チラリと俺に視線を向ける。
俺と目が合うと、スグに視線を逸らしてしまう。
「ねぇねぇ、望ちゃん。アレって……」
岩国が耳元でボソリと溢し、遠方を指差す。
その指先には、先の黒ずくめの男が品川さんを引き連れ、走っていく姿が目に入った。
「あっ!? すみませんっ! 行ってきます!」
それに気付いた警察官は、一目散にホシを目掛けて走り去ってしまった。
「えっと……。どうしよっか?」
徳山が縋るような目で、聞いてくる。
これが本当に大事であれば、俺たちなどもはやお呼びでない。
大人しく公安に委ね、続報を待つ他ない。
だが……。
やはりあの警察官の態度が引っ掛かる。
直感だ。
行ってみよう。
普段であれば、被害妄想の権化である俺としては有り得ない選択だ。
だが……、たまにはそんな行動原理で動いたっていい。
それに、だ。
今回俺が演じるべきは、義務教育レベルの教養がある人間なら、誰でも看破できるポンコツ詐欺事件の被害者だ。
どう転んだところで、俺が惨めな想いをすることに変わりはない。
であれば、目の前に危険が迫る品川さんのために、動かぬ理由などない。
「あっ!! ちょっと!?」
俺は気付いた時には、走り出していた。
もはやこの後に及んで、余計な邪推などはしない。
確信に近い何かを感じながら、俺は道を急いだ。
「クソッ! やっぱりそういうことかよっ!」
男たちを追いかけ、辿り着いた場所を見るなり、ひと目も憚らず声をあげてしまう。
ここへ来るまでに例の国際会議場を通ったこともあり、確信に近いものを感じてしまった。
内心勘付いていたとは言え、いざこうして良いように振り回されたと思うと、謎の口惜しさに見舞われる。
「ちょっと。羽島、くん……。勝手に、行か、ないでよ……」
三原さんは、ゼェゼェと息を吐きながら俺に追いつき、恨み言を溢してくる。
当然だ。
これだけ運動に不向きな格好で、意図せずマラソン大会に巻き込まれたのだから。
「あっ……。すんません……。三原さんたちのことすっかり忘れてました」
「忘れないでよっ! でも……、何かコレ、懐かしいね。合宿思い出さない? こんな時になんだけどさ」
三原さんはクスリと笑いながら、聞いてくる。
合宿、か。
確かにそんなこともあった。
あの時も俺やアイツの暴走で、三原さんを走らせるハメになった。
それが今ではこうして俺が嵌めれられる側に回っているのだから、世の中分からないものだ。
こうしてシナリオは繰り返されていくのだろうか。
「そっすね……。あん時はイロイロすんませんでした」
「ううん。今思えば、アレも良い思い出だよ。だから気にしないで。……でもお巡りさんたち、ホントにココに来たんだよね?」
三原さんは訝しげに、俺に質問してくる。
それもそのはずだ……。
「おいおい……。どうなってんだよ……。ココって、羽島たちが予定していた会場のホテルだろ?」
「ホントだ! 羽島くんの会場だ!」
「望ちゃん! どういうこと!?」
少し後からやってきた福山さんたちも、驚嘆する。
全ての事情を知っているであろう尾道だけが口元を抑えながら、必死に笑いを堪えている。
どうやら、あの警察官も豊橋さんが用意した駒だったようだ。
「コッチが聞きてぇよ……。まぁそうだな。俺もお前らも哀れな使い捨てエキストラってところだな」
「ふふ」
俺がそう言うと、尾道がクスリと笑う。
その表情はまたどこか嬉しそうだ。
「……なんだよ」
「べつに。またしょうもないこと言ってるなぁ、って思っただけ」
「随分と辛辣ですね、尾道さん」
「全部、羽島くんの自業自得でしょ? それに……。羽島くん、内心楽しんでる」
「っ!? そんなことねぇけど、よ……」
やはり彼女には敵わない。
あの厄介な女と長年渡り合ってきただけある。
「さ。早くケリつけて来なよ」
そう言うと尾道は、微笑を浮かべながら俺の背中を押してきた。
豊橋さんの掌の上でまんまと踊らされ、俺たちは当初予定していたホテルに辿り着いた。
そこは京都駅からやや離れた場所にある、いわゆる上流階級御用達の四つ星ホテルで、円形の外観が特徴的である。
三原さんからは、日本の建築史にその名を残した有名な巨匠が設計したホテルだ、という蛇足気味な豆知識を披露されたが、そう言われてみると先鋭的に見えなくもない。
正面口からエントランスホールに入ると、シンプルな造りでありながらラグジュアリーな空間が俺たちを出迎えた。
フロントの近くには数十人規模で収容できる広いラウンジが併設されており、この辺りは四つ星の称号に恥じないものだ。
こうして改めて見ると、場違い感を感じてしまう。
それも当然か。
こちらは、一泊数千円のビジネスホテルの朝食メニューで人生最大の幸福感を得ることができる庶民の中の庶民だ。
三島が一枚噛むと(恐らく)、これほどまでに世界が変わってしまうものなのか。
しかしホテルに着くなり、豊橋さんの方から何かアナウンスがあるかと思いきや何もない。
彼女が手配した不審者や警察官の姿は既になく、俺たちはぼつりとその場に残された形だ。
恐らくここまでくれば大方察するだろうと、高を括られているのだろうが。
とは言え、舞台は高級ホテルだ。
せめてこの広すぎる戦場のどこへ向かえばいいか、ヒントくらいは欲しかったものだが。
それでも、ない頭をフルに働かせ、ある程度の当たりをつけ、俺たちはホテル内のある場所に辿り着く。
「おっ! 来たな。おーいっ!」
俺たちの存在に気付くなり、見知った男がこちらに向かって手を振り、これでもかと存在をアピールしてくる。
ニタニタと不快な笑みを浮かべるヤツを見ていると、悔しさが助長される。
遺憾ながらも、俺たちは米原たちの元へ近づいた。
「三島ぁ! 賭けは俺の勝ちみたいだな」
「いや、まだ分からないよ。お得意の騙されたフリかもしれないし」
「いやいや、見てみろよ! コイツの顔っ! 絶対まだピンと来てねぇよ!」
俺の登場を待ち伏せていたかのように、米原と三島の内輪話が始まった。
「……バカ言え。こうしてココまで辿り着いただろうが」
俺の反応を見ながら、米原はガハハと楽しそうに笑う。
それを見ながら三島も、静かに微笑む。
俺たちがやってきたのは、ホテル内に併設されたチャペルだ。
まさに当初の予定通りで、ただ無駄に遠回りをさせられた感が否めない。
思えば、こういった場所へ来るのは久しぶりかもしれない。
会社の先輩の結婚式以来か?
もっとも、そういう機会でもなければ縁遠い場ではあるのだが。
3フロアにまたがる吹き抜けの空間。
螺旋階段から連なる長いバージンロード。
そこに天井からシャンデリアの光が神々しいまでに照りつけ、二人の門出を祝福するのだろう。
などと何処か遠い世界の話かの如く、呑気に感傷に浸っている時間はない。
「羽島さん、遅いっすよ」
「そうだぞー! お姉さん待ちくたびれたぞー!」
ふと会場を見渡すと、来賓席に太々しく陣取る安城と品川さんの姿があった。
安城に至っては既に変装を解き、礼服に身を包み、準備万端といったところか。
「お前らは……。ったく、どのクチが言うんだよ」
「どうよ! アタシたちの迫真の演技は?」
「まぁ言っても、相手は羽島さんですからね」
二人はまるで悪びれもせず、得意げに笑って見せる。
「あーあ! そうだったな。嘘を吐く時は二段構えが基本だったよな。つーか、もはや二段どころじゃねぇけどな」
俺の言葉に安城は含み笑いをし、品川さんは舌を出しウィンクをしてくる。
二人とも、何故かとても満足げであった。
「んで、貴重な休日にこんなところに呼び出した理由をだな……」
「あっ、ちょっと待って! その前に羽島くんに会わせたい人がいるから」
三島はそう言うと、スマホを取り出し何処かへ電話を掛け出した。
「もしもし。うん。うん。もう無事に着いたみたい。そっちは大丈夫かな? 分かった。待ってるね。じゃ」
三島は電話を切ると、俺に向かって優しく微笑んで見せる。
俺はこれから何を見せられるというのか。
三島が電話を切ってから数分後。
チャペルの入り口の方向から、コックコートを着た一人の男性が姿を現した。
いや、あれは……。
「先程は失礼しました! 羽島望さん!」
男性は俺に近づくなり、深々と頭を下げ、開口一番謝ってきた。
このこちらが恐縮するほどの腰の低さ。
やはり先程の警察官で間違いないようだ。
しかし分からないのは、この男の正体だ。
「えっと……、あなたは?」
「申し遅れました。僕は豊橋 剣人と申します」
「豊橋って……」
俺は思わず、三島の方へ顔を向けてしまう。
三島はそれに応えるように、ニコリと不快な笑みを浮かべるだけだった。
「はい。妹がいつもお世話になってます」
「……あー。そういうことか。まさか兄貴まで投入してくるとはな」
「普段はこのホテルのキッチンで、アルバイトをしています。さっきは警察官なんて嘘を吐いて申し訳ありませんでした」
俺が聞くよりも先に、彼はそう言って再び頭を下げて来る。
「彼ね。この近くの劇団にも所属していてね。さっきの警察の制服も、実は衣装だったんだよ。今日は出勤前にちょっとだけ協力してもらったんだ」
三島は、やや言葉足らずの豊橋さんの兄をフォローするように言う。
「……なるほどね。ナチュラル過ぎるくらい地域密着型の良いお巡りさんだったよ。つーか本人まんまじゃねーか、チクショウ」
「あ、あのっ! 羽島さん! 今日はあなたに改めてお礼が言いたくて……」
「はぁ? 礼を言うのはコッチの方だろ? ありがとな。出勤前にワケの分からん遊びに付き合ってもらって」
「い、いえ! それは別にいいんです。あの……、妹を、光璃を救っていただきありがとうございます!」
「い、いや、救うって……」
「知ってはいたんです。あの娘が詐欺に遭ったことも、あんまり良くない会社に入ったことも」
「……まぁ、それについては多少言いたいことはあるけどな」
「はい、すみません……」
彼はそう言うと、バツが悪そうに俯く。
元より気になってはいた。
彼女が仕事やローンに苦しむ中、家族は何をしていたのか。
確かにロクに調べずに突き進んだ彼女にも非はあるだろう。
しかしそれは、人の善意を信じて疑わないという、彼女の長所とも短所とも取れる性質が生み出した偶然の産物とも言える。
それを自業自得の一言で片付けてしまうのは、あまりに酷だ。
無論、金が絡んでいるので、一概に協力できるかと言えばそうとも言えないだろう。
だが、やり方などいくらでもある。
身内であるなら、彼女が一番辛い時期にこそ支えてやるべき、だとは思っていた。
とは言え、外野の俺が頭ごなしに咎めることなどできまい。
「……つっても、俺だって実際のところ何もしていない。むしろ、ワケの分からん私情を押し付けて、アンタの大切な妹をその良くない会社とやらに縛り付けてんだ。アンタには恨まれても仕方ねぇとすら思ってるよ」
「恨む、だなんてそんな……。あの娘、昔からヘンなところで意地っ張りというか、強がるところがありましてね」
「まぁ、分かる気はするが……」
「ホントなら、僕が真っ先に相談に乗ってやるべきだった。ウチはそんなに裕福な家庭じゃないので、恐らく両親にも話していないだろうし。でも、あの娘。詳しい事情を聞いても頑なに話さなかったんです。恐らく、僕がこうして役者の夢を追ってるから、負担をかけたくなかったんでしょう」
「そりゃ……、なんとなく想像つくな」
「だから、三島くんから羽島さんの話を聞いた時は驚きましたよ。まさか、光璃があなたとそんなことになっていたなんて」
「人聞き悪い言い方しないでね……」
「でも、ホントに安心しました。今あの娘に必要なのは、素を出せる場所だと思いますから」
彼女の素、か。
やはり少なからず、彼女は気を許してくれていたのだろう。
彼女が俺にしたこの仕打ちこそ、その何よりの証拠だ。
「あんましそう明け透けにしてやるなよ。豊橋さん、悶えるぞ。んで……、肝心な豊橋さんの姿が見えないんだが」
俺がそう問いかけると、米原と三島は互いに顔を見合わせる。
そして、次の瞬間には米原が耳を劈くような大声で爆笑する。
「ぶはははははっ!! やっぱり分かってねぇじゃねぇか!! 何だかんだコイツは騙されやすいんだっつーの! 三島ぁ! 次の飲みはお前持ちな!」
「そうだね。羽島くんの顔を見る限り、本当に分かってなさそうだね。ちょっとガッカリかな」
などと米原と三島は、俺を置き去りに好き勝手宣う。
「おい……。どういうことだよ?」
「お前、ホントにピンと来てないのかぁ? あーあ。これじゃ豊橋さんが可哀想だな!」
「あのな……」
「羽島くん。彼女はココにはいないよ」
「は?」
三島からの思わぬ言葉に、思考が追いつかない。
「えっと……、つまりはどういうことだよ」
「だーかーら! 豊橋さんはココにいねぇんだよ!」
「それは分かったつーのっ! そんならどこにいるんだって話だ!」
俺がそう聞くと、三島が得意げな笑みを浮かべる。
「よし! じゃあ彼女の嘘にまんまと騙された哀れな羽島くんのために、一つヒントをあげよう」
三島はやたらと恩着せがましく、俺に言う。
ご丁寧に枕詞の煽りも忘れずに。
そして、白々しくコホンと咳払いをして見せる。
「かの映画界の巨匠、浜松朔良は言った。『恋愛映画には物語の全てが詰まっている』と」
「……いきなりナンだよ?」
三島は俺に構わず、そのまま続ける。
「そして彼女の処女作であり、引退作となるはずだった作品については、取り分けラストシーンへの強いこだわりがあった。具体的には何か。それはシーンの舞台となる場所」
「あ……」
ここまで聞いてやっと腑に落ちた。
そんな俺を見て、三島は満足そうな笑みを浮かべながら続ける。
「そう! それは『始まりと終わりのある場所』だ!」
なるほど……。
コレは中々に底意地が悪い。
今までの彼女では考えられないことだ。
「光璃ちゃんから伝言を預かってるんだ。『もし、合格なら罰ゲームが終わった後、ラストシーンの場所に来て下さい』とのことだ」
「……大掛かりにも程があんだろ。何が結婚式だよ。突拍子なさすぎだろ」
「結婚式は嘘じゃねぇよ」
「……は?」
米原から、寝耳に水の言葉が飛び出した。
またしても呆気にとられる俺を見て、米原はわざとらしく大きく溜息を吐く。
「あのな。流石にお前への茶番のためだけに、こんだけメンツ集めたりしねぇよ」
「は? 待て! つーことは……」
「うん、そうだよ。今日はそこの二人の結婚式だよ」
三島はそう言うと、福山さんと三原さんに向き直る。
「福山さんと三原さん。勝手ながら、父の伝手で事情を聞かせていただきました。あの……、何と申し上げればいいか分かりませんが、心中お察しします」
「っ!?」
「…………」
三島の言葉に三原さんは、言葉を詰まらせる。
福山さんはどこか居心地悪そうに視線を逸らす。
「三島……。どういうことだよ」
俺の問いに、三島は黙って二人の方へ視線を向ける。
「えっと……、三島くん? だっけ? 大丈夫だよ。私たちから話すから」
三原さんは覚悟を決めるようにフゥと息を吐く。
「あのね。実は私たち、駆け落ちなの。今時、珍しいでしょ?」
三原さんはやっとの想いで絞り出したであろう言葉は、俺を戸惑わせるには十分だった。
飄々と応えているものの、その実作り笑いであることは誰の目に見ても明らかである。
そこから彼女は、事の経緯を話し始めた。
どうやら彼女の家系は、創業以来家族経営を貫く、地元ではそれなりに名の通った中堅企業らしい。
所謂良いところの娘ということもあり、彼女には様々な期待を寄せられていた。その最たるものが、結婚相手だった。
20代も後半を過ぎ、所謂適齢期を迎えたある日、彼女のもとに競合他社の子息との見合いの話が転がり込む。
まぁ俗な言い方をすれば、政略結婚の駒として使われる予定だったのだろう。
その頃には既に福山さんと交際しており、当然彼女は反発する。
だが両親も譲らず、話は平行線に。
家をとるか、彼をとるか。
彼女が選んだのは、彼だった。
「だからね。今の仕事も辞めなきゃいけないんだ。今の職場は親も知ってるし、まだまだこれからごたつきそうだしね。流石に職場に迷惑はかけられないじゃん? 優輝くんには悪いんだけどさ……」
「……まぁ言うて、就活には慣れてるからな。心配すんな」
二人は気丈に振る舞っているが、内心気が気ではないはずだ。
正直な話、意外と思ってしまった。
無論、二人の仲を疑うつもりはない。
とは言え、大学生時代の彼女を思い出す限り、あまり情緒的に動くタイプではなかった気がする。
ともすれば、一昔前の三流ドラマのお約束のような二者択一に対して、一時の情に流されるような人とは思えなかった。
それは福山さんにしても同じだ。
「あの……、こんなこと聞いていいのか分からないんすけど……。リスクとかは考えないんですか?」
余計なお世話とは分かりつつも、つい口を滑らせてしまった。
知りたかった。
周囲の関係を捨てでも、結ばれる道を選んだ理由を。
それは単に愛情や反抗心だけではない、何かがあるような気がした。
「リスク、か……。確かにそうかもね。仕事にしても、今よりいいところに就職できる保証もないし、実家と縁が切れたら経済的にも心許ないしね」
「じゃあ、何で……」
「いつだったかね……。浜松さんが言ってたんだ。『他人に嘘は吐いても、自分に嘘は吐くな』って」
それを聞いて、俺は思わず胸をざわつかせてしまう。
「あの娘、ホントに無茶苦茶だよね! でも、なんか今になってみれば分かるっていうか、しっくりくるっていうか……」
俺は彼女から、その言葉を直接聞いたわけではない。
だがそれは、紛れもなく浜松朔良の生き様そのものだ。
だから、自然と腑に落ちてしまう。
「会社同士の付き合いもあるし、お父さんたちの言いたいことも分かるんだ。でももし、私がヘンにここで妥協したら、後々恨みたくない人まで恨んじゃいそうになると思うんだ。それってお互いのためにならなくない? 別にお父さんたちと、完全に縁を切りたいとかじゃないから。いつかは分かってくれるかもって、まだちょっと思ってるしね」
そう笑いながら話す三原さんは、いつかの彼女と重なって見えた。
「だから、何ていうの? とりあえずは私たちが悪者になってやる、みたいな? 私たちだって、これから言い訳しながら生きていくなんて嫌だしね」
そう語る三原さんの横で、福山さんも深く頷いている。
二人のこの様子だ。
自分たちの選択が周囲の人間にどれだけの影響を及ぼすかも、恐らく理解している。
それすらも受け入れた上で、腹を括ったのだろう。
それにしても、まさか自分の身近なところでそのような修羅場が繰り広げられているとは思いもしなかった。
無闇やたらにそういった話をしないのは、三原さんらしいと言えばらしいのかもしれないが……。
「なるほど。だから結婚式を挙げられない、と……」
三原さんはコクリと頷いた。
「ホントは、ね。皆に祝福して欲しかった。彼との結婚が疚しいものみたいになっちゃうのって、やっぱり嫌じゃん?」
三原さんの話に、俺は何も言えなかった。
だが、おかげで俺の結婚という誘い水を用意してでも二人を呼んだ理由が分かった。
すると三島がまたワザとらしく咳払いをし、会話に割って入ってくる。
「そこでだ! 何で二人を呼んだか。勘の良い羽島くんなら分かったかな?」
「流石に分かるわ……。要するに余計なお世話をしてやんだろ?」
三島は黙って頷く。
俺の言葉の意味するものを悟った三原さんは、慌てふためく。
「えっ!? ちょっと待って!? ダメだよ、そんなのっ!」
「お気になさらずに。今日については、父と浜松さんのお父さんとの共同出資なので」
三島の言葉に、思わず身体がピクリと反応してしまった。
それを見逃すヤツではなく、更に畳み掛けてくる。
「特に浜松さんのお父さんの意向が強くてね。他ならぬ羽島くんたちのため、だそうだ」
「あぁ。そうかい……。そりゃ良うござんした」
俺がそう言うと、三島は何も言わず得意げに笑う。
「さぁ! そういうワケで、今この瞬間から主役はあなたたち二人です! 簡素ですが、レンタルのドレスも用意してあります」
「でも……。こんな立派なホテルで、なんて……。それにキミは何も関係ないし……」
三原さんが躊躇するのも当然だ。
浜松の父親はともかく、三島は今日初めて会った見ず知らずの他人だ。
すると、終始黙り込んでいた福山さんが口を開く。
「羽島っ! その……、ありがとな」
「いや、話聞いてました? 俺は出資どころか、企画にも関わってませんよ」
「そうじゃなくてだな! 今日のこと、全部羽島が発端なんだろ?」
発端、か。
確かにそう言われれば、そうかもしれない。
俺が豊橋さんや三島と、出会わなければそもそもこういった事態には陥っていない。
「まぁ……、そういう言い方も出来なくもない、すね」
「だよな!? それで話から察するに、今日の件で羽島はこの三島さん? に大きな借りを作ったみたいだな」
「まぁ確かに、そうっすね……」
俺が横目で三島を見ると、計算通りとばかりに不敵な笑みを浮かべて見せる。
「俺たちと三島さんは確かに関係ない。だが、羽島とは関係がある。それなら、羽島が借りを作った一端は俺たちにもあるってことだよな?」
「あの……、それって……」
「だ、だから一旦羽島に返す。出世払いだ! いいか!? 出世払いだからな! だからあんまり調子乗るなよ!」
「何でそんな回りくどいことするんすか……。俺は俺で何か考えるんで、別に気にしなくていいんじゃないっすかね? しかも出世払いって……。ソレ、何年かかるんすか?」
「こういうのは気持ちが重要なんだよ! 何年かかっても、だ!」
「……まぁ返したいのでしたら、お好きにどうぞ。期限は……、そうだな。地球が滅びるまで、くらいにしときます?」
「早速調子ノリやがって! 少なくとも、年金もらうまでには返すに決まってんだろ!」
「大口叩いた割に、保険掛け過ぎじゃないっすかね……」
こうして必死にまくし立てる福山さんを見ていると、自然と口角が上がってしまう。
思えば、昔からこういう人だった。
普段は卑屈でダウナーな癖に、随所では一端に虚勢を張ろうとする。
三原さんは、こういうところに惹かれたのかもしれない。
「よっしゃー! そうと決まれば三原さん! コッチでお色直しといきましょー!」
「えっ!? えぇ……」
「おい米原っ! 覗くんじゃねぇぞ!」
「だから俺なんだと思われてんのっ!?」
会場が笑いに包まれる中、三原さんは着替えに向かった。
「わぁーっ!! メッチャ綺麗っ!!」
品川さんの驚嘆の声を合図に、一同螺旋階段の先を見上げる。
どうやら、お色直しが終わったようだ。
純白のウェディングドレスを身に纏った彼女は、天井から降り注ぐシャンデリアの光とシナジーを起こし、その眩さに一層拍車をかけている。
そんな彼女を見て、福山さんは分かりやすくたじろぐ。
福山さんは皆に促され、そのまま祭壇の前へ向かった。
ここからは台本も何もない。
このままアドリブで、進んでいくのだろう。
三原さんは、慣れない足取りでゆっくりと一段一段、螺旋階段を降りていく。
俺の前を通る時に見た、はにかんだ笑みはきっとこの先も忘れることはないのだろう。
ハッと何かを察した米原は、祭壇の前へ行き、神父やら牧師やらの真似事を始めた。
二人の晴れ舞台を台無しにしかねないガサツさに顔を覆いたくなるが、楽しそうに笑っている二人を見ると、そんなことは些細なものなのだろうと胸を撫で下ろす。
多少のグダグダ感はありつつも、挙式でのお約束を一通り済ませ、披露宴代わりの立食パーティーが始まった。
何でも豊橋さんの兄が直々に料理を振る舞ってくれるらしく、一流ホテルの一流シェフの味を堪能できるようだ。
俺としても、嫌味の一つでも言ってやろうと小姑のような心構えで料理を口に運んだが、悔しいかな。普通にウマい。
役者として腐らせておくのはもったいないと、失礼ながら思ってしまった。
「やぁ。楽しんでるかい?」
そんな物思いに耽りながら一人で酒を呷る俺に、三島と尾道、豊橋さんの兄が近付いてきた。
「……良くやるな。お前も。豊橋さんも」
「全部、光璃ちゃんのアイディアだよ。まぁ冷静に考えて、キミの罰ゲームのためだけに京都に来るなんて、間抜けだしね。それに……」
三島はひと呼吸を置き、続ける。
「光璃ちゃんがずっと言ってたんだ。『羽島さんがご所望なのは、人が幸せになれる優しい嘘だ』ってね。そうだよね? 尾道さん」
三島に聞かれた尾道は、何も言わずに微笑む。
「羽島くん。彼女、合格かな?」
「……どうだろうな。甘くもねぇし、そもそもデート商法ですらねぇからな。まぁ、どの道お前には言わねぇよ」
「そっか」
俺が応えると、三島はニコリと満足そうに笑う。
三島にそう応えながらも、俺の足は自然とチャペルの出口に向かっていた。
「あのっ! 羽島さん!」
その時、豊橋さんの兄から呼び止められる。
「あの……、改めてありがとうございます! きっと、あなたがいなければあの娘はどこかで壊れていたでしょう!」
「……アンタさっきからワザとやってんのか? それ」
「へ……。あの、それ、というのは……」
彼は露骨に顔色を変える。
これで役者志望とは片腹痛い。
「三島からどれだけ俺のこと聞いてるのか知らんけどな。俺は人一倍被害妄想が激しいんだよ。だから、なんかそう……、下手下手に来られると何か裏があるって疑っちまうんだよ。別に俺は豊橋さんを救った、なんて身の程知らずな自意識なんざ持っちゃいない。だから、俺とアンタの間には上下関係も主従関係もねぇし、オマケに年齢も同じときたもんだ。だから……」
「相変わらず、遠回しで捻くれてるね」
俺が言葉に詰まると、尾道は真顔で指摘してくる。
「うるせぇ。これが俺のイイところだろうが……」
俺がそうボヤくと、尾道は再び嬉しそうに笑う。
尾道が心なしか、普段より楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。
彼女の指摘通り、意図せず遠回しな表現になってしまったが、ハッとした彼の様子を見る限り、趣旨は察してくれたようだ。
「じ、じゃあこれからも妹共々よろしく! 羽島くん!」
豊橋さんの兄・剣人は、やっとその笑顔を見せてくれた。
ここへ来て、ようやく対等の関係になれた気がする。
どこか生きづらさを感じさせる、この真っ直ぐさというか不器用さは、やはり豊橋さんと兄妹だと認識させられる。
そしてそれは、俺とて彼らのことを言えたものではないのかもしれない。
「……こっちこそよろしくな、兄貴」
俺は自他ともに認める陰キャである。
当然のことながら、こういった人間味のあるやりとりに慣れていない。
だから咄嗟に言葉が思い浮かばず、ワケの分からない一言を口走ってしまった気がする。
俺は逃げるようにチャペルを後にした。
「あ……、まんまと騙されましたね」
俺は三原さんと福山さんを最後まで見届けることなく、罰ゲームの実行へ向かった。
神社はホテルの最寄り駅から、電車で乗り換えなしで十数分程度だった。
この辺り、やはり作為的なものを感じてしまう。
全ては彼女の思惑通り、と思えば甚だ遺憾である。
だが、これは彼女が誠意を見せてくれた証だ。
であれば、彼女へある種の試練を吹っ掛けた身として、その誠意ある欺瞞に対して、自分なりの答えを出すのが筋であろう。
メイン行事が済めば、もはや京都に用はない。
不可思議な縁で始まったこの弾丸日帰り旅行を切り上げ、ラストシーンの場所へ急いだ。
思えば、全てはこの場所から始まった。
いや。正確に言えば少し違う。
まだ終わっていないところで、また新しく始まってしまったのだ。
同時進行など彼女たちに対して誠意がないし、何よりそれに耐え得る器量など端から持ち合わせていない。
だからこそ、今一度整理する必要がある。
これまでのことを。これからのことを。
さて、当の彼女はそんな俺の心境など知る由もないのだろう。
このラストシーンの舞台で、いつものビジネススーツに身を包み、満足そうに微笑む姿を見れば、そんなことは一目瞭然だ。
既に日は傾き、夕刻を迎えている。
赤く焼けた空からは、あの日を彷彿とさせる落日の光が、彼女の顔を照らしている。
そこにはあの時感じた、物悲しさのようなものはなかった。
「……楽しそうだな」
俺がそう言うと、彼女は一層その顔を綻ばせる。
「あの時ココで、羽島さんに声をかけて本当に良かった……」
都心からやや離れた閑静な住宅街にある、俺のアパートの最寄り駅。
俺と豊橋さんはこの場所で出会った。
田舎というわけではないが、どちらかと言うとベッドタウン的な立ち位置なので、さしてランドマークと言えるほどの大層なものもない。
だが、社会人になってからというもの、ずっとこの街で過ごしてきたこともあって、それなりに愛着もある。
そんな腐れ縁とも言えるこの街で、ある日彼女はひょっこりと俺の前に現れたのだ。
かつて浜松朔良がこの場所で言ったセリフ、『一度終わったとしても、この場所でならまた始められる気がするから』。
その言葉通り、豊橋さんはこの場所を選んだのだ。
俺の中から強引に浜松の存在を押し退け、自分こそがパートナーだと主張するかのように。
もはや豊橋さんにとって、浜松すらも役者の一人なのだろう。
そう言わんばかりの、いつにない得意げな表情を見れば、彼女なりに手応えを感じているであろうことは想像に難くない。
だからこそ、まずは人生の先輩として彼女のその鼻をへし折ってやることにしよう。
「……まぁ、そう結論を急ぐなよ。コッチにはいくつか確認事項がある」
俺がそう言うと、彼女はゆっくりと頷いた。
「こんなこと、本人に聞いていいのか分からんが、豊橋さんの過去についてだ」
「過去……、ですか?」
俺の問いかけに対して、豊橋さんは露骨に不安の色を見せる。
こういうところは、実にいつもの彼女らしい。
「具体的には、学生時代のことだな。詐欺に引っ掛かるよりもっと前の話だ。中学・高校はどんな風に過ごしていた?」
「そんなこと……、聞いてどうするんですか?」
俺はこれまで『マニュアル作りを通じて成長する』などと詭弁にも近い煽り文句で、彼女をその気にさせてきた。
俺の思惑通り、彼女自身多少の変化を見せてきた。
とは言え、それは本質的な変化ではない。
いや。そもそも変化とも言えないだろう。
三島が言っていたように、元々彼女の中にあったイタズラ好きの天真爛漫な少女という部分が一時的に表層化したに過ぎない。
別に今更変わらないこと、変われないことが悪いとは思っちゃいない。
奇しくも、豊橋さん本人にも言われた。
人は簡単には変われない、と。
だがもし何か不本意なカタチで、トラウマのようなものが植え付けられたのだとしたら、それはいつまでも燻り続け、一歩踏み出すことすら困難になる。
そう。俺のように。
「……まぁ言ってみりゃコレは、実技試験の後の最終面接だと思ってくれればいい。最終的な意志確認も含めて、ざっくばらんに話そうぜ」
学生時代、就職活動で吐き気がするほど聞いたお馴染みの常套句を、何の因果か彼女に投げかける。
案の定、彼女は一瞬渋い表情をする。
だがそれでも、次の瞬間には再び笑顔を見せた。
「分かりました。そうですね。何から話せばいいのやら……」
そう言うと彼女は少しずつ、言葉を溢し始めた。
「確かに兄や鷹臣さんが言う通り、昔の私は今とは少し違っていたかもしれませんね。だから……、今とは違う意味で、人に迷惑を掛けてきました」
話は彼女の中学生時代にまで遡る。
小学生までは三島も話していた通り、イタズラ好きの問題児として、特に何事もなく過ごすことが出来ていた。
だが中学にも上がると、やはり多感な時期だ。
ちょっとした変わり者では、済まなくなってくる。
いつしか周囲は彼女を異質な存在として、避けるようになる。
そんな時、一人の少女と出会う。
少女の名前は、北上 青葉。
中学入学後、初めのクラス替えで出会った同級生だ。
北上さんは、当時既にどこか浮いていた豊橋さんに声を掛け、彼女を孤独の淵から救い出した。
彼女のおかげで、豊橋さんも辛うじて自分らしさを保つことが出来た、と言う。
北上さんは当時の豊橋さんにとって、紛れもなく親友と呼べる存在だった。
その後、二人は同じ高校に入学する。
だがココで、ターニングポイントが訪れる。
それは高校2年の京都への修学旅行だと言う。
「なるほどな。じゃあ、そこで何かトラブルがあった、と」
俺がそう言うと、彼女はコクリと頷く。
「ですね……。いえ。むしろ、トラブルで済む問題、かは分かりませんが……」
彼女はそう言いながら、どこか口惜しそうに遠い目をする。
どうやら、豊橋さんは日頃の感謝の意味を込めて、北上さんに対してあるサプライズを計画していたらしい。
丁度、日程の2日目に北上さんの誕生日を迎えるということもあり、何か仕掛けるタイミングとしてはピッタリだと考えていたようだ。
そこで、彼女なりに趣向を凝らしていたようだが……。
「ナンカ……、どっかで聞いたような話だな」
彼女は静かに微笑み、頷く。
「ですね。だから羽島さんから彼女の……、浜松さんの話を聞いた時はとても他人事とは思えなかったです」
豊橋さん曰く、北上さんには当時気になるクラスメイトがいたらしい。
そこで彼女は、サプライズの決行場所としてとある縁結びの神社を選定した。
まぁ要するに、豊橋さんはそこで色々と余計なお世話を焼いてやることにしたそうだ。
余談だが、そのとある縁結びの神社とやらは、今日俺が罰ゲームを実行した神社らしい。
運命とやらは、豊橋さん以上にイタズラ好きのようだ。
具体的な手順としてはこうだ。
決行は、2日目の自由行動の時間。
まずは北上さんを連れて、境内にある龍穴(陰陽道や風水などで繁栄するとされているパワースポット)へ行く。
そこで予めターゲットの男子がいるグループと示し合わせ、偶然を装い、バッティングさせる。
その後、豊橋さんが体調を崩したフリをし、北上さんとその男子を残す。
ホテルへ戻るポーズを取り、その後の二人を生温かく見守る、という何とも古典的で王道的なものだった。
だが、事は豊橋さんの思惑通りには進まない。
北上さんは彼を前に、動揺のあまり何も言うことが出来なかった。
それどころか、震えながらその場を走り去ってしまった。
そのことが北上さんの深い傷となり、部屋から出られなくなってしまったらしい。
それ以来、豊橋さんはその時の彼女の姿が事ある毎に頭に浮かび、自分らしく振舞えなくなったと言う。
「あの時は、まさか彼女があんなことになるとは思いませんでした……。ホテルに戻ってから、ずっと部屋で泣いてる彼女の姿を見て、やっと気づきました。自分のしてしまったことに」
彼女は自虐的な笑みを浮かべて言う。
「私が……、私が全部イケないはずなのに、何か勝手にトラウマみたいなもの抱えちゃって……。ナニ被害者振ってるんだって話ですよね? こんなの彼女にも失礼だし、何より未だにちゃんと彼女に謝れていないし……」
なるほど。全て腑に落ちた。
確かに三島の話していた通り、かつての彼女は今とは違うベクトルで問題児だったようだ。
豊橋さんは彼女に対しての恩を、ある種の仇で返してしまったことを未だに悔いているのだ。
そして、自覚している。
北上さんとの一件は、自分の性質が招いた最たる悪例だと。
だから、彼女はこれまでの自分を封印した。
ここまで聞いて大凡、他人事とは思えなかった。
同じだ。浜松と。
やはり、当時の豊橋さんは独善的でどこか浜松に似ていた。
いや、厳密に言えばそれも少し違う。
今も本質的な部分は似ているのだ。
両者の唯一の違いは、その境遇にある。
浜松の場合、大病を患い、ある種どこか吹っ切れたからこそ、自分自身を貫くことが出来たのだろう。
何かきっかけがなければ、豊橋さんと同じようにいつの日か塞ぎ込んでいたかもしれない。
であれば、豊橋さんが本当の意味で過去から解放されるためには……。
……いや、待て。
「おい。ちょっと待て。その話、本当か?」
「えっ!? えっと……、それは……」
俺が問いかけると、彼女はギクリという擬音が飛び出さんばかりに顔色を変える。
「本当、か?」
「え、えーっと……」
俺が再び真顔で迫ると、彼女は目を逸らす。
この女、完全に黒である。
なるほど。
どうにも話が深刻過ぎるというか、出来過ぎているというか……。
やはり彼女は役者としては、まだまだ未熟のようだ。
「……怒らないから答えてくれ。ど・こ・ま・で・が、本当だ!?」
「……すみません。引きこもりになった、という部分は少し脚色しました……。実際は、修学旅行が終わった翌週も、普通に登校してきました」
「はぁ……。やっぱりか」
「ご、ごごごごめんなさいっっっ!!!! 真面目な話してたのにっ!!! ナンカ、こう言った方が羽島さんが話に入り込みやすいかなーって思って、つい……。流石にフザケ過ぎ、ですよね?」
豊橋さんは怒涛の勢いで謝ってくる。
彼女の極めて率直な言葉を聞いた時、俺はあることに気づく。
そうだ。
彼女のトラウマに気を取られ、俺は重要なことをすっかり忘れていたようだ。
確かに彼女の言う通り、それなりに真面目な話をしていたつもりだ。
しかし、それは俺が最後の意志確認などと称して、彼女のトラウマを一方的に穿り出そうとしていただけに過ぎない。
彼女の成長を阻害する原因を洗い出すなどと正当化していたが、どの道彼女の心を土足で踏み荒らそうとしていたことに変わりない。
やれやれ。
我ながら浅慮というか、なんと言うか。
だが、彼女はそれでも俺に嘘を吐いてくれた。
これを彼女のホスピタリティーと言わずして何というか。
自分自身の至らなさと、彼女のある意味でのひたむきさに、自然と笑いが抑えられなくなる。
「クククッ」
「あの……、羽島さん?」
豊橋さんは、思わず笑い声を溢してしまった俺の顔を、心底不思議そうな表情で覗き込んで来る。
「いや、悪い。そうだったよな。面接って言ったのは俺だよな」
「えっと、あの……、どういうことでしょうか?」
彼女の様子から察するに、どうやら意図的ではなかったらしい。
俺はピンと来ていない彼女のために、フォローの意味も込めて一つヒントを与えることにした。
「いいか? そもそも面接とはどんな場だ?」
「えっ!? えっと……、企業に自分を売り込む場、ですか?」
「違うな。企業が見たい自分を見せる場、だ」
俺の言葉に彼女は何かに気付いたのか、ハッとしたような表情を浮かべる。
そんな彼女を見た俺はすかさず畳み掛ける。
「そうだ! だから別に嘘を吐いても構わない。面接なんて、多少の経歴詐称はご愛嬌だ。別に犯罪じゃねぇんだからな」
「何ていうか……、ホントに滅茶苦茶な人ですね」
そう呆れながらも、彼女は柔和な笑みを浮かべていた。
「アンタも人のこと言えたもんじゃねぇだろ」
俺がそう言うと、二人で顔を見合わせ笑みを溢す。
「でも、それ以外は本当で……。さっきも言った通り、未だに和解出来ていないんです。というより、私が一方的に彼女を避けてしまったんですよね……」
彼女は、再び顔を曇らせて言う。
これは相手が許すとか許さないとか、そういう問題ではない。
心の奥底で燻り続けるものは、そう単純に解消出来るものではないのだ。
だから今、彼女はこうして苦しんでいるんだろう。
「この前は羽島さんにあんなこと言ってしまいましたが、本当に燻り続けているのは、やっぱり私なんです。彼女とあんなことがあってから、なんと言うか……。自分自身がどう振る舞っていいか分からなくなって……。就職に失敗したのも、詐欺に引っ掛かってしまったのも、ソレが尾を引いた結果なんだと思います」
「まぁ要するに……、自分自身の何もかもを疑っている内に、世の中に蔓延る嘘や本質を見抜けなくなった、ってところか?」
「はい……。大体、そんなところだと思います」
やはり前提そのものが違っていた。
デート商法や詐欺の件など、彼女を蝕むトラウマが引き起こした結果に過ぎなかった。
「でも……、羽島さんと出会ってから、ちょっとだけ昔みたいになれる瞬間っていうか、そういうのが出来て……。あのっ! ホントに今更なんですけど……、ありがとうございます! 羽島さんのおかげで大切なことに気付け」
「待て。礼を言うのはまだ早い」
「えっ!?」
俺は核心に触れようとする彼女を制す。
思えば、今日はずっと彼女の掌の上で踊っていた感覚だ。
最後くらい、俺に見せ場をくれたっていいだろう。
「なぁ、豊橋さん。アンタやっぱりまだ勘違いしてるわ」
「えっと……、それは、どういう意味で?」
彼女は恐る恐るといった様子で、俺に問いかけてくる。
「豊橋さん。アンタは俺のおかげで昔の自分を取り戻せそう、みたいなことを言おうとしたな? そりゃ大きな間違いだ」
「えっと、あの……」
「俺も豊橋さんも確かに燻っていた。だが俺とアンタでは決定的に違うことがある。何か分かるか?」
そう問いかけると、彼女は言葉に詰まる。
俺はワザとらしく咳払いを交え、続ける。
「いいか? 俺は人任せとは言え、曲がり形にも自分の過去とケリをつけた。それに引き換え、豊橋さんはどうだ? 偶々自分と境遇の近い人間を見つけて、一丁前に過去と向き合った気になってんじゃねぇのか?」
「そ、それは……」
「今アンタがするべきなのは、俺に対しての礼か? 違うだろ。アンタの言う自分ってモンは、そんなお手軽に取り戻せる安っぽいモンなのかよ」
滔々と身の程知らずな説法を垂れる俺を前に、豊橋さんはこれでもかというほど目を泳がせる。
そんな彼女を見ていると、少しばかり罪悪感に苛まれる。
「それで、だ。随分遅くなっちまったが、今日の豊橋さんの茶番について、俺が出した答えはコレだ」
俺は手持ちのクラッチバッグからあるものを取り出し、彼女に見せつける。
「え……、それって……」
豊橋さんの顔色がみるみるうちに青ざめていく。
当然かもしれない。
俺に罰ゲームを実行させるために、あれだけ手の込んだ茶番を仕掛けたんだ。
そして何より、俺はこうしてこの場へやってきたわけだ。
よもや、俺の元に絵馬があるとは思うまい。
「……まぁ、そういう反応になるだろうな。だが、そう早とちりするな」
俺は手に持った絵馬を裏返し、そこに書かれた文字を見せつける。
「え……」
彼女は呆然とする。
状況を整理出来ていない。
いや。正確に言えば、俺の意図を理解出来ないのだろう。
まぁ、それも無理はない。
何せ……。
『続きのない物語を俺と』
「あの……、それは……」
「豊橋さんは、人は簡単に変われないと言ったな? でも、俺は変われると思っている」
「は、はい……」
「もし、だ! この先、豊橋さんが自分に自信を取り戻せたと胸を張って言える日が来たら、アンタの負けだ。罰ゲームとして、今度はアンタがコレをあの神社に奉納して来い!」
「っ!?」
これは完全に黒歴史確定だ。
上手いことを言ったつもりが、ただただイタいだけの奴になってしまった。
というより、シンプルに重いか?
ただ、続きがあること前提で相手と向き合うのは、やはり何か違う気がする。
言ってみりゃ、これも俺なりの誠意だ。
俺本位の一方的な展開に、彼女は未だに二の句が継げない。
無理もない。
ならば俺ならではのアプローチで、助け舟を出してやるまでだ。
「……俺はな。もう脚本家業に疲れちまったんだよ。あんなことがあったんだ。当然だろ? だからコレで最後にしたい。ここまで言えば分かるか?」
我ながら偏屈と言うか、なんと言うか。
だが残念ながら、俺にはこういうやり方しか出来そうにない。
全く。誰の影響かは知らんが。
そうだ。
俺の中で合否なんて、とうの昔に決まりきっている。
というより、もう既に始まっているのだ。
彼女との続編が。
「えっと……、じゃあ」
ようやく俺の意図を察したのか、豊橋さんは大きく目を見開き、俺を真っ直ぐに見つめてくる。
「……俺の方は今日で完全に終わった。次はアンタが過去にケリをつける番だ。俺は今、そんなストーリーを思い描いている。その後は……、まぁ何でもいい。警察沙汰にならない範囲で付き合ってやる。だから、まぁ、つまり」
俺が最後まで言い終える前に、彼女は勢いよく抱き着いてきた。
「何言ってるか良く分かりませんでしたが、でも……、良く分かりました」
俺の身体に密着し、スーツの下襟のあたりに口元を付けながら、もごもごと彼女は言う。
「どっちだよ……」
「まぁ羽島さんですからね。仕方ないです」
「言っとくけどな。俺のヒネた言い回しでピンと来る時点で、アンタも大概だぞ」
「はい。分かってます。ですから……」
すると彼女は、襟元から顔を離し、俺を見上げてくる。
「私たち、似たもの同士ですね!」
彼女は満面の笑みを咲かせて言う。
改めて彼女からその言葉を聞き、顔が熱くなる。
本当はもっと言うべきことがあったのかもしれない。
『ヒネた』などと前置きしたところで、その実タダ口下手なだけだ。
だが、それは彼女とて同じだろう。
だから、きっと。
俺たちはこれでいい。
「……アンタはそれでいいのかよ?」
「……今更、言いますか? マニュアル作りだって、誰が始めたと思ってるんですか? 始めたからには最後まで責任取って下さい」
彼女は少しムクれながら、俺を睨むように見上げる。
彼女の言い分は至極真っ当だ。
全ては俺のエゴで始まった。
だからこそ、俺は彼女の行く末に対しても責任を持つべきなのだろう。
……だが、所詮は俺だ。
誓いの言葉、などといった大層なものは用意出来そうにない。
そのかわり。
彼女への誠意の証として、一つ言質をくれてやることにしよう。
「すっかり、暗くなっちゃいましたね……」
彼女は俺の胸元に埋まりながら、呟く。
9月も下旬に差し掛かり、近頃着実に日が詰まってきている。
長話をしたこともあり、辺りはすっかり暗くなっていた。
「そうだな……。ところで、豊橋さんに一つ言っておくことがある」
「はい?」
俺は目線を上げ、空を見上げる。
それに合わせて、豊橋さんも首を上げる。
中秋の名月というだけあり、シチュエーションとしてはバッチリだ。
丸々と良く肥えた月は、今から俺が小っ恥ずかしいセリフを吐くとも知らずに、いつものように呑気に街並みを照らしている。
「俺、月が綺麗だと死んでも良くなるんだわ」
彼女はゆっくりと視線を、俺に向けてくる。
何も言わない彼女をうっすら見下ろすと、みるみる内に顔が赤くなっていくことが分かる。
そんな彼女を、俺はいつまでも直視は出来なかった。
「何ですかソレ!? 情緒不安定なんですか!?」
ようやく俺の意図に気付いた彼女は、慌てるようにまくし立てる。
「そりゃお互い様だろ」
そう言いながら、俺は静かに彼女の腰に手を回した。
俺と彼女のマニュアル作りは、たった一つの成功例だけを残して終わりを告げた。
それは皮肉にも俺が手掛けたものではなく、彼女自身の感性や価値観、経験に基づいて作られた、極めて汎用性のないものだった。
マニュアルとしては落第点だし、出来損ないもいいところだ。
だが、それでも……。
こうして充足感に包まれた男がココに存在するのだ。
ただ、それだけで。
彼女の誠意ある欺瞞には価値が、ある。