幸運値999の私、【即死魔法】が絶対に成功するので世界最強です


 地下迷宮――第五層。
 反魔術結社ミストラルの隠れ家として機能しているこの地下迷宮は、全五階層の構造になっている。
 第一層が魔獣層、第二層が防衛層、第三層が居住層、第四層が貯蔵層、そして第五層が研究層だ。
 洞窟のような岩肌に覆われた大部屋に、多くの作業机と本棚、魔道具製作に用いる道具の数々が置かれている。
 研究所らしい雰囲気が漂っている場所ではあるが、その中で異彩を放っているものも一つだけあった。
 それは、部屋の端に並べられている大小様々な“鉄の檻”。
 その中には多種多様な魔獣たちが閉じ込められており、これも魔道具研究に必要な素材の一つだった。

「グガァ! グガガァ!!!」

「キィキィ!!!」

「オゴゴォォォ!」

 そのため研究層は常に喧騒に包まれており、その中で研究者たちは騒音に悩まされている。
 それでもテキパキと手を動かしながら、一つの魔道具の調整を進めていた。
 響かせる音色によって魔獣たちに様々な命令を聞かせることができる魔道具――『終焉の魔笛』。

「……待ち遠しいですね」

 作業机に齧りついて、ペンを走らせたり本をめくっている研究員たちを、傍で見守っている人物が一人。
 灰色の長髪に、感情を感じさせない灰色の虚な目。
 血の気の薄い青白い肌と、白を基調とした大きなドレス。
 幽霊のような見た目をしていて、不気味な雰囲気を醸し出している彼女の名前は――アリメント・アリュメット。
 反魔術結社ミストラルの現在の“頭領”である。
 とてもそのようには見えない柔和な笑みを浮かべている彼女は、魔道具の完成を今か今かと待ち侘びていた。

「アリメント様、魔笛の調整がもう間もなく終了いたします」

 そんなアリメントに、研究員の男性が報告にやって来る。
 彼女はそれを受けて、彼を労うように優しい言葉を掛けた。

「本当にお疲れ様です。これでようやく魔術国家の体制を崩すことができます。そしてミストラルの考えこそが正しいと世界に証明することができるのです」

 次いでアリメントは、今度は研究員たちに向けて声を掛けるように、辺りを見渡しながら続けた。

「さあ、もうひと踏ん張りです。皆様、最後まで何卒よろしくお願いいたします」

 その時――
 突然、一人のミストラル構成員が、慌てた様子で研究層に下りて来た。

「アリメント様!」

「……?」

 その女性構成員はアリメントの前まで駆け足で来ると、息を切らしながら咳き込む。

「あらあら、いかがいたしましたか? とても慌てたご様子で。ゆっくりでいいですから、まずは息を整えてください」

「す、すみません、アリメント様……!」

 女性構成員は言われた通り、おもむろに深呼吸を繰り返し、息を整えてから改めて言った。

「国家魔術師の連中が攻めて来ました!」

 瞬間、研究員たちの間にどよめきが生まれる。
 彼らにとって国家魔術師たちは天敵と言える存在なので、各々が緊張感を迸らせていた。
 一方でアリメントは、柔和な顔に手を添えて、困ったように眉を寄せている。

「それは困りましたね。『終焉の魔笛』はまだ完成していないというのに」

 慌てる研究員たちと違い、アリメントは余裕がありそうに見える。
 しかし面倒な事態ということは事実で、彼女は『うーん』と考え込むように声を漏らしていた。
 その時――

「私にお任せください、アリメント様」

 研究層の片隅に立っていた一人の“赤髪少女”が、アリメントの前で膝を突いてそう言う。

「まあ、あなたが出てくれるのですか? それはとても心強いのですが、一緒に魔笛の完成を見届けなくてもよろしいのですか?」

「魅力的なお話ではございますが、優先すべきはアリメント様のお体と魔笛の完成です。私たちの妨げになる国家魔術師たちは、私が必ず討ち倒して参ります」

「ふふ、とてもいい子ですね」

 アリメントは跪く少女の赤髪を優しく撫でて、耳元でゆっくりと囁いた。

「では、よろしくお願いいたします。あなたのその力、存分に国家魔術師たちに見せつけて来てください」

「はい」

 赤髪の少女は立ち上がり、すぐに上層へと向かって行く。
 その背中を見届けながら、アリメントは静かにほくそ笑んだ。

「本当に、みんないい子ね」

 彼女は再び研究員たちの方に目を向けて、魔笛の調整が終わるのを笑顔で待ち続けた。

 ミストラル制圧作戦が開始された。
 討伐隊は無益の森に突入し、魔獣たちを討伐しながら順調に進んで行く。
 森はかなり広大で、目的地の地下迷宮の入口までそれなりの時間を要するかと思われたが、国家魔術師たちの目覚ましい活躍によって早々に辿り着くことができた。
 そして私たちは北部襲撃隊と南部襲撃隊に分かれて、二つの入口からそれぞれ迷宮内部へと侵攻して行く。

「国家魔術師の連中が攻めて来たぞ!」

「第三層へは進ませるな!」

 私とミルが配属された北部襲撃隊は、現在第二層まで進んでいた。
 岩肌に覆われた洞窟のような道を、壁に掛けられた魔道具の灯りを頼りに侵攻して行く。
 第一層の魔獣層では魔獣を警備の代わりに放っていたが、魔獣討伐の専門家でもある国家魔術師たちの前では意味をなしていなかった。
 むしろ厄介なのは、ミストラルの構成員の方。
 基本的に無力化が大前提となっているため、大怪我をさせないようにこちらが気を遣う必要がある。
 死に至らしめてしまう魔法は当然禁止。私も即死魔法ではなく拘束魔法と身体強化魔法だけで無力化を試みなければいけない。
 そういう好き勝手に魔法を使えない状況で、対して向こうはこちらの知らない未知の魔道具を使って応戦してくるのだ。
 ぶっちゃけやりづらい。
 私も構成員たちと対峙して、“燃える長剣”やら“痺れる槍”を掻い潜りながらなんとか拘束を行っていた。

「これが魔道具の兵器……」

 魔素の力を借りて発動する“魔法”とは性質が異なるため、私の【ひと時の平和(イージス・フリーデ)】で無効化することができない。
 事前に身体強化魔法の【火事場の馬鹿力(グラン・ディール)】を使っているとはいえ、さすがにこれらの魔道具を生身で受けるのはかなり厳しいだろう。
 相手が魔術師だったら、なんの苦労もしなかったんだけどなぁ。
 それに加えて……

「魔素の調子とかどう? みんな心なしか辛そうな顔してるけど」

「体調的な違和感はないんですけど、やっぱりいつもより魔法の威力が弱まっているように感じます。特に第三層に近づくにつれて、さらに魔素が小さくなっている気がします」

 ミルは自分の手元を見下ろしながら、困ったように眉を寄せていた。
 これが魔素収縮具の効果。
 目に見えない毒煙のせいで、魔術師たちの魔素を小さくされているのだ。
 これが地下迷宮全体に広がっている限り、魔術師たちは本領を発揮することができない。
 私の確率魔法は魔素の“大きさ”ではなく“輝き”が重要になるから、魔素収縮具の影響を受けないけど、他の魔術師たちからしたら煩わしいことこの上ないだろう。
 やはりみんなどこか、本調子が出せないせいか度々毒吐く姿が見える。
 と、ここまで様々な悩みの種を語ってはきたが、それでも北部襲撃隊は順調に第二層の中腹まで進むことができている。
 その最もたる理由は……

「な、なんだよこいつ……!」

「なんでこいつだけ、詠唱無しで……!」

 常に集団の最前線に立ち、部隊を牽引してくれる頼もしい人物がいるからだ。
 北部襲撃隊の指揮官を務めている術師序列一位の国家魔術師――ヴェルジュ・ギャラン。
 ヴェルジュさんは絶え間なく、火球の魔法や稲妻の魔法などを速射し続けて構成員たちに圧を掛けている。
 魔素を収縮されて魔法の威力が低下している分、圧倒的な手数の多さでそれを補っているのだ。

「……すごい」

 基本的に魔法は、体内にいる魔素に式句という形で命令を聞かせることで発動が可能になっている。
 ゆえにこのように速射し続けるなんて芸当はできるはずもないのだが、彼にはそれができてしまう。
 無詠唱魔法を使えるヴェルジュさんなら。
 通常は口に出して唱える必要のある式句を、頭の中で唱えることで魔法を発動させる技法。
 口に出すより断然早く魔素に命令を聞かせることができるため、通常以上の速度で魔法の連発が可能になっているのだ。
 魔術学園の在校生――三年特待生のクロスグリ先輩が無詠唱魔法の使い手だけど、実際にこれを間近で見るのは初めてである。
 そして術師序列一位――現代最強の魔術師として名高いヴェルジュさんの凄さは、これだけではない。

「投降するなら手荒な真似はしないんだけど、仕方ないな」

 真に驚愕すべきは、その無詠唱魔法を応用した独自の“魔法技術”。
 無詠唱魔法による圧力をかけても、いまだに好戦的な態度を見せる連中に、いよいよヴェルジュさんは本気を出した。

「【轟く雷鳴――曇天からの稲妻――地上の悪鬼を滅却せよ】――【約束された雷光(プロメス・エクレール)】」

 刹那、足元から小さな水の波が発生し、同時に迷宮の天井からバチバチと雷が落ちて来た。
 その二つが交じり合ったことで“帯電する波”へと変貌し、ミストラルの構成員たちの足元を呑み込んでいく。

「ぐ、ああああぁぁぁ!!!」

 波を伝って電撃を浴びた連中は、糸の切れた人形のように力なく地面に倒れた。
 本来であれば直撃させるのが難しい落雷魔法を、水属性の小波魔法に乗せることで敵を殲滅する。
 魔法と魔法を掛け合わせて、まったく新しい魔法へと昇華させる芸当。
 これが現在、術師序列一位のヴェルジュ・ギャランのみが習得していると言われている唯一無二の技法――

 多重詠唱(スペル・アンサンブル)

 噂によると、詠唱魔法と無詠唱魔法を同時に発動させることで、魔法の融合が可能になっているとか。
 その組み合わせはまさに無数にあり、ヴェルジュさんは独自の強力な魔法を千種以上も生み出しているらしい。
 魔力値が低いと言われているヴェルジュさんも、多重詠唱によって強力な魔法を発動することが可能になっているため、現在の地位に昇り詰めることができたのだとか。
 紛れもない奇才である。
 同時に、現在の魔力至上主義の魔術国家を否定するような存在でもある。
 第二層中腹にいた構成員たちが一瞬にして無力化されて、改めて術師序列一位の凄さを痛感していると、その視線に気が付いたヴェルジュさんが私に声を掛けて来た。

多重詠唱(スペル・アンサンブル)を見るのは初めてかい?」

「は、はい……。あんなに魔法が強力になるんですね」

「うん。だからなるべくは対人戦闘で使いたくはなかったんだけど、連中もかなりしぶといし、今は魔素も収縮されているから多少は威力も弱まるからね」

 そっか、魔素収縮具の影響を受けてこれなんだよね。
 本来の魔素の大きさで多重詠唱(スペル・アンサンブル)を使ったらどうなるんだろう?
 対人戦闘で使うことを躊躇っている様子から、相当な威力になるんだと思うけど。

「今のところは俺以外にできる魔術師がいないみたいだから、珍しく思うのも当然だと思う。けど最近は才能のある若い子たちが多いから、きっとすぐに俺よりもすごい魔術師が生まれると思うよ」

 ヴェルジュさんはそう謙遜しているけれど、世に魔法という存在が知れ渡ってからすでに何百年と経過している。
 だというのに多重詠唱(スペル・アンサンブル)を使える人間は、これまでにヴェルジュさん一人だけしか記録されていない。
 だからそう簡単に同じ逸材が生まれるとはとても思えない。
 そんな会話をしていると、不意に後ろから別の人物が声を挟んで来た。

「どうやって多重詠唱(スペル・アンサンブル)をやっているんですか? コツとかあれば教えてほしいんですけど」

「コツ?」

 真剣な様子でヴェルジュさんに尋ねたのはミルだった。
 術師序列一位の人に質問するなんて、ミルとは思えない度胸である。
 それほどまでに向上心が強く、魔術師として成長したいと思っているということだろう。
 人見知りゆえに、やっぱりまだ手とか震わせちゃってはいるけどね。

「コツかぁ。そう言われると難しいんだけど、そもそも多重詠唱(スペル・アンサンブル)は無詠唱魔法を応用しているっていうのは知っているかな?」

「は、はい」

「体内の魔素に詠唱という形で命令を聞かせて魔法を発動させる“詠唱魔法”。心の中で魔素に語りかけることで魔法を発動させる“無詠唱魔法”。この“実際の声”と“心の声”の二つを、同時に魔素に聞かせることで、魔法の複合を可能にしているんだ」

 ここまでは知っていたかな? と首を傾げるヴェルジュさんに、ミルはこくこくと頷き返す。
 私も貴重な機会だからと、続くヴェルジュさんの声に耳を傾けた。

「魔素は“実際の声”と“心の声”を聞き分けているらしいから、口と心で二つの式句を詠唱した場合、魔素は二重に魔法を発動させてくれるんだ。でも、それぞれ正確に詠唱ができなきゃ魔法の複合は成功しない。だからコツらしいコツと言うか、効果的な練習方法なんだけど……」

 ヴェルジュさんは言葉を選ぶように考え込んでから、私とミルに練習の仕方を教えてくれた。

「『頭の中で歌を歌いながら、別の歌を口ずさむ』、っていう練習をしてごらん」

「あ、頭と口で、別々の歌を……?」

「頭の中では“誕生日の歌”を流して、口では“国歌”を歌う。これ、意外とできる人いないみたいなんだよね」

 確かに頭と口で別々の詠唱をするわけだから、歌を別々に歌う感覚と似ているのか。
 でも、試しに少しやってみたけど、まるで成功する気がしなかった。
 頭で誕生日の歌を流しているのに、口では国家を口ずさむなんてとんでもなく難しい。
 必ずどちらかが疎かになったり歌詞が詰まったりする。
 これを魔法式句に変えて正確に詠唱することができたら、ヴェルジュさんみたいに多重詠唱(スペル・アンサンブル)が使えるようになるのか。
 そもそも無詠唱魔法一つを成功させるだけでも一苦労なので、これは一朝一夕でできる技ではない。
 完全に努力のたまもの。
 毎日魔法の訓練をして真剣に魔素と向き合うことで、詠唱魔法と無詠唱魔法の同時発動という神業を会得したんだ。
 他の魔術師たちより魔力値で劣っている分、技術を極限まで磨き上げることで序列一位に昇り詰めた努力の天才。
 現代最強の魔術師は伊達じゃないってことだね。

「どう、参考になったかな?」

「は、はい。教えていただいてありがとうございます」

 私としては参考になるどころか心を挫かれてしまったけれど、ミルはそんな様子もなくお礼を言っていた。
 それから頑張って多重詠唱(スペル・アンサンブル)の練習をしている。
 そもそも無詠唱魔法から習得しなければいけないわけだから、道のりは遠そうだけど。
 でも、ミルも努力家さんだから、もしかしたらいつか本当に成功させるかもね。

「まあ、もし君が多重詠唱(スペル・アンサンブル)を習得しても、無闇に人に向けて使わないようにね。多重詠唱(スペル・アンサンブル)は純粋な足し算じゃなくて掛け算に近いものらしいから、魔法の組み合わせによっては本来の魔力値の三倍や四倍の数値を検出することもある。だから扱いには充分に気を付けて」

 そんな忠告までしてくれたヴェルジュさんは、他の国家魔術師たちが構成員を拘束し終えたのを見て、再び部隊を前進させてくれた。

「よし、それじゃあこのまま第三層を目指して進んで行こう。そこで魔素収縮具を破壊することができたら、こちらが圧倒的に優勢になる。みんな、もう一踏ん張りだ」

 その鼓舞に背中を押されるように、北部襲撃隊は疲れを振り払って奥地へ進んで行く。
 それから第二層ではミストラルの構成員が立ちはだかって来ることはなく、私たちは問題なく第三層へ下りることができた。
 まさかこのまま何事もなく魔素収縮具を破壊できるのか、と淡い期待を抱いてしまったけれど……

「ま、そんな上手くはいかないよねぇ」

 第三層では、第二層の倍以上の構成員たちが、完璧な武装をして待ち構えていた。

 岩壁に覆われた広い空間に、木造りの家屋がいくつも並んでいる。
 地下迷宮の第三層――居住層と呼ばれるそこは、ミストラルの兵士たちが暮らしている生活空間だ。

「【賽は投げられた――神の導き――恨むなら己の天命を恨め】――【運命の悪戯(フォル・トゥーナ)】!」

 現在、その第三層の居住層にて、北部襲撃隊とミストラルの構成員たちがぶつかり合っている。
 万全の状態で待ち構えていたミストラル側は、多彩な魔道具を用いて国家魔術師たちに対抗していた。

「絶対に国家魔術師たちをこの先に進ませるな!」

「アリメント様の邪魔は絶対にさせない!」

 魔素収縮具の影響で、国家魔術師たちは思うように力を出せていない。
 そのこともあって私たちはかなり苦戦していた。
 術師序列一位のヴェルジュさんがいても、突破に難航している。
 南部襲撃隊が合流してくれることを祈るばかりだが、一向に姿を現さないし。
 どうやら上層で手を焼いているらしく、第三層に下りるのに時間が掛かっているようだ。

「この層に来てから、ますます魔法の調子が出ねえな……!」

「やはり魔素収縮具が近いせいか……!」

 なおのこと早く魔素収縮具を破壊して、国家魔術師たちを自由に動けるようにしてあげないと。
 それができるのは今、魔素収縮の影響を受けない私だけ。
 やはり無作為転移魔法の【我儘な呼び出し(アリアン・シフレ)】を使って、一気に収縮具の場所まで転移した方が……

「……いや」

 以前にその提案は却下されている。
 どのような罠が仕掛けられているかもわからないため、その転移魔法を使うのは危険だと。
 待ち伏せをされていた時のリスクも計り知れないから。
 今は国家魔術師たちの急襲によって第三層は混乱状態に陥っているから、多少は警戒の目が薄れているとは思うけど。
 それを前提として動くのはさすがに博打すぎるか。

 いや、そうか……

「【迷える子羊――手招きする伝道者――最後は己の心に従え】」

 この魔法は、どこに転移するかわからない転移魔法。
 そして幸運値999の私が使えば、自分の望み通りの場所に転移することができる万能魔法へと変化する。
 つまり、こう考えればいいのだ。
 “魔素収縮具がある安全な場所(・・・・・)に転移したい”と。
 もし魔素収縮具の場所が安全で、私一人で突っ込んでも破壊が可能なら、転移が成功するはず。
 逆に監視や罠のせいで“危険な場所”だと判断されたら、転移魔法は失敗する。
 それで今、魔素収縮具の場所が安全か危険かを、間接的に確かめることができるのだ。

「【我儘な呼び出し(アリアン・シフレ)】!」

 転移魔法を発動させると、不意に私の視界がぼやけ始めた。
 直後、景色が切り替わるようにして私の体は転移する。
 辿り着いたその場所は、岩の壁に覆われた薄暗い部屋で、情報通り大きな壺の形をした魔道具が設置されていた。

「見つけた……!」

 無作為転移魔法が成功した。
 ということは危険な罠は張られていないということ。
 そして危惧していた見張りの方も数が少ない。
 合計で五人。
 ここまで手薄になっているのは、やはり第三層に国家魔術師たちが攻め入って来たからだろうか。

「て、転移魔法だと!?」

「なぜこの場所がわかったんだ……!」

 賭けは私の勝ちのようだ。
 やっぱり私は、運がいい。
 魔素収縮具を破壊するべく、私は全力で地面を蹴った。

「――っ!」

 鋭く息を吐いて疾走すると、それに反応して武装兵たちが前に出て来た。
 こちらを迎撃するべく魔道具の武器を構える。
 しかし残念ながら、私は【火事場の馬鹿力(グラン・ディール)】で身体能力を底上げしている。
 たったこれだけの見張りでは、私のことを止められるはずもなかった。

「はあっ!」

 武装兵たちの剣や槍を掻い潜り、一瞬で隙間を通り抜けると、私は大壺を狙って脚を一閃した。
 黒々とした煙を吐いていた壺は、私の蹴りによって豪快に砕け散る。
 それによって見張りの兵士たちの顔は蒼白し、周囲に漂っていた黒いモヤも一気に晴れた。

「くそっ、やられた!」

「ふざけやがってこのガキがッ!」

 これで魔素収縮具の破壊は完了した。
 魔術師たちの魔素の不調は解消されるはず。
 手早く自分の役目を果たした私は、なおも向かって来る武装兵たちに手を振って……

「失礼しました〜」

 再び転移魔法を使って、北部襲撃隊の方へと帰って行った。
 戻ったすぐ近くにはヴェルジュさんがいて、怪訝な顔をしながら問いかけてくる。

「サチ・マルムラード君、いったいどこへ……」

「魔素収縮具を破壊して来ました! これでみんなの魔素は元に戻るはずです!」

「……無茶をする子だな」

 ヴェルジュさんには呆れられてしまったけれど、すぐに笑みと共に称賛を送ってくれた。

「でも本当に助かったよ。君のおかげで国家魔術師たちが息を吹き返す。ここからは俺たちの時間だ」

 それに頷きを返すように、北部襲撃隊の国家魔術師たちは勢いづいて攻撃を始めた。
 魔素が元に戻ったことで、みんな本来の実力を発揮することができている。
 ミストラル側はその様子を見て、遅れて魔素収縮具が破壊されたことに気が付いて焦り始めた。

「い、いったいいつの間に……!」

「なぜあの場所が……」

 ついでにこれで上層で苦戦している南部襲撃隊も形勢を変えられるはず。
 一気に風向きがこちら側に傾いて、程なくして私たちは兵士たちの陣形を崩すことができた。
 ヴェルジュさんが奴らに降伏を促す。

「これで終わりだよミストラル。魔素収縮具は破壊させてもらった。大人しく投降すればこれ以上危害を加えるつもりはない」

「投降しろだと……! ふざけたこと抜かしてんじゃねえ!」

 圧倒的劣勢に立たされた状況で、なおもミストラルの武装兵たちは敵意を剥き出しにしてくる。

「俺たちはまだ負けてねえ……! 薄汚れた国家魔術師の連中に白旗なんざ揚げるわけねえだろ!」

 しかし国家魔術師たちが力を取り戻してしまったため、状況は明らかに不利だった。
 さすがにそこは理解しているようで、冷や汗を滲ませながら武器を構えている。
 その様子を見て、ヴェルジュさんはこれ以上の刺激をしないように穏やかな声で語りかけた。

「俺たちの勝負はもうついたと言ってもいい。これ以上の抵抗は無駄な犠牲者を出すだけだ」

「勝手に決めつけてんじゃねえ! まだ勝負はついてねえだろうが!」

「それにたとえ死んでも、俺たちは絶対に国家魔術師たちには降らねえ!」

 ヴェルジュさんの語りかけも意味をなさず、聞く耳を持たない彼らは強気を貫き続ける。
 魔術師に対する怒り、そして魔術国家への憎しみが溢れ出ていた。

「お前らはいいよな。生まれた時から魔力値に恵まれてよ。この魔力至上主義の世の中にすぐに溶け込むことができたんだろ」

 最前列にいる一人の男が、抱えていた不満を術師序列一位にぶつける。

「でも俺たちは違う。魔力値が低いせいで蔑まれて疎まれて、生まれた瞬間に無価値のレッテルを貼られた。そんな俺らの気持ちがわからねえから、こうして居場所を奪いに来たんだろ!」

 その声に、他の兵士たちも同調の叫び声を上げる。
 魔力値がないから蔑まれた。
 無価値な存在だと一方的に断定された。
 だからこの魔術国家が嫌い。
 私も魔力値が低いせいで同じような経験をしたことがあるから、まったくわからないということはなかった。
 でも……

「魔力値に恵まれて、か」

 ヴェルジュさんが、ふっと静かに微笑みながら男に返す。

「参考までに聞かせてくれよ。君の魔力値はいくつなんだ?」

「はっ? な、なんでそんなこと……」

「参考までに、だよ。ほらっ、笑わないから教えてごらん」

「……」

 ヴェルジュさんに問いかけられた兵士は、躊躇いながらもその問いに答えた。

「125だ」

 125。
 平均が150と言われている中で125となると、確かに低く見られてしまうかもしれない。
 おまけに彼は、少々特異な立場のようだった。

「俺は子爵家の生まれで貴族の端くれだが、国家魔術師の平均魔力値に届いていないからと勘当された。こんな魔力値で国家魔術師になれるはずがないからと、家の連中はこの俺を見捨てやがったんだ。魔力至上主義の魔術国家のせいで、俺は……」

 不満をこぼし続ける彼の声を遮るように、ヴェルジュさんが言う。

「なんだ、俺と同じじゃないか」

「…………はっ?」

「奇遇だね、俺の魔力値も125だよ」

「そ、そんなわけあるか! てめえ術師序列一位のヴェルジュ・ギャランだろ! さっきだって他の連中とは比べ物にならないほどの魔法を使っていた! そんな奴が俺と同じ魔力値なんて……」

「低いことを公言はしていたけど、正確な数字までは大々的に公表していなかったから知らなかったのかな。間違いなく俺の魔力値は125だ。王族の生まれだというのにこの魔力値だったから、それはもう軽蔑されたものだよ」

 どうやら多重詠唱(スペル・アンサンブル)を使っていることを知らないようで、兵士たちは目を見開いて驚愕している。

「魔力値が重要だというのは揺るぎない事実だ。でも俺はそれがすべてではないと思っている。たとえ魔力値が低くても、人が人である限り誰かの役に立つことはできるんだから」

 ヴェルジュさんは目の前の兵士一人だけにではなく、全員に語るように続ける。

「だから俺は、今の偏りすぎている価値観を変えたいと思っている。君たちと同じさ。だから君たちの考えを真っ向から否定するつもりはないけど、この“やり方”だけは否定させてもらう」

「やり、方……?」

「どれだけ不公平な世の中であろうと、それに対する怒りで赤の他人まで巻き込んでしまうのはいくらなんでも間違っているってね」

 言われた兵士たちは心を痛めるようにぐっと歯を食いしばる。
 そう、彼らの考え自体は間違っていないと思う。
 私だって魔力値が低いせいで苦しい思いをしたことがあるし、ヴェルジュさんだって似たような経験をしているようだ。
 他にも淘汰されている人たちがいるのは事実で、そこに不満を抱くのは当然だと思う。
 でも、それで見知らぬ他人を巻き込んでまで魔術国家に復讐をするのは、明らかに間違っている。
 それを改めて気付かされたようで、彼らは何も言い返せずに目を伏せた。

「これからは君たちも住みやすい世の中を俺が作っていく。次代の国王になるつもりはなかったけど、君たちの意思を見させてもらって俺も考えを改めた。俺がこの魔術国家の王になって価値観を変えてみせる。だからこれ以上の抵抗をやめて、大人しく武器を収めてほしい」

 術師序列一位であり、第二王子のヴェルジュ・ギャランさんからの歩み寄るような提案。
 それを受けて、ミストラルの兵士たちは心が動いているのか、目を泳がせて戸惑っていた。
 確かにこの人が王様になれば、今のミストラル側が抱えている問題を取り除くことができる。
 何より彼らと同じ魔力値の低い人間からの説得で、心を大きく動かされているようだった。
 兵士たちの戦意が徐々に薄れていくのを感じる。
 迸っていた殺気も消えていく。
 ミストラルの兵士たちはヴェルジュ・ギャランという新しい希望を見たことで、手に持っていた武器を下ろそうとしてくれた。



 刹那――



「ヴェルジュ!!!」

「――っ!?」

 不意に背後から、一つの人影がヴェルジュさんを襲った。
 魔法によって作られた業火の長剣が、ヴェルジュさんの右肩を深々と貫く。

「ヴェルジュさん!」

 襲撃者は続け様にヴェルジュさんを蹴り、居住層の家屋の方まで吹き飛ばした。
 その光景を見ていた国家魔術師とミストラルの兵士たちは、あまりに突然のことに呆然とする。
 皆の視線は襲撃者の方に向けられて、その人物の姿が鮮明に映ると、全員が揃って同じ気持ちを抱いた。

「どう、して……」

 襲撃者の正体は……術師序列二位であり、ヴェルジュさんの実の兄である、第一王子のシャン・ギャランさんだった。

 シャンさんから攻撃を受けたヴェルジュさんは、崩れた家屋の中から立ち上がった。
 傷は深いように見えたけど、すでに治癒魔法を使って傷を塞いでいる。
 だから命に別状は無さそうで、襲撃隊の人たちは安堵した様子を見せていた。
 しかし依然としてシャンさんは怒りの目をヴェルジュさんに向けていて、緊迫した状況が続いている。

「ヴェル、ジュ……! ころ、す……!」

 なぜシャンさんはヴェルジュさんを攻撃したのか。
 その理由は定かではないが、明らかに普通の状態ではないことだけはわかる。
 目は血走り、口の端からは涎を垂れ流していて、不自然なくらい汗が滲んでいる。
 このような状態になっている人を、前にどこかで見たような……

『マロン……邪魔、者……! サチも、コロス……!』

 あの時と同じだ。
 星華祭で兄のマイスが暴走していた時と。
 確かあれは、魔素増幅薬で無理矢理に魔素を大きくしたことによる副作用が原因だったはず。
 どうしてシャンさんにも似たような症状が出ているのだろか?
 それに……

「シャン様の邪魔は、させない……!」

「全員ここで、根絶やしにする……!」

 シャンさんだけじゃない。
 彼が率いていたはずの南部襲撃隊の魔術師たちも、全員同じように血眼になってこちらに迫って来ていた。
 全員が魔素増幅薬の影響を受けている? でもどうしてそんなことに?
 南部襲撃隊の魔術師全員で一斉摂取でもしたのだろうか?
 例の薬の恐ろしさはすでに国家魔術師たちの間でも共有されているはずなのに、そんな命知らずなことを南部襲撃隊のみんなが……?

「ウ……ガアアアァァァ!!!」

「――っ!?」

 暴走している魔術師が咆哮すると、詠唱も無しに右手から巨大な火球が飛び出して来た。
 あまりに唐突のことに皆の反応が遅れる。
 魔法で相殺する隙もないと思った私は、皆の盾になるように咄嗟に前へと出た。
 私は【ひと時の平和(イージス・フリーデ)】の効果で、魔法を無効化することができる。
 最適なその判断のおかげで、北部襲撃隊に迫っていた火球は私の体に触れた瞬間、煙のように消え去った。
 改めて南部襲撃隊から明確な敵意を感じ取り、北部襲撃隊の間に疑惑の空気が迸る。

「ど、どうして南部襲撃隊の方たちが、あんな風に……」

 ミルや他の魔術師たちもひどく困惑している。
 ミストラルの兵士たちも状況を呑み込めておらず戸惑っている。
 この場にいる誰も、現状については何もわかっていなかった。
 ただ一つ明確なのは、このままだと暴走した南部襲撃隊の魔術師たちに、一方的に攻撃されてしまうということだけ。

「シャン兄! みんな! いったいどうしたっていうんだ! しっかりしてくれ!」

 ヴェルジュさんのその叫びも意味をなさず、むしろシャンさんの怒りを駆り立てることにしかならなかった。

「ヴェルジュ、殺す……! 王になるのは、この俺だッ!!!」

 シャンさんは火炎の長剣を振り上げると、ミストラルの兵士たちの間を横切ってヴェルジュさんに斬りかかった。
 同時に南部襲撃隊の魔術師たちも、北部襲撃隊やミストラルの兵士たちを狙って魔法を放ってくる。

「みんな! 暴走した仲間たちを止めるんだ! 今の彼らにはこっちの声が届いていない!」

 それを皮切りに、北部襲撃隊と南部襲撃隊の望まぬ戦いが始まってしまった。
 標的がミストラルの兵士から一転して、南部襲撃隊の魔術師たちに変わる。
 私たちは暴走状態に陥っている彼らを無力化するべく、口早に魔法詠唱を始めた。
 地下迷宮の第三層――居住層にて、魔術師たちの詠唱句と魔法が飛び交う。
 その中で北部襲撃隊の国家魔術師たちが、苦しそうな顔をしながら毒吐いていた。

「シャン派の奴ら、まさかこの機に乗じてヴェルジュ派の俺らを……!」

「いくらあいつらでもそこまでやんねえだろ! つーか明らかに様子がおかしいじゃねえか!」

 確かミルの話によれば、ヴェルジュさんとシャンさんはあまり良好とは言えない間柄だと聞いた。
 二人は国家魔術師の術師序列で一位と二位であり、また第一王子と第二王子の関係性でもある。
 そして過去に術師序列によって王位継承順位がひっくり返ったこともあるそうなので、シャンさんが一方的にヴェルジュさんを敵視しているとのことだ。
 加えて二人が抱いている価値観にも大きな違いがあり、国家魔術師の間でもヴェルジュ派とシャン派に分かれていると聞いたことがある。
 そのヴェルジュ派で固まった北部襲撃隊と、シャン派で固まった南部襲撃隊。
 作戦前から冷ややかな目を向けられていて、派閥間の仲も良好とは言えなさそうだったけど、いくらなんでも命懸けの作戦中にその問題を持って来ることはしないだろう。
 極度の興奮状態に陥っていることからも、上の層で何かがあったのだ。
 これじゃあ作戦どころじゃないし、早く南部襲撃隊の魔術師たちを鎮めないと。

「【賽は投げられた――神の導き――恨むなら己の天命を恨め】――【運命の悪戯(フォル・トゥーナ)】!」

 私の指先から蛍のような黄色い光が放たれて、暴走する国家魔術師の一人に被弾する。
 その人は全身が痺れたかのように身が強張り、力なく地面に倒れた。
 だが、拘束魔法で身動きを封じたはずの魔術師の体から、まるで噴水のように魔法が溢れ続けている。
 この事象も魔素増幅薬で暴走していたマイスと同じ。
 体内の魔素を無理矢理に肥大化させている影響で、魔素が詠唱式句を聞くことなく無作為に魔法を乱発させているのだ。
 他の暴走魔術師も、北部襲撃隊の一員たちによって地面に倒されているが、依然として体から魔法が暴発している。

「だったら……!」

 兄のマイスを鎮めた時と、同じ手を使わせてもらう。
ひと時の平和(イージス・フリーデ)】の効果で魔法を無効化しながら、倒れている魔術師の元に駆け寄ると、すかさずその体に触れた。

「【虚ろな昼下がり――雲間から覗く陽光――わらべを微睡みに誘え】――【憩いの子守唄(ウルーズ・シエスタ)】!」

 瞬間、私の右手に青白い光が迸る。
 その光は対象者の全身をじわりと包み込み、溢れ出ていた魔法をピタリと止めた。
 十万回に一回の確率で、対象者の魔素を眠らせることで魔法を使えなくする魔法――【憩いの子守唄(ウルーズ・シエスタ)】。
 拘束魔法で肉体の動きそのものを止めても意味がない。
 であれば体内の魔素を直接眠らせて、魔法それ自体を使えなくさせてしまえばいい。
 この魔法はまだ力の加減が上手くできなくて、魔素を眠らせる時間の調整ができないけれど、この際贅沢は言っていられない。

「溢れ出ていた魔法が、止まった……?」

「君、今の魔法は……」

「私が彼らの魔法を止めます! 代わりに動きを封じてください!」

 詳しく説明している暇もないためそう言ったが、北部襲撃隊の魔術師たちは即座に頷いて行動してくれた。
 理解が早いというより、状況判断能力が高くて助かる。
 これでとりあえずは暴走魔術師たちをある程度は抑え込めるはず。
 しかし普通に身動きを封じるよりも、手順が一つ増えてしまったので、かなり時間がかかりそうだ。
 そもそも相手は国家魔術師。普通に無力化するだけでも一苦労なのに、さらに手間が多くなって皆は苦しそうな顔をしている。
 すでに北部襲撃隊の魔術師たちの中にも、負傷者や魔素切れを起こす人も出てきていた。

「シャン様こそ、次代の国王に相応しいお方だ……!」

「そもそも貴様らヴェルジュ派の考え自体が間違っているのだ……!」

「魔力値がなくともその人間に価値はある? そんなのはただの綺麗事に過ぎない!」

 まるでシャンさんの言葉を代弁するかのように、南部襲撃隊の魔術師たちが声を上げている。
 暴走によって、魔法だけではなく、胸に抱えていた不満まで思わずこぼれ出ているようだった。
 これが、シャン派の国家魔術師たちの総意。

「魔力値のない人間など無価値な存在だ! 生かしておいたところで何の意味もない」

「だというのにミストラルの連中を生かして捕らえろだと? 無意味なことばかり言いやがって」

 そんな不満を魔法と共にこちらに放って来る。
 ミストラル側への被害も抑えるべく、それらを丁寧に捌きながら魔術師たちを無力化していると、再びシャンさんが咆哮しながらヴェルジュさんに斬りかかった。
 ヴェルジュさんは対抗して水の剣で応戦し、二人は鍔迫り合いになる。

「やはりヴェルジュは王たる資格を持ち合わせていない。真に王に相応しいのはこのシャン・ギャランだッ!」

 王座への執着を見せるシャンさんに、派閥の魔術師たちは呼応するように奇声を上げていた。
 暴走によって滲み出てしまった心根の声。
 今それに答えたところで意味はないと、誰もが理解しているはずだったが……

「どうして、そうやって決めつけるばかりなんだ……」

 シャン派の考えが納得できないヴェルジュさんは、反射的に返していた。

「魔力値なんてただの数字でしかない。たとえ魔法が使えなくても、その人を必要としている人、その人にしかできないことっていうものが必ずあるんだ」

 魔力値こそすべてだと考えているシャン派。
 その現状の価値観を否定しているヴェルジュ派。
 どちらの考えが正しいのかを押しつけ合うのが戦争なのだとしたら、本来戦うべきはミストラルではなく偏った考えを持っている魔術師の方だったのかもしれない。
 そんな魔術師たちがいるせいで、魔力値が低いことを理由に淘汰されている人たちが確かにいるから。

「だから俺は術師序列一位の魔術師として、今の歪んでいる価値観を変えたいって思っているんだ。魔力値なんかなくても、一人一人には価値があるって」

 その言葉がミストラルの兵士たちにも響いているのか、彼らは静かにヴェルジュさんの声に耳を傾けていた。
 魔力値なんかなくても、一人一人には価値がある。
 術師序列一位の魔術師からそんな言葉を聞けただけで、私自身もなんだか救われた気持ちにさせられた。

「……術師序列一位の魔術師として、か。つくづく忌々しい奴だ」

 しかしシャンさんはその考えが気に入らないらしく、舌打ち交じりに毒吐いている。
 そして鍔迫り合いをしているヴェルジュさんを押し返すと、再び炎剣を振り回しながら奇声を上げた。

「言葉だけじゃ正気に戻らないことはもうわかったよ。だからすまないけど、ここからは少しだけ乱暴になる」

 ヴェルジュさんの目が僅かに細められると、優しげだった彼の雰囲気が氷のように冷たくなった。

「【両手は塞がった――不可視の懐――抱え切れない重荷を背負え】――【秘密の入れ物(エスパース・ポッシュ)】」

 そう唱えると、ヴェルジュさんの右手にほのかに青白い光が宿る。
 刹那、彼は地面を鋭く蹴り、炎剣を振り回すシャンさんの懐に潜り込んだ。
 身体強化魔法によって極限にまで高められた俊敏性。
 それを生かし、シャンさんに肉薄したヴェルジュさんは、青白い光を宿した右手を彼の腹部に押し当てた。

 瞬間、シャンさんの姿が視界から消える。

「えっ……」

 一瞬の出来事に、私は思わず戦いの手を止めて固まってしまった。
 同じく周りで戦っている魔術師たちも、驚愕の光景を目の当たりにして目を剥いている。
 人が消えた。ということ自体はさほど驚くようなことではない。
 他人にかける転移魔法というものも存在しているので、それを使えばシャンさんをどこかに飛ばすことも可能だ。
 だが、ヴェルジュさんが今使ったのは、皆もよく知っている『格納魔法』だったはず。
 魔力で別空間を生成し、そこに荷物を納めることができるという生活魔法の一種――【秘密の入れ物(エスパース・ポッシュ)】。
 魔法の中では初歩の初歩とも言えるほど、馴染み深い魔法のはずだけど……

「シャ、シャン様が、消えた……?」

「なんで格納魔法で、人が……」

 そう、格納魔法はあくまで荷物を納める魔法だ。
 無生物の小さな荷物を少量納めるだけの魔法で、生物まで格納することはできないはず。
 それなのにどうしてその魔法で、シャンさんは姿を消してしまったんだろう……?

「あっ、多重詠唱(スペル・アンサンブル)……」

 詠唱魔法と無詠唱魔法を同時に発動させることで、魔法の融合を可能にする絶技。
 魔力値に恵まれなかったヴェルジュ・ギャランという存在が、術師序列一位として君臨している何よりの所以。
 普通に格納魔法を使っただけに見えたけれど、実際は別の魔法と融合させて特殊な魔法に変化させていたのか。
 例えば転移魔法と組み合わせたのなら、格納魔法で生成した別空間に他人を転移させることもできるかも。
 本来は溢れた手荷物を格納することくらいしか用途がなかった格納魔法も、転移魔法と融合させることで人を閉じ込める『監獄魔法』へと昇華させることができる。
 これなら暴走していて手が付けられない魔術師たちも、たった一手で無力化することができる。
 作り出した空間でいくら暴れられようが、被害はまったく出ないから。

「人体格納は対象者の肉体にどのような影響が出るか、まだ正確には検証ができていない。魔素消費も著しいからあまり使いたくはなかったけど……」

 そうぼやいたヴェルジュさんは、続け様に手近にいた暴走者に右手で触れた。
 瞬間、先刻のシャンさんと同様に姿が消失する。
 また格納魔法によって一人の暴走者が、別空間という監獄へと送られたのだ。
 その後、ヴェルジュさんは瞬くような手際で、暴走者を次々と別空間へ送り込んでいった。
 やがて第三層の居住層から、暴走者の姿が一人残らず消え去る。
 ヴェルジュさんの活躍により、先刻の慌ただしさとは打って変わって、この場に安らぎの静寂が訪れた。

「……すごい」

 暴走者一人一人に別空間を用意し、強制転移まで行ったヴェルジュさん。
 さすがに疲弊したように、額に汗を滲ませているけれど、そんな彼の尽力によって死傷者を出さずに済んだ。
 怪我人などは多いけれど、幸いなことに大事には至っていない。
 これが術師序列一位の実力。暴走した国家魔術師の集団を、たった一人で無力化する圧倒的な存在。
 そんなヴェルジュさんの言葉がミストラルの兵士たちの心を動かしたのか、彼らも知らず知らずのうちに武器を下ろしていた。
 皆が呆然と立ち尽くす中、ヴェルジュさんがこちらを振り返り、安堵の表情を見せてくれる。

「みんな、これでもう大丈……」

 刹那――
 赤い影が、私たちの視界を横切った。

「――っ!?」

 その影は尋常ならざる速さでヴェルジュさんに肉薄する。
 直後、凄まじい轟音と共に、彼に強烈な一打を浴びせた。
 そのあまりの威力に、衝撃波が突風となってこちらまで吹き荒れて、同時にヴェルジュさんの体が岩壁の方まで吹き飛ばされる。

「ヴェルジュさん!」

 術師序列一位の魔術師は、赤い影の一撃によって意識を失っていた。
 衝撃的な光景に、全員は言葉を失くして唖然としている。
 高位魔法の連続発動による疲労が、彼の体力を削っていたのは事実だ。
 そのせいで反応まで鈍っていたのだろうけど、だからと言って不意を突かれるほど術師序列一位は甘くない。
 だというのにたった一撃で、事実上最強の魔術師を完全に沈めてしまった。

「味方同士で争ってくれて手間が省けたわ。本当に魔術師っていう存在は愚かね」

 この場に衝撃をもたらした恐るべき赤い影は、ゆっくりと私たちの方を振り返る。
 その正体は、私やミルとさほど歳が変わらないように見える、幼なげな顔の赤髪の少女だった。
 黒の上衣に控えめなマント。丈の短い黒スカートと膝上まである靴下。
 どことなく魔術学園の制服に近しい、黒を基調とした身軽そうな格好をしている。
 その装いに包まれた体躯は華奢で、あの体のどこから先ほどの凄まじい一撃が飛び出してきたのかと疑問符が浮かぶほどだった。

「な、何者なんだ、あの子は……」

「ヴェルジュ様を、一撃で……」

 全員、その場から一歩も動くことができなかった。
 あのヴェルジュ・ギャランという超常的な存在を、たった一撃で無力化してしまった脅威。
 目の前で見せられた凄まじい怪力と速さは、一言で言えば“異常”だった。
 彼女はいったい……

「どう、して……」

 ……その時。
 ただ一人、ゆっくりと赤髪の少女に近づいていく人物がいた。
 とても悲しげな表情で、つぶらな碧眼を潤ませながら、赤髪の少女のことを見つめている“青髪の少女”。

「ミル……?」

 その少女は、私の相棒であるミルティーユ・グラッセだった。
 誰もが動揺して身動きができない状況で、唯一ミルだけがおもむろに前の方へと歩いて行く。

「どうして、ですか……」

 そして、ミルは……

 今にも泣き出してしまいそうな悲痛な叫び声で、赤髪の少女に問いかけた。



「どうしてここにいるんですか、プラムちゃん!」



 プラム、ちゃん……?
 そう呼ばれた少女は、ミルの叫びに対して、舌打ち交じりに毒吐いた。

「誰のせいだと思ってんのよ、この疫病神が」

『またドジ踏んだのねあんた。相変わらずしょうがない子ね、ミルは』

 ミルの脳裏に幼い日の記憶が蘇る。
 故郷のオリヴィエの村で、同い年の少女と過ごしていた時の記憶。
 気弱な自分とは違って気が強く活発で、いつも姉のように自分の手を引いてくれた。
 自分の不幸に巻き込んでしまって以来、仲違いしてしまったけれど、今でも彼女のことは大切な幼馴染だと思っている。
 その少女の名前は、プラム・キュイール。

(嘘ならいいと思った。自分の勘違いだったらいいと……)

 魔術学園の内通者ヒィンベーレから得た情報で、ミストラルの構成員の素性はすでに明らかにされている。
 ミルはその中に見知った名前を見つけて、それが本当なのかどうか確かめるために今回の作戦に参加した。
 サチに対して、『ミストラルに少し“用”がある』と言ったのはそれが理由である。
 同名の別人であることを願ってここまでやって来たが……

 ミルのその願いはたった今、儚く散ることになった。

『あんたなんかと一緒にいなきゃよかった! もう二度と私の前に現れるんじゃないわよこの疫病神!』

 間違いない。自分の視線の先に立っている赤髪の少女は、幼馴染のプラムだ。
 彼女は自分の知らないところで、いつの間にかミストラルの一員になっていたらしい。
 ヴェルジュを容赦なく吹き飛ばしたところを見せられて、いよいよそれが確信へと変わった。
 数多くの疑問符が、自然と脳内を埋め尽くす。

「どうして私がここにいるのか不思議に思ってるみたいだけど、それはあんたが一番よくわかってるでしょ、ミル」

「えっ……?」

「まあいいわ、とりあえずあんたは後回し。それよりもまずは……」

 その時、傍らに立っていた国家魔術師たちが、唐突に飛び出した。

「よくもヴェルジュ様を!」

「即刻そいつを捕らえろ!」

 崇拝しているヴェルジュが倒されたことで、多くの術師たちが激昂していた。
 身体強化魔法による俊足で、元凶であるプラムの元へ駆けて行く。
 だが……

「――っ!?」

 瞬き一つの間に、プラムが皆の視界から消え去った。
 直後、飛び出して行った一人の国家魔術師が、強烈な衝撃を浴びて後方へと吹き飛ぶ。
 釣られてそちらに視線をやっている間に、また一人の国家魔術師が吹き飛んで、立て続けに仲間たちがやられていった。
 やがて飛び出した十数名の魔術師たちが意識を奪われると、それを成した少女が音も無く元の場所へと戻って来る。

(……速い。それも規格外に)

 身体強化魔法を使った国家魔術師を、軽く凌駕するほどの素早さ。
 加えて魔法によって頑強になっているはずの彼らを、一撃で無力化してしまうほどの膂力。
 国家魔術師たちが先の戦いで消耗していたからと言って、もはやそれが関係ないほど圧倒されていた。

「そんなボロボロの体で私に勝てると思ったの? どこまでも愚かな連中ね」

 脅威的な強さを目の当たりにさせられて、国家魔術師たちの間に絶望感が迸る。
 下手に動けば今のように瞬く間に倒されてしまうと思い、皆はその場で立ち止まることしかできなかった。
 ヴェルジュ・ギャランが万全の状態でこの場にいれば、と思わずにはいられない。

「ヴェルジュ・ギャラン。さすがに真っ向から勝負するのは厄介な相手だったから、兄との歪な関係を利用させてもらったわよ。おかげで派閥の連中も消耗させることができたし、本当に正解だったわね」

 そんなプラムの呟きに、北部襲撃隊の魔術師たちがハッと息を呑む。

「まさか、我々に南部襲撃隊をけしかけたのは……」

「すべて、貴様の仕業だったのか……!」

「この状況でそれ以外に何が考えられるのよ? あいつらの異常な様子、あんたらも見たでしょ」

 プラムは肩をすくめながら嘲笑を浮かべる。

「第一王子のシャン・ギャランが、術師序列のせいで王座が危ぶまれてるのは知ってたから、魔素増幅薬を無理矢理に飲ませて暴走を引き起こしたのよ。そしたら予想通り、目の敵にしてる第二王子派の連中に襲いかかって行って傑作だったわ」

「……っ!」

 その事実を受けて国家魔術師たちは怒りを抱く。
 やはりあの異常な様子は、魔素増幅薬による暴走状態だったのだ。
 しかもそれをけしかけたのは、目の前にいるプラム。
 南部襲撃隊の魔術師たちに無理矢理に薬を服用させて、強引に暴走を引き起こした。
 既出の情報によれば、服用者は感情に左右されて暴走を加速させるとのことらしく、マロンを襲ったマイス・グラシエールも、彼女の存在を邪魔だと思っていてそれが暴走の火種になった。
 第一王子派が第二王子派を過剰に敵視していることを、プラムに上手く利用されて同士討ちを強制させられたらしい。

「ふ、ふざけたことを……!」

 不本意な争いを強いられたことで、皆は憤りを見せている。
 シャン派の魔術師たちと対立していたのは事実だが、第三者によって争いを引き起こされたというのは許されないこと。
 そのため先刻の魔術師たちと同様に、怒りに任せて攻撃してしまいそうになっていたが、プラムに一瞥されて身を強張らせた。
 ここから動くことができない。どこから攻めればいいかわからない。
 無闇に手を出したら、その瞬間に首を落とされてもおかしくない状況だ。

(プラムちゃんのあの強さは、いったい……)

 プラムは貴族の血筋で、将来は国家魔術師になるという夢を持っていた。
 幼い頃から魔法についての勉学も行なっていたが、ミルが引き寄せてしまった魔獣の毒液を浴びて魔素不全に陥った。
 魔素が麻痺して正常な働きをせず、魔法が使えない身になったはずだが、彼女は国家魔術師を圧倒するほどの身体能力を見せている。
 あれだけの動きを実現するには、身体強化魔法を施す以外に方法はないはず。
 しかし魔法を使えないプラムがどうやって……? まさか素の身体能力であれほどの力を……?

「くだらないお喋りはもういいわ。ほらあんたたち、さっさとその術師序列一位を殺しなさい」

「……」

 ヴェルジュさんの近くに立っているミストラルの兵士たちに、プラムは指示を送る。
 それを受けた彼らは、戸惑ったように顔を見合わせた。
 直後、こちらも驚きの返答が飛び出してくる。

「で、できない」

「はっ?」

「この人を殺すことはできない」

「……いったいどういうつもりかしら?」

 プラムとミストラルの間に、強い緊張感が走る。

「この人は、魔力値のない人間にも価値があると言ってくれた。それにこの人たちは、こんな俺たちを庇いながら戦ってくれたんだ……!」

「魔術師は憎いし、魔術国家は嫌いだ。でも、この人たちに刃を向けることはもうできない」

 思わぬ改心に、プラムのみならず国家魔術師たちも言葉を失う。
 先ほどまでの戦いは、無駄じゃなかったのだ。
 ヴェルジュがかけた言葉は、ちゃんと彼らの心に届いていたのだ。
 今の国家は偏った考えを持っている。しかしそれを否定する魔術師たちも大勢いる。
 そしてヴェルジュ・ギャランという存在が、今の魔術国家を変えてくれると信じてくれたのだ。

「ヴェルジュ・ギャランが王になれば、今の間違った価値観を正してくれる……!」

「俺たちが戦う必要はもう無くなったんだ! ヴェルジュ・ギャランが俺たちの前で、王を目指すと宣言してくれたから……」

 ――刹那。
 ドゴッ!
 ミストラルの兵士の一人に、拳大の岩が投げつけられた。
 それは額に直撃し、鈍い音を響かせながら空中で砕け散る。

「あっ……があっ……!」

「寝ぼけてるみたいだから、ちょうどいい目覚ましになったでしょう?」

 プラムはいつの間にか拾い上げていた岩を投げつけたようで、兵士は額から血を滲ませていた。
 それに憤りを覚えて兵士たちはプラムを睨みつけるが、それ以上に鋭い眼光を返される。

「魔術師連中の言うことに耳を傾けてんじゃないわよ。この世界はアリメント様の言うことがすべて。魔法に縋って生きる魔術師は一匹残らず根絶やしにするのよ」

 プラムはさらに目を細めると、眼光と共に殺気を放った。

「ミストラルの意思を忘れたとは言わせないわよ。それとも忘れてるようなら、思い出すまで殴り続けた方がいいかしら?」

 脅迫とも取れるそんな言葉を聞き、兵士たちはぐっと息を詰まらせる。
 彼らもプラムの実力を重々承知しているようで、強く言い返せない立場のようだ。
 ミストラル内に明確な階級などはないと聞いているが、この様子を見るにプラムが事実上の戦力トップということらしい。
 それでも、ミストラルの兵士たちは……

 希望の光であるヴェルジュ・ギャランを庇うように、プラムの前に立ち塞がった。

「……そう、それがあんたたちの答えってわけね」

 まるで想定していなかった反乱が起こり、プラムの額に青筋が走る。
 瞬間、彼女の全身から凄まじい殺気が迸り、寒気にも似た緊張感がこの場を満たした。

「なら、全員ここで死になさい……!」

 その声と共に、プラムが一歩を踏み出しかけた、その時――

「【運命の悪戯(フォル・トゥーナ)】!」

「――っ!?」

 いつの間にか詠唱を終えていたサチが、唐突にプラムに迫って行った。
 確実に魔法を当てるために、プラムの方へと接近し、光る右手を限界まで伸ばす。
 プラムが動き出すより早く、拘束魔法をかけるつもり、だったようだが……

 プラムの超人的な反応が、僅かにサチの動きを上回った。

 サチの右手から放たれた光球は、紙一重でプラムに回避される。
 それによってプラムの頬に笑みが滲みかけるが、サチはそれだけで止まらない。
 走り出した勢いのままに、プラムに蹴りを繰り出した。
 続け様に放たれた二撃目が、今度こそ確実にプラムを捉える。

「ぐっ……!」

 サチの神速の蹴りが、プラムを彼方まで吹き飛ばす。
 それによって生まれた一瞬の隙に、サチが声を張り上げた。

「全員上層に逃げて!」

「……サチさん」

「私が食い止めてる間に早く!」

 サチのその判断は正しいと言える。
 現状、プラムに勝てる手段はおそらくない。
 唯一その可能性を持っていたのがサチくらいだったが、先刻の不意打ちを回避された時点で希望は潰えた。
 あのサチですら捉え切ることができない強敵。
 加えて国家魔術師たちも激しく消耗している。
 ここにいれば全員が殺されることになり、こちらには逃亡という選択肢しか残されていなかった。

 その足止めをサチが務めるのも最適解だと言えるだろう。
 彼女は他の魔術師たちと違って、確率魔法の【星の巡り合わせ(ソルス・エトワール)】で魔素消費をせずに魔法を使える。
 そのため襲撃隊の中で最も魔素の余力が残されており、【ひと時の平和(イージス・フリーデ)】の効果もあって無傷で済んでいる。
 彼女以外、プラムを食い止められる人物はここにいなかった。
 サチもそれを理解して、自ら足止めを買って出たということである。

「――っ!」

 国家魔術師たちは一瞬だけ唇を噛んだが、すぐに後ろを振り返って出口を目指し始めた。
 ここはサチに任せるしかないと判断したのだろう。
 ヴェルジュと同様、傷付いて倒れている仲間たちも大勢いて、このまま戦闘に入れば確実に巻き込んでしまう。
 複数の犠牲者を出さないためにも、国家魔術師たちは倒れている仲間たちを背負って後方へと駆け出した。
 同じくプラムに排除宣告をされたミストラルの兵士たちも、慌てて国家魔術師たちの後に続く。

「そう簡単に逃げられると思って……!」

 逃亡を図る標的たちを追いかけようとしたプラムだが、その前にサチが立ち塞がる。
 邪魔だと言わんばかりに拳を振るったプラムだが、サチはプラムのその一撃を片手で防いだ。
 確率魔法の【火事場の馬鹿力(グラン・ディール)】によって底上げされた身体能力が目覚ましい。
 しかしプラムの力も凄まじく、何より戦闘技術の面で大きな差があるため、サチは次第に近接格闘で押され始めてしまった。
 確率魔法を発動させようにも、プラムが執拗に詰めてくるためその隙を与えてもらえない。
 魔術師の潰し方を、完璧に心得ている者の動き方。

(それでしたら……!)

 ミルは横を走り抜けて行く魔術師たちとすれ違いながら、サチとプラムを目指して駆け出した。

「【降り積もる白雪――純白の花壇――氷雪の底から咲き誇れ】――【氷華の薔薇(ローズド・ノエル)】!」

 ミルがかざした小杖(ワンド)の先に、水色の魔法陣が展開される。
 そこから蛇のように氷の蔓が伸びて、サチの脇を通り抜けながらプラムに襲いかかった。
 ミルの接近に気が付いていたプラムは、すかさず後退して危なげなく躱す。
 一方でサチはミルが来たことに驚いたのか、意外そうな顔でこちらを振り向いた。

「ミル!? ミルも早くここから――!」

「私にはまだ、やるべきことがあります……!」

 皆と一緒にここから逃げて、一度体制を立て直すのが先決だとは思った。
 けれど彼女を前にして、黙って立ち去ることなんかできない。
 大切な幼馴染を前にして……

「いい度胸じゃない。あんたは最後に回したかったけど、そんなに死にたいなら今ここで楽にしてやるわ」

 哀しき戦いが始まる。

「賽は投げられた……」

 サチが詠唱を始めた瞬間、プラムが視界から消えた。
 プラムは一瞬にしてサチの目前まで迫ると、詠唱途中の彼女に攻撃を仕掛ける。
 サチは慌てて飛び退いたことで不意の一撃を回避できたが、魔法詠唱を中断させられてしまった。

「降り積もる白雪……」

 続けてミルが詠唱を開始する。
 だが、またしてもプラムはその声に反応し、詠唱を中断するかのように高速で仕掛けて来た。

「うっ……!」

 プラムの神速の蹴りがミルの脇腹を的確に捉える。
 魔力値350からなる凄まじい身体強化魔法によって、ミルの肉体は限界を超越している。
 だがその魔法効果を持ってしても、プラムの破壊的な一撃を耐え切ることはできなかった。

「ミル!」

「だい、じょうぶです……!」

 なんとか立ち上がったミルを見ながら、プラムは嘲笑を浮かべる。

「さすがに硬いわね。靴の仕込み刃でも薄皮一枚切れないなんて。だったらこのままなぶり殺しにしてあげる」

 プラムはそう言って拳を握り込んで接近して来た。
 息つく暇もない猛攻に、サチとミルは苦しそうに顔をしかめる。
 詠唱の隙をまったく与えてもらえない。
 こちらに魔法を使わせないつもりのようだ。
 詠唱を始めようとした瞬間に、一瞬で距離を詰めて攻撃を浴びせてくる。
 どれだけ小さな声で唱えようとしても、人並み外れた聴覚で聞き取られて勘づかれてしまう。

 詠唱を中断させられるのは非常に厄介だ。
 魔術師の弱点の一つでもある。
 しかしこうして交互に詠唱を見せることで、プラムの攻撃の手も分散しているように見える。
 おかげで自分たちは決定的な一打をもらわずに済んでおり、図らずも拮抗した状態になっていた。
 どちらかの集中力が切れれば終わりを告げてしまうほど脆弱な拮抗。
 詠唱が遅れて味方の一人がやられるかもしれないサチとミル。
 対処が遅れてどちらかに魔法を撃たれるかもしれないプラム。

 その張り詰めた状況に終止符を打ったのは、サチだった。

「賽は投げられた……」

「馬鹿ね、何度やっても同じこ……!」

 詠唱が聞こえた瞬間、プラムがすかさずサチの方へ駆け出すが……
 サチもまた、同じタイミングでプラムの方に飛び出していた。

「――っ!?」

 サチの想定外の動きに反応が遅れて、プラムは腹部に強烈な体当たりを食らう。
 詠唱をすると見せかけた不意打ち。
 詠唱中の魔術師は完全無防備な状態。
 そのため一気に距離を詰めて叩くのが定石となっている。
 サチはその定石を逆手に取り、詠唱の一句目を聞かせてプラムの攻撃を誘ったのだ。

「チッ……!」

 サチに肩からぶつかられたプラムは、その衝撃で後方へと吹き飛んだ。
 これで距離が取れて、自由に詠唱することができる。
 当然それがわかっているサチは、すかさず詠唱を始めようとするが……

「なっ――!?」

 吹き飛ばされている途中のプラムが、信じられないことに空中で体勢を整えた。
 並外れた筋力と体幹による超人的な技。
 そのまま両足を地面に突き刺すように着地し、勢いを殺したのち地面を蹴飛ばす。
 結果、吹き飛ばされてからものの三秒ほどで、サチの目の前まで戻って来た。

「うぐっ……!」

 再びプラムに殴打されたサチは、詠唱を中断させられて後退する。
 その間にミルもプラムから距離を取って詠唱を始めようとしていたが、相手に睨まれたことで声を出すことができなかった。
 詠唱の一句目で、確実に距離を詰められてまた妨害される。

(……強い)

 この圧倒的な強さの正体はいったいなんなのか。
 あのサチと二人がかりでも無力化ができないほどの相手。
 それだけプラムが異質な存在ということ。
 サチは魔獣や魔術師に対しての戦闘なら“無敵”の強さを発揮する。
 魔獣を一撃で即死させられる確率魔法――【悪魔の知らせ(デス・ノーティス)】。
 害意ある魔法を無効化することができる確率魔法――【ひと時の平和(イージス・フリーデ)】。
 これらの力で魔獣や魔術師を一切寄せつけないのがサチの強さだが、非魔術師に対しては効果がない。

 即死魔法で殺してしまうわけにもいかず、魔法に頼ることなく積極的に近接戦闘も仕掛けて来る。
 加えてプラムの場合は【火事場の馬鹿力(グラン・ディール)】による身体強化も通用せず、向こうは魔術師の弱点を的確に突くように常に動き回っている。
 ずっと息苦しさを覚えさせられるほど洗練された立ち回りをしていた。
 まるで魔術師を殺すためだけに培われたような技術の数々。

「どうして、ですか……」

 自ずとミルの口から疑問が溢れ出してくる。
 これほどまでに技術を研ぎ澄ませるなんて、並の熱量では決してできない。
 だというのにここまで魔術師を殺す技を体得しているのは、それだけ魔術師に対して大きな憎しみを抱えているということ。
 反魔術結社ミストラルにその身を置いていることからも、彼女が抱えている恨みは尋常ではないとわかった。

「どうして、そんな風に……」

 だからこそ知らず知らずのうちに疑問が溢れてしまったが、それを聞いたプラムは呆れるように肩をすくめた。

「あんた、本気で言ってるつもり?」

「えっ……?」

「私がこんな風になった理由なんか、わかり切ってることじゃない」

 プラムの額に青筋が走ると、強烈な怒号が居住層に響き渡った。

「他の誰でもないあんたのせいよ! あんたのせいで私はこんな風になったんじゃない!」

「……」

 ミルは驚いたように目を見開く。
 そんな彼女に、プラムは抱えていた怒りをぶつけるかのように続けた。

「忘れたとは言わせないわよ。私はあんたの不幸に巻き込まれて魔法を使えない体にされた。国家魔術師になるっていう夢も奪われて、周りからも馬鹿にされるようになった」

 幼い頃、森で一緒に遊んでいる時に、不運にも魔獣に襲われた。
 その魔獣の毒液には魔素を麻痺させる効力があり、それを大量に受けたプラムは魔法が使えない状態に陥ってしまった。
 領主の一人娘として生まれた彼女には、貴族の血筋らしく魔法の才があり、将来は国家魔術師になると語っていた。
 魔法が使えなくなってしまったプラムは、国家魔術師になるという夢を諦めざるを得なかった。
 恨まれていても不思議はないと、ミルは改めて思う。
 加えてもう一つの弊害が、プラムの心をさらに歪ませていた。

「魔法が使えなくなった私に興味を示す奴なんていなかったわ。社交会でも魔法が使えないことをからかわれたり、親しくしてた連中からは虐げられるようになった。家族だって私に何も期待しなくなって、心の底から魔力至上主義のこの世の中を呪ったわ」

 十歳前後の少女が歪んだ精神を抱いてしまうには、充分すぎる理由だった。

「だから私は、アリメント様に誘われてミストラルに入った。それから魔術師を根絶やしにすることだけを考えて、奴らを殺すための体技を貪り尽くすように体得していった。果てには魔道具で体の改造までして……全部全部、あんたと一緒にいたのが原因なのよ!」

 それこそがプラムの強さの秘密。
 魔術師に対する底知れない恨みが原動力となり、彼女をここまで強くさせてしまったのだ。
 それを引き起こしてしまった起源が自分にあるとわかって、ミルは罪悪感を滲ませる。
 その時……

「ミルは何も悪くないよ」

「……サチ、さん?」

 隣で話を聞いていた相棒が、慰めの言葉をかけてくれた。

「何よあんた? ていうか今さらだけど誰よ?」

「私は同じ魔術学園に通ってるクラスメイトで、ミルの“相棒”だよ」

「……魔術学園?」

 プラムがさらに鋭くミルを睨みつけて、怒りが増したのが伝わってくる。

「そういえばあんた魔術学園にも入学したみたいね。国家魔術師になるっていう私の夢を奪っておいて、自分は何食わぬ顔で魔術学園でお勉強中なんていい御身分じゃない。私への嫌がらせのつもり?」

「ち、違います! 私はそんなつもりは……!」

 そこにサチが、庇うような言葉を挟む。

「ミルは病気のお母さんのために国家魔術師を目指してるんだよ。誰かの嫌がらせなんてする子じゃない」

「……あんたに聞いてるわけじゃないんだけど」

「それに、前にミルが教えてくれた。魔術学園に入学した理由が、もう一つあるって」

「はっ?」

 不機嫌そうに顔をしかめるプラムに、サチはミルから聞いたことを話す。

「昔、不幸に巻き込んじゃった幼馴染を助けたくて、その子の治療方法を探すために国家魔術師になりたいんだって。それって、あなたのことでしょ」

「……」

 プラムは驚愕の表情をあらわにする。
 次いでおもむろにミルの方に視線をやると、ミルは弱々しい声音で明かした。

「国家魔術師になれば、莫大な研究費の他に設備や情報などが提供されます。それによって様々な研究が自由にできるようになるので、その中でプラムちゃんの魔素を治す方法を見つけられたらいいと思って……」

「……今さら綺麗事言ってんじゃないわよ。それであんたのことを許すとでも思った?」

「許してもらいたくて、治療方法を探しているわけではありません。私はただ、不幸に巻き込んでしまった償いだけは、するべきだと思って……」

 プラムが驚いたように固まっているのも当然である。
 ミルは自分のことなんかとっくに忘れていると思っていたから。
 絶縁した幼馴染のことなんか気に掛けておらず、今は呑気に学園生活を謳歌していると。

「……信じられるわけないでしょ、そんなこと。そもそも国家魔術師の研究程度で、これの治療方法なんか見つかるわけがないじゃない。実際あんたたちは“魔素収縮具”に対して何もできてなかったんだから」

「魔素、収縮具……?」

 なぜ今ここで魔素収縮具の話が出たのか、ミルは疑問に思った。

「魔素収縮具はあの時の魔獣の毒液を元に開発されたのよ」

「えっ……?」

「その対処ができてなかったことが、国家魔術師の研究が無意味っていう証拠に他ならないじゃない。私のこの体を治す方法なんてあるわけないのよ!」

 魔素の異常を治すことができる医療は、現在存在しない。
 また治癒魔法も効果がないことが判明している。
 あのサチの完全治癒魔法でさえ、魔素に起こった異常を治すことはできなかったのだから。
 期末試験の際、ミルは魔素収縮具の影響を受けた状態で、サチに完全治癒魔法を掛けてもらった。
 その時は体の怪我は治ったけれど、魔素に発生した異常までは治らなかった。
 それほどまでに体内に宿っている魔素に、人が干渉する術はないということ。

「だから私は、魔法にばかり縋る魔術国家そのものを滅ぼす。アリメント様と共に憎い魔術師たちに報復を与えて、自分の存在価値を証明する!」

 プラムの固い決意が揺らぐことはなかった。
 それがわかり、ミルは改めて強い気持ちを抱く。
 ここで今、プラムを止めなければ、きっと彼女はこれから先大勢の魔術師を殺してしまう。
 自分の中ではいまだに大切な幼馴染で、敬愛する姉のような存在のプラムに、そんなことをさせるわけにはいかない。

(ここで絶対に、プラムちゃんを食い止めてみせます……!)

 その気持ちを拒絶するかのように、プラムが再び動き出した。

「――っ!」

 瞬く間の接近に、サチとミルは驚いて身を強張らせる。
 決して油断していたわけではない。
 むしろ常にプラムの一挙手一投足を警戒していた。
 だがそれ以上にプラムの所作に無駄がなく、初動を感知することができなかった。
 プラムの怒りが、先刻の会話によって膨張したせいか、手刀の矛先がミルの喉元に迫る。

「ミル!」

 そこにサチが間一髪で動き出し、ミルとプラムの間に咄嗟に割り込んだ。
 反応が遅れたため、かなり不恰好な体勢でミルを庇うことになる。
 その隙を、プラムは見逃さない。

「フフッ」

 一瞬、頬に不気味な笑みを滲ませるプラム。
 彼女は懐から、一枚の“札”を取り出した。
 その札を、隙を見せているサチの胸元に強く押し当てる。

「――っ!?」

 刹那……
 ミルの目の前に立っていたサチが、唐突に姿を消した(・・・・・)

「サチ、さん……?」

 代わりに目の前には、一層不敵に微笑むプラムの姿が……

「これでもう、邪魔者はいなくなったわ」

 突然の相棒の消失。
 その事実にミルは戸惑いを隠せない。
 激しい喪失感と不安で狼狽える中、プラムが目の前で呟いた。

「できればあいつも自分の手で殺りたかったけど、もう時間は掛けていられないものね」

「サ、サチさんをどこにやったんですか!?」

 懐から取り出した妙な札。
 それを貼り付けられたことで、サチは姿を消してしまった。
 あれはおそらく何らかの魔道具で、対象者を強制的に転移させる効果があったのだろう。
 魔法を無効化できるサチでも、魔道具の効果までは無効化することができないから。
 そこまでのミルの予想は正しく、彼女に過剰な絶望感を与えるために、プラムはあえて明かした。

「あんたの大切なお友達だったら、じきに溺れ死ぬんじゃないかしら?」

「溺れ、死ぬ……?」

「第四層の貯蔵層、その一角にある貯水部屋に直接転移させたのよ」

 貯水部屋。
 それはまずいとミルは背筋を凍えさせる。
 最も有名だと言える、魔術師の最大の弱点。
 それが“水中”。

 魔術師の基礎を支えているのは、言わずもがな魔法だ。
 そしてその魔法の発動には式句の“詠唱”が必須になる。
 体内に宿っている魔素に、詠唱という形で命令を聞かせることで超常的な現象を引き起こさせる技法――それこそが魔法。
 そのため魔術師にとって詠唱は生命線のようなものであり、先ほどからプラムはその詠唱を阻止するようにこちらに攻撃を仕掛けて来ていた。
 それほどまでに重要な詠唱を、水中では絶対に行うことができない。

(このままでは、サチさんが……!)

 水の牢獄に囚われたまま、プラムの言う通り溺死することになってしまう。

「一度しか使えない手をあいつにくれてやるのは癪だったけど、これでじっくりあんたをなぶり殺せる。私の恨みの丈がどれだけのものか、その身にわからせてやるわ……!」

 拳を握り込んだプラムが、いまだに狼狽えているミルに迫る。
 すかさずミルは飛び退るが、プラムはすぐに反応してミルとの距離を詰めた。

「うっ……!」

 ミルの頬に、プラムの容赦ない一撃が浴びせられる。
 衝撃で吹き飛んだミルは、痛みで苦しみながらもすぐに詠唱を始めようとした。
 だが、プラムがそれを許すはずもなく、執拗に肉薄して拳を食らわせて来る。

(詠唱する暇も、距離を取る余裕も、ありません……!)

 先ほどまでサチと二人で応対していて、プラムの注意が上手く分散していた。
 しかし今はたった一人でプラムと対峙しているため、攻撃はすべてこちらに向けられている。
 詠唱どころか、息吐く間もなかった。

(こんなの、どうやって勝てば……)

 プラムに転がされ続けて、ミルはボロボロの姿になっていた。
 体を支える両足も震えていて、まともに立つこともままならなくなっている。

「はぁ……はぁ……!」

「……無様ね。自分がどれだけの罪を犯したのか、今一度理解できたでしょう?」

 ミルは体の痛みで涙を滲ませながら、静かに唇を噛み締める。

(プラムちゃんに、勝てるわけありません……)

 改めてそう感じてしまう。
 たった今、目の前に立っている人は、かつて自分が憧れていた高嶺の人物だ。
 昔から何をやっても、自分よりすごい人だった。
 いつも姉のように、自分のことを引っ張ってくれた。
 泣いている自分を慰めてくれて、落ち込んでいる時に励ましてくれて、自分の支えとなっていた偉大な存在。

(そんな人に、勝てるわけありません。私はいつまで経っても、誰かの後ろで怯えているだけの、弱虫ミルなんですから……)

 結局一人では何もできない無力感。
 姉のような存在のプラムに圧倒されたことで、ミルは改めて出来損ないの妹なのだと痛感させられた。
 涙を滲ませていた瞳から、一粒の雫が静かに落ちる。

『うーん……ま、何とかなるでしょ。たぶん』

 その時……
 脳裏に、相棒の笑顔が浮かんできた。

『絶対にあいつに頭を下げさせる。ミルの悔しい気持ちを、私が代わりにぶつけてくるからさ、だから安心してここで見ててよ』

 魔術学園の入学当初、同学年の貴族の令息と一悶着があった。
 ミルが大切にしていたペンダントを壊されて、それに怒ったサチが代わりに令息と模擬戦をすることになったのだ。
 相手は魔術師の名家の生まれ。勝てる見込みはほとんどない。
 誰もがそう思っていたが、それでもサチは友達であるミルのために戦うことを選択した。
 結果、圧倒的なまでの実力差を示して、サチが勝利を掴み取った。
 あの時初めて、ミルはサチに対して強い憧れを抱いた。

(サチさんだったら、こんなところで諦めたりしません……!)

 たとえどんなに劣勢でも、あの人は諦めることはしなかった。
 常に笑顔でこちらにも元気を振り撒いてくれた。
 戦い続けることの大切さを教えてくれた。
 あの人のように強くなりたい。
 これまで何度も何度もそう思った。
 だから、ここで諦めるわけにはいかない。

(私の“今の憧れ”は、あの人なんです!)

 かつての憧れに囚われるのは、もうやめる。
 自分は出来損ないの妹なんかじゃない。
 王立ハーベスト魔術学園、一学年特待生の……“魔術師ミル”だ。

 ミルは瞳に闘志の炎を蘇らせて、小杖(ワンド)を構えた。

「喧騒で満ちている……!」

「だから――!」

 詠唱を始めた瞬間、またしてもプラムが高速で接近して来た。
 鋭い蹴りが飛んで来て、ミルは腹部を殴打されて吹き飛んでしまう。

「詠唱する隙は与えないって、さっきから言ってるでしょ」

「うっ……くっ……!」

 それでも、ミルは立ち上がり、唇を走らせる。

「喧騒で、満ちている……!」

「だから無駄って言ってるでしょ!」

 プラムも当然、好き勝手に詠唱させるはずもなく、常に距離を詰めて攻撃を仕掛けて来た。
 殴られ、蹴られ、転ばされても、それでもミルは立ち上がり続ける。

(諦めては、いけません……! 考えることを、やめてはいけません……!)

 プラムに勝つための方法が、必ずどこかに存在しているはず。
 これまで学んできたこと、培ってきたこと、見てきたこと、その中に答えがあるはずだ。
 ミルは思考を巡らせる。
 プラムが超人的な速度で詰めて来て、詠唱をする暇がない。
 向こうは完全に魔術師の潰し方を心得ている。
 それなら……

『あいつが教わってきたのは“普通の魔術師”を倒すための方法でしょ。私、“普通の魔術師”じゃないからさ』

 自分も、普通の魔術師から脱却すればいい。
 憧れのあの人が、規格外の魔術師であるのと同じように。
 新しい強さへ、限界のその先へ、この手を伸ばせ……!

「どれだけ足掻いたところで、あんたじゃ私に勝てないのよ! いい加減死になさいミル!」

 ミルが力尽きる寸前だとわかり、プラムが全力の拳を振りかぶった。
 最後の一撃を前に、ミルはボロボロの姿で杖を構える。

(ちゃんと、見てました) 

 諦めない気持ちが、杖の先に光を灯す。



「【凍てつく大地(ニブル・ヘイム)】!」



「――っ!?」

 杖の先に水色の魔法陣が展開されて、激しい冷気が迸った。
 それは這うように地面を凍りつかせる。
 瞬くような速度で広がった冷気は、あのプラムにさえ反応の余地を与えることをしなかった。

「くっ――!」

 眼前まで接近していたプラムは、予想外の反撃によって足元を凍結させられる。
 氷はそのまま駆け上るように全身を伝い、一瞬にして首から下を分厚い氷で覆ってしまった。
 プラムは手も足も動かせない。

「な、なんであんた、“詠唱無し”で……!? ま、まさか……!」

 プラムの目が大きく見開かれる。
 口による詠唱をせず、ミルは高速で魔法を放ってきた。
 その人智を超越した技法を、プラムは知っている。

「やってみるものですね…………無詠唱魔法(・・・・・)

 プラムが距離を詰めて来て、魔法詠唱を妨害して来る。
 それならば単純な話、その詠唱を介さず魔法を放ってしまえばいいのだ。
 詠唱式句を口ではなく、脳内から直接魔素に伝えて魔法を発動する。
 そうすることで通常とは比べ物にならない速度で魔法を放つことができる技。
 それこそが、『無詠唱魔法』。

 星華祭の時、三学年特待生のクロスグリ・トラヴァイエが使っているのを見た。
 討伐作戦の間、術師序列一位のヴェルジュ・ギャランが使っているのも見た。
 見て、学んだことを、ミルは土壇場のこの状況で完璧に模倣してみせたのだ。
 魔力値350の超威力の氷結魔法を、詠唱無しの超速度で放つ存在。
 この瞬間、ミルもまた、紛うことなき規格外の魔術師へと昇華した。

「私の勝ちです、プラムちゃん」

「……」

 臆病で、泣き虫で、誰かの背中に隠れるだけだった少女は……かつての憧れを超えていく。

「ミル!」

 プラムを拘束した直後。
 第四層の貯水部屋に転移させられたはずのサチが、唐突に何もない空間から現れた。
 ミルは今まさにサチのことを助けに行こうとしていたため、彼女の登場に驚愕を示す。

「サ、サチさん!? 貯水部屋に閉じ込められたはずじゃ……」

「なんか水の中で暴れまくったら天井が崩れたんだ。それで息できるようになったから、無作為転移魔法で戻って来たの」

 よく見ると、サチは全身がびしょ濡れになっていた。
 銀髪や学生服から水が滴り、居住層に漂う冷気を浴びて『さぶっ!』と思わず呟いている。
 凍結させられているプラムも、サチの存命に驚いた表情で固まっており、それを横目にミルは安堵の息を吐き出した。

「たまたま天井が崩れるなんて、相変わらず“運がいい”ですね」

「でもかなり水飲んじゃったから、すぐに魔法詠唱できなかったんだよ。ミルが危ないから、早く戻りたいって思ったのに」

 そう言ったサチは、氷漬けにされているプラムを見て、同じく安堵の息を吐く。

「まあ、その心配はいらなかったみたいだね。ミル、一人で勝ったんだ」

「……はい」

 改めて成長した実感が湧いてきて、ミルは思わず綻ぶ。
 一方でサチは傷だらけになっているミルを見て、すかさず完全治癒魔法を使った。
 少し背の低い青髪に手を置いて、治癒効果によって傷を癒す。
 まるで、妹を褒める姉のように。
 そうしている最中、氷漬けにされているプラムが身をよじりながら拘束を解こうとしていた。

「クソッ……! クソッ……! こんなもので、私は……!」

「……」

 首から上だけしか動かせないプラムを見ながら、ミルは冷静な声を掛ける。

「プラムちゃん、大人しく投降してください」

「はっ?」

「今回の戦いは、私たちの勝ちです。他の兵士たちもすでに戦意を失っていて、組織としてのミストラルはもう瓦解しています」

 術師序列一位のヴェルジュ・ギャランによって、彼らの意思は変わった。
 最後の砦となっていた強敵プラムも、この通りミルの覚醒によって無力化されている。
 残すは倉庫となっている第四層の貯蔵層と魔道具研究をするための第五層の研究層だけ。
 魔術師たちを止める術はもう無くなってしまったのだ。

「勝手に決めつけてんじゃないわよ……! ミストラルはまだ負けてない。私だってまだ、あんたに負けたつもりは微塵もないわよ……!」

 プラムはそう言って、再び全身に渾身の力を込め始める。
 自分を縛りつける氷を破壊するべく、全力で手足を動かそうとしていた。
 しかし氷はビクともしない。
 魔力値350からなる魔法の氷壁は、魔力を帯びていることもあって驚異的な硬さになっていた。
 いくら肉体改造をして超人的となったプラムでも、膂力だけでこの氷を破ることはできない。

「はぁ……! はぁ……! はぁ……!」

 そこにサチが、さらにダメ押しの一手を送る。

「【賽は投げられた――神の導き――恨むなら己の天命を恨め】――【運命の悪戯(フォル・トゥーナ)】」

「うっ……!」

 確率で相手を行動不能にする拘束魔法――【運命の悪戯(フォル・トゥーナ)】。
 それによって今度こそ、プラムは完全に身動きが取れなくなった。
 不要になった氷をミルが解除して、力なく地面に倒れ込もうとするプラムを小さな体で支える。
 すでにサチの拘束魔法によって身動きが取れないはずなのに、それでもプラムからはいまだに抵抗の意思を感じた。

「もう、やめてください、プラムちゃん。それ以上やると……」

「やめられるわけないでしょ!」

 全身を強張らせながらも、プラムは喉の奥から声を絞り出す。

「目の前に、殺したいほど憎い相手がいて、やめられるわけがないじゃない……! 私がどれだけ、苦しい思いをしてきたか、なんにも知らないくせに……!」

「……」

 耳元でプラムの怒りの声を聞き、ミルは静かに唇を噛み締める。
 そして自分の過ちを受け入れるかのように、続くプラムの言葉に耳を傾けた。

「あんたの不幸に巻き込まれて、私はたくさんの苦しさを味わった……!」

「……ごめんなさい」

「周りに馬鹿にされて、夢も諦めるしかなくて、私は空っぽにされた……!」

「……ごめんなさい」

「それなのにあんたは楽しそうに魔術学園にも通って、“新しい友達”まで作ってる……!」

 体を動かせるはずもないのに、プラムはミルの肩を弱々しい力で握り、怒りをぶつけた。

「挙句にあんたは、私がなりたかったものにまでなろうとしてるのよ……! そんなの、許せるわけないでしょ」

「……ごめん、なさい」

 言われて、改めて感じさせられる。
 自分がプラムの夢を奪ってしまったのだと。
 辛い思いをさせてしまったのだと。
 それでいてプラムの目指していたものに、自分がなろうとしている。
 彼女の怒りも当然のものだ。

「とても、許されることではないと、思っています。私のこの罪は、どれだけ償っても、償い切れるものではありませんから」

 プラムの怒りを真正面から受け止めて、ミルは罪悪感を滲ませる。
 自分がこの先、どんなことをしようとも、きっとプラムに許してもらうことはできない。
 あれだけ仲の良かった幼馴染と、かつてのような関係に戻ることはできなくなってしまった。
 自分がそれを望んでも、叶えられないというのはもう承知している。
 だからミルは……

「それでもせめて、自分の不幸に巻き込んでしまった人たちは、自分自身の手で絶対に助けたいんです。許してもらうためではなく、誰かに縋ることしかできなかった自分への、戒めとして……」

 ミルが国家魔術師を目指している理由は、母親の治療費を稼ぐためと、プラムのため。
 魔法が使えない体になってしまったプラムを治す方法を探すために、国家魔術師を志しているのだ。
 プラムには今さら綺麗事を言うなと拒絶されてしまったけれど、それでもミルの意思は変わらない。
 どれだけの怒りをぶつけられても、散々罵られたとしても、ミルはプラムのために魔術師の道を歩き続ける。
 ミルはプラムの背中に腕を回して、ぎゅっと控えめに抱き寄せた。

「ずっと、私のお姉ちゃんでいてくれて、ありがとうございました。プラムちゃんの魔素を治す方法は、必ず私が見つけ出してみせますから。それまでどうか、静かに待っていてください」

「……」

 それからプラムは、何も喋らなくなった。
 ミルが地面に横たわらせた後も、一切目を合わせようとせず、ただ静かに唇を噛み締め続けている。
 ミルもそんな彼女に対して、それ以上何も言うことはなかった。
 その時……

「二人とも無事か!?」

 第三層の居住層の出入り口から、国家魔術師たちが戻って来た。
 北部襲撃隊にいた数名の魔術師たちは、サチとミルの元まで駆け寄って来るや、横たわるプラムを見て目を剥く。

「ま、まさか、君たち二人だけでこの少女を……!?」

「あぁ、私はほとんど何もしてなくて、全部ミルが……」

「いえ、私一人だけでしたら、きっと上手く行っていなかったと思います」

 そんな謙遜し合っている二人を、呆然と見つめながら魔術師たちは続ける。

「お、驚いたな。てっきりまだ戦っている最中かと……」

「とにかく本当によくやってくれた。というより、本当にすまなかった」

「学生の君たち二人に危険な役目を任せてしまって」

「いえ、それは全然いいんですけど……」

 サチとミルは、数名の魔術師の他に誰もいないことに気が付いて首を傾げた。
 他の人たちはどうしたのだろうという疑問に、魔術師たちが答える。

「他の連中なら、全員無事に隠れ家を抜け出したよ」

「ミストラルの兵士たちも外で待機していた魔術師たちに任せて、連行の準備を進めている」

「それで魔素に余裕のある俺たちだけで、また第三層まで戻って来たってわけだ。遅れてすまなかったな」

「い、いえ、こっちも大した怪我はなかったので……」

 結果として今回の戦いで、今のところ死傷者は出ていない状況だ。
 一部、重傷を負った者たちはいるけれど、命に別条はない。
 改めてそれがわかって、魔術師たちは安堵の息を吐き、顔を見合わせて頷き合った。

「これであとは最下層の研究層に行き、魔獣侵攻具の完成を食い止めればいいだけだ」

「少しばかり人数は心許ないが、さっそく全員で向かうとしよう」

 その意見に、サチとミルも頷いて同意を示す。
 ミストラルの兵士たちだけでなく、最大の難関となったプラムもこうして無力化できた。
 残すは今回の襲撃作戦の最大の目的である、魔獣侵攻具の完成の阻止。
 事前情報からも、この先に障害となるものはもう他になく、第五層の研究層へ行き研究を止めればこちらの勝ちだ。
 いよいよ襲撃作戦の成功が目前に見えてきて、国家魔術師たちは揃って笑みを浮かべた。

 その時――

「その必要はありませんよぉ」

 不意に、第四層の貯蔵層に続く階段から、女性の声が聞こえて来た。
 釣られて皆がそちらに視線を移すと、コツコツとヒールを鳴らしながら、階段から上ってくる人影が一つ。
 灰色の長髪に、感情を感じさせない灰色の虚な目。
 血の気の薄い青白い肌と、白を基調とした大きなドレス。
 まるで幽霊のような見た目をしている、不気味な雰囲気を醸し出すその女性は……

 皆から疑問の視線を向けられる中、唐突に衝撃的な事実を打ち明けた。

「魔獣侵攻は、すでに開始されましたので」

「魔獣侵攻が、開始した?」

 プラムという脅威をようやく制圧できたと思ったのも束の間。
 謎の女性が突然現れて、私たちの前で驚愕の言葉を口にした。
 当然、この場にいる魔術師たちは揃って首を傾げる。

「な、何を訳のわからないことを言っている」

「そもそも貴様は何者だ?」

「あらあら、わたくしとしたことが、自己紹介が遅れてしまいましたね」

 幽霊のような格好をした女性は、白ドレスの両端を控えめにつまみ上げ、僅かに膝を曲げる動作を見せて答えた。

「皆様はじめまして。わたくしは反魔術結社ミストラルの現在の頭領をさせていただいております、アリメント・アリュメットと申します」

「ア、アリメント……!?」

 私とミルを含めた、国家魔術師たち全員が目を見開く。
 アリメント・アリュメット。
 事前情報で名前だけは聞いている。
 現在、反魔術結社ミストラルを統治している主。
 魔法至上主義の魔術国家に不満を抱いている兵士を率いて、繰り返し重大な事件を引き起こした張本人。
 まさか自らこの場に出向いて来るなんて思ってもみなかった。

「アリ、メント、様……! 申し訳、ございません……!」

「まあ、まさかあなたが敗れてしまうだなんて、まるで想像していませんでしたよ」

 地面に横たわるプラムを見て、アリメントは悲しげに目を伏せる。
 しかしすぐに顔を持ち上げると、柔和な笑みを浮かべてかぶりを振った。

「しかし謝る必要はございません。あなた方に国家魔術師たちを食い止めていただいている間に、『終焉の魔笛』が無事に完成しましたので」

「なっ――!?」

 終焉の魔笛が、完成した……?
 確かそれが、魔獣侵攻を引き起こすための魔道具だと聞いたような……

「状況をご理解いただけていないみたいですので、改めてお伝えします。あなた方は惜しくも、間に合わなかったということですよ」

 アリメントは不意に胸元に手を入れると、そこから黒い横笛を取り出した。
 随所に金の装飾が施されている、重厚感と禍々しさを兼ね備えた笛。

「すでにこの終焉の魔笛によって、王都の周辺の凶悪な魔獣たちに命令が送られております。『王都ブロッサムへ向けて侵攻を開始しろ』と」

「わ、我々がそんなデタラメを信じると思うのか……!」

「冗談だと思うのでしたらそれでも構いませんよ。あなた方がこうしている今も、笛の音を聞いた各地の魔獣たちは、王都ブロッサムへ向けてその足を進めておりますから。そこにいる住人と魔術師たちを、蹂躙するために」

 アリメントの柔らかな笑みの裏に、不意に不気味な何かを感じた。
 皆も同じく恐怖を抱いたのか、険しい顔つきで冷や汗を滲ませる。
 もう魔獣侵攻が開始したなんて、いくらなんでも早すぎる。
 聞いていた情報では、まだ時間に猶予があったはずなのに。
 ミストラルの兵士たちとプラムの妨害によって、かなりの時間を稼がれてしまったのは事実だが、それでも魔道具の完成にはまだまだ日数を必要としていたはずだ。
 まさか誤情報? それとも予想以上に開発が順調に進んで、予定よりもだいぶ完成が早まったとか?
 いや、そうではなかったようだ……

 突如、アリメントの手元で、終焉の魔笛が砕け散った。

「――っ!?」

「あら、やはりこうなってしまいましたか。もう少し調整の時間がありましたら、より理想的な仕上がりになっていたのですけど」

 終焉の魔笛が壊れた。
 もうあの魔道具は使用することができない。
 アリメントの様子からしても、たった一度の使用で壊れてしまうのは想定外だったらしく、魔笛は完璧な仕上がりではなかったようだ。
 無事に完成したとは言っていたけど、あくまでそれはただの急ごしらえ。
 私たちが襲撃に来たことで、開発を急ぐしかなく、結果未完成の魔笛で魔獣侵攻を開始せざるを得なかったのだ。
 それは不幸中の幸いだと言えるが、魔獣侵攻が始まってしまったのもまた事実。

「あぁ、すごく楽しみですね。魔法の力に自惚れた憐れな魔術師たちが、暴走した魔獣の群勢に為す術もなく惨殺されていく光景が。間もなく王都ブロッサムに、魔術師たちの血肉の絨毯が広がります」

 その光景を想像したのか、アリメントは血の気の薄かった顔をほのかに上気させた。
 このままじゃ、王都にいるみんなと魔術学園が危ない。
 町には防衛隊の国家魔術師たちが控えているけれど、魔獣侵攻の規模は計り知れないものとなっている。
 どうにかして魔獣侵攻を止めないと。

「【凍てつく大地(ニブル・ヘイム)】!」

「――っ!?」

 その時、何の前触れもなく、地面に氷が走った。
 それは瞬くような勢いでアリメントの足元に迫る。
 だが、奴は目覚ましい反応を見せて飛び退り、氷の魔の手を危なげなく回避した。
 隣を見ると、杖を構えて立っている相棒の姿が。
 魔術師たちがミルの背中を見ながら驚愕を示す。

「い、今のはまさか……!」

「無詠唱魔法だと……!」

 確かにミルは今、魔法の詠唱をしていなかった。
 そのため誰も彼女が魔法を使うとは事前に察知できず、唐突に走った氷に驚かされた。
 小声で詠唱をしていた様子もなかったし、今のは確実に超高等技術である『無詠唱魔法』だ。
 それを見て、私は驚くと同時に納得する。
 あのプラムにたった一人で勝てたのは、戦いの中で無詠唱魔法を習得したからだったんだ。
 なんだか自信に満ち溢れているように見えたし、無詠唱魔法を習得したのなら頷ける。
 それを躱したアリメントは、変わらず柔和な笑みを浮かべているが、目が笑っておらず不気味な眼差しでミルを見据えた。

「あらあら、そちらには随分と血の気の多い方がいらっしゃるみたいですね」

「今すぐに魔獣侵攻を止めてください。さもないと……」

 ミルは杖の先端をアリメントに向けながら目を細める。
 その脅しにまるで動じる様子もなく、奴はおもむろにかぶりを振った。

「残念ですが、ご希望に沿うことはできそうにありません」

「なぜですか?」

「開始された魔獣侵攻は、わたくしでも止めることは不可能なのです。そういう風に開発しましたから」

 一度始めてしまったら、首謀者のアリメントでも止めることはできない。
 魔術師に捕縛されて魔獣侵攻の停止を強制される可能性を考慮したのだろう。
 後先考えずに魔術国家を滅ぼすことだけを考えているなら、確かに利口なやり方だ。

「だとしても、あなたを捕まえなければならないことに、変わりはありません。大人しくしてもらえるのでしたら、手荒な真似はしませんが……」

「うーん、誠に残念なのですが、その望みも叶えて差し上げることは難しいかと思います」

 アリメントはこれ見よがしに、困り顔で顎に指先を這わせた。

「わたくしたちが長年待ち焦がれて、ようやく叶えることができた念願の魔獣侵攻。それをこの目で見届けずして牢獄送りにされてしまうのは、さすがに不本意ですので」

「では、どうすると?」

 ミルの問いかけと同時に、他の国家魔術師たちも目を鋭くする。
 奴がこの状況から逃れる術が果たしてあるというのか?
 こちらも度重なる激戦の末、かなり戦力を削られてしまったけれど、それでもいまだに多勢に無勢。
 魔術師側が優位なことに変わりはない。
 頼みの綱であっただろうプラムも、ミルの健闘によってこの通り捕縛されている。
 それでも慌てずに、余裕すら感じさせるアリメントは、いったい何を考えているのか。
 全員で警戒の目を光らせる中、彼女は再び胸元に手を入れた。
 そこから一枚の“札”を取り出し、静かに笑ってみせる。

「そ、それって……」

 見覚えがある。
 いまだに胸元にその僅かな感触が残っている。
 プラムが私を第四層にある貯水部屋に送り込むために使った、“瞬間転移の魔道具”。
 まさか……

「――っ!」

 嫌な予感がした私は、咄嗟に地面を蹴ってアリメントに接近した。
 一瞬遅れてミルも気が付き、杖の先に水色の魔法陣を展開させる。
 だが……

 突然アリメントの後方から、巨大な黒狼が飛び出して来た。

「ガアッ!」

「サチさん!」

 巨大な爪が頭上から落ちて来て、私は慌てて後ろへ飛ぶ。
 間一髪で黒狼の一撃を躱したけれど、気が付けばアリメントの前には複数の魔獣の群れが立ち塞がっていた。

「グルルゥゥゥ!」

「ア、アリメント様の邪魔は、絶対にさせないぞ……!」

 それらの魔獣の後ろに、こちらを睨みつけてくる白衣姿の奴らが数人。
 おそらく最下層の研究層で魔道具開発に携わっていた研究員たちだろう。
 どうやら何らかの方法を使って魔獣たちを操っているようだが、顔色がおかしい。
 病的なまでに青ざめており、著しい疲労感と意識の朦朧が窺えた。
 魔獣の首に首輪のようなものが掛かっており、それと似た形の腕輪を研究員全員が手首に着けている。
 あれが魔獣の意識を操っている魔道具で、その副作用で体に不調が現れているのだろうか?

「では、私はお先に祭典の場に向かわせていただきますね。できることでしたら、そちらで捕らえられているプラムさんもご一緒にお連れしたいと思っていたのですが、それは難しそうですので」

 と、そんな研究員たちと魔獣の群れに足止めをされている間に、アリメントがこちらに向かって手を振っていた。
 どうやら奴はプラムを連れて行くためにここに様子を見に来たらしいけど、それが叶わないとわかって早々に見限った。

「留守を任せた我が子たちと、楽しく遊んでいただけたら幸いです。それでは」

「ま、待て!」

 そんなこちらの静止も聞かず、アリメントは札を胸元に押し当てた。
 瞬間、幽霊のようなその姿が私たちの視界から消え去る。
 魔道具による瞬間転移。
 口ぶりからして王都に向かったみたいだが、そこまでの長距離転移が果たしてできるのだろうか?
 魔道具の力は未知数なので真相は定かではない。
 ただ、奴がどこに行ったのかは今そこまで重要ではなく、魔獣侵攻が本当に行われたかどうかを確かめるのが何より先決だ。

「い、行け! 邪狼(イビルウルフ)!」

「憎き魔術師たちを食い荒らせ!」

 そのためにはまず、この研究員たちと魔獣の群れを鎮圧する必要がある。

「この魔獣たちを外に出すな!」

「上層にはまだ怪我をして体を休めてる連中が大勢いる! 何が何でもここで駆除するぞ!」

 こいつらを無視して上層へ逃げれば、入口で休息中の怪我人たちを巻き込んでしまうことになる。
 階段の下からはまだまだ魔獣が溢れて来ているので、ここから先へは一匹も通すわけにはいかなかった。
 本当だったら、こんな魔獣たちに構っている暇はないが、私たちは戦わざるを得ない状況なのだ。

「【敵はすぐそこにいる――紅蓮の猛火――一球となりて魔を撃ち抜け】――【燃える球体(フレイム・スフィア)】!」

 国家魔術師の一人が火炎魔法で黒狼の迎撃を試みる。
 国家に認められた魔術師だけあって、かなりの威力の魔法だったが……

「ガアッ!」

「――っ!?」

 黒狼はまるで怯む様子もなく、真正面から飛びかかって来た。
 火炎魔法を涼しげに掻き消しながら、魔術師に凶悪な爪を振り下ろす。

「【氷華の薔薇(ローズド・ノエル)】!」

 そこにミルが、無詠唱魔法によって氷の蔓を速射した。
 黒狼は死角からのその攻撃を避け切れず、瞬く間に蔓に絡まれて全身を凍結させる。

「す、すまない、助かった!」

「普通の魔獣よりも凶暴性が増していて、身体能力もかなり高くなっています! 気を付けてください!」

 ミルのその言葉の通り、黒狼は暴れながら氷の蔓をパキパキと砕き始めた。
 確かに普通の魔獣よりも遥かに強い。
 この状況もどこか既視感がある。
 おそらく魔獣を強化する魔道具を奴らが使ったのだろう。
 一朝一夕で片が付く相手ではないようだ。

 ……普通の魔術師なら。

「【生か死か――死神の大鎌――ひと思いに敵の首を刈り取れ】――【悪魔の知らせ(デス・ノーティス)】!」

 今まさに氷の蔓の拘束から抜け出そうとしていた黒狼に、私は黄泉送りの魔手を向けた。
 瞬間、禍々しい黒い光が黒狼を包み込み、絶えず轟いていた奴の鳴き声を静止させる。

「グ……ガッ……!」

 直後、黒狼はその巨体を地面に横たわらせて、完全に静まった。

「イ、邪狼(イビルウルフ)を……!」

「たった、一撃で……!」

 研究員たちが驚愕の眼差しでこちらを見てくる。
 傍らの国家魔術師たちからも似たような視線を感じながら、私は右手を開いて構えた。

「相手が魔獣なら、手加減はしない」

 ここからは、私の出番だ。
 急いで王都に戻るために、手早くここの魔獣たちを倒してみせる。
 次の標的に視線を向けて、私は唇を走らせた。