「サ……チ……?」

 獣人に襲われそうになっているポワールを助けた後。
 サチはフクロウを抱えているポワールを丸ごと抱き上げて、後ろに飛び退った。
 ひとまずの安全を確保すると、ポワールを抱えたまま唇を走らせる。

「【涙に濡れた顔――見守る天使――この者に慈悲を与えよ】――【天使の気まぐれ(カプリス・チュール)】」

 白い光がポワールの体を包み込み、背中に付けられていた傷が一瞬にして完治した。
 超低確率で対象者のあらゆる傷を完治させる完全治癒魔法――【天使の気まぐれ(カプリス・チュール)】。
 それによって体が治ったポワールを地面に下ろすと、サチは労るような声で彼女に告げる。

「遅くなってごめん、ポワールさん」

「ううん。治してくれて、ありがと」

 そのやり取りを見ていたマルベリーは、二人が顔見知りだったことに驚愕を覚える。
 魔術学園の生徒で、しかも同じ一年生のようなので、何かしら接点があるかもしれないとは思っていたが……
 いったいどういう間柄なのか、もしかして親しい友達なのか、それらについて詳しく聞きたいのは山々ではあったが、今はそれよりも先にやることがあった。

『サ、サチちゃん!』

「んっ?」

 随分と久しく愛弟子の名を呼ぶ。
 それをなんだか嬉しく感じたが、対してサチは鈍い反応を示した。

「フクロウ? って、ホゥホゥさん……だよね? えっ、なんで喋ってるの?」

『あっ、その、確かにこの体はホゥホゥさんのものですけど、今は中身が入れ替わってまして……』

 その時、前方から魔獣の雄叫びと戦闘の衝撃音が聞こえてくる。
 サチは碧眼を鋭く細めて、戦場の前線に視線を向けた。

「ていうかごめんね、今はちょっと遊んであげてる時間はないの。思い出話だったらまた今度に……」

『いやですから違いますよサチちゃん! 私です! マルベリーです!』

「へっ?」

 細められたはずのサチの瞳が、きょとんと真ん丸く見開かれる。
 その目がゆっくりとマルベリーの方に向けられて、二人はじっと視線を交換した。

「マルベリー、さん……?」

『はい、そうですよ』

「……」

 たった一言の落ち着いた返事。
 サチにとってはそれだけで、確信に至るのに充分だった。
 その確信をさらに確かなものにするように、サチはフクロウのマルベリーをぎゅっと抱き上げる。

『サ、サチちゃん!?』

「え、えへへっ……! 本当だ、マルベリーさんだ」

 サチの目の端に、微かに涙が滲む。
 どうしてここにいるのか。どうしてフクロウの体になっているのか。
 など色々な疑問はあったけれど、まずは嬉しいという気持ちが先にやって来た。
 マルベリーも同じ気持ちを抱き、静かに綻ぶ。

『本当に今のだけで私ってわかったんですか』

「うん、マルベリーさん成分を注入できたからね。間違いないよ」

『そういえば旅に出る直前も、同じことしてましたね』

 サチを魔術学園に送り出した日のこと。
 サチが家を出て行く直前、最後にマルベリーの体に抱きついた。
 その時はいきなりのことで、マルベリーはかなり驚かされた。
 それ以上に恥ずかしさも大きくて、思わず赤面してしまったものだ。
 当時の記憶が脳裏に蘇ってきて、また恥ずかしい気持ちを少し思い出してしまう。
 そんなやり取りをしていると、ポワールがぼぉーっとした様子でサチを見ながら問いかけた。

「二人、知り合いだったの……?」

「うん、話すと少し長くなるんだけどね。ところでそっちもどうして一緒にいたの? 謎すぎる組み合わせなんだけど……? そもそもなんでマルベリーさんはホゥホゥさんの体に……」

『そ、それも話すと長くなるんですけど……』

 など疑問が渋滞している最中――

「グオオォォォ!」

「カカカッ!」

 死霊種の魔獣たちが、前線の方からこちらに向かって走って来ていた。
 その気配を感じ取り、サチとポワールが再び構える。

「って、長々と話してる暇はなかったね。ここからは私も一緒に戦うから、みんなで魔獣侵攻を止めよう」

 と、強く意気込むサチ。
 現状、魔術師たちは全員、魔素を弱らされていて、魔獣たちは凶暴化して強くなっている。
 しかしサチだけは魔素収縮の影響が関係ないため、心強い戦力が増えてくれたということだ。
 ただ、それでも魔獣侵攻を止められるかはわからない。
 ましてや被害者を出さずにこのまま乗り切るのは至難だろう。
 全員で生き延びられる可能性は、おそらくない。
 それほど逼迫した状況だということをサチも理解しているため、険しい顔つきで冷や汗を滲ませる。
 だが……

『サ、サチちゃん!』

「んっ?」

『その前に、試しにこの魔法を使ってもらえませんか?』

 マルベリーだけは希望を見出しているように、前のめりになってサチを呼び止めた。
 サチの動きが止まったのを見たマルベリーは、彼女の肩に止まりながらふと思う。
 そういえば前にも、同じようなことがあった気がする。
 初めてサチの確率魔法を見た時のこと。

『サ、サチちゃん、家の中に入る前に、試しにこれを唱えてもらえませんか?』

 咎人の森で暴虐の限りを尽くしていた森の主が、自宅の近くに現れた。
 その時、サチの幸運値に希望を見出したマルベリーは、彼女に“即死魔法”の詠唱式句を伝えたのだ。
 これはまるで、あの時の再現のようだと、マルベリーは密かにそんなことを思った。



――――



 魔獣侵攻開始からおよそ一時間。
 アリメント・アリュメットの視界には絶景が広がっていた。
 暴走する魔獣の群れ。
 苦しみ悶える魔術師たちの姿。
 絶望的な戦場は彼らの悲鳴と鮮血に満たされている。

「……見ておりますか、ヴィアンドさん」

 これこそが、アリメントが実現したかった光景。
 恩師のヴィアンドに捧げたいと思っていた美しき絵画だ。
 これを自分の手で完成させたという達成感と歓喜が沸々と湧いてくる。
 感涙が目の奥から止めどなく溢れてくる。
 と、その時……

「んっ?」

 完成された美しい絵画の中に、不意に一つの不純物を捉えた。
 廃教会の鐘楼の屋根からでもわかるほど異質なもの。
 一つの人影が、ふわふわと浮いて、戦場を一望できる上空まで浮上していた。
 目を凝らして見てみると、その者の姿が朧げながら確認できる。
 肩にフクロウを乗せている、銀色の髪の少女。

(あの子は……)

 アリメントは記憶の片隅をチクリと刺激される。
 確か先刻、地下迷宮に置き去りにしたはずの魔術師の少女だ。
 容姿から服装まで何もかも一致している。

(どうしてもうこの場所に……?)

 いくらなんでも早すぎる。
 あの場所からここまで、どれだけ急いでも数時間は掛かるはずだ。
 だというのに僅か一時間弱で、あの少女はここに来ている。
 瓜二つの双子でもいたのだろうか。
 それともこちらと同じように、王都のどこかに転移地点を設置していたのだろうか。
 いや、だとしてもあの場所から王都までの長距離移動を可能にする魔法なんか聞いたことがない。
 規格外の魔力値を有しているのなら話は別だが、該当するような生徒は魔術学園にはいなかったはず。

(また青の差し色。あの方も一年生ですか)

 新しい生徒が入って来てから半年ほど。
 内通者のヒィンベーレから目ぼしい生徒の情報はもらっていたが、一年生はいまだに調査不足である。
 そもそも経験が浅いことから、脅威になるような人物がいないと断定し、一年生に関してはそこまで深く調べさせてはいなかったのだ。
 特待生、名家生まれの子息令嬢、星華祭なる催しで各クラスの代表者を務めた生徒たち、とりあえずこの辺りの生徒は調べさせたが……

(あの生徒の情報は聞きませんでしたね。まあ、特別問題はないでしょう)

 どのような手を使ってここまで来たのかはわからないが、あの生徒一人が来たところでさしたる問題はないだろう。
 この混沌とした状況をたった一人で覆すことなど誰にもできるはずがないのだから。
 どうやら下にいる、先ほど確認した金髪少女に浮遊魔法を付与してもらっているらしく、眼下では彼女が銀髪少女に手の平を向けていた。

(何をしようと無駄なことです。そこから見えるのは希望ではなく、際限なく広がる圧倒的な絶望なのですから)

 きっと少女の目にもそう映っているはず。
 覆しようのない底知れぬ絶望が。
 傷付き倒れていく魔術師たちの姿が。
 ますます広がっていく悲鳴と鮮血の光景が。
 魔術師がどれだけ矮小で愚かな存在かということが。

「後悔してください。ご自分がどれだけ愚かで、間違った道に進んでしまったかということを」

 アリメントは嘲笑した。
 嘲笑を超えて高笑いまでした。
 誰も見ていないことをいいことに、大口まで開けて下品に笑った。

 そして魔術師たちの悲鳴を肴に、魔術国家の中心で笑い声を響かせた。



「アハハハハハハッ!!!」



 ――刹那。



「【終焉の時は来た――闇夜からの眼差し――その者の結末を見届けろ】」



 遠くに見える銀髪の少女の声が……
 確かに、アリメントの耳を打った。



「【悪魔の瞳(デッド・エンド)】!」



 瞬間――
 銀髪の少女の体から、おぞましい漆黒の波動が迸った。
 彼女の背後には、いるはずのない悪魔の幻影が浮かび上がり、周囲の空気が重たくなるのを感じる。
 思わず寒気まで覚えて体を震わせていると、アリメントの視界に目を疑う光景が映し出された。

「グオオォォォォォ!!!」

 王都の西側に集結している魔獣の群れ。
 その魔獣たちが一斉にして、雄叫びを上げながら苦しみ始めた。
 次いでバタバタと糸の切れた操り人形のように地面に倒れていく。
 一匹、また一匹と地に沈んでいき、周囲に立つ魔術師たちも何が起きているのか理解が追いついていなかった。
 そして、僅か十秒後のこと。

 気が付けば、視界に映っているすべての魔獣が…………死んでいた(・・・・・)

「…………はっ?」

 死んでいる。間違いなく死んでいる。
 ただ倒れただけではない。事切れて命が終わっているのがここからでもわかる。
 魔獣たちから、完全に生気が失われていた。

「な、何が、起こって……?」

 あれだけ多くの魔獣がいたのに。
 凶暴化して誰も手が付けられなくなっていたのに。
 その魔獣たちが、たった一瞬で、殺されてしまったというのか?
 しかも、それだけではない。
 西側の魔獣の群れだけではなく、北側に見える魔獣たちも同様に地面に倒れていった。

 そう、あの少女が軽く“一瞥”しただけで。

「や、めて……これ、以上は……!」

 少女は止まらず、そのまま東側、南側と視線を巡らせる。
 そして魔獣たちは彼女の視界に映った瞬間、急激に苦しみ始めて、次々と地面に倒された。
 やがて王都に迫っていたすべての魔獣が息絶え、絶望に満ちていたはずの戦場が静寂に包まれた。
 そこにはもう、魔術師たちの悲鳴はない。
 暴走する魔獣たちもいない。

 一瞬にして、魔獣侵攻が終演となった。

「…………」

 アリメントの頭は白一色で埋め尽くされる。
 この短い間にいったい何が起きたのか、まったく理解が追いつかない。
 いいや、本当は頭の奥底では状況を飲み込めている。
 しかしそれを認めたくなくて、我知らず思考を停止させているのだ。

(だって……)

 あれだけ時間を掛けて人と道具を揃えてきたのに……
 数々の苦労を乗り越えて計画を完成させたのに……
 長年待ち焦がれてようやく叶えることができたのに……

 その努力のすべてを、一瞬にして無にされてしまったのだから。



「今の気分はどう、悪の親玉さん」



「――っ!?」

 いつの間にだろうか。
 例の銀髪の少女が後ろに立って、邪悪な気配を放つ瞳をこちらに向けていた。