本当にこれでいいのだろうか、戸倉さんにとって迷惑ではないのだろうか?
いくら考えても、戸倉さんの気持ちがわからない。
どうして私との結婚を選んだの?
食事を終えて、彼のマンションに向かった。
入り口でコンシェルジュの牧野さんが挨拶をしてくれた。
「お帰りなさいませ、戸倉様、美鈴様」
「美鈴の荷物は届いているか」
「はい、既に到着しております」
「美鈴、良かったな」
「はい」
コンシェルジュの牧野さんはちょっと困った様子の表情を見せた。
「戸倉様、メーカーの発注ミスで、本日届く予定のベッドが明日になると連絡がございました」
「そうか、わかった」
彼に促されて、エレベーターで部屋に向かった。
「お邪魔します」
私はそう言って彼の部屋に入った。
それを聞いていた彼はニヤッと笑って言葉を発した。
「美鈴、今日からここは美鈴の住まいなんだから、お邪魔しますはおかしいよ」
「あっ、そうですね」
私と彼は微笑みながら見つめ合った。
この空間に二人きり、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
「美鈴」
ふいに名前を呼ばれて更にドキッとした。
なんか私おかしい、戸倉さんを意識しちゃってる、さっきも妹と話している戸倉さんに、あまり仲良くしないでなんてヤキモチ妬いちゃったし……
「美鈴、どうかした?」
「いえ、何でもないです」
彼は言葉を続けた。
「さっき、牧野が言っていたベッドの件だけど、美鈴のベッドを頼んでおいたんだけど、メーカーの発注ミスで、到着が明日になるんだって、だから美鈴は俺のベッド使って寝て」
「そんな事出来ません、私はソファで十分です」
「ソファはリビングに置いてあるだろう、俺の寝室は鍵がかかるから、俺の寝室を美鈴が使った方が安心じゃないかな」
「でも……」
「ソファに美鈴が寝てたら、俺、美鈴を襲っちゃうかも」
カアーっと顔の熱りを感じた。
私がしどろもどろになっていると、戸倉さんは私に少しずつ近づいて来た。
「美鈴」
戸倉さんの顔が急接近して唇が数センチと迫った。
思い出したくない記憶が脳裏を掠めた。
「いや」
私は彼を突き飛ばした。
そしてその場にしゃがみ込んだ。
「ごめん」
私は首を横に振り「戸倉さんは悪くありません、私が……」そこまでで涙で言葉が詰まった。
俺はこの時、美鈴の過去に大変なことが起きていたと察した。
一体何があったのか、まさか美鈴には聞けない、美鈴のご両親にも聞けないと判断し、俺は個人的に探偵を雇った。
会社関係には知られたくない事実があったとしたらと考えたのである。
俺は自分のうちに秘めて美鈴への気持ちは変わらない自信があった。
この日の夜、美鈴は俺のベッドで、俺はリビングのソファで寝た。
中々寝付けずにいた。
美鈴がすぐ手の届く場所にいると思うだけで、心臓の鼓動が早くなった。
でも、美鈴には何かあったのだろう、俺の知らない美鈴の人生。
と、その時、俺の寝室のドアがカチャっと開いた。
俺はわざと目を閉じていた。
美鈴は俺の側に寄って、じっと見つめ、そしてそっと囁いた。
「戸倉さん、ごめんなさい、私、こんなにもあなたに惹かれ始めているのに、どうしてもあの悪夢が脳裏から離れなくて、心とは逆に身体が拒否反応を示してしまって……」
えっ、俺に惹かれ始めてくれてる?
あの悪夢とはなんなんだろうか。
「だから、私は……」
そう言って美鈴は涙を流し項垂れた。
俺は目を開けて「美鈴」と名前を呼んだ。
美鈴はびっくりした表情で俺を見つめた。
俺はこの時、美鈴の過去に何があろうと、共に生きていく覚悟を決めた。
「美鈴、ほんと?俺に惹かれ始めているって」
「あっ、あのう、それは……」
美鈴はしどろもどろになりながら、どうしていいか分からず戸惑っていた。
「美鈴、俺達プラトニックな関係でいようよ、それなら美鈴は悩まなくていいだろう」
「でも……」
「明日から、いや、今から美鈴は俺の奥さんなんだから、お互いに協力しながら生活していきたい」
美鈴はコクリと頷いた。
次の日二人で婚姻届を提出した。
「美鈴、俺達夫婦になったんだな、これからよろしくな」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「飯食って帰ろう、もう美鈴のベッドが届いている頃だからな」
「はい」
俺は美鈴に手を差し伸べた。
美鈴の手に触れたかった。
美鈴はちょっと躊躇したが、俺と手を繋いでくれた。
お互いにニッコリ微笑んで見つめ合った。
ずっと望んでいた夢が叶った。
美鈴との結婚、そして美鈴と心が通い合う事。
一回だけだが、美鈴の唇に触れた、あんなにドキドキしたのは初めてだった。
プラトニックな関係でいようよなんて言ったが、美鈴と暮らして俺は我慢出来るのか心配だった。
でも探偵に調べさせた美鈴の過去が明らかになった瞬間、俺は何としても美鈴を一生守って行くと決意を新たにした。
その過去とは……
美鈴は仕事の帰り道、見知らぬ男に後ろから抱きつかれ、細い路地に連れ込まれた。
一瞬の出来事に抵抗出来ずに、見知らぬ男の唇が美鈴の首筋に押し当てられた。
「イヤ、助けて」
そこへ通りかかった警察に助けられて未遂に終わったが、美鈴の精神的ショックは計り知れないものだった。
美鈴の過去にそんな事があったなんて思いもよらなかった。
俺はマンションへ案内した時、いきなり抱きしめてキスをした。
なんて事をしてしまったんだろうと後悔してもしきれない自分がいた。
次の日から俺と美鈴のプラトニックな夫婦生活が始まった。
「行ってきます、美鈴も気をつけて仕事行けよ」
「はい、戸倉さんもお気をつけてください」
「美鈴、その呼び方、そろそろ名前で呼んでほしいな」
「名前ですか?」
「うん、慶って」
美鈴は恥ずかしがって、頬を真っ赤にし、俯きながら「慶さん」と小声で囁いた。
「えっ?聞こえない」
「もう、意地悪言わないでください」
「意地悪じゃないよ、お願い、もう一回呼んで」
美鈴は大きく深呼吸をして「慶さん」と俺の名前を呼んでくれた。
俺はつい嬉しくなって、美鈴を抱きしめてしまった。
慌てて美鈴から離れた俺は、美鈴に「ごめん」と謝った。
「だ、大丈夫です」
不思議、慶さんに抱きしめられて嫌じゃなかった。
今までは身体が拒否反応してたのに、今は慶さんの名前を口にしてドキドキした。
その瞬間、抱きしめられた事が嫌じゃなかった。
なんだろう、この気持ち。
「じゃ、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい」
そして、慶さんは仕事に出かけた。
私も月曜日に休みを貰って、火曜日から仕事に行った。
私は戸倉美鈴になった事、引っ越しした事を上司に伝えた。
慶さんはちょっとした有名人だと言う事を初めて知った。
羨ましいじゃなく、なんで私みたいな冴えないアラフォーが戸倉慶と結婚出来たのと妬みの視線が痛く突き刺さった。
ただでさえ、四十歳を迎えて、職場に残る事が難しい状況で、戸倉建設社長夫人になったのに、なんでまだ働いているのって、あちこちからひそひそ話が、私に重くのしかかって来た。
仕事から戻って、夕食の支度をしていると、慶さんが仕事から帰宅した。
「ただいま、美鈴」
「お帰りなさい」
元気のない私の様子にいち早く気づいた慶さんは、すぐに声をかけてくれた。
「どうかした、美鈴」
「あっ、何でもありません」
職場の愚痴を慶さんに話せるわけないと、言葉を飲み込んだ。
「何でもない顔じゃないな、俺で良ければ愚痴聞くよ」
愚痴って、慶さんは何でもお見通しなの?
なんか気持ちがちょっと楽になって、職場の愚痴を話してしまった。
「そうなんだ、でも俺はそんなに有名人じゃないけどな」
「そんな事ないです、職場の女性は皆んな慶さんを知っていましたよ」
「いいな、その呼び方」
「あっ、すみません、つい」
「全然大丈夫、その呼び方にしてと俺が頼んだんだから、美鈴は俺の奥さんなんだから」
慶さんはニッコリ微笑んだ。
誰だって私を妬むよね、この笑顔を独り占めしちゃったんだから……
「なあ、美鈴、仕事辞めてもいいよ」
「えっ?」
「出来れば美鈴には俺を支えると言う仕事をしてほしいな」
慶さんを支える?
「会社に挨拶しに行かないといけないし、取引先のパーティーに同伴して欲しいし、その度に仕事を休んでもらうのも気が引けてたんだ、だから俺の妻としての仕事に専念して貰えると助かる」
私、慶さんの妻になったんだ。
そうよ、仕事しながら、慶さんの妻の仕事は出来ない、そんな甘い世界ではないと改めて自覚した。
「私、仕事を退職して、慶さんの妻としての仕事に専念します」
「ほんと?じゃあ決まりな」
「はい」
私は銀行の仕事を退職し、慶さんの妻としての仕事に専念することにした。
まず、慶さんの行きつけのブティックに出かけることになった。
「あのう、ここは?」
「パーティーに出席する為のドレスを作るんだ」
「誰のですか」
「美鈴のドレスだよ」
慶さんはそう私に伝えると、ブティックのスタッフに指示をして、試着が始まった。
隣にいる慶さんはラフな格好でいる為、ドレス姿の私と並ぶと、年の差がはっきりしてしまう。
「あのう、慶さん」