フレームの向こう側─私と彼は透明なキスをする─

 フレームの向こう側は、私の知らない世界だった。
 私はカメラのほうを気にしながらも、演技をしないといけなかった。声をマイクが拾ってはいけないから、同じクラスメイトの役の子と一緒に、口パクで演技をする。
 今日はテストだね、いやになっちゃう。私はそんな演技をしていたけれど、向こうはどうだか知らない。クラスメイトの一番格好いい男の子の話題をしていたのかもしれないし、図画工作の時間がうっとうしいという話をしていたのかもしれない。
 私たちが口パクで演技をしている隣では、真剣にクラスメイトの演技がカメラで映されている。照明の温度が熱いけれど、それに気付く素振りを見せてはいけない。

「本当に、この事件の犯人はこのクラスにいると思う?」

 凜とした雰囲気のあの子は、普段は脚本を読み合わせのとき以外はグーグー寝ているとは、私たちしか知らない話だ。カメラはそんなことを拾わない。
 ただフレームに収められたこと以外は、決してお茶の間で流れることはないからだ。

「カット! お疲れ様! いやあ、いい演技だったね」
「ありがとうございます」

 はにかんだ笑顔をしているあの子のお母さんが、すぐに監督さんに頭を下げて、あの子の手を引いて去って行く。
 次はCM撮影らしい。あの子は引っ張りだこの子役だから。
 私はなにもかもが馬鹿らしくなりながら、同じように座っていたはずの保護者席にいるお母さんを見る。お母さんは悔しそうな顔で、あの子とあの子のお母さんを見送っているのが目に留まった。
 私の今日の演技、今度のドラマでワンカットでも使われたらいいけれど。残念。きっと今回もいらないからとカットされる。
 端役、ちょい役だったらまだフレームの向こう側に行けるけれど、私は一度もフレームの向こう側に行けた試しがない。
 あの子がいなくなったあとも、演技は続く。教室の雰囲気を取るためだ。私はまた、クラスメイトとくだらない会話をする。今度は口パクじゃないけれど、果たして使われるんだろうか。そう思っても、私とクラスメイトはくだらない話をして、笑っていた。
 心では笑っていなかったけれど、私はあの頃が一番よく笑っていた頃だと思う。

 その年を最後に、私は事務所をクビになった。
 子役というには年を食いすぎたけれど、女優に昇格できるほどのキャリアも演技力もなく、それでも事務所が手放したくないほど裏にコネもなく、美人でもない。
 大手事務所だったらそれでも端っこに置いてくれるかもしれないけれど、中堅事務所としてみれば一利もない子役を置いておく理由がない。
 お母さんは心底悔しがっていたけれど、私は泣くことも笑うこともなく、ただ今までお世話になったマネージャーさんと社長さんに頭を下げるだけだった。
 フレームの向こう側はいったいどうなっているのか、私は最後までわからないままだった。

****

「……ん」

 喉を鳴らす。寝ていたせいか、痰が絡んで声が通らない。
 窓は開けっぱなし、カーテンがそよいで、窓の外の影がタップダンスを踊っているのを見せてくれていた。
 既にチャイムが鳴ったのか、教室には誰もいない。誰も起こしてくれなかったんだ。私の机の上には、かろうじてプリントが乗せられ、私の寝相で落ちないように筆箱をおもりにして置いてある。おもりを付けるくらいだったら起こしてくれればよかったのに。そう思いながら、私は口元によだれの跡がついてないかを確認し、次に時計を確認した。
 ホームルームはとっくの昔に終了。掃除も終わったらしいと判断し、私はのそりと起き上がった。ポーチの中から鏡で自分の顔を見る。机に頬を引っ付けて眠っていたせいか、よだれはついてなくても、机の跡は付いている。それに私は「あちゃあ……」とごちた。
 うちの学校は単位制高校で、行きたいときに行けばいいし、行きたくなかったら行かなくていいという緩い校風だった。生徒の年齢層もバラバラで、社会人と高校生が一緒くたに授業を受けているのはちょっと面白い。社会人のほとんどは夜から来るらしいけれど、たまに昼から授業を受けている人もいる。
 なによりもありがたいのは、ここでは人間関係が希薄でも、熱心に「友人がいないと人生の損失だ」という教師もいなければ、「ぼっち可哀想」と憐れむ女子もいないということだ。この学校に通っているのは皆訳ありなんだから、放っておけばいいんだ。中学時代はそのせいでひどく嫌な思いをしたんだから。
 私は机の跡が引いたのを確認してから、プリントを束ねて鞄の中に押し込み、ようやく教室を出た。教室の戸締まりは見回りの先生がやってくれるから、開けっぱなしで帰っても怒られないのも、うちの学校の緩いところのひとつだ。
 うちの学校で数少なく活動している野球部の、緩いかけ声が響いている。やる気があるのかどうかは、私は知らない。
 夢を追いかける。そういう風なのがないのがありがたかった。
 人生の半分、芸能界の端っこにいたせいで、夢の大半が幻想だと思い知ってしまった私は、いまいちそういう暑苦しいものを信じることができなかったから。
 子役をしていると、今まで私と同じように端役だった子が、ある日突然抜擢されて、テレビで見ない日がないくらいに目まぐるしく活躍するのだって、逆にある日を境に昨日までしゃべっていた子がスタジオに来なくなることだって見る。
 事務所の力だとか、親が大物芸能人だとか、単純にプロデューサーの目に留まり抜擢されたシンデレラなのか。
 目立たなかったら消される。干される。それもひっそりと。
 シンデレラは皆から持てはやされてそれのおべんちゃらをさせられたこともあるけれど、いなくなった人のことを口にするのはマナー違反だと、誰も口にしないのが怖いところだった。
 次は自分かもしれない、そう思うのはどっちのことなのか、ときどきわからなくなった。ただ、自分が立っている場所はとてつもなく不安定なことだけは、よくわかった。
 私は子役と名乗ってはいたものの、名前のある役をもらえたことは、事務所をクビになるまでに一度だってなかった。
 子役を卒業して、義務教育の中学校に通ってみても、ちっとも楽しくなかった。
 普通の中学生が当たり前に知っているマンガの名前も、やっているゲームのキャラも、きゃーきゃー言いながら応援しているアイドルの顔と名前も、なにひとつわからなかったのだから。
 最初は世間知らずだと判断した私を、あれやこれやとお世話してくれる女の子はどこにでもいたけれど、私の言葉の節々でイラついて、次々と離れていった。
 アイドルグループのオーディションに履歴書を出したとこっそり打ち明けてくれた子に、私は思わず言ってしまった。

「あそこ、一度採用されたからと言って、カメラに映れる訳じゃないよ? 採用された中でさらにオーディションがあるんだから」

 声優になりたいと夢を語る子に、私は思わず言ってしまった。

「顔が可愛い子が優先されるし、アニメのキャラが第一に来たら、他のことは全部ないがしろにされるようになるからね」

 私はクラスメイトの夢を否定したかったんじゃなく、見てきたことをそのまま口にしただけだったけれど、オブラートに包んで言うということがてんでできなかった。
 ただでさえ義務教育がまともにできていない状態だったのに、世話焼きの子たちはどんどんと遠ざかっていった。気付けば私は、いてもいなくっても同じ状態の透明人間状態で、いろんな情報を回してもらえない状態になってしまった。
 地元の高校の情報はおろか、クラスの小テストの情報まで回ってこず、私の成績は急降下していった。……元々丸暗記以外は不得手だったから、数学や国語は壊滅的だったんだ。記憶力頼りの科目まで落としていたんじゃ、テストの点だって上がる訳がない。
 地元の高校は公私共に全滅。唯一受かった学校が単位制高校だったというわけだ。
 私がどんどんと落ちぶれていくのを、お母さんはすごい形相で睨んでいた。私が事務所をクビになってからはお母さんとすっかりとギクシャクしてしまい、朝と夜の食事のとき以外はほぼ、一緒にいることはなくなってしまっていた。
 そんなことを思い返しながら、私は人気のなくなった廊下をてくてくと歩く。
 空の色が鮮やかだった。こんな色をカメラに収められたら……そう思ってスマホをかざしてみる。充電が厳しくって、録画機能を使うことができなくっていっつも撮影機能だ。パシャンとカメラに収まった絵を見ながら、私は満足した。
 鮮やかなオレンジ色の雲に、青い空のコントラスト。
 それにいい気分になりながらスマホをポケットに入れたとき。
 風がぶわりと吹いた。私の背中の鞄がはためく……うん、はためく? どうも寝ぼけてきちんと留めていなかった鞄がはためいて、中に入れていたプリントを奪い去っていく。

「ちょっと……待って!」

 プリントの内容は大したものではなかったけれど、渡さなかったらお母さんが怒る。私は慌てて飛んでいったプリントを追いかけていった。
 中庭を超えて、着いた先は予備室棟だった。普段使っているのは校舎棟で、選択授業以外ではほとんど使われていない予備室棟は、授業が終わったせいもあって閑散としている。人気のない校舎に入るのは不気味だったけれど、入らないことにはプリントを回収できない。

「……お邪魔します」

 私は怖々と予備室棟に足を踏み入れたのだ。
 匂いはつるんとしていて、校舎棟となにかが違う。どの教室も窓が開けっぱなしになっているのは、誰かが掃除していたせいなのか、換気のために定期的に誰かが窓を開けているのかはわからない。誰もいない校舎なんて不気味なだけなのに、どうしてわざわざ不気味さを加速させるんだろう。
 空き教室のひとつひとつを開けて、プリントを探す。入って角部屋になっている教室で、ようやくプリントを発見した。

「はあ……よかった」

 入っているプリントは図書館便りだったけれど、出さないよりはましだろうと、私は鞄に突っ込み、今度は飛ばされないようにとしっかりと留めておいた。
 用事も済んだし、帰ろう。そう思ったとき、背後でパサリという音がして、私は足を止めた。
 ……今日は、どうしていちいち得体の知れないなにかに足止めされる日なんだろう。
 私は振り返って、落ちたものを拾った。黄ばんでしまって、製本された背表紙が剥がれかけているけれど、それは青い表紙で『空色』と書かれていた。
 卒業文集かなにかなんだろうか。そう思ったけれど、うちの学校は年齢も生い立ちもバラバラが過ぎるのに、そんなものをつくるんだろうか。
 つくるのを想像してげんなりしてきたところで、暇つぶしにパラリ。と捲ってみた。

背景:晴れ、線路の向こう

 ト書きで延々と綴られたそれは、紛れもなく脚本だった。そこに描かれている話は、瑞々しい文章で、拙いふたりの男女のやり取りが描かれている。
 仲のいい男女。友達とも恋人とも書かれていないふたりが、彼女の転校がきっかけで離ればなれになることがわかっていた。そのふたりが最後に旅行に出かけるという内容で、あちこちに出かける様が描かれている。
 背景には端的に天気と短い情景しか書かれていないにも関わらず、私の瞼の裏には何故かくっきりとその情景が浮かんでくる。
 夏休みに出かけるのだから、きっと緑の深い匂いがし、線路に蒸した砂の匂いがする。廃線の線路の上を、綱渡りのようにはしゃぐ女の子と、それをやれやれと笑いながら見守る男の子。
 転校だけでお別れということは、きっとメールもスマホアプリもない時代……でも男女がふたりで出かけられるくらいに開放感がある時代だから、平成初期だろうと当たりを付けながら、私は次から次へとページをめくっていた。
 瞼の裏に溢れ出す、淡い空の色が次から次へと流れ、ふたりの旅行も終わりが近付いていく切なさに共鳴し、空が青からオレンジへ、オレンジから紫へ、そして群青へと流れていくのを夢中で読んでいた。
 全部読み終わったとき、私は思わず息を吐いていた。
 思えば。オーディションのときも、練習もオーディション自体も大嫌いだったけれど、脚本を読むことだけは、本当に好きだった。
 いったいどんな色の話が書かれているのだろう、フレームの向こう側にいったいどんな色が映るんだろう。想像力を膨らませながら、わくわくしながら読んでいたんだ。
 私はそれをそっと閉じて、取れかけた背表紙を撫でた。誰かがこれを一生懸命書いたのだろう。そう思い、本棚にしまい直そうとしたとき。

『脚本、どうだった?』

 ……ここには、今誰もいなかったはずだ。私は肩を跳ねさせて、ひとまず床を見る。伸びている影は私ひとつ。

『一生懸命読んでたじゃない、ねえ。感想どうだった? 今の時代には全然合ってないと思うけど』
「あ……ああ……」

 屈託のない声で聞かれ、私は恐る恐る振り返った。
 窓が開けっぱなし、私のプリーツスカートが揺らめく中、彼は髪の毛一本なびかせることなく、私を見ていた。
 白いシャツに黒いスラックス。男子の制服は、今は灰色のブレザーで、黒の学ランだったのはひと昔前だと聞いている。じゃあ、私を見ているこの男は。
 私は脚本を持ったまま、一目散に予備室棟を飛び出した。

『あっ、待ってよ!』

 待たない。どうして幽霊に声をかけられないといけないのか。本当だったら、今手に持っている脚本を手放せばこの幽霊はいなくなってくれるんじゃないか。一瞬そう思ったけれど、何故かこれを捨てる気にはなれなかった。

『危ないよ! 僕もこの角で走ってたところで、トラックにひかれたんだから!』

 そう声をかけられて、ようやく私は振り返った。
 私が一生懸命走っていても、学校の子は素通りする。道路は人がいたりいなかったりでまばらだ。私を素通りするように、この男のこともまた、素通りしていた。
 いや、見えていないのかもしれない。だってこの男、道路が透けて見えるんだもの。

「……あんた誰?」

 私は全力疾走して出ない声のまま、かろうじて絞り出したのは、そんな間抜けな言葉だった。それに男は、弾んだような声を上げた。

『あー、よかった。ずっと無視するから、僕のことは見えてないのかもしれないって思った』
「透けてる人間に声かける趣味の人って、相当ヤバイと思うけど」
『ああ。そういえばそうだね。僕もどうして透けてるのか知らないけど。まあ死ぬ直前の記憶はあるから、そんなもんか』

 透けてるし、誰も見えてないし、明らかに幽霊のはずのそれは、悲壮感をちっとも感じさせない態度であははと笑う。
 なんなんだ、本当に。私はイラッとしながらそいつを睨んだ。

「なんで私についてきたの」
『あそこ、前は教室だったんだよ。今は予備室棟扱いされて、あんまり使用されてないけどね。捨てられるかもしれないって思って諦めてたけど、面倒臭かったのかどうか知らないけど、ずっと本棚に立てかけててくれてたから、捨てられずに済んだんだ。あー、よかったあ』

 会話、しろよ。私はイラッとしながら、手に持っていて離れようとしなかった脚本を見る。私がこれを捨てることができなかったのって、こいつのせいなんだろうか。

「で、この脚本を捨てたらあんたはいなくなるの?」
『あっ、やめてよ! それ僕の最後の脚本なんだから!』

 そう言って悲鳴を上げるので、私は面白がって高い高いしたら、この男は涙目になって『やめてったら! そんなことばっかりやってたら、祟り殺すよ!?』と叫ぶので、ピタッと手を止める。

「あんた、私を祟り殺せるの?」
『これでも幽霊歴は長いんだから、本気を出せばいける気がする』
「やめてよ……」
『だったら脚本は大事にして。もう僕は同じものは二度と書けないんだから』

 そりゃ、幽霊がタイピングなんかできるわけないかと、私は納得して腕を下ろすと、男は心底ほっとした顔で「ああ、よかった」とのたまった。
 でもなにひとつ解決してない気がする。

「それで、話がずっと脱線してるけど。あんた誰。これはなに。どうしたらあんたは消えるの」
『そんな矢継ぎ早に質問しないでよ……』

 私の言葉に、男は口をごにょごにょしてから、ようやく切り出した。

『僕は青田夕。元々映画部だったんだ。この脚本は、僕が死ぬ直前に完成したもので……』
「映画部」

 それに私は目をぱちくりとさせた。
 うちの学校に映画部なんてあったっけか。そもそも文化系の部なんてほとんどなかったと思うんだけど。青田と名乗るこいつは、照れたように続ける。

『僕が死んだあとも、映画部の皆でどうにか残した脚本で映画を撮ろうとしてくれたみたいなんだけどさ……上手くいかなくってお蔵入り。映画部も僕の代を最後に廃部になってさ。脚本もそのまんま本棚にしまいっぱなしで今に至るんだ』
「ふうん……」
『僕がここにいる理由はよくわからないけど……この脚本で撮る予定だった絵が見られなかったせいか、この脚本から離れることができないんだ』

 幽霊が未練を残していたら成仏できない。それは使い古されたドラマのシチュエーションのひとつだけれど、実際に青田はそれが原因でここにいるんだから、本当のことなんだろう。
 私は「で、私についてきてどうしたいの」と切り出す。
 嫌な予感しかしないけど。脚本を投げ捨てたいけれど、相変わらず離すことができないでいる。青田はにこにこ笑いながら、言葉を続ける。

『僕の代わりに、この映画を撮ってくれないかな?』
 そのひと言に、私は顔を引きつらせた。
 映画部だったならわかるだろうに。私だって、フレームの向こう側に一度も行けなかっただけで、映画づくりがどれだけ大変かくらい、わかっている。

「あんた、ばっかじゃないの?」
『え……』
「私が撮ったとしても、役者がいないじゃない。最低でもふたりだし、端役を出すんだったらもっといる。カメラどうするの? 撮影どうするの? これ、ちょっとシーンを分割しただけで二十個はある。それを高校生で撮るの? ばっかじゃないの?」

 今はデジカメひとつでもそれっぽい映像は撮れるけれど、あくまでそれっぽいだけで映画にはならない。
 シーンひとつを分割して撮影し、さらに繋がないといけない。
 ときどきドラマでも「このシーンとこのシーン、俳優の髪が違う?」「このシーンとこのシーン、矛盾している?」と首を傾げることがある。それは演出家が撮った映像を繋げたりカットしたりを失敗した場合発生する事故だ。
 映画はざっと見積もっても三十分も満たないショートフィルムだ。それでも二十個もシーン分割してるんだから、いったいどれだけ時間がかかるのか。
 私が一気にがなり立てたけれど、青田はひるむことなく、むしろ目をきらきらと輝かせてこちらを見てきた。

『……すごい』
「はあ?」
『すごいね、映画のことこんなに詳しいなんて! うん、無理な脚本だと僕も思うよ? だから近場で済ませるように、季節のこともぼかして考えていたから、もっとシーンをひとつにまとめて、四つくらいに区切ればいけるかなと思っていたんだけど。まさか二十個だって看破した挙げ句に「無理」って言ってくれる人が現れるなんて思ってなかったよ! すごい!』

 こんなの別にすごくもなんともない。置物同然で映画に関わっていたら、誰だって察することができる話だ。そう青田に言って混ぜっ返すこともできたのに、何故か私にはそれができなかった。
 私ができたのは「別に」と言ってそっぽを向くことだけだった。
 青田はそれでもにこにこと笑う。

『ねえ、君のことはなんて呼べばいい? 映画を撮ってって頼むのに、名前がないままじゃ可哀想だ』
「……まだ撮るなんてひとっ言も言ってないんだけど」
『えー? こんなに映画に詳しいのに? もったいないよ』

 そうなんの迷いもない目をされると、胸の中にドロリとしたものが沸いてくる。イラついてくる。普段の私だったら、間違いなく脚本をぶん投げて、青田がどうなろうか知ったこっちゃないと放置して家に帰っていただろう。
 それでも脚本を手にしたまま、青田をじっと見ているのは。
 ……多分、憐憫だ。こいつは志半ばで死んでしまって、幽霊になって、今も誰にも見つかることもなく、脚本にしがみついているのが、憐れでならないんだ。
 学校に通っていても幽霊のようで、誰にも相手にされない。それは楽だけれど、ときどき自分は透明人間じゃないかと思ってしまう私の同族だと、勝手に設定してしまったんだ。
 私は息を吐いたあと、ぼそりと呟いた。

「……麻」
『え?』
「駒草麻。私も映画撮るなんてはじめてだから、いきなり撮れと言われても、右も左もわからないんだけど」

 私が振り返ると、青田にサーモンピンクの空が透けて見えた。青田の頬が赤いのは、なにも夕焼けを透かして見せているからだけではないらしい。青田は迷いなく私の手を取った。でもスカッと腕が透けてしまい、握手するどころか、手を繋ぐことさえ無理だった。
 それでも、青田はにこにこと笑ってみせたのだ。

『うん、よろしく! 麻!』
「……初対面の人間を呼び捨てな訳?」
『あ、あれ? 君は麻って名前じゃなかったっけ?』

 嫌みのひとつも通じない青田に溜息をつきながら、私は青田を睨んだ。
 透明人間状態だった私を見つけたのが、幽霊の青田だなんて、洒落にならない。
 映画を撮る撮らないはともかく、こいつをひとまずどうやって家に連れ帰ろうかと考えた。そういえば。
 私はふと空の色を仰いだ。
 こんな風に穏やかに空の色を眺めることができたのは、いったいいつぶりだろう。小さい頃からずっと神経をすり減らして、脚本を読んで演技の勉強をしていたのだから、空を仰ぐ暇なんて、ほぼなかったはずなんだ。

****

 一応、ロケには行ったことがある。相変わらず端役だった私は、ほぼ動く大道具同然の扱いだったけれど、かろうじて子役だったことをいいことに、映画俳優のおじさんたちにはそこそこ可愛がってもらっていた記憶がある……今思えば本当にすごい大物俳優ばかりで、それを「おじさん」呼びしてしまえた私の神経は、今よりも太かったんじゃないだろうか。
 役者としてのそれは知っていても、私は監督ではなかったから、映画の撮り方の段取りなんて知らない。家に帰って、早々にスマホを取り出して検索をかけ、メモを取りはじめた。
 私の近くで、青田はスマホを不思議そうに眺めている。

『それなに? 写真が写ってるけど……』
「スマホ。スマートフォン。今はこれで電話したりネット検索したりできるの」
『ねっと……?』

 ……青田の生きていた時代って、もしかしてインターネットがなかった頃なんだろうか。私はしばらく考えてから、「携帯電話って知ってる?」と聞いてみた。
 青田はぶんぶんと首を振る。

『大人はものすっごく大きなものを肩にかけていたと思うけど、携帯電話なんて持って歩くもんじゃなかったよ』
「多分それ、私が生まれる前の携帯じゃないかな……」

 これじゃきっとパカパカ開閉するガラケーだって知らないだろう。パソコンだって怪しいもんだ。ひとまず私は青田を無視することにして、スマホで検索をかける。
 意外なことに、個人で映画撮影をしている人は結構いて、映画スタッフの募集をかけているサイトやら、撮影日記をつけているブログやらも見つけることができた。私はそれらを流し読みしながら、映画撮影のノウハウの書かれたサイトを見つけ、そこに書かれているソフトを眺める。
 うちのパソコンは、お母さんが私に最低限、ワープロソフトと表計算ソフトの使い方だけでも勉強させようと思って買った中古のパソコンだ。あれにこれだけのソフト入れられるのかなと思う。
 青田は後ろからそのソフトも不思議そうに見ている。

『いっぱい箱が写ってるけど、これなにに使うの?』
「……一応聞くけど、ネットもわからないって言ってたけど、パソコンで映画を編集するって言ってもわからないかな?」
『えっ……! パソコンって、大きな会社にしかないものじゃなかったの!?』

 ……やっぱりか。青田はいったいいつ生まれでいつ死んだんだろう。

「ざっくり説明すると、カメラは私の持っているデジカメ……ええっと、デジタルカメラって言うの……でなんとか映像は保存できるけど、それぞれのシーンを切って繋ぐ編集作業をするのに、そういうソフトがいるの。そこでBGMを流したり、余分なシーンをカットしたりするんだけど……わかる?」
『え、フィルムで撮りっぱなしなもんじゃなかったの? そんなの映画会社じゃなかったらできないと思ってたんだけど。素人でもできるの?』

 ……一応パソコンの容量にも寄るけど、その手のソフトで編集できるし、撮れるみたい。使い方はいろいろ撮って編集する練習してからじゃないと使えないけど。
 ひとまず私はそれぞれのソフトの名前と値段を検索し、顔をしかめた。うちにあるお年玉で、いったいどれだけ揃えることができるだろう。
 青田がジェネレーションギャップで苦しんでいる間に、私は値段のことをぐるんぐるんと考えていた。
 子役時代に稼いだお金なんて、本当に微々たるものだ。動く大道具、セリフなんてなし、むしろフレームの向こう側になんて行けやしなかったから、いてもいなくっても同じだった。
 それがなんの因果か、撮るほうに回ろうとしているんだから、世の中どうなっているのかわかったもんじゃない。
 うちのパソコンの容量を確認し、ネットで編集ソフトを注文した。
 そして私の持っているデジカメの充電具合をたしかめてから、それをかざしてみせた。青田はそれも不思議そうに眺めている。

『それなに? 小さいね』
「デジカメ。青田が生きてた頃ってカメラはなかったの?」
『え……こんなに小さくなかったよ!?え、すごいすごい……!』

 私はなにげなく青田をカメラに映してみようとするけれど、肉眼ではたしかに見えるのに、カメラは青田を捉えることはできなかった。
 一応、こいつも幽霊だという事実は変わらないらしい。映らないけど。
 私はマンションから出ると、カメラであれこれと映してみた。
 普段からカメラはあまり好きではない。小中の卒業アルバムにはいつもふて腐れた顔の私が写っていて、女の子たちがなにかあったらゲームセンターでプリクラを撮るのが本気でわからなかった。
 でも。
 少し斜めになった電線、空の青、アスファルトを割っている花。フレーム越しの世界って、こんなに綺麗だったのかと、私は夢中でカメラを回していた。
 今までは、世界に色なんてなかった。いや、あったのかもしれないけれど、私はそれがわからなかった。フレームの向こう側は選ばれた人しか行けなくって、私はいつも置いてけぼりだと思っていたから、新鮮だったんだ。

『ねえ、どんなものが撮れたの?』

 青田にそう聞かれて、私はカメラを見せた。カメラの小さな画面でいちいち映像が確認できるのに、青田は興奮したようにカメラにくっついて中身を見る。

『すごい! 撮ったものをすぐ確認できるんだ!』
「……青田、あんたいったいいつ生まれなの? デジカメをマジで知らないんだね」
『僕が生まれたのは昭和の終わりだからなあ。カラーテレビにはなってたけど、家にパソコンなんてないし、携帯電話だってまだ普及してなかったし、ビデオカメラだって家でビデオデッキで見るものだった!』
「……なるほど」

 カラーテレビは当たり前だし、最近はスマホでだいたい事足りてしまうからパソコンない家のほうが多い。今は固定電話を置いている家のほうが珍しくって、ビデオなんてもう中古屋に行かないとビデオもデッキもないんじゃないかな。
 なんでもかんでも「すごいすごい!」と子供のようにはしゃぎ回っている青田を見ながら、私は「あのさあ」と言う。

「それであんたの脚本だけど、俳優が最低でもふたりいるんだけど。これどうすんの?」
『えっ? 麻の友達にいないの? 女優や俳優できる人』
「……私、友達いないんだけど」
『ふーん』

 そこでそんな反応をするんだ。私はがりっと前髪を引っ掻いた。でも青田はにこにこと子供のように笑っているだけだ。

『きっとなんとかなるよ』
「……いい加減な」
『大丈夫、だって麻の撮る絵は本当にいいよ。これを見せたら、誰だって撮られたくなるから』

 そう言って、しがみつくようにして見ていた私のカメラを指さす。
 私からしてみれば、こんな素人が小手先ひとつで撮った映像のどこに、人を魅了する要素があるのかわからなかったけど、青田と来たら真剣そのものだ。

『それに、監督は俳優を集める前にしないといけないことがあります。既に麻もしていたことで』
「……なに?」
『シーンの割り当てに、撮影ポイントの探索、あと撮影許可を取りにだね』
「……やること多過ぎない?」
『そりゃ取らないと駄目だよ。いろいろと。いい映画をつくるためなんだから』

 そう言われて、私はげんなりした。
 幽霊は自分が撮らないからって、好き勝手なことを言ってくる。
 でも。私は青田の書いた脚本を思い浮かべる。

「……勘弁してよ」

 口ではそう言っていたけれど、あの脚本が絵になるところが見たかった。
 主人公の表情、ヒロインのニュアンス。体温。音。
 それらを絵にするのは、きっとすごいことだと思ったから。
 パソコン室は、週に一度、資格試験の受験者たちに貸し出される以外は閑散としている。印刷は自由だし、ネットサーフィンも思うがままだ。
 だから私は青田がパソコン室の中を面白がって散歩しているのをよそ目に、あれこれとネットで調べていた。本当だったら家のパソコンで全部賄える訳だけれど、私がパソコンを自主的に使っているとお母さんの態度が悪い。
 お母さんは私を子役にしたのはいいけれど、鳴かず飛ばずだったために、今度は逆に堅実路線に行かせたかったみたいだけれど、現実として私は落ちこぼれて単位制高校に入った。そのあたりからますます親子仲は冷え込んでしまっていた。
 お母さんは、見栄っ張りだから。今はそういう人なんだと諦めている。
 それはさておいて。
 ネットで調べていたのは、脚本に手を加える方法。撮影ポイント。それらを時には印刷し、それらをノートにぽんぽんと付箋と一緒に貼り付けていったら、最初は薄っぺたい大学ノートだったそれも、すっかりと皺が寄って波打ってしまっていた。
 それらの作業が終わったら、今度は図書館へと移動する。うちの学校の図書館にはほとんど人がいない。普通の高校だったら委員会活動があるけど、うちの学校だとあってないようなもんだ。図書館には司書以外は、せいぜい本当に本が好きな子が本棚のあちこちで立ち読みしているのが見られるくらいで、人がほとんどいない。
 私は閲覧コーナーに座ると、ノートを広げて中身を見ながら、脚本に付箋を貼りながら書き込みを加えていっていた。撮影したい場所、時間をどんどん入れていく。

『すごいね。麻のセンスはすっごくいい』
「……別に。あんたが生前のときは、もっといいものがつくれたんじゃないの?」

 これは別にお世辞じゃない。今時、映画撮影って流行らないんだ。動画サイトには素人の投稿がいくらでも映っているけど、企業以外のショートフィルムなんてほとんどない。
 そもそも映画なんて誰も見ないもの。最近はレンタルショップだって無料配信サイトに負けてどんどん潰れていっているし、今は映画はお金を払って劇場で見るものではなくて、ひとりでこっそりネット配信のものをパソコンやスマホで見る時代に移り変わっている。そんな中、時代に逆行したことをしている自分が少し馬鹿らしい。
 でも、青田は私の皮肉を否定することなく『ふふっ』と笑っている。

『だっていい時代じゃない。僕の時代だったら、もっとたくさん人を集めなかったら映画なんてつくれなかったけど、今は映画好きがちょっと集まればつくれるんでしょう? それってすごいことだよ』
「またいい加減な……」
『だって嬉しかったんだ、麻のカメラを見たとき』

 私の下手っくそなカメラ映像のどこが、そんなに青田の琴線に触れたのかはよくわからない。ただあの映像を見てから、隙あらば青田は私のことを褒めちぎってくる。
 青田は顔をくしゃくしゃにして笑いながら、続ける。

『あの絵はただ撮ったんじゃなくって、物語性があった。だから、麻だったらあの映画が絶対に撮れるって』

 それに、私はギクリとした。
 ……たしかに、これは「この絵がこのシーンの間にあったらいいな」「この絵の中でこんなBGMが流れたらいい」と考えながら撮ったものだ。でもシーン分割していても、私の書き方だと映画を撮っていたはずの青田から見たら滅茶苦茶で、絶対にわからないと思っていたのに。
 青田がにこにこ笑っているのに、私はただ「ふうん」としか返せなかった。
 気恥ずかしくなって、そのままノートを閉じる。すっかりごわごわして閉じにくくなったそれを無理矢理鞄に押し込んで、「帰ろっか」とそっと青田に言って、図書館をあとにするけど。

『麻、麻』

 青田はちらちらと図書館を見ながら、私に声をかけてくる。

「なに、もう帰るよ。今日はやることないし」

 まだ図書館にいたかったんだろうか。そうは言っても、青田は物に触れられないし、本なんて私がいないと読むことだってできないはずなんだけど。
 青田は顔を青ざめさせて、こう訴えてくる。

『脚本! 図書館に置きっぱなし!』
「あ……」

 まずいまずい。脚本なんてあれ一冊しかないのに、いろいろ書き込んだあとなのに。こいつが成仏するしないはともかく、やりかけたことを放置するのも据わりが悪い。
 私は慌てて図書館に戻ると、司書さんがこちらのほうに「図書館は静かにね」とやんわりと声をかけてきたので、思わず頭を下げる。
 閲覧席で私と青田が使っていた席を見ると、既に誰かが座っていた。
 この学校の制服を珍しくきちんと着ている子で、髪は今時珍しいお下げ。メガネに嵌め込んだレンズは瓶底のように分厚く、その子は真剣な顔で読んでいたのは……私がさんざん書き込みを加えた脚本だった。

「あの、ごめん。それ返して」

 私が声をかけても、その子は必死で脚本に目を追っている。私はイラッとして、声を張り上げる。

「あのっ、ごめんっ、それ返してっっ!」

 途端にその子は肩をオーバーなくらいにビクンッと跳ねさせて、こちらを見上げた。目尻には涙が溜まっていた。

「ご、ごめんな、さ……い……」
「うん」

 そのまま脚本を鞄に入れて帰ろうとしたら、今度は青田がぐいぐいと私の腕を掴んできた。こいつが腕を掴んできてもなにも感じないけれど、こいつの顔が仰け反らないといけない近付くのはよろしくない。

『麻、麻! この子! この子いいよ!』
「……なにが」

 私を涙目で見上げて縮こまっている子に聞こえないように、声を萎ませる……オーバーリアクションしても見えない人間だということを、青田は自覚したほうがいい。
 青田は、私がカメラを見せたときと同じくらい、頬を紅潮させながら興奮している。

『この子、「空色」の主人公にいいよ! すっごくいい………!』
「……はあ?」

 青田のひと言で、私はもう一度彼女を見下ろした。この子はおどおどしながら、肩を竦めさせながらこちらを窺い、小さく小さく言った。

「ご、ごめんなさい……人のを、勝手に読んで……」

 小さい声だけれど、鈴を転がしたように通る声だ。
『空色』の主人公ふたりは、しゃべっている感じを見ても、転校する女の子はにこにこ笑って屈託がなく、自由奔放にあちこちを歩き回り、男の子を困惑させる役回りだったはずだ。たしかに夕焼けのシーンで、彼女の囁いた声は映えると思う。
 でも……。
 幼稚園の頃から腹式呼吸をさんざん仕込まれた私からしてみれば、まずどんなに声が通っていても、声が出ていないように聞こえる。たしかに演技っていうのは、声が出る出ないだけで判断できるもんじゃない。でも最低限マイクで拾える声じゃなかったら話にならないのは事実だ。

「……滑舌が悪い」
「えっ?」

 いきなり私に駄目だしされて、びっくりしたように彼女は目を丸くした。

「声はいいけど、それじゃ演技にならない」
『演技って、声だけでするものじゃないよ?』

 青田はむっとしたように反論するけれど、私は言う。

「目は口ほどに物を言うって言うけどね、目はメガネで隠れてるし、声は出てないし、どんなにいい表情をしていい声を持っていても、話にならないの。映画撮ってたんだったらわかるでしょう?」
「あ、あの……」

 私の白熱してきた態度に、青田はなおも声を張り上げる……なんで幽霊のほうが人間よりも声が大きいんだ。こっちだってさんざん抑えてしゃべっているというのに。

『磨かなかったら、どんな宝石だって原石のままなんだよ! いいって思うんだったら撮るべきだ! 磨けば、光るんだから!』
「訳わかんない。駄目だって言っているんだから駄目なの!」

 だんだんと声が大きくなってきたのに、見かねて鈴を転がしたような声の彼女は「あ、あのう!」と声を上げる。

「ご、めんなさい……その……怒らせてしまいましたか? えっと、駒草さん」

 そう言われて、私はようやく気が付いた。
 普段から授業はやる気があったりなかったり。クラスメイトともまともにコミュニケーションを取っていない私は、この子がクラスメイトだということに、今の今まで、気が付かなかった。ええっと……名前が思い出せない。

「ごめん、誰だっけ?」
「あ、私のほうこそ……矢車……百合です」

 そう言ってはにかんで笑った。なるほど、たしかに聞き覚えがあるような、ないような気がする。
 そのはにかみ具合を夕焼けで透かして見れば、たしかに絵として映える。私はやっと青田が言いたいことがわかったような気がした。

「矢車さん。映画は好き?」
「はい?」

 唐突な申し出に、当然ながら矢車さんは困惑していた。
 まさか、脚本を残して死んだ幽霊を成仏させるためなんて本当のことは言えず、かいつまんで怪しくない部分を説明した。
 たまたま空き教室で映画部の脚本を見つけた。これの映画を撮りたいから、いろいろ勉強している。俳優が見つからないから困っている。あなたはイメージにぴったりだから撮りたい、みたいな。
 青田は私の横でうんうんと頷いている。

『そうだよね、麻は友達いないから』
「いい加減にしないと、これ反故にするよ」
『ひどいよっ』
「ひどくない」

 私がボソボソと青田と言い合っている中、矢車さんは困惑した顔のまま、さっきまで読んでいた脚本の表紙を眺めていた。ただでさえ経年劣化が進んでいた脚本は、私があれこれと書き込みを入れたせいで、いよいよ駄目になって、いつバラバラに分解されてもおかしくないところまで来ている。
 矢車さんは「あのう……」と口を開く。

「私、映画のことはよくわからないんですけど……」
「別に。私も少し囓ったことがあるだけで、詳しい訳じゃないし。でも撮ってくれるのに協力してくれたら嬉しい」
「でも……その。駒草さんが主演じゃ、駄目なんですか……?」

 そう言われて、私はきょとんとする。
 私はフレームの向こう側には行けなかった人間だ。人よりも撮影の場数は踏んではいるものの、私の出番はいつだってカット。カット。カットカットと続いていた。
 その私に、映画の主演が務まるとは思えない。そもそも、誰がカメラを回して、誰が演技指導すればいいんだ。私は首を振る。

「私じゃ駄目。演技しながら演技指導なんて真似、できないから。そもそもカメラを誰が回すの」
「あ……それも、そうですよね……」

 なにもしてないのに、おたおたする矢車さんはやりにくい。私は苛立つ気持ちと声を抑えながら、もう一度言い含める。

「あなただったら、一番いい絵が撮れると思うから」
「わ、たし……」

 矢車さんはまたも、おたおたとしながらそっぽを向いてしまう。
 ……なんでこんなにやりにくいんだろう。そうは言っても、仕方がないか。
 単位制高校に来る連中なんて、私も含めて、皆なにかを抱えているんだ。適当に世間話ができればまだいい。見ている番組、しているアプリ、年も背景もばらばらだったら、普通の学校でだったらできるはずの世間話なんてできっこない。だから皆、当たり障りなく、腹に一物抱えていても気付かないふりして生きるのが、この学校では必要なことだから。
 私は息を吐いた。別に怖がらせるつもりはない。

「嫌だったら断ってもいいよ? 他を探すから」
「こ、駒草、さん……!」
「なに?」

 私は今度こそ図書館を出ようとしていたとき、おたつきながらも、スカートの裾を掴みながらも、矢車さんは声を上げた。

「この脚本、本当に素敵で……最後、思わず泣いちゃって……で、でも。完成してないんだったら、これ、完成させないと見れないんだよね……?」

 ……言いたいことはわかるけど、矢車さんは感情任せにしゃべっているから、言葉が本当にたどたどしい上に、相変わらず呂律が回っていない。
 これは、撮影はじめるまでに発声練習させて矯正しないと駄目かもな。私はそう思いながら、口を開いた。

「うん、完成させないと、見られないよ」
「わ……たし……この、話が好きで……完成させないと、駄目だよね……? 私でよかったら、出、たいです」

 そこまで言い切ってから、矢車さんは顔を真っ赤にさせて、首をかくんと落としてしまった。
 ……しゃべるのが本当に苦手だろうに、ここまで自己主張したんだから、答えないといけない。

「……よろしく、矢車さん」
『やったやった、女優を確保できた!』

 青田はまるで自分の手柄のように飛び跳ねているのが癪だった。これは、私もあんたもなにもしてないだろうが。
 矢車さんに脚本を読んで、イメージをまとめてもらわないといけないから、慌ててコピー機で全部コピーして、ホッチキスで留めた。本当だったらきちんと製本して渡すべきだろうけど、そんなスキルは私にはない。

「これ、読んできて感想聞かせて。撮影のときに参考にするから」
「う、うん……」

 矢車さんはペコン。と頭を下げた。
 一緒の道ではないから途中で別れたけれど、ちらりと見た矢車さんは背中を丸めながら、大事に大事に脚本を読んでいるようだった。
 私の近くでは、青田が浮かれてくるんくるんと回っている。きっと皆に見えていたら、得体の知れないなにかを見る目で見られていたことだろう。

『やったやった、女優が見つかるなんて! あとひとり! あとひとり見つかったら、撮影ができる!』
「そうは言ってもね……あとひとりが大変なんだと思うんだけど。あんただって知ってるでしょ、うちの学校のこと」

 浮かれている青田がヘコむようなことだけれど、本当の話だ。
 うちの学校は単位制高校で、普通の高校とは違う。ここに通っているということは、皆多かれ少なかれ脛に傷を持っているのだ。
 矢車さんみたいに普通の子……まあ、あれだけ滑舌が悪いんだから、きっと訳ありだろうけれど……なんて珍しい部類だ。男子は、大概は不良崩れか、女遊びのひどい奴だ。そんなんを女だけでスカウトなんて、まず無理だろう。
 せめてどこかの女性劇団みたいに男装の似合う女子がいたらいいけれど、そんな子はうちのクラスにだっていなかった。ただでさえ、単位制高校では女子の数は少ない。他のクラスも考えたら、絶望的じゃないかと、ついつい思ってしまうのだ。
 私の言葉に、青田が『ふふん』と笑い声を上げる。なんで。私は半眼で青田を睨むと、青田は浮かれたまま笑っていた。

『本当に、麻は映画が好きだね。こんなに真剣に考えるなんてさ』
「……うるさい、あんたがうっとうしいから、早く成仏してほしいだけ」
『なんとかなるよ。風は吹きたいときに吹くし、吹かないんだったら待てばいいんだから』

 なんで唐突に詩人みたいなことを言うんだろう。
 青田を睨むと、青田は空の茜色の夕焼けを透かしながら、のんびりと空を仰いでいた。
 ……人に景色が透けて見えるなんてありえないもの、どうやったらフレームに収めることができるんだろう。
 未だにカメラは肉眼ほどに色を綺麗には映してくれないし、青田の姿は間違いなくカメラに収まらないってわかっているのに、私はそう思わずにはいられなかった。
 青田は、本当にずるい奴なんだ。

****

 次の日、学校に向かう。廊下はあちこちに喫煙スペースがある。禁煙ブームが続いているけれど、この学校の生徒の過半数は社会人で、なにかと事情で働きながら学校に通っている人が多い。だからストレス発散で吸う煙で、いつも廊下は霞んで見えた。
 教室は授業以外ではほとんど誰も会話をしないし、なんとなくしにくい雰囲気があるから、図書館前の廊下で落ち合うことにした。
 矢車さんは何度も何度も読み返したらしく、たった一日しか経っていない脚本がすっかりよれて型がついてしまっていた。

「おはよう、脚本読んでくれた?」
「う、うん……が、んばって……覚えた」
「そっか」
『すごいね!』

 青田はまたも目をきらきらさせてクルクルと回っている。視界の暴力だと、私はそっと首を逸らすと、矢車さんは「駒草さん?」とキョトンとした顔をした。
 頬を紅潮させている青田は、きらきらした目で矢車さんの手を取ろうとするけれど、透けているから当然手は掴めないし振り回すこともできない。

『すごいね! 一日で脚本覚えてくれるなんて! そんなに気に入ってくれたんだ!』

 青田が当たり前なことを言っているのに、私ははっとしてしまった。
 私にとって、脚本とは覚えて当たり前なものであって、逆に言ってしまえば覚えられないのは話にならないと言われていることだった。
 だって丸暗記しないことには、演技なんてできないし、演技の調整だってできやしない。そしてセリフは自分のセリフだけ全部覚えればいいってもんじゃない。相手と会話のキャッチボールをする以上、相手のセリフだって覚えないといけない。また読み合わせの段階で主演ふたりの波長に行き詰まりが生じれば、その都度脚本だって書き換えないといけなくなるから、その分覚えたセリフを一度全部忘れて新たに覚え直さないといけなくなる。
 私は青田が言う当たり前な褒め言葉を思い返して、口にしてみる。

「すごいね、ひと晩で全部覚えるなんて」
「えっと……本当に好きな本だったら、全部読んで、セリフとかも丸暗記できるんです……で、も……本当に、できる、かな?」

 やっぱりどもり口調がひどく、途中で雑音が混ざってなにを言っているのかが聞き取りにくい。私は脚本を確認しながら、矢車さんに言ってみる。

「まだ役者が足りないから、セリフの読み合わせくらいしかできないけど、私と一緒にやる?」

 そう尋ねてみると、矢車さんはビクビクと過敏な反応をしながらも、頷いてくれた。
 私も一応昔取った杵柄で、セリフの丸暗記くらいはしている。こうして、私たちはセリフの読み合わせをはじめたけれど。

「わ、たし……もうすぐ、転校するんだ」

 ……素人とはいえど、矢車さんの演技は本当にひどいものだった。
 第一にセリフこそ丸暗記しているものの、本当に丸暗記しているだけなのだ。棒読みもいいところで、その上滑舌があまりにもよくない。最初は私がやんわりと「もうちょっとはっきり言ってみようか」とやり直しを要求していたものの、こう何度も何度も続いたら、だんだんと腹が立ってきた。

「……矢車さん、脚本丸暗記は偉い。でも、声が出てない」
「あ……ごめんなさい」
「謝らなくっていい。喉で演技をしても声がかすれるだけで意味がない。腹から声を出して」
「ど、どうやって……!」
「こうやって!」

 私は思わず矢車さんの鳩尾に拳を押し当てると、当然ながら矢車さんは驚いた顔で、私の拳と鳩尾を見た。

「私の拳が動くくらいに、声を出してみて。喉から声を出さない。この当たりを意識してみて」
「えっと。うん。あ・え・い・う・え・お・あ・お……」

 ……うっかりしてたなあ。私は内心がっくりとした。
 私にとって、腹式呼吸は当たり前のことだった。どんなにフレームの向こう側に行けなくても、いつカメラで撮られてもいいように、腹筋と背筋は欠かさず行い、朝から早口言葉の練習をして、滑舌を鍛えるというのは日常茶飯事だった。ううん、今は子役でもなんでもないけれど、十年近い習慣は、しなくなったら気持ち悪くって、今でも日常の一部として行っている。
 矢車さんは脚本の丸暗記ができるくらいだから、やる気はあるんだろう。ただ、役者をする上での基本的なことはなにひとつできていない。
 一生懸命声を出す矢車さんのおかげで、私の拳もだんだんヒクヒクと動きはじめた。いい具合。そのまま彼女が一生懸命声を出していると。

「こら! こんなところでいったいなにやってるんだ!」

 突然大声で怒鳴られて、私たちはきょとんとして振り返る。
 こちらにズカズカとやってきたのは、工事現場でよく見るつなぎを着た大男だった。熊みたいにずんぐりむっくりしているけれど、腕も肩も筋肉が張っているのがわかる。きっとうちの学校でよくいる、働きながら学校に通っている人だろう。
 その人は肩を怒らせながら私の手首を握り、ひょいと持ち上げてくる。……痛い痛い。この人、見た目通りに力が強い。

「こら! 女の子同士で喧嘩はいかん!」
「……え?」
「はい?」
 私たちが同時にきょとんとした声を上げたのに、今度は大男のほうがきょとんとした顔をして見せた。目は存外にくるんくるんしていて、大男のものは思えないくらいに可愛らしい。

「ええっと、そっちのモデルさんみたいな子が、大人しそうな子を殴っているように見えたんだが……違ったか?」
「あ、これ?」

 私はもう一度矢車さんのお腹に拳をつくって手を当てると、意味が理解できたらしく、矢車さんは「あ、え、い、う、え、お、あ、お」と腹式呼吸で声を上げた。
 それに大男はびっくりしたように目を瞬かせた。

「ああっ、すまんすまん。演劇部の練習だったか……!」
「いえ。演劇部じゃないです。というか、うちの学校にありましたっけ?」
「じゃあ、それは?」
「映画を撮ろうと思って。素人監督に素人女優で大したことないですけど」

 私が淡々とそう告げると、矢車さんは大男にビクビクしながら、私の言葉に同意する。

「きゃ、くほんは……全部、覚えられたんです……でも私、演技は全然で……まずは駒草さんに声の出し方を指導してもらってたんです」

 たどたどしいながらも、矢車さんの説明を受けて、大男はようやく納得したように顎に手を当てた。

「ああ……すまんすまん。映画かあ……今って映画は大きな映画館以外だと全然見ないから、思いもつかなかった」
「いえ。私たちのこと放っておく人のほうが多いのに、声かけられたのは初めてです」
「そうかそうか! でも……たったふたりで映画を撮るのか?」

 当然なことを言われて、私と矢車さんは顔を見合わせた。青田は私の横でひょこひょこと踊っている……なんで踊るんだ。

『そりゃね。見てた限り、麻はびっくりするほどに人を怒らせてばかりだからね。今の時代の人って短気だから、最後まで麻の話を聞かないからかもしれないけれど』
「青田うるさい、ちょっと黙ってて」
「ん? あおた?」
「すみません、こっちの話です」

 また青田のせいで、私が変人みたいに思われてる。私が思わず横をきっと睨むけれど、青田はひらひらとフラダンスみたいな踊りを踊っているだけだ。だから、なんで踊るの。
 大男の問いには、矢車さんがたどたどしく答えてくれる。

「ま、だ……人が集まっていないみたい、で……私も、駒草さんにスカウトされただけで、未だに他の配役は、決まってないです」
「ふむふむ……てっきりふたり芝居でもすると思ったんだが……そうかそうか。それ、俺も読んでみていいか?」

 大男はひょいと矢車さんに渡した脚本のコピーを指差すので、矢車さんはそれを怖々と渡した。大男は太い指でぱらぱらとコピーをめくる。途中で「はあ……」とか「ほーん」とか言いながら読むのに、いったいなんなんだろうと思って見ていたら、ぱたんと脚本を閉じた。

「はあ……大したもんだなあ、この脚本。セリフしか書いてないのに、本当に面白かった。これ、君が書いたのかい?」

 私を指差すので、思わず首を横に振った。書いたのは青田であり、私はあくまでこいつの成仏のために撮る側に回っただけだ。私の反応に、矢車さんも意外そうな顔をする。

「あれ……? この脚本、駒草さんが書いたんじゃ、なかったんですか……?」
「私は書いてない。たまたま映画部の脚本が手に入っただけ。全然誰も撮影してないから、私が撮影しようと思っただけ」

 そう言うと、青田はにこにこしてこちらの横顔を覗き見てくるのに気付き、私は苛立って足をガンッと蹴り上げた。そしたらオーバーリアクションで、『痛いっ!』と跳ねて叫んでくれた。
 それに大男は納得したような顔をした。

「ふうむ……脚本だけ残ってるのを、こうして形にしてみようと思ったのかあ……そうかあ、いやあ。高校生って面白いなあ」

 そう言ってカラカラと笑う。
 どうにも、同じ学校に通っているんだから、便宜上は自分も高校生だってことをわかっていないらしい。まあ、見た感じ私たちとはひと回りほど離れているから、同じ学校の生徒だっていう実感が沸きにくいんだろう。
 私がそう納得したところで。青田はまじまじと大男の隣に立って彼を上から下まで眺めてはじめたのに、私は内心ギクリとした。
『空色』の脚本には、主な登場人物は男の子と女の子と書かれている。エキストラとして、地元民とだけ書かれて、セリフもほとんどアドリブとしか書かれてない存在がいるから、メインふたりさえ決まればいいけど。
 目の前のずんぐりむっくりしている人を、もうひとりの主役にしよう、なんて思ってないでしょうね……?
 脚本を読んだ限り、矢車さんは大根役者とはいえど、イメージとしては限りなく女の子の役に向いているけれど、この大男は男の子というには年が離れすぎているし、あの切ない雰囲気の脚本に、こんな人がメインを張ってしまったら、言っちゃ悪いがムードぶち壊しだ。もし矢車さんのときみたいに『彼がいい』とか言い出したら張り倒してやろう。そう私が勝手に決心していたら、ようやく青田が戻ってきて、私に進言してきた。

『ねえ、この人も映画づくりに巻き込めない?』
「……言っておくけど、もし主役のひとりにするなんて言い出したら、あんたをぶん殴るからね」
『いや、肉体労働なんだねえ。筋肉すごい。これだったら、逃避行中に出会うトラックの運転手役にも合うし、なんだったらトラックのシーンをワンカットつくって調整してもいい。なによりも、ロケに行くときに車の運転してもらえるんじゃないかなあ』

 そうマイペースな青田の言葉を聞いて、ようやく気がついた。

「あの……私は、二年の駒草って言います。あなたは……?」
「ああ、俺ぁ蓮見嵐って言うんだけど。トラック転がしながら、休みの日に学校に来てる」

 そう屈託なく笑うのに、私は青田と顔を見合わせた。隣には矢車さん。矢車さんは蓮見さんが割といい人そうなのを見て、私と一対一でしゃべっていたときよりもリラックスしているみたいだ。
 私だと、どうしても同い年の子を怖がらせるか怒らせるかなしゃべり方しかできないし、社会人やってる蓮見さんのほうが落ち着いてるみたい。
 意を決して、口を開いた。

「あの……映画撮影に、協力してもらえませんか? まだ役者も全然揃ってないんですけど、男手があったほうが助かることもあるんで」
「おう? 俺みたいなずんぐりが映画なんかに出ても、そこのお嬢さんの相手なんか務まんないだろ?」

 あっさりと言ってのける蓮見さんに、矢車さんは勝手に肩を強ばらせた。だから、蓮見さんを主演にする気は全くないんだったら。
 私は蓮見さんの言葉に、軽く首を振った。

「別に役はいくらでもありますから。私は演技指導とカメラがありますから、演技することができませんし。他の役者をスカウトするのに、女ふたりでするのもなかなか難しいですから」
「ああー……そういう」

 この人も、うちの学校の柄の悪さで声をかけにくいことがわかってくれたらしい。納得したように顎を撫で上げながら、笑った。

「おう。そういうことだったらいいぞ。まさか、この年になって高校生とまともにしゃべれるとはなあ……!!」

 そう言って笑うと浮かぶえくぼが、蓮見さんみたいな大柄な人をチャーミングに見せるんだから、いろいろとすごい。
 これで、あと主演のひとりが見つかったら、もっとちゃんとした練習や撮影がはじめられるのかな。
 私は隣にいる青田を見た。青田はにこにこと、心底楽しげに笑っていた。こいつは、どんなにカメラを回しても撮れないのだから、少しだけ悔しいと思った。
 相変わらずもうひとりの主人公に見合う役者は見つからないものの、それ以外だったら撮影ができるようになってきた。
 蓮見さんは大柄で力持ちだけれど、意外と繊細な仕事も長けていて、いちから衣装を仕立てるのは無理でも、買ってきた安い服をそれっぽく見えるように飾りを付け直すくらいはできて、量販店で安く買った衣装も、『空色』のイメージに合うように平成初期の雰囲気に仕立て直すくらいはできた。

「す、ごい……」

 平成初期に流行ったお嬢さん風のワンピース。この今だと絶妙にださい感じを、既製品の服に刺繍を施してそれっぽく仕立ててくれた蓮見さんに感謝だ。
 蓮見さんはのんびりと頷く。

「ひとり暮らしだと、自炊もボタンの縫い付けも自分でやらないといけないからなあ。ジーンズもアップリケするとあんまりにダサいから、刺繍でダメージジーンズみたいに誤魔化す術でマスターしたんだけど、それっぽく見えたらいいなあ」

 ……そんな技術、自力で覚えられるもんなんだろうか。私はちらっと青田を見ると、青田は浮かれて、見えないのをいいことに矢車さんの真横に行って、勝手に手でフレームをつくって、その中に矢車さんを映し出してる。

『うんうん、イメージぴったり! 力仕事手伝ってくれたら嬉しいなって思っただけだったのに、まさかこんなすごいことができるなんて! いやあ……麻、人徳が全然ないから、こんないい人連れてこられるなんて思ってもみなかったよ!』
「人徳ないとか余計。あと矢車さんに近過ぎ、離れて」

 私が小さい声でパクパクと青田に文句を言っていても、青田は矢車さんの回りをぐるぐる回って、ついでに背景も手に収めて、『うんうん』と唸っている。
 この映画馬鹿は、セクハラも映画撮影のために必要って思ってるんだったらぶん殴ってやらないと。……殴れるかはともかく、気分の問題だ。
 矢車さんはというと、ワンピース姿で恥ずかしそうだ。

「あ、の……私、未だにちゃんとしゃべれなくって……大丈夫、かな……?」

 そう相変わらず引きつった声で言う。でも、私が課したレッスンのおかげで、前よりも大分声が出るようになったことだけは事実だ。
 私は矢車さんの近くに寄ると、拳を彼女の腹筋に乗せる。

「しゃべってみて」
「あ、うん……あ・か・ん・ぼ・あ・か・い・な・あ・い・う・え・お……」
「前よりもくっきりと声が出せるようになってる、大丈夫」
「う、うん……」

 元々怖がりらしくって、すぐにどもるけれど、どもらない彼女の声は本当に澄んでいるし、ちゃんとマイクで拾って撮りたい。私はそう思いながら、ちらっと空を見た。
 今日は天気予報では一日晴れだと言っていた。
 木漏れ日がそよいで、いい具合に影が落ちている。私は手持ちのカメラでそれらを撮影しながら、矢車さんに「少しだけ化粧しようか」と提案する。

「化粧……?」
「このまま撮ってもいいけど、カメラのフレームを越えると、地肌はどうしても色がくすむから。少しだけ色を添えて映えさせるようにするの」
「わ、かった……」

 自分でデジカメとはいえど、カメラを持ってみてわかったのは、肉眼では拾える色が、カメラのフレーム越しだとなかなか拾えないということ。
 例えば淡いピンクでも、フレーム越しではその淡さを拾いきれずに白くしか映らないことだってある。だから化粧して、フレーム越しでも肌の色を際立たせるように撮るのだ。
 青春ムービーなんだから、肌の色、浮かんだ汗、光と影のコントラストは必要最低限撮らないといけない部分だ。
 私はカメラから一旦手を離し、代わりに鞄からポーチの中身を取り出して、矢車さんの肌を撫ではじめた。
 つるんとした化粧っ気のない肌に、BBクリームを薄く塗りたくると、上からパフでたっぷりとパウダーを塗る。肌に立体感が出るように整えてから、最後に口にうっすらと限りなく彼女の肌色に合うルージュを選んで差す。
 それを横目で見ていた蓮見さんは、顎を撫でていた。

「はあ……すごいな、こういうのをナチュラルメイクっていうのかい?」
「ナチュラルメイクって、限りなく素肌に見えるように塗ってるだけで、工程が全然ナチュラルでもなんでもないんですけどね。そうです」

 私が鏡を見せると、矢車さんはびっくりしたように鏡を持っていた。

「すごい……どうして、駒草さん、こういうことできるの……?」

 そう言われてしまったら、私も困ってしまう。
 こんなフレーム越しのことを気にするような化粧スキル、普段使ったら厚化粧過ぎてしょうがない。子役時代、私みたいなカメラに背景としてすら収めてもらえない場合は、当然ながらプロのメイクさんがついてくれる訳もなく、親が施すか自分で化粧を覚えるしかなかったから、時間の惜しさで自分で化粧して学んだテクニックだ。映画撮影なんてはじめなかったら、こんなテクニックのことすら忘れていただろう。
 私は矢車さんに問いかけにどう答えようと考えた末に、「やろうと思えば誰にでもできるよ」とお茶を濁した。

『麻はせっかく映画を撮るのを手伝ってもらえるんだから、もっと甘えたらいいのに』

 まるでむくれた子供のように言う青田の言葉を聞き流して、私は再びカメラを構えた。
 たくさんシーンを切ったけれど、学校内で撮れるものは撮ってしまったほうがいい。今から撮るのは、最初のシーン。
 夏休み開始直後に、転校することを告げるシーン。
 私は何度も何度も矢車さんに指導してから、イメージ通りの場所に立たせる。

「それじゃ、アクション!」

 私がパチンと手を鳴らすと、さっきまではにかんでいた矢車さんの顔がすっと引き締まる。彼女も役に入ってくれたんだろうと思って、ほっとする。
 私はカメラを通して、矢車さんの演技に目を細めた。
 矢車さんはぷらんぷらんと影がそよぐ中歩き、こちらのほうに振り返る。
 もう矢車さんではない。
『空色』の主人公だ。

「私、転校するんだ」

 たったひと言のシーン。その間に、カメラでどんどん彼女のアップを撮っていく。
 肌に木漏れ日の光が反射して、つるんと頬を照らし出す。
 そよぐ木漏れ日に、プリーツのスカート。彼女の髪の先も揺れ、一歩歩くたびに絶妙な影を落としていく。
 あまりにイメージ通りのシーンで、ようやく「カット」と口を開こうとしたとき。
 矢車さんの影に異物が入った。

「あぁん、もう。うるさいんですけどっ!?」

 甲高い男の声に、私は音を拾ってしまわないよう、慌ててカメラの電源を落とす。
 さっきまで演技していた矢車さんも、突然の声を肩をぴゃっと跳ねさせて振り返ってしまった。せっかくいい演技ができていたのに、これじゃ次いつ演技に入れるかわかったもんじゃない。
 こちらのほうにズカズカと近付いてきたのは、ダルンダルンに制服を着崩した、金髪の男子だった。顔の造形が日本人離れしていて、ハーフかなにかかと察する。

「なに? 私たち、さっきからずっとここ使ってたんだけど」
「ここは俺が先客。なんで勝手にカメラ回してんだよ、SNSにでも上げるのかよ」
「別に上げないけど」
「ええ……? マジで……?」

 なんだろう、この絶妙に絡みにくい間の男子は。私自身が絡みやすいかといえば、答えは否だと思うんだけど。
 矢車さんはこの手の男子が苦手なのか、ぱっと蓮見さんの後ろに隠れてしまった。蓮見さんは頬を引っ掻いて男子に声をかける。

「あー、すまんなあ。映画撮影してたんだよ」
「はあ? 映画?」

 男子はぴくんと眉を持ち上げる。そして「はんっ」と鼻で笑った。

「誰も見ない映画撮って、人の邪魔か。暇人だな」

 それに青田は頬を膨らませる。

『なんでそんなこと言うのさ! そりゃ先客いる場所で撮影はじめたこっちが悪いけど!』

 私は、その男子に文句を言う気にもなれなかった。ただ、「そう」とだけ言ってから、蓮見さんの後ろで脅えている矢車さんに声をかける。

「矢車さん、撮影いけそう?」
「え……っと……んと……」

 こりゃ、この男子がどいてくれないと撮影続行は無理っぽい。私は再び男子のほうに顔を向けて切り出す。

「いつ?」
「はあ?」
「いつ撮影終わったら納得してくれるの? 今日を逃したらしばらく晴れはないから、今日中に撮れる部分は撮っておきたい」
「おま……追い出そうとしてるのわかんないのかよ?」
「ここって学校でしょ? 生徒は立入禁止区域以外は自由に行き来していいと思うんだけど。それともあんたは委員かなんかの権限で私たちを追い出せるの?」

 矢継ぎ早に男子に言葉をぶつけたら、さすがに男子もひるんだみたいだ。こちらには運よく体格のいい蓮見さんもいるし、女子に暴力振るおうなんて思わないだろう。
 男子は一瞬呆気に取られたような顔をしたあと、「ちっ」と舌打ちをした。

「……終わったらどけよ」
「ありがとう」

 男子はぷいっと背中を向けて校舎のほうへと戻っていった。矢車さんはまだ蓮見さんの後ろで震えている。私は矢車さんの傍に寄ると、彼女は視線をあっちこっちへと向けている。……重傷だ。
 私は溜息をついてから、矢車さんと向き合う。

「あいつはいなくなったから。撮影に戻ろう?」
「う……うん……」

 私はさっきの男子を殴りたくて仕方がなかったけれど、そのむかつきは切り捨てた。
 あの男子は、少し前の私に似過ぎていて、イライラしたんだ。
 どうも男子は矢車さんの地雷を踏み抜いてしまったらしく、さっきまであれだけ自然な演技ができていたのに、言動がギクシャクとして、カメラを回してもぐだぐだな演技しかできなくなってしまった。

「カット! ごめん。何度も。矢車さん一旦休憩にしよう?」
「ご。ごめんなさ……」
「いいよ。別に。はい、お茶」
「あ、りがとう……」

 今日は天気もいいから、汗も噴き出る。折角化粧した矢車さんの化粧も剥げはじめていたので、あとで化粧をし直さないといけない。
 矢車さんは私の渡したペットボトルを傾けてからも、落ち込んだように膝に視線を落としていた。それに蓮見さんはやんわりと声をかける。

「あんまり気にすんなよ。お前さんもいい演技をしてただろう? 今はちょーっと調子が悪いだけだ」
「は、い……あの」
「んー?」

 私も黙って脚本に視線を落とし、撮影が終わった部分にチェックを入れながら、矢車さんの言葉に耳を傾ける。

「……わた、し。男の子が、苦手で……」
「ん? でもこの学校、八割がた男だろう。どうしてここに?」
「……い、じめられてて……内申点、ガバガバで……行、ける学校も少なくって……単位制高校だったら、ま……だ、行けそうだったから……お、となの人とは、しゃべれるんで、すけど……同い年は……ほんとに……だ、めで……」

 これは矢車さんにとって精一杯出した勇気だったんだろう。いつも以上にひどい滑舌に拙い言葉。それに私は耳を傾ける。
 それに蓮見さんは、太い腕を組んで「ふーん、そうかあ……」と声を上げる。
 意外だと思ったのは、大人というものは大概「そんなの言い返さないからだろ」とか言い出すのに、蓮見さんはそういうことがなかったことだ。
 大人というものは、自分が子供だったことを忘れて、勝手に「言い返せばいい」「言い返さないほうがおかしい」「問題があったのはそっちなんだろう」と、弱いほうに難癖を付けて追い込んでしまうものだと、私はそう思っていた。
 多数決でぶん殴ってくるほうが、悪いに決まっているのに。今はSNSで繋がるのが当たり前になってきたせいで、余計に繋がらないといけないって考えが増えてきて辟易している。でも蓮見さんはそんなことは全然なかった。
 ただ、太い腕を解くと、ポンと矢車さんの頭を撫でた。既に気を許しているせいか、矢車さんは蓮見さんの手にビクつくことはなかった。

「そりゃ、男が悪いな。すまんなあ……あいつらは冗談のつもりなんだが、女と男だと力が全然違うっていうのがわかってないし、大人数でやってこられたら、怖いよなあ、普通」
「わ……たしが……悪いから……言い返せなかったから」
「でも、怖かったんだろう? 怖がらせたほうが悪かったに決まっている」

 そう言った途端、矢車さんが肩を震わせてきた。
 この学校で、自分の生い立ちを言い出すことなんて、自分の弱みを見せることなんて、勝手に腫れ物扱いされていいことなんてなにひとつないのに。それを言い出せる矢車さんのほうが、意地を張ってなにも言わない私よりもよっぽど強い。
 私は息を吐いた。

「……泣いてもいいけど、化粧はあとで直すよ?」

 途端に矢車さんは、脅えたようにこちらを上目遣いで見てきた。……別に私は、矢車さんをけなすために言ったんじゃないんだけど。

「ご、ごめんなさ……」
「別に。矢車さんを責める気は全然ないから。あの金髪はちょっと殴りたいけど」
「すまんなあ。百合ちゃん。麻ちゃんは言葉が足りないだけで、別に怒ってないんだよ」

 蓮見さんはかんらかんらと笑いながら、私の言葉から棘を抜いてしゃべるものだからすごい。さんざん泣いたあと、矢車さんの化粧を直して、どうにか撮影を続けた。
 少し泣いたせいなのか、声がよろしくない。おまけに、あれだけ綺麗にフレームに入っていたはずの天気が悪くなってきたから、だんだん絵が暗くなってきた。私は「カット!」と言って、撮影を打ち止める。

「ちょっと天気が悪くなってきたから、撮影中止」
「ご、めんなさ……せっかく、今日はいい天気だったのに」

 矢車さんがしゅんと肩を落とすのに、私は鼻を鳴らす。別に矢車さんのせいじゃない。あの男子が乱入してこなかったら、今日中にちゃんと撮影が終わっていたのに。

「仕方ないよ。他のことはなんとかなるけど、人が乱入してくるなんて思わなかったから」

 私がそう言って矢車さんをなだめるけれど、矢車さんはなおのこと自分のせいだと言わんばかりに縮こまってしまった。
 困ったなあ、本当に矢車さんのせいではないと思うのに。私が言葉をかけられずに喉を鳴らしていたら、隣で蓮見さんが腕を組んで唸り声を上げる。

「んー……そうだなあ……しかし、うちの学校部活のことはどうなってるのかわからんが、これって場所を使わせてもらうって、ここを差し押さえることはできないのか?」

 そう言われて、私は目をぱちくりとさせた。思わず隣にいた青田を見ると、青田はふわふわと浮きながら『どうだったかな……』と声を上げる。

『たしかに撮影するんだったら、学校で許可をもらうのが筋だけど』
「うち、映画部なんてもうなかったと思うけど。活動してるのなんて知らない」

 もしあったのなら、そもそも青田が一生懸命書いた脚本を予備室棟に置き去りなんてしていないと思う。それに矢車さんは「あの……」としおらしく手を上げた。

「あの男の子……どいてもらえるよう頼めたら……揉……めないんじゃ……」
「でもあいつが先にいたからなあ。場所をそう何度も何度も交渉してどいてもらうよりも、学校から押さえられてるってしたほうが角が立たないと思ったんだが」

 そりゃそうか。これはそこまで長い脚本ではないけれど、長期期間ロケを敢行するとなったら、周りに根回しするのは当然のことだ。
 でも……こういうのって誰に言えばいいんだろう。青田も今、映画部があるのかどうかさえ知らないみたいだし。私はそう思っていたら「担任かな」と蓮見さんが教えてくれた。

「じゃあ、明日から一週間は天気も悪くって撮影できないし、その間に許可をもらえないかどうか聞いてきます」
「それがいいよ。俺も撮影はじまるの楽しみにしてるし、その間シフトを回してもらって休みを取っておくから」

 そう屈託なく言って笑う蓮見さんがまぶしい。私は「ありがとうございます」と頭を下げると、ちらっと矢車さんを見る。
 矢車さんは本当に申し訳なさそうに目尻を下げてから、こちらに頭を下げてきた。

「駒草さん……ご、めんなさい……」
「ううん、苦手なものは仕方ないよ。脛に傷のない人間なんていないし」

 あの日本人離れした金髪男子だって、きっとあるだろうし。蓮見さんはいい人そうだけど、高校に行ってなかったんだから訳ありなんだろう。私だって、なかなか口に出せるもんでもない。
 撮影再開になったら連絡するとふたりに言ってから、ひとまず教室へと戻っていった。
 昼休みは、つつがなく終了してしまった。

****

 教室には生徒がいたりいなかったり。
 天気が悪くなってきたせいか、廊下はむわりと湿気が漂ってきて、上履きで歩くたびにペタペタと粘る感触と足音がする。
 喫煙所の前を通り過ぎながら、私たちは職員室へと向かう。
 蓮見さんは吸ってないみたいだけれど、働きながらここに通っている人は煙草を吸っている人が多く、そのために喫煙所は普通に機能している。
 私は腕を組みながら青田に話しかけてみる。

「でも許可ってどういう形になるんだろう」
『普通に映画を撮りたい、じゃ駄目なの?』
「自分が撮らないからって、楽なこと言うよねあんたも。大人って大義名分が必要なの。感情論だとなかなか動いてくれないから、形だけでもそれっぽい理由が必要なんだよ」
『前から思ってたけど、麻は同い年の子よりも大人との交渉のほうがよっぽど上手いね』

 そう言われて、私はつんのめりそうになり、足を踏ん張って堪えた。足が突っ張って痛い。

「……別に。得意じゃないけど」
『ふうん? 俺が生きてた頃、女子って大人も子供も自分たちより下に見てるもんだと思ってたよ。大人はわかってないっていうのが合い言葉だったと思う』
「それは多分、今もじゃないの。大人は身勝手だとは今でも思ってる。だから、利用できると思ってるんだけど」
『大人に認められたい、力を貸して欲しいって思ったことはあっても、僕は大人をあれこれ利用しようなんて思ったことないよ』
「そっ」

 芸能界は縦社会だったんだ。海千山千生きていて礼儀知らずにはものすごく厳しかった大人も、子供にだけは甘かった。
 私はフレームの向こう側が見たくってカメラの周りをちょこまかと動き回ってはスタッフに追い出されるのを、一部の俳優さんが可愛がってくれたおかげで、どうにかカメラを覗かせてもらっていたりしたんだから。
 だから自分のやりたいことをするために、大人を動かすのって大切なんだと、芸能界をクビになった今でも痛感している。
 青田は私の言葉に『ふうん』とだけ言った。
 こいつは平成のひと桁代を生きていたはずだけど、こいつの時代の大人はどうだったんだろう。考えてみたけれど、想像ができなかった。
 ふたりでどうでもいいことをしゃべっていたら職員室が見えてきた。

「失礼します」

 声をかけて開けると、やる気のない担任が課題に埋もれて顔を上げた。教室はまだ許可が下りていないけれど、職員室は既にクーラーで除湿されていて涼やかだ。

「どうした、珍しいな。駒草」
「うちって、映画部ってありましたっけ?」
「あれ? 入部希望? うちの学校は一応部活入る入らないは自由だけれど」

 そう言われて、私は思わず隣の青田を見る。青田は少しだけ驚いたような顔をしていた。担任は「ちょい待て」と言ってがさがさと汚く印刷されたプリントを差し出してきた。入部届けだ。

「必要だったらやるぞ?」
「いえ。けっこ……」
『麻、今の映画部どうなっているのか見てみたい!』

 そう言い出したことに、私は驚いて青田を見る。青田は担任に身を乗り出していた。担任には霊感がないらしく、皆と同じく見えていない。
 ……まあ、そりゃそうか。私は息を吐いた。
 あの脚本を追い出したとしても、映画部というのが残っているんだったら、OBとしては気になるんだろう。

「すみません、見学に行きたいんですけど、映画部ってどこですか?」

 私がそう切り出すと、担任は映画部が使ってるという教室を教えてくれた。パソコン室だ。私は担任に礼を言ってから、歩き出した。
 青田はうきうきしている中、私は思う。
 思い出って、思い出の中にしまっておいたほうがいいこともあるのに。
 私は幼少期から芸能界にいて、全然売れない子役をやっていたから、友達を友達とも思えない環境にいたせいで、まともな思い出がないけど、これだけはわかる。
 自分から思い出を汚してもいいことなんて、ひとつもないのにと。
 パソコン室に「失礼します」と声をかけてから入って、私は思わず口を開けた。
 どこのパソコンでも、モニターにはソフトが展開されている。3Dで書かれたキャラクターにあれこれ数字を書き込んで動かしている人もいれば、耳に響き過ぎる電子音をムービーに合わせている人もいる。
 私たちが入ってきたことに、分厚いメガネの男子がひとり振り返った。

「なに? 見学? ごめんね、今夏の動画コンクールに出す作品の追い込み作業中でさ」
「あの……ここが映画部だって聞いたんですけど。私、映画部の脚本を見つけて……」

 私は脚本を少しだけひょいと持ち合えると、それに男子は「ああ……」と声を上げる。

「大分前の先輩のだねえ。うち、部員が足りな過ぎて今はそっちの映画は撮ってないよ? 今は動画サイトを中心に活動してるから」
「動画サイトですか……」

 動画サイトで好きな歌手の最新PVを見ることはあっても、動画をつくる人のことは考えたこともなかった。男子は「そっ」と頷く。

「こっちだったらパソコンとソフトさえ揃えばひとりでもつくれるし、コストパフォーマンスもいい。棒読みの役者や下手っくそなカメラワークだったら、なかなかいいもんつくれないしねえ。あ、その脚本どうするの? いらないんだったら、こっちで処分しておくけど」

 処分。
 その言葉で、さっきまで呑気に笑っていた青田の顔が強ばったのがわかった。私は男子に首を振る。

「いえ、結構です。じゃあこれはうちで勝手に使ってもいいってことでいいですか?」
「うちって?」
「映画、カメラで撮ってるんです」
「ふうん……素人だったらなかなか見るに堪えないと思うけどねえ……別にいいんじゃないの? もう先輩たちも卒業しちゃったし、脚本のことなんて皆忘れてたしねえ」

 あっけらかんとした言葉に、私は思わず歯を食いしばった。青田は顔を強ばらせながらも、男子に詰め寄るような姿勢を見せないのは、いつも呑気な奴が落ち込んでしまっているからだろう。
 私は最後に「失礼します」とだけ声を絞り出すと、そのままぴしゃんとドアを閉めて、そのままパソコン室を後にした。
 思わず大股で歩いてしまっているのは、昔の映画部のものをあっさりと処分すると言い捨てる無神経さではない。
「見るに堪えない」「いいもんつくれない」という正論のせいだ。
 努力すれば報われる。私はそれを全然信じちゃいない。
 どんなに頑張っても、結果が出なかったら無意味なんだ。
 どんなに努力しても、それで成果が上がらなかったらただの時間の無駄なんだ。
 それは何度も何度も芸能界で刷り込まれてきたルールであり、私も周りの大人たちにそう教えられてきた。わかっている。そんなことくらい。
 だって私はカメラに映らなかった。フレームの向こう側に一度も行けなかった。だから、私が子役だったことなんて誰も知らない。そんな人間がいたっていう形跡を、爪の先一寸だけでも埋め込むこともできずに消えてしまった。無意味だった。私の人生の半分を使ったっていうのに、それを嫌と言うほど思い知らされた。

「もう……っ」

 廊下を出て、予備室棟を出る。
 今は雨は止んでいて、水たまりがぽつんぽつんと広がっている。
 私は校舎の側面を蹴飛ばした。足の裏がビリビリするけど、構わずに何度も何度も蹴る。
 どこに怒りの矛先を向ければいいのかもわからず、何度も何度も。女の蹴りひとつでは、壁に足跡ひとつ残すことはできないけれど、それでも蹴らずにはいられなかった。

『ねえ、麻』

 私の苛立ちをわかっているのかわかっていないのか、青田はポツンと声を上げる。私はそれを聞きながらも無視して、壁をまた蹴る。

『なにをそんなに怒ってるの?』
「……あんたはどうしてそんなに呑気なままなの?」
『え?』
「あんたはどうして怒らないの? あんたは映画に未練たらたらであの世に行くことすらできずに、ずっと脚本にしがみついてたくせに。それでどうして処分するとか言われて怒らないの。あんたの人生を全否定したようなもんじゃない」

 私が吐き出した言葉に、青田は頬を引っ掻きながらも、ゆるりと笑う。
 さっき顔を強ばらせて映画部の男子たちの横顔を見ていたくせに、どうしてそんな風に笑えるのかが信じられなかった。

『時代が違うのは仕方ないと思うんだよ? あの人たちはパソコンで映画をつくるのがいいって思っただけで、僕はカメラを回す映画が好きってだけで』
「あいつらがつくってるのは映画ですらないじゃん。馬鹿にされた、踏みにじられたって思わないの?」
『もちろん僕が必死で書いた脚本を捨てられたら悲しいと思うし、もしかしたら化けて出るかもしれないけど、でもさあ』

 青田は笑いながら、私の頬に触れた。もちろん、頬は温度も質感もなにも拾わず、私にそう見えただけだ。つるんと指を滑らせてから、青田は口元を綻ばせる。

『こんなに怒ってくれる子がいるのに、僕まで怒ってたら話にならないじゃない』
「……ばっかじゃないの」
『えー……でもどうしよっか。映画。蓮見さんに言わないと駄目だね、映画部とは交渉できなかったって』
「本当、それだ……」

 あの男子がまたうろついていたら、矢車さんが萎縮し過ぎて撮影ができない。私は空を仰いだ。
 空は灰色。まだ撮影再開するまでに、日付がかかりそうだ。