室内にいたのは、二十歳ほどの若い男性がふたり。執務机の横に立つ方はおそらく秘書で、一見すると柔和そうな印象だが、モノクルをつけた目は抜け目なく小春を観察している。

 そして机の向こうで、上質なスーツを着て椅子に腰掛けているのが、噂の樋上家御子息こと〝鬼の若様〟なのだろうが……。

(……男性なのに、すごく綺麗な人)

 黒檀色のサラリとした髪に、座っていても六尺近くありそうな高身長で、バランスの取れた体躯。シャープな輪郭にはパーツのひとつひとつが、これ以上ないくらい完璧に収まっている。

(女学生の間で読まれる小説では、こういう殿方と乙女が恋に落ちるのかな……)

 小春は読んだことなどないのでわからないが、読書が好きな明子も同じ感想を抱くかもしれない。

 彼女の場合は、『少女画報』という雑誌を好んで読んでいた。その雑誌では〝エス〟と呼ばれる、少女同士の疑似恋愛のようなものも人気らしいが、美しい殿方なら少女たちも大歓迎であろう。
 しかしあくまでも、物語の中での話だ。

 高良の切れ長の瞳は冷ややかで、深窓の令嬢なら震え上がるに違いない。感情の乗らない無表情からも、小春に一切興味がないことがわかった。
 それでも怯まず背筋を伸ばし、小春は完璧な礼をとる。

「珠小路明子と申します。本日からこちらでお世話になります」

 さすがに明子と名乗る時は、少し声が震えた。
 だけどもう、引き返せない。

「……樋上高良だ。短い間だが、この家では好きに過ごせばいい。指示があればこちらから伝える」
(指示って……使用人相手みたい)

 しかも〝短い間〟と強調するあたり、本当に結婚するつもりは端からないことを示している。ここまで冷淡な態度を取られると、いっそ小春としても清々しかった。

 そんな主に代わって、愛想のよいモノクルの青年は「私は秘書の真白です。ようこそおいでくださいました、奥様」と腰を折った。

「奥様、とは」
「はい。当家にいらっしゃる間は、そのように呼ぶようにと、当主から言いつけられております」

 どうやらお試し婚のことは、使用人にも周知の事実であるらしい。
 周囲が小春を奥方扱いすることで、結婚に向けて高良をその気にさせようという、樋上社長の作戦だろう。

 今の高良の様子だと、父の思惑は息子には通じなさそうだが……。

「わからないことがございましたら、なんなりと私にお尋ねください。それでは屋敷内をご案内いたしますね。その後はお部屋で、夕食までお休みいただければ……」
「あの、ご当主様に挨拶はしなくてよろしいのでしょうか?」
「当主の良正様は、もとよりこの屋敷には住んでおりません。赤坂(あかさか)の方に別邸がございます」
「別邸……」

 小春は面食らった。
 こんな大きな屋敷を持っていながら、まだ他に家があるとは。金持ちの考えることはつくづくわからない。

「また良正様は今回の縁談話が出てすぐ、急な仕事で仏蘭西(ふらんす)へと発っております。こちらでの仕事は高良様にしばし預けるとのことで、戻りは五ヶ月は先かと。奥様にお会いできないことを大変残念がり、倅(せがれ)をよろしく頼みますとのことです」
「そう、なのですね」

 小春は「私も残念ですわ」と答えながらも、内心では好都合だと喜んだ。高良の父に会わなくて済むのなら、それに越したことはない。

 業務的な初対面を終えて、真白にエスコートされるがまま、小春は部屋を出ようとする。高良の方はもう小春を見ることもなく、英語で書かれた難解そうな資料を読み始めていた。
 しかし、重厚な扉は真白が開けるより先に、ガチャリと勝手に開く。

「しっ、ししし失礼いたします! 珈琲をお持ちしました!」

 現れたのは、おさげ髪に顔のソバカスが目立つ、小春と同い年くらいの少女だった。真っ白なエプロンが眩しく、入ったばかりの使用人のようだ。
 携えたお盆には湯気を立てる珈琲がのっている。小春は飲んだことがない、苦いと噂の西洋の飲み物。

 真白は呆れた顔で「まずはノックをしなさい」と窘める。

「それに今は、高良様にお飲み物を届ける時間ではありませんよ。こちらの奥様がお部屋に入られたら、そちらにお茶の用意をするようお願いしたはずですが」
「あ……わ、私、全部間違えて……申し訳ありません! 奥様にもご無礼を……きゃあっ!」

 勢いよく頭を下げた拍子に、少女はお盆のカップもひっくり返してしまう。ガシャンッ!と、高そうなカップは盛大に割れて、茶色い液体が絨毯に飛び散った。
 ドジな彼女はますます青ざめて、急いで片付けようとする。

「痛っ……!」
「大丈夫ですか!?」

 慌てすぎて、破片で指を深く切ったらしい。

 小春は明子を演じることも忘れ、とっさに着物の袖から白い手帛を出し、少女のそばにしゃがみ込んだ。血の滲む指先に、そっとそれを当てる。

「お、奥様!? いけません、汚れてしまいます……!」
「そんなことどうでもいいです! 破片は素手で触っちゃダメですよ!」

 ひとまず止血を済ませたところで、真白が廊下に出て、別の使用人を呼び止める。女中頭らしき年嵩の女性は、おさげの少女を叱りながらもテキパキと手当ても掃除もやってくれた。

 小春がホッと一息ついたところで、立ち上がった高良がそばまでやってくる。

「……君もこれで手を拭いておけ。血がついているぞ」

 彼はスーツに忍ばせた黒いポケットチーフを、スッと小春に差し出した。見れば小春の手には、止血した時の血が軽く付着している。

「い、いいんですか?」
「そのままだと着物につくだろう。……手帛も、綺麗にして後ほど返す」
「あ、ありがとうございます!」

 意外な高良の気遣いに、小春は素のままの笑みを浮かべた。
 高良は切れ長の目を微かに見開く。まっすぐ凝視され、初めて興味を持たれたようだが、小春は大いに焦った。

(ま、まずい……私ったら、ずっと素だった!)

 急いで取り繕い、「ありがたく使わせていただきます」とチーフを受け取る。
 高良は小春を見つめたまましばしなにかを考え込んでいたが、やがて小春から視線を逸らす。

 そして、おさげの少女に向かって「千津」と呼んだ。