樋上家のひとり息子・樋上高良は、個人に与えられた執務室で、黙々と仕事の書類に目を通していた。すっきりとした輪郭の端正な顔に、艶やかな黒髪がかかる。

 神田にある樋上邸は、近年人気の和洋折衷な建物だ。
 二階建ての洋館と和館を組み合わせており、広い庭では一際立派な沈丁花が香り高く咲いている。

 だが現在、和館はわけあって立ち入り禁止となっていた。そのため高良が使っているのはもっぱら洋館で、この左右の壁が書架で埋められた執務室も、窓枠の装飾や調度品は豪奢なルネサンス風だ。

「ふう……」

 区切りのいいところで机に書類を置いて、革張りの椅子に背を沈める。
 ノックの音がした後、上質な三つ揃えに身を包み、モノクルをつけた青年が颯爽と入ってきた。

 高良は「まだ入室許可はしていないぞ」と眉間に皺を寄せる。

「おや、これは失敬。でも私と高良様の仲ですからね。許可など些末な問題じゃないですか」
「はあ……もういい。お前と話すと頭が痛くなる」

 タレ目がちの柔和な顔立ちながら、慇懃無礼な態度の真白涼介は、高良の専属秘書だ。
 昔から付き合いのある幼馴染でもあり、高良にとっては兄弟のように共に育った相手である。

 真白はなにやら資料を片手に机の前まで来て、やれやれと肩を竦めた。

「稀有な〝血〟をお持ちの方は大変ですね」
「今の頭痛はお前のせいで、俺の体質とは関係ないがな。それに体調不良を起こしていたのは昔の話だ。瘴気だって許容量を超えなければ問題ない」

 厄介な特異体質だって、今やビジネスにさえ利用している。

 高良も大人になって成長したのだ。
 にもかかわらず、真白は「か弱い高良坊ちゃんだったおかげで〝運命の君〟と出会えたんですよね」なんて嘯いている。

 真白は秘書としての能力は非常に高いが、無駄口が多いのが難点だ。高良はさっさと用件を話すよう促す。

「朗報、と言えばよろしいでしょうか? お父上と交渉された上で決まった、例のお試し結婚。あの話を、お相手の家のご当主にお伝えしまして、本日了承が得られました。明日にはうちにいらっしゃいますよ」
「……まさか本気で、あんな結婚ごっこを父が実行に移させるとはな」

 飛び出したのは辟易している縁談話で、朗報というよりは悲報だ。高良の頭痛は増すばかりである。
 おかしな提案を持ちかけてきたのは父だが、落としどころとして、高良もしぶしぶ首を縦には振った。しかし、お試しで娘を嫁がせろなどという、一方的な要求を呑む華族の家があるとも考えていなかった。

「大方、父に弱みでも握られたか……今度はどこの令嬢だ」
「珠小路子爵家の御息女、珠小路明子嬢ですね。お歳は十六。写真もありますよ、ご覧になりますか?」

 机にペラリと置かれたのは、どこかの写真館で数年前に撮られた一枚だろう。品のいい藤色の着物を纏ったお嬢様が、澄まし顔で写っている。

 高良は一瞥しただけで、「興味ない」と突き返した。

「華族の令嬢など、どうせ今までの女たちと同じだ。見栄っぱりで傲慢で……どいつもこいつも瘴気まみれで、気分が悪くなる」
「高良様がそうやって邪険に扱うから、破談になったご令嬢方に〝冷血漢の鬼〟だなんて言い触らされるんですよ。〝鬼〟は本当ですけれど」
「どうとでも言え。なにを言い触らされようと、仕事に障りはない」
「ですが今回ばかりは、最低限でも優しくしてあげてくださいね? 今までの縁談とは勝手が違って、親の借金のカタに来られるわけですし」
「なるほど、借金か。では悲壮な顔をした女が来るかもな」

 それはそれで、とてつもなく面倒だと感じてしまう。

 高良とて、親の尻拭いをさせられる羽目になった女性に、同情しないわけではない。華族といえど、財がない家が多いことも知っている。けれども、己は不幸だ、可哀想だと主張するようなら、優しく接するなど到底無理な話だった。

 高良だってこの〝血〟さえなければ、もっと普通に生きられるのにと、何度思ったことか。

 母のことを考えると余計にそう思う。けれども、そのたびに悲嘆に暮れず、己で道を切り開いてきたつもりだ。

(それにアイツなら、どんな時でも笑おうとするんだろうな)

 郷愁にも似た愛しさが、ふと高良の胸に湧く。
 三年前に出会った、枯れ木のような手足の幼げな少女。

 彼女には瘴気による淀んだ空気がまったくなく、それどころか高良にとって、どこか心休まる気配がした。

 過酷な環境下にいても損なわれない、明るさと純粋さがそうさせるのか。
 どれだけ仕事が慌ただしくなろうとも、彼女のことだけは片時も忘れたことはない。
 どこにいるのか探している、今もずっと。

「まあ、一途な高良様のお気持ちは、明子嬢がどんな方だろうと変わらないのでしょうけれど」
「そうだな。海の向こうにいる父に、今回も破談だと手紙で伝えておけ。三ヶ月共に過ごそうが結果は最初から決まっている」

 淡々と無感動に言う高良に、真白は「いっそお父上に、ハッキリ申し上げればよいのでは?」と囁く。

「……なんと」
「『俺には心に決めた相手がいる』とね。高良様に甘いあの方なら、それで納得するかもしれませんよ? 体質のこともありますしね」

 モノクルをカチャリと指先で上げて、真白はニヤリと笑った。
 高良はげんなりとする。

「体質のことを引き合いに出すつもりはない。〝こちら側〟の話を、父はことさら嫌がるだろう。父が俺に甘いというのも違うな……俺にしか罪滅ぼしができないんだ」

 その暗く重い呟きに、さすがの真白も軽い口を閉じた。
 高良は亡くなった母のことで、父を恨んでいる。

 父もそれについては負い目を感じていて、時には親らしいことをしようとするも、余計に父子がすれ違う現状を、真白は間近で見てきていた。

「口が過ぎました。申し訳ございません、高良様」
「いい……もうこの話題は終わりだ」

 綿の輸出額の話に移れば、自然と真白も切り替える。
 多忙な高良にはやることが山積みだ。
 細かい数字を言い合う頃には、高良の頭からは写真の令嬢のことなど、すっかり抜け落ちていた。