綺麗に重力を踏襲した、振り子のような手の動き。余計な力を抜いてスラっと立っていながら、微動だにしない重心。そして…機械仕掛けのように、寸分の狂いもなく刻まれ続ける拍音。
「テンポ、これぐらいでいいー?」
 譜面台を叩きながら、燈子先輩があの声で語りかける。もちろん、その間も速さにブレは一切無い。ソプラノのリーダーから、最後に音が細かくなる部分があるからもう少しゆっくり…という趣旨の返答があり、燈子先輩は目盛りでも合わせるかのように少しだけテンポを落とした。
 アイコンタクトを交わしあう、燈子先輩とソプラノのリーダー。
 その一連の所作と、狂いなく聞こえてくるリズム…指揮どころかただ拍を刻んでいるだけの燈子先輩に、俺は早くも圧倒されていた。
「んじゃ、これぐらいでー。まずは全体でどんな感じか聞いてみよっか」
 右手で拍を打ちながら、左手をスッと前に構える。
 最低限の筋力で燈子先輩の腹前に置かれた左手は、少しだけ外側に動いた後…ふわっ、と、羽のように軽やかに、真っすぐ上に昇った。
 ふわっ。
 誇張ではなく、俺には、本当にそう聞こえた。
 燈子先輩の手の動きと…それに追従するように、俺の全身に自然に取り込まれた空気の音が。
 そこで初めて俺は、燈子先輩の左手が外側に動いたときに、無意識に息を全て吐かされていたことに気づく。

 カツーン。

 右手が一拍目を打ち付けると同時に、燈子先輩の左手も振り下ろされる。それは先輩の腰のあたりを通過し、俺たちの声を誘うように左へ広がった。
(ぉわ…あっ…?!)
 翼。いや、土、水。風…なんだろう。ほとんど力の入ってない、完全に重力を踏襲した動きなのに、とにかく心強くて。
 俺の体内の空気は、その左手に首根っこを捕まれ、腕の広がりに沿うように歌になって体の外へ引きずり出された。
 同瞬、隣の翔太からも、今までのパート練習とは比較にならない圧力の第一音が奏でられる。翔太のそれは俺の第一音と重なり、そして他の部員たちから吐き出された第一音とも混ざって、燈子先輩の左手を通過し、音楽室の壁を揺さぶった。
 20人分の空気圧が作り出すそれが、俺が初めて聴く「和音」だった。

「はい、いっかい止めよー」
 燈子先輩が拍を刻むのをやめ、両手を空中でヒラヒラと漂わせる。