「燈子ってさ。ちょっと珍しい字で、よく『澄子』と間違われて、スミコって呼ばれたりするの。苗字が川瀬だから、なんとなく全体的に水っぽいイメージで、みんな思い込みでさんずいで読んじゃうみたいで。子供の頃は、『トウコ』ってちゃんと読まれないし、書き間違われるし、とにかく嫌いだった」
確かに、なんとなくずっと名前で呼びながら、先日上がってきた8月の大会のプログラムで初めて川瀬燈子という字を見て、トウコってそう書くんだ…と驚いた記憶はある。肯定でも否定でもなかったが。
「でも、タクトくんに出会って、指揮者になってからは、『あたしの川は澄んでないからこれでいいんだ』って思ってる。みんなの歌が流れ込んできて通り過ぎてくトウコの川は、きっといろんな色をしてて…その真ん中で一番燃えてるのが、あたし。だから、あたしは『水』じゃなくて『火』、『澄』より『燈』で合ってるんだ…って」
目の前を流れる、恐らく自らの川瀬姓のルーツであろう大きな川を、永遠に目で追いながら燈子先輩は続ける。
「それに、世界に出たら、漢字は関係ない。トウコ・カワセで覚えてもらえる」
「世界…」
“トウコの川”の行きつく先は、とっくに俺の想像を超えていた。
「そうなる日を目指してる」
なんとなく俺はその川が怖くて、直視できなくて、燈子先輩の周囲にウロウロと視線をめぐらすだけだった。
「そのいろんな色の、澄んでない川を作るのに、あたしの声ひとりじゃ足りないの。あたしが歌う理由はないでしょ」
燈子先輩は、自分の左手に目を落とす。この二ヶ月間、数々俺を翻弄してきた、魔性の左手。俺たちに無限のパワーを与える、魔法の杖…。
「合唱って。指揮者の振る舞いひとつで、如何様にも音楽が変わる。それが面白くてさ。食いついてきた、達樹くんや歌い手とのキャッチボールとか。そうきたか、じゃあ次はこうしてやろうみたいな。だから…」
燈子先輩は今度は真っすぐ川の上流を見た。
「自分ひとり歌っても、何も生まれない無力さが嫌い」
澄んだ声が、自信を持って、その澄んだ声自身を否定する。
「自分は台に立って、歌はみんなに歌ってもらう…その楽しさや喜びを、自分で歌うことが越えられない」
「……」
「それよりも、まだまだ指揮でやりたいことがある。あたしは早くタクトくんに追いつきたいから。歌う側に留まるつもり、無いの」
確かに、なんとなくずっと名前で呼びながら、先日上がってきた8月の大会のプログラムで初めて川瀬燈子という字を見て、トウコってそう書くんだ…と驚いた記憶はある。肯定でも否定でもなかったが。
「でも、タクトくんに出会って、指揮者になってからは、『あたしの川は澄んでないからこれでいいんだ』って思ってる。みんなの歌が流れ込んできて通り過ぎてくトウコの川は、きっといろんな色をしてて…その真ん中で一番燃えてるのが、あたし。だから、あたしは『水』じゃなくて『火』、『澄』より『燈』で合ってるんだ…って」
目の前を流れる、恐らく自らの川瀬姓のルーツであろう大きな川を、永遠に目で追いながら燈子先輩は続ける。
「それに、世界に出たら、漢字は関係ない。トウコ・カワセで覚えてもらえる」
「世界…」
“トウコの川”の行きつく先は、とっくに俺の想像を超えていた。
「そうなる日を目指してる」
なんとなく俺はその川が怖くて、直視できなくて、燈子先輩の周囲にウロウロと視線をめぐらすだけだった。
「そのいろんな色の、澄んでない川を作るのに、あたしの声ひとりじゃ足りないの。あたしが歌う理由はないでしょ」
燈子先輩は、自分の左手に目を落とす。この二ヶ月間、数々俺を翻弄してきた、魔性の左手。俺たちに無限のパワーを与える、魔法の杖…。
「合唱って。指揮者の振る舞いひとつで、如何様にも音楽が変わる。それが面白くてさ。食いついてきた、達樹くんや歌い手とのキャッチボールとか。そうきたか、じゃあ次はこうしてやろうみたいな。だから…」
燈子先輩は今度は真っすぐ川の上流を見た。
「自分ひとり歌っても、何も生まれない無力さが嫌い」
澄んだ声が、自信を持って、その澄んだ声自身を否定する。
「自分は台に立って、歌はみんなに歌ってもらう…その楽しさや喜びを、自分で歌うことが越えられない」
「……」
「それよりも、まだまだ指揮でやりたいことがある。あたしは早くタクトくんに追いつきたいから。歌う側に留まるつもり、無いの」