燈子先輩、お願い。もっと歌って。声を聴かせて…。
 俺は懇願するように、心の中で呼びかけるが…数瞬遅れて、すぐさま燈子先輩の左手がゆらっと動く。
 催眠術のように目を奪われた俺はまた、無抵抗に全ての酸素を吐き出させられ、吸わされた。
 歌が、始まる。

 何度かの繰り返しを経ながら、曲の最後までたどり着いたのは、練習終了五分前。
 その間俺は、燈子先輩の左手に全ての空気をコントロールされ、途中幾度か待ち焦がれた燈子先輩の歌声を吸い、また左手に翻弄され、もはやヘロヘロだった。
「よーし。じゃあ最後に一回、頭から通してみるよ」
 おもむろに譜面台と指揮棒を脇へ除ける燈子先輩。よっしゃ、通すか…とばかり、背中を伸ばしたり、軽くジャンプして体をほぐす部員たち。何か、今までの繰り返し練習とは違うものが始まる気配が全員から漂っていた。激しさのあまり既に曲の序盤を忘れ始めていた俺、永島達樹ただ一人を除いて…。
 慌てて楽譜を最初のページまで巻き戻す。翔太が心配そうに一瞥をくれ、すぐ正面に向き直った気配を感じた。
 翔太の視線の先には、まるで試合前の武道家みたいに不要な力を全て抜き去った燈子先輩が立っていた。さっきまでの左手と同じ高さに、今度は右手も構えられる。
(指揮棒…使わないんだ…?)
 燈子先輩の両手が左右にゆっくり押し広げられるのに合わせて、俺はもう何度目か、全ての息を吐き切る。
 弾かれるように、燈子先輩の左手がふわっと舞い上がり…そして右手は、右下へと放り送られた。燈子先輩の両腕の中に広がる、大きな空間。その空間を抱くように、俺たちの中にもさっきまでと比べて体感百倍ぐらいの空気が取り込まれる。

 瞬間。
 燈子先輩が。
 魔法を使うかのように、目を見開いた。

(うっ?)

 今まで一度も動いたことのなかった左眉がヒクっと上がり、口が端まで開く。初めて見る、燈子先輩の歯。

 燈子先輩は笑っていた。

 振り下ろされる左手。譜面台を叩いてた時とは明らかに違う、燈子先輩の様子と、俺の中に取り込まれた酸素量。その酸素が燈子先輩の左手に導かれ、今までとは比べ物にならない物量の「歌」になって、俺の胴体から放出されようとした。
 えっ…危ない!!
 俺はうろたえる。