七月七日、午後七時。天気は晴れ。夕暮れが星空を呼び込む時間。
 僕が通う星丘高校のグラウンドの真ん中。大きな笹の周りで生徒は手持ち花火で下校までの時間を楽しんでいた。
 今日は七夕祭りの三日目、後夜祭の日。そして七夕当日。
 七夕祭りとは、いわゆる学校祭のようなもの。山の近くに建っている星丘高校は、景色が綺麗なことで有名で、晴れた夜の日は星空がとても綺麗に見える。これが由来となって、学校祭の時期と七夕の日が近いということから、数年前に学校祭の名前が「七夕祭り」になった。
 受験真っただ中の三年生の僕達でも、七夕祭りは他の行事の倍以上力を入れている。その分、生徒だけの後夜祭はなんとなく気が抜けて、のんびりとそれぞれ楽しむ。僕たち三年生にとっては、今日が最後の七夕祭りだ。
 僕——夏川陽介(なつかわようすけ)も、グラウンドに集まっている人々から少し離れた場所でのんびりと休憩していた——友達の幸野叶(こうのかなえ)と一緒に。

「もったいねぇよなぁ。な、陽介もそう思わね?」

 叶はグラウンドの中央に目を向けながら、僕にそう聞いてきた。
 
「確かにせっかくの花火をしてない僕は、他の人から見たらもったいないかも……?」
「あぁ~、それもそうかもしれないけど。そっちじゃなくて」

 叶がドサッと地べたに座った。僕も叶に倣って地面に腰を下ろす。昼は熱を持っていた砂が、夜にもなるとひんやりとして蒸し暑い気温と相まって気持ちよかった。

「今日七夕なのに、みんな星見ないで花火してどうすんだっていうこと。下じゃなくて上見ろよな~」

 「まぁ、花火はいくつになっても楽しいから仕方ないかもだけど」と続けて言い、叶はグーッと背伸びをする。
 確かに叶の言ってることはもっともだ。生徒どころか先生たちまでも空ではなく花火を見ている。この後打ち上げ花火もあるとか言っていた。七夕祭りじゃなくてこれじゃただの花火大会だ。
 僕も苦笑しながら、少し首を上に傾けて空を見た。
 写真集にあるような星空よりは地味で素朴な星空だけど、それでも十分に綺麗で僕はなんだかホッとした。

「ていうか、短冊何書いた?」

 叶はふと思い出したように、そう僕に聞いてくる。
 星丘高校の七夕祭りでは、生徒も先生も遊びに来た保護者や地域の方も一人一枚短冊を書くのがルールだ。書いた短冊はグラウンドの中央にある、大きな笹に掛けられる。毎年何千もの短冊が集まり、緑だけだった大きな笹をあっという間に彩るのは、何回見ても綺麗で、思わず泣きそうになるほどだ。

「ん」

 僕は自分の短冊を陽介に見せる。
 陽介は目を輝かせながら僕の短冊を受け取った。

「えーっと……って、白紙じゃん! もう少しで後夜祭終わるけど、それまでに書けるのか?」

 騙されたとでも言いたげなその顔を見て、僕は思わず笑ってしまう。
 
「内容が決まらないだけ。ちゃんと書くからほっといてよ。叶はなんて書いた?」
「……う~ん、俺はもう書き終わってるけど秘密! 笹に掛けたら見てもいい!」
「何それ⁉ 僕のを見たかっただけじゃん……。はめられた……」
「お互い様だろ~、陽介も書いてなかったんだし」

 叶はケラケラと笑いながら、そして、静かに空を見上げた。
 本当に花火に興味はないらしく、ただ星が光る空を見上げる。
 僕は星空を見ずに、叶の横顔と色とりどりの花火の間で視線をさまよわせていた。
 叶はゆっくりと呼吸をする。彼の息の音が聴こえるくらい、僕らの周りは静かだ。

「なぁ、七夕ってさ、自分の夢とか想いとか星に願うじゃん。もし、星に感情があったとして、星たちって俺らの夢をどう思ってるんだろう」
 
 叶が、ぽつりと呟いた。

「急に詩的なこと言うね」
「らしくないか?」
「逆。叶らしい。聴かせて」
「……前まで、陽介と出会うまでさ、『何が星に願うだよ』って。『無駄に真面目な願い書くくらいなら、星に願うくらいなら、自分で努力しろよ』って思っていた」
「ウッ……確かに」

 僕は、一年生の時の自分の短冊のことを言われているようで、胸に刺さる。正論だからなおさらだ。
 そんな僕の苦い表情に気付いたのか、叶は首を横に振りながら、

「わるい。別に陽介を責めてるとかじゃない。前の俺だったらの話だから。今は逆。まぁ、面白半分だったり、誰かを陥れる願いとかは叶わないでほしいなって思うけどな。それ以外の必死な願いとか、本当に心から思ってる願いとかって、俺が星だったら叶えてやりたくなる。今は本当にそう思ってる」

 叶は笑う。そう言いながら、まるで星のように笑う。
 「叶」という名前が、こんなにも似合う人がいるんだなと思った。
 よく思い出せば、叶はいつも人の幸せを願って行動してる気がした。あくまでも僕の知ってる叶だから、叶の言う前の彼とは違うのかもしれないけど。
 叶はため息をつき、少し俯きながら言葉を続ける。

「人が星に何かを願いたくなるのって、たぶん本能的というか、自然なことなんじゃないかって思う。たまには星にすがんないと、星に本気で願わないと、人生やってられないよな」

 ……星に願わないとやってられない、か。
 確かに僕もたまに叶いそうにないことを、でも叶ってほしいことを願いたくなる。そうしないと心が押しつぶされそうだから。

「叶ってすごいよなぁ」
「ん~そうか?」
「うん。叶の考えとか叶の持つ世界とか、すごく尊敬してる」
「マジで⁉ サンキュ~! 急に陽介にそう言われると照れるなぁ~」

 本当のことだ。 
 叶と話をしていると、自分の世界が広がっていくのを感じる。色んな事に気付かせられる。くだらない話ばかりじゃなくて、たまにこんな風にちょっと真面目な話をしている時は特に。
 それでも広すぎる叶の世界を、僕はまだほんの一部しか知れてない気がするし、それと同時に、やっぱりまだまだ自分の世界は狭いということを自覚させられる。
 元気で明るくて、こんな風に素敵な世界観を持っている叶は、いつもクラスの中心人物だった。反対に僕は積極的に人と関わろうとせず、自分の世界に埋もれていた。そんな二人が今こうやって話しているのは、偶然にしては出来すぎだよ、神様。
 そう思いながら、僕は静かに立ち上がる。

「僕、短冊に書くこと決めたよ」
「お、マジ! 教えろ~!」
「秘密。笹に掛けたら見ていいよ」
「じゃあ、後夜祭の最後に二人でお互いの見ような!」

 今度は二人で星空を見上げる。そして一瞬叶の横顔を見た。
 僕は陽介のその横顔を見ながら、星丘高校に入学したばかりのことを思い出していた。
 あの時も同じことを思った。
 この幸野叶という奴は空を見上げる時、困ったような泣きそうな、それでいて何かに恋い焦がれたような顔をしていると。
 僕は最初、叶が少し嫌いで苦手だった。

 それは星丘高校入学式当日。風が強かったその日。
 その日僕はたまたま早く学校に来てしまい、僕以外にに新入生はほとんどいなかった。
 桜の花びらが風に吹かれて舞い、視界を遮る。桜が散るのも時間の問題だな、なんて思いながら歩いて校門を通ろうとした時。
 叶が校門のところに植えられている桜の木の所で空を見上げながら、微笑んでいたのを見かけた。それが叶との出会いだった。
 叶は僕の姿に気付いたのか、アッという顔をして、

「おはようございます!……って俺と同じ制服……あ、悪い! 背が高くて先生かと思った!」
「……いや、慣れてるから。えっと、僕と同じ新入生、だよね」
「よくわかったな。あ、そっか。一年生は紺色のネクタイだもんな。俺は幸野叶。四組。君は?」
「夏川陽介。四組。よろしく……っていうか何してたの」
「空、見てた!」
「……それ、楽しい?」

 ニカリと笑う叶を見て、僕は心底不思議そうな顔でそう返した。それから僕はしまったと内心焦る。嫌な言い方だった。
 案の定叶はポカンと口を開けて、それから僕に背を向ける。

「あ、悪い。別にバカにしたとかじゃなくて、不思議だなって、」
「ほら!」

 叶えは僕の言葉を遮り、僕の手に強引に何かを渡してきた。そっと開くと、手の平には一枚の桜の花びらがあった。
 
「さっき取ったばかりだから、土とかついてないと思う。じゃあ、空に透かしてみて」

 背を向けてたのは花びらを取っていたからだったと遅れて気づいた僕は、慌てて言われたように桜の花びらを空に透かした。
 太陽の光を浴びた桜の花びらは、うっすらと空の綺麗な青色を透かしていた。

「桜ってさ、桜の花だけを見たり、咲くまでの経過を楽しんだり、色々楽しみ方があるじゃん。その中でも俺は、桜の花びらを晴れた空に透かすのが好きなんだよな……っていうか、空をこうやって見上げるのが好きなのもあるんだけど」

 そう言って叶は再び空を見上げる。その横顔は、空を見つめる瞳は、本当に愛おしそうだった。
 僕は彼の横顔を見て、そして桜の花びらをもう一度空に透かす。
 すでに世界のどこかで何十人も見つけていそうな、桜の楽しみ方。それを少し得意そうに話す彼を見て、なぜだか僕は劣等感に駆られた。

「じゃあ、先に教室に行くから」

 叶の顔も見ずに、僕は一言そう言った。
 強い風が再び吹く。だんだんと新入生や保護者がやってくる。
 僕は桜の花びらを放してその場を去った。
 この時僕は、叶と同じクラスであることを完全に失念していた。
 それから叶はなぜか僕の所によく来ては、一緒にお弁当を食べたりしてくれた。最初の数週間は戸惑いとウザったさがあったけど、叶と話してる時間は自分らしく居られて楽だった。口下手な自分のことを理解してくれてる気がして、僕からも話をすることができた。いつの間にか嫌いという感情は無くなっていた。それでも苦手という感情はどこかに残ったままだった。

「なぁ、陽介ってさ、夢とかないの?」

 星丘高校に入って最初の七夕祭りの前日に、僕は叶にそう聞かれた。

「夢……いい大学に入るとかかな」

 短冊にも同じことを書きながら、叶の質問に答える。
 叶は僕の答えに対して、うーんと腕を組みながら、

「あぁ~それもいいよなぁ。他にはないの? なんかこう、ちょっと現実離れした願いとか。お金持ちになりたい!みたいな」
「……ないけど。叶わなさそうなこと願っても無駄だから」

 高校生にもなって、非現実的なことを願っても何にもなりやしない。
 夢見る時期は、もうとっくに過ぎているのだ。

「——もったいなくね?」

 一瞬流れた僕らの間の沈黙を切るように、凛とした声で、叶はそう言った。
 俺はその言葉と声につられて、叶の顔を見た。真剣な顔だった。
 そしてその表情と言葉は、まるで魔法かはたまた呪いのように僕の体を動けなくした。

「お~い、叶ちょっと来てくれ!」
「あ、先生。ちょっと行ってくる!」
 
 いつもの元気な彼の声と、叶がガタンと椅子から立ち上がった音で、僕の体はようやく動いた。
 廊下の方に駆けていく叶の後姿を見て、手元の短冊をクシャリと握る。
 あぁ、だから君のことが苦手だ。嫌いじゃない。でも、そんな真っ直ぐな瞳で、真っ直ぐな言葉をぶつけてくる君が、心底苦手だよ。
 叶が時折ぶつけてくる正論でも感情論でもない。そんな不思議な「叶の言葉」が苦手だよ。
 ふと思う。僕が星なら、君が、叶が、心の底で何を願っているか知りたいと。叶の世界を見てみたいと。
 そんなことを思うようになってから、七夕祭りは、ある意味特別で忘れられない日になっていたんだ。
「あ!」

 叶の声で現実に引き戻された僕は、反射的に叶の方を見た。

「どうしたの?」
「流れ星! 俺、初めて見たかも!」
「え、あんなに空見てきて⁉」
「うん! あー願い事三回言えなかった……!」

 悔しそうにそう言って、叶は突然バタンと仰向けに地面に寝そべった。
 
「あ、寝ながら空見るのめっちゃ最高じゃん! ほら、陽介も!」

 叶は自分の横の地面をポンポンと叩き、僕にも寝そべるように促す。

「……いや、砂が髪の毛に、」
「あと少ししたら帰る時間だし、別にいいじゃん! ほら早く!」
「……わかったよ」

 僕は渋々と叶の横に寝そべる。
 そして改めて空を見る。僕は、息をのんだ。

「な、すげぇだろ?」

 叶が得意そうに笑う。

「……うん、これはすごい」

 星空が、視界いっぱいに飛び込んでくる。さっきまで視界の端で光っていた花火たちも、今はもうない。
 頬を撫でるぬるい風。冷たい地面。そして満天の星空。
 前言撤回。全くもって素朴な星空じゃない。座って見ていた時も綺麗だったはずなのに、ちょっと見方を変えるだけで、こんなにも違って見えるのか。

「さっきさ、俺も前は星に願うこと馬鹿にしてたって言ったじゃん」
「うん」

 再び叶が言葉を紡ぎ出す。今度はさっきよりも静かな声だった。
 僕も静かに相槌を打つ。

「高校入学前、俺めちゃくちゃ緊張してて。だから、気休めに前日の夜に星に願ってみたんだよね。馬鹿にしてたくせに何してんだって感じだけど。そもそも七夕じゃないし」
「うん」
「それでも割と本気で願ったんだ——『こんな俺にも最高の友達ができますように』って。今までも普通に友達いたけど、高校では知り合い一人もいないし、うまくいくか不安だったからな。そしたらさ——」

 叶は僕の方に少し視線をずらして、

「陽介が出会ってくれた」
「……うん」
「あぁ、星も馬鹿にするもんじゃねぇなって。偶然かもしれないけど、もし俺が星に願ってなかったら、陽介とも出会えなかったかもしれない。入学式の日に陽介が偶然早く来ることもなかったかもしれない。今こうやって、一緒に星を見て感動してくれる友達はいなかったかもしれない」

 「それから星に願うってこと、馬鹿にできなくなったよ」と叶は笑って続けた。頬をかきながら、恥ずかしそうにそう言った。
 そんな叶を見て、僕は本当のことを今言おうと思った。

「僕は叶のこと、ずっと苦手だった。いや、今でも少しその真っ直ぐすぎるところが苦手」
「……うん」

 叶は一瞬驚いたように目を丸くして、それから静かに頷いた。続けてと叶は言う。

「叶は自分の世界を持っていて、どんどんそれを広げていって。そんな叶が羨ましかったし、見ていて僕は自分の情けなさを知って辛くなった。それでも僕が叶と友達をやめなかったのは、苦手とかどうでもいいくらい、叶のことが友達として大切だったからだ」
「うん」

 叶は力強く今度はうなずいた。
 普段の僕達ならこんなことは言い合わない。でも、なんとなく星空をこうやって見上げていたら、心のうちに溜めていたものが自然と溢れ出していた。

「いつも思ってたんだけどさ、叶が空を見てる時、どこかに飛んでいきそうな、フワッと消えちゃいそうな気がしてたんだよね。そんな叶を僕は引き留めたかった。隣じゃなくてもいい。先に進んでもいい。たまに僕の所に来て、くだらない話をして、少し頼ってくれればいいよって」
「うん」
「だからってわけじゃないけど、僕は友達として叶の側にいたかったし、何よりも叶のこともっと知りたいなって思ってた。今でも思ってるよ」
「そっか」

 叶の声が少しくぐもった。叶の方を見ると、彼は腕で目を隠していた。
 
「……陽介のアホ。お前が感動させるから星空見れねーじゃん」
「……先に感動させるようなこと言ったの、そっちじゃん。星が綺麗な日に普段言えないようなこと言うのもよくない?」
「陽介も大概にロマンティックだよな」
「叶ほどじゃないけどね」
「ハハッ、だな」

 突如空に、鮮やかに光の花が咲いた。打ち上げ花火が始まった。
 タイミングの良さに二人で笑い合って、そして静かに立ち上がる。

「じゃあ、短冊掛けに行こうか」
「泣き顔がもうちょっと落ち着いてから行くわ。先に短冊掛けてきて」
「わかった、先に行ってるよ」

 叶はその場にとどまって、僕は反対にグラウンドの中央に向かった。
 一年生の時は「いい大学に入れますように」。
 二年生の時は「叶の世界が知れますように」。
 二年生の時の願いは、たぶん叶も知らない。こっそり書いて、笹の目立たないところにこっそりかけたから。一年生の時に知りたかったことを、二年生の短冊に僕は託したのだった。
 そして今年の願い。

「あ、夏川! 花火一緒に見ない?」
「あ、ごめん。先に短冊掛けてくる」
「お、いってら~」

 クラスメイトの誘いを断り、笹の前にたどり着く。
 僕の、願い。

『叶の願いが叶いますように』

 叶の願いを僕は知らない。知っていたとしても僕が何かをして叶えられるわけじゃない。星だったら他人の願いを叶えてやりたいと、彼はさっきそう言った。その時僕は思ったのだ。それじゃあ叶の願いは誰が叶えるんだろうと。
 だったら僕が他の星たちに願おう。叶の願いが叶ってほしいと心から願う。そして僕も、叶の願いが叶うように微力ながらも手伝ってあげたい。
 少しうざいだろうか。でも、星に願うくらい僕の自由だから。

「陽介さぁ、願うなら自分のこと願えよな~」
「あ、叶」

 僕の後ろからのぞき込むように僕の短冊を見る。

「俺も短冊掛けよーっと」

 いつの間にか隣に並んでいた叶が僕の横に並んで、自分の短冊も笹に掛ける。

『陽介の願いを叶えられますように』

 元気な性格とは反対に、凛とした綺麗な字で綴られたその願いを見て、今度は僕が顔を覆う番になる。綺麗な星空にあてられたのか、今日は涙腺が弱いらしい。

「……叶も人のこと言えないじゃん。あーあ、叶のせいで短冊見れなくなった。どうしてくれんの」 
「俺たち高校生活最後の七夕祭りで、お互いのこと願ってんの面白いな」
「全くだよ」
「これって、結局俺らの願い叶うのか?」
「僕は叶のことを願って、叶は僕のことを願って……まぁ、なんとかなるでしょ」
「ま、そうだな~!」

 大きな笹を見上げる。視線を上にあげると在るのは、色とりどりの短冊と星空。最高のコントラストだ。そして——。

「あれ? 夏川|『一人』で何してるの?」

 クラスメイトの一人が僕達の——僕の所に駆け寄ってきた。

「星に、願ってた」
「何それ? ポエマー?」
「そうかも」
「ふ~ん。あ、そろそろみんな帰るって。夏川も早めに帰れよ~」
「……うん」

 気付くと、グラウンドにいたほとんどの人がリュックを背負って帰ろうとしていた。
 そんな人たちを眺めながら、僕らは笹の前から動かなかった。
 
「……俺さ、今日で成仏するわ」

 叶はポツリと、ただ一言そう呟いた。
 驚かない。なんとなく、そんな言葉が来ると思っていた。

「……そっか」
「事故から今日で一年? 早いもんだよな。たまに様子見に来てたけど、その間に陽介もめっちゃ友達出来て、なんか子供の成長見てる親の気分だったわ」
 
叶は僕と自分の短冊を持ってふわりと宙に浮く。その二枚を愛おしそうに見つめながら、

「これさ、お守りに持って行ってもいいか?」
「いいよ。その代わり捨てるなよ」
「陽介の願いを捨てるわけがないじゃん。なんなら短冊に書いた願いごと、星になってでも叶えてやるよ」

 無邪気にほほ笑む叶を見て、僕は必死に唇をかんで溢れ出してきそうな涙をおさえた。手を伸ばしかけて、そっと下ろす。わかってる。伸ばしても触れられない。
 そう。叶は一年前に亡くなった。信号無視の車に轢かれてあっけなく命を落とした。ここに居る叶は、幽霊となった叶だ。
 なにもこの一年間ずっと、幽霊の叶と一緒にいたわけじゃない。叶は数日前——七夕祭りの初日に突然僕の目の前に現れたのだ。「七夕祭りを一緒に回ってほしい」と。
 一年経ってなんとか叶の死を受け入れた僕にとって、再会できたことは嬉しかったものの、それ以上に彼に触れられない、彼はこの世のものではないという現実に気が狂いそうだった。それでも僕はなんとか叶の願いを聞き入れ、後夜祭まで一緒に七夕祭りを回っていたのだ。

「最後に七夕祭り来れてよかった。未練はまだまだあるけど、七夕祭りに来れたからもう十分だ。悪かったな。せっかくの最後の七夕祭り、俺に付き合わせて」
「そんなことは気にしてない。それよりも……本当に、成仏するの?」

 幽霊として一年もこの世にいれたなのら、これからも。
 そんな僕の思いに気付いたのか、叶は寂しそうに笑った。

「俺も考えた。でもさ、結構きついんだ。この世に残っても年を取れない俺が、年を取っていく陽介を見るの。だから、俺は成仏して生まれ変わって、別の人生を歩みたい」
「そこ、『生まれ変わったら陽介に会いに行くよ』とかじゃないんだ」

 僕は苦笑しながら、叶の方を見る。
 叶は僕の方を見ずに、空中であおむけになった。大好きな空を見ているのか、それとも空を見ているフリをしているのか。 

「会いに行きたいよ。だけど、会えるかどうかわからないからな。それに陽介にはもっと気楽にこの先を生きてほしいんだ。そのためには、俺との約束なんかでお前を縛りたくないんだよ」

 そう言う彼の体は、だんだんと色を無くし透明化が進んでいた。 
 そんな彼の姿を見て、僕は後先考えずに彼の方に手を伸ばす。

「……っ。それ、貸して!」

 僕は叶の手から自分の短冊をひったくるように奪い、持っていたペンで願い事を書き替える。

「——僕の願いを叶えるなら、これを叶えろ! 星になんかなるな!」
「おい、陽介お前何して——!」

 叶の姿はもう消える直前だった。短冊を叶に押し返す。
 書き直された僕の短冊を見て、叶は目を丸くしてボロボロと涙をこぼす。僕もつられて涙が溢れだしていた。
 どんなに無茶な想いでも星に願ってみればいい。もしかしたら、何か変わるかもしれない。叶が入学式前に星に願ったように。

「叶! ありがとう! 僕に最高の青春をくれて! 最高の夏をくれて! 叶がいたから僕は変われたんだ! この夏に叶が会いに来てくれたから、僕は生きていられる。生きなきゃって思える。生まれ変わっても叶から会いに来れないなら、僕が会いに行ってやる! 待ってろ!」

 叶と出会って、僕も空を見るのが好きになった。空を見上げるたびに自分の世界が広がっていく気がした。叶と少しでも対等になれる気がした。
 叶の真っ直ぐな言葉たちが苦手だった。でもそれ以上にその言葉たちは、僕にたくさんの夢をくれた。叶の世界に少し触れられた気がして、嬉しかった。
 そして今日、僕は星に願う。叶わないかもしれない願いを、星に。どうか叶いますようにと祈るのだ。
 僕らはボロボロとダサいくらいに泣き続けた。叶が二つの短冊をしっかりと握りしめて、片手でピースを向ける。ようやく叶と目が合う。涙でぐしゃぐしゃの彼の表情は、僕が知る限りで一番の笑顔だった。  

「陽介、今日お前と見た星空、人生で一番綺麗な空だった——ありがとう。また、会おうな!」

 その言葉が聴こえた時には、すでに叶はいなかった。
 力が抜けてその場にへたり込む。涙がとめどなく溢れて、声をも出さずに静かに泣いた。
 短冊は不思議なことに、本当に叶と一緒に消えた。僕ら二人の願いが、叶のこの先を守ってくれればと思う。
 拭っても溢れてくる涙を無理やり止めて、深く息を吸って、誰もいなくなったグラウンドで一人少し寝そべった。
 叶。星がすごく綺麗だよ。天国からはこの星空は見えるのだろうか。君の大好きな空は見えるのだろうか。

「あ、流れ星……」

 叶。僕も今、人生で初めて流れ星を見た。できれば君と見たかったな。
 ねぇ、成仏した人が星になるって本当かな。じゃあ、今の流れ星は君だろうか。
 ——違うな。君はきっと星にならない。星になるなという僕の言葉を、叶は絶対に無視しない。星になったら僕の願い、叶えられないもんな。僕も叶の願い、絶対に叶えてみせるから、叶も頼んだよ。

「また、いつか」

 そう呟いて僕もグラウンドを立ち去った。
 花火の煙の匂いはほとんど消えていて、寂しいグラウンドを彩るのは、大きな笹にかかったたくさんの願い達だった。
 それは眩しい最期だった。
 満点の星空の下で、君の言葉を聴いて迎えた、幸せな最期だった。
 
『いつか、叶ともう一度出会えますように』

 少し前の君ならこんなことは書かなかっただろう。
 これを押し付けるように渡してきた君の顔は、涙でぐしゃぐしゃだったけど、真っ直ぐな瞳と最高の笑顔で俺を見送ってくれた。
 君と出会ってから死ぬまで、ずっと願ってたことがある。
 君がこれからもっと、笑顔でいることが増えますように、と。
 初めて君と出会ったとき、君はピクリとも笑うことなく俺の前を立ち去った。
 そんな君の笑顔が見たくて、ただそれだけの理由で君にたくさん話しかけた。
 いつしか君の笑顔は増えて、いつの間にか俺は、君と話す時間がとても大切になっていた。君と話すたびに、自分の世界がいかに狭いかを知った。
 君は俺の世界が広くて羨ましいと言ってくれたけど、俺からしたら君の世界の方がずっとずっと明るくて広いと思っていたんだ。
 人は自分にないものを羨むから。人は自分以外の世界を必要以上に広く感じてしまうから。俺ら人間は、多分全員不器用なんだよな。不器用なりに世界を広げようとしてるんだよな。
 そしてあの日。事故に遭って俺はあっけなく君の世界に映らなくなってしまった。死んだその瞬間真っ先に想ったのは、君のことだった。
 俺は知ってる。君が俺のためにたくさん泣いてくれたこと。何度も俺の家に来て、俺に手を合わせてくれたこと。そして、そんなボロボロの状態でも前に進もうとしていたことを。
 それから俺は自分の願いが変わったんだ。
 どうせ天国に逝くなら、最後に君の幸せを星に願いたい。高校生活最後の七夕祭りで、君に感謝を伝えたい。
 そんなことを一年間も星に願い続けていたからかな。七夕祭りの日に、君は僕を見つけてくれた。その時の君の百面相ったらすごかったよ。驚きと嬉しさと少しの悲しさを含んだ顔だった。
 俺はそんな顔の君を見て、やっと会えたことへの喜びと、もう俺らは違う存在なんだと認識させられて苦しかった。
 後夜祭で君にすべての想いを伝えた。今まで言ってこなかったことを。……いや、前言撤回。全てではないな。
 ギリギリまで迷ったんだ。でも君を困らせたくなかったし、やっぱり笑って終わりたいからさ、言わなかったよ。

『君のことが——陽介のことが好きでした』

 ってね。
 そんなことを死ぬ直前に言って、笑顔でお別れできるなんてそうそうない。だから俺は言わなかった。だってわかっていたんだ。君はきっと俺のことをそう言う風には思ってないって。本当に、ただ純粋に、友達でいてくれてるんだって。
 友達と言ってくれたこと、最高に嬉しかった。それ以上願うなんて罰が当たりそうなくらい幸せなことだった。そんな君といることは時に苦しかったけど、君が言っていたように、俺も自分の感情なんかよりも、君と笑い合えるあの時間が何よりも好きで大切だったんだ。
 だから俺は最後まで君の「友達」であろうと決めたんだよ。
 そうそう、それから。やっぱり星に願うことってバカにしちゃいけないと思うんだよね。だって俺は幾度となく、星に願いを叶えてもらっているからさ。
 
 生まれ変わったら、会いに行くよ。
 絶対に君の願いを叶えるから、君も俺に自慢できるような最高の人生を送ってよ。

 再び光が俺を包む。握っていた短冊がふわりと舞った。
 ☆☆☆

「みんな久しぶり~!!」
「ねぇ、陽介くんが結婚したんだって~!」
「あぁ、すごいお似合いの二人だったよね! この後の同窓会でめっちゃお祝いしてあげないと!」
「あ、あとそれからさ——」

 騒がしい人々の中から、そんな声が聴こえてくる。
 今日は七月七日。織姫と彦星が一年の中で唯一会える日。しばらくの間会えなかった二人が再会する日。今日の夜の天気は晴れ。星が綺麗に見える日になりそうだ。

「それからさ、来月の叶くんのお墓参り、今度はお酒を持って行かなきゃね」
「そうだね~。もうみんな成人して一年経つし。叶くんとも一緒に乾杯しないと。来月も同窓会だー!」
「叶くんいてこその、同窓会だもんね~」

 『七夕祭り』と書かれた看板の前では、いつも以上に賑やかな声がたくさん飛び交っている。
 夏らしいカラッとした風が一瞬吹いて、どこからともなく二枚の短冊が飛んでいく。空へ空へと舞い上がって、いつの間にか見えなくなる。
 ——人々は今日も、星に何かを願っている。

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