雨は嫌いじゃない。
透明のビニール傘を通して見上げた空がやけに眩しくて、柄を持つ手に自然と力が籠もる。
「……さむ」
太陽を覆ってしまった曇天の空からは、銀の糸のような細い雨が降ってくる。
ぱらぱらとリズミカルに薄いフィルムの上を叩きながら、僕は水の粒がすっと滴り落ちていく様を眺めていた。
ああ、――。
昼過ぎから雪になるっていってたな。
透明のフィルムにぼんやりと靄がかかっていく。吐き出される息が、白くて濃い。まるでこの空間だけ、しっとりと閉じ込められていくようだ。
「炎彬(ヤンビン)」
「……何ですか?」
雨から雪に―― その変わっていく様を見届けたかったのに。
レオさんのひと声で、現実に引き戻された。
「惚れるなよ」
「……ありえませんよ」
「なら、いいけどさ。中国の富裕層じゃあ、日本人の嫁さんをもらうことがステイタスらしいじゃん」
傘を差しているのが面倒になったのか、レオさんは素早く僕の傘に入り込むと、どこかのオネイチャンから仕入れてきたガセネタを披露しニヤリと笑う。
「何ですか、それ」
「え、違うの?」
っつーか、狭い。近過ぎる。
「炎彬も日本の女の子の方が好きだって言ってたからてっきり……」
「……違いますよ」
全長88センチの傘は大きく揺れ、さっきよりも湿度が上がったような気がして、思わず一歩後ろに下がる。
「あ、炎彬が好きなのは二次元だもんな。ほら、あれだろ、ツインテールの巨乳が化けもんの触手にやられるってやつ」
「……」
「蛸みたいな化けもんに、こう……ぎゅーっと締め付けられて、しゅるしゅるーっとな」
ったく、―――。
……この人は僕の趣味を完全に性癖だと誤解している。
ツインテールが絶対なわけじゃないし、実際のところは巨乳よりも手のひらにジャストフィットする方がいろいろと都合はいいのだ。それに化けもんの触手モノが特化して好きってわけでもないし。いや、嫌いじゃないけどさ。
「炎彬の部屋の棚、そんなんばっかだもんなあ」
……確かに。持ってるわ、俺。一昨日も借りたわ、ツインテール。
「ちょ、炎彬。もっとそっちに行ってくれよ。俺がびしょびしょになるだろ」
「レオさんが強引に入ってきたんでしょう? ああっ、もう……僕が濡れるじゃないですか」
「おおっ、今の会話って、俺らちょっとやらしくない?」
「ばっかじゃないですかっ」
「んなこというなよう」
鬱陶しさも相まって、僕は差していた傘をレオさんの胸に押し付けた。
「……行ってきますよ」
透明のフィルムで覆われた世界から、一歩、踏み出そうとした刹那。
「ヤーンビンっ」
わざとらしく軽口をたたくようなレオさんの声に振り返る。
「……何ですか」
「雫ちゃんてさ、マシュマロみたいだよな」
「はあ」
「手は出してもいいぞ。でも、惚れるのはナシな」
「……ないですよ」
「いいって、いいって。対象者から雫ちゃんを離れさせるのが俺らの仕事。こっちに惚れさせるのはアリだ。だけどな、本気はアウトだぞ」
「……っ」
「え、もしかして。雫ちゃんのこと、まじで狙ってんの??」
「そんなわけ、ないでしょ」
「じゃあ、そんな怖い顔、するなよう」
「わけのわからないことをいうからですよ」
あああ、もう腹がたつ ―――。
こういう状況って何ていうんだったっけ。
ああ、…… ぞんざいだ、ぞんざい。ぜんざいみたいなやつ。ぞんざいな態度、ソデにする、と。
しっしっし、と僕よりも背の低いレオさんに向かって、その姿を追い払うように手のひらを泳がせた。
「ああ、炎彬っ。何だよ、冷たいな」
ぎゅっと眉を八の字にしたレオさんを無視して、僕は路面の濡れた世界へと足を踏み入れる。
「……おい、ちょっと待てって」
瞬時にはねた飛沫で、汚れてしまったスニーカー。
「チッ」
まるで彼女を汚してしまったように思えて、僕は小さな舌打ちを何度も繰り返した。
萩野 雫。僕は彼女を、ずっと前から知っている。